近世日本の身分制社会(136/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

本能寺の変とはなんだったのか64/??  本能寺の変の全体像10/? 2024/05/03

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~09」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 ※ 本能寺の変の全体像9 で先述

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 ※ 本能寺の変の全体像9 で先述


 朽木元綱 くつき もとつな

 朽木氏は元は室町将軍家の奉公衆( ほうこうしゅう。足利将軍家を護衛する側近・重役の家系。準旗本組織 )のひとつになる。この朽木氏も、旧室地体制における近江( 滋賀県 )支配の代表の佐々木源氏一族で、六角氏や京極氏に次ぐ家格であったが、室町体制の衰退と共に佐々木源氏一族のかつての権威も衰退に向かう。しかし足利将軍家の直轄地と荘園公領( 中央の寺社と経済を支える領地特権 )の激しい奪い合い荒らし合いが続いた中でも朽木氏は、自領の高島郡 滋賀県高島市。大津市から北側。琵琶湖西側 )の郡司( ぐんじ。ぐんし。郡の代表格。信濃南西の木曽郡をまとめていた木曽義昌、尾張南部の池鯉鮒郡付近をまとめていた水野信元、若狭の高浜郡をまとめていた逸見昌経らと似たような立場 )の立場はどうにか維持し得えた中で、織田政権時代を迎えることになる。この朽木氏の動向をひと通り見渡すだけでも、当時の転換期の室町末期の様子や、織田信長が近江衆たちをどのように見ていたのかが多く窺える。朽木元綱がまだ2歳児の時に朽木家当主の父、朽木晴綱 くつき はるつな )が戦死してしまったが、老臣たち家来筋たちが勝手な権力争いで乱れるということはないまま高島郡をなんとか団結させることができていたこと、そして織田信長の畿内の乗り込み時にも朽木家中は混乱することなく、格下げ覚悟で早めに織田氏に臣従できていたことは、織田信長の心証をだいぶ良くしていた。朽木氏もかつて、高島郡の代表格を巡ってその本家筋の高島氏と選挙的な再統一が行われ、朽木氏が代わって郡の主導となったという経緯が健全に活きていたといえる。1568 年冬に織田氏による畿内の乗り込みが始まり、それからしばらくの 1570 年、若狭介入の織田勢の乗り込みも始まると、それまで若狭に介入してきた越前朝倉氏がその妨害に動く形で織田氏とで険悪化したため、織田氏は越前朝倉氏攻めにも乗り出すことになった。この時に、織田氏とも朝倉氏ともそれまでは不戦関係で居た近江北東の浅井氏が、その対立をきっかけに朝倉氏の肩を持ち、朝倉勢と対峙していた織田勢を浅井氏が退路を断ちつつ( 背後を襲いつつ )挟撃しようとする軍事行動に出たため、織田勢は早々に撤退しなければ危険な場面となった。そんな中、若狭( 福井県西部の若狭湾側 )と山城( やましろ。京 )の往来を結ぶ高島郡の朽木氏はこの時に、朝倉・浅井連合からの反織田運動の呼びかけには応じずに織田派で一貫する。もしこの時に朽木氏が、朝倉・浅井連合に呼応し、若狭に向かった織田勢の退路を断つ封鎖運動を始めたら織田勢は危機的状況であったが、朽木氏はその誘いに乗らなかった。この頃までの北近江での間柄というのは、およそ3つほどの郡を維持していた浅井氏( 京極氏の有力家臣だったが、京極氏を追い出して代わって旧京極領の代表格となる )が、1つの郡の自領をどうにか維持してきた朽木氏( 近江の支配者側だったはずの佐々木源氏一族 )に対して格下扱いする力関係と化し、浅井氏( 京極家を追い出した側 )と朽木氏( 近江の支配者側の京極家と同族 )の関係はそもそも良好ではなかった。浅井勢の動きに朽木元綱は織田勢を高島郡に早々に手引きし、安全に撤退させるための退路を確保・案内したため、朝倉・浅井勢は織田勢に大打撃を与える好機を逃すことになった。朽木谷越え くつきだにごえ )と呼ばれるこの時の織田勢の撤退戦では、配下の木下秀吉勢と、織田氏の加勢に来ていた三河徳川勢のこのふたつが進んで殿( しんがり。撤退の際に敵が背後を追って損害を与えようとする動きを阻止する役。場合によっては捨て石の戦死覚悟を名乗り出る意気込みがなければ務まらない。これで戦死してしまった家系の兄弟や次代ら親族は優先権が得られる場合も多かった )を名乗り出て大活躍したため、織田勢は大きな損害を出すことなく無事撤退できたが、仮公認の間もない朽木氏もその手助けをしていたのである。朽木谷越えがあった 1570 年は朽木元綱は21歳、それから30年後に迎える 1600 年の関ヶ原の戦いでは51歳、享年84歳で 1632 年で亡くなったことから、旧高官筋としては珍しく自領の高島郡を維持し続けつつ 室町解体 → 織田政権解体 → 豊臣政権解体 1600 年に豊臣家は主導力を失い、1615 年の大坂夏の陣で豊臣家改易  → 徳川政権の幕藩体制 という政変続きの( 特に上同士の、諸大名たちの家格が二転三転した )荒波を一代でひと通り見てきた、不祥事を起こすこともなく中央の様子をずっと見守ってきた貴重な存在だった。朽木家は中央の事情に歴史的に詳しい家系だったからこそ、のちに豊臣秀吉からも少し特別扱いされ、のち徳川家康からも重宝されることになる。織田信長が畿内に乗り込んだ以後にしても以前にしても、常に荒れがちだった旧畿内( 旧室町体制時代 )の高官筋( とそれを横領するようになったその家来筋者たち )の多くは名跡のみで、実権( 領地特権・統制権・家長権 )は大半は失地・失脚していった中、京からは近めの高島郡を維持し続けることができていた朽木家の特殊ぶりは、足利義晴、足利義輝の存命期でもその特徴が見られる。