近世日本の身分制社会(135/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか63/??  本能寺の変の全体像09/? 2024/04/21

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~08」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

織田信長の人事。前回の続き。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述

 荒木村重 あらき むらしげ

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述
 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述
 

 原田直政の取り巻きたち

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述
 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 ※ 本能寺の変の全体像7 で先述

 神保長住 じんぼう ながずみ

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

 手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述


 林秀貞 はやし ひでさだ

 ※ 本能寺の変の全体像8 で先述

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏

 こちらは織田信長の参謀役の丹羽長秀 にわ ながひで )とは別系統となる。両家は織田信長の家臣出身から、徳川時代までに共に家名存続できたこともあって、こちらの家系は史学上では岩崎丹羽氏( かつての尾張東部の岩崎城主出身という意味。愛知県日進市岩崎町。にっしん いわさき )と呼ばれることが多い。尾張衆の中ではちょっとした自領を維持していた一族だったが、織田信秀時代( 織田家の家来筋であったはずの弾正家が、尾張の代表格になり始めた時代 )に岩崎丹羽一族は、信秀派か反信秀派かの選挙的な内紛を経て、しばらくして織田信長の継承式典代わりの尾張再統一( 地方議会の人事敷居改革 )でも信長継承派として良好な関係を続けた。岩崎丹羽氏は尾張衆の一団として畿内再統一や伊勢北畠氏攻略に果敢に( 仮公認を正式に認めてもらうために 参戦し、安土城近辺での街道整備も任されていることからもその信任が窺える。しかし 1580 年の一斉の人事整理( 戦力外通告 )が行われようとしていたその少し前に、織田信長が行幸に出かけた折、丹羽氏勝の普請( ふしん。当主からの事業請負 )管轄の道路工事中の現場の者たちが手をすべらせ、その付近を通りかかっていた織田信長の一向に巨石が勢いよく転がっていってしまい、もう少しで大怪我をさせてしまう不祥事を起こしてしまった。間もなくの人事整理で、安藤守就らと共に丹羽氏勝も地位の剥奪の対象だと宣告されてしまうが、しかしその次代の丹羽氏次 にわ うじつぐ )への継承が、何事もなかったかのようにそのまま公認 人事・家長権の評議・議決。絶対家長・武家の棟梁による最終判決。上同士の身分制の謄本登録 )された。丹羽氏勝に対しては布令上で厳しかっただけで、岩崎丹羽一族は特に格下げされることもなく正式に公認されたことから、ただの代替わりの引退勧告に等しい処置だったのである。何度か説明を繰り返してきたこととして、戦国前期( 地域間憎悪の閉鎖有徳闘争。地縁内の勝手な武士団運動の惣国一揆。半農半士闘争 から戦国後期( 地方議会改革期。地政学的領域戦期 )への移行期にかけて、尾張南部の水野氏、尾張東部の岩崎丹羽氏、のようになんとか自領を維持し続けてきたその地縁の上層たちというのは、織田信長の再統一( 上同士の身分再統制 )によって今までの領地特権も本来は全て接収される前提、見込みのある者だけ武家屋敷( 旗本吏僚としての次世代再指導 )に強制収容される前提だった中で、今までの地位をどうにか仮公認してもらっていた立場になる。三好派から織田派に鞍替えした荒木村重も松永久秀もそうだが、織田氏の旗本吏僚体制を近くで見てきた上でその地位の公認を得た訳ではない地位を仮公認してもらっていたこれらというのは、これからさらなる出世を目指す( 加増を期待する )立場などではなく、その仮公認を正式に公認してもらえるかどうか( 織田氏の上同士の身分再統制の敷居かどうか )の瀬戸際の気まずい立場なのである。稲葉良通( いなば よしみち )、氏家直昌( うじいえ なおまさ )、丹羽氏次らは、上から順番に徹底的に厳しかった織田信長から大目に再評価してもらい、その家格・優先権を改めて正式に公認してもらえた( 合格・高次元を得た )ことが、皆から羨ましがられる扱いだったのである。それまで無数に点在していた小口の正規武士団気取りたち( 惣国一揆序列のままの閉鎖地縁の半農半士たち の大半が、武家屋敷( 士分候補扱い )の収容も認められずに大勢が民間側として官民再分離( 地方議会の人事敷居改革・前期型兵農分離・街道整備 )されていったからこそ、下々に士分側の次世代敷居の重み( 人の上に立つ側。合格・高次元/失格・低次元を危機管理する側の重み。国際的な異環境間の敷居確認の品性規律がもてなければならない重み。その等族指導ができなければならない重み側 に軽々しい気持ち( 低次元ないがみ合いねたみ合いひがみ合いの猿芝居劇場感覚 をもたせない( = 低次元化させない )ための上同士の次世代人事敷居の手本の示し合いも、それだけ重要になってくる。ここは現代の個人間・組織間・国際間でも上( 危機管理する側・敷居確認する側・等族指導する側 )としての手本の示し合いを、関係内の下に対してだけでなく内外の上同士でも手本を示し合う前提( 異環境間 の 当事者性・痛感性・動機的初動 : 主体性・教訓性・本分的終点 の社会心理・全体像確認 )になっているのか( そこが高次元なのか 、なっていないのか( そこが低次元なのか で、差が出てくる所は同じことがいえる。巨石事件の不祥事の際には家来がひとり手討ちされてしまったというが、これは岩崎丹羽氏が健全な団結ができていたからこそ、現場を請け負っていた丹羽氏勝の家臣たちがかばい合いながら年長の者たちが進んで切腹を願い出た、だからそれだけで済んだのではないかと筆者は見ている。そういう時にこそ戦国前期のように低次元な顔色の窺わせ合い/低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合い が大前提のケンカ腰のねじ伏せ合いの見苦しさ( 次世代身分制議会の壊し合い )で煽り合い騒ぎ合う( 外圧任せの憎悪を膨らませ合いうやむやにさせ合う )時代遅れの劣悪性癖( 偶像偽善憎悪の拡散・再燃 )が抜け切れていない化けの皮が剥がれるかどうかの問われ所なのである。これは織田信長が求める旗本吏僚体制( 上同士の次世代身分制議会の敷居 )の等族指導がそうだったからこそいえることだが、不祥事が起きてしまった時にこそ部下たちに普段から、そういう所に深刻さをもたせる等族指導ができているかどうかが問われ、その面では織田信長から評価されたから、その不祥事ひとつで岩崎丹羽氏のこれまでの貢献が全て台無しにされる、ということはなかったと見てよいのである。岩崎丹羽氏はこのような健全な査定がされただけのことはあって、以後の小牧長久手の戦い( 中央を掌握した羽柴秀吉が、旧織田体制の解体・格下げに動いたためそのことで対立した織田信雄に徳川家康が加勢した戦い )や関ヶ原の戦い( 今後の政権・絶対家長の主導を巡る、西軍豊臣派か東軍徳川派かの総選挙戦 )といった大ごとに関与するたびに、その全体から見れば小口ながらも一族内で乱れることなく等族諸侯( 近世大名 )らしい進退( 評議名義・選任議決 )の結束で動くことができている。1584 年の小牧長久手の戦いにおいて岩崎丹羽氏は、羽柴秀吉の呼びかけに応じずにこれまで通り織田家( 織田信雄。おだ のぶかつ )を主君と支持し続け、羽柴方の作戦を妨害する抵抗戦( 戦死覚悟の岩崎城の戦い )で大活躍し、織田徳川連合( 織田信雄と徳川家康 )を大いに有利にする手助けをしている。岩崎丹羽氏は織田信雄の家臣であったため、徳川家康としてはこの時はその評価は控えているが、羽柴方に鞍替えする織田家の旧臣たちが多かった中で、岩崎丹羽氏は窮地の織田信雄を見捨てず、小口ながら義理を果たし、羽柴方を手こずらせる意地まで見せた所は、徳川家康はそういう所を重視する性分であるため高く評価していたのは間違いない。1600 年の関ヶ原の戦いでは岩崎丹羽氏は東軍徳川派として尾張、美濃の徳川派たちの支援に動き回ったことが徳川家康から好意的に評価され、大幅な加増は無かった代わりに三河1万石の明確な特別家格を受ける( 松平・徳川氏の発祥である三河の知行・領地収入権は特別扱いされていた。江戸の旗本たちの間でも三河以外での200石取りと、三河での200石取りとでは、今後目にかけてもらえるかどうかの有望視の格式・優先権も大違いだったため、その単位から皆に羨ましがられた。徳川家から見て古参の譜代筋ではなかった岩崎丹羽氏が1万石もの三河の知行が得られたこと自体が特別扱いだった )に至っている。織田信長のこうした面倒がらない裁定 合格・高次元/失格・低次元 の良例手本は、のちの徳川政権での大小問わずの上同士の人事でも大いに手本にされている。下方修正された徳川政権では、見苦しい落ち度・不祥事は再起は認めない前提の厳しめの改易( 領地特権没収。藩主の場合は江戸の武家屋敷に強制収容。その藩士たちは最悪は全員が召し放ちの平民扱い )が多かったもの、便宜上のいったんの格下げや、見込み次第の再起の機会も与える人事もされている。

