近世日本の身分制社会(137/書きかけ138) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか65/??  本能寺の変の全体像11/? 2024/05/20

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~10」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像07 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像08 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像09 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 ※ 本能寺の変の全体像10 で先述

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 旧中央関係者として特徴的な一団であった山岡氏のことも当事者観で見渡していけば、旧室町体制、織田政権時代、豊臣政権時代、徳川政権時代への政変( 戦国終焉・近世社会化への移行期 )の見落とされがちな当時の特徴が見えてくる手がかりとなる。山岡氏は南近江の国衆( くにしゅう。一定の地域のまとめ役 )として、武士団らしい形はとりあえず維持できていたひとりになる。便宜上( 道義上 )は南近江の代表格である六角氏の家臣扱いではあるものの、足利将軍家との主従の縁も強かったという特徴的な家系になる。本来は六角氏は、足利将軍家( 室町総家長。武家の棟梁の本家 )に協力しなければならない立場であり、六角家中からのその役目を主に担当していたのが山岡氏になる。山岡景隆は六角家の家臣であるのと同時に、足利将軍家を支える役目も請け負っていたため、幕臣の色( 足利家直属の色 )が濃かった立場といえる。山岡景隆が任されていた持ち場の勢多城( せた。滋賀県大津市瀬田。大津市南部。現代では瀬田で統一 )の位置からも、京が不穏続きの中で足利将軍家に何かあった際には、六角家からはまずはこの山岡景隆が援軍に駆け付けるための配置であることが窺える。しかし京兆細川家 けいちょう ほそかわ。室町体制時代の事実上の執権。旧畿内最有力の立場だった。細川家の本家筋は京兆家とも呼ばれた。京兆は執権と同じような意味 )も六角家 室町政権発足に足利家を支えた有力のひとつ、佐々木源氏一族の本家筋的な家系で、旧畿内でかつて京兆家に次ぐ2位3位を競う家格だった )も、自分たちの総家長のはずである足利本家に対し、支えるのではなく自分たちの権勢のための操り人形と見なし合いながら目先の利害次第でいがみ合うのもたびたびで、細川家や六角家や畠山家ら畿内の有力たちは上同士で旧態を刷新するため( 次の段階の )の強力な畿内再統一 中央議会改革 = 中央の人事敷居改革によって地方に手本を示す を巡るための争和などしてこれなかった、だから室町総家長としての威厳は失墜する一方の末期症状の戦国前期に向かうばかりとなった。地方に向けなければならない中央の室町権威は失墜する一方となり 中央家長が地方家臣たちを手本指針的に従わせる国家体制的な関係など希薄になり )、その体裁もいよいよお構い無しになり始める戦国後期 1540 年代頃。尾張では織田信秀が活躍し始めた頃 )に移行し始める( 国内地政学的な総力戦体制のための地方議会改革が顕著になり始める。それまで世俗権威側・武家側が遅々としてそれを進めず下々を苦しめ続けていたことに危機感をもつようになった浄土真宗が独自の聖属裁判権再興運動 = 反世俗権力運動・反中央聖属権力運動 の軍閥化を始めてしまい、下々をろくに救済できないまとまりのない地方を浄土真宗の裁判権下の聖属領扱いにするべく、世俗側・武家側に対する地政学的領域戦をけしかけ始めた。そのように浄土真宗に煽られる形で各地元の世俗権威もいよいよ揺らぐようになった地方の上層らもいい加減に慌て始め、ようやく地方再統一をやるようになったのが実情だった )と、危機感をもつようになった足利義晴( あしかが よしはる )、足利義輝( あしかが よしてる。次代 )親子も、足利家( 室町権威 を専横( 目先の利害次第の主導権争い )しようとするばかりの細川家や六角家に反抗しながら、将軍権威回復運動に懸命になる。利害次第で足利家と六角家( 近江の代表格 )が一致した時は山岡景隆( 六角氏の家臣であり足利将軍家の支え役でもある立場 )は、孤立無援だった足利親子を支援するべくたびたび駆け付けている。明確な協力者が皆無に等しく、できることも限られていた中でも懸命な再興運動を努力していた足利義晴、足利義輝親子にとって、山岡景隆の手勢は数少ない貴重な味方だったのである。末期症状に荒れる一方であった旧畿内の中で、家臣団らしき姿はとりあえず維持できていた朽木氏と山岡氏は、常に足利本家を支えることはできない立場ではあったものの、それでもこれらは足利親子のことを利害次第で軽々しく見捨てるということはしない有志的な姿勢( = 旧畿内の低次元な挑発に軽々しく乗せられない姿勢 )を見せていたのは間違いない。