荒れがちだった旧畿内において、どうにかまとまりを見せていた特異だった朽木領の高島郡は、失脚した中央の有力筋たちにとっての駆け込み寺のような亡命地・和解の場として機能するようになり、京に乗り込んできた三好派たちと衝突することになった足利義輝も一時期、高島郡に亡命している。この役目は本来は朝廷( の廷臣たち。聖属議会 )と公的教義( 比叡山延暦寺・天台宗 )が請け負わなければならかったはずだが、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと全く同じように、両者とも前近代的な国際地政学観を壊し合う教義権力( 低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合い )の悪用( たらい回し合う押し付け合い )を繰り返しながら、ケンカ腰に人事差別( 低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合い、通りでなければ怒り狂い合う偽善憎悪の押し付け合い )し続ける( 低次元化させ合う )ことしか能がない末法の世( 伏魔殿 )と化し、ろくでもなかった。そんな中で旧畿内で繰り返される低次元な政争( 猿芝居劇場 )の挑発( 偽善憎悪 に乗せられることなく奇跡的に中立性を保つことができていた朽木氏の高島郡の方が、その受け入れ体制を実質肩代わりするようになっていた、だからそちらへの駆け込み者も顕著になっていったのである。そういう所で旧朝廷( 旧中央聖属議会 )と公的教義( 比叡山延暦寺・天台宗の本拠地 )に対して織田信長の心証を最悪にしていたのは間違いない一方で、それと真逆にその役目を肩代わりするようになっていた朽木家の品性規律は、内々では有志扱いに高く買われたと見て間違いないのである。戦国後期( 地政学的領域戦の総力戦体制・議会改革・身分再統制がいかに良質に構築できるのかが競われた時代 )になっても、信濃の木曽郡の木曽義昌や、若狭の高浜郡の逸見昌経といった、郡はとりあえずまとめることができていたこれら郡司・郡代格( 郡の代表格 )というのは、織田氏ほど次世代改革( 身分再統制。官民再分離。旗本吏僚体制 )などできていなかったよそ者の戦国大名( 他の地方の代表格 )たちがそれを解体・再統一しようとしても、それは簡単ではなかった。郡はとりあえずまとめることはできていた郡司・郡代格たちの動員力はせいぜい1500~3000程度だが、それに対してよその地方の戦国大名が1万以上を動員して制圧しようとしても織田氏以外では簡単ではなかったことは、越前朝倉氏が若狭攻略に動くたびに、逸見昌経( へんみ まさつね。若狭武田一族。若狭西部の高浜郡の代表格 )にたびたび抵抗されて若狭支配は遅々として進まなかったこと、また信濃攻略に乗り出した甲斐武田氏も同じく、木曽郡はまとめることはできていた木曽義昌は制圧するのも大変だから、懐柔策で済ますことなったことでもあきらかになる。1560 年桶狭間の戦いもこの性質は類似し、織田信長による尾張再統一で尾張は頑強( 強国化的・地政学的 )な身分再統制( 結束・地方議会改革 )が果たされつつあった様子に、遠江・駿河でそれが間に合っていなかった今川義元( かつて織田氏と対立し、格上を気取っていた側 )が慌ててそれを壊しに尾張に乗り出して大敗、やはり簡単には攻略できなかったその構図( 表向きの大きさや人任せの有利不利だけで軽々しくケンカ腰に挑んだ所で、争点・当事者性支柱・主体性のまとまりが欠落している側が崩れていく流れ = 自分たちのはき違えを自分たちで改善していくことができない低次元側が結局は、そのいい加減な化けの皮が見苦しく剥がれながら崩れていく流れ = その危機管理ができていない低次元側は、その危機管理ができている高次元側からいとも簡単に弱点を突かれてしまう関係になっていく = 挑む前に指導体制面・準備要領面で勝敗の大局が決している状態を目指すほど上策だと指摘しているのが、荀子・韓非子・孫子の組織論 )も共通する。政敵の関係となった足利義輝に高島郡に駆け込まれてしまった三好長慶( 三好氏の当主。みよし ながよし。ちょうけい。畿内最大の権力者であった細川家の有力家臣だったが、畿内の細川権威が衰退すると細川派の排撃に乗り出し、権勢を一時的に築くようになる )の見せかけの勢いは、この時点での旧畿内というのは、郡もまとめることもどこも大半はできていなかった( 低次元化が著しかった = 畿内でありながら地方に対し、郡単位の再統一の手本ですら示すこともできなくなっていた )からこそ、勢い任せに一時的に占拠できたに過ぎず、しかし足利義輝の駆け込み先の朽木氏の高島郡はそうではなかった 旧畿内ほど低次元ではなかった )、だから攻略する( 駆け込んだ足利義輝を引き渡せ、と従わせる )ことは簡単ではない、だから結局手出しできなかったのである。三好氏も大した身分再統制などできていない( 前期型兵農分離、軍兵站体制、産業法改めといった中央改革の理念など無かった )中で、もし高島郡攻略に乗り出してそれに手を焼く形で追い返されるようなことにでもなれば、その勢い任せの権威も急落することになる上に、畿内最後の中立の和解の場となっていた朽木領を破壊してしまうことになる気まずさもあった。1571 年頃に足利義昭と織田信長との険悪化にともなって反織田派たちの反織田運動が強まった際、それには組みしなかった有志たちから見ればそれが長続きする訳がないことくらい解り切っていたのもそういう所( 郡単位もまとめることもできない低次元同士。政変の権勢次第の外圧頼みにうちのめし合い従わせ合っていただけの正規武士団気取りども なのである。