近世日本の身分制社会(139/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか67/??  本能寺の変の全体像13/? 2024/06/14

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~12」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 ※ 本能寺の変の全体像12 で先述

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 神保氏張は越中衆のひとりで、越中神保氏 旧室町体制時代の能登畠山氏の重臣。その越中の支配代理を請け負っていた家系。 えっちゅう じんぼう し )が本家のその分家・家来筋になる。神保家は武家政権( 源頼朝時代の鎌倉政権・世俗社会化政権 )以来の大手のひとつ畠山家の、その最有力家臣の家柄で、神保家は戦国後期にはかつての力は失うも名門として広く知られていたひとつになる。神保一族も戦国後期をどうにか乗り切り、結果的には藩主( 地方領主の家長。近世大名 )としてでなく江戸( 徳川本家 )の旗本として江戸時代を迎えるが、派手な活躍がないせいか史学上での注目度はあまり高くない。しかし本項の神保氏張の経緯を見渡すことでも、織田政権時代から江戸時代に向かっていったまでの見落とされがちな特徴を窺うことができる。戦国後期の能登・越中の様子( 能登畠山氏とのち長氏体制の様子 )は先述したばかりだが、本項の神保氏張の視点( 当事者軸 )で見ていくために、全体像( 時流の主体軸 )から今一度整理していく。まず能登・越中の( 室町体制時代の )総家長であった能登畠山氏が、戦国後期に入っても遅々として旧態体制を改められず、まとまりが低下していくばかり 旧態権威の正しさ通りになっていればいい = 方針・主体性がいつまでもうやむやなまま )に、能登・越中衆は時流( 総力戦体制・地政学的領域戦・地方再統一・人事敷居改革 の力量争い )に大いに遅れを取ることになる。近隣の加賀一向勢( 浄土真宗の別当の軍閥 )と越後上杉勢に先を越される形で、まとまりのない能登・越中がそれらからの争奪戦の的( まと )にされ、荒らされる一方に混迷を極め、越中神保氏は主筋の能登畠山氏と共倒れしかける。能登では 1566 年にいよいよ危機感が深刻にもたれ、その再建の最後の希望の立場であった長続連 ちょう つぐつら。能登衆の有力者のひとり が能登再建・再統一のための主従対決を挑み 旧管領体質との決別 = 当主畠山義続とその取り巻きたちの追い出しによる地方再統一・人事敷居改革 組織改革を進め始める。出遅れも著しかった中でも能登の政変によって、長氏体制が能登半国ほどの一定のまとまりを見せるようになると、今までよその介入にまんまと振り回され続けてきた( 目先の利害次第の甘言と偽善憎悪の低次元化工作の外圧にまんまと利用され続けてきた 能登衆・越中衆たちに対し、自分たちの置かれている現状( 外圧にただ振り回され続けている愚かさだらしなさ )をいくらか再認識させるようになる。越中神保氏もそれと連携して少しはもち直すようにはなるものの、越中は能登以上に加賀一向勢、越後上杉勢からの介入を受け続けたため、立て直しも難しい情勢が続く。越中では劣勢続きだった本家の神保長住( じんぼう ながずみ。越中の表向きの代表格 に対し、神保一族の中ですら見限って加賀一向勢や越後上杉勢に鞍替えする者も目立っていたため、そんな中で越中衆たちを再結束させることは簡単ではなかった。それでも能登での長氏体制1566 年から顕著になって以降は、今までのようなやり口で優勢を保てなくなり始めた加賀一向勢と越後上杉勢は 1570 年代に入っても、しぶとい長氏体制を切り崩すことができない均衡が続くようになる。1572 年になると畿内では、足利義昭との決別が顕著な織田氏の畿内再統一の時流となる( それを巡って畿内が騒がしくなる )と、長続連は早い段階で格下げ覚悟で織田氏との親交を深める外交を積極的に進めるようになる。織田氏が旧畿内派( 畿内近隣の反織田派たち )から一斉に噛みつかれて手を焼いていた 1572 年頃の当初は、畿内から見た遠隔地の諸氏たち( 各地方の上層たち )は、その畿内のゆくえに対し態度を曖昧にしていた 本来は地方の上層たちは、旧室町権威の足利義昭派なのか刷新の織田信長派なのか、今後の畿内のあり方への進退を表明しなければならない立場、すなわち前近代的な評議名義性・選任議決性といえる国際地政学的評議会観くらいもてなければならない時代になってきていたにも拘わらず、その大半は織田氏の次世代敷居に気まずいから態度を曖昧にし続けたか、利害次第に反織田派に加担するかのどちらかだった。織田領の近場で織田派として表立って結束できていたのは徳川氏くらいだった )中で、能登の長氏体制は早い段階で織田派の方針でまとまろうとしていた、だからこそ長続連は織田信長の心証をこの上なく良くした。越後上杉勢は越中では表向きは半国ほどの支配力を強めるも、能登における均衡( 長続連と、加賀一向勢派と、越後上杉派の3すくみ )が 1575 年になっても結局破られることはなく、その長氏体制( 織田派運動 )の影響で越中の反上杉運動( 長氏体制との連携。織田派 )が再燃するのもたびたびという情勢が続くことになった。織田氏が 1575 年の長篠の戦いの大勝を契機に、その年に北上戦( 加賀・飛騨攻略 )にとうとう乗り出すが、織田信長は長続連( 能登の織田派 )やそれと連携していた越中の反上杉派たち( 越中での内々の織田派たち )に、織田勢が能登・越中に乗り込むまで、加賀一向勢と越後上杉勢の食い止めを今しばらく頑張るよう、そして織田氏の家臣化に向けてのいったんの格下げ覚悟( 織田氏の人事敷居序列の身分再統制 )を国衆たち( 能登・越中の織田派たち )に準備させておく等の連絡を、中央政権議会的に取り合うこともできていたと見て間違いない。