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 あまり注目されないが少し特殊な立場だった人物になる。京極氏は、近江の支配者である佐々木源氏の六角氏と同族・同格の、旧室町体制の高官筋出身であったが、織田信長の台頭期には京極家は名跡のみで、かつての四職( ししき。室町体制の重役 )としての北近江の支配権( 統制権・家長権 )などすっかり失っていた。( 京極氏の有力家臣であった浅井氏に、北近江の支配権をすっかり握られていた ) 名跡以外にこれ以上失うものなどなかった中で織田政権時代を迎えたことが、むしろ幸いしたとすらいえる。穏健派としての貴族的な品性交流には少なくとも優れていた所が、織田信長からも評価されていたのは間違いない所になる。父の代から近江の実権をすっかり失っていた京極高佳は、将軍家( 足利義輝 )の側近を務めるようになっていたが、足利義輝による将軍権威再興( 畿内改革 )運動で室町総家長の権威回復が見え始めると、将軍家を操り人形にし続けようとしていた三好派たちが足利義輝派を敵視し始めて暗殺騒動( 足利義輝派の粛清 )を起こし、足利義昭( 足利義輝の弟 )と共に京極高佳もどうにか難を逃れる。しばらくして足利義昭が織田信長の支援を得て山城( 京 )を奪還するが、その協力関係も次第に険悪化していくと、京極高佳はそれまで旧幕臣筋として足利義輝・足利義昭の近習役を務めてきたため中立の姿勢を採るが、子の京極高次 きょうごく たかつぐ )を織田信長に人質( 武家屋敷 )に引き渡した( 織田氏の家臣の手続きがされた )ため実質は織田派に組みしたことを意味した。この京極高次がのちに京極家再興を果たすことになり、のちの関ヶ原の戦いにおいてもその弟の京極高知 きょうごく たかとも )と共に東軍徳川方として大活躍することになる。衰退が著しかった室町の旧態筋から、大きめの藩主( 近世大名。等族諸侯 )に返り咲く形の家名存続ができた京極家は、数少ない事例のひとつになる。京極家がこのような大再興ができたのは良縁の幸運もあっただろうが、やはりまずは当時の転換期( = 織田政権時代 )に対する京極高佳の身の振り方の良さが大きかったといえる。織田信長が、畿内再統一( 中央の次世代敷居化 )の一環として西洋のキリスト教徒たちとの交流政策を採り始めたことで、堺( 大阪府 ) - 京( 京都府 ) - 近江( 滋賀県 )間での街道で西洋人たちの往来と宣教師たちの布教活動も目立つようになると、京極高佳は当初は今までの日本の国教( 神道と仏教 )に肩を持つ形で、西洋人たちとの交流に関しては毛嫌いする態度を採った。京極高佳は権威こそ無かったが、貴族的な社交界での影響力は少なくなかったため、その京極高佳から抵抗的な態度を採られてしまった西洋人たちも最初は京極高佳のことを「反キリスト教主義者だ」とムッとしていた。しかししばらくして、はるばるの遠方からやってきた西洋人たちが日本との交流に懸命に努力していた姿に京極高佳も感心し、話だけでも聞くようになり、理解しようとする姿勢を示すようになる。関係は一転して「侯爵出身の京極家は、国際的な品性規律に優れるキリスト教徒の良き友」と西洋人たちから良評を得るようになる。宣教師たちにとっても「品性で知られる京極家も、我々西洋人との文化交流に理解を示してくれています。だから日本の皆さんはどうか我々との文化交流に、ぜひ興味をもってください」と助けとなったのである。旧中央関係者( だからこそ転換期の進退もそれだけ求められた者たち )の社交界の影響力をもつひとりであった京極高佳が、とうとう夫婦( 浅井氏の娘の京極マリアと )でキリスト教に帰依することを決意してしまったため、今度は廷臣たちの中の外国教義の受け入れの反対派から陰口を叩かれるようになる。京極高佳のこうした動向は、遠方海外との文化交流( 国際地政学的な情報技術 )社会化を進めたがっていた織田信長との口裏合わせも当然あったと見て間違いない。つまり織田信長から「京極家はかつての権威は失墜していても、旧中央関係者たちの社交界の影響力は大きい。だから京極家に西洋人たちへの理解を手本的に示してもらうだけでも、織田政権の構想としては助かる」という内々での打診も当然されていたと見てよい。京極高佳は旧縁の従者は何人かいても、軍事権( 領地特権 )は皆無だったことで家臣団らしいまとまった部下を抱えている訳ではなかった、だから夫婦共にキリスト教に帰依しても大した問題にはならなかったが、それが原因で家中で騒動が起きないよう織田信長は、家臣団ごとや旗本吏僚たちへのそこへの優れた等族指導 身分再統制 )も徹底できていた。