郡はどうにかまとめることはできていた郡司・郡代たちよりも著しく低次元な半農半士崩れの家長気取り( 上同士の前近代評議会を壊し合い低次元化させ合うことしか能がない非国際地政学観 = 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと同じ、下同士で下を作り合うのみしか能がない )風情どもに過ぎない時点で、すなわち中央議会の序列敷居改革( 上同士・官側の身分再統制下同士・民側の次世代産業法改革の街道整備の見通し )を巡る前近代的な名目・誓願の立て合い( 評議名義性と選任議決性の手本の示し合い = 合格・高次元/失格・低次元を危機管理する上同士側の手本の示し合い らしいものなどなお皆無どころか、それを壊し合い低次元化させ合うことしか能がないにも拘わらず、身の程知らずにもケンカ腰に人の上に立ちたがろうとする制裁されて当然の低次元な集まりの分際に過ぎない。そこへの危機管理( 議事録処理的敷居序列改善・自己等族統制 = 当事者性・痛感性・動機的始点 と 主体性・教訓性・本分的終点 の整理計画・敷居構想の手本の示し合い にケンカ腰にうやむやにし合うために徹底的に面倒がり合うことしか能がない、まさに今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと何も変わらない低次元化させ合うことしか能がない法賊ども( 低次元化させ合わないための上としての国際地政学観の議事録処理的な品性規律の手本の作り合いなど皆無に、外圧の偽善憎悪任せに下を作り合うのみしか能がない というのは、織田氏の次世代敷居から見れば士分家格( 合格・高次元失格・低次元の地政学的敷居を危機管理する側の公務序列立場 )が公認される訳がない、一掃( 旧態の総巻き上げ = 中央人事敷居改め = 畿内再統一 = 身分再統制 )されて当然であることも解っていて気まずいから反織田派のうやむや運動( だらしなく偽善憎悪し合うことしか能がない低次元なまま側 )に回った、それが旧三好派や旧室町派どもの実態だったのである。その時代遅れの戦国前期的争いも三好氏で最後にされた、織田氏がそこにとうとう終止符を打つ( = 低次元化させ合う偽善憎悪の挑発・懐柔手口は一切通用しない、それを2度と繰り返させない戦国終焉に向かわせる )ことになったのである。本題に戻り、旧高官筋の中ではそのように少し特殊な存在だった朽木家は、京極家と同様に廷臣たちも含める旧高官筋の交流網をもっていて( 朽木元綱の母が、公家・廷臣の飛鳥井家出身者。旧室町体制の有力筋たちはこうした縁は珍しくなかった )それまでの中央の事情に詳しい家系であったことから、のちに徳川家康からも有望視されるようになる。京極高佳や細川藤孝らと同じく朽木元綱も、中央の様子をずっと見守ってきたひとりだからこそ織田政権時代でも「もしかしたら、何かひと騒動( 本能寺の変とまではいかないまでも )起きるかも知れない・・・」という、ある程度の察知といくつかの想定ができていたひとりだったと見てよい。説明の時系列が前後するが、関ヶ原の戦いでは朽木氏の動きは微妙であったため、表向きは少々の格下げとされたが、しかし今後の徳川政権内における上層人事において買われる優遇扱いが実際にはされた。徳川政権初期での有力な相談役として重役入りの参画ができたといってよかった朽木家は、3代将軍の徳川家光の時代には朽木家のこれまでの協力が評価される形で、朽木家の分家筋が特別な加増を受けて藩主扱いされるという、皆にうらやましがられるような優遇扱いがされるに至る。本能寺の変が起きた際に、織田政権の旗本吏僚体制の中心地となっていた近江に明智勢がやむなく乗り込み、仕方なくその解体破壊に荒らしに回ったため、織田家の旗本( 織田家での旗本の正式名は、馬廻り衆 と呼称されていた。うままわりしゅう )の生き残りやその家族たちはいったんは散りぢりに離散することになってしまうが、のちに徳川家康はその元旗本たち( 矢部氏、祖父江氏など )を江戸( 徳川家 )の旗本( 武家屋敷 )に収容したり、また諸大名たちに斡旋したりと面倒見の良さを見せている。織田氏の元旗本たちの皆が本能寺の変の詳細を知っている訳ではなかったものの、徳川家康は内々で、細川忠興 ほそかわ ただおき。優れた父の細川藤孝から、織田政権時代の中央のことを内々で色々と聞かされていた )、京極高次 京極家のことをよく考えてくれていた父の京極高佳から、同じく当時の様子を内々で色々聞かされていた )、朽木元綱 旧中央高官筋として失脚せずに、足利解体、織田解体、豊臣解体の政変を一代で見守ってきた )らといった面々からの証言集めと、収容した元旗本たちの証言集めという多角調査を進めていたのも間違いなく、だから徳川家康が関ヶ原の戦いに乗り出す頃には本能寺の変の全貌は( 今後の朝廷対策・国内教義対策のためにも、ひと通りは把握しておかなければならないから )ほぼ掌握していたと見てよい。織田信長とは近しい信用関係だった前田利家や堀秀政あたりも、本能寺の変が何だったのかについては大体のことは解っていたと見てよい。しかし下々から見ると上の間で何が起きていたのか、黎明期的な16世紀の国際地政学観の敷居を巡る問題を下々( 地方再統一や中央再統一のための官民再分離・等族指導をする立場ではない側 )がすぐに理解できる訳もない中で、それを下々に説明しても誤認・混乱・動揺させてしまうこと( 今後の方針を浸透させていく時点で常に動揺しがちな下々に、既に撤回されることになった前方針はどうだったのかを告知した所で余計混乱させてしまうこと )が上同士では目に見えていた。だからそれを避けるために、本能寺の変のことは上同士だけで把握しておけばよいと緘口令( かんこうれい )的に黙秘していただけである。視点を変え、のちの豊臣秀吉と徳川家康もかなり意識していた、本能寺の変の特徴を知る上でも、関ヶ原の戦いの特徴を知る上でも大事になってくる近江衆の特徴に触れていきたいが、当時の国際地政学観( 時代変移的な敷居を巡る全体像・社会心理 )の情勢もやはり大事になってくるためそこも順番に説明していく。戦国後期の移行期までに、名族高官同士で主導を巡って根深く険悪化していった家系も多かった中、同じ佐々木源氏である京極氏と朽木氏の関係は、京極マグダレナ( 京極高佳の娘 )と朽木宣綱( くつき のぶつな。