1575 年から柴田軍団( 柴田勝家が率いる織田軍団。尾張出身勢・美濃出身勢・近江勢・越前勢らを率いる師団 )が加賀に押し寄せ、それと連携する形で美濃からの織田勢( 尾張勢・美濃勢 )も飛騨へ乗り込むと、内々では上杉氏に反感的だった能登・越中の国衆たちも改めて織田派で表立って結束しようとする機運を高めため、越後上杉勢もあせるようになる。とうとう始まった織田氏の北上戦( 加賀・飛騨攻略 )は、能登・越中の覇権がはっきりしないこれまでの争奪戦も時間切れの流れ = 戦国終焉の流れ = 織田氏が中央総家長・武家の棟梁の天下静謐の家訓による取り締まりが始まる流れ )になり始めたことを意味した。越後上杉勢は、越中攻め( 越中の反上杉潰し )よりも、能登・越中における織田派の旗頭である長氏体制潰しに躍起になり始める。織田勢が能登に乗り込む前年、長氏体制( 織田派 )は攻勢を強めた越後上杉勢に反抗を続けるも 1577 年 9 月に破れてしまい( 七尾城陥落 )、上杉氏による手厳しい反上杉派( 織田派 )の粛清・解体を受けてしまうことになる。ただし上杉氏は能登の政敵( 長氏体制の織田派 )をただ排撃したのみ( 威力的に荒らしただけ )に留( とど )まり、十分な能登仕置き( 上杉家の家訓による能登再統一 )が行われたとはいえない( 能登全体を上杉領とする同胞寄騎化ができている とはいえない )まま、容態を悪くしていた上杉謙信は翌 1578 年に亡くなる。継承争いから忙しかったその次代の上杉景勝( うえすぎ かげかつ )は、今までの旧態体質( 旧家訓 )を改めるべくの越後再統一( 地方議会改革・家長権改め・人事序列敷居の見直し。先代の上杉謙信の名義に対する旧廃策として、先代までの序列を上杉景勝にいったん返上させる形の名義改めをしなければならなかった )を最優先したことで、先代謙信時代までこだわられてきた能登・越中経略の今までの上杉氏の勢い( 能登・越中の上杉派たちへの後ろ詰め・後押しのための軍事行動 )も失われていくことになった。一方、加賀制圧( 再統一 )をいったん済ませた柴田軍団( 織田勢 )が 1578 年から本格的に能登奪還と越中再統一に乗り出すと、能登・越中の上杉派たちは、越後上杉勢の後押しを十分に受けられないまま柴田軍団( の指揮下の有力寄騎たち )に押され、能登・越中を巡る騒乱もついに終戦( 織田氏の天下静謐の敷居による地方再統一 )に向かい始める。その前年 1577 年に上杉謙信が、織田氏の加賀・飛騨攻略の動きにあせる形で能登攻め( 織田派で再結束しようとしている七尾城の長続連の切り崩し )を強行したことで、その時は柴田軍団による七尾城救援は惜しくも間に合わなかったが、一方で越中は、内々で長続連と連携していた神保氏張ら内々の反上杉派( 織田派 )の国衆たちはのらりくらり作戦でなんとか乗り切る形で、こちらは柴田軍団( 織田勢 )の救援が間に合う形となった。1578 年に織田氏からの頼もしい加勢を得ることとなった神保長住 越中の織田派たち )は、やっと越中再統一に乗り出す( 巻き返す )ことができるようになる。織田・神保連合によって越中西部から中部の反織田派たちが駆逐されていくと、越中東部の上杉派たちが拠点にしていた魚津城( うおづ。富山県魚津市 )は大した巻き返しもできないまま、結束・戦意を弱体化させることになった。能登でも 1578 年からの前田利家と長連龍の連携作戦による能登奪還( 長氏体制の織田派たちへの呼びかけの再帰運動をしながらの、前田利家主導の能登再統一 )が順調に進められ、能登・越中は戦国終焉へ向かうことになる。前田利家と長連龍が能登再統一で活躍したように越中でも、柴田軍団の有力寄騎の佐々成政( ささ なりまさ。さっさ )とそれに協力的だった神保氏張が越中再統一での働きに、長連龍ほどではないにせよ織田信長から改めて評価を得ることになる。前田利家か能登支配代理の正式辞令を受けた際に、長連龍が前田家の有力家臣扱いとして正式配属( 家臣化 )されたように、佐々成政も越中の支配代理の正式辞令を受けた( 佐々成政も、前田利家と同等かそれに次ぐ人材として織田信長から見込まれていた。勇将として知られていた佐々成政は一本気な性格が良い方にも悪い方にも作用することになるが、部下や下々の面倒見がかなり良かった )際、神保氏張がその佐々家の有力家臣扱いに正式配属( 家臣化 )されることになる。この流れは、織田氏が能登・越中に乗り込む前からの、連絡が取り合われていた事前計画的な次世代人事( 能登・越中攻略後のことまで予定されていた中央家長的・政権議会的な手配 )だったと見て良い。長続連( 能登主導 )の次男である長連龍の方が、神保家の家来筋の立場であった神保氏張( 越中の支配代理の士族のひとつ )よりも、七尾城での苦難の重みが強調はされるものの、両者は共に織田信長から買われた所は類似し、織田信長の次世代家格裁定( 旧室町家格慣習に対する旧廃策。前近代人事敷居改め )の特徴が窺える。長連龍と神保氏張が、織田信長の信任の前田利家と佐々成政にそれぞれ配属されることになった時点では、ただちに表立った家格裁定はされていないこともあり、だからこそ戦国終焉期( 織田政権時代 )の地政学観( 江戸時代の家格序列観・政権議会敷居観・前近代社会観に向かい始めていた時期の上同士の社会心理や全体像 )が把握できていないと、この2名( 長連龍と神保氏張 )はまるでだいぶ下っ端扱いの陪臣扱い( 柴田勝家の寄騎の家臣扱い )に軽く見なされたかのような誤認軽視がされがちだが、その真逆になる。