のち旧畿内に乗り込むことになる織田信長としても、朽木元綱と山岡景隆のそれまでの経緯( 利害次第ばかりで動くのではなく、孤立無援の中で努力していた足利本家を見捨てず、できるだけ支えようとしていた姿 )に心証が良かったのも間違いない。少し皮肉な話として、室町権威( 総家長の足利家の権威 )などいよいよ無視し始める形で武衛斯波家( ぶえい しば。足利親類衆。旧室町体制における尾張の元々の最高支配者。尾張の斯波家は武衛家とも呼ばれた )とその有力家臣の織田家の本家筋( 大和守の家系と伊勢守の家系。やまとのかみ。いせのかみ )の両者を抑え込んで台頭するようになった( まとまりのない尾張を戦国後期体制 = 総力戦体制 = 地政学的領域戦体制 にまとめるようになった 織田信秀 織田家の家来筋の弾正家。だんじょう。猛将と恐れられる一方で産業改革にも取り組み、織田信長の父なだけあって下々の面倒見がかなり良かった )が、中央の足利義晴の動き( 協力者が少ない中での中央での懸命な回復運動の姿 )には好意的で、尾張の経済改革( 身分再統制 )も進めていた織田信秀は多額の献金を送って、資金面でも余裕を見せつける形で足利義晴を応援していた 足利義晴、足利義輝親子の懸命な再興努力に地方の上層たちも注目し始め、資金援助で応援する動きが目立つようになる。中でも織田信秀の出資が多額だったため驚かれた )。畿内は利害次第で足利将軍家をろくに支えようとしない旧有力筋ばかりだった当時に、朽木家( 近江高島郡 )と山岡家( 近江栗太郡南部の勢多城。くりたぐん。今の滋賀県大津市南部 )は足利義晴・義輝親子に協力的だったため、織田信長もその頃からの評価をしていたと見てよいのである。織田信長の美濃攻略後の間もなくの 1568 年に、足利義昭との連盟で中央( 山城。京 )に乗り込むことになった際に、その時は近江北東部の浅井氏とは不戦調停がされたが、南近江の六角氏は織田氏の山城進出を妨害する動きに出たため、まずは南近江の六角氏攻略に乗り出されることになる。六角氏の反抗は半年ももたず、美濃口から( 岐阜県から。東側から )迫ってきた織田勢に六角領の主要地・街道筋が次々に再統一されていくことになる。織田派に組みしようとしなかった六角家臣の残党たちのいくらかが、西側の山岡景隆のもち場の勢多城に逃れてくる事態となるが、結束面でとても織田勢には対抗できそうにもないまま織田勢が栗太郡( 大津市 )の勢多城にも間もなく迫ってきた。その際に織田信長から臣従するよう勧告された山岡景隆は、自身は南近江衆( 六角家中 )ではちょっとした重役だった( 足利本家の支え役を担当していた )という体裁を律儀に通す形で、その降誘を受けずに退去・逃亡し、勢多城の手勢も甲賀郡へ離散することになった。旧六角領の主要地・街道筋( 山城と美濃を結ぶ上洛路 )を早々に確保できた織田勢はすぐさま山城( 京。帝都 )に乗り込み、京を占拠し続けていた三好派をあっという間に追い出すと、織田信長は、逃亡してしまった山岡景隆のことを気にかけてさっそく呼び戻す手配をする。山岡景隆はその要請に応じる形で織田信長の下( もと )に出頭すると、今までのそうした律儀な姿勢がむしろ信任( 公認 )を得る形で今後のことが話し合われ、もち場であった勢多城を改めてそのまま任されることになったため、離散していた山岡景隆の部下たちも勢多城に再び集まることになった。今度は、半分は織田氏の家臣の立場、半分は幕臣( 足利義昭の支え役 )という立場が律儀に続けられることになった山岡景隆は、中央奪還当初の足利義昭と織田信長の関係が良好だった頃は、何かあると足利義昭を支える援軍として駆け付けていた。しかし両者が険悪化していくと山岡景隆も気まずくなりながら、ここでとうとう織田派を選ぶことになる。これまで旧畿内の末期症状( 近代議会的な評議名義性・選任議決性といえる品性規律の手本の示し合いをケンカ腰にうやむやにし合う時代遅れの偽善憎悪序列を押し付け合い、目先の利害次第の低次元ないがみ合いを再燃・拡散させ合うことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような猿芝居劇場の挑発を繰り返すことしか能がない、低次元化させ合うことしか能がない法賊ども )が顕著だった中にあって、それに傾こうとせずに室町最後の希望の足利義輝のことをできるだけ支えようとしていた朽木元綱や山岡景隆といった律儀な有志たちに対しての足利義昭の姿勢というのが、父・兄( 足利義晴・足利義輝 )時代の義理を代行してねぎらう( 有志たちを気にかける格上げの斡旋を、協力者の織田氏と話し合うなど )ということがどうもできていなかった。目先の利害次第の甘言( おだて )と偽善憎悪の挑発にどうも弱い所があった、室町総家長の立場の継承を望んだはずであった足利義昭は、旧幕臣筋の縁の少数の貴重な有志たちに対する家格再裁定に熱心にならなければ( それで人事再統制的に奨励しなければ )ならないはずの立場( 地方に手本を示して従わせる立場である中央総家長・武家の棟梁・絶対家長でなければならないはずの立場 )だったが、そこになんだか無神経・無関心・無計画な所があった。