本能寺の変とはなんだったのか70/95 本能寺の変の全体像16/41 2024/07/30
ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~15」を読んでいる前提で、その話を進めていく。
織田信長の人事。前回の続き。
- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
水野信元 みずの のぶもと
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
荒木村重 あらき むらしげ
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
松永久秀 まつなが ひさひで
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
原田直政の取り巻きたち
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )
※ 本能寺の変の全体像07 で先述
神保長住 じんぼう ながずみ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
手遅れと見なされた越中衆たち( 他の国衆たちも同様 )
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
安藤守就 あんどう もりなり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -
佐久間信盛 さくま のぶもり
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
林秀貞 はやし ひでさだ
※ 本能寺の変の全体像08 で先述
- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -
丹羽氏勝 にわ うじかつ 岩崎丹羽氏
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -
京極高佳 きょうごく たかよし
※ 本能寺の変の全体像09 で先述
朽木元綱 くつき もとつな
※ 本能寺の変の全体像10 で先述
山岡景隆 やまおか かげたか
※ 本能寺の変の全体像11 で先述
長連龍 ちょう つらたつ
※ 本能寺の変の全体像12 で先述
神保氏張 じんぼう うじはる
※ 本能寺の変の全体像13 で先述
九鬼嘉隆 くき よしたか
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
粟屋勝久 あわや かつひさ
※ 本能寺の変の全体像14 で先述
宇喜多直家 うきた なおいえ
※ 廃項とする
- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -
阿閉貞征 あつじ さだゆき
本項の阿閉貞征は、近江衆( おうみ。滋賀県 )の有力者で、元は近江北東の代表格の浅井氏( 正式の読みは あざい ということだが あさい と両方で呼ばれていたようである。筆者は あさい と呼んでいる )の重臣の立場だったが、近江衆の中ではだいぶ出遅れる形で織田派に組みした。織田信長からだいぶ擁護的な扱いを受けたことや、本能寺の変の際には明智勢に加勢したことで羽柴秀吉から手厳しい改易を受けることになってしまった表向きの印象ばかりが取り沙汰されがちで、当時の特徴的( 地政学的・上同士の社会心理 )な経緯が説明させてこなかった。本項からは転落組たちの話になるからこそ、当事者軸的、地政学的な事情から十分に説明されてこなかった阿閉貞征について、見落とされてきた本能寺の変の特徴もまた別の角度から窺えることとして訂正的に見渡す紹介をしていきたい。近江北東の代表格として台頭した浅井氏との、その主従関係を続けてきた阿閉氏は、家格序列的にどのような関係だったのか、織田信長が旧近江主従( 京極氏を追い出した近江北東の浅井主従、南近江の六角主従 )たちのことをどう見ていたのかも重要になってくる。本項の阿閉家は ”土壇場になって織田氏に保身に走って朝倉氏・浅井氏の消滅を助長し、織田政権時代には優遇扱いを受けておきながら本能寺の変では場凌ぎ的な明智勢の呼びかけに加勢したため、不義の報いの結末を迎えた” といった安直かつ短絡的な印象のみ取り沙汰されがちになる。織田信長の朝倉・浅井両氏制圧後、阿閉貞征は、浅井氏の旧管轄( 近江北東 )を任されることになった羽柴秀吉に改めて配属されることになるも、羽柴秀吉とは折り合いがつかずに確執が生じるばかりとなったのも目立った。本能寺の変の際には阿閉貞征は、近江再統一( というより織田氏の近江政権構想の旗本吏僚体制の解体 )に乗り出した明智勢に加勢し、近江の羽柴領を占領する動きに出たため、明智勢の制圧に成功した羽柴軍団から手厳しい処置を受けることになった。織田政権時代に近世大名の家格を得かけていたひとつだった阿閉氏は、この時に改易・消滅させられる結果となる。阿閉貞征は、こうした場面ごとでの強い印象ばかり残してしまう結果になってしまったからこそ、見落とされてきた経緯・事情について触れていきたい。今回は時系列の前後が大きめの説明になる。まず、1568 年に織田氏が畿内( 中央 )に乗り込んで以来、1570 年には畿内再統一( 世俗・聖属 両中央議会改め )を巡る反織田派たちの反抗が目立つようになり、阻止されたかのように見えたが、それも 1572 年までだった。所詮はただの勢い任せ( 上同士での手本の示し合いでなければならない、次の段階に進めるための評議名義性・選任議決性の敷居確認をケンカ腰にうやむやにし合っているだけの、ただの偽善憎悪・老害序列のたらい回し合い押し付け合い )でしかない目先の利害次第でしかないような、いい加減な結託の仕方など長続きする訳もなく翌 1573 年にはその勢い任せが早くも鈍化し始める。