近世日本の身分制社会(132/書きかけ139) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか60/??  本能寺の変の全体像06/? 2024/03/24

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~05」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

これから 1570 年代後半( 1575 - 1579 )に触れていきたいが、これまでの説明の

 

  畿内の反織田派たちが一掃され始め、もはや揺らぎそうにない織田氏の畿内( 中央 )再統一の大局( 織田氏の敷居による次世代政権の姿という意味の天下の趨勢 )は見えていた 1575 年は、近隣地方の上から順番の織田氏の裁判権改め( 中央家長と地方家臣の明確化 )が始まっていた段階( 地方裁判権止まりの地方の代表格・戦国大名たちよりももはや格上の佐久間信盛、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉ら重臣・師団長格が、織田氏の敷居通りでない地方再統一/検分監査に乗り出していた状態 )だったこと

 

  上の間ではその気まずい流れがもっと前の段階で見え始めていたこと。表向きの代表が足利義昭なのかそれとも織田信長が肩代わりするのか、いずれにせよ畿内の下( 民間 )への織田氏の敷居による裁判権改め( 次世代経済社会化。農工商の産業法の前近代化・官民再分離・街道整備 = 公領改めと都市経済の大再建 )は既に始まっていた時点で、上の人事敷居の畿内再統一( 世俗・聖属の両中央議会の人事敷居改革 )も間もなく動き出される気まずい流れは、廷臣たち( 聖属議会の有力者たち。朝廷。国内教義と国家外交の管理者たち )も含める上の間( 旧中央有力者たちの間 )では解り切っていた。そんな中でだらしなく錯乱してうやむや騒動を起こした公的教義( 世俗闘争に便乗し、禁じ手であったはずの公的聖属による武力運動を無神経・無関心・無計画に起こしたため、織田氏が手を引くよう勧告するも強気に突っぱねた )を織田氏が問答無用に踏み潰した 1571 年の時点で、下々は上の間で何が起きていたのかをすぐに理解することは難しくても、畿内も各地方もその上層たちは内心は気まずいことこの上なかったこと

 

  まず織田氏の後押しを受けて京に返り咲くことになった 1569 年の段階での足利義昭が、「わが足利本家こそが武家の棟梁( 皇室を肩代わりする中央の総家長・総裁 )のはず!」と強調するのはいいが、そこをただ強調するのみで( 第3次世俗政権の発足といえるような、前近代的な評議名義性/選任議決性の議事録処理・中央裁判権・総家長権を敷くための中央議会改革らしい姿など見せないままただ顔色を窺わせるのみ )低次元ないがみ合いが100年近く繰り返させてきた畿内( 中央近隣 )が丸く収まる流れに向かう訳がなかった実態に改めて立たされる。畿内( 中央 )は世俗権力・聖属権力共にとうに再起不能に教義崩壊していた( 前近代的な等族指導の手本を巡る家長権の敷居競争・国内地政学的支持戦を面倒がりながらケンカ腰にたらい回し合う低次元な旧態序列に延々としがみつき続けられてきた = 上としての手本の作り合いをうやむやに下を作り合う低次元ないがみ合いのみが繰り返されてきた実態 )こともはっきりしていた。旧室町体制のその実態に対する大幅な見直しの次世代政権議会化( 前近代的な第3次世俗政権の発足。まずは畿内からの低次元ないがみ合いを2度と繰り返させないための上から順番の人事敷居改革と強烈な喧嘩両成敗法 )に踏み込むことが「できるのか、できないのか」を足利義昭自身も問われ、そこに結局踏み切ることなどできなかった( そこに結局気まずかった足利義昭自身も、同じく気まずさで一致の反織田派たちの擁立に身を任す道を選んでしまった。それで自身の気まずい存在価値をかろうじて維持する道を選んでしまった )ことが 1572 年にはっきりした。それ( 反織田派を足利義昭が結局擁護する立場を鮮明 )を以( も )って織田氏は、足利家を後押しの連盟の解消を議会的な評議/選任の形ではっきりさせ、上の誰かがやらなければならなかった畿内再統一( 中央議会改革 )の総選挙戦を織田氏が肩代わりすることになる。格下げ覚悟の和解交渉( 敷居確認 )に動いてやむなく従った織田派と、大幅な格下げ・官民再分離は免( まぬが )れないから反抗を始めた反織田派( 低次元ないがみ合いの押し付け合いの低次元化をやめ合う/やめさせ合うための国際評議名義性/国際選任議決性への向き合いに神経質にケンカ腰に面倒がり合いながらうやむやに善人ヅラし合いながら騒ぎ合うことしか能がない、合格・高次元失格・低次元を裁量・議事録処理する側の議席・地位からつまみ出されて当然の、裁かれて当然の国際地政学観など皆無な旧畿内の上級士分気取りとも・中央官僚気取りども )であったことを、後で言い逃れ無用の中央選挙的選別( 評議/議決 )の手本を織田信長がここで作っておいてくれた。( = のちの羽柴秀吉による天下総無事のきっかけとなる賤ヶ岳の戦い以降、のちの徳川家康による天下泰平のきっかけとなる関ヶ原の戦いの、前近代的な貴重な良例手本となる )中央は本来はそうでなけれぱならなかったことが延々とうやむやにされ続けてきた( 自分たちの文化圏の強力な全代表・総裁を明確化・強調するための、西洋でいう所の選帝侯たちのような上としての大事な役目・機能・等族義務を三管四職が本来は果たさなければならなかった。さんかんししき。西洋では14世紀に、ルクセンブルク家出身の皇帝カール4世が、いつまでも帝国議会にまとまりがない原因のひとつに選帝侯の役目が全く機能していないことを再確認・議会改革させるための、等族諸侯たちのための重要な金印勅書が整備・議事録処理されたのをきっかけに帝国議会の改善がようやく始まるが、そこから前近代議会らしい姿に改善されるまでに結局100年以上かかった。16世紀のハプスブルク家出身の皇帝マクシミリアン1世もそこに尽力し、等族諸侯同士で揉めている最中だったとしても皇帝が亡くなった際には、キリスト教社会における世俗議会側の次の全代表が一体誰なのかがいつまでもはっきりしない空位状態をダラダラ続けさせてはならない、その場合は選帝侯中心での上同士の評議・選任議決という文化圏国際力らしい皇帝選挙の典礼式をまずやってから、やるなら揉めごとの続きをせよと上に認識させていった。先見性に優れ、さらに庶民想いでもあったマクシミリアン1世は貧民救済体制の準備要領も整え始め、さらに次の一手として下々も参加できる人文主義運動・教会改革を奨励し、貧民をただ苦しめていただけの教会税と厄介に絡んでいたからこその公共税・賦役改革と次世代大証券経済にも対応させるフッガー大銀行も作らせ、乱暴な聖属権力を抑え込めるほどの強力な総裁を奉戴する王族連合議会の姿を強調させながら次代皇帝を就任させる、という大事な流れまで作った。それを託されることになったのが、各国それぞれの広大な王族領特権・身分統制権を一手に継承することになったカール5世だった。カール5世を奉戴したスペインは16世紀前半にはどうにか帝国議会をまとめながら、大規模化する一方だったオスマン帝国に応戦できるほどの世界的な国力を身に付けるも、同時に人類が今まで体験したことがない巨大な経済大景気とその大反動の経済大恐慌を体験した16世紀中盤からの、スペイン王室のその内情の財政危機の惨劇にアントーン・フッガーも最後までその苦労に付き合わされるという、スペインの表向きの勢いの裏の財政破綻の実態も大変なことになっていた )のを、織田氏にとうとう踏み込まれてしまった。畿内のその様子に地方の上層たちも内心は気まずい( 今回触れていきたい中央と地方の関係性。地方は今まで、中央がいい加減だったからそれぞれの地方裁判権止まりの力関係の立法・身分制の押し付け合いが仮定的に許されてきたに過ぎない。しかし織田氏なら畿内再統一を、さらには誰も抑えられそうにもなかった、強力に軍閥化してしまった浄土真宗の武装解体も可能そうな見通しになってきた。すなわちその内に始まる織田氏の上洛要請によって、中央家長と地方家臣の国家構想的な統制序列も改めて明確化しなければならない進退を、地方も迫られるのも時間の問題となってきたことを意味する。徳川氏は苦難の連続だった中でも織田氏との連盟関係を律儀に守り続け、畿内再統一にも浄土真宗の抑え込みにも徳川家康はそれに大いに連携・貢献していた、というように、では他の地方諸氏たちはどうだったのかといえば、高待遇の優先権の有力譜代扱いされるのも間違いないこの徳川氏のように織田氏に協力的に動く、ということなどろくにして来ずに、臣従の上洛要請を恫喝されてしまった手遅れになってから錯乱気味に進退を決めかねているような有様だったのである。地方の代表格たちが、大手であろうが譜代扱いされる訳がない外様家臣扱いの分際 = 中央から見れば陪臣の分際の地方の上層たちが、今までのように地方の覇者を気取ることが許されなくなるのはおろか、次世代政権議会の敷居の管区整備のための国替えの立ち退きを命じられる立場、懲罰減封の大幅な格下げと武家屋敷の強制収容も避けられない立場だった、だから気まずい )一方だったこと