旧幕臣筋の縁では有志だったといってよい朽木元綱も山岡景隆も、また織田信長の理解者であった細川藤孝にしても京極高佳にしても、だからこそこれらは足利義昭( 旧縁の総家長 )に対して支え甲斐( 擁護のし甲斐 )がないととうとう見限ることになった( 室町再興に熱心だった、惜しかった義輝公の時までで旧中央筋の義理は我々はもう果たしてきた。織田氏に頼って中央奪還は果たせたがそこが怪しい義昭公にはもう付き合わなくてもよいと判断した )のである。目先の利害次第任せ 低次元化させ合うことしか能がない無神経・無関心・無計画な顔色の窺わせ合い = 異環境間の敷居確認を徹底的にケンカ腰に面倒がり合い、近代議会的な評議名義性・選任議決性の品性規律の手本の示し合いをうやむやにさせ合いながら低次元な落ち度狩りで頭を下げさせ合う偽善良悪の憎悪の押し付け合い を特に嫌う性分( = 荀子主義的 )であった織田信長の方こそが、それら有志たちをよほどねぎらっていた( 公正に再評価していた )といってよかった上に、細川藤孝が有志として見込んでいた新参従者の明智光秀のことまで、織田信長は気にかけて抜擢( 身分再統制・人事敷居改革 )していた有様だったのである。戦国終焉に向かうきっかけとなった( = 16世紀の特徴の黎明期的な国際地政学観の敷居にも向き合わなければならないことも意味した )織田信長の時代を見渡す際に、現段階での道義内 当事者軸・動機的初動・個人的不都合 と、情報戦的・議会回収的な不足補強題材として今後導入されるかも知れない道義外 主体軸・本分的終点・健全構想都合 とをいったん整理すること( 和解・健全化を前提とする情報戦的・議事録処理的な構想計画・敷居確認による折り合い。その明確化・構築化 も自分たちでできたこともない/しようともしていない低次元同士( = そこをケンカ腰にうやむやに徹底的に面倒がり合うための外圧任せの偽善憎悪をたらい回し合う足並みの揃え方でねじ伏せあっているだけの目先の利害次第同士 = まず自分たちの合格・高次元/失格・低次元の情報戦的敷居の危機管理の手本の示し合いも自分たちでできたこともない、低次元化させ合うことしか能がない気の小さい偽善者の分際 が、「裏切った」などという言葉を人にうかつに軽々しく向けるべきではない = 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合いの偽善憎悪をうやむやに押し付け合う言葉や用語や外圧のケンカ腰のぶつけ合い・たらい回し合いしかしてこなかった、自分たちのその愚かさだらしなさをやめ合う/やめさせ合うための近代議会的な評議名義性・選任議決性の危機管理といえる品性規律の手本の示し合いも自分たちでできたこともないことに深刻さももてたこともない時点で、よそのことにせよ自分たちのことにせよ見落とされがちな異環境間・地政学観といえる当事者軸・痛感性主体軸・教訓性に対する認識などしようとする訳がない と念押しした上で問いかけたいが、上の立場としての今後( 次世代国家構想の手本 = 国際地政学観で危機管理する手本家長側としての前近代議会的な基準の姿勢 を巡る上・公務規律から下・民間規律までの等族指導のあり方 )に対する背信行為という面から見れば、足利義昭を見限った有志たちが足利義昭のことを裏切ったことに( 失望させた側に なるのか、それとも足利義昭が有志たちに対して裏切ったことに( 失望させた側に なるのか( どちらがそこを低次元化させようとしている側で、どちらがそこに危機感をもてている側なのか = 荀子・韓非子・孫子の兵法の組織論における議会的な基本として指摘されている部分 )、現代でも信用事故の原因( 時代遅れの低次元な認識しかできなくしていく自分たちの老害化・偽善憎悪化の原因に対しケンカ腰に面倒がり合いたらい回し合い続け、それで対処不能に信用崩壊を起こした手遅れになってから何とかしようと思ってももう遅い! = 次善的危機管理といえる議事録処理的な健全体制の手本の示し合い と 手遅れの瀬戸際になってからただ迷惑ヅラ被害者ヅラ善人ヅラし合うことしか能がないだらしない顔芸大会に励んでいるだけの猿芝居序列社会にまんまと乗せられ続けてきただけ との違いも自分たちで区別・自己等族統制できなくしていく原因 として健全前提的( 議事録処理的・名目誓願的 )な敷居確認( そこをケンカ腰に面倒がり合わせないための評議名義性・選任議決性の等族指導のあり方への向き合わせ方 )は怠ってはならないのは、現代の個人間・組織間・国際間でも同じ明日は我が身の教訓といえる。話は戻り、織田氏の次世代敷居では、旧有徳特権( 永らく改定されてこなかった旧寺社領慣習 )や旧室町官職( 旧室町序列 )も含める旧序列的領地特権はいったん織田氏に返上させる( 織田氏によって巻き上げられる )前提、そして各地域の旧士分たちの多くも官民再分離される前提、見込まれた連中だけは武家屋敷に収容( 官民再分離・再指導対象 )される前提であった中、山岡景隆( とその一族郎党たち )は織田信長から見込まれる形で呼び戻され、元の持ち場の勢多城( での家臣団統制権 を改めてそのまま任された時点で、それ自体が皆にうらやましがれる有志扱い( 合格・高次元の家格再裁定に近い仮公認 )の信任をさっそく得たことを意味していた。