本能寺の変とはなんだったのか68/95 本能寺の変の全体像14/41 2024/06/30
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~13」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか 九鬼氏は志摩( しま。今の三重県鳥羽市と志摩市。両市は伊勢神宮の近場であり、自然景観に優れ現在では観光名所として著名。当時も現代も海産業が盛ん )の国衆出身で、郡の代表格というほどでもないものの、地元ではちょっとした名士として知られていた。室町末期までの志摩は、北畠氏( きたばたけ。伊勢の代表格。今の三重県の支配者 )の管轄領だったことで、伊勢北畠氏も戦国後期には伊勢・志摩再統一に乗り出すものの、遅々として旧態依然が抜け切れずに国衆たちをまとめることができず、近隣の尾張織田氏に大いに遅れを取ることになる。グダグダな北畠支配下で北畠氏と対立した九鬼氏は、北畠派の勢いに敗れ失脚・衰退するが、のちに大いに巻き返すことになる。九鬼一族の家来筋であった本項の九鬼嘉隆が、織田信長に人材的に見込まれて大活躍する機会を得て、織田家中における水軍大将として名を馳( は )せることになる。志摩は小国だった( 志摩は郡2つほどの面積しかなかった。他は少なくとも4~6。広めだと10ほどあった )上に平地が少なかったこと、伊勢湾での海洋活動に有利な地形であったことで物流や製塩業なども含める海洋産業に力が入れられ、海沿いの交流網が古くから強かった。海沿いの掟( おきて。規律 )のための神道的な結社もそれだけ重視、海に対する自然信仰( 海域ごとの安全確保や交渉権の維持は難しかったからこそ、閉鎖的な上下統制もどうしても強くなる一方で、伝承の中には危険を多く体験してきた先人たちの自然科学的な知恵が活かされた規則も多く、気象観測が難しかった当時においての危険な海の世界では大きな助けになっていた。室町時代までは海洋に関する庶民政治・産業法はろくに整備が進んでいなかったために余計に大事だった )のための神社による寄り合いが政治的( 議会的 )に重視される地域柄であることを意味する。志摩も神社は多く、伊勢神宮の別当( べっとう。元々はその系統の分社・分寺の権威者・役職名のことを意味したが、単にその分社・分寺の存在のことを指す場合も多い )もあった他、紀伊( 志摩西南側 )の尾鷲( おわせ。現在も海産業で盛ん。元は おわし だったが慣習読みが優先されるようになった )から熊野にかけての海沿いの、いくつかの神領( 海沿いの近くの神社の力の強い領域 )も志摩領扱いされていたことから、志摩の国衆たちは神領武士団( 氏神・地元神社に仕える氏子武士たち。神官武士。他に茨城県の鹿島大社の大掾氏、長野県の諏訪大社の諏訪氏が神領武士団として規模が大きめだった。だいじょう。すわ )の色が少し強めであったことが窺える。九鬼嘉隆の立場の話に入っていきたいが、尾張では桶狭間の戦いが起きた 1560 年、志摩では北畠派と反北畠派で争われ、北畠氏の政敵と見なされた田城城( たしろじょう )の九鬼浄隆( くき きよたか。九鬼家の家長。本項の九鬼嘉隆の兄 )は、北畠氏からの加勢を得た北畠派たちに勢い任せに攻められる。本項の波切城( なきりじょう )の九鬼嘉隆( 当時18歳 )も本家( 兄 )を守るために懸命にそれに抗戦するも敗れる。両城( 田城城と波切城 )を追われることになり、九鬼嘉隆は九鬼澄隆( くき すみたか。兄の九鬼浄隆の子 )を連れて朝熊山( あさくまやま。規模は大きくはないものの地元では霊山の格式をもっていた )に逃れるが、これは九鬼氏の残党たちとの縁をもっていたこの神領を拠点に、九鬼家再興運動を図る動きだったと見てよい。織田信長は 1561 年頃から美濃斎藤氏攻略に本腰を入れ始めるが、同時にまとまりのない伊勢北畠氏への調略中心の介入も顕著になった。そのため反北畠的( 旧室町権威と決別的 )だった、志摩で再帰運動を図っていた九鬼嘉隆は早い段階で織田氏と気概を通じる( 織田氏の敷居に合わせようとする )連絡を取り合うようになる。1568 年になると織田氏が美濃攻略の大局を決し、この年に足利義昭の支援を名目に早々に畿内に乗り込むことになるが、織田氏による調略中心の伊勢攻略も着実に進められていた。織田家中で見込まれていた滝川一益が主に伊勢攻略を任され、この軍事・作戦担当面で頭角を現す( たきがわ かずます。甲賀衆出身または伊勢衆出身といわれ、滝川一族はどうやら地元紛争に敗れて追われ、恐らくは織田信秀時代に尾張に逃れてきたようである。尾張衆から見れば滝川家は新参であったが、尾張荒子出身の前田家との親交を強めていた。尾張では織田信秀、織田信長の二代に渡って大幅な人事敷居改革・身分再統制が行われ、滝川一益は前田利家と共に織田信長からだいぶ見込まれる形で、共に手柄を立てる優先権を得ることになった。織田信長は他にも、美濃の紛争に敗れて尾張に逃れてきたと思われる、尾張では何の権力基盤もない新参もいい所だった、地位は低かったと見られる土岐源氏の家来筋出身の蜂屋頼隆も見込んでいたように、古参尾張衆たちの不満を抑えながら、反地政学的・旧態閉鎖的な出身や慣習だけで待遇を決めようとしない、有志的能力次第のこうした強烈な人事敷居改革・家長権統制がどこよりもできていた。浅野長政と相談しながらの、浅野家の親類の木下家の半農半士の中の下っ端出身の木下秀吉の抜擢の有志選別などは最たる例になる。甲賀衆出身者や伊賀衆出身者は情報戦に強い者が多く、伊勢西部の国衆たちとの結びつきを強めていた者も多かった。滝川家は伊勢衆出身だったにせよ甲賀衆出身だったにせよ、伊勢衆とはいくらかの人脈をもっていて北畠氏の内部事情に詳しかったことは間違いない。そうした経緯の滝川一族は、その中で才覚が目立っていた滝川一益が伊勢攻略で抜擢され、活躍することになった。