 

の当時の国際/国内地政学観( 全体像・社会心理 )の最低限の前提がまず掴めていないと、筆者がこれから説明していきたい 1575 年以降の

 

 国際地政学観 = 前近代的な国際文化圏国家らしい誓願( 議事録処理 )の手順作法的( 品性規律的 )な名目の作り方/敷居確認の仕方

 

 国内地政学観 = 畿内地方との関係( 上の間では織田氏の敷居に気まずいからとぼけていた全体像・社会心理 )

 

にしても、また本能寺の変になぜ至ってしまったのかの流れについても、筆者の説明の意味が全く理解できないままになる。

 

政権議会の立て直しのための16世紀の絶対王政主義/絶対家長主義( 名目・誓願のいい加減な立て方のたらい回し低次元化対策 = 総代と序列の等族指導のあり方のいい加減な立て方のたらい回し低次元化対策 = 評議名義・選任議決のいい加減な作り方のたらし回し低次元化対策 = 低次元化させる上を上が取り締まるための人事敷居改革の仕切り直しの前近代身分制議会の発足 = 織田政権時代の手本が徳川政権発足の際に大いに参考にされた = 文化圏国際機能らしい近代議会的な姿に人類は、16世紀にようやく少しは向き合うようになった時代 )の特徴が、完全に抜け落ち続けたままの見方ばかりがこれまでされ続けてきた、だからその補足( 前近代社会に向かうことになった教義史観・裁判権史観・議会史観・地政学史観・身分再統制史観の説明 )を続けてきた。