織田信長は家中に対し、キリスト教に入信することをいくらか推奨した一方で、特に師団長( 旅団長たちのまとめ役。准将格 )や旅団長( 寄騎。よりき。将校格 )といった、大勢の部下を現場管理する上の立場ほど、自身が仏教のこの宗派だから/キリスト教だからと、周囲や部下たちにそれで合わせる強要をし合ったり、それによる低次元な顔色の窺わせ合いの人事差別を始める、ということのないようそこへの身分再統制・等族指導( 国際地政学的な人事敷居改革 )も徹底できていた。16世紀時点での神道・仏教・キリスト教の融合社会化が早くも実現されようとしていた、その先駆けの手本は世界的にも別格 結果的に本能寺の変に向かってしまった特に大きかった部分。他にもいくつか要因はあるが後述 )な快挙だったのである。後述するが織田政権の聖属議会改革は、今までの教義の悪用の低次元な人事差別の見直しだけでない、外国教義の受け入れを前提とする大使館と居住区体制の準備要領( 世俗議会側はそれができている/そうする情報技術経済社会化が前提だから、聖属議会側はさっさとそれに合わせよ。本能寺の変に大きく関係する )まで進めていた。19世紀でも難儀しがちだった、外国教義の本格的な交流社会化の受け入れ体制を 1570 年代の段階で織田政権が「やって当たり前、できて当たり前」の前提で進めていたこと自体が既に世界的な快挙だったといえる。この頃に、中国大陸政府を除いて世界的な強国化が目立っていたのは、厳しめの条件付きではあるが支配地のギリシャ正教圏( 東方教会のキリスト教文化圏 )との文化交流の人事敷居をようやく整備するようになったオスマン帝国 イスラム教国家。セリム1世からスレイマン1世の時代にかけてそこが大幅に進められた )と、そのオスマン帝国から格下扱いされながら大規模な国際地政学戦をけしかけられるようになり、それに慌てて対応していた神聖ローマ帝国 西方教会のキリスト教文化圏国家。のちスペインがドイツを肩代わりする主導国となる )だが、外国教義をすんなり受け入れられるような人事寛容政策などはまだまだできていない。一方で織田政権( 日本 )といえば、文化交流を求めてはるばる日本列島にやってきた西洋のキリスト教徒たちに対し、威力など一切用いずにあっけなく受け入れ政策を進めることをしてしまった。オスマン帝国神聖ローマ帝国も、織田政権のような和平的な国際情報技術交流の足並みに揃えるまでにあと100年も200年もかかりそうな有様の時点で、それだけでも強国化面でそれらとは驚異的な大差がつき始めていたとすらいえる。織田政権( 日本 )の国際地政学観( 国際評議会改革観 )の敷居( 器量・国際公務吏僚体制 )から見ればそれら( オスマン帝国と神聖ローマ帝国 )はだらしない世界家長気取りに過ぎない、時代遅れ( その教義の上下統制通りでないと怒り狂いながらいがみ合おうとする猿芝居劇場に頼らなければ、広域の足並みを揃えることもできない、次世代国際地政学観を壊し合う旧態閉鎖有徳どもを取り締まる有徳総代の立て合いもできない )の格下扱い( 神仏・教義の世界基敷居を危機管理する資格などない = 国際協約評議会・国際裁判権の合格・高次元/失格・低次元を危機管理する側・示し合う側の資格などない )の下っ端もいい所なのである。しかし西洋人たちの方から進んで( もはや下出に )文化交流を求めてきた所を、織田信長としてもそこを「こちらが迎えてやっている格上側だ!( 逆にお前たちはこのような迎え入れができるか! )」とあまり強調してしまうと、日本と西洋との友好関係に支障が出てしまう上に、ただでさえ手のかかるだらしない気の小さい廷臣たち 朝廷・聖属議会側 )がいよいよ頭が真っ白に放心状態になってしまうから、陛下に心労をかけないため( やろうと思えば聖属議会側に対していくらでも追い込むこともも、強制解体も粛清もできた織田信長が、心身共に廷臣たちを徹底的に踏み潰してしまえば、皇室から見れば廷臣の上層たちは一応は身内の外戚も多いため陛下に心労をかけてしまう、だから公的教義の踏み潰しと保護監察程度の甘っちょろい寛大な制裁で済んでいた。特に国家構想としての上同士の本分的終点というのは、低次元ないがみ合いを2度と繰り返させないための議会改革・人事敷居改革の等族指導が本体になっていなければならない )にも、国際上は日本の聖属議会( 朝廷 )が自力で議会改革できているように見えるように( = 日本の教義議会が国際的に顕在であるように見えるように = 陛下に心労をかけないために )体裁まで配慮されたから、上の間で何が起きているのか下々の間では解りにくかっただけである。