1573 年に入って畿内近隣の反織田派たちの勢いがさっそく下火になり始めると、織田氏の畿内再統一への反抗の影響力を維持し続けてきた朝倉・浅井連合の威勢も弱まったことで、織田氏はそちらの制圧を優先することになった。ここで、それまで盟主の浅井氏にやむなく従ってきた本項の阿閉貞征が、織田氏のその動きを機に浅井氏( 反織田派 )からとうとう離反、格下げ覚悟で織田派に鞍替えする事態となる。旧畿内の反織田運動の拡散・長期化をさせることができなかったこともはっきりしてきた 1573年の段階で、越前の朝倉と近江北東の浅井の両氏は、織田氏によって制圧されるのも時間の問題となっていた。これまでは織田氏のことを皆で妨害し合ってきたから朝倉・浅井両氏は反勢力を維持できていたが、それが鈍化し始めた中で織田氏と直接対決しても勝ち目はなかったこと、両氏の終焉が見えていたこともはっきりしていた。そんな中で、浅井氏の重臣のひとつであった阿閉氏( 伊香郡のまとめ役。いか ぐん )に織田派に鞍替えされてしまったことは両氏にとって、なお時間稼ぎもできなくする決定打となる。阿閉領( 伊香郡 )の地理は両氏消滅を加速させたといってよいほど、織田氏から見た朝倉浅井制圧におけるそれまでの厄介な防波堤になっていたのである。両氏( 朝倉・浅井 )を守るための交通の要所になっていた伊香郡( 伊香郡は、若狭と越前と近江北東とを結ぶ郡。それまで近江北東の浅井氏は、北隣の朝倉勢と2ヶ国的な連携をしながら、もし織田氏が近江北東の制圧に動いても時間稼ぎの小競り合いに持ち込み、その間に朝倉勢の援軍を待ちながら、他の反織田派が動き出すのを待っていればよかった。織田氏としては、浅井攻めを妨害してくる越前朝倉氏とまずは直接対決したい所だったが、南近江の織田領から若狭や越前へ向かいたくても浅井氏・阿閉氏が通せんぼし続けてきたため、山城若狭経由から少し遠回りして越前入りするしかなく、そこに浅井勢や他の反織田派が横槍を入れてくるという、厄介な時間稼ぎ作戦の均衡が続けられてきた。広めの3郡ほどを統括する立場だった浅井軍団は半農半士まじりで背伸びして6000ほどで、織田氏は決戦時は2万以上は当たり前に動員していたのと比べると大きくなかったが、浅井氏は越前と近江の道を塞ぐ地理を活かして朝倉氏と連携することで、織田氏への時間稼ぎ的な反抗を続けていた )の通行権を織田氏に明け渡すことになったことで、たたでさえ反織田派の勢いも鈍化し始めていたこともあり、朝倉浅井両氏は今までのような領内の守り方もできなくなった。阿閉領( 伊香郡 )から朝倉勢と浅井勢のこれまでの連携を分断・足止めできるようになったことで、あとは織田氏は浅井郡の湖岸側の街道筋だけ確保すれば、浅井勢からの背後を気にすることなく、若狭側と近江北東側( 南近江側 )の両面から越前朝倉攻めも可能となるという有利な状況となった。阿閉貞征の織田派への鞍替え劇は、朝倉・浅井の連携を崩壊、すなわち織田氏にとっての近江再統一( 残りの浅井勢の近江北東部の制圧 )と越前再統一( 朝倉勢消滅 )の決定打となることを意味したことは、朝倉義景と浅井長政としても( 織田信長も )そのくらいり想定もできていた気まずさだけはあった上で、今頃慌ててももう遅い形でこのような結果となったというだけに過ぎない。織田勢( 次世代体制をどんどん進めている側 )と単独で対決しなければならなくなった朝倉勢( 旧態権威が遅々として改まっていかなかった側 )は、これまで越前は大軍に乗り込まれた経験もなかった性急さも手伝って総崩れを起こす形で、1ヵ月足らずで織田氏に越前を制圧され朝倉氏消滅。そして浅井氏もすぐさま制圧戦に動かれ、こちらも1ヵ月足らずで制圧・消滅されることになった。1573 年 に、反織田運動の勢いが下火になり始めたのが顕著になってから、朝倉・浅井両氏は計3ヵ月も持たずに織田氏に制圧されたことは改めて全国的に驚かれたと共に、日本( 畿内 )は明らかに、次の段階に向かっていることを知らしめることになった。織田氏の畿内再統一の妨害( 反織田派 )に回った連中の気まずさとは、上同士での地位・議席の譲り合いの格下げ覚悟( 旧態序列改め )の進退( 評議名義性・選任議決性 )を自分たちではっきりさせられない( 折り合いがつけられない )気まずさだけでない。織田氏といったん争うことになったのは仕方ないとしても、下士官以下の従事層たちから見れば自分たちの代表( 表向きの自分たちの総家長とその上層たち )には、見通しの区切り( 進退 )もどこかで付けてもらう形で、織田氏と改めて和解・停戦交渉に動いて欲しいと期待する者も、内々では当然いるものなのである。だから、自分たちが優勢に向かっているように見えない( 自分たちのしていることが、今後の畿内のためになっているように見えない。織田氏に遅れを取る一方にしか見えない )中で、再交渉の動きも見られない( 上層たちの目先の権威的な都合次第のものにしか見えない、皆のため、下々ための見通しのように見えない )状況下でその対立にいつまで従い続けなければならないのか、従事層たちもいい加減にそこに疑問をもち始める戦意にも影響してくる状況をごまかし切れなくなっていく気まずさという、日本の16世紀の特徴である前近代的な地政学観の基本に触れられてこなかった。なんでもかんでも 裏切り のひと言で 自分たちだけ助かろうと出し抜いた短絡的な悪意がそこに絶対にあったと断定・挑発する片付け方 をすればいいかのような、その非史学観( 誤認助長 )を改めることこそが史学研究の本来の向き合いであるにも拘わらず、その誤認がろくに訂正されていかないのはあきれる他ない。織田氏の天下静謐( 次期絶対家長。