織田氏の敷居による天下静謐( もう戦国終焉どころではない、日本を17世紀どころか18世紀や19世紀に言い逃れ無用に連れていこうとする新立法 )の流れが、良いことなのか悪いことなのかはともかくとして本能寺の変という最終手段でも用いなければもうそれ( 相手がキリスト教徒であろうがイスラム教徒であろうがアフリカ大陸側の有力諸国であろうが、我が次世代議会政権ではそのための大使館と滞在自治区をいつでも公認・設置できる準備要領ができているのだ! その日本の情報技術文化交流の外交体制の最低限も作れないだらしない文化圏国家などもはや格下! だと世界に、特に今まで外交上で日本のことを散々格下扱いしてきた中国大陸政府にそこを見せつけようとしていた = 国際はおろか、まず国内の異環境間の低次元化ないがみ合いを繰り返させないための合格・高次元/失格・低次元の評議名義性/選任議決性を構築するための人事敷居改善・議事録処理もできたことがない廷臣たちはますますついていけそうにもないから動揺・錯乱する一方だった = 廷臣たちの本分のはずである聖属議会・朝廷体制の次世代化を自分たちでろくできない、議席の譲り合いも意見総代の立て合いもできない、何ら次に進めることもできない手がかかる連中だから佐久間信盛に、次いで明智光秀に世俗議会側との交渉のまとめ役を務めさせた。議決の期限に迫られるたびに廷臣たちが佐久間信盛に、明智光秀にただ泣きついて困らせ、そのたびに織田信長を怒らせていた )を誰も止められそうにもない情勢( 全体像・社会心理 )だったという、その説明をとにかく続けてきた。
 

1575 年あたりからいよいよ顕著になってくる織田氏の、地方裁判権止まりの地方の代表格たち( 戦国大名たち )も含める世俗・聖属に関係なくの閉鎖有徳運動( 次世代政権議会からの公認はおろか認知してもらうための公文書上の敷居確認の連絡努力すらしていない、勝手な正しさの序列乱立の武装自治運動 )の禁止( 世俗・聖属に関係なくの序列統制権の織田氏へのいったんの返上と再認定の謄本登録制・次世代身分制議会 )に従わない勢力は、大手の戦国大名だろうが伝統ある格式の寺社だろうが街道整備( 今後の前近代社会化のための織田氏の産業法と官民再分離 )の妨害、否定( 議会的な議事録処理・社会的説明責任・国際的指導責任の手本の示し合いなど何も果たされていない = 次世代政権を壊し合い低次元化させ合うための偽善運動 )と見なす議会的な形( 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させないための織田氏の敷居で納得させられるような、上のあり方を作り合う前近代的な評議名義性/選任議決性の立案と提出の手本の示し合いなどお前たちは全くしてこれなかったではないか! )を採った上で、それら( 格下げ覚悟で織田氏と交渉しようともしない、低次元化させ合う原因の時代遅れの旧態慣習のままの序列を維持し続けようとしている、織田氏の畿内再統一の敷居にさっさと合わせることもできない往生際の悪い小心者ども・偽善者ども )に対し、畿内の次は手前の地方から、上から順番に手厳しさを向ける時代に突入した( その見逃しによる低次元化はこれ以上もう許されない段階の、畿内の次は地方の一斉の仕切り直しの次世代政権時代に入っている! )という、国際/国内地政学観から見ればむしろ当然( 低次元化させ合う旧態人事序列は一斉に解体。上・中央が下・地方をしっかり区画整理・敷居管理する = 織田政権時代の上から順番の厳しさが緩和されたものが徳川政権時代に手本的に活かされることになる )の大前提が完全にすっ飛ばされてきた。

 

織田信長は本能寺の変という最後を迎えてしまうものの、それでも戦国終焉( 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させない次世代社会化 = 天下静謐における公認無き勝手な武力行使・国内紛争の総巻き上げ・喧嘩両成敗法改め・のちの刀狩りの後期型兵農分離・官民再分離 )に向かわせるための大きな偉業の手本を果たしたことに違いはない。

 

前回に、織田氏の 1565 年頃の様子( 美濃攻略中の織田信長は、中央進出に関することで足利義昭と、中央経済再建に関することで堺衆たちと連絡を取り合っていた様子 = 攻略後の次の一手の準備要領を整えながら、目下の美濃攻略を進めていた様子 )をやや強調したが、織田氏とその他とで既にその敷居が大差になっていた所は、その頃から、地域施政のための名目・誓願の内容( 街道整備を妨害し合っていた、閉鎖有徳・半農半士闘争の禁止。織田氏から公認・典礼を受けていない所か意見提出の認知すらされていない地域間での下同士の勝手な閉鎖上下慣習・閉鎖測量慣習・懲罰的/同調圧力的な寄進の強制の押し付け合い等の一切の禁止。遮断し合っていた非公認の関所・砦・城の破却。その跡地に織田氏が手配した公務吏僚たちの奉行所・役所の設置 = 各役分総代ごとの前近代地域議会的な、公共税・賦役のあり方にも関係してくる議事録管理 = 織田政権時代のこの前近代的な庶民政治の基礎が江戸時代の大きな手本となる )からもはっきりしていた。

 

まずその差から畿内( 旧有力筋たち。廷臣たちも公的教義も当然含む )にしても他の地方にしても、さらには各地で地方再統一( 人事敷居改革 )の足をむしろ引っ張っていたような、旧態のままの寺社領自治権/地縁自治権を中途半端に維持し続けながら、その閉鎖序列統制権/閉鎖測量権威をいったん地方議会( その総議長である代表家長 )に返上しようとせずに維持し続けようとしていた、惣国一揆( 地方議会に閉鎖慣習の言い分を呑ませる/妥協させるためにそれぞれ地元の半農半士たちを煽る地縁武装運動 )を再燃・拡散させる原因と見なされても仕方がない、それが実態だったその地方の代表格の有力家臣たち( それぞれの有力家臣たちは有徳・寺社や地縁慣習の代弁者として地元の半農半士たちの支持を得ながら、地方議会に顔色を窺わせ合ってきた、だから次への地政学的な議会改革も進まなかった。織田氏だけがこの人事問題を尾張再統一の時点でとうに克服できていた )も、気まずくなる一方だった所が、現代でも大いに参考にできる大事な部分になる。

 