朽木元綱の長男。次代 )の婚姻が見られることから、両家は良好関係だったことが窺える。織田信長は、家臣たちの特に上層に対してほど、自身が日蓮派法華宗に帰依( きえ )しているから・キリスト教に帰依したからという理由で、それに合わせる合わせないで家臣団同士や家臣団内での対立険悪化・人事差別化の禍根に低次元化( = 教義を人をねじ伏せるための道具に悪用化 = 偽善憎悪を挑発し合うための偶像化 = 低次元な顔色の窺わせ合いの思考停止化・低次元な落ち度狩りの思考停止化・低次元な頭の下げさせ合いの思考停止化 )させていくことにしないようにするための優れた家訓改め( 武家法典改め。身分再統制。次世代家長権統制 )が徹底( そんなことで騒動を起こすような、国際地政学観の合格・高次元/失格・低次元を危機管理する側としての人の上に立つ資格などないだらしない偽善者は、議席序列からつまみ出されて当然、格下げ制裁対象に見なされて当然! )できていた。16世紀時点でそれが国家構想の敷居だったことがもはや世界的に驚異といえる国際文明力と少し説明してきたが、家臣同士の縁組においても全く同じその優れた家訓改めが徹底されている。中でも佐久間信盛の家臣団・親類との縁組、丹羽長秀の家臣団・親類との縁組、柴田勝家の家臣団・親類との縁組において、織田信長が家格整備( 高次元な人事敷居 )を前提にそれを認可したり斡旋したりしていた所は、のちの豊臣秀吉と徳川家康もその良例手本が大いに見習われる形で、特に等族諸侯間の( 武家の棟梁・絶対家長に改めて公認された諸大名たちの間 )の縁組は、斡旋も含める謄本登録制( 人事統制 )の認可制が、豊臣時代から徳川時代にかけてより強調されるようになった所になる。高次元を求め続ける織田信長の敷居についていけない戦国大名ら( 地方の上層ら )や、廷臣たちの中での内心は反織田的だった連中が、それなら織田家中の権限者・重役たちに頼ろうと、織田信長を通さずに佐久間信盛を軽い気持ちで持ち上げ、地位・議席・権威を得ようとするためのおもちゃ( 偶像 = 低次元ないがみ合いの原因作り = 低次元化させ合う偽善憎悪の再燃・拡散 )に悪用し始めた。そこを織田信長を激怒させ、佐久間信盛にやむなく厳しい大失脚を手配してしまったのは、旧室町体制で克服できなかったそうした愚かさだらしなさは2度と繰り返させない人事統制( 次世代政権議会体制・公務吏僚体制 )まで織田家は既にできていること、今まで通用していたその低次元な挑発手口( 権力序列を、偽善憎悪を作り合うための悪用偶像化・反等族指導化・反国際地政学観化 = 低次元化 は今後は一切通用しない時代になったことの見せ付けなのである。織田家中の師団長筆頭の佐久間信盛、政務吏僚筆頭の林秀貞の両名を解任・解体しようと思えば( 上同士の議席の譲り合いをさせようと思えば )いつでもできるだけの、それで混乱など起きない絶対家長的な次世代政権議会が既に確立( 等族指導 )できている所を見せつけたことは、織田政権下の連枝衆 れんきしゅう。織田氏の親類衆 )、準連枝衆 織田氏の親類に準じる吏僚的譜代扱い )、師団長の重役・親類ら、政務吏僚の重役・親類らに対し、織田政権への意見提出すら無いそれらを軽々しく悪用するための勝手な家格擁立( 上としての手本の作り合い無きおだて合いと対立の煽り合い。うやむやに低次元化させ合う人を踏み台にし合っているだけの偽善憎悪の持ち込み合い )合戦は禁止、それは一切通用しないことの近代的人事の見せ付け( まさに孔子が指摘していた外戚問題を荀子・韓非子が改めて強調するようになった組織論の指摘部分。のちの豊臣政権と徳川政権で大きな手本にされた部分 なのである。旧室町体制( 旧中央世俗議会 )も旧朝廷( 旧中央聖属議会 )もそこを克服( 人事敷居序列改革 )できなかったそこを織田政権では、2度と繰り返させない次世代政権議会体制まで確立した( 上から順番に手厳しい制裁・格下げ対象となる ことを見せ、それ自体が他の戦国大名( 地方裁判権止まりの家長気取りども )たちが追い付いていない、とてもできそうにもない別格の偉業だったのである。織田信長は教義や茶道や縁組などを通した人脈の構成においても、それを悪用( 偶像権威化 = 偽善憎悪化 = 思考停止化 )して低次元化させ合おうとするような、織田政権への届け出の認知もない勝手な家格運動( 次世代身分再統制を妨害し始める、旧態への巻き戻りの低次元ないがみ合いを再燃・拡散させる運動 と見なした内外の動きには特に厳しかった。その一方で上同士の地位・議席の譲り合いの和平的・健全手本的な交流になっているものを人事評価していた。旧高官筋として父の代から失地してしまった京極高佳と、どうにか自領は維持し得ていた朽木元綱の間は、少なくとも家格・格式のことで勝手にいがみ合う( 上の立場でありながら有力家臣たち利用される形のおだてと煽りの挑発手口にまんまと乗せられる = 初動からイエスマン固め体質に頼って低次元な猿知恵を共有し合っているだけの典型的な低次元同士の姿 = 時代遅れの低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭の下げさせ合い通りでなければ偽善憎悪し合うことしか能がない = 外圧任せのたらい回し合いでただ下を作り合うことしか能がない ような険悪な関係などではなかったこと( 旧畿内はそういうだらしない連中ばかりだった中で、それらとは品性規律的にだいぶ違ったこと )、そして旧高官筋の上同士として、そうした和平的な婚姻で信用関係を大事にしようとしていた所からも、両名とも( 京極高佳も朽木元綱も 織田信長からは有志扱い( 品性規律の手本扱い されていたと見て間違いない。