世俗議会側と聖属議会側の対立劇を織田信長、佐久間信盛、明智光秀との間で演じなければならなかったのも、陛下を支えなければならない廷臣たちがあまりにも頼りないから、廷臣たちに現状を認識させるため、さっさと次に進めるためにやむなく演出的に請け負ったというだけの話に過ぎない。事情が少し特殊だった島津氏や有馬氏らは別として、畿内以東でこのような国際地政学観の文化交流( = 戦国終焉後の構想・等族指導 )を進めることができていたのは織田氏だけで、そこを明確化( 敷居改革 すれば騒動に発展してしまい収拾がつかない( 聖属裁判権の再興で軍閥化してしまったままの浄土真宗の武力解体もできない、すなわち中央両議会の敷居改革になおついていけそうにもない )からうやむやにやり過ごしてきた、そんなことで( 教義を上下統制の偶像偽善に悪用することしか能がない公的教義をただ踏み潰したくらいで )動揺するような気の小さい戦国大名たち( 地方裁判権止まりのだらしない家長気取りども )や、まとまりのない地方( 今一度の代表格と人事敷居のあり方の評議名義・選任議決の明確化の地方再統一も自分たちでできない、正規武士団気取りの口ほどにもない半農半士風情ども )や廷臣たちというのは、それが( 国際地政学観の無さ )が織田氏から恫喝されても仕方がない( 外国教義の流入どころか国内教義における閉鎖人事差別をやめさせることもできない、その危機管理・国際地政学的観の敷居確認の手本の示し合いもできたこともない低次元化させ合うことしか能がない分際が、人の合格・高次元/失格・低次元を管理する側の立場をケンカ腰に気取り続けようとしている時点で織田氏から上から順番に制裁人事を受けて当然。外国教義への対応はおろか国内教義をまとめることから全くしてこれなかった廷臣たちはなお気まずかった部分。公的教義・天台宗はこれまで、親鸞派浄土真宗や日蓮派法華宗のように教義力や人気がある宗派に対してほど、格下だとただ偽善憎悪を強調する低次元な上下権威を振るうことしかしてこなかった、だから国内の教義崩壊を助長させ続けてきたそこを危機管理してこれなかった言い逃れ無用の廷臣たちは、いつものうやむや騒動や低次元な懐柔工作が一切通用しない織田氏に畿内にとうとう乗り込まれてしまった、すなわちとうとう聖属議会改めを追求され気まずいことこの上なかった )理由なのである。織田信長は名族高官主義をこの上なく嫌った( 半農半士の下っ端出身である羽柴秀吉がそうだったのならともかく、羽柴秀吉以上に織田信長がそれを嫌っていたのは間違いない )が、ただし威張り散らす( 低次元な顔色の窺わせ合い/低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合い )ための偶像( その外圧に従わなければ怒り狂おうとする/報復人事で偽善憎悪し合おうとする = 低次元化させ合うことしか能がない猿芝居劇場の中の猿知恵 = ただの愚民統制 のためではなく、家系としての信用や親類同士の助け合い/議席序列の譲り合いをまずは大事にしようとする健全な姿勢優先の名族意識ということであれば厳しい訳ではなかった。領地特権など皆無となっていた( 家臣団らしいものなど抱えていなかった )京極高佳の場合と比べ、仮公認の美濃衆ら( 稲葉良通ら )や、尾張衆ら( 水野信元ら )などのように、それまでの領地特権を正式に公認してもらうために、手勢( 現場に向かわせる部下たち )を織田氏の敷居に等族指導しながら目立った活躍をしなければならない、という立場ではなかった。のち織田派に組みするようになった細川昭元もそうだが、名跡のみで実権など失墜していた( 名義が旧有力家臣たちにただ転用され続けるのみで、自身の直属の旗本や家臣団などは皆無だった )中で格下げ覚悟( 織田信長による家長権再統制覚悟 )で織田派に組みした者たちに対しては、織田信長も急に多くの活躍などは求めていない。織田派には組したいが、それまでの領地権( 武士団らしい家長権の維持 )は返上ではなく仮公認してもらいたい、というのなら「だったら公認( 織田氏の敷居で合格・高次元と認定 してもらえるだけの手本を示せ!」と厳しく要求したが、織田氏にそれをいったん返上した崩壊気味の小口たちに対してや、戦力といえるような家臣団( 旧領地権・地域の家長権 )など既に失っていた貴公子たちの臣従に対しては、過酷な戦力奉仕をいきなり求めるようなことはしていない。低次元化させる( = 今後の次世代身分制議会の評議名義性・選任議決性の敷居を荒そうとする )ことにしかならないような、ただ偉そうなだけの旧態出身の栄光や名誉の強調は控えながら静かに見守り、織田政権の名目・誓願書の確認と連署に応じるだけでも評価対象なのである。ただ怒り任せに踏み潰して回るばかりではない、まずは