武家の棟梁 )の敷居の足並みにさっさと連携しようとしない地方が、織田氏に少し突かれたくらいで総崩れを起こし始める地方が 1580 年代に入る前から目立つようになったのも、そうした上同士での日本国内の地政学観の力量( 次世代中央総家長側の敷居にさっさと従わなければ改易されて当然の地方家臣の分際の関係 )もいい加減にはっきりしてきていたことの現れなのである。ここは現代の個人間・組織間・国際間でもありがち・陥りがちな課題( 経過の重みにともない評議名義的・選任議決的な議事録処理的敷居確認・境界的危機管理といえる上・代表・組織構想としての本来の等族指導が追い付かなくなると、やらされているだのやってやっただのの、低次元化させ合う悪意狩りしかできなくしていく低次元な顔色の窺わせ合い合戦の原因、低次元な被害者ヅラ迷惑ヅラ善人ヅラ合戦で序列統制し始める原因となる = 荀子・韓非子の組織論で、典型的な崩壊構図だと指摘。孫子の兵法の国家論でもまずそういう所から力量差が決してしまい、物的戦の前の情報心理戦から優劣がはっきりしてしまうことを指摘 )なのである。ここで、阿閉貞征は決して安泰とはいえない立場だったこと、むしろ近江北東衆への義理を長引かせてしまい、織田派への鞍替えに出遅れてしまった分だけ、結果的に不運な流れに向かっていってしまったことを当事者軸的に順に追っていきたい。まず、阿閉氏がもし織田派に鞍替えすることが無かった場合、畿内の反織田派の勢いが弱まり始めた( 所詮は目先の利害次第のうやむや騒動 = 畿内再統一妨害 = 次世代身分制議会荒らし の低次元な愚かさだらしなさの団結など長続きする訳がない )中であっても、織田氏による朝倉・浅井連合の制圧には、陣地戦が用いられる等で半年や1年、粘られれば2年くらいはかかったかも知れない。織田信長としては、いったん離反した浅井長政が織田氏に再恭順する気がないのなら、越前攻略と近江全土統一をさっさと進めたかった所になる。反織田運動も下火が目立ち始めたからこそ、織田氏が越前( 朝倉氏 )と近江北東( 浅井氏 )の制圧にとうとう目を向けると、ここで阿閉貞征が観念する形で織田派に鞍替えすることになったが、越前と近江北東の制圧を大いに早める口火となっただけでも、それだけでも阿閉貞征の功績は大きかったといえる。越前朝倉攻めで阿閉貞征は、織田信長からさっそく手柄を立てる優先権を得る優遇扱いを得て参戦もしている。それまでは阿閉貞征は近江北東衆として、その盟主である浅井氏の歩調にやむなく合わせてきたが、そもそも織田信長と浅井長政( 足利義昭・朝倉義景 )との対立を阿閉貞征はどう見ていたのか、織田信長と浅井長政からは阿閉貞征のことをどう見えていたのかも見渡して行く必要がある。浅井氏にやむなく従ってきた阿閉貞征の事情を見渡すためには、そもそも浅井氏がどのような立場であったのか、時系列の前後が強めになるが紹介していきたい。前時代の室町政権が成立( 日本で初の世俗・武家政権となった鎌倉崩壊を機に、聖属・朝廷中心政権に戻そうと試みられたが時期尚早の課題が多すぎたから、今しばらく世俗・武家政権で再出発 )するまでに、北朝( 光厳天皇 こうごん てんのう。今しばらくの世俗政権の方針に理解して頂いた )から委任された足利尊氏( 室町初代将軍 )の、その功臣のひとりであった佐々木道誉( ささき どうよ。旧態通りに縛られることや安直な義理人情といったものを嫌った策士として著名で、ばさら大名と呼ばれた。名族・佐々木源氏一族の上層出身 )が近江の地を任されることになって以来、近江はこの佐々木源氏一族の上層たちによる支配が続けられてきた。しかし室町権威は崩壊する一方になり、戦国後期( いかに地方・郡をまとめられるか、地政学的に広域統制できるかの総力戦時代 )に突入するまでには、佐々木源氏の本家筋的な立場であった南近江の六角氏( ろっかく )は表向きの権威はどうにか維持、近江北西の朽木氏( くつき。佐々木源氏一族 )も地元の高島郡はどうにかまとめていたが、近江北東を持ち場としていた京極氏( きょうごく。佐々木源氏一族 )は衰退が著しく、その代表格としての地位が維持できなくなりつつあった。そのため南近江の六角氏が京極氏の後押しするという理由で( 六角親分が京極子分の面倒を看るかのような力関係を強調しながら )近江北東( 京極氏の管区 )の再統一に介入するようになったため、近江北東の国衆たちは南近江権威( 六角権威。よそ者権威 )による格下の陪臣扱い( 属国扱い )として従わされることに不満を強める( = 近江北東部における自分たちの代表格を、自分たちで明確化できないことに危機感を強める )ようになる。室町序列での本来の近江北東の代表格であった京極家は、その国衆( 有力家臣 )たちと、南近江の六角権威との間で、都合次第のおもちゃのごとくたらい回され、だから京極家の権威などいよいよ皆無になった。近江北東の代表格がはっきりしないからこそ、国衆たちもそこ( 戦国後期の地政学的領域戦・総力戦体制比べにおける評議名義性・選任議決性 )に少しは危機感をもつようになり( それもできない低次元な弱小国は、それができている高次元な強国に従わさせられる力関係になって当然という国際文化経済交流観が、黎明期的に強まり出したのが16世紀の特徴であり、その縮図である国内地政学観がいい加減に求められるようになったのが戦国後期 )、だからこそ有望視されるようになった京極家の最有力家臣の浅井家が、下剋上的に( 代表選的に )一定の支持を集める形で京極家を追い出し、この浅井家が名実共に近江北東の代表格を肩代わりするようになった。浅井氏による近江北東の再統一、つまり六角( 佐々木源氏一族 )権威派を排撃し始めた浅井氏は、越前をまとめ始めた朝倉氏( 越前の元々の支配者であった管領斯波氏の有力家臣だったが、管領権威を追い出して台頭 )の加勢を時折得ながら、京極氏に代わる戦国大名らしい台頭をし、以後も六角氏( 南近江勢 )と浅井氏( 近江北東勢 )は険悪な対立は続いた。