近世日本の身分制社会(138/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか66/??  本能寺の変の全体像12/? 2024/05/29

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~11」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 ※ 本能寺の変の全体像11 で先述

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 長氏は、鎌倉政権時代( 朝廷政治・聖属社会中心 から 武家政治・世俗社会中心 への移行時代 )に力をもっていた長谷部氏 はせべ。有力な公家・廷臣から武士団化した筋。物部出身といわれる。もののべ )の分家筋で、この長谷部氏も河野一族( 筆者は今まで間違えて説明してきてしまったが本家筋の読みはカワノのようである。コウノと混成で呼ばれてきたことで錯誤があったようである。こちらも由来は物部家から武士団化した説が強い )や小笠原源氏一族( 武田源氏とは兄弟筋 )のように各地に広く点在していた家系のひとつになる。旧有力たちの没落が顕著となる戦国後期までに長谷部一族も目立たなくなるが、そんな中でもこの能登の長氏が地方の有力者として顕在だった。能登・越中( のと。えっちゅう。石川県北部の能登半島と富山県 )は戦国後期への移行期には、名君と名高い畠山義総 はたけやま よしふさ )の時代に、長期ではないものの優れた再統一 議会改革 )を見せたため注目された。畠山義総時代には農商工の奨励の都市開発も進められ、財を築きながら近隣の騒乱も調停で収めるほど、管領( かんれい。室町体制時代は大手の支配者として管領・探題制、それに次ぐ四職・守護制が敷かれた。かつては細川家、斯波家、畠山家が室町体制における管領格として特に力をもっていた )としての畠山家の格式権威を回復させたといえるほどのその治世ぶりは全国的に驚かれた。しかしその支柱であった畠山義総が 1545 年に亡くなって以降の能登・越中は、荒れる一方に衰退の一途に向かうようになる。次代の畠山義続 はたけやま よしつぐ )が継承した際に、先代体制でうまくいっていたからと、その権威体制中心に流用・転用的に続けてしまったことが仇( あだ )となり、5年ももたず = 戦国後期・国内地政学的総力戦体制時代への移行期、つまり前近代的な評議名義性・選任議決性にしていくための絶対家長制による敷居見直し期における代表家長の継承は、前時代と方針が同じ部分でも絶対家長を強調する仕切り直しのための名義変更的な旧廃策をいったん敷かなければならない。そのための前時代権限のいったんの次代家長への返上による再統一をしていない、先代体制のままのただの流用・転用のやり過ごしは致命的な足枷禍根となる = 前近代的な強力な中央絶対家長権といえる新政権の体制固めに至っていない中での流用・転用任せは ”今後の危機管理に対応していかなければならない現当事者代表の名義・議事録処理” よりも ”当時はそれで良かったに過ぎない時代遅れの老害懐古故人名義” を重く置き始める原因となる = 旧態権威序列に世の中の正しさとやらをただ求め続けるのみの挑発をし合うのみの低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いよる偽善憎悪・低次元化の乱立のたらい回しの合いの原因となる = 順述していくがだからこそ、次への人事敷居再統制・地方議会改革をしなければならないことにどこよりも危機感をもてていたのが織田信秀・織田信長親子。のち中規模勢力がこの親子に10年遅れる形で「今頃になって」慌てて織田氏の背中を追いかけ始めた有様だった )、長氏を含める能登・越中の国衆( 有力家臣 )たちの派閥闘争を抑えることができなくなっていった。かつて畠山義総が睨みを効かせる形で派閥闘争( 加賀一向勢、越後上杉勢の外部を巻き込む能登・越中介入 )をやめさせることができていたものが全て再燃する一方、荒れ果てる一方となる。次代の畠山義続が無能うんぬんはともかくとし、先代( 今までの業績 )があまりにも良過ぎたからこそやってしまいがちな典型例だったといえる。ここについては畠山義続だけがそうだった訳ではない、今川義元にしても、武田信玄・武田勝頼親子にしても大小共通している部分になる。旧家訓( 旧社訓・旧上下統制 への是正更新体制( 敷居改革前提の議会体制。前近代的な議事録処理的体制 = 次世代国家構想の敷居の手本の示し合い )の取り組みをケンカ腰に徹底的に面倒がり合い、目先の利害次第にただ人をねじ伏せ従わせるのみ 上としての手本の作り合いをうやむやにただ下を作り合うのみ )の低次元な偶像権力( 偽善憎悪 )を転用・流用し続ける( = 自分たちで弊害と限界を作り合い低次元化させ合う低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いをケンカ腰に繰り返すことしか能がない )その悪循環 国際地政学観・前近代等族国家議会的な品性規律に至っていない、情報処理力戦の時点で低次元化させ合う視野・敷居しかもち合わせていない、猿芝居劇場の中の偽善憎悪の挑発をたらし回し合うことしか能がない地方裁判権止まりども = 荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論で傾国・衰退の原因だと強調されている指摘部分 )こそが、そこを最も克服していった織田氏と大差ができてしまった部分になる。