のちの豊臣秀吉と徳川家康も、織田信長のそうした、旧室町ではろくに克服できなかった教義や縁組に関する所まで行き渡る等族指導・人事評価ができていた、まさに手本家長らしいその優れたやり方( = 近代的な評議・議決の人事 = 絶対家長のあり方の序列の見直しの次世代身分制議会 )に関心的に見る他なかったのも間違いない部分になる。ここで近江の経緯をいったん整理するが、1568 年に織田信長による旧畿内への乗り込みが始まった際に、その妨害に動いて対立した近江南部の六角氏は本拠地を失う( 山城 と 美濃 と 伊勢北部 とを結ぶ近江の旧六角領の街道筋が織田氏に再統一される )形で甲賀郡南部( こうが で広く知られるが地名を呼ぶ場合は こうか が正式で当時もそうだったようである )に追いやられ、山城( 京都 )に居座り続けていた三好派たちもすぐさま織田勢に追い出されると、近江北西 高島郡 の朽木氏は織田派を強める。織田氏と対立するようになった近江北東の浅井氏が 1573 年に織田氏に制圧されると、織田氏による近江の一円支配( いちえんしはい。地方全体がひとつの支配者によって統一された、一本化された等の意味 )は決定的となる。この時点では、織田派に組みさずに近江の南端に逃れていた旧六角家臣ら近江の反織田派の残党たちはまだ残存はしていたものの、織田氏の次世代敷居の近江再統一に抵抗できるような支配力( 近江南端の自治権 )など維持できる訳もないまま、翌 1574 年にはよくあることとして、ざっとその半数は諦めて帰農( きのう。ここでの”農”は、農家と同列として水産業や手工業や鉱業など庶民全般の意味も含める。帰民 )、帰農し切れなかったもう半分は伊賀 いが。三重県西部。大和、伊勢、近江それぞれからの、その内紛に敗れた落ち武者たちの溜まり場であるかのように、その養護施設であるかのようにすっかり慣習化されてしまっていた。その事情はのちの天正伊賀の乱にも関係。逃れてきたよそ者を条件付きで受け入れながら独特な自営団を形成していた百地衆、喰代衆、藤林衆、名張衆らが顕著。ももち、ほおじろ、ふじばやし、なばり )に逃れたと見られ、近江における反織田運動は消滅同然となる。視点を少し変え、ざっとの大別として織田信長は、尾張衆を古参、美濃衆を準古参、近江衆以降を新参と扱い、古参は新参たちよりも先行して功績を評価される機会も有利だからこそ、古参たちはその分だけ新参たちへの手本になっていなければならない厳しさが求められた。仮公認たちに対しては新参でも厳しさは求められたが、古参側の仮公認たちにはさらに厳しさが強められていた。教義筋( 神道・仏教派なのか外国教義派なのか )や婚姻筋( 元名族筋なのかや主君の親類筋なのか等 )における勝手な人事上下差別( 低次元な顔色の窺わせ合い )を始めることへの禁止が上から順番に厳しく徹底されていた 上同士の立場でありながら、意見提出の受理・認知すらされていない勝手な低次元ないがみ合いの原因の作り合いが、次世代政権議会の敷居・危機管理に対してうやむやに偽善憎悪し合い壊し合い低次元化させ合う反逆と見なし、上から順番に厳しく格下げ制裁 )のと同じく、出身筋( 近江衆出身なのか若狭衆出身なのか等 )でもそこ( 古参にただ甘く新参にただ厳しいだけの、低次元化させ合う時代遅れの旧態人事への次世代身分制議会改革・人事敷居序列改革 = 低次元ないがみ合いは2度と繰り返させない改革 )が徹底できていたからこそ、織田信長、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉、明智光秀ら尾張出身の上層たち中心( 明智光秀だけ美濃衆出身だが、旧幕臣筋の見方の方が強かった )による近江の管区統治の新体制が敷かれるようになっても、細かい所の衝突はあったとしても近江衆たちとの仲が険悪化することはなかったのである。このように古参、新参に対してだけでない、旧室町体制では克服し得なかったこうした人脈面全般の織田氏の人事敷居改革( 総家長の姿勢 = 次世代国家構想 )自体が、その敷居にすぐに揃えることもできそうにもなかった他の戦国大名たち( 地方の代表格とその上層ら )と既に大差ができていた、だから各地方の内心は気まずい一方だったのである。拡張先の新参たちにも織田氏の敷居の官民再分離 身分再統制 = 街道整備 = 次世代産業法改め = 公認無き地域限定序列の閉鎖有徳の取り締まりとその旧態権威運動の象徴の関所・砦・城の破却 )でいったん領地特権を返上させ、見込みのありそうな連中だけ武家屋敷にさっさと収容したり仮公認しながら、本拠を拡張先( 中央寄り )にさっさと移転していく( 尾張清州城 → 尾張小牧城 → 美濃岐阜城 → 近江安土城 )という、それができる織田氏の統治の仕方( 国際地政学観 )自体が、それができる織田氏( 次の中央家長 = 武家の棟梁 = 絶対家長 )に格下げ覚悟でさっさと臣従するという次の行動( そのための評議名義性と選任議決性による方向性・主体性の議会改革的な団結 に移れずに錯乱気味( そこを巡る争和を自分たちでしてこれなかった実態 = そこをケンカ腰に徹底的に面倒がり合いうやむやに外圧任せの低次元な顔色の窺わせ合いや低次元ないがみ合いを繰り返すことしか能がなかった実態 = 人を危機管理・等族指導する上の立場に立つ資格などない実態 )にモタモタとやっていた各地方に対して「何をモタモタやっておるのだ!」の恫喝になっていたことは、上の間で何が起きているのかは下々にはすぐに理解できなくても、上同士( 織田氏と各地方の上層との間 )ではそのくらいのことは解り切っていたのである。近江衆の中では他にも、自領の蒲生郡はどうにかまとめることはできていた蒲生氏( がもう )は、仮公認の新参でありながら古参扱いしてもらおうと、近江衆以降たちへの手本に進んでなろうと積極的になっていた。新参ほど、今までの部下たち( 家来筋の親類も含める家臣団・手勢 )を織田氏の敷居に合わせることも難しいはずだった中でも、仮公認たちの中では蒲生氏はそこが他よりもできていた。織田信長としてもそういう良い所が見られると

