近世日本の身分制社会(133/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか61/??  本能寺の変の全体像07/? 2024/04/04

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~06」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

今回は 1575 年以降の中央の織田氏と地方諸氏との、内外の実態( 国内地政学観の敷居のズレ )に触れていく。

 

織田氏の次世代敷居の畿内再統一の見通しが 1575 年には明確になり始めた頃は、佐久間信盛、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉ら師団長格がもはや中央公務検察団として、畿内の次は手前の地方の上から順番の監査・書類送検・諮問( しもん。お前らの所の地方裁判所の公事・誓願証書・議事録管理はどうなっておるのだ! 地方を低次元化させ合わせないため、すなわち無用ないがみ合いを無くすための戦国終焉・次世代情報技術交流経済社会化に向けた次世代序列再統制の合格・高次元/失格・低次元の敷居が中央に全く追いついておらんではないか! 格下げ覚悟で中央の次世代政権に再裁定を自分たちから進んで願い出るべき地方家臣の分際どもが織田氏の上洛要請に応じる用意もできていない、そのために地方をまとめることもできていない内から何を地方家長・上層を気取りながら反抗しようとしておるのだ! )をする側の立場になる。

 

畿内の次は地方の番の、どの連中が格下げ覚悟の織田派( 有志 )か、それとも制裁されて当然の反織田派( 偽善老害ども )なのか、その取り締まり( 上同士での評議名義/選任議決の進退の明確化 )に出向くという、中央( 畿内再統一ができる次世代政権議会の総家長・武家の棟梁側 )と地方( その敷居にさっさと対応もできずに進退をモタモタやっている外様家臣どもの分際 = 国際地政学観の弊害となる地方裁判権止まりのだらしない家長気取りどもだと見なされる側 = いつまでも地縁にしがみつき続け、管区整備のための減封異動や武家屋敷の強制収容にさっさと応じられない、それしきのことで精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまうような等族諸侯の資格などないだらしない集まり )の関係が色濃くなり始めた所になる。

 

 御成敗式目改め( 武家法典の喧嘩両成敗法改め = 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させない )もできない地方の格下の陪臣ども( 非公認の家長気取りども・等族諸侯気取りども )は、何を我が織田政権( 次世代政権議会 = 国際地政学観の強国化・文化交流社会化 )の敷居( 上洛要請による中央家長側地方家臣側の主従の明確化 = 上同士の次世代身分制議会の明確化 )に反抗( うやむやに時間稼ぎ )しようとしておるのだ!

 

上同士の敷居競争( 国内地政学的領域戦 = 次世代裁判権・家長権争い )自体は 1575 年にはもはや勝負はついていた。( 格上側・高次元側 と 格下・低次元側 の 織田氏と地方との力量差ははっきりしていた = 戦国終焉に向かっていた )

 

地方はそれまで、中央( 武家の棟梁・絶対家長の明確化 = 次世代政権議会の序列再統制の明確化 = 国際力を有する、皇室を肩代わりする文化圏国家の次世代総裁 )が空位同然( 旧態議会の低次元な人事序列敷居のまま )の深刻な状態が延々と続いたにも拘わらず、織田氏以外の地方は中央のその評議名義性・選任議決性の明確化( 畿内再統一・中央議会改革 )のために動こうとせず( = 上・等族諸侯・地方上層たちの本来の大事な役目のひとつである次期総裁選の等族義務を果たそうとせず = 西洋でいう選帝侯の等族義務を特に三管四職層が果たそうとせず = 上の皆が目先の派閥利害次第の擁立合戦でしか動かず = 上同士のこの深刻な問題を織田信長が取り締まってくれた良例手本が、のち次期将軍候補に支障が出そうな際に備えての徳川御三家の選任体制・上同士の身分制議会体制として活かされる )に、中央のその深刻さ( 空位同然状態 = 中央再建・次世代国家体制の見通しが延々と立たない状態 )をそっちのけ( むしろ中央がそうであり続けてもらわなければ不都合ですらあった、文化圏国家全体・国際地政学観、すなわち次代たちのため陛下のためのことに無神経・無関心・無計画な地方の低次元な格下ども。中央のその廷臣たち )で地方内・地方間の勝手な( 次世代敷居の公認・認知・典礼など受けていない )身分制の敷き合いのいがみ合い( 地方裁判権止まり同士の閉鎖人事統制の領域戦 )を地方同士で許し合ってきたのも本来は許されない、そんなものは絶対家長( 次世代政権議会 )から制裁( 等族指導・官民再分離・武家屋敷に強制収容 )されて当然とする前近代化の姿( 上から順番の旧畿内の制裁の次は地方の天下静謐 = 戦国終焉 )がいよいよ顕著となってきたのが、1575 年あたりからの実態( 全体像・社会心理 )となる。