能登・越中は、畠山義総時代の治世が際立って注目されたからこそ、畠山義続以降の急速な凋落 ちょうらく。かつての力量や良い所や特徴などの価値や求心力的・手本的な効力などが全く見られなくなってしまうこと。衰退感や過去のもの感などに対する表現として史学上でよく使われる ぶりの様子もその分だけ目立つことになった。1553 年頃までは存命していた尾張の織田信秀も、そのようなあまりにも極端だった能登畠山氏のを見渡すことになったひとりだったからこそ、次代の織田信長に内々で、そこへの危機感をもたせていたのもまず間違いない。旧畿内のまとまりの無さもそうだが、畠山義総から畠山義続に代替わりしてから目立ったあまりのグダグダぶりは、同時代人であり支配者同士の立場でもある織田信秀がそこを痛感的に意識、明日は我々の身の教訓として、次代の織田信長に対して

 

 「能登畠山家の二の舞にならないためにも、遠慮無用に尾張再統一に早々に乗り出すように」

 

と内々で言い聞かせていたのも間違いないと見てよい。織田信長の家訓改め( 次世代構想の準備要領。継承式典代わりの尾張再統一 )の初動要領は織田信秀が用意してくれていた可能性すら大きい。しかし何にしても織田信秀時代から次に向けてどのような進め方をしなければならないのか、なぜそうしなければならないのかを織田信長本人も危機感をもって、自身で改良努力を重ねることを決して面倒がらなかったことは間違いない所になる。能登の代表格の管領畠山体制下の長氏はどのような立場であったのか、のちこの長氏が織田氏とどのような関係となるのかを紹介していきたいが、当時の地政学観( 全体像・社会心理 )も理解できなければならない。尾張の管領斯波家とその有力家臣の織田家 と 能登の管領畠山家とその有力家臣の温井家、長家ら ぬくい ちょう  とで比較しながら能登の情勢を説明していきたい。まず尾張では、地方家長権( 上級武士たちから下級武士体までの継承権・優先権も含める人事統制権 )は、衰退する一方であった尾張の管領斯波家( しば )に代わって、その有力家臣であった織田家がそれを代行し始める形で尾張を実質支配するようになったように、能登・越中の管領の畠山家もまさにその流れが始まる。当初の最有力家臣であった温井総貞( ぬくい ふささだ。畠山義総時代に特に権限を任されていたため、当時の執権的な立場が根強く残り続けていた )が管領畠山家の抑え込みに動き、温井家が能登主導に成りかける流れとなる。こうした流れ自体はあちこちで時流的に起きており、越前朝倉氏も元は越前の管領斯波氏の有力家臣で、衰退した斯波氏( しば )に代わって( 追い出し同然で )越前を実質支配するようになった筋になる。近江北東も、衰退した京極家を追い出し同然に浅井氏が実質支配、美濃にしても元々の四職・守護層( ししき・しゅご。旧室町体制での管領に次ぐ旧管区権威 )の土岐源氏一族に代わってその有力家臣筋の斎藤氏の家来筋から輩出・急浮上するようになった斎藤道三が支配代行、といったようにこれ自体( 代表格の家系を巡る地方再統一的・地方代表選挙戦的な交代劇自体 )もはや異変に入らない。美濃の斎藤道三の台頭、能登の温井総貞の台頭しかけ 失敗する 、尾張の織田信秀の台頭期は戦国後期のまさに突入期 まとめられそうな者が代わって代表を務めなければならない。よそに遅れを取らないようにするための前近代的な評議名義性・選任議決性で地方を総力戦体制・地政学的領域戦体制でまとめなければならない )になる。今まで何度も指摘してきたこととして戦国後期 = 国内地政学的領域戦といえる総力戦体制・軍兵站体制・人事敷居改革に対応・身分再統制できなければならなくなってきた深刻さが上同士で少しは自覚されるようになった時期 )と戦国前期 = 老朽化・低次元化する一方だった旧室町権威序列のただのたらい回し合いが延々と続けられてきた、非地政学的なだらしない末期症状 の違いがろくに区別され来ずに、戦国前期の方の下剋上の印象のみ取り沙汰するばかりで上の間で何が起きていたのか( の危機感 )の地政学観の説明がろくにされて来ずに大いに誤認され続けてきた重要な部分になる。話を戻し、畠山義続が継承してから5年後の能登・越中は、旧管領畠山体質による結束の乱れ具合に有力家臣( 国衆。くにしゅう )たちも不満をもち始める形で、温井家が能登の主導になり始める( 支持が向き始める )流れとなった。その動きに慌てた畠山義続( 能登・越中の元々の代表格の地位をおびやかされ始めた )は、反温井派を煽る形で畠山派で再結束させようとする巻き返しに動き、温井総貞( ぬくい ふささだ )の謀殺の成功を皮切りに、畠山主導派( 旧管領権威派 温井主導派( 旧管領体質との決別派 かを巡る騒動( 1555 年。弘治の戦い。良い悪いはともかくの地方選挙的な戦い )に持ち込み、この時は畠山義続が勝利する形で政敵( 温井派と見なした有力者たち )の力を削減することにとりあえず成功する。