ちなみにかぶき者として有名な前田慶次郎利益はこの滝川一族出身で、前田利家の兄の前田利久が嫡子がいなかったことでその養子となり、前田氏を名乗るようになった。前田利家とは叔父と甥の関係となる )ようになる。伊勢では50以上の国衆がそれぞれ勝手に視野の狭い反地政学的な時代遅れのちっぽけな領有権を主張しながら、ただの蹴落とし合いの低次元な派閥利害闘争を繰り返すばかりで、北畠氏がそれをまとめることができなくなっていた。そのため荒れ放題だった伊勢神宮( の神領・社領 )の再建の見通しもいつまでも立たない( 伊勢衆・志摩衆たちに、戦国前期的な国内紛争をやめさせることができない、そのための地方議会人事敷居改革・次世代身分制議会・家長権統制がいつまでも進まないから荒れ放題の伊勢神宮の神領再建もいつまでも進まなかった。地元議会の象徴ともいうべき伊勢神宮に対する氏子総代的な役目・等族義務を果たせていない、その見通しなど全く立てられなくなっていた北畠氏とその取り巻きどもはもはや伊勢の支配者失格だったといってよい )深刻な情勢が続いた。北部( 尾張側 )からの織田氏の調略の手に伊勢衆たちもなびき始め、志摩でも九鬼嘉隆が織田氏と連携する形で対北畠運動をした( まとまりなどない志摩衆の北畠派たちへの巻き返しを始めた )ため、織田信長から早い段階で心証を得るようになる。九鬼嘉隆は 1560 年に波切城を追われて( 朝熊山に逃れて )から、その9年後の 1569 年から頭角を現し始める。志摩再統一の旗頭( 前近代議会的な評議名義性・選任議決性 )を明確にした上で九鬼氏を追い落としたということができていた訳がない、まとまりなどない北畠氏への低次元な顔色の窺い合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いの勢い任せに九鬼氏を排撃しただけのだらしない志摩衆たちというのは、その後も大したまとまりなどない( 志摩再統一の結束などない )まま互いに足元を見合いながら目先の利害次第にいがみ合い続けていたに違いなく、九鬼嘉隆は 1568 年までには波切城奪還に成功していたと見られる。伊勢北部からの介入を優位に進めるようになっていた織田氏が、1569 年頃に伊勢北畠攻めをいよいよ強めると、九鬼嘉隆も神域の縁の強い同胞の水軍衆を引き連れてそれに加勢できているため、この時点で志摩での九鬼氏の力はだいぶ取り戻されていたことが窺える。九鬼嘉隆は織田氏の足並みに積極的に揃えようと努力したことで、織田信長からその器量( 有志的能力 )を高く見込まれる。織田氏の北畠氏攻めを機に九鬼嘉隆が翌 1570 年に( 恐らく織田氏の加勢も得て )志摩再統一を果たすと織田信長からますます評価され、志摩全土の支配代理( 2郡ほどしかなかった志摩は地上だけを見ると小国だが、海上では志摩水軍衆を始めとする伊勢湾近隣を、広域に統括させるための重要拠点と見なされるようになる )をそのまま任され、織田信長と九鬼嘉隆は気概が通じる一方の良好関係となる。織田氏から志摩支配の公認を得る形で、志摩近隣の水軍衆をまとめるようになった九鬼嘉隆は以後、織田水軍の主力として、浄土真宗の戦い( 長島城の戦いと石山本願寺城の戦いでの支援。いしやま ほんがんじ じょう )や毛利水軍との戦い( 播磨灘方面の海域戦 )に欠かせない重要な存在として活躍することになる。織田信長から求められたその役目を九鬼嘉隆が応じることができたからこそ、重宝される関係だったともいえる。1570 年の時点で27歳とまだ若かった九鬼嘉隆が、織田氏と連携する形で以後、内部分裂の支障を出すこともなく広域の水軍衆をまとめ挙げていたことは、古参・新参に関わらずそこでつまづいて信任を得ることができずに上から順番の大幅な格下げ( 次世代人事敷居の支障でしかない反地政学的劣悪性癖の巻き上げ = 近代議会の品性規律・国際地政学的敷居といえる評議名義性・選任議決性への向き合いをケンカ腰にうやむやにさせ合う原因でしかない、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように旧態序列特権への低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いにしがみつくことしか能がない・押し付け合うことしか能がない旧態体質をやめさせるためのその巻き上げ )を受けても仕方なかった旧有力者たちも多かったことを考えると大したものだったといえる。常に危険と隣り合わせだった海の自営団( 海域ごとの掟・規律を管理していた水軍衆 )たちの社会は荒くれ者も多く、それを改めて公務海軍・国際海事保安局としてまとめようとする( 織田氏の敷居の高次元な公務吏僚の規律をもたせるための身分再統制をする )ことは地上とはまた違った難しさがあった中、織田氏の敷居に九鬼嘉隆は連携できていたからこそ、織田信長から信任を得る一方だったのである。織田信長は、伊勢湾の海域権( 七里の渡しが著名。しちり )を含める旧聖属領有権とその武力自治を手放そうとしなかった長島一向勢( 浄土真宗の別当の軍閥。織田氏の街道整備のための、今一度の世俗議会中心への仕切り直しにともなういったんの旧聖属統制権の返上、絶対家長による議会的な公認無き武力自治の解体・官民再分離に応じようとしなかった )の鎮圧・解体に苦戦することになるが、一向勢たちの要塞となっていた長島城は木曽三川の入り江の陸地部に土塁が築かれた、地上から攻めるには足場が悪く攻めにくい堅城だったことが織田氏を悩ませていた。織田氏が繰り返した長島攻めの際、長島一向勢がそれまで維持してきた伊勢湾西側の制海権を九鬼水軍( 織田水軍 )が奪い始め、補給線を分断する形で織田氏の長島城への包囲戦を手助けたことは大きく、1574 年の長島一向勢の鎮圧・解体に貢献することになった。また、大阪湾の近くに築かれていた浄土真宗の総本山の石山本願寺の城塞( 元は布教道場だったが、戦国後期までに強力な要塞に作り替えられていた。