六角家( 佐々木源氏の上層 )からすると京極家( 佐々木源氏の上層 )の家臣のはずの浅井家が( それと同列の親類扱いの典礼を受けた訳でもない家臣が )近江北東の支配者になるなど認めないという理由で、執拗に浅井家の力を削減しようと動くが、近江北東の国衆たちはなんとか団結させることはできていた浅井家は苦戦もしつつもしぶとい反抗を続け、六角氏が浅井氏を抑え込むことは結局できなかった。3郡ほどをなんとか統括するようになった浅井氏は、表向き6郡ほどを統括する立場だった倍の六角氏を追い返しながら近江北西( 高島郡 )に目を向け、朽木氏を従わせようと格下扱いしながらたびたび攻勢に出るようになる。それを朽木氏( 佐々木源氏の上層筋 )はどうにか防いでいたが、六角氏( 佐々木源氏の親分格 )が抑え込むことができなかった浅井氏との力関係に苦慮することも多くなった。近江がそのような均衡になっていた中で、織田氏が美濃攻略を済ませ、足利義昭との連盟でさっそく畿内に乗り込むことになる 1568 年を迎える。浅井氏はこの時は、足利・織田連盟による畿内の乗り込みには妨害しない不戦関係を提携したが、六角氏はその妨害に動いたため織田勢との直接対決によって軽くひねり潰されてしまうことになった。浅井氏からすれば、南近江( 6郡ほどあった六角領 )の再統一などできる力などないどころか、高島郡( 朽木氏 )ひとつすら、格下扱いまではできても従わせることは( よその管区の郡ひとつ再統一することも )結局できなかったのである。それまで浅井氏は六角氏を追い返すのに苦戦することもあった立場だった中、とうとう畿内に乗り込んできた織田氏がその六角氏のことを、直接対決ならいとも簡単にひねり潰してしまった( それができるだけの次世代式の前期型兵農分離・旗本吏僚体制の人事敷居改革ができている )ことに震撼しない訳がない所になる。六角氏からすると、畿内再統一ができそうだった織田氏にそれに乗り出されればいよいよ立場がなく、旧権威序列的な( 浅井氏も潰し得なかった )六角氏がその役目を急に肩代わりできる訳もなければ、織田氏に何ら協力などできそうにもない( どころか内部崩壊し始めていた有様だった )という、どう転んでも南近江の代表格としての六角権威は解体に向かう運命なのも目に見えていた気まずさからの反抗だったといえ、近江北東の代表格としての浅井権威もそこは似たような立場だった、織田氏の敷居に問われる立場だったといえる。それでも浅井氏は旧権威( 京極氏 )を追い出した有力家臣出身だった分だけ、六角氏よりは当初は織田氏と向き合う余地はできた。一方で複数の郡をまとめる立場ではないが、将軍家の側近・護衛役の重臣格という少し特殊な立場だった朽木氏( 近江北西衆。高島郡 )の場合は、織田信長が足利義昭を後押しするという形で畿内に乗り込んできたため、織田派を表明しやすかった立場だった上に、織田派に組みしておくことで今まで悩まされていた浅井氏との力関係の解消を狙う利点もあった。近江衆の中での軍役的な家格だけを見れば、伊香郡の代表格であった阿閉氏は、高島郡の代表格である朽木氏、南近江の蒲生( がもう )郡の代表格の蒲生氏、栗太( くりた )郡西部の勢多( せた )城の山岡氏らとは似たような立場になる。朽木氏は少し特殊だが、1570 年に織田氏と朝倉・浅井連合とでの対立以来やむなく従ってきた阿閉氏が、旧主の実質の壊滅を見届けるまでは旧主に律儀に義理立てを続けた( 従い続けた )所も蒲生氏や山岡氏と類似していたといえ、この後者ふたつがそうだったようにそこはむしろ織田信長からの評価題材になっていたと見てよい。1573 年に阿閉氏がついに織田派を表明したことが、それが朝倉・浅井両氏を壊滅に向かわせたかのよう目立って見えたため、それが絶対的な原因であるかのように早とちりされがちだが、旧畿内権威派( 反織田派 )の勢いが早くも下火になり始めた( 織田氏の畿内再統一をうやむやにケンカ腰に妨害し続けるための長期維持の結束など、やはりできそうにないことが露呈し始めた )時点で、下々の間では上の間で何が起きているのかをすぐに理解するのも難しくても、上同士の国内地政学観としては、朝倉・浅井両氏が織田氏に制圧されるのも時間の問題( いずれ総崩れを起こすことも見えてきた。特に朝倉氏はあっけなかった )になっていたことは上同士では解り切っていたのである。阿閉貞征の離反劇は、盟主の浅井氏( と、朝倉氏 )が実質壊滅していたも同然の終焉状態になっていた、織田氏とは勝負するまでもない地政学的・戦略的情勢を見届けた上で降参したに過ぎない。阿閉貞征としては盟主の浅井氏が、六角氏の時のようにすぐには壊滅せずにヘタにしぶとさを見せてしまった分だけ、同胞( 浅井氏・近江北東衆 )への義理立ての期間も長引くことになり、織田派に組することにそれだけ出遅れてしまったことが織田氏への帰順後の阿閉氏の立場を不利にする結果になったといえる。その意味で近江衆を改めて見渡すと、旧六角氏の有力家臣であった山岡景隆( やまおか かげたか )と蒲生賢秀( がもう かたひで )の場合は、畿内に乗り込んできた織田勢と単独で対決しなければならなくなった六角勢が、1568 年の時点で早々に総崩れ状態になってくれたことで、これらは南近江組としての同胞に義理立てしなければならなかった期間も長引かせずに済み、早めに織田氏に帰順できたことが結果的にはかなり有利だったといえる。織田信長から見ても、山岡景隆から見ても、蒲生賢秀から見ても、朽木元綱から見ても、近江北東では浅井久政・浅井長政親子が朝倉氏と結託する形で長引かせてしまったからこその、5年近く出遅れることになった阿閉貞征の立場の内々の気まずさくらいは、相互的( 上同士の地政学的 )に理解できていたのも間違いない。過小評価されがちな重要な 1570 年9月の志賀の陣・宇佐山城の戦い( 織田氏と対立した朝倉・浅井とで主に志賀郡方面で起きた戦い。今の滋賀県大津市の少し北側?で起きた戦い )で、阿閉貞征が何も思わなかった訳がないこの事情を紹介したい。