畠山義続は有力家臣の力を削減できたことで、能登の代表格としての権威を強化できたしたものの、これは議会改革( 人事敷居改革・地方再統一 とはいえない、敷居の見直しのための絶対家長( 上同士 )の手本中心による前近代的な人事統制( 街道整備や軍兵站体制のための身分再統制 )の見通しなどではない、健全な旧廃策などはおろか旧態の正しさ通りであり続けるための威力任せの恐怖政治に近いものだった。この時点で、能登衆でかつて第二の実力者であった遊佐氏 ゆさ )は、温井氏との派閥闘争というよりも、能登の有力者たちのまとめ役( 筆頭の座 )を巡る力量争いで既に力は削がれていたため、温井失脚後は第三の長氏 ちょう )が、能登畠山家中における最有力の立場となり、国衆の力が削がれた中での旧管領畠山体制との折衝役の最後の希望( 表向きの筆頭家老 となる。旧管領畠山体質に内心の不満をもち続けた国衆たちももう後もないからこそ、失策次第に不満分子( 反旧態体質派 )たちが危機感をもって次は長氏を旗頭に再結束しかねない状況だった。そのため畠山義続とその取り巻きたちは長氏を第二の温井家だと政敵視しながら、後はこの長氏さえ抑え込めば能登に煙( けむ )たい存在がいよいよいなくなると潰す機会を窺うばかりだった。このように旧管領体質を改めようとしない畠山義続は、能登衆たちとの主従関係の結束を図れる訳もないまま険悪化していく一方に合計20年近くダラダラ過ごされてしまったことが致命的となった。能登がまとまり( 地方再統一・地方議会改革 )を見せられないでいた間、加賀一向勢( 浄土真宗の軍閥勢力の別当 越後上杉勢による能登・越中介入にろくに対策( 地方議会再統一・人事敷居改革 できずに、能登・越中の各国衆たちはその外圧にただ振り回されながら利害次第の謀略で乱れ崩れる劣勢に向かう一方に深刻化する。旧管領権威に従わせることにこだわり続けておきながら、時流の絶対家長を強調してただ国衆の力を削減するのみの、本人は良い所取りをしているつもりなだけのただ見苦しいだけの旧新の矛盾( 退廃感 )が目立った畠山義続に対し、能登衆たちも失策続き( 低次元・失格 と見なし始めて改めて不満を募らせる一方となった。すなわち戦国後期( 国内地政学的領域戦・総力戦体制の人事敷居改革 )の突入期に対応できていないことに能登衆もいい加減に危機感のあせりを感じるようになった。そこで長続連( ちょう つぐつら。本項の長連龍の父 )を始めとする能登衆たちと、旧管領権威を強引に維持し続けるばかりで外圧に何ら対策できていない畠山義続とその取り巻きたちとの今一度の本格的な対立( 能登・越中再統一の流れ が、かつての温井運動が思い起こされる形で再び再燃したのである。これまでの能登主従の険悪化の経緯をここでもう少し詳しく整理しておきたい。まず畠山義総が亡くなったことで畠山義続が 1545 年に家督継承をしてからは、先代権威をただたらい回すのみで近隣に遅れを取るばかりに結束も低下する一方となり、そこに不満を募( つの )らせるようになった国衆たち( 畠山家中 )が 1551 年に畠山義続に引退を勧告する事態となる。その時の畠山義続は、子の畠山義綱( はたけやま よしつな に代を譲る形を採らされることになるが、しかし畠山義綱はこの時点で12~18歳ほどだったと思われ、だから畠山義続はその後見人であることを理由に実権( 統制権 )はとりあえず維持し続けることになった。しかし畠山義続は次代のための次の体制準備をしながら移行させていくという本来の後見人らしい役目など果たさず、それをよそに後見人であることを理由にただ実権を握り続けて現役当主をただ振るい続け、結局何も変わらなかったため、畠山家( とその取り巻きたち )と畠山家中( 能登の国衆たち。各地の有力者たち )との関係も 1555 年にはいよいよ険悪化した。危機感をもつようになった畠山家中としてもまとまりなど怪しい中でも、その最有力の温井氏を支持し始める動きを見せるようになったため、立場が危うくなった畠山義続は絶対家長制の時流を強調しながら温井家潰しに踏み込むことになった。長氏よりもだいぶ力をもっていた温井氏の力を削ぐことができたことで、ただの恐怖政治に近いような険悪な畠山義続体制がここからさらに10年近くダラダラ続けられてしまい、いい加減にモタモタやっている場合ではなくなっていた 1566 年頃にはようやく能登衆たちも以前よりも危機感をもつ再結束を図るようになる。温井家支持の国衆運動( 主導の交代運動 )の第1次主従対決の失敗( 評議名義的・選任議決的な結束不足 )の教訓が今度こそ活かされる形で、長続連が自身が能登の主導・旗頭だと立候補する形で第2次主従対決に乗り出される( 畠山義続とその取り巻きたちと対決・決別する形の能登再統一に乗り出される )ことになったのである。長続連が畠山義慶 はたけやま よしのり。畠山義続の孫 )を擁立指名する形( 畠山義慶の祖父である畠山義続、またはその父である畠山義綱が畠山義慶を継承者として正式に指名するのではなく、長続連が畠山家を管理する側、すなわち能登・越中全体の人事統制権・継承家長権を具体的に掌握しようとすることを意味する擁立指名に乗り出す。