のち豊臣秀吉が、この石山本願寺城の跡地に大坂城を建造することになり、その土塁が再利用・拡張工事されることになる。戦国仏教に対する旧廃策の意図も当然あった )を織田氏が攻めることになった際も、九鬼嘉隆は活躍することになる。まず、石山本願寺城( 浄土真宗の本拠 )に、もし織田氏に早々に降参されてしまえば気まずいばかりだった毛利氏は、自慢の毛利水軍( 村上水軍 )を動員して播磨灘と大阪湾に押し寄せ、羽柴軍団( 織田勢 )による播磨再統一を妨害したり、石山本願寺城の籠城戦を長引かせるための物資補給の支援に動いたりした。さらには紀伊の雑賀衆・根来衆・粉河衆ら( さいか・ねごろ・こかわ。反世俗権力的な戦国仏教勢力で、石山本願寺と連携していた。これらも強力な武装自治力を維持していた )も、織田氏の対浄土真宗戦をたびたび妨害して手こずらせた。紀伊の戦国仏教勢( 雑賀衆・根来衆・粉河衆ら )もかなり厄介だったが、まずは厄介な毛利水軍を阻止するべく、織田信長のお抱えの九鬼水軍( 織田水軍 )に当たらせることになる。織田水軍( 九鬼嘉隆の志摩中心の水軍衆 )と毛利水軍( 村上武吉が瀬戸内広域をまとめていた水軍衆。織田氏と連携できていた九鬼水軍も規模は大きかったが、こちらは当時は国内最大規模でその倍近くあったと見られる。むらかみ たけよし )との戦いは、一度目は毛利水軍に追い返される形で惜しくも敗れてしまう。この敗報で織田信長を本気にさせ、多くの資金を投入、材木調達や製鉄や造船などのための大勢の工夫たちを大動員、水軍設備を大補強・大強化し、再び九鬼嘉隆に大阪湾・播磨灘方面を攻めさせ逆転勝ちさせることになる。手ごわい毛利水軍を大阪湾・播磨灘方面から撃退し、制海権を奪うことに成功( 1578 年の第二次木津川口の戦いで織田水軍が勝利 )した九鬼嘉隆は織田信長から改めて絶賛される。これは織田氏の街道整備( 庶民政治のため賦役・徴税法も含める前近代的産業法整備のための官民再分離 )がどこよりも進められていたからこそ、前近代的な本格的かつ計画的な水軍戦が実現された、そこを今一度はっきりさせた海戦だったともいえる。そして、織田信長が望んでいたそうした次世代軍備の姿( 火力と防突防火の強化の、今までにない要塞戦艦の姿 )を九鬼嘉隆も( とその補佐・相談役を任された滝川一益も )よく理解しながら準備計画・作戦に応じることができていたからこそ、信任が厚かったのも当然だったといえるのである。水軍衆も、地上とはまた違った今までの海の古風慣習と違う戦い方に変えたり、造船技術や操船体制や国際交渉術がひと足早く進んでいた西洋文化( それが顕著だったのが15世紀末の西洋の大航海時代 )をさっさと取り入れられるかどうか、対応できるかどうかが問われる時代( 織田信長たちが生きた16世紀はそのまさに黎明期 )になってきていた中で、九鬼嘉隆はそこを良い意味で深刻に受け止められることができていたのは間違いない。西洋のキリスト教徒たちが日本との強国同士としての交流を求めてきたことに織田信長が、それを新参扱い的に寛大に受け入れ、出陣には西洋の鎧やマントの着用までし、今後の西洋との文化交流を示唆する天下静謐戦だと位置付けていた意味( 本能寺の変にだいぶ影響 )も、九鬼嘉隆はそういう所もよく見ていたのである。すなわち、これまで整備されてこなかった、織田政権時代にやっと整備され始めた海上法も今後は、日本列島付近の全海域に対しても、織田氏による大幅な再統一が行われる見通し( 中央家長の手本姿勢の示し合いで、上同士では少なくとも 1575 年の時点で織田氏との器量差・次世代等族統制差もはっきりしていた。中途半端な地方再統一をモタモタやっていた各地のだらしない上層どもはその敷居にさっさと合わせることができなかった、だから上から順番の大幅な格下げ扱いされて当然はまぬがれなかった、だから気まずかった )に対し、九鬼嘉隆は織田政権を代表する水軍総司令の手本的な立場を見込まれたのである。今後に対応していかなければならない大事な立場として、九鬼嘉隆はそうした次世代敷居をだいぶ理解・努力できていた方だからこそ、織田信長から信任を得る一方だったのである。本能寺の変とは、そうした日本の今後の人事敷居計画( 地政学観・異環境間の敷居確認をケンカ腰に徹底的に面倒がり合う時代遅れの低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いの旧態老害慣習への一斉の旧廃策を向ける次世代身分制議会 )に大いに関係する事変なのである。変が起きる前でも後でも、その事情は理解できていた上層たちはそこは緘口令( かんこうれい。上同士では概略や見通しは知っていてもあえてその件は黙秘し合っておくこと。詳細がまだ未確定要素が多い場合、全体像の状況をすぐに理解することが難しい下々は、印象だけで大げさに解釈して騒ぎたがる所もあるからこそ、いたずらに動揺や混乱を再燃・拡散させないために具体的な話は未発表のままにしておき、選任的な議会最高総長による正式告知を待つ状態 )的に黙秘の足並みを揃えていただけで、なぜ起きたのか、何を意味していたのか、今後どうするのか、九鬼嘉隆も状況を理解できていないはずがないひとりだったのである。視点を、1582 年の本能寺の変の少し前の 1578 年頃に戻し、九鬼嘉隆が毛利水軍を大阪湾・播磨灘方面からの追い出しに成功すると、播磨再統一後に姫路城を拠点にしていた羽柴秀吉が任された西側の、毛利派たちとの制圧戦を、九鬼水軍が後方支援して優位にした( 播磨灘にたびたび押し寄せてきた毛利水軍からの厄介な反織田運動が除かれた )他、石山本願寺城( 浄土真宗の本拠 )の海沿いからの補給線を分断したことで、佐久間軍団( 織田氏の家臣団筆頭・長老格の佐久間信盛の師団。各地方各郡の尾張出身衆、美濃衆、近江衆、大和衆、山城衆ら多くを率いていた )による包囲戦も同じく優位にさせた。