 

 「見よ、かつての高官筋である京兆細川家( 細川昭元 )も京極家( 京極高佳 )も武衛斯波家( 斯波義銀 )も、格下げ覚悟で次世代改革の織田派を表明( = その評議名義・選任議決に賛同 したではないか」

 

という畿内( 中央 )での議会的な強調を以( も )って、今後はできなければならない上同士の前近代議会的( 評議名義的・選任議決的・選挙的 な影響力を旧中央関係者たちに与えながら、各所への進退を調略的に迫っていく所も重要になる。そういう所に理解があった京極高佳に対し織田信長は、立派な屋敷を手配して優遇していることからも有志扱いされていたことは間違いなく、格下げ覚悟で臣従できた者たちへの織田信長の面倒見の良さが窺えるのである。交流品性に影響力があった京極家がキリスト教に入信したからといって、それを巡って織田家中でいがみ合うことなど起きなかったことは、朝廷( 聖属議会。日本の外交と教義の敷居の管理機関 )の議会改革中までの、織田信長による有徳総代( 教義側の統制権 )の肩代わり期間( 織田家の公認はおろか意見提出の届け出の認知すらされていない勝手な教義上下権威の乱立拡散・閉鎖有徳運動を再燃させる集まりは厳しく取り締まる )がいかに優れていたか( 旧室町体制が解決し得なかった戦国前期の劣悪性癖・偽善憎悪闘争を克服できていたか )が窺える所になる。文化交流にはキリスト教をどうしても通さなければならなかったことに気まずかった西洋人たちに対し、織田信長は

 

 「我が織田政権としては、キリスト教への寛容政策を敷いてもよいとは思ってはいるが、ただし織田家としてはこれまで通り檀那寺( だんなでら。菩提寺 )を日蓮派法華宗から変える気はない」