国内地政学的領域戦から見た織田信長の、尾張再統一以来の閉鎖有徳狩り( 街道整備を遮断し続ける地域の解体、すなわち民間側の産業法改め・楽市楽座を遮断し続ける地域の解体 = 織田氏の次世代国内文化交流政策に対し、各地元の鎖国的主義的な旧態慣習序列を維持し続けるため遮断し続ける各地域の寺社領や要塞は非公認と見なして解体 = 官民再分離・前期型兵農分離・地方議会人事敷居改革 )がこれまで誤認印象の助長ばかりされてきた( 前近代化・地政学的議会化の理解不足 = 中世と近世の違いの区別もろくにできていない解釈ばかり繰り返されてきた )が、まず織田氏は津島大社の氏子( 総代? )である祖父江氏( そぶえ。その社領を守る神官武士団 )、熱田神宮の氏子総代である千秋氏( せんしゅう・ちあき。本家筋の読みはおそらく前者。その社領を守る神官武士団 )らとは協力関係を築けていた様子からも解るように、何の宣告も無しに武力制圧の踏み潰しにいきなり回ったという訳ではない。

 

 ※織田氏は比叡山延暦寺の焼き討ちの際でも浄土真宗との対立にしても、旧聖属領裁判権改め( 寺社領特権改め = 物的特権の謄本登録制度化 = 今後の福祉体制や開発計画に関係してくる測量法・公共税・賦役などの前近代化のための世俗政権中心の裁量の次世代政権議会化 )を前提とする和解交渉・最後通達を向こうが突っぱねた上でその踏み潰し( 解体 )に乗り出し、一方で対立が長引いた浄土真宗からの和解・降参の申し出も受け入れるという、怒り任せなどではない近代議会的な準備( 議事録処理 )も織田氏はできていた( 本拠道場である石山本願寺は 1580 年に和解・解散・退去となったが、それまでそれと連携していた紀伊の戦国仏教勢、また浄土真宗の別当であった遠隔地の、吉崎御坊がきっかけとなった加賀一向一揆勢は、その本拠道場の武装解散の足並みに従おうとしなかったため、織田氏はそれらを浄土真宗の別当扱いにせず閉鎖有徳と見なしてその武装解体戦に乗り出すことになる )

 

 ※こうした社領武士団は珍しくなく、尾張はその武士団の規模はそれほど大きくはなかったが、常陸( ひたち。茨城県。日立 )の鹿島大社の氏子総代の大掾氏( だいじょう。かつて力をもっていた関東平氏のひとつ。鹿島氏、真壁氏、島崎氏、行方氏らは分家筋。大掾清、真壁氏のように大掾一族を強調する  の通字を用いる者が多かった。だいじょう きよもと。まかべ うじもと )や、信濃( しなの。長野県 )の諏訪大社( 諏訪湖 )の氏子総代の諏訪氏( すわ )の社領武士団は規模が大きかった。なお織田氏も元は越前( えちぜん。福井県 )の剣神社( 織田神社とも )の氏子総代だった経緯をもつ。織田氏の大元は平氏説がやや強いようだが、佐野氏( さの。諸説あるが佐藤氏は野流原一族という意味。下野の佐野氏が著名。しもつけ。今の栃木県 )のように廷臣の下向( げこう。中央から地方に視察や使者に向かったり、赴任したりすること )との縁を強めながら、地域を神官武士団の序列で結束させていった筋だったのではないかと筆者は見ている

 

 ※いい加減に寺社領改め( 西洋では各地の騎士修道会の公務吏僚化をしなければならなくなっていた中、時代遅れの聖属権力を威力任せに振るい続けながら高額な献納をキリスト教圏各地の教区に要求し続けるのみで、その整備もろくにできなくなっていた教皇庁をとうとう無視し始める形でスペインとフランスがその軍兵站体制を整え始めるようになる。規模こそ違うが日本も神官武士団を公務吏僚化しなければならなかった16世紀の特徴は全く同じ。侍という字は。元々は社会規律として寺社を守る存在、そのために働く人という意味。神仏習合を前提に聖典整理・議事録処理していくための仏教体制を7世紀頃に導入するようになって以来の日本は、寺院が大手化して政治的な力をもつ傾向ばかり強まるようになるが、寺院は近所の神社よりも力をもつようになったとしてもその友好関係も大事にしなければならない等族義務があった )にも踏み込まなければならない時期に来ていた、それが文化圏国家を強国化( 前近代政権議会化 )していくため不可欠だった、そこにいい加減にさっさと動かなければならないことは各地方の上層たちも、中央の廷臣たちもそこは「立場上では解ってはいた」がどこも結局踏み切れずにいた。そんな中で織田信秀が、続いてさらなる改革を織田信長が踏み込み始め、他の上層たちはとぼけていただけでかなり気まずかったのが実態なのである。特にそこ( 全国的な聖属裁判権改め、有徳特権と寺社領人事序列の見直しのための手配 )廷臣たちと公的教義が本来は議会的に整備しなれば、できなければならなかったのも何ひとつできず、それまで中央を支えてきた荘園公領( 中央寺社領 )は荒れ放題のまま、地方の閉鎖有徳運動( 地元の有徳との地縁の結びつきを強めながらの、下同士で蹴落とし合い下を作り合う全国2000近くの城・砦・関所の乱立の半農半士運動・惣国一揆。のち織田信長が総撤廃・総巻き上げに動く )も歯止めがかからなくなったのが戦国前期。そこを誰も整備できずに下々の餓死者も続出し始める深刻な情勢が続いたから浄土真宗が、次世代政権の転換期( 織田政権時代 )を迎えるまで寺社領改め( 教義統制改革 )に乗り出し、下々を救済する手本を肩代わりする事態になった( だけでなく、貧窮し続ける下々をろくに救済しない世俗側のいい加減な支配者たちの領地特権を、浄土真宗の管轄の聖属領扱いにするべく地政学的領域戦をけしかける形でかっさらい始め、世俗側もそれにようやく慌てて地方議会改革を始めるようになった )のである。中央再建がいつまでも始まらない( 文化圏国家としての政権議会がいつまでも機能しない、その明確な代表がいつまでも空位同然のままのだらしないままの )日本の深刻さを経て戦国後期を迎えて次世代政権化のための中央( 畿内 )再統一まで可能そうな片鱗を織田氏が 1565 年の時点で既に見せていたから、特に廷臣たちは気まずいことこの上なかったのが実態である。そもそも聖界( 日本の教義体制 )のだらしなさいい加減さ15世紀の大経済期( 絶対家長的な体制が一時的に保たれた室町3代将軍の足利義満時代 )を迎えた時点で露呈していて、戦国前期に何ら支えられず( 何ら危機管理もできず )に完全崩壊してしまったからこそ、それまで公的教義から格下扱いされ続けてきたが実際は教義面で優れていた浄土真宗に名実共に離反されてしまった( 日本の自力教義の主導立場をかっさらわれてしまった )部分でもある。そして戦国後期になって有徳総代( のちの刀狩りに関係してくる第3次世俗政権の、公認無き武装自治権運動も含める、主に物的特権に対する聖属裁判権改めの主導 )を巡って織田氏と浄土真宗の二強の激闘となる( ここもどうするのか改めて明確化しなければならない。ここをうやむやな二頭政治のような弊害禍根を残してはならないからこその絶対家長制・総裁制を中心とする各議席敷居序列改め、評議名義性と選任議決性の明確化を上の誰かがやらなければならなかった深刻な問題 )が、繰り返すがこれも本来は廷臣たちと公的教義が解決に向けて尽力できなければならなかったのである。他に誰もできないからこそ織田信長( と、主に佐久間信盛と明智光秀とで )がそこを肩代わりすることになった、ここも何とか( 更新 )しなければのちの天下泰平の江戸時代も無かったという、本能寺の変の性質を知る上でも重要になってくるこの大事な地政学的前提が全く説明されてこなかった