織田氏から見れば新参もいい所だったこの2名はまず、もはや戦国後期の戦国大名並みの家格を得始めた( 有力寄騎たちに対する次世代等族諸侯扱い = 近世大名扱い = 地方管区の有力支配者扱い の人事がとうとう始まった )前田利家と佐々成政への、それぞれその重臣扱い( 筆頭家老や二番家老 )とする予定のかなり優遇の配属だったと見てよい。織田信長としては、これら新参の配属( 家臣化 )ただちに、1000石単位、万石単位を家格裁定してもいい所だったと思うが、今まで遠隔地で織田派として懸命に頑張ってきたとはいっても、織田家中から見た直接の譜代的な働きが目立っていた訳ではなかった。そんな中でただちに優遇扱いをしてしまうと、特に下士官以下の下々( 織田氏の前期型兵農分離・官民再分離によって、改めて正規雇用層として帯刀公認された足軽・中間ら半公半庶たちも含む。あしがる ちゅうげん )は前近代人事敷居( 地政学的経緯や全体像や、次世代化に向けて社会観も変容していく中での、上同士と下同士の間での社会心理 )の意味も解らないままに、組織全体での動揺や誤解を与えかねない。下々は地元と遠隔地の異環境観を中途半端にしか理解できない、だからこそ新参なのにさも簡単に優遇扱いされるかのような軽々しさの強烈な印象 目先の利害最優先の低次元な顔色の窺い合いのごますり・ごまかし合いで取り入れさえすれば、寵臣になれさえすれば待遇が得られるかのような、その軽々しさが許されるかのように思わせる = 戦国前期を再燃させる偽善憎悪化・低次元化の原因 = 組織構想に致命的と荀子・韓非子が指摘している部分。そういう所の欠陥を突かれることなどない組織作りができている側が有利、そこを突かれたらいとも簡単に乱れ崩れるような情報敷居戦の基本もできていないだらしない組織作りしかできていない側が不利になるに決まっていると指摘しているのが孫子の兵法の組織論 )を与えかねない、だから気を付けなければならなかった。だからこれら( 長龍連と神保氏張 )にはすぐには表立った家格裁定はあえてせずに、まずは織田家中( 天下静謐の敷居 )における治安面や行政面での譜代典礼的な主従信用関係( 前近代議会的な人事計画 )がそれぞれ強調できるようになってから改めて優遇家格を手配するという、基本的な予定計画( まずは軍務や政務での優先権を与え、皆を納得させる働きができることを皆に改めて確認させるという、典礼的・品性規律的な順序が踏まれた人事 )がもたれた織田信長の優れた人事だったと見てよいのである。なお、次世代化( 旧廃策 )として重要になってくるこうした人事の工夫は、本能寺の変後に中央を掌握するようになった羽柴秀吉の天下総無事戦でも大いに参考にされていた部分であり、徳川家康としても参考にせざるを得ない大事な部分( 前近代政権議会観 = まずは上同士の身分制議会・等族議会制 である。1582 年に本能寺の変が起きてしまったことで、今後どうなるのかという動揺も広がるが、前田利家に配属されることになった長連龍は、かつての能登主導であった家系を悪い意味で強調するということは引き続き控え、以後も前田利家との協力信用関係の縁を深めていった 能登半国6~8万石近くの大名待遇を得て当然であるかのような見苦しい態度は一切出さなかった = 次世代人事敷居の時流を軽く見てはならない品性規律を心得られていた = これからの時代は、上同士で議席の譲り合いの手本の示し合いができて当然でなければならない、それで下々に健全な影響を与えることを上同士でこれからはできなければならないという、織田信長の意図をよく心得ていた )ためのち大いに報われることになる。一方で佐々成政に配属されることになった神保氏張の場合は、佐々成政が二転三転することになったために事情が少しややこしくなる。ここから本項の神保氏張について、当事者軸視点での紹介をしていきたいが、織田信長から見込まれることになった神保氏張は、豊臣秀吉と徳川家康からはどう見られていたのか、神保氏張の本家( 越中の支配代理の家系 )のややこしい事情からざっと整理していきたい。まず、本家の神保長住 神保氏本家 )は長続連と連携の織田信長との結びつきを内々で強めることになるが、先代の神保長職 じんぼう ながもと。神保長住の父と見られている )の時代の 1560 年代の能登・越中は、旧管領畠山体質( 旧管領権威をただたらい回しているだけの畠山義続体制 )が遅々として改められていかなかったことで、加賀一向勢と越後上杉勢の介入にろくに対策できないまま国衆たちの結束も崩れるばかりで苦しんだ。上杉氏からの圧力を受け続けた神保長職はやむなく上杉派を表明することで、越後上杉勢からの攻勢をかわすようになったが、越中の代表格が上杉家の格下家臣扱い同然の力関係であることに憤慨する越中衆たちも少なくなかった。神保長職時代の越中はまとまる見通しが全く立たなかった( 前近代的な評議名義性と選任議決性 がない = 地政学的方針といえる次世代組織観 がいつまでもはっきりしない )からこそ、加賀一向勢にも越後上杉勢にも内々では反抗的だった国衆たちは、越中の代表格のはずの神保長職が外圧( 上杉氏 )に頼り始めたことに危機感を強め、反上杉的( 反外圧的 )指標であった神保長住( 反外圧派 )と神保長職( 表向き上杉派 )との表向きの対立が顕著となり、神保氏張は内々では神保長住 反上杉・反外圧 )に同調的だった。越中にまとまりなどない中で、やむなく上杉氏に頼る形で越中の再結束を図ろうとしていた( しかし内心など怪しかった )神保長職は、上杉謙信の心証を損ねることを危惧して神保長住( 反上杉派 )を富山城( 越中支配の象徴・政局 )から追放すると、神保氏張がそれに反抗するように手勢を率いて富山城を一時的に占拠する事態となり、上杉派を越中から追い出そうと反上杉たちを煽りながら、越中東部の上杉派たちの重要拠点にされていた魚津城を攻撃する動き( 神保氏張が反上杉の急先鋒・旗頭であるかのような動き )まで見せた。