織田家と斯波家とで逆転した家長権関係もそうだった )で、畠山義続派を煽る騒動 1566 年の永禄九年の政変 )を起こし、畠山義続の不評・不人気ぶりを露呈させる = 長続連が能登主導になった方がまだよいと、そちらに一定の支持が集まった実態が明るみになる 形でとうとう能登・越中追放 長続連が畠山義慶の後見を預かる形で、畠山義続・畠山義綱親子とその旧態一派をまとめて国外追放 に追いやることに成功、つまり旧管領畠山体質( 畠山義続とその取り巻き立ち との決別・脱却をようやく達成する。しかし 1566 年の段階でやっとそこに漕ぎつけた能登・越中は、他とあまりにも遅れを取り過ぎてしまった深刻さも意味していた。能登・越中で旧態管領体制がダラダラと続けられてしまった間 身分再統制・地方再統一・前近代議会改革による組織再編の再結束が進まなかった間 )、先を越された加賀勢( 浄土真宗の別当の軍閥 )と越後勢( 上杉謙信 )の二強からの外圧介入を受け続け、ろくな対策がされてこなかった( 目先の利害次第が野放しにされ続けてきた )ことで、その影響を受け過ぎた国衆たちの再結束ももはや難解に散々荒らされ果てていた。強豪たちと10年近く大きく出遅れて課題が山積みだった中、これから組織再編・再結束しなければならない立場であった長続連の内心は、深刻な悲壮感しかなかったといってよい。しかしそれでも能登・越中における最後の再出発機会といえる 1566 年に長続連がどうにかそこ( 旧管領権威との決別 )に漕ぎつけたという既成事実が作れただけでも、それすらできずに強豪に次々に消滅させられていった地方だらけだったことを考えればそれでもだいぶマシな方だったともいえる。ここからの能登は畠山義慶( 1566 年時点で12歳 )を長続連が後見するという形の新生畠山体制が名義上は強調されるが、実質は長氏体制になる。史学的には 1566 年以降の能登も ”能登 = 畠山氏” と単純な説明が続けられ、構造面が何も変わっていないかのような説明が続けられがちであるため、実態を重視する筆者がここでは 1566 年以降は ”能登 = 長氏体制” を強調する説明をしていく。ようやく長氏主導という形に切り替えて( 地方再統一らしい動きを見せ始めて 良い意味で慌て始めた能登衆が何をどうあせっていたのか、そしてそれを特に越後上杉勢がどう見るようになったのか( 中途半端ながらも結束のしぶとさを見せるようになる長続連の構造改革の動きを煙たく見るようになった )について、ここでいったん地政学観で対象的であった尾張( 管領斯波氏とその有力家臣の織田氏 )の経緯と能登( 管領畠山氏とその有力家臣の温井氏・長氏 )とで比較しておきたい。まず、戦国後期の突入期に向かっていた 1540 年代の能登では、長期ではないものの畠山義総が近隣をまとめるための管領権威を再確認させる形で一定のまとまりを見せるようになった一方、尾張では織田家の分家筋・家来筋である織田信秀が台頭する形で、衰退が著しかった尾張の旧管領権威にしつこく介入し続ける今川権威( 尾張衆の結束を乱すよそ者権威 )の追い出しを始め、これら動向が対象的だったからこそ双方は目立ち、共に全国的に注目された。今川家が「尾張は元々は武衛斯波家が支配者( 地方総家長 )のはずで、その一門・親類である今川家が斯波権威回復に加勢する」と、今川家( 駿河・遠江・三河半国の大手の代表格 )が尾張斯波家の名義借りをする形で織田信秀潰しに乗り出す。尾張にたびたび介入・侵入していた今川勢は、尾張をまとめた( 再統一に乗り出し、尾張の統制権を握っていた織田家の本家筋たちを抑え込み始めた )織田信秀に撃退されたどころか、半分は今川領扱いされるようになっていた三河に対し、織田信秀が逆襲的にその三河( 今川領 )に乗り込む流れ、つまり大手気取りの今川勢が攻め手だったのが、尾張でのまとまりを見せるようになった織田勢が今川勢を攻める側に逆転させた( だけでなく、美濃の土岐氏の衰退を機に織田信秀は美濃攻略まで力を入れ始めたため、まとまりもなく潰されかけた美濃衆たちも慌てて、有力筋から輩出された斎藤道三をいったん選任する形で結束を図り、なんとか追い返すことに成功する )、だから織田信秀は驚かれたのである。今川家は尾張介入どころか尾張織田勢の三河介入に手を焼くようになったという、この戦国後期の地政学観( の初動の手本ともいうべき織田信秀の存在感 ではっきりしていることとして、能登畠山勢も本来は、能登・越中に再び介入してくるようになった加賀一向勢と越後上杉勢の追い出し( 能登・越中再統一による結束 = 前近代的総力戦体制化 = 国内地政学的領域戦体制化 )をさっさと始め、逆に能登・越中勢( 畠山・神保勢 )が近隣の加賀、越後、飛騨に介入あるいは睨みを効かす前提( 和解・健全化・敷居確認ができている側の合格・高次元/失格・低次元の危機管理というものをこちらが思い知らせる手本側/そこをこちらが教える手本側の前提 = 民選議員設立建白以来の現代人としての近代議会的な品性規律の本来の姿 = 現代における低次元化させ合わないための人としての本来の最低限の国際人道観・異環境観 = 荀子主義の根幹である体現体礼論 = そこを徹底的にケンカ腰に面倒がり合うための時代遅れの偽善憎悪・顔芸大会のたらい回し合いでうやむやに低次元化させ合うことしか能がない老害人生観しかもち合わせていない、自分たちのその愚かさだらしなさへの深刻さも自分たちでもてたこともない、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような上から順番に整理・裁かれて当然の法賊ども )くらいもてなければならなかったのである。