この戦いは朝倉・浅井連合( にやむなく従っていた阿閉氏 )が、山城と近江と美濃を結ぶ織田氏の近江領の産業法改め( 街道整備・前期型兵農分離 )の重要地のひとつである大津( 街道 )を荒そうと( 壊そうと )、織田氏が畿内西側の三好氏らと反織田派たちと戦っている隙に、その( 大津付近の )防衛線である宇佐山城の攻略を目論んだ戦いになる。ここを任されていた織田信治( おだ のぶはる。織田信長の弟。有望視されていたひとり )が、織田信長本軍が救援に駆け付けるまでこの重要な防衛線をなんとしても守ろうと、1000もいたかどうかの手勢で、朝倉・浅井勢の1万2000近くに対して果敢に応戦、激戦を展開した。織田信治は劣勢な中でも出撃し、多勢の朝倉・浅井勢をひるませることに成功するが、多勢相手に退こうとせずにあえてそのまま戦い続け戦死。その寄騎であった森可成( もり よしなり。尾張衆。織田信長から買われていた )と青地茂綱( あおち しげつな。蒲生賢秀の弟。蒲生茂綱 )も、織田信治のことを最後まで見捨てずに共に戦ったため、朝倉・浅井勢( に従っていた阿閉氏 )は、宇佐山城に迫る前のこれらに手間取り、気勢を削がれることになった。織田信治たちが朝倉・浅井勢を手こずらせている間に、宇佐山城の守備を任されていた織田信治の部下たちは籠城の応戦体制を整えることができた。時間稼ぎをしてくれた織田信治、森可成、青地茂綱の戦死を無駄にしてはならないと城内は士気を高め、宇佐山城に多勢で攻めかかってくる朝倉・浅井勢に対し、500もいたかどうかの守備勢は皆逃げ出さずに必死に防戦。落城してもおかしくなかった宇佐山城は朝倉・浅井勢の手に落ちる前に、実働2万はいたと見られる織田信長本軍が間に合い、防衛に成功する。朝倉・浅井勢の当面の目論見( 宇佐山城攻略。大津方面の切り崩しの狙い )は阻止され、ここで織田勢が朝倉・浅井勢を追い返すべくの猛反撃が始まると、反織田に便乗した延暦寺が、大事なことを急に思い出したかのように寺社領で、禁じ手である軍( 僧兵 )を組織して朝倉・浅井勢に加勢、大軍同士で対峙する緊迫した状況となった。織田氏のおかげで畿内の都市経済が100年以上ぶりにやっと復興に向かい始めた矢先だった中で、これが長期化や戦火拡大に向かってしまうのではないかという危惧もされ、正親町天皇( おおぎまち てんのう )の呼びかけもあってこの戦いは、いったんの停戦提携( 和平の意味は薄かった )となった。朝倉・浅井勢は織田氏を困らせることはできたが、目論み通りにいかなかった( 織田氏の敷居による畿内再統一をうやむやに荒らすには至らなかった )からこそ、阿閉貞征は気まずかった、朝倉義景と浅井長政はさらに気まずかった、延暦寺などはより低次元な意味で気まずかったことは上同士では丸解りだったこの戦いの地政学的( 近代議会的 )な影響について、ろくに説明されてこなかったため触れていきたい。まず、1568 年冬に織田氏が畿内に乗り込んでから 1570 年までに、当初は良好だった足利義昭と織田信長の関係も敷居の行き違いから早くも悪化し始め、織田氏が若狭介入に動く前から旧畿内では、織田氏の畿内再統一の敷居に対し上の間では賛否( 大まかには、刷新もやむを得ないとする織田派か、旧権威序列をできるだけ残そうとする反織田派か )が( まだはっきりさせていない旧有力者も多かった中でも )強まり始めていた。そんな中で織田氏が若狭介入に乗り出したため、それをきっかけに朝倉氏が織田氏と表立って敵対することになるが、ここで浅井氏が織田氏とのそれまでの不戦関係から離反し、朝倉氏に加勢した( 共に織田氏の若狭再統一を妨害する動きに出た )この時から、朝倉浅井連合は隙を見て織田氏の畿内再統一の妨害に動く( 織田氏を困らせようとする )機会を窺っていたと見てよい。織田信長が若狭介入に乗り出す時までには、高島郡の朽木元綱、栗太郡西部の山岡景隆、蒲生郡の蒲生賢秀ら、織田派に組みしたこれら近江衆たちは織田氏に協力的に連携・味方し、新参でありながら織田信長からさっそく信任を得始めていた。そんな一方で、3郡ほどを統括する立場であった、表向きはそれらよりも格上であった浅井氏は、それまでは旧近江権威側( 六角氏や朽木氏や京極氏ら )との対立を演じることで今までは結束を維持してきたが、織田氏の畿内の乗り込みによって浅井氏も、もっと高次元な次の段階( 織田氏から前近代的な評議名義性・選任議決性を求められる状況 )への切り替えに迫られたのである。浅井氏は、織田氏に積極的に加勢する方針に近江北東をまとめ直さなければならなかったが、そこで難儀していた( から、それが結局できなかったから、織田信長はのち器量十分の羽柴秀吉に、近江北東のそのまとめ役を任せるようになった )、そこでつまづき始めていたのである。織田信長は、そこをいつまでも明確化できないでいた浅井久政・浅井長政( あさい ひさまさ・ながまさ )親子に対し、だからこそさっさと織田軍団の一員入りを明確化せよと催促することを、1570 年の若狭再統一を機に浅井氏にそこをはっきりさせる目的も位置付けていたのである。この時に、織田信長は浅井氏に対し、もう時間切れだからこれを契機にはっきりせよと、近代議会的( 評議名義的・選任議決的 )にそれを通達・催促されたと見て間違いない。そこを明確化させられないでいた浅井氏は、この時( 織田氏が若狭再統一に乗り出して朝倉氏と対立した時 )に、近江北東の旧管区3郡を、これからは織田氏の敷居の足並みに揃えなければならない前提を整える( 再統一する。地域議会改めする )ことが結局できそうにもなかった。だからここで織田氏と決別する形で、同じく織田氏の足並みに揃えるための越前再統一( 織田氏が進めようとしていた次世代身分制議会の序列改革の敷居 )などできそうにもなかった朝倉氏と共に反織田運動をする他なかった、というのが真相だったと見てよい。織田信長としては、若狭介入を機にそこを明確化させるまでは、不明瞭な中でも浅井家は元は京極家の有力家臣出身として、旧畿内権威と決別する台頭の仕方していたように見えていた所は、織田家もかつては武衛斯波家の有力家臣出身から尾張の代表格を肩代わりすることになった筋だったからこそそこは買っていた、だからここらで織田軍団の一員の明確化に動いてくれることを期待していたと見てよい。しかし浅井氏も結局、そこについていけずの離反という結果となったことに織田信長も、内心は