旧中央関係筋の縁が強い新参武士団ほど織田氏の敷居に合わせるのも難しかったはずの中でそのような扱いがされたことは貴重だったといえる。丹羽氏勝 にわ うじかつ。古参の尾張衆 )、朽木元綱 くつき もとつな。新参の近江衆。高島郡 )、蒲生賢秀 がもう かたひで。新参の近江衆。蒲生郡 )らと同じく、山岡景隆 新参の近江衆で半分は足利本家の直臣の立場。任されていたのは栗太郡南部だが甲賀郡出身 )の場合はなお本来の中央関係者の立場としてできていなければならなかった、周囲( 親類の家来筋たちや部下たち )間で自分たちの進退を認識させる結束がそれなりできていた( = 末期症状の旧畿内にウンザリしながら、部下たちにそれら目先の利害次第の低次元な偽善憎悪の挑発に乗せられるなという最低限の等族指導はできていた。だから持ち場の手勢は混乱や騒動を起こすこともなく、格下げ覚悟でさっさと織田派の次世代敷居の足並みに揃えることもできた ことが窺える。近江衆は旧高官筋・幕臣筋や廷臣たちとの縁が強かった者も多く、その中でも山岡景隆のような見込みがある有志もいた、だからこそそれら新参たちには織田信長は奨励を強調したのである。足利義昭と織田信長の対立後、山岡景隆は織田派( 次世代政権刷新派 )で一貫し、以後は主に師団長筆頭の佐久間信盛( 織田勢の主力。軍総長 )の有力寄騎として軍務・政務に協力する。主要な合戦に参戦、また治安のための留守役を任されるなどで織田信長からの信任も高まる一方となる。山岡景隆は甲賀郡出身であったことでその人脈も活かされる形で、織田氏による甲賀郡( 郡としては大きめで、南部は伊賀衆と結びつきがちで少し厄介な所もあった )の再統一を早めるための各地域の説得にも貢献した。1580 年代に入ると、貢献不足と見なされた仮公認たちへの一斉の整理( 戦力外通告 )が行われた一方で、これまでの貢献が高く評価されていた者たちに対しても、順を追っての大昇格の手配も次々と進められるようになる。細川藤孝の丹後( たんご。京都府北西 )支配代理の赴任、前田利家の能登( のと。石川県北部 )支配代理の赴任、毛利秀頼 もうり ひでより。斯波義銀の弟。しば よしかね )の伊那郡( 信濃南部の大きな郡。長野県伊那市 )の支配代理の赴任、木曽義昌の木曽郡・筑摩郡・安曇郡( きそ。ちくま。あずみ。筑摩と安曇は今の松本市。信濃中部 )の支配代理の赴任、河尻秀隆 かわじり ひでたか )の甲斐( 旧武田氏の本領州 )の支配代理の赴任、蜂屋頼隆 はちや よりたか。土岐源氏出身だが尾張再統一時代からの最古参 )の和泉( いずみ。大阪府堺市方面 )支配代理の赴任、といった有力家臣たちへの地方への人事手配( 次世代中央家長の人事統制力 )の見せ付けがとうとう始まり、全国的に驚かれる。他の戦国大名ではできそうにもないこの中央家長的( 武家の棟梁的。絶対家長的 )な人事行使( 織田氏の旗本吏僚体制を中心とする戦国終焉同然の、国際地政学観の国家構想といえる人事。のちの豊臣秀吉と徳川家康への大きな参考手本となる )は、遠方地方の上層たちの内心( その敷居を問われるのも時間の問題の連中。どの契機で格下げ覚悟で織田氏に臣従するのか、その時を迎えるにあたって家中を混乱させないようさっさと準備しなければならない連中 )はなお青ざめる一方となる。そんな最中の 1582 年に本能寺の変が起きてしまうが、近江衆出身者は軒並み優遇気味な所があった中での山岡景隆は、なお近江衆出身( 甲賀郡の土豪出身 )としての大幅な格上げの典礼を受ける対象予定だったのも間違いなかった所になる。本能寺の変を起こした明智勢が近江に乗り込んでくると、山岡景隆は明智光秀から協力要請を受けるも拒否、明智勢による近江再統一( 織田氏の旗本吏僚体制を解体して回るための近江制圧 )の妨害に回る。蒲生郡の蒲生賢秀( がもう かたひで )も同じく明智勢に反抗して手こずらせているが、特に勢多城( 大津南部 )の山岡景隆の妨害運動には明智勢は手こずることなった。これら反抗劇は明智勢にとっての支障となり、明智勢を制圧するべく畿内に引き返してきた羽柴勢を大いに有利にする手助けとなる。羽柴秀吉が本能寺の変の異変を早めに察知( 羽柴秀吉は、調略で毛利派から織田派に鞍替えすることになった、寄騎の備前宇喜多氏の親類扱いだった堺衆出身の小西行長を見込んで羽柴家中で抜擢していたことで、堺 - 播磨 - 備前 間の有利な情報網をもっていたことも大きかったと見てよい。こにし ゆきなが )し、畿内に引き返してくる( 中国地方を制圧するべく、西国最大手の毛利氏と激闘していたが停戦にもっていき、いったん姫路城に引き返す )というその動きを早めに察知できた山岡景隆は、羽柴秀吉に逐一、近江の様子を情報提供、連携する手助けをしていた。山岡景隆がこうした間諜( かんちょう。情報戦 )に強かったのは、甲賀郡の土豪出身としての縁が強かったことが窺える。甲賀( こうか )と伊賀( いが )は諜報学( 心理学的な読心術も含める )が奇妙に発達していたといわれる。