出遅れ感も著しい中でも能登もようやく地方議会改革の推進らしい長氏体制を見せるようになった 1566 年といえば、織田氏では美濃攻略の大局が見え始め、その3年後の 1569 年には織田氏は尾張勢( のち最古参筋 )と美濃勢( のちの準古参筋 )をさっそく率いて( 合併アレルギーなど起きる様子もなく = 他ではとてもできそうにもない別格な議会改革的な官民再分離・身分再統制・家長権再統制が、織田氏ではこの時点で既にできていた状態で )旧畿内( 南近江と山城 )に乗り込み、さっそく下々の産業法改めの 山城( 京 )- 南近江の街道筋 - 美濃 を結ぶ街道の整備( 官民再分離。閉鎖有徳取り締まり。非公認の士分武装運動の禁止。橋の新設も含める街道の経済・文化交流をただふさいでいるだけの、各地域に乱立し続けていた旧態労役や旧態徴税の閉鎖上下象徴でしかない要塞・関所の破却・解体 )に熱心に取り組まれていた頃になる。危機感をもつようになった能登衆から見た尾張の織田氏というのは、1560 年の時点で織田信長が織田信秀時代の敷居からのさらなる尾張再統一( 人事敷居向上 を進め、その様子を受けて大事なことを思いだしたかのように慌ててその妨害に挑んできた今川義元に猛反撃を喰らわせ( 桶狭間の戦い )、1566 年の段階で着実な美濃・伊勢攻略を進めることもできていたその様子を( 互いに )意識していない訳がないのである。この尾張斯波・織田家と能登畠山・長家の顕著な対象比較は、第三者である各地方の上層たちから見ても内心は気まずい所も多く、直接の利害と関係ない明言も避けられがちだから、下々から見ると上同士で何が起きていたのか( そういう所を地方の上層たちはどう見ていたのか )も解りにくいだけで、上同士ではこの上なく解りやすいその象徴的な対象構図には、どの地方の上層たちも注目せざるを得ない関心事だったのである。ここで、能登で 1566 年に新たな畠山体制の実質の主導役となった長続連の立場の視点に戻る。これまで越中東部の支配権固めをしながら能登介入も繰り返してきた上杉謙信は、今まで北関東を巡る北条氏との領域戦、信濃北部を巡る武田氏との領域戦にかなり忙しかったこともあり、その合間に進めていたに過ぎない越中・能登経略( けいりゃく。軍事作戦や政治外交戦略などで、目的先に対する領域拡張を進めること )の注力の仕方でもそれなりに優勢に進めることはできていた。しかし 1566 年からは長続連が能登衆を懸命にまとめ始めたため( 以前のような低次元体制ではなくなっていったため )、上杉氏としてもその分だけ今まで通りのやり方をしている訳にもいかなくなる( 今まで低次元だった能登の様子も長氏体制で変わり始めたからこそ、上杉氏からみた越中・能登経略の位置付けというのが、今までのように北信濃経略・武田対策北関東経略・北条対策の合間の余行であるかのように、軽々しい位置付けであるかのように思わせる訳にいかなくなる )ことを意味した。上杉謙信からすれば、互いに均衡を破ることができないまま著しい負荷をかけ合う関係がダラダラ続くようになった武田氏対策や北条氏対策と同じくらい、長氏対策にも重みを置かなければならなくなる負荷がかかることを意味したのである。同じく西側から越中・能登介入に乗り出していた加賀一向勢( 浄土真宗の軍閥 )としても、今までは主に越後上杉勢との草刈り場( 越中と能登 )の領域権勢争いをしていればよかったのも、勢力らしい力を取り戻し始めた能登の長氏体制の動きにも警戒しなけば、支障が出始める情勢となる。規模は大したことはなくても能登の長氏体制が顕著になり始めたことは大きく、越中・能登の覇権争いは改めて3すくみ間( 長氏と一向一揆と上杉氏 )に仕切り直される形で本格化・激化する( 今までのようによそ者が越中・能登でやりたい放題に争うことをできなくする流れを長氏が作る )ようになる。長氏体制になってから今まで通りのやり方が通用しなくなってきた加賀一向勢も越後上杉勢は、今度は長続連にその対立を介入され返される( 情報戦・調略戦的な焚きつけ工作をされる 形で、越中の介入権威を巡るこの2者間( 加賀一向勢と越後上杉勢 )闘争も激化していき、この両者間が争っている隙を長続連が窺う どちらかが弱った隙に、乱され続けてきた能登・越中衆に、長氏体制に鞍替え・かえり忠させる呼びかけ工作に動く )という構図も顕著となる。そうした巻き返しが起きたことで、加賀一向勢も越後上杉勢も長続連潰しに乗り出すこともあったものの、軍事的にも政略的にもだいぶ優れていた方だったといえた長続連は、能登の長氏体制が簡単には崩れないしぶとさを見せつける。能登はかつて、資産にも恵まれるようになった畠山義総時代に政局権威のためにも、堅牢で規模の大きい七尾城 ななおじょう。強固で優れた名城のひとつとしてよく挙げられる )が築かれたことが長氏体制時代に大活用されることになる。