神保家中で上杉派、反上杉派の内部分裂を収める見通しもはっきりしないまま、神保長職は結局、家督を神保長住に譲ることになる( 神保長城という人物への家督相続ということになっているが、これは神保長住のことでその前名だとする説が強く、ここではそう見なす説明をしていく。じんぼう ながなり )が、後見人として影響力はもち続けた。神保長職は以後も増山城から、加賀一向勢、越後上杉勢、そして武田の口出しによる鞍替えを一貫性もなく場凌ぎ的に繰り返すことをするが、これは表向きは神保長住と対立しているように演じながら実は神保長住ができるだけ不利にならないようにするための、外圧の緩衝材役( 受け止め役 )の見せかけの偽装工作だったと見てよい。こうした見せかけは各地でよく使われた手口で、先の神保長住の追放劇にしても、その時に動いた神保氏張による富山城の一時的な占拠劇にしても、演出が強かったと見てよく、能登畠山家と共倒れしかけていた神保長職はどうにもならなくなっていた苦境下でそうせざるを得なかっただけだったと見てよい。そのようなのらりくらり作戦で神保本家は富山城をどうにか堅守し続け、1566 年に能登の政変が起きる 長続連を旗頭に、旧管領権威の追い出しがやっと果たされ、国衆たちの再結束運動がようやく前進し始める )と、能登の長続連の動き( 反外圧運動 )に神保長住も内々で連携を強め始めたため、越後上杉勢による越中の反上杉排撃の攻勢も強まるようになる。越後上杉勢が越中に乗り込んでくるたびに、越中の国衆をまとめるのも難解だった神保長住は応戦できる状態ではなかった場合も多く、大した人事( 家長権 )交渉力も維持し得ないままの一方的な力関係の上杉氏への臣従をせざるを得ない状況が繰り返される。そして越後上杉勢が国許( くにもと。本拠地のこと。上杉氏の場合は越後。新潟県 )に去るたびに神保長住は、内々で長続連と連絡を取り合いながら反上杉行動に出ることも度々だったため、1572 年に越後上杉勢が越中に押し寄せた際、その後押しを受けた上杉派の越中衆たちによって、神保長住はとうとう富山城を追放されることになる。

 

※ 訂正報告 ※ 全体像としては今までの記述内容でも大きな影響はないが、これまで筆者は神保長住が富山城をなんとか守ることができていたと間違えて記述してきてしまい、それは 1572 年までの話だったため、能登・越中に関する以前のその部分は訂正予定。上杉派たちが富山城を占有しても越中の反上杉を十分に排撃( 再統一 )することはできなかった様子を記述していく。ここをすっかり忘れていて省略し過ぎてしまっていた。直し次第この訂正報告は削除

 

上杉派を偽装するばかりだった神保長住が、上杉派たちから富山城( 越中支配の象徴。政局 )から追放 反上杉派らを再排撃 )されたのを以( も )って、越後上杉勢が越中を制したかのように表向きは見えた。しかし増山城の神保長職( 神保長住の後見人としての影響力はもち続けた )、守山城の神保氏張( 神保一族の中で特にしぶとかった )らはこの後も態度を曖昧にしながら( 内々で能登の長氏体制と連絡を取り合いながら )の、のらりくらり作戦( 織田氏が北上してくるまでの時間稼ぎ作戦 が続けられた。危機( 越後上杉勢 )が去るごとにこれら( 神保長職、神保氏張らと内々の同調者たち )が、上杉派たちに反抗的な工作を始める( 上杉派としての結束に協力しようとせずに、内々で加賀一向勢と連絡を取り合い、上杉派の隙を情報提供したりで困らせようとする )のもたびたびで、だから上杉派たちが富山城( 越中支配の象徴。政局 )を占有するようになったとはいっても、上杉派による強固な越中再統一が進められているのかといえば怪しい混戦が続いた。そのような状況が続いたまま 1575 年を迎え、織田氏によるいよいよの北上戦( 加賀と飛騨への乗り出し )が始まると、あせった越中の上杉派は 1576 年に増山城の神保長職の影響力を潰すことには成功するも、織田氏に抵抗できるような強力な越中再統一( 地政学的領域戦に対応するための総力戦体制といえる地方議会改革・人事敷居改め )の見通しなどつけられる訳もないまま、織田勢がとうとう能登・越中に乗り込む 1578 年を迎えることになる。前後するが 1572 年に富山城を追われた神保長住は、しばらくは越中に留( とど )まって富山城奪還運動をしていたと思われるが、のち織田氏を頼って織田信長の下( もと )に参じことになる。神保長住は、織田氏が越中に乗り込む前年の 1577 年に織田信長から仮公認の家臣扱いを得る形で、その翌 1578 年の織田勢による越中再統一に同伴することになるが、少なくとも北上戦( 加賀と飛騨への乗り込み )が始まる 1575 年の時点で、織田信長と神保長住との間で内々での人事計画( 越中再統一後の再裁定的な予定 )は既に進められていたと見て間違いなく、能登の長続連と、越中の神保氏張らでの内々の織田派たちとの連絡も取り合っていたと見て間違いない。織田氏が越中へ乗り込んだ 1578 年は、容態を悪くしていた上杉謙信が亡くなった( その影響で、越後上杉勢による今までの越中攻略の勢いも無くなった )ため、織田氏からの頼もしい加勢を得て越中に舞い戻った神保長住にとって好機的な形となった。神保長住 神保氏の本家であり、仮公認の織田家の有力家臣扱い )が反上杉( 織田派 )を呼び掛けながら、主に佐々成政の頼もしい後押しを得ての越中再統一がとうとう始まると神保氏張もさっそくそれに協力する形で、越中西部から中部にかけての再統一が優位に進められることになる。