 

旧畿内が、うやむや騒動を起こし続ける手口で延々とごまかされ続けてきた( 次世代議会改革を妨害し合い低次元化させ合い続けてきた )、それが許された( 誰も取り締まることができない状態が維持され続けてきた )のも 1567 年までで、織田氏の畿内への乗り込み( 言い逃れ無用 )となった 1568 年冬 からの旧畿内は、次世代政権議会のあり方( 評議名義性・選任議決性 )に向き合わなければならない転換期をとうとう迎えたのである。

 

それを巡って足利義昭と織田信長との間で険悪化していく一方となった 1571 年の時点で、地方の上層たち( 遠方ならともかく畿内とは近めの地方ならなお )は本来は、ここで内外のいがみ合いをいったん停止して、畿内( 中央 )の今後のあり方をどうするのか( 旧身分慣習維持の足利家支持の旧室町派 か 格下げ覚悟の仕切り直しの織田家支持の新体制派か )を明確化しなければならなかった、その本来の等族義務( 地方上層・等族諸侯としての本来の大事な役目のひとつ )もその多くはろくに果たすことなどできなかった( その表明に向けて、つまり今後の中央の動きに備える前提の地政学的領域戦・旧態改めといえる地方のまとめ方など大半はできていなかった )のである。

 

ここは現代でも同じ明日は我が身の教訓として、徳川家康は清州同盟で織田信長の尾張再統一の良例を見習う形で三河再統一を果たし、そこ( 織田派か反織田派かを巡る進退 )にも対応していく前提の家臣団の方針指導ができていた、だから内部分裂することなく織田派で団結できたのに対し、他はどうだったのかといえば、ただでさえ足並みを揃えるのに精一杯だった中で、高次元側( 近代議会化・国際地政学社会化のための評議名義性・選任議決性・人事敷居改革・議席の譲り合いの品性規律の次世代指導の手本の示し合いができている側 )である織田派を表明しようとすれば化けの皮が剥がれる内部分裂が起きてその足並みが崩壊、今までの威勢を維持できなくなるのも目に見えていた、だから大半の所は低次元側( 低次元な顔色の窺わせ合い/低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合いの閉鎖的な猿芝居劇場で大事なことをうやむやにし続けることしか能がない、よその合格・高次元/失格・低次元とやかくの前に自分たちのその愚かさだらしなさの危機管理・人事敷居序列改革・上としての手本の示し合いも自分たちでできたこともない、下の作り合いのみで低次元化させ合うことしか能がないにも拘わらず軽々しくケンカ腰に人の上に立ちたがる、裁かれて当然の身の程知らずの法賊ども・騒乱罪予備軍ども・偽善老害ども )の反織田派に組みする他なかったのが実態だったのである。

 

織田領と隣接する大手だったからこそ気まずかった武田氏は、織田氏の敷居( の上洛要請による中央家長と外様家臣の立場の家長権関係・人事統制権の明確化 )に従えば上から順番の大幅な格下げは免( まぬが )れなかったその一方で、それとは対照的だった徳川氏は、織田氏とは今まで通りの良好な盟友関係を維持し続け、織田氏の畿内再統一に加勢し続けた( 他を見渡せば、まとまりなど怪しい中で曖昧に動いた荒木村重や松永久秀らと比べても、織田氏の畿内再統一への加勢 = 評議名義性と選任議決性の明確な表明・支持に動けるような家臣団の団結のさせ方ができていたのは徳川氏だけだった )、だから武田氏はその徳川氏の存在になお気まずくあせり、戦略的に見ても( 地政学的領域戦の視点でも )厄介この上なかった徳川氏( 畿内再統一への加勢 )に噛みつくようになったのである。

 

上記( これまで説明してきた本能寺の変の全体像1~6 )の国際地政学観( 次世代政権議会の全体像に対する特に上同士の社会心理 )をまず踏まえる前提とした上で今回は 1575 年から 1580 年前後あたりまでの織田信長の、上同士での厳しさと寛大さの次世代人事統制( 主に上同士の身分再統制・議会改革 )の「なぜなのか」の特徴 前からそうだったが 1575 年以降強まる様子 )をざっと説明していきたい。

 

なお織田時代をきっかけに、いったんは大身となるも維持できなかったり、またはそこから大身の道のきっかけとなって徳川時代をどうにか迎えるなども多数で、織田時代、豊臣時代、徳川時代にかけてその落差に激しさもある。

 

ここでは出世にまつわる紹介も少し触れるが、今回は織田信長の次世代人事統制の特徴の列挙が主要であるため、その意味で丹羽長重、前田利家、堀秀政、山内一豊、池田輝政、その他も目を見張る多くの出世劇があるものの今回は除外している。

 