 

 「見よ、蒲生家は織田派の新参でありながら古参たちに遅れを取らない手本を進んで示すことができている。それなら新参でも、優遇されている古参たちと同じように優遇する!」

 

と皆にその良例を言いやすくする手助けになる。だから蒲生賢秀 がもう かたひで。蒲生郡の代表格 )は織田信長から有志扱いされるようになり、表向きの人質の蒲生氏郷 がもう うじさと。蒲生賢秀の子。次代。のち才覚の評判は高く、91万石もの大手の近世大名の家格を得ることになる )はもはや人質などではない、「お前の父は良将だから」将来の幹部候補扱いの、皆がうらやましがるような優先権・格式の指導対象となったのである。蒲生家はもともと兵法学の研究に熱心な家系という定評があり、さらに地元の天台宗( 畿内に点在していた天台宗の別当・分寺たちについては、日蓮派法華宗と同じように法華経の経典重視の宗派というだけであり、大きな教義権力をもっていた訳ではないため織田信長としても公的教義・比叡山延暦寺とは別枠と見なしていた。他の地域寺社と同様に閉鎖有徳運動さえ起こさなければ差別せずに保護・保証している )や臨済宗の寺院とは教義権力を悪用し合わない それに頼って蒲生郡のまとまりを低次元化させ合うことのないようにする ための良好な関係が維持されていたという良い面も多く、そういう所も織田信長から当然評価されていたと見てよい。近江はまず、このように新参と古参に対する織田氏の人事敷居の手本の指標を解りやすく強調する重要地扱いされ、さらにこの近江が今後の新政権としての中央政局( 次世代管区体制の見本 )の新地だと強調されたことは、これは士分待遇を失った者たちにとっても改めて優位になることを意味した。近江に限ったことではないが織田氏の官民再分離( 街道整備 )によって各地域の旧慣習の大勢の半農半士たちが士分資格を失うことになったこれらのその後というのは、それまで( 織田氏による畿内再統一・官民再分離・街道整備が始まる前まで )に地元でちょっとした地位や肩書きをもっていた旧近江衆の元一員として、民間側の地域政治の序列で改めて名士的な扱い、つまり民間側での意見総代的な役職が優先される場合も多く、それこそ織田氏の敷居による足軽・中間( あしがる・ちゅうげん・公務に応じての帯刀資格 )格の雇用序列の公認( 公務の手助け役。軍役や保安や軍需物資の手配・運搬などを支える正規公務雇用序列。半士分扱いの公認 )についても改めて優先的に得られる場合も多かった。その意味で、官民再分離によって多くが士分資格を失い多くが帰農を余儀なくされた元半農半士たちにとっても、近江出身者というだけでも民間全体( 産業政治序列側と、正規公務雇用序列側 )でのちょっとした優位な格上げ扱いがされることを意味したのである。この近江の歴史的な特徴は、本能寺の変にも、関ヶ原の戦いの近江衆の事情にも、のちの江戸時代の近江統治の事情にも関係してくる部分になる。これからは近江が、上( 公務士分の序列。刑事的序列 )から下( 民間産業法の序列。民事的序列 )までの敷居の見本とされることが強調、上でも下でも近江出身者という所も少し重要になる近江全体の格上げ扱いがされることを意味した。織田氏では混乱や騒動など全く起こさずにこの次世代人事敷居改革( 身分再統制 )ができてしまっていた、だからこそその足並みにさっさと合わせることもできずにいた他の戦国大名たち( 地方の代表格たち、その上層たち )というのは内心は気まずいばかりだったのが実態になる。下々は上の間で何が起きているのかすぐに理解するのは難しくても、上同士ではそこを恫喝する中央家長側と、そこを恫喝される地方家臣側の関係になっていたことは特に 1570 年代後半( 1575 - 1579 )には解り切っていたことだったのである。織田信長の敷居に追いついていない他の支配者( 家長気取りども がもしこんなことをしようとすれば( 尾張出身者なのに尾張を中央政治の中心地にしようととせずに、近江の地を選ぶというようなことをすれば )今度は古参たちが「古参を尊重しない!」などと怒り始めて騒動になってもおかしくなかったのも、織田信長の人事統制( 旗本吏僚体制・身分再統制の敷居 )ではそこが一切乱れることがないまま「やって当たり前、できて当たり前」とそれをさっさと進めてしまった、その国際地政学観のあまりの違いが、それもまずできそうにもなく内心は気まずい他の支配者気取りたちとは別格だったのである。まず主に尾張出身者たち( にひとり、美濃出身というよりも幕臣筋出身の明智光秀 )によって、近江を次世代政権議会の中心地だと管区整備( 見本的な中央都市型の開発計画 )を始めたことは、繰り返すが近江出身者という時点で上( 士分 )から下( 民間。特に大津の商人団たち )まで少し特別扱いの格式が得られた( 近江の地全体のちょっとした見本的な格上げがされた )ことを意味した。ここから少し話がややこしくなるが、織田信長の近江によるこの予定は、本能寺の変によっていったん破談的・白紙的な状態となる。織田政権時代に近江が見本候補地扱いに近江全体の上から下までのちょっとした特別扱いがされてしまったことに対し、豊臣秀吉はそこはいったん保留としたが、その見本的な都市経済型の開発計画は視野に入れていたと見てよい。しかしそれが再開される前に豊臣秀吉が亡くなり、間もなく関ヶ原の戦いによって勝利し武家政権( 世俗政権。地方を統制する中央家長権 )の主導となった徳川家康も、近江のその経緯は当然意識していた。