神保氏張としてもそれまでは、越中での上杉派たちの攻勢ならなんとか防ぐことはできたが、越後上杉勢が大軍を率いて越中の仕置き( 反上杉改め )にやってこられると単独ではとても抵抗できない場合も多かった。そのため持ち場の守山城が攻撃されないよう( 越中での内々の反上杉が消滅しないよう )、仕方なく上杉派を偽装しつつ、内々では織田派として連絡を取り合っていた。神保氏張は、内々では反上杉( 織田派 )だった越中衆たちが不利にならないように( のちほど織田派たちに寛大な裁定をしてもらうために )できるだけ正確な情報を、生真面目にこまめに織田氏に送り続けていたのも間違いなく、だから織田氏による越中再統一時の手際( 大目に見てよい国衆たちと、失格もいい所の裁かれて当然の国衆どもの選別 )の事前の手助けにもなっていたことは、その後の扱いからもその信任ぶりが窺える。神保氏張は織田信長の妹との婚姻の斡旋を得ることになり、また神保氏張の妹( もしくは姉か親類養女 )と長連龍との婚姻の斡旋の手配がされている。織田氏から見ればまだまだ縁は浅い新参筋のはずの神保氏張は、長連龍と共にかなり有望視 合格・高次元扱い されていたことが窺え、今後の能登・越中( 前田家・佐々家 )の統治におけるその重臣格が共に予定されていたと見て間違いない。しかし佐々成政の有力家臣として配属されることになった神保氏張の方は、ここからもややこしい事情が続くことになる。まず織田勢主導の越中再統一が 1578 年から始まり 1582 年には越中東部の上杉派の駆逐にも成功、越中再統一は決したかに思われた。それから柴田軍団( 能登勢と越中勢が加えられた織田勢 )がすぐさま越後( 上杉氏の本拠地 )に乗り込もうとしたその時、本能寺の変が起きたことで越中は混乱を起こし、信濃( しなの。長野県 )においては越中よりさらに荒れる大混乱( 特に信濃中部では、武田支配の前時代の小笠原氏の旧臣たちが最後の好機とばかりに、大規模な信濃小笠原再興運動を起こし、天正壬午の乱が長引く原因となった )が起きる。信濃北部の再統一を任せられて現地に赴任したばかりだった森長可 もり ながよし )は、柴田軍団の連携で越後上杉攻めをする予定であった所、特に信濃は本能寺の変をきっかけに織田支配追い出し運動( 反織田運動というよりも、それまでに失脚した武田時代や小笠原時代の土豪たちの旧領復興運動といったほうが正確 )の大騒動が起きた。とてもその勢いを収拾できそうになかった森長可は上杉氏攻めどころではなくなり、美濃の本領に引き上げることになった。上杉景勝から見ると、信濃北部から越後に乗り出そうとしていた森勢が美濃に引き上げたこと、そして柴田勝家、佐々成政( と神保氏張 )が越中の混乱を収拾するのに手間取っている様子を好機に、越中東部の上杉派の気風が消えない内にと、魚津城奪還に動く。越中が混乱している間に上杉景勝は魚津城を取り戻す( 越中東部の旧上杉派を収拾する )ことにとりあえず成功する。上杉景勝はさらに、激しい混乱を起こしていた信濃北部にも上杉派を呼び掛けながら( 信濃北部の川中島の4つの郡はかつて、旧村上氏を上杉氏が支援する名目で、信濃の一円支配を目指していた武田氏と何度も戦われ、その頃からの上杉派の気風もいくらか残っていた。上杉家の支援を得て旧領再興運動に動こうと、現地で一団を結束し始めた地域も少なくなかった )その支配権の確保に動いた。本能寺の変を起こした明智軍団が近江再統一に乗り出した間、柴田軍団は越中の混乱の収拾はできたものの、越中東部の魚津城奪還を許し、越後上杉勢の動きを警戒しなければならなくなり( 越中の上杉派に対する今一度の追い出し・再統一をしなければならなかったため )、明智勢制圧にすぐに駆け付けることはできなかった。そんな中で、いち早く畿内に戻ることができた羽柴軍団によって、明智勢制圧の良い所を全てもっていかれる形となる。清州会議で柴田派と羽柴派が強まり、柴田勝家と羽柴秀吉の対決( 1583 年の賤ヶ岳の戦い )が始まると、上杉景勝は羽柴秀吉の要請に応じる形で、越中の佐々成政勢を釘付けにしたことで柴田勢は不利になる。さらには前田利家にも羽柴派に鞍替えされてしまったことで柴田勢はますます不利となった。賤ヶ岳の戦いは、柴田方にこのような不利が重なっても柴田勢が勝利してもおかしくないと思われていたが、しかし羽柴派が勝利する結果となった。羽柴派に鞍替えすることはなかった佐々成政( と神保氏張 )は、越後上杉勢と対峙している間に賤ヶ岳の戦いが決着してしまったため、羽柴秀吉に降参すると、この時は羽柴秀吉からかなり寛大に、佐々家による越中の大名資格がそのまま公認されることになった。ところがその翌 1584 年に、羽柴秀吉による織田信雄( 織田信長の次男。当時の尾張と伊勢の支配者 )への露骨な抑え込みに動いたことがきっかけの小牧長久手の戦いが起きると、佐々成政( 越中勢 )は反羽柴派( 織田信雄と徳川家康の連合に肩を持った )に動き、小牧長久手の戦いに参戦する予定であった前田利家( 加賀・能登中心勢 )を足止め軍事行動に動いたため、これは当然のこととして現地( 主戦場となった尾張 )での戦況にも大きく響いた。羽柴秀吉の内心を相当怒らせたのは間違いなく、だから佐々成政の重臣となった縁を律儀に続けていた神保氏張もその状況には気まずい想いをしたのも間違いない。さらにいえば長連龍( 前田利家の重臣 )との縁もできるだけ壊したくない立場のはずであった神保氏張は、それでも自分だけ助かろうなどとはせずに( 羽柴秀吉の下に出奔しようと思えばできたがしなかった。しゅっぽん は、所属組織内でどうにも話がこじれ続けて混迷した中での、その状態からの緊急的な離脱という意味が強い。よくあることだった )仕方なくそれに付き従った。