伊賀の西隣に位置する大和添上郡( やまと かみそえ )柳生郷の柳生一族( やぎゅう )も、剣豪一族の印象ばかりが強いがこちらも諜報学にも精通していた( 柳生氏はそれを兵法学や政治学にも活かしていた )ことでも知られ、伊賀の気風が柳生の里まで波及していたことが窺える。時系列が前後するが、のち徳川家康は山岡一族、柳生一族これらが諜報学に強かったことに目を付けて重宝( 徳川重臣で間諜担当の伊賀流の諜報団を指揮していた服部正成と、山岡家の縁の甲賀流の者たちとを連携させる。現在の江戸城西側の半蔵門の地名は、服部半蔵正成の大きな屋敷があったことが由来。伊賀流と甲賀流は関ヶ原の戦いまでは連携できていたが、その後は合併アレルギーで少し揺れるようになる )することになる。関ヶ原の戦いでの諸氏の心理や、関ヶ原の戦い後の諸氏に、おかしな動きがないかを把握する上で大いに活用したのである。織田信長としても山岡景隆がそれを善用しようとする所があったからこそ重宝したと見て間違いない。本能寺の変の話に戻り、明智勢が、道義上の寄騎であった丹後細川勢からも大和筒井勢からも、摂津高山・中川勢からも協力要請を断られ、近江再統一に手を焼いている間に、毛利氏と停戦していったん姫路城に引き返した羽柴勢( 尾張と近江の出身者の軍団中心の、播磨衆・但馬衆・美作衆・備前衆らの再統一役・まとめ役。はりま。たじま。みまさか。びぜん。兵庫県、鳥取県、岡山県方面 )が、早々に摂津( せっつ。大阪府北部 )入りして明智勢( 丹波勢と近江坂本勢。そこから近江衆たちを追いかけまわし、人質を盗ったりして強制的に明智勢に加えようとするも、中途半端にしか加えられなかった )制圧戦の中心を強調すると、畿内西部の織田家臣たちの多くがそれに加勢、またはそれを妨害しない中立を示したため羽柴勢有利が強まる。羽柴勢が明智勢の制圧に成功すると、織田氏の上層たちの間での清州会議、次いで賤ヶ岳の戦いへと進むが、清州会議の際の分割統治の際に、近江は織田家を支援する前提を強めていた柴田勝家の統制下に置かれることになったため、山岡景隆もその一員扱いとなる。羽柴秀吉が結局、旧織田体制を解体( 畿内再統一 )するべくの賤ヶ岳の戦い( 誰が明確な中央家長・武家の棟梁なのかをはっきりさせるための中央選挙戦。本能寺の変の翌 1583 年 )に乗り出すと、道義上は柴田方 織田家を支える派 )だった近江衆の中で羽柴方に鞍替えする有力者たちもいた中、山岡景隆は律儀に柴田方を通し、柴田勢本体が羽柴勢に敗れるのを見届ける形で羽柴勢に降参した。柴田派に勝利して中央の代表が自身であることを明確化した羽柴秀吉は、旧織田家中の特に上層たちに対し、賤ヶ岳の戦い後もなお織田家の肩をもとうとする者たちにはかなり厳しい対処に乗り出す。山岡景隆も厳しめの処置を受けてもおかしくなかった中、山岡一族の今までの縁と律儀な性質は羽柴秀吉は評価し、いったん勢多城を没収・解体の格下げをした上で山岡景宗 やまおか かげむね。山岡景隆の次代 )を豊臣政権の公務吏僚として信任する形( のちほどの格上げの優先権を与える形 )の特別扱いの抜擢をしている。ただし山岡一族の中には内心は織田家への旧縁を重視していた者も多く、1584 年に小牧長久手の戦い( 羽柴秀吉が織田信雄を抑え込もうとし、その次は織田派寄りだった徳川家のことも、天正壬午の乱の停戦に動こうとしないことも含めて格下げで抑え込もうとしていた件も見越された戦い )に発展した際には、山岡景友 やまおか かげとも。山岡景隆の弟だが15歳ほど離れていた )が旧縁の部下たちを率いて織田信雄・徳川家康連合側( おだ のぶかつ )に加勢する事態となる。旧織田派にはかなり厳しさを強めていた羽柴秀吉だったが、この時も山岡景宗には責任を問われることは無かった。( 旧勢多城の山岡家の武士団は解体処分となったはずだった中で、かつてのその一員であった叔父の山岡景友が旧縁の者たちを率いて織田家に加勢してしまったことは、本来は羽柴秀吉による後期型兵農分離・身分再統制の絶対家長権への反逆行為になる。そこが本格的に強められるのは、皇室から豊臣姓を下賜されてそれを強調し始めるもう少し後で、この時点では山岡家は大目に見られることになった ) 小牧長久手の戦いで羽柴方が手痛い打撃を受ける( 羽柴方の将として任されていた有力の池田恒興と森長可が討ち取られてしまう。いけだ つねおき。もり ながよし )と、羽柴秀吉はその戦いを強行せずに停戦に動き、織田信雄への説得・調略に成功する( 結局、織田信雄が豊臣政権の家臣になることを呑む。織田信雄の家臣化に成功したことで、それまで「織田氏から筑摩郡・安曇郡の支配権の公認を得たから」と深志城奪還をあきらめずに徳川家や上杉家と天正壬午の乱の険悪関係をダラダラと続けていた木曽義昌をまずは天下総無事令で停戦・臣従させる手始めにも活用された )形で小牧長久手の戦いを終結させる。終結後は、その戦いで羽柴方に手痛い打撃を与える手助けをした岩崎丹羽氏のことも羽柴秀吉は権威任せな仕返しなどはせずに和解的に少し優遇気味に再評価・保証し、また既に格下げ扱いされた山岡一族( 参戦した連中 )のことも特に叱責はしなかった。