石山本願寺城( 浄土真宗の本拠。顕如と下間頼簾が中心人物。けんにょ。しもづま らいれん。下間氏はかつて、親鸞の優れた教義を慕うようになった常陸の豪族・下妻氏がその浄土教の熱心な檀越・後援者になって以来、大手になっていく浄土真宗組織における重役となった家系。だんおつ )が織田氏に降参するのは 1580 年だが、一向勢( 浄土真宗勢 )が攻勢に転じる勢いはすっかりなくなった 1578 年、織田信長は摂津の福島・野田の領地権を九鬼嘉隆に公認している。この福島・野田は、現在の大阪梅田からすぐ南西の大阪市福島区( それぞれJR駅がある )の辺りになるが、これは領地権を実際に九鬼嘉隆が得たことよりも、浄土真宗が石山本願寺城で籠城するのが精一杯で摂津南部における支配権( 世俗裁判権の序列に反抗的な聖属裁判権 )を維持し得ない情勢になっていたこと、木津川口( 大阪湾 )の入り江( 福島・野田 )の制海権を九鬼水軍に完全に握られてしまっていることへの当てつけが強い。1578 年の時点で天下静謐( 織田氏を次の絶対家長・武家の棟梁の家系とする次世代中央議会の上洛要請にさっさと応じなければならない、家臣の分際に過ぎない地方どもは従わなければ反国際地政学運動と見なされる力量差 = これからは上同士でできなければならない次世代身分制議会の国際人事敷居への向き合いを徹底的にケンカ腰に面倒がり合いうやむやにし合い低次元化させ合おうとする時点で偽善反逆と見なす力量差 )の流れはもうはっきりしていた( から、どうしても変更点を加えたかったから本能寺の変が起きてしまった )が、とうに踏み潰した公的教義( 比叡山延暦寺・天台宗の総本山 )は論外とし、日本の競争的聖属( 自力教義 )の最大手であった浄土真宗を織田氏に帰属させる( 聖属側の物的統制の謄本登録は今一度、世俗議会側を中心に敷居管理していく。まずは上同士で前近代人事統制の足並みに揃えさせる )ことが、特に廷臣たち( 皇室ひいては日本全体を衰退させないための、主に日本の教義・外交文化の敷居を管理しなければならない朝廷の要人たち。その管理人たち )へのテコ入れ( 織田氏主導による、言い逃れ無用の世俗・聖属両議会の人事敷居改革・次世代中央再統一 )も本格化することを意味していた。難攻不落と思われていた長島一向勢( 浄土真宗の別当。反世俗権力運動・聖属裁判権運動・地政学的議会運動を起こした浄土真宗に願証寺が共鳴し、近隣の屋長島衆と大鳥居衆も連合して大きめの有徳自治勢力を維持し続けていた )が 1574 年に織田氏にとうとう制圧されてしまった時点で、顕如と下間頼簾は内々では織田氏に降参しようか内々では迷っていた( 上の立場として、これ以上の反世俗運動・聖属裁判権運動をする必要は無くなってきていた、織田氏に選任しなければならなくなってきていた地政学観くらいはこの2名は当然もてていた )と見てよい。しかし100年近く戦国大名たちに強力な軍閥体制を見せ付けてきた浄土真宗は、組織全体としては簡単に引っ込みがつくものでもなく、内部では徹底抗戦派も少なくなかった。ここはヘタに大手になってしまった戦国大名たちも同じく、織田氏の敷居に早々に足並みを揃えることなど簡単ではなかった悩み所は同じことがいえる。だからこそ、浄土真宗に早々に降参されては立場がますます気まずいばかりだった( 格下げ覚悟の織田氏の敷居への臣従の準備が結局できていなかった )毛利氏や、織田氏から離反した摂津北部の荒木氏、大和の松永氏らの応援が続いてしまったことで、浄土真宗が織田氏に降参する時期も長引くことになった。一方で、織田信長の後押しもあって志摩水軍をまとめるようになった、才覚を見込まれた九鬼嘉隆との連携がうまく進められたことが、浄土真宗を降参させる大きな手助けになったのである。こうした所は現代の個人間・組織間・国際間でも同じ、内外の妨害・支障( 噛み合わない初動的・利害的動機 )がどうであろうがそこで倒れることのない自分たちの国際議会的・全体像的・地政学的( 上同士の社会心理的 )な名目・誓願( 和解・健全化・低次元化防止の異環境間の敷居確認を大前提とする評議名義性・選任議決性 )といえる自分たちの主体性( 等族統制的・本分的終点 )は、自分たちで整備・確立( 等族統制 = 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させないための合格・高次元/失格・低次元の序列統制 )していかなければならない( = 自分たちの損益分岐的敷居の整備を最初から最後までケンカ腰に徹底的に面倒がり合わせる外圧任せのたらし回し合いをやめ合う/やめさせ合う = 低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いでしかない時代遅れの老害旧態序列・非地政学観・非異環境間を延々と押し付け合おうとする愚かさだらしなさ をやめ合う/やめさせ合う ための近代議会的な品性規律の手本の示し合い )という、荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論の原点ともいうべき織田信長の手本姿勢が大いに窺える部分になる。1580 年に石山本願寺城( 浄土真宗の本拠。顕如と下間頼簾 )が降参・和解に動いたことは、これまで中央に対し( = 織田氏による畿内再統一に対し = 今後の評議名義性・選任議決性を巡る地方の姿勢に対し )敵意を示してきた地方、あるいはただやり過ごそうとしていただけの曖昧な態度を続けてきたと見なされた地方はいい加減に許されない時間切れ( 手遅れ )の関係( 地方を管理する立場ではない、低次元化させると見なされる等族諸侯失格の制裁扱い。そこを危機管理する立場の中央絶対家長から上から順番に制裁されて当然の地方裁判権止まりのだらしない家長気取りどもの関係 )になり始めた( のちの賤ヶ岳の戦いや関ヶ原の戦いの、上同士で本来できていなければならない前近代的な総選挙戦化への大きな手本となった )ことを意味する。