小牧長久手の戦いに発展した際、羽柴秀吉を絶対家長とする新政権設立の流れにやむなく合わせる者たちも増えたことで、味方が少なかった織田信雄と徳川家康の立場から見て、佐々成政のことはともかくそこから離脱しようとせずに律儀に付き従っていた神保氏張については徳川家康も好意的に見ていたのは間違いない。一本気な所があった佐々成政は、旧主の織田家が軽々しく扱われる一方になっていったのが我慢ならなくなってそう動いたことに、羽柴秀吉もその性分自体は理解していたと見て間違いない。小牧長久手の戦いは織田信雄が結局、羽柴秀吉に臣従する形で停戦・和解終結することなったが、佐々成政は翌 1585 年になっても軍を収めようとせずに前田家とダラダラと対峙し続けた。佐々成政は、織田本家( 織田信雄。旧主の家系 )に対する羽柴秀吉の当時の抑え込み方がよほど気に入らなかったらしく、対羽柴の共同戦線を徳川家と継続するために、直々に浜松城( 徳川家康の当時の本拠地 )に訴えに向っている。しかし羽柴秀吉と織田信雄が和解してしまった中での、佐々成政からその対羽柴運動のもちかけ( それで全国的に反羽柴を呼び掛けようとする作戦 )には徳川家康も名目的に難色を示し、実現はしなかった。佐々成政のことを引き取らせるために徳川家康はなだめることになるが、織田家のためにかなり怒っていた様子に徳川家康を驚かせている。なおも停戦令( 天下総無事令 )を無視し続けて軍を解( と )こうとしなかった( 前田家を困らせ続けた )佐々成政に対し羽柴秀吉は、やむなく越中への天下総無事戦に乗り出すことになる。1585 年に羽柴秀吉が大軍を動員して越中に向かい、すぐに富山城包囲戦となり( 羽柴秀吉の畿内近隣勢の実働は5万、佐々成政の越中勢の実働は8000ほどと思われ、勝負にならないからすぐに富山城籠城となる )、ここで佐々成政は粘ろうとするも、羽柴秀吉の家臣扱いとなった織田信雄に説得される形で結局降伏することになった。この時も佐々成政は大きなことをしでかした 新政権・武家の棟梁が目指す天下総無事令に軍事的に逆らった )にも拘わらず助命された。江戸中期換算で25万石はあった( 多ければ35万石 )と見られるおよそ越中1ヵ国の大名資格は没収されたとはいえ、羽柴秀吉の直臣格として1万石という寛大もいい所の有力家臣扱いの処置を受けることになる。その際、それまで仕方なく付き従っていた神保氏張も、佐々家の筆頭家老的な立場であった( 特に家老首座は、当主が例えば危篤だったり急逝してしまった際に、家中を混乱させないための取り仕切りを代理する立場だった他、組織全体の不正や不祥事が蔓延していかないよう、そう向かっていかないよう当主にも説得や諫言をしたり、内外のいざこざの間に入って事態の収拾行動に動かなければならない重い責務を背負わなければならない立場。場合によっては事態を収拾するために、当主の信用を失墜させないために進んで身代わりに切腹しなければならない立場。織田政権時代に上同士でのそういう所も一斉に敷居改善・身分再統制されることになったからこそ、本来の連帯責任的な等族義務も問われ始めるようになり、江戸時代の身分社会観の前身がこの頃には強まり始めていた。その最低限の等族指導もできずにいがみ合っているだけのだらしない地方は失格・低次元扱いに上から順番に大幅な格下げ裁定がされて当然であることが示され始めたからこそ、モタモタやっていた遠方諸氏たちが今頃になって慌ててその足並みを揃え始めた部分 )ため、本来は厳しい連座処置を受けてもおかしくなかった所、厳しい咎( とが )めを受けることはなかった。羽柴秀吉は、織田氏に肩をもとうとする有力者たちに厳しめの処置を向けていたが、佐々成政に対しては扱いは少し違っていた。佐々成政の最後にも関係してくることとしてここで、羽柴秀吉( だけでない、前田利家ら有志的な有力者たち )が佐々成政( と神保氏張 )のことをどう見ていたのかについて触れるために、その比較例として渡辺了 わたなべ さとる。渡辺官兵衛で著名。渡辺一族も各地にいくつか点在していたひとつで、渡辺氏を名乗る以上は武門の気骨を重んじなければならない、という傾向が特に強かった。なお徳川家中で活躍した渡辺守綱が、鬼退治の伝承で有名な渡辺綱の末裔であることを強調していた。わたなべ もりつな。わたなべのつな )について紹介したい。前後するが 1600 年の関ヶ原の戦いの際、現地で西軍豊臣方が崩れ始める形でそれぞれ国許( くにもと )に逃げ帰るように撤収すると、東軍徳川方の検視軍( 徳川家の有力家臣や、または徳川家康から信任を得ていた目付役たちが同行 )が順番にそれら西軍方( と見なされた諸氏たち )の居城・領地の接収に回るが、この時の渡辺了の姿勢が大評判を得ることになった話を紹介する。西軍側の諸氏たちは意気消沈している所が多かったため、検視勢からの立ち退( の )き命令に渋々応じて開け渡すことが多く、反抗も一部あったが大抵は簡単に鎮圧・接収することができた。しかし増田長盛 ました ながもり。豊臣政権の政務吏僚筆頭 )の居城であった郡山城( こおりやま。奈良県大和郡山市 )はそういう訳にはいかなかった。郡山城も敗報を受けて動揺はしたが、徳川方の検視勢が郡山城にも接収に向かった際に、増田長盛の留守を預かっていた渡辺了は「自身の主君は増田様であり、その指令でなければ城を開け渡すつもりなどない!」とそれを突っぱね、動揺していた城内の部下たちに、ひとりでも道連れといわんばかりの戦死覚悟の戦意を煽ったため、郡山城の部下たちもすっかりやる気を出す形の応戦体制の事態となってしまった。渡辺了の勇名は広く知られていて、本気を出された中で攻め落とそうとすれば検視勢も相当の被害が出ることも解り切っていたため、検視勢はなんとか立ち退いてもらおうと説得するも、渡辺了は一切聞く耳をもたなかった。西軍か東軍かを巡る関ヶ原の戦いは既に決している中で、基本的には接収に回る役目を務めればよかった検視勢としても、戦死覚悟の渡辺了とわざわざ戦いたくなかったのである。