 

織田氏のやり方は、畿内再統一でも美濃攻略でも、尾張再統一と全く同じこととして、旧室町権威序列や旧寺社領序列との根強い結び付きや事情がどうであろうが、各地に点在していた半農半士風情の閉鎖武士団たち( 議会改革的な整備・結束のためなどではなく、地域の閉鎖的な格式都合を勢力任せに顔色を窺わせ合いながら呑ませようとしているだけの、むしろ地方議会の人事敷居、国内地政学観の前近代軍兵站体制のための人事敷居をうやむやに低次元化させ合うことしか能がない、格下げされて・官民再分離されて・制裁されて当然の正規武士団気取りども )が、まずは織田氏の敷居に格下げ覚悟の和解交渉に動くことから始められたかどうか、見直し的に( 身分再統制的に )それまでの地縁特権を織田氏にいったん返上し、織田氏の敷居による官民再分離の選別で改めて士分( 前近代的な正規統制軍側・公務側 )公認された者たちが旗本( 武家屋敷。のちの徳川政権の天下泰平への大きな手本になった、残忍どうのの誤認の原因となっているここへの理解不足を今回順述。織田氏の旗本衆のことは馬廻り衆と呼称されていたが、ここでは本部直属の旗本のこととして説明していく。うままわりしゅう )への収容によって家臣化( 公務士分としての前近代的な役目の謄本登録 )がいったん明確にされた上で、かつての地縁特権分の待遇が「仮公認されるか、または改めて見直された家格が公認される」という形が採られたこの部分( 前期型兵農分離・人事敷居改革・官民再分離 )から、織田氏と他とで( 旧畿内でも地方でも )大差があった。

 

畿内の反織田派たちのように、地方でも多くが士分剥奪扱いされる運命だったことも解り切っていた、だからこそ畿内では特に、自分たちの今までの持ち場の議席・地位を少しでも妥協・譲歩させようと、織田氏の畿内再統一の妨害運動にヤケクソ気味に回ったのである。

 

まさに人の上に立つ資格・器量( 地域ごとの異環境間をまとめる地政学的力量 )などない、そこをケンカ腰にうやむやに低次元化させ合う挑発をし合うことしか能がない、喧嘩両成敗法の厳罰対象となって当然法賊( 偽善者・老害 )どもは、今後は( 前近代政権議会下では )2度と許されない( 繰り返させない )等族指導を、残忍だろうがどこかで上から順番にガツンと思い知らせなければ、結局自分たちのためにも次代たちのためにもならない所は、現代の個人間・組織間・国際間でも同じである。

 