羽柴派に鞍替えする者も多かった中で、織田家のことを見捨てずに小牧長久手の戦いに律儀に駆け付けた山岡一族は、この時の徳川家康との同胞的な縁をきっかけに懇意になり、分家筋の山岡景以 山岡景宗の弟。やまおか かげもち )が買われる形で少し優遇扱いの徳川家臣として迎えられる。少し特殊な家柄であった山岡家( かつては旧幕臣の立場が強く、織田信長にも好意をもたれていたことで中央の事情に詳しく、また甲賀衆が得意としていた諜報関係との縁ももっていた家系だった )のことは徳川家康としても、それまでの律儀な経緯は好意的に見ていたのも間違いなく、のち関ヶ原の戦いとその戦後処理でも重きを成す現場の目付的( 現場監査官的 )な重役を山岡景以は任されていることからも、かなりの信任を得ていたことが窺える。徳川家康との信用関係によって山岡景以は、先代の山岡景隆時代よりもさらに家格を得る( 御家人扱い。徳川家の信任ある近しい優遇家臣扱い )ことになるも、継承の届け出がモタついてしまった( よくあることだった )ことで藩主格( 地方領主格 )は失ってしまう。しかし山岡家は3000石という準譜代の旗本扱いとして、しばらくしてすぐに9000石と再裁定され、ほとんど譜代藩主同然の、譜代大名候補の特別扱いを得る形で江戸時代を迎えることになる。徳川政権への移行期は、外様大名たち( 主に関ヶ原の戦いの前と以後で分けられた、関ヶ原で徳川派となった譜代ではない外様筋と、その前から徳川家との主従の縁が強かった譜代筋、とでざっと区別された )の大手の封地の石高( こくだか )の大きさばかりに気を取られがちだが、徳川家の直臣( じきしん )として重要な役を任されたことがあるという略歴が重みになってくる準譜代扱い( 三河・遠江時代の最古参ではないものの、徳川政権樹立までの譜代扱い )たちというのは、石高だけでは家格が計測しにくい所が見落とされがちになる。外様( とざま。新参扱い )大名たちは所詮は外様( 簡単には譜代扱いはされないからこそ、大きめの封地を得ていて余力があった所では、幕府が計画する普請の負担を進んで請け負うことで準譜代と同格扱いしてもらおうとする外様大名も少なくなかった であり、権威的な役職を任せられて重きを成していた準譜代たちに敵( かな )わない所がどうしてもある。譜代出身の藩主つまり譜代大名( 好例が井伊家の彦根藩 )のように、江戸時代では外様大名たちが勝手なことを始めないよう徳川権威側として睨みを効かす譜代側と、それに睨まれないように気を付けなければならない外様側とで家格には雲泥の差があった。この部分は織田政権時代の「地方の預かり地の管理人に過ぎない立場たち / 移封辞令次第にさっさと転任しなければならない立場たち」を、中央視点で健全に監視・状況回収で連携する公務機能を実現するための等族指導ができていた、室町では結局克服できなかったその人事敷居改革の旗本吏僚体制の手本が江戸幕府発足の際に大いに参考にされた部分になる。織田時代から豊臣時代にかけての山岡家の家格はおよそ1万石ということになっているが、戦国終焉期( 織田政権時代 )の郡司・郡代( またはそれに次ぐ、いくつかの郷はまとめていた半郡ほどの立場 )の表向きの家格はだいたい3000~1万石で、家臣団長( 師団長を支える寄騎たち )としての支配力( 管轄範囲 )は家格1万石なら3~5万石ほどを束ねる小大名並みの等族諸侯扱いと見てよい。1573 年頃、近江北東部の旧浅井領のおよそ2郡の広めの地域を中央管区地扱いとして、羽柴秀吉が改めて任されることになった際、当時暫定的に始まった、他の戦国大名たちではとてもできそうにもなかった貫高制( かんだかせい。予算手配制 )から石高制( 室町では克服できなかった、低次元な公私混同化を防止・克服するための預かり地制・代官制・吏僚赴任的な意味が強く、のちの豊臣秀吉と徳川家康への大きな手本となった )への移行の強調として、羽柴秀吉本人の管区長官としての暫定家格1万石役分権限( 統括 )としてはおよそ2郡 江戸中期換算で合わせて7万~8万石はあったと見てよい )を 1574 ~ 1575 年頃に正式に任されることになったが、これは家格預かり地の権限は別扱い・分離するという、室町で克服できなかった教訓が工夫された( 低次元ないがみ合いは2度と繰り返させない )織田信長の前近代議会的な優れたやり方が窺える所になる。1570 年代後半( 1575 - 1579 )には織田氏のこうした手本的な次世代中央家長的な人事( 戦国終焉の流れを思わせる中央議会的な人事 )が全国的に驚かれるようになった( 次世代人事統制を地方に見せつけていた。この敷居にさっさと合わせられそうにもない地方の上層らは表向きは強がっていただけで、内心は青ざめていた )中、軍務面・政務面いずれも羽柴秀吉ほど優れた活躍はさすがにできていた訳ではない尾張南部の仮公認の寄騎格の水野信元が、江戸中期換算で5~6万石ほどはあったと見られる水野領を背景に、その明確な師団長格・近江管区長格の羽柴秀吉と同格であるかのような、織田信長から正式に公認を得ていた訳でもない勝手な家格強調をやめようとしなかった。