検視勢は困り果て、この事態を内府( ないふ。徳川家康のこと )に報告した。一方で、郡山城を渡辺了に任せて大坂城に出向いていた増田長盛は、関ヶ原での敗報を受けて徳川方にやむなく従うことになったが、郡山城がそのような状況になっていることは知らされていなかった。徳川家康は増田長盛に、郡山城の渡辺了のことを説得するよう要請する。増田長盛も驚きつつ、渡辺了に応戦体制を解( と )き、徳川方の検視勢に従うよう急いで書状を送った。それを受け取った渡辺了は、それが増田長盛の直筆の特徴の花王( 印のようなサイン )入りの開城指令であることを律儀に確認した上で、城の開け渡しが早々に行われた。検視勢としても損害は出すことなく無事、郡山城( 大和の政局 )を接収することができた。渡辺了は増田家からの家禄を失う形の浪人になるも、このやりとりは上級士分たちから庶民に渡ってまで大評判となった。渡辺了が利害度外視の命懸けで、主人である増田長盛に対し最後まで敬意を示そうと、筋を通そうと、義理を果たそうとしたこと、そして指令の書状が届き次第、規律を以って和平的に検視軍に城を譲った姿勢は一躍評判となった。だから渡辺了は諸大名たちから注目され、こぞって「ぜひ我が家の重臣として招きたい」良い意味での渡辺了の奪い合いが起きるほどの人気ぶりとなった。これは渡辺了が普段から、武門のこだわりの気骨を大事にしていたからこそできた芸当だったといえる。立場や規模の大小こそ違えど、渡辺了のようなこうした、利害度外視に主従信用を重視する( 誰に、どこに加担すれば得できるかしか考えない、勝ち組か負け組かしか考えてない、良い思いができるかどうかや横取りされたうんぬんばかりに気を取られるような、気骨・気概を大事にしようとしない姿勢を嫌う )者というのは少なからず居て、ここで話を戻して佐々成政も、このような性分がかなり強かったひとりだったのである。羽柴秀吉も前田利家も、佐々成政が利害度外視行動に出たそうした性分自体は、かつての織田政権の同僚時代から十分理解していた所になる。さらに徳川家康としても、家中にそうした生真面目な家臣も少なくなかった( 特に三河出身筋が、気骨・気概を大事にしていた者が多かった )からこそ、佐々成政が浜松まで直談判にやってきた際に、そういう所ももちろん見ていたのである。羽柴秀吉が天下総無事を早々に進めるために( 織田信長の名義に対する旧廃策的な次期絶対家長の強調のために )、鬼謀家らしく心を鬼に旧主の織田家の格下げに動いたことは、下士官以下の下々は上同士で何が起きているのかよく解らなくても、旧有力寄騎たちはそこは解っていて、本能寺の変もなぜ起きたのも大方解っていた、だからこそやむなく羽柴秀吉に従っていたのである。佐々成政としても、羽柴秀吉がそうしなければならない立場だったこと自体の理解はできていた。しかし羽柴秀吉が、まだ若かった織田信雄を策謀的に叱責しながら追い込む一方の陰湿ぶりを、皆が羽柴秀吉を恐れて擁護しようとせず、その時に織田信雄をかばおうと動いた( から小牧長久手の戦いに発展した )のは徳川家康( 天正壬午の乱の事情も絡んでいたため動きやすかった )と一部の律義者たち( 岩崎丹羽氏や山岡景友ら )だけと少なかった。皆が見て見ぬふりをしようとしたことに佐々成政は我慢ならなくなり、羽柴秀吉に対して反抗的な態度に出たのである。神保氏張が止めても佐々成政が聞かないことくらい見るまでもなく解り切っていたこと、神保氏張は目先の利害次第で動くような人物などではないことも解っていたからこそ、佐々成政の反抗劇の件で神保氏張は、連座的な厳しい叱責は受けることはなかったのである。その反抗劇自体、権威欲や栄誉欲などから始まったものではなかったからこそ羽柴秀吉としても、過酷な処置はしなかったのである。佐々成政だけがそうだった訳ではないが、織田政権から豊臣政権に切り替えなければならない際に、どうしても乗り出さなければならない旧廃策に直面し、その一本気の性分が出てしまった。佐々成政が前田利家に対してなぜ怒っているのかも、前田利家としてもそれ自体はよく解っていたからこその少々残酷な反抗劇だったとすらいってよい。佐々成政と渡辺了とで結果がだいぶ違ってしまったのは、渡辺了の場合は地方領主( 武家の棟梁が定める管区 )の代表家長( 近世大名・等族諸侯 )の立場ではなく、そこに所属して家禄を得ていた家臣の立場からの忠節の示し方だったからになる。地方管区の代表家長の立場( 近世大名・等族諸侯の立場 )なら、関ヶ原の戦いのように今後の中央( 次期政権・次の武家の棟梁 )のあり方について等の、具体的な候補者を巡っての前近代的な評議名義性・選任議決性を巡っての軍事行動( 支持戦 )でなければならない。それ自体は清州会議と賤ヶ岳の戦いを経ていったんはっきりしたはずで、そのこじれの小牧長久手の戦いも終結したはずにも拘わらず、和解と撤収に動こうとせずに軍事行動を長引かせようとしていた佐々成政の立場の重みにはだいぶまずさがあった。羽柴秀吉としてはここで、佐々成政に対する徹底的な悪人扱いの過酷な厳罰というものをやろうと思えばできたが、もしそれに動けば、内心は佐々成政と同じ気持ちだったのを我慢していた、生真面目な者たちが多かった旧織田家臣たちをいたずら逆なでしかねなかった、それでは豊臣政権の新設に向けての統制にも大きく響くことになる難しい配慮( 上同士の社会心理 )もあったと見てよい。1585 年の越中制圧( 佐々氏制圧 )後の羽柴秀吉は、同 1585 年に紀伊の戦国仏教勢力の制圧を、続いて西側優先に四国の長宗我部( ちょうそかべ )氏制圧、そして九州の島津氏制圧を 1587 年までに果たすという、中央の敷居への地方への具体的な仕置き・再統一はこれからとはいえ驚異的な速さの西側の天下総無事戦を実現する。