「それでは浅井家も、ただ権威欲だけで管領細川家を排撃しただけ( その旧老害権威序列を改めるために巻き上げたのではなく、ただそれをたらい回し合う横領をしているだけ )で何の刷新もできないだらしない三好家と何も変わらんではないか!」
とがっかりしたのも間違いない。織田信長は浅井家にそこを問うためにある程度の時間の猶予は与えた一方で、浅井家は複数の郡のまとめ役( 戦国大名的な立場 )だったからこそ、上の立場( 地方を敷居管理する側の畿内・中央の有力者としての立場 )であればあるほどそこをいつまでもズルズルダラダラとうやむやにさせ続ける非連携状態( 非組織評議会状態・非謄本登録議事録状態・非条件管理状態 )の経過を長引かせては弊害禍根( うやむやに低次元化させ合う顔色の窺わせ合いの老害観・偽善憎悪の押し付け合い )が増大していくのみ( 室町崩壊の二の舞になるのみ )で誰のためにもならず、良いことなどひとつもない、旧畿内( 低次元化させ合うことしか能がない中央家長気取り・上級官僚気取り・公的教義気取りの老害ども )はそこがあまりにもだらしなさ過ぎたからこそ、織田信長は上から順番に進退( 評議名義性・選任議決性 )ははっきりさせなければならない手本家長( 近代的な総家長 )らしい上同士での、そこへの厳しさを離反も想定した上で断行したのである。織田氏と決別する形で朝倉氏と結託する道を選んだ浅井氏は、1570 年の織田氏の若狭再統一は確かに妨害はできて、続いて志賀の陣でも織田氏を困らせることは確かにできた。しかしそれ( 若狭再統一妨害と志賀の陣 )をやってみた結果どうなったのか、朝倉浅井両氏がそれによって目に見えて有利になり、織田氏が目に見えて不利になったのかのその地政学的影響がろくに説明されてこなかった。やってみた結果、朝倉・浅井両氏、他にもそれに加担した反織田派たちはむしろ真逆の、化けの皮が剥がれる気まずい結果となってしまったのが実態だったのである。まず若狭については、織田氏の若狭再統一の阻害はできても、だからといって若狭の朝倉権威派たちを優勢になどできておらず、反朝倉権威派たちはむしろ畿内再統一ができそうだった織田氏による若狭再統一の再来を期待する、織田派の認識を強め始めたといってよい。続いて志賀の陣をけしかけた朝倉・浅井両氏は、それを機に、織田派に組みして間もない新参の近江衆たちが離反する( 朝倉・浅井両氏に加担 )ことを期待、織田領各地で混乱を起こすきっかけを作って織田氏の畿内再統一を荒らすことを目論( もくろ )むも、その肝心な所が全て空振りに終わる結果になってしまったのである。志賀の陣によって、当初から反織田を強めていた連中は確かに織田氏に反撃しようとしたり、甲賀南部に逃れて再帰しようとしていた旧六角派の残党たちが織田領を荒そうする動きこそ見せたが、織田氏に有志的に組みした新参たちがそれを機に離反しようとするような目立った様子( 織田氏の畿内再統一荒らしに加担しようとする様子 )などは全く見せなかったのである。織田氏の閉鎖有徳改め( 街道整備・前近代産業法改めの一環として、聖属の名の下の公認なき武装自治権運動、公認なき聖属側の物的序列権威の介入の禁止 )を巡って対立が強まっていた長島一向勢( 今の三重県桑名市のあたりで大きめの聖属裁判権・自治権を維持してきた浄土真宗たち )も、それ( 志賀の陣 )を機に今までのその聖属特権をおびやかし始めていた小木江城の織田信興( おだ のぶおき。織田信長の弟。こちらも人材として有望視されていた )を攻め、討ち取ること自体はできた( 織田信興が討たれたことに織田信長は大激怒 )が、だからといって長島一向勢が目に見えて状況を優勢にできたのかでいえばこちらも全くできていない。織田氏に押される一方だった三好氏の反抗もそこは全く同じで、旧畿内近隣の反織田派たちというのは目先の利害次第ばかり強く、連携( いい加減に求められ始めた前近代的な選任議決性・評議名義性 )などろくにできていなかった所が露呈するばかりだったのである。朝倉浅井両氏のやったことは
「やせ我慢して織田派に組みしている連中は何を有志ぶっているんだ。お前らも本心では織田氏の敷居の畿内再統一など進められたらそれについていけずに困る一方なんだろう? 皆が目先の利害次第の保身第一しか考えないはずなのに、何をお前らはその世の中の正しさに偉そうに逆らおうとしているんだ。そんなこともワカランノカ。何を思い上がっているんだ。これを機に正直になれ」
という今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと全く同じ定番の低次元な再確認運動に過ぎず、朝倉浅井両氏は織田領荒らしをすることで
「見ろ、次世代化だののできもしない夢物語を織田氏はただ恰好を付けてほざくのみで、我々がこうして押し入れば畿内を守ることなどできてない、口ほどにもない集まりではないか」