 ※残忍うんぬんの前に、この地政学観を大前提とする天下静謐( 公認無き武装蜂起の勝手な国内紛争の禁止の喧嘩両成敗法。絶対家長の上洛要請による地方公務士分の再裁定をさっさと受けよ! )がいよいよ全国的に強調され始めたのが  1575 年あたりからの政権議会的な特徴・前提( 全体像・社会心理 )だという見方がまずはできなければならない。下々は上の間で何が起きているのかすぐには理解できなくても、地方の上層らというのは、中央( 総家長側 )と地方( 中央を基準とする上同士の次世代序列統制権に従わなければならない家臣側 )の関係をいつかは明確化しなければならないこと自体は解っていた。今までは中央が低次元なままだったから地方の上層たちも、それまではその地方での頂点・覇者としての権威( 戦国後期の領域競争 )を振い続けるうことができたが、織田氏の次世代敷居による畿内再統一の見通しがはっきりしてきてしまった。中央( 主 )が空位同然( 低次元 )だった頃までのように地方は今までの振る舞いができなくなるだけでない、大手ほど領地特権の大幅な削減と国替え( 管区整備 )に応じなければ制裁対象となる( のちの羽柴秀吉の天下総無事戦でそこも改めてはっきりさせられる )ことも意味していた。地方の上層らもそこも解り切っていたからますます気まずくなってきたのである。織田氏の畿内再統一の足を引っ張っていた反織田派どもは論外として、そこにそんなに気まずいのならなぜ地方の上層らは、小勢でもいいから徳川氏のように進んで織田氏の畿内再統一に加勢するための派兵をしなかったのか。地方上層の親類を織田氏の武家屋敷にいったん預ける形で家臣として認めてもらってよしみを深める等の、そうした積極的な外交になぜ動かなかったのか( 織田氏が武家の棟梁・中央総家長だという選任議決の明確化にさっさと動かないのか )という話なのである。ここは、衰退してどうにもならなくなっていた、かつてにこだわった所で失うものも少ないような旧有力者の方が格下げの覚悟の織田氏への臣従にいくらか動きやすい所もあった。逆にヘタに中途半端に( 次世代経済社会化の国際地政学観のむしろ弊害となる、総撤廃されて当然の地方裁判権止まりのだらしない人事統制規律で )大きめの自治統制権益を維持し続けてしまったことで、それ( 次世代敷居化・グレートリセット )によって失うものを多く抱えてしまっている所ほど、いざという時の進退に身動きできない傾向も強まってしまう葛藤( 次の段階に進む上での足枷・弊害になっている旧慣習・旧縁を断ち切れるかどうか )は現代でもありがちな話になる。織田氏( 次世代敷居改革ができている高次元側 )から見ればさっさと手放して当然の「モタモタやりおって!」の、口ほどにもないそのちっぽけな劣悪性癖( うやむやにねじ伏せ合う猿芝居劇場 )の中で怒り狂おうとするだらしない有様だと見なす側、と、そう見なされる側 とのこうした高次元側( 中央の手本家長 )低次元側( 次世代再指導が必要な手がかかる地方 )のズレの構図( 全体像・社会心理 )というのは現代における個人間・組織間・国際間ごとでの価値観念/目標規律に対する敷居確認/構想計画の認識力差においても同じことがいえる。繰り返すが残忍うんぬん以前にまずそうした危機管理( 全体像・社会心理 )を優先する見方ができなければ大事なことなど何も見えてこない。いずれにしても織田氏と比べると低次元もいい所の敷居( 地方裁判権止まり = 文化圏全体の前近代強国化・次世代社会化のための国際地政学観を敷く上での足枷弊害 )で今まで足並みをどうにか揃えてきたに過ぎなかった地方のだらしなさは上同士では許されない転換期を日本は 1570 年以降に迎えてしまった様子( = 上の間で何が起きているのか下々はすぐに理解できていないのは仕方ないとし、その下士官以下の下々に対し今まで、我々のやり方こそが最も優れたやり方がされていると従わせ頑張らせてきたその足並みを裏切る形の、精神的支柱の粉砕を下々に向けてしまうことになる残酷な気まずさ、つまり今までそこで手配されてきた地方裁判権止まりの勲章的社会価値が無効にされることが下々にとってはこの上なく残酷となるズレ問題ものち、表向きは厳しいがかなりの庶民想い・若者想いであった豊臣秀吉がそこも全て受け止める優れたやり方の、そのためにそこにわざわざ付き合った天下総無事戦と後期型兵農分離でしっかり対策した部分。このズレ問題は本能寺の変でも当然影響 )は、現代でも明日は我が身の教訓にできなければならない部分になる。織田氏の畿内再統一が果たされる見通しもはっきりしてきていた 1575 年頃の、中央( 総家長 )と地方( 徳川氏と、格下げ覚悟で早めに織田派に組みしたそれら有志たち以外は、大幅な格下げ扱いがされて当然の手がかかる外様家臣どもの分際 )の関係はそれが実態だったのである。戦国最強と名高かった武田氏が長篠の戦いで織田徳川連合に派手に撃破されてしまったことは、皆で織田氏の足を引っ張ることもいよいよできない流れになってきたことを意味し、それは同時に戦国大名よりも強力な軍閥体制を維持してきた浄土真宗の解体( = 有徳改めも織田政権主導でできることの明確化。中央における世俗・聖属の両議会改めの明確化。物的特権全般に関する謄本登録制の官民法・産業法の次世代身分制議会化も織田氏ならできることの明確化 )も時間の問題になってきていたことも意味した。だから地方の上層の内心は「今までが許されなくなるひとつの時代の終焉」に青ざめる一方だったのである

 

畿内の反織田派どもは論外とし、織田氏とその他の地方諸氏とでそもそも 1565 年の時点で名目・誓願の履行( 債務信用処理 )のされ方において、次世代議会的な議事録処理がされていた大事な所も、これまで注視されてこなかった。

 

1560 年の尾張再統一の時からその基本は全く変わっておらず、美濃攻略にしても畿内再統一以降も、織田氏の前期型兵農分離・閉鎖有徳改め( 和解・健全化が前提の地政学的な評議名義性/選任議決性の敷居確認と何ら結び付いていない、下同士でただ下を作り合うために、ただ正しさを乱立させ合いただ押し付け合うことを繰り返しているだけの公認無き/意見提出の認知・意見総代の公文書すら無き閉鎖地域序列/旧態閉鎖慣習の総巻き上げ = 前近代謄本登録制に結びつく名目・誓願の公認・典礼の議事録処理による農工商改め/官民再分離の街道整備の次世代施政 )に反発して、織田氏とはいったん険悪な関係になった有力者や地域だったとしても、完全に手遅れになる前( 言い逃れ無用の状況になる前 = 後戻りできないほどの次世代政権議会荒らしをした法賊と見なされる前/そう議決される前 )なら、格下げ覚悟で和解・交渉に動いた( 名目・誓願の公文書・誓約書を用意し合うという、士分側としての議会的な姿勢を大事にする気もあった )相手に対しては、かなり寛大な受け入れをしている。