1582 年までに織田氏は、東側では加賀、能登、越中、信濃、甲斐( 武田氏 )を制圧し、越後上杉氏制圧にも早々に乗り込まれようとしていた。西側では羽柴軍団( 織田勢 )が播磨姫路城を拠点に、毛利派から織田派に鞍替えした備前宇喜多氏( びぜん 岡山県。うきた )を寄騎( よりき。師団に配属される旅団 )に従えながら中国地方大手の毛利氏を圧迫し、毛利氏存続も時間の問題になっていた。また四国( 長宗我部氏。ちょうそかべ )攻めのために、丹羽長秀、池田恒興、蜂屋頼隆らが補佐する織田信孝軍団が編成され、それが開始されようとしていた。格下げ覚悟で織田氏の敷居に臣従するための、織田氏との和解的・計画人事的な連絡の取り合いなどろくにして来なかったと見なされた、各地元で織田氏の敷居の等族指導( 畿内でとうに手本が示されていた、街道整備・今後の地域庶民政治の賦課/税制にも関係してくる前近代産業法改め・官民再分離 )の足並みにさっさと備える動きなどしてこれなかった、そこをモタモタやり過ごしてきた手遅れと見なされた( = さっさと進めなければならない国際地政学的政権議会を徹底的にケンカ腰に面倒がり合うことしか能がない、荒らし合うことしか能がない、すなわち人の合格・失格序列を危機管理・議事録処理できたことがないにも拘わらずその立場を振る舞おうとする低次元分子と見なされた )地方ども( 畿内に乗り込んだ織田氏に対する評議名義性・選任議決性の進退を明確にできないから態度を曖昧にするか敵意を向ける他なかっただらしない地方 = 陪臣扱いされて当然の一斉の格下げ人事・身分再統制の受け入れもできない、街道整備・官民再分離の妨害・低次元化分子でしかない地方裁判権止まりの旧態閉鎖序列は一斉に巻き上げられて当然 )に対する遠慮無用の一斉の踏み潰しが本格化した矢先の 1582 年の6月に、あの本能寺の変が起きてしまう。ここから日本の水軍衆について、羽柴秀吉がどう見ていたのか、その天下総無事戦との関わりをざっと紹介しながらまとめていきたい。本能寺の変が起きた時点では九鬼嘉隆は、織田氏との今までの縁で織田信雄に属すも、羽柴秀吉の露骨な織田信雄の抑え込みから始まった 1584 年の小牧長久手の戦いの際では九鬼嘉隆は、これまで親交の縁が強かった滝川一益からの説得もあってやむなく羽柴派に鞍替えすることになり、織田信雄に加勢した徳川勢の牽制役に回った。1584 年内に小牧長久手の戦いが停戦・和解で終結するも、越中佐々氏が越中で軍事行動( 反羽柴運動 )を起こしたまま翌 1585 年になっても停戦に動こうとしなかった( 羽柴秀吉による天下総無事令に従おうとしなかった )ため、羽柴秀吉による越中制圧戦が行われた。羽柴秀吉は次いで同 1585 年内に早々に紀伊の戦国仏教制圧戦に乗り出し、その際に九鬼嘉隆は、連盟関係だった堀内氏善( ほりうち うじよし。志摩の南側の熊野灘の水軍衆をまとめていた。かつて北畠氏との縁をもっていたことで、織田氏よる伊勢北畠攻略では織田氏とは冷戦的な関係がしばらく続いた。しかし織田氏とは友好関係に進み、1576 年頃には九鬼水軍と連携するようになった。本能寺の変後の堀内氏は、早い段階で羽柴秀吉と友好関係を強めていたようである )と共に羽柴秀吉の要請に応じ、水軍を率いてその制圧戦を支援、太田城( 聖属裁判権再興の武装自治に対する禁止令に応じようとしなかった、自粛解体しようとしなかった雑賀衆・根来衆。紀伊の戦国仏教勢力 )降参を早める手助けをする。( 堺衆も羽柴方の水軍衆を手助けした。堺衆の縁をもっていた小西行長が羽柴家中で人材として見込まれていた ) 続いて羽柴秀吉の西側への天下総無事戦( 四国の長宗我部氏攻めと九州の島津氏攻め )にも、九鬼嘉隆と堀内氏善は水際作戦で羽柴方を大いに支援した。中国地方の毛利氏は羽柴秀吉の外交調略にやむなく応じる形( 大手連合の家格は認めない代わりに、毛利家、吉川家、小早川家それぞれ3分割した個々の家格でなら、これまでの領有家格は認めるという寛大な裁量。合計で90万石近くはあった毛利氏全体としての家格は認めない代わりに、ざっと30万石ずつの個々の家格での再公認なら許容するという意味 )で臣従することになったため、かつて九鬼水軍と争った村上水軍( 毛利氏と連携していた瀬戸内の大手水軍衆 )らも天下総無事戦( 四国攻め、九州攻め )に参加し、九鬼( 志摩 )、堀内( 熊野 )、村上( 久留島・くるしま。来島 )これら有力の水軍衆たち同士では大きな乱れはなく羽柴方を支援することができた。一方で九州攻めの際には陸側の方が少し乱れが生じている。羽柴軍団の軍部筆頭であった尾藤知宣( びとう とものぶ。羽柴軍団の最古参のひとり。尾藤氏は信濃小笠原氏の家臣だったが、小笠原氏が武田氏に敗れて信濃の支配権を失うと尾藤一族は尾張に逃れ、織田氏に家臣化させてもらうことになる。のち木下軍団に尾藤知宣が配属され、軍事面で頭角を現すようになる。一方で武田信玄に信濃を追い出された小笠原長時の、その長男の小笠原長隆は上杉謙信を、三男の小笠原貞慶が三好長慶を頼るが、畿内に乗り込んできた織田氏に三好氏が押されると小笠原貞慶は織田氏に鞍替えする形で、家臣化はとりあえず認められた。小笠原貞慶と尾藤知宣のかつての主従は、織田家中で迎合する形となったが、結果的に尾藤知宣の方が才覚が買われ出世することになった。しかし本能寺の変によって織田政権から豊臣政権の流れに移行する過程において尾藤知宣は、まるで第二の佐久間信盛のごとく失脚することになった。織田信長と豊臣秀吉の人事と当時の特徴が窺える件として、小笠原貞慶と尾藤知宣について小笠原貞慶の項で後述する )と、羽柴秀吉から目をかけられる形で抜擢されたその補佐役の仙石秀久( せんごく ひでひさ。こちらも最古参筋 )の両名が、前線の諸氏のまとめ役を任せられるが、こちらは当初は乱れが生じることになった。