それなりのまとまりを見せるようになった( 能登半国ほどはまとめ、以前よりも内部分裂が起こりにくくなっていた )からこその能登長勢は、何かあれば、最悪はこの七尾城に集結・籠城して時間稼ぎをしていればよかったのである。上杉謙信がこの長氏体制を潰そうと能登に大軍を率いるも、能登衆の結束を図られてしまった( 以前の旧畠山管領時代には通用していた目先の利害策謀は通用しなくなった )状態で、どうにも陥落させられそうにもないこの七尾城に籠城、時間稼ぎをされてしまうとどうにもならなかったのである。ここで時間稼ぎをされてしまうと越中の一向勢に隙を与えてしまうだけでなく、事あらば隙を窺い合っていた武田氏や北条氏にも好機を与えかねなかったため、上杉謙信としても長氏体制を切り崩すきっかけが掴めそうにないのであれば早めに撤退する他なかった。上杉氏、武田氏、北条氏の3強間での均衡が互いに突破できなくなっていた分だけ謀略戦も激しくなった厄介さが能登・越中にも波及、つまり上杉氏が能登・越中方面で有利になりそうになるたびに武田氏がそちらに調略戦にも手を伸ばすようになったため複雑化、能登・越中での3すくみ( 加賀一向勢と越後上杉勢と能登長勢 )の情勢は武田氏による口出しの乱入が加わったことで混迷の激しさも増すようになる。しかしかつてそこに何ら無策だった旧畠山体制から脱却した長続連が出遅れの危機感をもって懸命に巻き返しを始めた 長続連を中心人物に、越中・能登の国衆たちの再結束を図る )ようになったことは、国衆たちに自分たちの現状( 等族指導をする側・地方の手本でなければならないはずの国衆たちが、本来もてていなければならない評議名義性・選任議決性のあり方 )を再認識させていったのも間違いなく、良い意味で支持戦らしい領域争いを本格化させるようになったともいえる。長氏体制のしぶとい巻き返し運動は10年以上維持されることになり、3すくみの均衡が破れそうにもない間、長続連は外交で織田氏と連絡を取り合い、織田派として親交を深めていく。この関係は、足利義昭と織田信長の険悪関係がいよいよ激化しし始める 1572 年頃には既に始まっていたと見てよい。この頃は織田氏に対し、徳川氏以外は態度を曖昧にするか敵意を示す地方が大半だった中、格下げ覚悟で早い段階で織田派を強めた長続連( 能登半国のまとめ役が、内部分裂を起こすことなくその方針で整理することができていた )は、その分だけ織田信長からかなり良好な心証を得るようになったと見て間違いない。のち織田信長の、長氏への加勢・救出作戦と、いったんの格下げ( 織田氏の敷居と合わない地方慣習の巻き上げ )のあとの優遇的な裁定をしようとしていたことからでも間違いない所になる。織田氏との盟友関係を深めるようになった長続連の立場は丁度、織田氏の足を勢い( 偽善憎悪 )任せに引っ張り始めた旧畿内派たち( 上から順番に制裁されて当然の往生際の悪いだらしない法賊ども・次世代人事敷居議会荒らしども が弱まるまで武田勢の猛攻をなんとか持ちこたえれば良かった 1572 ~1574 年頃の徳川家康の苦難の立場と似ていたといえる。織田徳川連合で、戦国最強の定評の武田勢を派手に粉砕することになった1575 年の長篠の戦いを契機に、織田氏の柴田勝家軍団( 尾張出身勢・美濃勢・近江勢・越前勢を率いた師団 )が加賀へ、そして佐々長穐 ささ ながあき )や斎藤利治 さいとう としはる。かつての美濃の代表格の斎藤道三の子説がある親類出身 )ら尾張・美濃の有力寄騎たちが柴田軍団と連携しながら飛騨へ、しばらくして越中にもとうとう乗り込む事態になると、能登の長氏体制( 織田派 )の期待の結束も顕著に強まるようになる。( ちなみに 1575 年頃には師団長格の羽柴軍団も、西側に向けての播磨攻略に着手 ) 上杉氏の上層たちからすると、織田勢にとうとう加賀・飛騨に迫られてしまったことは、上杉氏による能登・越中再統一を果たし得ずの時間切れを意味し、その事態 長続連を潰し得ずにもちこたえられてしまいそうになった、長続連に見事にしてやられつつあった事態 )にあせるようになる。加賀一向勢が加賀侵攻の柴田勢( 織田勢 )に押されるようになった間、越後上杉勢は能登の長氏体制の切り崩しに躍起になり始める。旧畠山体制以来の越中の支配代理( 代表格代理 )の家系であった神保氏は、越中における支配力( 人事統制権 )は著しく衰退し、その名義による結束も難しかくなっていたが、そんな中でも内々で格下げ覚悟で長続連( 織田派 )と連携していた越中衆もいた。織田信長はそれら( 加賀一向勢や越後上杉勢に内々では反感的だった、内々で連絡を取り合っていた国衆たち )のことは前々から味方( 家臣候補 )と見なし、時系列が少し前後するが 1578 年にとうとう飛騨口から尾張勢・美濃勢( 織田勢 )が越中に乗り込むと、その頼もしい加勢を得た神保長住( じんぼう ながずみ )の呼びかけの越中再統一がさっそく開始される。前後するが上杉勢は、能登攻めだけに注力している訳にもいかない中でも、柴田軍団( 織田勢 )の加賀からの北上の動きにあせり、今までよりも能登への攻勢を強めるようになった。そのため 1576 年の能登は激戦化し、能登長勢の七尾城での籠城の長引きも多くなってしまったことが、長氏体制が崩れるきっかけとなってしまう。