水野信元は盟友の徳川家康の叔父にあたるから、織田信長もそれまでは大目に見ていたが、ここでとうとう痺れを切らす形で 1576 年に水野家は前近代議会荒らし( 次世代身分制議会荒らしと見なされる法賊行為 = 低次元化分子と見なされる法賊行為 = 中央総家長への反逆と見なされる法賊行為 と見なされる形で水野信元は粛清、水野領の巻き上げに至ってしまった。郡はどうにかまとめることはできていた水野家のような小大名的な立場を、よその戦国大名がそれを制圧しようとして手を焼きがちな有様だった中、織田氏ではやろうと思えばいつでも改易( かいえき。領地特権の没収。中央の武家屋敷への強制送還 )できるだけの、他の戦国大名たちにはとてもできそうにもなかったのちの江戸時代の大きな参考手本となる次世代人事といえる政権議会体制( 旗本吏僚体制・武家屋敷収容体制 )が、織田氏では 1575 年の時点ですっかり確立されていた( = その準備要領が大前提の高次元な国際地政学的組織構想だった )のである。この頃の暫定家格1万石は、豊臣政権時代でもまだまだこれからの度量衡改め( どりょうこう 基本的には天秤などの計測器のことだが、次世代経済的な測量法や検地の基準改定などの概念を指す場合もある )を進めなければならない最中だった中での、貫高制がまだ根強く石高制の数字はまだまだ大雑把だった時代のもの( 世俗社会化の再出発として発足したはずの室町時代に、惣国一揆・半農半士闘争・閉鎖有徳闘争も抑えられなくなり、そこを整備するどころではなかった。織田政権時代からようやくその整備にも乗り出されることになった。悪銭の押し付け合いの撰銭悪習差別の経済弊害も深刻になっていた中で、室町大経済期以降から全く進められなかった度量衡整備をやっと始めてくれるようになった織田家に、大津衆と堺市衆が協力的だったのも当然の話だった。えりぜに )であることが留意( りゅうい )されなければならない。近江での織田政権らしい管区体制( 中央手本的人事行政体制 )がいよいよ顕著になり始めた頃の、石高制( 次世代人事敷居 )に向けた強調初期の暫定家格1万石の意味は、その額面の精度そのものが大事だったのではなく、万を超える単位の明確な家格裁定の人事統制ができている中央と、万どころか1000石単位の領地管理の移管収容的な家格制定ごときで低次元にひがみ合い、それしきのことで今にも派閥分裂騒動で揺らぎそうな、だからこそ格下げ覚悟でさっさと織田氏に臣従しなければならないだらしない地方の家長気取りども 国際地政学観・前近代議会の人事敷居構想に至っていない、その本分的終点の公務吏僚体制的な認識による組織再編でまとめることなどできていない、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものようにその最低限の認識も自分たちでしようともしてこなかったどころかそこを徹底的にケンカ腰に面倒がり合いうやむやに低次元化させ合うことしかしてこなかったにも拘わらず、身の程知らずにも人事敷居の合格・高次元/失格・低次元を危機管理する側をケンカ腰に振る舞いたがろうとする、上から順番に格下げされて当然の地方裁判権止まりの上層ども )との違いを恫喝する意味が強い。織田氏では 1570 年代後半( 1575 - 1579 )には、その羽柴家中での浅野長政や羽柴秀長ら中心人物たちだけでない、それを顕著に支える増田長盛 ました ながもり。のち豊臣政権の政務吏僚側の首座・筆頭 )ら新参の役職持ちたちにまで、つまり織田氏から見た陪臣たち( ばいしん。重臣たちの部下たち。家来の家来たち )にまで300石の家格裁定を強調するようになったのも、これもまずは格下げ覚悟でさっさと織田氏に臣従しようとしない地方へその準備をさっさと始める( 織田氏の天下静謐の名目の公認無き地方同士の勝手な領域戦は停戦し、格下げ覚悟で織田氏の上洛要請に応じる )よう催促する( 恫喝する )ことをまずは意味していたのも、それもできていないからこその地方の上層たちも内心ではそこは解り切っていたのである。これも300石という額面が大事だったのではなく、1575 ~ 1579 年の時点で、早くも陪臣たちにまで領地管理的な家格裁定( 次世代人事敷居改革。前近代的な中央の地方管理体制。江戸時代の大きな手本となった体制 )が織田氏では始まっていることの強調であり、これらもいずれは1000石単位、万石単位の各地方行政の領域管理の重役候補( 有志扱いの優先権 )だという予定( 織田家ではその準備要領まで既にできている )の強調を意味していたのである。織田政権時代から堺衆や大津衆たちと度量衡改めのことで連携しながら、官民再分離( 街道整備 )の一環として検地( けんち。各地域の産業価値と、それに見合った賦役や税収と地方行政のための金庫管理の度合いを調査 )も始まっていたが、この時点ではまだまだ社会実験の意味が強かった。本来はされなければならなかったことが遅々としてされてこなかった室町末期を分岐点に織田政権時代にようやく行われ始めた、だから今までと違う時代になってきていることに下々も動揺はするも、上の間で何が起きているのかを理解するのも難しい中でも少なくとも庶民政治重視の世直し的な動きになっていることだけは、下々も段々と理解するようになったことだけは間違いない。