 

 ① どの時点でどう歯車が狂い始めていったのか。本当に最初からおかしかったのではなく途中からおかしくなったのか

  どのような評議名義( 連署 )によって、どの程度まで進めるという選任議決( 総代・副総代公布 )がされたのか

 ② どういった課題対策/期限対策の議事録処理体制 = 書記局・役所体制が履行・機能されてきたのか

 

の前近代的な文化圏国家らしい公文書・誓願式典の手本的な議事録管理 = 等族指導・危機管理を人の上に立つ官側・上席側がこれからはできなければならないのを、派閥利害次第でケンカ腰に徹底的に面倒がり合い手抜きし合いうやむやにたらい回し合い始める時代遅れの小心者老害体質の顔色の窺わせ合いがまかり通ることが許されるかのような、だらしないにもほどがあるその時代遅れの旧態偽善体質( まさに室町体制が崩壊した根本原因 )こそを織田信長は、荀子主義的にこの上なく嫌った。

 

そういう旧態性癖( 閉鎖地域裁判権止まりの派閥利害次第の押し付け合いの延々の繰り返し = 中央政権議会としての国際機能・組織構想の壊し合い )こそを今後は絶対に許されないことを上から順番に思い知らせるための、その良例作りをしていくための上( 公務吏僚側・等族諸侯側・書記局官僚側 )の等族指導を本来は総代・総家長・総裁( 武家の棟梁 )がしなければ/できなければならない、そこも思い知らせる( こともできない低次元な格下の分際がケンカ腰に軽々しく人の上に立とうとするな! = 合格・高次元/失格・低次元を裁定・統制・危機管理する側に居座り続けようとするな! の )その基本に立ち返られる形の優れた議会改革( 名目・誓願の議事録処理 )に織田信長が努( つと )めてきた証拠として、各地域で現存している織田氏がしっかり管理できていた誓願文献でそこがはっきりしている所と、他がそれが結局できていないから大差がつく一方になっていったことを、説明していきたい。( のちの江戸時代の天下泰平に向けての大きな手本となる )

 

織田信長は攻略・再統一ごとに各地域を降していく( 和解・交渉・降参等をはっきりさせる )ごとに、織田氏が公認するその地域の公務士分側の代弁者が改めて誰で、どのような公認構成なのか、そして庶民政治側の方でも身分再統制しながらのその地域の名主( なぬし。みょうしゅ。庄屋。士分と庶民の中間。地域ごとの庶民側のまとめ役・代弁者 )と村役たちの名義を連署させた公文書( 誓願書 )を作成し、さらに下同士での助け合いの意見回収をさせるための、寺社領改めがされた神社・寺院と、織田氏が設置した奉行所の、それぞれの役目の連絡体制なども明記させながら、神社または寺院でその公文書を奉納する式典( 誓願式 )を、織田信長は決して面倒がらずにそこを怠らなかった。

 

 ※今までの慣習のままでいい範囲と、これからは撤廃される慣習の範囲の、今後の織田氏の庶民政治体制の等族指導に従わなければならない部分を、面倒がらずに下々に公文書( 誓願書 )で明記させていった

 

織田政権時代の誓願( せいがん )文書は、織田氏の政務吏僚の筆頭・長老格である林秀貞( はやし ひでさだ。のちのやむなくの失脚劇で驚かれたが実際は良臣だったと見てよい )の名義も多く連署され、今後のその地方の徴税・労役・賦役義務と地域振興・開発に関する責任範囲に応じて、関係ある地域ごとの庶民側の代表たちや、それと今後連携する寺社との間で「こういう場合は今後こうする。こういう出資計画になる」がしっかり確認がされた、ということの証書になる。

 

政務吏僚の重役である林秀貞の署名が入っている時点で、織田信長の公認・認知の強調を意味するが、少し大きめの神社での式典( 誓願式・公文書の奉納式 )ならなお、重臣任せにせずにいつも織田信長自身も何人かの旗本吏僚たちを連れ、一緒に熱心に参列している。( 織田家の公式記録の信長公記の記述に、織田信長があちこちの寺社に面倒がらずに出向いていた様子が紹介されている )

 

公文書は原本を織田家が管理、そしてその写しが寺社に奉納する形が採られたため、後になって「そんな話は聞いていない」「こうでないとおかしい」と内輪揉めや他の地域間で揉めることのないよう

 

 「うちの地域では確かに織田家から、ここはこうだという公認・代替優先権( 誓願書 )を、あの約束の地( 寺社 )で確かに頂いている( 奉納式典がされている = 議決の重みが強調されている )」

 

 「そうだという確認( 評議 )もしっかりされたという、関連地域の奉行所と村役と寺社の連署( 名義 )もある」

 

という大事な確認を、奉納された公文書を庶民側が確認できるようになっており、もしそれが何者かによって改ざんされたとしても、織田家の旗本吏僚たちが管理していた原本とで内容が一致するのかの確認もできるようになっていた。( 本能寺の変の際、どのような重要文書がどのように保管されていたのか、明智光秀と羽柴秀吉も当然のこととして把握していた。織田信雄の動きがどんな意味があったのかを後述 )

 