 

 「キリスト教徒から見れば異教となる、その織田家( 便宜上は日蓮派法華宗の信徒 )の公認による文化交流でもよいと、イエズス会( とその主導国のスペイン )はそこを覚悟できるのなら、そこを大前提に強国同士としての和平的な文化交流をしたいということであれば、それなら有徳総代を肩代わり( 公認はおろか意見提出の認知すらされていない勝手な教義差別人事序列の禁止。次世代敷居のその閉鎖有徳の取り締まり )している織田政権がそれを便宜・保証しよう」

 

が前提だったことからも、それができる高次元側( 日本 と、そういう便宜を図ってもらわなければならなかった気まずい側( だがなんとか交流しようと努力していたイエズス会 との教義統制力差( 情報・技術・経済の文化交流の国際構想差 )の格の違いははっきりしている。織田信長は相手の弱みの足元を見るばかりの低次元な顔色の窺わせ合い/低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合いによる、低次元化させ合う原因となる偶像偽善( 捏造価値に頼った )上下の禍根( 国際地政学観の次世代議会序列敷居を壊し合い低次元化させ合う虚像・劣悪性癖 になりそうなやり方をことごとく嫌った。そうした姿勢を見せ付けてやることがかえって、そういう時代遅れな( 国際地政学観の次世代議会化を阻害し合う/壊し合う閉鎖有徳・教義悪用集団の取り締まりもできないような )低次元( 非国際協約評議主義的 )なやり方は織田政権( 日本 )では認可される訳がないというその格( 器量 = 国際地政学観 )の違いをますます見せつけられることを意味し、すなわちスペインの時代遅れの新大陸支配のやり方を遠回しに格下扱いしていたこと( 日本がスペインのやり方を格下扱いする側 )を意味する。黒人奴隷とされていたヨーステンをイエズス会が連れてきた際に、織田信長が「その弥助( やすけ。ヨーステンの和名 )は、我が織田政権の公務吏僚候補生だ!( 今後のアフリカ大陸諸国との交流もあるかも知れない、だからそれに備える人事の良例をここで作っておく! )」と謄本登録してしまったことは、それで人事統制( 織田氏の旗本吏僚体制。16世紀の絶対家長制の見直し体制 )が乱れることなど一切ない( 次世代身分制議会の序列敷居を巡る騒動はもはや織田政権下では起きない、それだけの旗本吏僚体制の等族指導が確立できていた = からこそ、それが何を意味するのかを手遅れになってからやっと少しは理解した連中が最後の最後でうやむや騒動を起こしたのが本能寺の変。後述 )、スペインではそれに追いつくのに100年はかかるかも知れない、到底無理そうなその国際人事( = 相手がイスラム教徒であろうがヒンドゥー教徒であろうが、話次第では日本はいつでも大使館と居住区を設置できる国際的な準備要領まで整えられている所 = 結果的に本能寺の変の要因になってしまう所 をイエズス会( とスペイン )は見せつけられてしまったのである。西洋文化圏の中ではキリスト教が絶対であったとしても、少なくとも日本の教義序列においては日本の政権議会( 武家の棟梁主導・世俗主導の、世俗・聖属両中央議会 )が評議・議決した人事( 教義統制・身分制議会 )に反逆( 偽善憎悪 することなどは一切許されない( 交渉から始めようともせずに反抗すれば失格・低次元な著しい格下扱い = 代替保証権・交渉権は巻き上げられる )関係であることが、そこ( 奴隷とやらのアフリカ人ヨーステンをいきなり織田信長の刀持ち = まずは旗本吏僚の作法を身に付けさせる近習扱い = 皆にうらやましがられる待遇 に抜擢してしまった人事 )からもはっきりさせられている。当時の明政府( みん。中国大陸政府。かつてと比べると世界との力量差は縮まりつつあったものの、それでも16世紀時点ではアジア最強どころか世界最強文明国だった )から見たスペインもそこは同じで、スペイン・ポルトガルが喜望峰回り( きぼうほう。アフリカ大陸南端回りからのアジア方面航路。エンリケによる目覚ましい航海技術研究と航路開発がきっかけとなった )からアジア進出( インドネシア貿易 )ができるようになった折に、先にインドネシア貿易に進出していた明政府の貿易船と現地で接触することになったことを好機に、スペイン・ポルトガルは明政府との貿易交渉を試みるも、明政府からは対等国として扱われず、散々格下扱いされて話にならなかったのもそういう所( 国際間・異環境間・道義外でありながら、キリスト教のいいなりになろうとしない/今の日本の低次元な教育機関のいいなりになろうとしない相手にケンカ腰に神経質に怒り狂おうとする、それで当事者性・痛感性・動機的初動 と 主体性・教訓性・本分的終点 の敷居確認の近代議会的な品性規律の手本の示し合いをうやむやにし合う傾国・衰退・組織崩壊の原因を持ち込み合って荒らし合い低次元化させ合うことしか能がない、迷惑千万もいい所の自分たちのその低次元なだらしない偽善憎悪の欠陥も自分たちで解決・議会改革できない、蛮族どもの非国際地政学観の猿芝居劇場など高次元側から相手にされる訳がない所 )も当然含まれる。