そこに参画する側の上の立場としてその大切さがよく理解できていた羽柴秀吉も、本能寺の変後の政敵排撃の一方で、堺衆や大津衆たちと引き続き連携しながら度量衡整備を進めていった所になる。管区長としての近江長浜城主の羽柴秀吉の初歩の暫定家格の1万石の強調時点の実質は、江戸中期換算で見れば譜代大名としての8万石~12万石ほどで、これは20万石や30万石でも所詮は外様扱いだった連中から見ればうらやましがられる別格扱い( 外様たちに睨みを効かす側 )と同等と見てよい。間もなく羽柴秀吉が播磨再統一を任される形で苦戦しつつも進め、播磨攻略後は姫路城から備前を調略しながら近隣の攻略をするようになった頃の羽柴秀吉は、江戸中期換算では50万石以上のもはや御三家並みの強力な親藩権威になる。そして備前の宇喜多勢を傘下の寄騎として従わせ、尾張出身古参勢、近江長浜勢、播磨勢、但馬勢、美作勢らを率いながら毛利氏攻略を務めるようになった羽柴秀吉は、100万石でも200万石でも代行役( 高次元な国家構想の手本役 )を任せられる、まさに相手がどれだけ大手であろうが格下扱いの戦国大名たちを踏み潰す側の今まで見たことも聞いたこともない別格な大師団長の立場になる。その近江の管区長( 譜代。外様・寄騎たちを従える側 )扱いの立場と同列である佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀らの第一歩の暫定家格1万石の意味と、仮公認扱いの寄騎( 師団長の支え役の旅団長 )たち、つまり所詮は外様扱い( 譜代の配属に従わなければならない寄騎たち )の郡司・郡代らの暫定家格1万石とでは別格な違いがあり、こうした家格裁定( 上同士の譜代・準譜代・外様の人事敷居改革 )が、のちの豊臣政権と徳川政権に向けての大きな参考手本となるのである。ここで山岡景隆の話に戻り、朽木元綱もそうだが織田時代から豊臣時代にかけておよそ1万石前後の暫定家格裁定を受けていた者たちというのは、1580 年代に入ってまもなく行われた一斉整理の失脚劇を免( まぬが )れることが分岐点となるが、織田信長の心証が良かった山岡一族は、近江衆出身であることも含めて準譜代候補に入っていたと見てよい。賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は、柴田方には表向き厳しさを向けなければならないために、武士団としての山岡家をいったん解体し失脚させるが、改めて次代の山岡景宗を直臣( 譜代候補 )強調の1000石の旗本扱いに優遇的に救済したことは、山岡家のことはいずれ万石単位の家格に戻す予定でいたと見てよい。羽柴秀吉は、讃岐半国10万石と裁定した( 深志城を強制退去、国替えさせた )小笠原貞慶をやむなく失脚させることになった際にも、その次代の小笠原秀政をやはり優遇気味な直臣( 譜代候補 )強調の旗本扱いに採用し、こちらもいずれは万石単位の家格に戻す予定でいた。小笠原貞慶の項で説明するが、小笠原秀政の場合は徳川家康が人材として希望したため、豊臣秀吉が「小笠原秀政はいずれ、大身家格に再帰させるつもりでいるため渡せない」といったんは断ったが徳川家康が「それも必ずこちらで手配しますゆえ」と熱心に望んだため、石川数正を利用する少し強引気味な小笠原家の調略の仕方で天正壬午の乱を終結させたことを少しは気にしていた豊臣秀吉としても、縁を大事にしていた徳川家康の律儀な望みに応じて、小笠原秀政の徳川家臣化を公認( のちこの次代の小笠原忠真が準譜代大名扱いの大きめの藩主となる。のちの宮本武蔵の仕官先。準譜代の小笠原忠真と大藩の細川忠利は良好関係だったことで宮本武蔵は斡旋を受ける形で大藩の細川家に優遇的に招かれることになる。細川忠利の相談役として惚れこまれた宮本武蔵は、家伝的な書を是非残すようにと勧められ、有名な五輪の書の作成に着手されるきっかけとなる )することになった。このように織田時代から豊臣時代にかけて、家格的に重きが置かれたことがある経歴をもつ家系は、品性規律面での不義や不祥事( 前近代的な評議名義性・選任議決性に目先の利害次第に軽々しく偽善憎悪を向け合い壊し合う低次元化 がなければ徳川家康はそこを面倒がらずに、先の織田信長と豊臣秀吉のそうした良例を徳川家康も見習う形で、良い意味で細かく家格裁定( 合格の裁定の手本を示さなければならない、上同士の身分統制を意識 )しようとする傾向があったのである。山岡家は少し特殊な旧態筋出身として、一時は格下げがあってもその存在感が消滅することはなく、外様ではなく徳川家の準譜代入り( 重臣扱い )として1万石前後の家格を改めて見込まれたことは、山岡家は十分優秀だったといえる。最後は皆にうらやましがられるような待遇に至ったため、その律儀な家風が結果的には報われた形で江戸時代を迎えることができたといってよい。

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 

 九鬼嘉隆 くき よしたか

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