と、旧畿内を懸命に立て直そうとしていた織田氏の面目を丸潰しにしようとするも、しかしそれを織田氏に( 特に織田信治、森可成、青地茂綱に )見事に防がれてしまったのが志賀の陣の実態だったのである。だから、今まで通り旧畿内は荒れ続けて欲しかった比叡山延暦寺( 自分たちで何も前に進められないよう低次元なままであり続けさせることが教義権力の押し付け合いの本質・実態 )が、朝倉・浅井勢がここで織田勢の反撃に遭ってその機会が潰れてしまってはまずいと思ったから、大事なことを思い出したかのように急に慌てて両氏に加勢したのである。そういう所( そのように閉鎖有徳軍を維持できるほどの余裕が延暦寺の寺社領にあるのなら、なぜそれを陛下の居住地再建のため中央再建のために今まで使ってこなかった! )を、織田信長の内心を怒らせることになった( 教義権力を悪用することしか能がない、偽善の象徴でしかない比叡山の焼き討ちが断行された )のである。朝倉義景らというのは、自分の所( 越前 )で築いた文化都市経済( 一乗谷経済。いちじょうたに )こそが最も優れているということにしておきたいことしか考えていないのである。だから織田氏がとうとう再建し始めた京や大津の都市経済の再生は、明らかに一乗谷経済よりも優れていたからこそ目ざわりで仕方ないから壊さなければ、が実態であり、延暦寺( の寺社領 )もそこは全く同じなのが実態なのである。だから旧畿内で、話が前に進み始めるたびにうやむや騒動が起きる旧態構図のままが好ましいという態度を、陛下の心労( すなわちこれからの日本のあり方 )をよそに、これらはその劣悪態度を採り続けてきたのである。織田信長の内心をかなり怒らせていたのもこそなのである。そして、畿内で話が前に進み始めるたびに今までは繰り返されたいつものうやむや騒動も、惜しかった足利義輝の犠牲を最後にとうとう克服されたのが志賀の陣だった、すなわち織田氏の畿内の乗り込みによって次世代政権議会のあり方( 上同士の前近代的な評議名義性・選任議決性 )がやっと問われる流れが壊されることを阻止したのが見所、それを織田氏がとうとう克服した( と思われたが、事情はだいぶ変わる形で、だいぶマシな形で最後の最後となったのが本能寺の変だった )のがこの戦いでの地政学的な見所なのである。織田信長は停戦後、それを支えてくれた織田信治、織田信興や他にも失った将たちのことを強調する人事手配をする。織田信治のことを見捨てずに劣勢の中で最後まで果敢に朝倉・浅井勢を手こずらせた( 我々はお前らのようなだらしない低次元な組織などではないと劣悪老害性癖をはね返した。そこを見せつけた )森可成、青地茂綱、そして城内の部下たちのことを絶賛( 織田信長から表立って賞賛されること自体が、優先権が得られる格上げ扱いを意味した )した。まず、古参の森可成は古参らしく新参たちにしっかり手本を示すことができたからこそ、まだ若年の子の森長可( もり ながよし )と森成利( もり しげとし。森蘭丸の方で著名 )に対するこの上ない優遇扱いが強調されることになった。そして青地茂綱( 蒲生一族 )も、新参でありながら最後まで朝倉浅井勢を手こずらせる奮戦を見せたことで、人質の蒲生氏郷( がもう うじさと。蒲生賢秀の次代 )の人質の意味などもはや体裁のみの、これらは上級候補生扱い( 有志の家系扱い )の、皆にうらやましがられる優遇扱いが強調された。織田信治、森可成、青地茂綱は、旧畿内を変えていかなければならない、そこをよく認識できていた危機管理側の立場を共有できていたからこそ、そうした優れた戦いぶりで苦境を跳ね返すことができたのである。上同士で目先の利害次第で顔色を窺い合い悪意狩りし合うことしかできていない反織田派どもが、そのような有志の家臣などもち合わせている訳がない、逆だったらできるのかを問われればそのような等族指導( 次世代的身分制議会といえる人事敷居改革 )などできる訳がない、そうした部下( 有志の家臣 )をもち合わせている織田氏の主従の姿をうらやましいと思うのが当然なのである。さらには古参・新参に関わらず、有志の家系という公正な家格評価で優遇が決められる次世代人事が織田氏ではできていることを見せ付けられることに、反織田派に組みする部下たち( 自分たちの課題をケンカ腰に面倒がり合いながら、低次元な悪意狩りによる老害旧態序列を維持し続けるための低次元な顔色の窺わせ合いで負担を押し付け合っているだけの、犠牲を捨て石にし合っているだけの上層に従っている者たち )も、意欲面で何も思わない訳がないのである。近江北東での同胞の義理で浅井長政にやむなく従っていた阿閉貞征( 伊香郡のまとめ役 )から見れば、近江衆で同じような立場だった蒲生郡のまとめ役の蒲生賢秀、栗太郡西部のまとめ役の山岡景隆らが、織田信長から見て新参もいい所であるにも拘わらず、その協力姿勢がさっそく評価・信任されさっそく有志家格を得始めていた様子に、何も思わない訳がない( それを妨害する立場であることに気まずくならない訳がない。近江衆の中で織田信長が寛大な家格再評価を始めている中、そこに遅れをとっていることにあせらない訳がない )のである。今までのうやむや騒動の猿芝居手口は一切通用しない所( 織田信長の敷居による畿内再統一の姿 )を旧畿内だけでなく地方にも知らしめたからこそ 1571 年には、織田領と徳川領に隣接していた武田氏( 甲斐・信濃他。かい しなの。山梨県と長野県他 )も慌てて反織田派を強め出し、武田氏は織田氏を阻害し始めながら、織田派で一貫する徳川氏( 三河と遠江半国。みかわ とおとうみ。愛知県の南東側と静岡県の西側 )への攻勢を強めるようになる。しかし反織田派たちは大した連携などできている訳でもない、だから常に下火になりがちだからこそ、1572 年にはさも足利義昭を擁立できているかのように( さも評議名義性・選任議決性がもてているかのように。それが必殺の切り札であるかのように )反織田を煽り、織田氏の畿内再統一の足を引っ張り続けようとした。しかし織田氏の敷居が旧畿内に浸透し始めるに連( つ )れ、反織田派たちがごまかし続けることが難しくなってくる 1573 年を迎えると、織田氏がとうとう越前( 朝倉氏 )と近江北東( 浅井氏 )の制圧優先に動き、降参の最後通達が両氏に向けられることになった。それを機に、今まで近江北東の同胞としての義理を果たしてきた阿閉貞征は観念する形で織田派に鞍替えすることになった。