豊臣時代までは視野に入れられていた、近江による見本的な都市経済開発は江戸で実施されることになった。豊臣政権では近江経済計画は保留的に大坂を中央政局に、続いて徳川政権では近江経済計画は旧廃策的に江戸を中央政局としたこの一連の経緯( 社会心理・全体像 )は、関ヶ原の戦いで結果的に東軍徳川方に動くことになった朽木氏、京極氏ら近江衆出身の有力者たちの経緯( 社会心理・全体像 )を知る上で重要になる。まず、織田政権時代でどのような次世代経済社会化を目指していたのかをよく理解していた豊臣秀吉が、のちに近江衆たちをどのように扱っていたのか、その一連の流れ 近江北東部の3郡ほどの旧浅井領の跡地は、織田政権時代に羽柴秀吉に任せられることになり、羽柴秀吉はここから尾張衆出身の家臣団と近江衆出身の有志たちで家臣団を編成・統括することになる。このような人事統制自体が他の支配者たちはできていなかった時点で、それができている織田家の重臣の羽柴秀吉の方がそれができない地方の代表格たちよりももはや格上だったといえる。本能寺の変後に羽柴秀吉が中央を掌握したのち、近江衆出身の有力者に対し全員ではないもの軒並み優遇気味だったこと、そのひとりの石田三成が豊臣政権時代に政才を買われて近江水口4万石のち、丹羽長秀の跡地の近江佐和山20万石が手配された意味、関ヶ原の戦い後にはその跡地に旧廃策的に大藩の井伊家の彦根藩が敷かれることになった、この一連にどのような意味があったのか )が理解できていれば、豊臣秀吉が容態を悪化させて亡くなり、若年の豊臣秀頼の代行者をしなければならなくなった豊臣政権の政務吏僚筋の重役の増田長盛 ました ながもり。政務吏僚首座・長老格。尾張衆出身説もあるがここでは近江衆出身として扱っていく 、石田三成 いしだ みつなり。近江衆出身。増田長盛の後釜予定だったと見てよい 、大谷吉継 おおたに よしつぐ。近江衆出身。増田長盛を支える副官的な重役。石田三成を支える副官的な重役が予定されていたと見てよい )の3者から見た関ヶ原の戦いを挑まれてしまった見解はどのようなものであったのか、そして徳川家康もこの3者( つまり近江衆全体のまとまり具合 = 評議名義性・選任議決性の具合 )をどう見た上で関ヶ原の戦いに挑んだのかの双方の内心も容易に窺える。紹介していきたいことが多すぎるが、まず豊臣秀吉は、豊臣政権時代には細川家と浅野家に対しては本来なら100万石近くの扱いにしても良いほどだったが、近江衆出身ではないこともあってそれはあえてしなかったのは賢明だったといえる。だから関ヶ原の戦いを迎えてしまった際はこの両家( 細川家と浅野家 )は、その重責のしがらみのとばっちりは一切受けることなく東軍徳川方をさっさと表明することができて( 上の間では解り切っていたこととして、親類体制中心で支配体制を築こうとしていた訳ではなかった豊臣政権では、豊臣秀吉死去がきっかけの関ヶ原の戦いにおいては、浅野家や木下家のような親類たちに対してよりも、実質は近江衆たちの団結具合や進退に対する争点の方が大きかった。浅野家は政務面で大事な役割を果たしていた一方で豊臣時代に急激な格上げがされた訳ではないから「浅野家は豊臣家にとっては親類なのに東軍徳川方にそむいたのは不義だ」というような非難がされることもなかった )結果的に両家は大身の近世大名として江戸時代へと無事乗り切ることができた。細川藤孝も浅野長政もそういう所の大変さ( 今後の政権体制を作っていかなければならない全体像。その中の自分たちの立場 )は解っていたからこそ、豊臣政権時代でも軽々しく権威欲を出すことなどしなかったのである。関ヶ原の戦いを迎えた際の増田長盛や京極高次や朽木元綱の様子を見ているだけも、近江衆出身の有力者たちの内心の本音がそのまま窺える。石田三成が大谷吉継から協力を得る形で、近江衆たちが結束できているかのように見せかける軍役を近江衆出身の有力者らに課す形を採り、それで近江衆全体を西軍豊臣方だと強調しようとした所からその苦しさが窺える。増田長盛石田三成大谷吉継も、豊臣政権下における蔵入り地( 各地方の豊臣家の遠隔直轄領 )の管理者としては表向き50~100万石相当の支配力はそれぞれあっても、その蔵入り地体制における重役としての家格固めがされる前に、そして近江衆を再結束をさせる前に豊臣秀吉( 武家の棟梁・絶対家長 )が亡くなってしまったことで、豊臣秀吉亡き時点の大谷吉継自身の家格は5万石のままだった。そんな中で大谷吉継が近江衆の師団長格としての牽引力( 家臣団長としての軍役権威 )を発揮しようとする苦し紛れは、関ヶ原本戦の大谷吉継の布陣と、その寄騎扱いの脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱ら近江衆出身たちへの布陣の仕方からも明らかになる。戦国前期では人望( 権威 )任せの人徳( 有志的能力 )不足が目立ったからこそ一向に健全化に向かわずに荒れ続けたが、それとは真逆にこの時には人徳( 有志的能力 )十分の人望( 権威 )不足という珍しい逆転現象が起きてしまった、その象徴が石田三成と大谷吉継だったといえる。それは同時に豊臣政権時代までいかに庶民政治重視の善政になるように大きく見直されたかが窺える部分でもある。本能寺の変後の羽柴秀吉による中央( 畿内 )再統一の際に、事情が少し特殊だった大和( やまと。