羽柴秀吉の降参組は早々に天下総無事戦の軍役に従うことになり、畿内勢・四国勢・中国方面勢の連携という今までにない大規模な作戦に不慣れが陸側では目立った。九州島津攻めの当初は、作戦をまとめるのに難儀し始めてモタモタやっている間に、島津氏の反抗の勢いを削ぐ勝機を逃してしまった上に、手痛い損害まで受けて羽柴方の気勢が削がれる事態となった。緒戦で羽柴方が乱れてしまったことで「怠慢人事だ!」と両名( 尾藤知宣と仙石秀久 )は羽柴秀吉を激怒させてしまう。それと比べて水軍衆の連合の方は乱れは目立っていない。後方から前線に出てきた羽柴秀長( はしば ひでなが。羽柴秀吉の弟。優れた相談役のひとりで、人物評では名補佐役の鏡としてよく取り沙汰される。浅野長政らと共に羽柴軍団の苦難を大いに支え続けた。調停役としても優れ、家中の結束が乱れることのないよう、諸氏間の対立が悪化する一方になっていかないよう常に尽力。鬼謀家的な豊臣秀吉に諸氏も恐れをなすばかりとなると、皆が豊臣秀長に頼って相談するほど信望も厚く、庶民のこともよく配慮したため下々からの人気も高かった。しかし新政権設立まもなく急死してしまったため皆から惜しまれた。豊臣秀吉は親類は、政務の重役としてはできるだけ重用しない方針を採っていたが、豊臣秀長と浅野長政は政務に欠かせない人物として参与していた。豊臣秀吉は豊臣秀長にやや厳しめの態度を採ることが多かったが、これは天下総無事令で勝手ないがみ合いがとうとう禁止される日本再統一の流れが強まるほど、仮想敵と揉めることに頼ってきただらしない諸氏たちは何かあると仁者的な参謀体質の豊臣秀長に泣きついたり頼ってばかりだった有様に、豊臣秀長を介した牽制・警告だったと見てよい )が九州攻めの主導を代理すると、前線の乱れも解消される。それまで勢いづきながら反抗を続けた島津勢に対し、着実な封鎖線を敷いていき島津氏を追い込み意気消沈させ、島津氏を説得、早めに降参・鎮圧させることに成功する。前後するが、のちの文禄・慶長の役( ぶんろく・けいちょうのえき。中国大陸政府・明への攻撃が主目的だが、朝鮮半島が主戦場となったことで朝鮮出兵とも呼ばれた )でもこれら水軍衆が重用され、現地での海戦では苦戦することになるものの、陸側とは権益序列観が少し違っていた水軍衆たちは、内部的には大きな乱れは起きていない。九州最大手の島津氏を降参させ、西側の天下総無事戦を果たした羽柴秀吉は、今一度の東側への天下総無事令とその仕置き( 身分再統制・後期型兵農分離の序列敷居 )の威嚇を強める。今度こそ臣従を迫られた( ダラダラ続けていた天正壬午の乱を停戦し、天下総無事令に従いさっさと上洛せよと迫られた )徳川氏は、紆余曲折あって( 石川数正出奔事件。小笠原貞慶の人質の小笠原秀政を預かっていた石川数正が、羽柴秀吉に人質を引き渡したことで、信濃の領有権争いの争点となっていた、徳川氏が傘下に収めていた深志城の小笠原貞慶が羽柴秀吉の調略を受けざるを得ない状況となり、今まで小笠原氏支援を名目に天正壬午の乱を継続し続けてきた徳川家の立場が気まずくなる )、徳川家康は家臣を守るために豊臣秀吉の上洛要請に渋々臣従することになる。( 徳川改易の危険水域に来ていたからこそ石川数正の出奔事件が起きた。どちらかというと徳川家の方が豊臣家を妥協させた結果となった ) 北陸方面の大手の上杉景勝( うえすぎ かげかつ。上杉謙信に実子がいなかったため、姉の子であった上杉景勝が後継者となった )は豊臣秀吉とは協調路線が続き、東海道の大手の徳川家を臣従させた次は、関東最大手の北条氏を抑えれば日本再統一( 天下総無事戦 )の障害らしき勢力( 威力的な交渉が可能な勢力 )は日本に居なくなる情勢となる。北条氏は戦国後期に関東で広域を拡張し、別格だった織田氏を除いて戦国大名たちの間では1位2位を争ってきた一大強豪ではあった。しかし織田信長、豊臣秀吉から見れば所詮は畿内( 織田家を代行することになった豊臣家 )の官民再分離( 刀狩り・後期型兵農分離 )の敷居に追いついていない、中央家長( 武家の棟梁・手本家長 )から再指導( 格下げ )を受けなければならない地方裁判権止まりの格下の地方家臣の分際に過ぎない。北条氏は徳川家以上にこれまで大手として関東の覇者として君臨してきただけ分だけ、大幅な格下げも免( まぬが )れない事態にそれだけ家中も動揺する一方となった。織田信長の肩代わり( 旧廃策 )ができてしまった豊臣秀吉という、皇室の護持役すなわち今後の日本を衰退させないための国体護持を肩代わりする前近代的な絶対家長・武家の棟梁にとうとう臣従を恫喝されるという新局面を迎えた北条氏は、家中の動揺を抑えられず、臣従の準備を進められずに進退をはっきりさせられないでいた。さっさと進めなければならない豊臣家との臣従調停をモタモタやっていた北条氏は、豊臣秀吉が東側への天下総無事令が強められてから( 九州制圧が達成された 1587 年から )3年後の 1590 年に、もはや時間切れ( 手遅れ )とばかりに北条氏制圧に乗り出される機会を与えてしまう。有名な小田原城包囲戦に発展し、ここでも水軍衆たちは重宝されることになる。この頃には徳川家と協力関係の駿河水軍( 向井氏、小浜氏ら。元は駿河の今川氏と協力関係だったが、今川氏の衰退後に武田氏が駿河を接収すると駿河水軍は武田氏との協力関係となる。織田氏の武田氏制圧戦で徳川氏が駿河を接収するようになると、駿河水軍は徳川氏との協力関係となる。権益序列観が陸と少し違っていた水軍衆たちは、一定のまとまりがあった所はこれまでの海域の特権をとりあえず保証してもらえるのなら、今まで通り持ち場の海域のことを任せてもらえるということなら話が早かった )も、九鬼水軍らと共に小田原城包囲線( 天下総無事戦 )に加わった他、豊臣秀吉の信任の脇坂安治( わきさか やすはる。近江衆出身 )、小西行長( こにし ゆきなが。堺衆出身だが備前宇喜多氏の親類扱い筋。のち豊臣政権の重役のひとりとなる。