織田氏の中央の乗り込み以後、その街道整備( 官民再分離。今まで地域間交流を遮断し合ってきた公認無き城・砦・関所の撤廃 )によってとうとう各地の農工商の前近代経済社会化に乗り出されるようになったこの新時代再建期に、せっかく織田氏がそれを約束・建設計画をしてくれるようになった中で、軽々しい気持ちでヘタに改ざんなどしてその地域全体の信用を失うようなことにでもなれば、その地域全体が格下げ扱い的に他の倍の奉仕義務を課せられることになったり、工事計画が他よりもだいぶ後回しにされてしまうなどの恐れもあり、良いことなどひとつもない。

 

自分たちの地域で道路工事と橋の建設が着手されてまず交通網・連絡網が便利になれば、不正暴力( 謄本登録無き下同士での上下序列社会権威運動 = 勝手な交流遮断運動・閉鎖有徳運動の再燃・拡散 )に働こうとする徒党の取り締まりや、また他家の侵攻の動きを監視するための保安軍( 前期型兵農分離で明確化された織田氏の専属公務軍。10名20名単位で領内各地を見回り分担ができている時点で、旧畿内も他の地方もできていないここが良い意味の脅威だった。のちの江戸の保安検分体制である同心見回り組 の手本となる )の動きも快適になる。

 

奉行所( 織田氏の公正な旗本吏僚たちが手配された、公認済なのかを確認したり訴えを受理するための役所 )の設置で連絡網が確保されながら、便利な交通網と広場が整地されていけば、宿場と寺社( 庶民間の連絡と下同士の助け合いの意見回収の場。織田氏と友好関係が強めた法華宗がそれに協力的だった。識字率改善なども請け負った )の建設も可能となり、その地域で人の往来が増えれば近遠地域間の農工商の交流網の場となっていく。

 

織田氏に届け出( 謄本登録 )されているその宿場と寺社を中心に、自然に小都市化も進んでいくことでそれに資本提携( 物流経済を支える庶民間の金融業や倉庫管理 )をしようとする商人団もそこに集まるようになる、そうすればその地域施政のための本格的な賦役・徴税とその代替保証・優先権の庶民政治体制の発達に繋がる。

 

下( 民間 )に対する地域ごとの前近代交流経済社会化をさっさと進めなければならなかった、織田信長がそこに熱心になっている所を、それを今まで通り下同士で下を作り合わせる閉鎖旧態序列を維持しようと神経質に怒り狂るいながら交流網を遮断し続けようとする、織田氏の街道整備( 身分再統制・下の産業法改め )を妨害し続けようとする寺社( 法賊 )に対して織田信長は「貴様ら偽善老害どもが神仏( 合格・高次元/失格・低次元 )を語る資格なんかねぇんだ!」と、その寺社領の徹底的な再起不能の破壊に回った( あるべき有徳総代の姿を肩代わりした )のである。

 

織田氏のその「何かあったら下を煽って半農半士武装運動を再燃・拡散させるのではなく下同士の助け合いのまずは議会的な意見提出の交流・整理を手助けする」方針に法華宗が協力的だった、だから法華宗に連( つら )なる寺院は手厚い優遇保護を受け、同じくそこに協力的だった臨済宗や浄土宗ものちに優遇されたように、聖界( 教義界 )としての本来のその等族義務を果たそうと努力している所と、人をただねじ伏せ合う道具( 偶像 )にケンカ腰にたらい回し合うことしか能がない偽善者どものように制裁されて当然の所とで、天国と地獄ほどの差があったのである。

 

この大事な前近代社会化の手本が示される前時代は、ここ( 誓願による下同士の助け合いの名目の立て方 )が物的整理面では織田氏に今ひとつ及ばずながらでも、まだできていた方だったのは浄土真宗くらいで他はろくにできていなかった。

 

所詮はよそが規定した認定基準に過ぎないものを、どの環境( 当事者軸的 )にどう参考( 主体軸 )にしていくのかの整理を自分たちでしようともせずに、そこを徹底的に面倒がり合いながらそのよその最低限が自分たちの頂点であるかのようないきなりの勢い任せのケンカ腰のたらい回し合いを始め、外圧の顔色を窺わせ合う道具( 偶像崇拝 )にし合うことしか能がない、そういう規律書類管理( 文面統制・構想計画 )しかできていない、そこをどうにでもうやむやに解釈できてしまう実態を危機管理できていない低次元側( 国際間/身内間の 当事者軸・動機的始点 と 主体軸・本分的終点 の文化交流計画などできていない = 全体像・社会心理など把握・想定できない )と、そこを危機管理できている高次元側と差が開く一方になるのは現代でも同じである。

 

旧畿内( の上級士分気取りども。官僚気取りども。教義委員会気取りども )は、次世代政権議会化に向けた名目・誓願の評議名義性・選任議決性のためのこうした聖域( 可決 )の場としての典礼手本の示し合いなどしてこなかった、その品性規律を延々と私物化し合い壊し合ういがみ合いで士分待遇( 上の立場 )を確保・維持できた勝ち組が善人、それを失った負け組の半農半士たちがそれに従わなければ悪人だとする、その時代遅れの低次元ないがみ合い( 家父長的寡頭主義 )をやめ合う/やめさせ合うこともできない中で、どうやって下々を前近代経済社会化させていけるのか( 次の段階に進めるための等族指導ができるのか )、その愚かさだらしなさの仕組みは現代でも全く同じ話なのである。

 

いい加減にされなければならなかった、上同士で上から順番に厳しい処置をするようになった織田政権時代は、残忍うんぬん以前に今まで上同士であまりにも手ぬる過ぎた、上( 自分たち )のだらしなさが招いた不始末を下( 外 )のせい甚大な弊害負担をかけ合おうとするその軽々しさを2度と繰り返させない( 今後は許されない )ための強調に過ぎない。

 

名目・誓願の立て方について書きたいことが山ほどあるが、文字数制限の都合で今回はここまでとし、1575 年以降の織田氏の天下静謐の様子について、次回も引き続き説明を続ける。