戦上手であった佐々成政は、その戦いで羽柴秀吉から一軍を預かる形で目立った武功を挙げていたこともあり、九州制圧後( 島津氏の抑え込み。西側の天下総無事戦後 )の早々に佐々成政は、羽柴秀吉から肥後( ひご。熊本県 )1ヶ国の統治を任されることになり、神保氏張もその重臣として同行することになった。佐々成政は大名に返り咲いたかのように思われるも束の間、佐々成政は肥後赴任1年足らずで、肥後統治において旧国衆らの一揆を長引かせたとし、その不始末の責任を豊臣秀吉から厳しく問われて切腹させられてしまう。ここは誤解されがちだが、このやり口自体、東側の天下総無事戦での、木村吉清 きむら よしきよ。丹波衆出身で明智光秀の寄騎だったが、本能寺の変の際の、明智勢と羽柴勢の対決の山崎合戦の時に早めに降参。以後羽柴秀吉から優遇気味な直臣扱いがされる。明智光秀の丹波支配時代では政局の丹波亀山城の城代を務めていて、家格は暫定3000石ほどと思われ織田政権時代としては下々から見れば大身の重臣扱い。羽柴秀吉は明智勢に加勢した一部には厳しかった一方で、道義上で渋々従っていた者たちに対しては厳しさをゆるめる処置で済ませていた )に、大雑把な暫定30万石の旧葛西領・旧大崎領を赴任させ、豊臣政権による新敷居( 後期型兵農分離と産業法・賦課改定の街道整備 への反感分子たちをあぶり出すために木村吉清にわざと煽らせ一揆を起こさせ、一気に踏み潰すその鬼謀家的な手口と全く同じと見てよい。木村吉清はいったん改易されるも表向きで、豊臣秀吉が信任していた蒲生氏郷に配属させ、蒲生氏郷が90万石もの巨大な大名の公認を得るに至ると木村吉清は、大領化が著しく忙しかった蒲生領の内の5万石を一時的に預かる立場となる。のち豊臣秀吉に呼び戻され、再び直臣扱いの正式な1万4000石の小大名家格を得るという、豊臣家から見て譜代ではない割にはかなり優遇気味な扱いを受けた。中央( 畿内 )と地方とでの、下々にはすぐに理解するのも難しかった新敷居旧敷居に差がありすぎた深刻・残酷な課題を豊臣政権が早めに解決( 仕置き・再統一・刀狩り )できたのは、やり方は少し手荒いが、佐々成政や木村吉清らが汚れ役を買って出たことも大きかったのである。下々はよく解らなくても前田利家や徳川家康らは、豊臣秀吉の鬼謀家的なやり方に緘口令的に黙っていただけで、そのくらいは当然理解できていたのである。佐々成政と木村吉清とでなぜこんなに扱いに差が出てしまったのかは、一本気だった佐々成政の場合はそもそも越中支配時代に切腹するつもりでいた、佐々家はとうに改易されたような状況だったのを先延ばしされた立場だった所にある。つまり佐々成政の肥後赴任と切腹自体、豊臣秀吉と内々で計画されていたものだった( 一本気な佐々成政らしい、天下総無事を早める手助けをするための、越中での寛大な計らいへの恩返しの切腹だった )という見方すらしてもよい。天下総無事令( 日本再統一 )を最優先するためにやむなく心を鬼にすることも多かった豊臣秀吉の、こうした鬼謀家的な部分は織田信長よりも強烈で、下々はその意味はよく解らなくても上同士では解っていた、だから豊臣秀吉のその器量( ワシは右府どののように寛大ではないぞ! 天下総無事令に逆らったらどんな手を使ってでも容赦せんぞ! といいつつ下々と若者たちにはかなり寛大だった。うふ は織田信長のこと )を恐れたのである。そうしたややこしい事情の佐々成政に、不満のひとつも漏らすこともなく従ってきた( あなた様のせいで自身の栄転に響いてしまったではないか! などといった態度は一切出さずに真摯に受け止め補佐し続けてきた )神保氏張は、肥後で佐々家が改易されるとその家禄を失う浪人となるも、そういう所をしっかり評価していた徳川家康がしばらくして優遇に招くことになる。徳川家中から見れば神保家は全く縁のない新参もいい所だった中で、譜代家臣並みの2000石もの優遇もいい所の旗本待遇で神保氏張を迎えることになった。豊臣秀吉から特に奉公構い( ほうこうかまい。士分復帰の禁止 )も出されなかったことからも、ここも内々での斡旋や計画もあったと見てよい。これは豊臣秀吉が神保氏張のことを直臣扱いの旗本に1000石ほどで引き取ろうとしたのを、徳川家康が願ったやりとりがあったのかも知れない。三河の半農半士出身から始まったような、元の地位が低かった大勢の最古参たちから見て200石の待遇を受けられれば( 関ヶ原の戦い前での200石の待遇は、江戸中期の300石~400石ほどの家格と見てよい )下々の間では大出世だった世界で、また高家( こうけ。元名族の家系たちに対する救済処置 )格で600石も受けられれば皆に羨ましがられる待遇だった中、新参で2000石ともなれば本来は憤慨する者が続出する事態になるはずだが、神保家は名門だったこと、また神保氏張は一目置かれていたから家中も渋々認めたことが窺える。また、佐々家改易で家禄を失った親類や従者たちの方も次々と斡旋を受ける形で、諸氏たちから招かれることになった。中には、小大名扱いとなるも家名存続できた織田家に仕官できた佐々一族もいた事情をよく理解できていた有力者内では、佐々家出身者たちは義侠のような家風が定着することになったため、隠れた人気があったようでそれぞれちょっとした特別扱いがされていたようである。水戸黄門で有名な助さん格さんの、助さんは、水戸徳川家に仕えることになった佐々家出身の家臣が元になっているといわれる。教訓話を多く指摘したい所だったが字数制限で今回はここまでとする。神保氏張を当事者軸で見渡していくことでも、どのように江戸時代に向かっていったのかの特徴が多く窺えるのである。

 

 九鬼嘉隆 くき よしたか

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