織田氏の武家屋敷制度の様子も他とは別格だったこととして今回紹介するが、その注意事項を補足しておきたい。

 

本拠城下( 清州城、岐阜城、安土城 )の武家屋敷は、織田本家( 織田信長 )直属の旗本たちの生活の場、旗本吏僚としての指導( 目付役、奉行所の治安の巡回役、応援軍役、普請手伝い、師団長たちへの連絡役など様々 )の場でもあるのと同時に、家臣たちそれぞれの人質を預かる、管理する場でもあり、人質を担保とするその主従慣習自体、織田氏だけがそうだった訳ではなく武家社会の古くからの慣習となる。

 

これは戦国大名( 地方の代表格 )たちだけでない、特にまとまりのない地方の、郡や郷の単位での、その地域内の上下関係の主従ですら、これまでは牢獄制に近い人質慣習による力関係ばかりの序列統制がそれまではされがちだった、だから主従関係も不健全化に向かいがちだった所も、織田政権時代にそこがだいぶ見直されるようになり、のちの徳川政権時代に活かされるようになった。

 

ここは簡単に想像がつくと思うが、ただ力関係で人質の弱みを握って従わせるのみのような、そういう威力の向け合いの足並みに頼るばかりのやり方で強豪( 人の上に立つ側の手本 )といえるような信用を大事にし合う結束( = 地政学的敷居競争 )が図れる訳がない。( = 地方議会の人事敷居改革。強豪化のための地方再統一 などできる訳がない )

 

最初から旧態人事敷居( 旧室町体制・旧畿内 )が不健全だからこそ、有力家臣がせっかく健全化を訴えてもかえって上同士の派閥利害( 低次元な顔色の窺わせ合い = 上の本来の人事敷居改革の等族義務をうやむやに弊害負担を押し付け合う劣悪性癖 )のそそのかし合いに悪用され、人質の扱いを脅( おびやか )される不利な立場となることもたびたびで、派閥利害次第の離反劇が起きて組織が乱れるごとに人質の血祭大会の末期症状も繰り返されてきたその旧態慣習( 旧畿内がまさにその繰り返しだった )も、織田政権時代にとうとう大幅に改められ( 高次元化され )たものが徳川政権時代に教訓活用された大事な部分になる。

 

そこ( 時代遅れの人質体質 )が相変わらず今まで通りを続けていた所が多かった他の有力諸氏たちと比べ、織田氏の武家屋敷制度の様子( 人事改革 )は別格で、表向きはその主従のために城下の武家屋敷で人質生活を過ごしていた者も多かった中で、織田信長の見込み( 合格・高次元 )/見放し( 失格・低次元 )次第でその扱いも天国と地獄ほどの差があった。

 

信用ある( 合格・高次元扱いされた )有志家臣の人質( その妻と次代たち )の環境はもはや恐ろしい牢獄などではない、人質など表向きの話で、旗本吏僚、書記局官僚、旅団長など候補扱い、もしかしたら等族諸侯( 近世大名。地方知事 )やその管区監査官の候補生かも知れない指導( 上級士分への道 )を熱心に受けていたほどだった。

 

織田信長は、有志の家臣たちの子ら人質に対しては脅すどころか「お前たちの家長( 父や兄ら )は戦場の前線で活躍し、こないだの地方開発の指揮でも非常に良い働きをしている。お前たちも同じようにいずれは部下たちや下々にそのように慕われるような働きができなければならない」と奨励しながら( そのように声をかけられること自体が恩賞。見込み次第ではいずれは継承候補の格式や皆にうらやましがられるような優先資格の話もいくらでもあり得るから、だから上としての手本の示し合いを努力せよという意味があった )、武家屋敷生活の中で何か困ったことがないかの相談も受け付けていたほどだったのである。

 

当時の人事敷居改革をよく象徴していた面々をこれから紹介していく上で、出世劇も少し紹介するが今回は人事面に関する紹介を主目的とする。

 