奈良県 )の支配が難航し、優れた弟の羽柴秀長が支配することで大和の格式もどうにか保たれる形でいったん落ち着きが見えた矢先、羽柴秀長が間もなく亡くなってしまったため、近江衆を再結束させなければならない要人のひとりであった増田長盛が、大変だったその大和支配( 大和仏教の教義統制の整備 )の後釜にならざるを得なくなったことも支障となった。豊臣秀吉亡き後に豊臣体制がさっそく揺れた中で目立ったのが、増田長盛の後釜である石田三成に対して武断派たち( 加藤清正、福島正則、池田輝政、細川忠興、浅野幸長。加藤嘉明。いずれも近江衆出身ではない譜代筋 )が、非協力どころか敵意をむき出しに噛みつき始めた所になるが、その実質というのは関ヶ原の戦いのような総選挙戦が起こりそうな事態に直面した際に、どの筋によるまとまり中心なら豊臣体制を支えるのか? を巡るちょっとした錯乱になる。「それだったら次期の武家の棟梁は・・」と見なされていた立場だった、豊臣家に次ぐ大身家格であった明確な200万石以上の徳川家康から見てもそこは丸解りだったといってよい。単体で見れば近江佐和山20万石の石田三成と、それと似たようなそれぞれの家格のその武断派たちの顔ぶれを見渡せば大して難しい話でもない。豊臣秀頼を肩代わりする旗頭( 徳川家康と対峙する役目 )の中心として、それら武断派たちのいずれかをその連立( まとまり )による呼びかけで支えられるのかどうかで見渡せば、豊臣秀吉の親類筋( 加藤清正・福島正則・浅野幸長。あさの よしなが )の連立による呼びかけだったら支えられるのか、尾張衆出身の譜代筋( 池田輝政 )の連立による呼びかけだったら支えられるのか、旧中央出身筋( 細川忠興 )の連立による呼びかけだったら支えられるのかを見渡せば、まだ近江佐和山20万石の石田三成が近江衆出身筋を呼び掛ける連立を目指した方が、少しは可能性はありそうな話になる。豊臣政権からみれば新参もいい所の毛利・吉川・小早川家は旗頭としては本来は論外だったものの、毛利氏自体は中国地方での連立はあった。だから仕方なく表向きの旗頭として擁立されることになったが、所詮は中国地方における連立であって豊臣政権を支える主力の連立というには極めて怪しい形ばかりの前提に過ぎない。親類筋出身と尾張衆出身は共通はしていてもそれで連立できるのか、旧中央出身筋( 細川忠興 )と近江出身筋( 朽木元綱。京極高次 )も共通はしていても連立できるのかを考えれば、近江20万石の石田三成を旗頭とした場合なら、大和20万石の増田長盛、越前5万石の大谷吉継とは連立は少なくともできていて、さらに会津90120万石の上杉景勝と常陸7054万石の佐竹義宣は石田三成のことは少なくとも理解はしていただけマシだったといえる。豊臣秀吉があと5年か10年生きていればそれだけでもだいぶ違ったと思うが、本能寺の変、賤ヶ岳の戦い、天下総無事戦から出発の内乱収束から10年もあったのかの期間内で、織田政権からの大変な移行で次期政権体制を盤石に確立しようとすることはやはり簡単ではなかった。石田三成は近江出身筋たちで再結束した状態から関ヶ原の戦いに挑む、のではなく、仕方ないから関ヶ原の戦いをきっかけに今から近江出身筋の再結束を図らなければならないという有様だった。徳川家康もそういう所をひと通り見渡した上で関ヶ原の戦いに挑んだのである。しかしそれは政権の主導をただ横取りしたいとかの軽々しい単純な考えだけなどではもちろんない、せっかく日本が健全な流れに向かっていた中で豊臣体制が崩れ始めているのを傍観している訳にもいかない、対処の仕方を間違えれば戦国前期に巻き戻る危険性もあった、その意味で関ヶ原の戦い( 総選挙戦 )はどちらにしてもしなければならなかった、後で誰にも文句をいわせないようにする( 西軍豊臣派たちは、豊臣体制を支えることなどできなかったではないかと評議名義的・選任議決的に明確化しておく )ためにも起きるべくしておきた、なるべくしてなった必然な流れだったといってよい。以後は江戸経済中心ということで、織田時代の近江経済の再開においては旧廃策が敷かれる。近江には彦根藩と膳所藩の2つを置くことで近江全体の半分を統治し、残り半分は、特に京の経済圏寄りの西側は、諸大名たちの遠隔領地特権として細かく刻んで地域を分断する形の統治の仕方をすることで、近江経済にできるだけ力をもたせないようにする政策が江戸終盤期まで続けられる。ただし近江は下( 民間 )の格式がいったん格上されてしまった扱いだけは江戸時代も続けられ、江戸後半から厳しくなる検地を始めとする改正も近江だけは緩く、近江の学芸的文化( 書道や茶道や衣類や歌謡など )に対する肝いり( 徳川公認 )の優遇扱いも続けられた。しかし江戸終盤の鎖国幕藩体制の老朽化と財政破綻にともない、どこも愚民統制的な乱暴な検地( 足並みを揃えるために皆が貧しくなれば、廃れた価値も見直されるとする退廃的な税制の強要 が常態化するようになっていた中で、今までそういう所に緩かった近江に対してもとうとう他と同様に踏み込むようになった、それで恐れていた団結を招く形の大規模一揆に発展してしまうことになった、本来の形が現れてしまったのが近江天保一揆になる。

 

紹介しておきたかったことが他にも多すぎる中で、字数制限の都合で全然説明し切れなかったため、のちほど触れられそうならまた補足していきたい。

 

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 

 九鬼嘉隆 くき よしたか

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