公会議制( プロテスタント派/公的教義主義との決別派たちの教会改革に対する、再カトリック派/今一度の伝統の再結束派たちによる対抗教会改革議会 )をスペイン王室議会に支えてもらわなければならなかった立場だったイエズス会士たち( 有志たちが集まって結成されたイエズス会によって、プロテスタント派から言われっぱなしの何も進まなかった教会問題の改善努力が、やっと始められるようになった。プロテスタント派を考えていた者たちの中には、もう一度カトリックを信じてみようと、教皇庁の肩代わり役のイエズス会を支持し始める者も増えた。教皇庁があまりにも何もできない、すなわち外に対する国際地政学的裁判力など皆無だったから、強国との外交大使役もイエズス会が努めなければならない有様だった )は、明政府に続いて織田政権との交渉でも改めてそこ( 教義の悪用に頼ってばかりの非同胞手口の低次元な愚民統制的な隷属支配の挑発手口。西方教会圏内でさえその時代遅れのやり方に対する改善に難儀していたからプロテスタント運動に手を焼くようになった所 )を思い知らされる( 格下扱いされる原因となる )気まずい想いをしなければ( = その新大陸支配とやらで国際地政学的な強国盟友領域網を築けているのかと問われれば、盟友扱い、同胞的寄騎扱いなどできていない分際が「キリスト教こそが世界の中心」などと寝言をほざいている場合ではない、その身の程知らずの立場を思い知らなければ )ならなかった。だからそこを大目に寛大に見てもらった織田信長に妥協しなければならなかった( = スペインどころではない次世代人事敷居だった格上の織田政権を見習わなければならないことを思い知らされた )のが実態なのである。盟友扱いや寄騎扱い( 名目・誓願を共にする見習い合いの地政学的再統一。等族諸侯扱い )の施政( 国際構想の次世代身分再統制・前近代謄本登録制による情報技術経済交流社会化 )など敷けていない時点で支配下登録( 国際地政学的強国領域化 )した内に入らない( = 所詮はオスマン帝国からけしかけられた大規模な領域戦に煽られて慌ててその負担先として新大陸進出し、場凌ぎに低次元な収奪体制を敷いていたに過ぎない損失補填的・非同胞的なやり方など長続きしない = カトリック派のスペイン・ポルトガル組の新大陸支配権・制海権は、のち国教をプロテスタント派に切り替える形でスペイン主導と決別・反抗するようになったイギリス・オランダ組にかっさらわれることになる )前提だった織田信長が寛大に助け舟を出してくれたから、イエズス会士たちもなんとか日本との文化交流に取り付くことができたのが実態なのである。16世紀のこの国際地政学観( 社会心理・全体像 )の前提がまず理解できていないと本能寺の変の性質も全く見えてこない。下々の間では上同士で何が起きているのかすぐには理解できなくても、先々の国際地政学観の向き合いができなければならない織田政権とイエズス会の間ではそのくらいはお互いに解り切っていた上での文化交流だった、それが当時の日本とスペイン( の外交大使役のイエズス会士たち )の国際関係だったのである。あとでまた順番に説明していきたいが、イエズス会士たちによるスペイン王室向けや教皇庁向けの西方教会圏側の当時の文献の「キリスト教バンザイ、スペイン一強バンザイ」をそっくりそのまま鵜呑みする者が後を絶たないが、その財政はフェリペ2世の先代のカール5世時代から火の車だった上に、カトリック派プロテスタント派とでの本格的な大分裂がいつ始まってもおかしくなかった、足元などフラついていたやせ我慢大会状態の気まずさへのごまかしでしかない。近年の歴史家とやらや大学教授とやらは揃いも揃っていとも簡単にそこに振り回され、その誤認をたらい回し合うことしかしていないのはあきれる他ない。キリスト教社会の実態に対する向き合い方にしても、16世紀の国際地政学観の黎明期( 教義改革時代。裁判権史。身分再統制史 )の特徴( 全体像・社会心理 )に対する向き合い方にしても、教義( = 国際人道観 )を語る資格などない今の日本の低次元な教育機関の猿芝居劇場 低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な頭の下げさせ合い・低次元な落ち度狩りでねじ伏せ合い続けさせるGHQ体質のままの愚民身分制議会 )のいいなり体質丸出しの人生観しかもち合わせていない、そこを自分たちで危機管理し合う( 低次元ないがみ合いをやめ合う/やめさせ合う ことを徹底的にケンカ腰に面倒がり合い、下同士で下を作り合うことしかしてこなかった法賊( 偽善者 )どもが、当時のことでも現代のことでも下同士( 当事者性・初動的動機。民事的規範 )上同士( 主体性・本分的終点。構想的公務規範 )の危機管理の見渡し方などできる訳がないのである。後でまた順を追って説明していくが、外国交流に関する正式な公表も間もなく控えていた中で本能寺の変が起きてしまい、代わって中央を掌握した羽柴秀吉が西洋との交流を大規制する方向転換を始めたため、向こうの文献で日本のことを悪くいっている部分というのは、今までの交流努力が報われなかったことへの後付け、つまり恨み節を後で書き足す形で訂正したものに過ぎない。