上杉勢による能登への攻勢が強められたことで七尾城の籠城も長引き、衛生管理がおいつかなくなり不衛生による疫病が蔓延。城内では疫病に苦しんで皆が弱っていき、死人を続出させながら戦意は著しく低下、もちこたえるのも難しい環境に向かってしまう。上杉勢はこの好機を逃さずに七尾城への攻勢を続け、七尾城は翌 1577 年 9 月までもちこたえるもここでとうとう限界を迎える形で陥落。積年に渡って上杉勢を手こずらせてきた長一族と長派の重役たちは、上杉氏による仕置きで2度と長氏体制で再起できなくするべくの手厳しい粛清が向けられ、能登における長派序列の徹底破壊が行われる結果となってしまった。その頃には柴田軍団( 織田勢 )がもう加賀北部まで迫っていて、もうすぐの能登入りだった中での惜しい陥落になってしまった。1577 年 7 月にはもう限界に来ていた七尾城は、長連龍 ちょう つらたつ。本項の人物。長続連の次男 )を使者に織田信長の下( もと )に向かわせ、織田信長から正式な家臣化の優遇的な典礼を急いで得る形で、長連龍はそこから慌ただしく柴田軍団に向うことになる。七尾城内の惨劇が知らされた柴田勝家、前田利家たちは、加賀の残党の警戒もしなければならないのも無理を押して、休息も惜しんで急いで七尾城救援に向かったものの、あと一歩の所で間に合わなった( どうにかもちこたえてきた長氏体制・織田派への、その徹底的な解体荒らしが断行されてしまっていた後だった )ため皆がくやしがった。長連龍もそれまで長氏体制( 父の長続連と兄の長綱連。ちょう つなつら )の一員として団結し、10年以上の苦難を父と兄と共に必死に支えてきたひとりであったために、七尾城陥落は無念この上なかった。織田信長も長一族のことは買っていたからこその、上杉氏による苛烈な敵意処置が断行されてしまったことには、柴田軍団内でも長連龍に対する内々の同情の念が強まったのも間違いない所になる。織田信長としても、柴田軍団による七尾城( 長一族と織田派たち )救援が惜しくも間に合わず、能登での上杉氏による反織田仕置き( 織田派粛清 )を許す結果となってしまった報告には、内心はかなり怒っていた( 上杉氏のやったことは織田氏の天下静謐荒らしだと見なした )と見てよい。しかしそれでも、結果的に柴田軍団の下( もと )で生き残ることになった長連龍は織田信長から、これまでの長一族の評価を代理する立場の優遇気味な家臣扱いが改めて強調される。織田信長は、族滅寸前となってしまった長家が再興できるよう、柴田勝家と前田利家に手助けするよう計画的な指示をする。長連龍は柴田軍団の重役の前田利家との交友的な同胞関係が強められながら、間もなく能登再統一で共に活躍することになる。準備のためにいったん加賀へ引き返すことになった柴田軍団( 織田勢 )が翌 1578 年、能登・越中再統一に本格化に乗り出すようになると、まず長連龍が能登に乗り込み呼びかけ運動を起こす。かつての長氏体制( 織田派 )の縁に呼応・返り忠を起こした残党たちが長連龍を旗頭に再結束を始めたため、能登の上杉派( 反織田派の国衆たち )たちがそれを潰そうと気を取られている間、前田利家勢( 織田勢 )が長連龍( 織田派 )を支援する名目で能登に乗り込み、長連龍と前田利家の連携作戦で能登の上杉派( 反織田派 )たちをあぶり出しながら各個撃破していく( 劣勢に追い込んで降参させていく )戦略が採られる。この能登平定戦では前田利家と長連龍との優れた連携作戦がかなり目立ったといわれ、織田信長も賞賛する内容( 織田信長から表立って賞賛が強調されること自体が、皆にうらやましがられる格上げの優先権が得られることを意味した )のものとなった。1578 年上杉謙信が亡くなったことで、上杉景勝( うえすぎ かげかつ。上杉謙信の義兄の長尾政景の子。姉の子 )は後継者争いから忙しく、続いて質重視の軍縮的な越後再統一( 足並みを揃えるためにダラダラと続けられてしまった旧態体質への刷新。織田氏の背中を追いかける形の家長権強化の上同士の身分再統制 )に乗り出すことを優先した( 織田氏から見れば今頃の手遅れ感が顕著であったが、上杉景勝にとってこれは結果的に英断となる )ため、先代謙信時代までこだわられてきた能登介入の後ろ詰めをしている余裕など無くなっていた。能登の上杉派( 反織田派 )たちはこれから織田氏と対峙しなければならない中で、結果的に見捨てられたも同然となってしまった、越後上杉勢の支援を受けることができないまま( 織田氏を怒らせるだけ怒らせたまま 織田氏からの強力な援軍( 主に前田利家による強力な後押し )を得て懸命な挽回戦を始めた長連龍に抵抗できなくなっていく形で、長らく熾烈な分裂均衡が続いた能登も 1580 年についに戦国終焉( 織田氏の天下静謐 )的な平定( 能登の内乱収束のための能登再統一 )に向かうことになる。前田利家は本来は師団長格の柴田勝家と同列に扱われてもよいほどの人物であったが、あえて羽柴秀吉( 師団長格 )の支え役に回ることになった浅野長政と同じく、前田利家もあえてその役回りに徹することで、上同士の議席の譲り合いの手本を支えた貴重なひとりになる。柴田勝家の優れた相談役として柴田軍団( の越前北部や加賀再統一 )を力強く支えてきた前田利家は、任せられれば織田信長の敷居( 高次元な意向 による地方再統一などはお手のもの( できて当たり前。