燃えカス( 偽善憎悪 )にただ燃えカス( 偽善憎悪 )を燃料投下して織田氏の足を引っ張り続けようとするだらしない再燃も難しくなってきていた中で、さらに織田氏の師団長( 佐久間軍団、柴田軍団、明智軍団 )たちも力をつけ始めた中、織田氏の敷居への競争的な対策( 交渉権 )など大して進められていない格下扱いされて当然の朝倉・浅井勢が、多勢の織田軍と直接対決をしても勝ち目がなかったことはこの段階でもうはっきりしていたのである。阿閉貞征は、1570 年の志賀の陣で大した成果など挙げられなかった時から、上同士のやりとりとして浅井久政・長政親子と、織田氏への再恭順についての議論も内々では当然のこととして話されていたと見てよい。織田信長は1度目の離反なら対立は長引いても「やはり思いとどまり、もうこれで2度と離反のない、織田氏が総家長であるという決意をし直し、これまでの無礼は戦死も覚悟でお手伝いさせて頂きたく、何とぞお許しを」という返り忠( かえりちゅう )の姿勢が表明できるのなら、かなり寛大に許容することを 1574 年頃まではしていた。1573 年の最後通達の段階で、浅井家は後見人であった浅井久政が切腹を名乗り出ての降参があれば、浅井家は複数の郡をまとめる立場としては認められなくても、まだ若かった浅井長政は元々の浅井郡のまとめ役の地位か、その代替地位くらいは仮公認されていた余地も十分あったと見てよい。阿閉貞征は織田派に鞍替えする際、今まで織田氏を妨害してきた側( 織田一族や尾張古参組や蒲生氏らに損害を与えた側 )だったからこそ気まずくない訳がない。浅井家は陛下の心労をよそに京と大津の都市経済を破壊しようとした上に、かつて追い出した旧主筋の京極高佳( きょうごく たかよし )が織田派として、旧中央関係者間の交流面で織田氏に協力的だったことで優遇されていたからこそ、その輪に入って和解していかなければならなかったからこそ、主従の義理の阿閉家よりもこの上なく気まずかったといってよい。朽木氏に攻撃的になっていた所もまた同じになる。越前制圧戦が始まる前の最後通達を機に、阿閉貞征の方は気まずい中でもやむなく降参できたが、浅井長政の方は降参に至らず、浅井一族は厳しめの処置の改易となった。羽柴秀吉が旧浅井管轄領を任されることになり、阿閉貞征はその寄騎として改めて配属されることになるも、浅井氏がしぶとかった分だけ近江北東の再統一が遅れた弊害ばかりが出てしまう一方となってしまった。長浜城( 浅井郡と、もうひとつは坂田郡と思われる )に赴任した羽柴家臣団に従わなければならなかった阿閉領( 伊香郡 )の国衆たちは、羽柴家臣たちと険悪化する一方になり、羽柴軍団の面目を潰すばかりの最悪な状況となった。この事情を詳しく説明したい所だったが、字数制限の都合で書ききれないため、のちほど本能寺の変を整理する時に書ききれなかった分を改めて説明したい。この事情は、羽柴秀吉が柴田軍団の北陸方面に加勢するよう織田信長に指令された際、羽柴秀吉は柴田勝家と揉めて長浜城に戻ってきてしまい、織田信長を怒らせたこととももちろん関係している。この時にもし柴田勝家と羽柴秀吉が揉めなければ、柴田軍団の能登・越中の到達も早まったかも知れない、つまり能登の七尾城救援( 上杉氏に反抗し続けていた長氏体制の織田派たち )ももしかしたら助かっていたかも知れないが、そこはなんともいえない難しい所になる。阿閉貞征( の伊香郡 )は織田氏の近江再統一の敷居に乗り遅れてしまったことで、羽柴秀吉と揉める原因を作ってしまった。近江衆は軒並みひいき気味であった織田信長にやむなく擁護されるも、織田政権の中での阿閉家の処遇( 家格裁定 )も遅れ気味なまま、旧態的な伊香郡の代表格のままであり続けてしまったことが、本能寺の変が起きてしまった際の阿閉貞征の立場を悪くしてしまったといえる。そこも後述するが、阿閉貞征の経緯は、現代でも起きがちな考えさせられる所が多い。強者や優勢側という、その時の立ち位置さえ良ければよいかのような、要領よく転身さえできればなんとかなるかのような、それで全て解決するかのような簡単な問題ではないことは現代でも同じことがいえる。人的信用の義理立ても大事な一方で、旧態的な旧縁環境を長引かせてしまうと出遅れて不利になってしまうことは、解っていてもすぐになんとかできない場合も実際は多かったり、逆に好機を逃してしまったことに後になって気づくことも多かったりするものである。また反織田派たちのように、良い所取りすることに夢中になるばかりで、自身を当事者軸として方針( 本分的終点 )を自身で絞り込んでいくことを怠り続け、ただ見せびらかし合いひがみ合うのみで大事なことなど何ひとつ見えたこともない、好機をすっかり逃してしまったこと自体にも気づけずに何も残せないまま終わってしまう、といったこうした難しさは現代でも同じことがいえるのである。
河尻秀隆 かわじり ひでたか
木曽義昌 きそ よしまさ
- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -
小笠原貞慶 おがさわら さだよし
- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -
千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )
尼子一族と亀井茲矩 あまご かめい これのり
- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -
蒲生氏郷 がもう うじさと
※廃項予定
浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )
※廃項予定
細川藤孝 ほそかわ ふじたか
※廃項予定
森長可、森成利 もり ながよし しげとし
※廃項予定
斎藤利治 さいとう としはる
※廃項予定
溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ
※廃項予定