キリシタン大名として有名。豊臣秀吉がどのような教義対策を見越していたのかが窺える )、加藤嘉明( かとう よしあき。加藤光泰、加藤清正と並んで大身となった三加藤のひとつ。この内、名族・加藤一族出身としての名士らしい出発は加藤光泰だけだった。加藤嘉明は元の地位は高くない家来筋出身で、加藤清正などは半農半士の下っ端からの出発だったが羽柴軍団内で見込まれて活躍、それぞれ大身家格に一躍大出世したため特に後者2名は驚かれた。ちなみにのちの江戸時代の、遠山の金さんの元となった美濃の有力者の遠山氏も加藤一族の上層筋。加藤の意味は加賀藤原つまり有力の廷臣が加賀に下向して武士団化した筋が由来 )らにも水軍を編成させ、水際の包囲線を強化している。小田原城包囲戦には、これらが全国の水軍衆への今後の豊臣政権の窓口役・まとめ役を示唆、この時点で文禄慶長の役( 朝鮮出兵 )に備えた軍兵站体制の予行演習も兼ねていたことが窺える。豊臣秀吉は西日本勢、畿内勢、東海勢( 徳川氏 )、北陸勢( 前田氏、上杉氏 )を一斉に動員。そして、まだ豊臣政権への臣従の態度をはっきりさせていなかった関東と東北の諸氏たちにも、この小田原城包囲戦をきっかけに従うかどうかを試すべくの全国的な軍役を発令する。豊臣秀吉にとうとう関東制圧に乗り出されてしまい、この軍役に従わなければ言い訳無用の改易は免れなかった諸氏たちはとうとう時間切れを観念、多くは格下げ覚悟で渋々従うことになった。海沿い近くまで巨大に城壁を拡張されていた巨大規模な小田原城に対し、その完全包囲作戦の軍役動員など日本史上これまでは誰も実現できなかった中、織田信長に代わって豊臣秀吉が実現できることが証明される機会に位置付けられた。表向き20万( 実働は12万ほどと思われる )もの大軍が豊臣秀吉の号令の下( もと )に動員され、これまで誰も落城させることはできないと思われていた小田原城を水際までぎっしり完全包囲される新時代をとうとう迎えることになった。北条氏が降参するまで、大きな乱れなど出さずに5ヵ月近く包囲戦が維持されたことは、天下( 日本の総家長権 )は完全に決していた立証がされたと共に、予定されていた外征の軍兵站体制の丁度良い予行にできていたともいえる。ここで九鬼嘉隆の視点に戻し、1582 年に本能寺の変が、そして 1584 年に小牧長久手の戦いが起きた際に、この時に九鬼嘉隆がやむなく織田家との手切れする形で羽柴方の歩調に合わせるようになったこの時期から、羽柴秀吉と九鬼嘉隆との間で、先々の想定計画の話が内々で進められていたと見て間違いない。織田信長の存命期では九鬼嘉隆は日本の海域における管理層としての人事計画がされていたこと、堺衆と九州の水軍衆ら( 松浦氏ら。まつら。末羅 )との連携が予定されていたのも、大幅な変更となることも早々に話されていたと見てよい。まずは西側から本格的に向けた天下総無事戦で、早い段階で水軍衆としてそれを支援した九鬼嘉隆と堀内氏善は羽柴秀吉の先々の計画を慎重に受け入れながら連携することができていたから、大して混乱や動揺を起こすこともなかったのである。特に織田信長に大いに見込まれていた九鬼嘉隆は、本能寺の変が起きなければどのような海外文化交流が予定されていたのか、そのための今後の日本の教義体制もどのような国際地政学観の近代的人事序列( 特に朝廷人事 )のテコ入れがされるのかも、内々ではほぼ全貌を知っていたひとりと見てよい。旧廃策を敷かなければならない羽柴秀吉の立場の大変さも解っていた、だから下々への混乱や動揺を避けるために緘口令的に黙っていただけと見てよい。こうした九鬼嘉隆の姿勢は、元々は志摩の代表格の家格ではなかった立場から志摩再統一を果たし、織田家と連携して志摩水軍衆を次世代水軍らしくまとめることまでできる人物だったこと、織田政権時代での自身の立場に惜しんでしがみつくようなだらしなさなど見せなかったこと、天下総無事令に向けてせっかく羽柴秀吉が動こうとしていた中で、利害次第の私心に囚われてモタモタやっている場合ではない国家議会的、国際地政学的な視野での深刻さももてていたことなど、貴重な品性規律面が多くが窺える所になる。織田政権下で日本の水軍衆の手本になりつつあった九鬼嘉隆が、本能寺の変後にしばらくして早々に羽柴秀吉を手助けするために、織田政権時代での自身の存在感や栄光といったものはさっさと捨て従ったという貴重な手本を見せたことで、瀬戸内の水軍衆、四国の水軍衆、九州の水軍衆たちもそれに倣( なら )わせ、気持ちを切り替えさせた、だから目立った乱れもなく各海域の水軍衆たちは豊臣政権に和平的・健全的に従う良い流れを作れたと見てよい。九鬼嘉隆は、織田政権時代の立場や栄光をひけらかすようなことはしなかった、つまり志摩水軍衆が格上で他の水軍衆たちは格下であるかのような態度は出さずに、水軍衆同士は対等・和平の姿勢に切り替えることができていた、そこは羽柴秀吉( 織田信長を肩代わりする次の絶対家長・武家の棟梁 )が改めて再裁定・再公認する立場である所も九鬼嘉隆はよく心得られていたから、やはり優れていた人物だったといえるのである。他の海域の水軍衆たちといたずらに揉めるようなことをしなかったこと、また水軍衆たちを豊臣政権が小西行長らに統括させる動きになった際にもごねるようなことはしなかった姿勢は、徳川家康から見ても九鬼嘉隆のそういう姿勢( 上同士での地位・議席の譲り合いの姿勢 )を内心では高く評価していたのも間違いない。羽柴秀吉としても志摩水軍衆( 九鬼嘉隆 )を新政権の傘下に収めるに当たって、織田政権時代での立場をそのまま認めてしまえば、他の水軍衆たちを露骨に格上・格下扱いしてしまうことになり、いたずらな逆なでの厄介な反発を招きかねなかった。水軍衆同士で和平的に連携させなければ、予定していた外征( 明との戦い )以前に、関東・東北の天下総無事仕置き( 小田原城包囲戦と奥州仕置き )にも大きく響くことになる。