スペインは日本との交流をきっかけに、日本の力を借りて財政を立て直すつもりでいたのと同時に、プロテスタント対策やオスマン帝国対策の一環として遠方強国との世界交流をきっかけに教義改革( スペイン王室議会改革 )をする覚悟も当初はあった上で、日本と接触するようになったのも間違いない。しかし日本側が豊臣時代になってから冷たく突き放される政策を始められてしまい、スペインは日本との交渉を必死に続けたが、豊臣秀吉に容赦なく手切れの政策を採られてしまったため、スペイン王室から見た「日本に見捨てられた感」の衝撃は、スペイン王室議会の内々では相当のものだったと見てよい。プロテスタント組のイギリス・オランダが後で慌てて日本にやってきて、豊臣秀吉の死去後に徳川家康にスペイン・ポルトガルと手切れするよう必死に訴えた姿からも、日本の協力次第でスペイン再生ができてしまいそうな、プロテスタント派たちから見ても日本はあなどれない文明強国化が進んでいたと見なされていたのも間違いない。「日本人奴隷計画」とやらの誤認の真相も何だったのかといえば、日本人がキリスト教徒たち( と堺衆たち )の案内でポルトガル船に一緒に乗って、インドネシア方面、アラブ方面、アフリカ大陸、そしてイベリア半島( スペイン・ポルトガル )へと世界交流をしたがっていた、織田政権時代にそういう話も浮上していてそれを楽しみにしていた者たちに対し、後期型兵農分離( 天下総無事の身分再統制 )の一環でそれらを国外に出さない方針になってしまい( 後述 )、それをやめさせなければならなくなった豊臣秀吉が、やむなくの策謀的な言いがかりで西洋人たちに嫌われようとしたものになる。残酷な話ではあるがせっかく親交的な友好関係になりつつあった日本人と西洋人との仲を、向こうの事情をよく理解できている羽柴秀吉がやむなく心を鬼にして策謀的にその仲を裂かなければならなかった( 「西洋人たちはキリスト教徒でなければ全て奴隷身分なんじゃなかったのか? 全員がキリスト教徒ではない日本から最恵国待遇を得ようとする前に、西方教会圏のその地政学的身分再統制の見通しはどうなっておるのだ?」という格下扱い的な当てつけ )のが真相だったと見てよい。下々はすぐには理解できないからそのようなやり方がされてしまったが、織田政権時代のことをよく理解できていた旧織田家臣の上層たちはその事情は皆解っていたのである。緘口令( かんこうれい。上の間で何が起きているのか、すぐに理解するのも難しい下々を動揺させないために余計なことは話すな。大事な発表は豊臣政権がやる )で皆黙っていただけで、実際は織田政権時代に予定されていた海外交流を楽しみにしていた者も多く、しかしそうなってしまったことに内心はがっかりしていた者も多かったのである。新大陸の盟友化・寄騎化どころかトスカーナ( イタリアの有望国フィレンツェ共和国 )の強国化政策( コジモ1世時代 )の同胞的寄騎化をようやく支えられるようになったスペインが、急激な人事改革がされたその後にも豊臣秀吉徳川家康という明確な武家の棟梁( 絶対家長・世俗議会側の統制総家長 )が続く日本に対し、カトリックとプロテスタントで揺れている中で日本人奴隷化政策など、受け入れてもらわなければならない分際ができる訳がないのである。本能寺の変の大事な特徴として、なぜそんなことになったのかの前後関係をのちほど順番に説明していきたい。今回は京極氏の説明として、近江衆全体としての説明もまだまだしていきたいが字数制限になってしまった。少し事情が特殊だった近江衆の特徴は、関ヶ原の戦いでなぜ石田三成が不利になってしまったのかの話や、だいぶ後になるが 1842 年に起きた、江戸時代の大規模一揆のひとつである近江天保一揆でもその特徴の尾を引いていた所なども説明したかったが、今回は字数制限の都合で書ききれなかったため、同じ近江衆の朽木氏の方でその説明をしていく。関ヶ原の戦いの際に、近江衆の間で何が起きていたのか、京極高次が西軍の足止めに動いたことや、西軍を装いながら態度を曖昧にしていた小早川秀秋が重い腰を上げて東軍を示すために、西軍の大谷吉継勢の粉砕にかかった際に、大谷勢の寄騎扱いだった朽木元綱らが一斉に東軍側に転じて西軍を攻撃し始めたのも、あれもどういう意味があったのかの近江衆の特徴も、朽木元綱の方の説明でしていきたい。

 

字数制限の都合で今回はここまでとなる。残りの説明予定の項目をそのまま列挙しておく。( 項目人物は暫定。変更の可能性あり 

 

 

 朽木元綱 くつき もとつな

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 

 九鬼嘉隆 くき よしたか

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 阿閉貞征 あつじ さだゆき

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