やって当たり前 であったことが、この能登再統一を任されることになった際に改めて立証されることになったといえる。越後上杉勢の後ろ詰めが無くなったからとはいえ、織田信長の意向をよく理解していた前田利家との作戦・統治計画( 能登再統一 )に、内部分裂で乱れることもなくその敷居にしっかり合わせることができていた長連龍( それなりの評議名義性・選任議決性でまとまることができていた、かつての長氏体制たち は、それもできないにも拘わらず郡や郷の代表家長をケンカ腰に気取ろうとする、上から順番に一斉に格下げ( 官民再分離 )されて当然のだらしない地方だらけだったことと比べれば十分優れていた方だったといえるのである。前田利家が後押しする主導の、長引いた能登の乱世の収束となったその後の能登の和解的な統治1580 年から始まる。織田氏では最低限の敷居に過ぎない、同じく下々の面倒見がかなり良かった前田利家による能登の新施政が始まると、下々には仁政に写って驚かれたのも間違いない。のち上杉勢が能登奪還に動くこともあったものの軽く追い返され、1582 年には能登紛争は2度と再燃させない統治( 前田利家が代行する織田氏の敷居の身分再統制・人事敷居改革と街道整備 が行き渡るようになった。前田利家は織田信長から能登の支配代理を正式辞令を受けると、長氏はかつての能登の代理主導権威は失うものの、前田家中の筆頭の重臣格の特別扱いとして優遇され、前田家と長家との良好な、主従の手本的な信用関係が維持されることになった。のち前田家が加賀100万石の巨大な大名に昇格することになった際、その筆頭重臣として政務・軍務に貢献してきた長家は、規格外もいい所だった3万石以上の家格で優遇されることになり驚かれた。織田信長の背中を遠方諸氏たちが今頃になって慌てて追いかけ始めた戦国終焉期は、集権化のために代表格にいったん旧態領地特権を返上しなければならない動きが、各地で織田氏に大いに出遅れる形で顕著になる。それが間に合っていない地方がどんどん潰れていったことが特に羽柴秀吉の天下総無事戦による時間切れ期間に顕著になるが、豊臣政権からかろうじて20万石~50万石あたりでの、条件付きの様子見の大雑把な裁定をなんとか受けることができた旧諸氏たちの筆頭家老の家格は大きくて5000石、最大でもせいぜい1万石が相場で、5000石や1万石の筆頭家老がひとり居ること自体が別格扱いの強調だった( そのような評議名義的・選任議決的な序列見直しの次世代家格主従統制ができていることを示さなければならない意味も大きかった。江戸時代の家格水準に向かい始めていた )中、前田家は豊臣政権以降の徳川家を除く地方最大手の100万石とはいえ、その家臣に3万石もの、もはや豊臣政権や徳川政権が家格裁定する単位の重臣が存在していたこと自体が規格外の特別扱いだったのである。長一族の長氏体制時代の苦難は無駄ではなかった、一目置かれる形で大いに報われたといってよい。しかし江戸時代にはかえって、藩の中に3万石の藩が存在するかのような、前田家中でも権威的にあまりにも規格外すぎた長家は、政策の行き詰まりで議論になるたびに家中の大組織であった長家による陰謀論がもち挙がることもたびたびで、家中間を険悪化させる原因になり大いに支障となった。のち前田家は長家の3万石をいったん没収して家格を再裁定する形を採り、長氏の本家は改めて5000石ほどの適正家格に改められることになる。厳密には長一族3万石という家格を仕切り直す形で、分家たちそれぞれに分割組織扱いしながら1000石単位に再分配し、長一族全体としては3万石自体は維持されたようである。つまり大きすぎた長一族を分割家格裁定し直したことで、これまでの長一族代表として前田家中であまりにも大きすぎた発言力( 票決力 )を弱める形が採られ、前田家と長家は苦労もありながらどうにか江戸末期まで迎えるに至る。戦国後期からの長家の様子を見渡すだけでも、織田政権時代がどんな時代で、どのように江戸時代に向かっていったのかが多く窺えるのである。前後するが 1578 年頃に織田信長が特に、地域家長らしい再統一に動くことなどしてこなかった、目先の利害次第に動くことしかしてこなかった見込み無し( 織田氏の天下静謐に対する反抗分子。反織田派 )と見なした能登・越中の国衆たちへの手厳しい佐和山送りを断行するようになったことを少し先述したが、内々では早い段階で織田派として連絡を取り合っていた長続連 能登の代表格代理 と神保長住 越中の代表格代理 )による、織田氏への状況報告・情報提供によって、織田氏が越中・能登に踏み込むだいぶ前には現地の経緯( どんな連中が、どういういい加減な目先の利害次第の動きばかりしていた手遅れどもなのか も筒抜けだったと見てよく、だからその制裁( 失格・低次元どもの佐和山送り の手際もやけに良かったと見てよい。能登・越中の情勢と、その多くの教訓についてももっと説明したい所だったが字数制限の都合で今回はここまでとする。

 

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 

 九鬼嘉隆 くき よしたか

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