一方で各海域の水軍衆たちとしても、戦国終焉に向かっていることの気まずさ自体は認識できていたこと、羽柴秀吉と九鬼嘉隆との間の様子を見ているだけでも、そういう所は多くは語らなくなても姿勢だけでも察知すること( 海域でも天下総無事令の次世代敷居の足並みに揃えていかなければならない認識自体は )はできていたと見てよい。まずは権威的な家格を得始めていたはずの志摩水軍( 九鬼嘉隆 )が、織田政権時代での立場のことで一切ごねずに、格下げ覚悟で改めて( 旧廃策的に )羽柴秀吉に従ったのだから、我々( 他の海域の水軍衆たち )もごねる訳にはいかない( 我々も志摩水軍衆と対等に扱ってもらえるのなら・・・ )、といった所( 上同士の社会心理 )だったのである。時系列を進め、今後2度と戦国前期的なだらしない国内紛争を起こさせないための懲罰軍役ともいうべき文禄慶長の役で、諸氏( 上同士 )が懲らしめられる形で散々苦しみ、思い知らされることになった( だけあって、これまで日本に対しても西洋に対しても今まで通り著しい格下扱いの態度を崩そうとしなかった世界最強規模の文明強国である明・中国大陸政府に、日本が甚大な打撃を与えることになった。西洋ではとてもできそうにない規模の総力戦外征体制・すなわち絶対家長的な次世代政権議会体制ができてしまった日本の姿を世界に見せつけることにもなり、西洋のキリスト教徒たちを震撼・驚愕させている )最中に、それを強制し続けていた豊臣秀吉が亡くなり、間もなく関ヶ原の戦いが起きると、隠居していたはずの九鬼嘉隆は万が一のことを考え、代を継いでいた九鬼守隆( くき もりたか。九鬼嘉隆の子 )には東軍徳川方へ付かせ、自身は復帰して西軍豊臣方を表明し九鬼守隆との対立を演じた。九鬼守隆は会津征伐( 反徳川を煽った上杉景勝との戦い )に従軍し、そこから関ヶ原の戦いに発展した際も東軍徳川派を強調した。徳川家康から、譜代扱いではないもののかなり好意的な心証を得、戦後は志摩全土の鳥羽城5万6000石の家格公認を得て関ヶ原の戦いを乗り切る。織田時代から豊臣時代にかけて大幅な出世街道を進んだ者たちの中には、関ヶ原の戦いを機に10万石以上を得た者も少なくないため、九鬼家の存在感と品性規律を考慮すると5万6000石は少ないように見えるが、これはまずは九鬼嘉隆が、豊臣家の譜代でも徳川家の譜代でもないのに欲張ったり高望みするとろくなことにならないことを、九鬼守隆によくよく言いつけていたのではないかと筆者は見ている。そもそも志摩の代表格ではない国衆出身( 伊勢北畠氏の陪臣筋 )から出発し、織田政権時代にいったん高評価の家格を得、その後は控えめとなって5万6000石の大名家格で落ち着いたなら十分に大成功の部類といえる。九鬼嘉隆と九鬼守隆の親子が、欲張ったり高望みをしなかったことが徳川家からは、内々でかなり良好な心証を得たのも間違いなかった所は、その後の徳川家の九鬼家への扱いからも窺える。豊臣家が結局改易されることになった 1615 年の大阪夏の陣( 戦国の気風を潰す契機にもされた、武士同士の総力戦も最後となった戦い )から17年後になる 1632 年、九鬼守隆が亡くなると九鬼家は当主の代替わりを機に家中で家格争い( よくあることだった )、つまり幕府が厳しく禁止していた内紛・お家騒動を起こしてしまった。1620 年あたりから江戸時代の幕藩体制の初期時代が色濃くなり始め、それから 1690 年あたりまで、幕府は内紛・お家騒動や他藩間のいがみ合い( 上同士の揉め事 )には、とにかくこの上ない手厳しさの威嚇を諸大名たちに向けていた。特に外様大名には10万石だろうが20万石だろうがそこに容赦しなかった幕府前半時代、いがみ合った九鬼隆季派と九鬼久隆派は喧嘩両成敗で改易されてもおかしくなかった所、九鬼家は注意喚起のいったんの2万石の減封だけで済んだ。結局、3代将軍の徳川家光のはからいによって、家督相続できなかった九鬼隆季に2万石の新地の大名資格を与えた、要するに分家扱いしてもらうことになったという、九鬼家は寛大もいい所の処置で済んだのである。これは徳川家康の生前時代、欲張ったり高望みしたりしなかった九鬼嘉隆と九鬼守隆の親子のことが内々で高く評価されていたことが、九鬼家へのこうした処置に反映されたのは間違いない所になる。特に織田信長から高く評価された九鬼嘉隆が、関ヶ原の戦いで東軍勝利となると、九鬼守隆が不利にならないよう早々に切腹するという、責任感を示す最後の迎え方をした所( 徳川家康は九鬼嘉隆のことを無罪の特別扱いの判決をしたが、通知が間に合わずの切腹だった )は高く評価されない訳がない所になる。本項の九鬼嘉隆を最後にまとめると、織田信長の天下静謐の足並みに揃えようと努力し、次に豊臣秀吉の天下総無事の足並みに揃えようと努力し、最後は徳川家康の天下泰平への責任と九鬼守隆のために切腹という、日本のゆく末を最後まで深刻に考えながら生きた有志のひとりだったのである。本能寺の変と海の世界の関係についてもっと触れたい所だったが、字数制限の都合でのちほどまとめる。
粟屋勝久 あわや かつひさ
宇喜多直家 うきた なおいえ
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
河尻秀隆 かわじり ひでたか
木曽義昌 きそ よしまさ
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 おがさわら さだよし
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -
蒲生氏郷 がもう うじさと
浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )
細川藤孝 ほそかわ ふじたか
森長可、森成利 もり ながよし しげとし
斎藤利治 さいとう としはる
溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