- 仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠 -
 

 水野信元 みずの のぶもと

 織田信秀時代までに尾張南部の池鯉鮒郡( ちりゅう。今の愛知県知立市 )付近の広めの自領を維持してきた自負を強め、その名士意識を強めるばかりだった所が仇となる。公認無き勝手な家格運動に厳しかった( 上同士で正しさを乱立させ合うことを禁止する身分再統制・人事敷居序列改革・喧嘩両成敗法改めに熱心だった )織田信長からそれまではそこをあまり厳しくいわれなかったのをいいことに、水野家はまるで織田家とは同盟関係の一大勢力であるかのような、三河・遠江の代表格の徳川家康( 水野信元の甥 )と同格であるかのような態度を一向に改めようとしなかったことに織田信長もとうとう痺れを切らす形で、早い段階で( 上層に対する一斉の戦力外通告改易の 1580 年を迎える前に )改易( かいえき。領地特権の剥奪 )処分となった。織田信長が水野信元にそれまであまり厳しくいわなかったのは、織田氏との盟友関係を律儀に維持し続けた徳川家康( 織田氏の畿内再統一の際に、他は錯乱するばかりだった中で徳川氏は織田派を表明しその加勢までできた )の叔父だったことで、大目に様子見していたと見てよい。水野氏もそのくらいのことは当然解っていた上で、その立場を悪用し続ける一方だった。それを見過ごし続けることは織田政権全体の大きな支障となった( 勝手な家格運動が水野氏は許されてるから )となったため、水野家当主である水野元信( 徳川家康の叔父 )は結局上意討ちされる( 総家長に対する不忠の死罪を申し付けられる = 次世代政権議会を乱し合う/壊し合う/低次元化させ合う禍根と見なされる = のち徳川政権時代の大きな手本となる )事態となる。この予定は内々で事前に徳川家康にも告知していたと見てよいのは、その上意討ちを徳川家がやむなく請け負う形になったことからも間違いなく、そこが了承されただけでも寛大な処置だったといえる。徳川家康もその責任( 次世代政権議会の人事敷居 )の重みを真摯に受け取ったからこそ、上意討ちも水野信元のみで済まされ、失地した水野一族の内、一部を除いて織田家の再家臣化が許されなかったその多くも徳川家が身受けすることも許された( 奉公構いを受けずに済んだ。ほうこうかまい はたとえ小さくても士分待遇を与えてはならないという上同士の身分制。奉公構いを受けた元士分は牢人という字が当てられた )と見てよい。のち徳川政権で政務面で優れた献策・活躍をし、江戸時代の幕藩体制発足に向けて政権内で強力な権威を有するようになる土井利勝( どい としかつ。水野信元の子 )によって、水野信元時代の水野家を十分すぎるほど汚名返上、徳川家の親類としての水野家の家格の重みを大いに回復させることになる。

 荒木村重 あらき むらしげ

 衰退が著しかった細川派を三好氏が排撃し、畿内で一時的に一大勢力を築いたその三好氏の勢いに荒木村重も便乗する形で、三好派として摂津の支配代理の地位を得て台頭した筋となる。荒木村重は元は摂津の有力の池田氏の家臣であったが、三好氏に取り入る形で足並みが揃わなくなっていた池田氏に代わって荒木村重が摂津の足並みを揃えるようになり、そして織田氏が畿内に乗り込むと今度はすかさず三好氏を見限って織田派に鞍替えする形で足並み揃えた。当初は畿内近隣で、地域の足並みを揃えて織田派を表明できる所自体が非常に少なかったことから最初は織田信長も荒木村重のことを評価していたが、この摂津荒木勢は思ったほど摂津を結束( 地方再統一・地方議会改革 )させられていなかった。摂津の代表格としての立場を、三好氏や織田氏といった場凌ぎ的な外圧の勢いに頼っていただけで、その地位を維持し続けるのも厳しくなっていた実態が 1578 年に荒木村重が織田氏に離反した際にはっきりしている。織田信長は、荒木村重が率いる家臣団( 寄騎たち。摂津衆たち )の中でも、中川清秀、高山重友らも有望株と見なされ直々に才気を認知してもらっていたが、荒木村重はそれらとの信用関係など冷え切っていった様子からも、摂津における荒木村重の裁判力( = 代表の代表格としての家長権・地方長官の信望 )など失墜していたと見てよい。摂津の代表格としての立場( 等族諸侯の資格 = 地方再統一・地方議会改革の才覚 )に気まずくなるばかりだった荒木村重は何をしたのかといえば、織田氏と対峙しなければならなくなり必死に抵抗するようになった大手の毛利氏( 織田軍羽柴勢が備前宇喜多勢を味方につけ、中国方面の大手の毛利氏攻略に向かうようになった )に目を向け、その反織田運動( 主に毛利氏と浄土真宗 )に鞍替えすることで、その鞍替え劇に従わない理由で摂津衆の粛清に動くこうとする、威力的な摂津衆の再結束を図ろうとした。つまり荒木村重は、三好時代と結局何も変わっていないその場任せ的な手口で摂津の再結束を図ろうとし( 今まで通り摂津の代表格の地位を維持しようとし )、それが原因で摂津衆は荒木村重派( 織田氏の敷居についていけそうにない格下げに気まずい毛利氏と、聖属裁判権を巡って争っていた浄土真宗のその対立利害に組みする派 )織田信長派( 荒木村重と険悪になっていった中川清秀や高山重友ら格下げ覚悟で努力しようとしていた有志派 )とで分裂する事態を招いた。のちの幕藩体制の大きな手本となる目付制度( 取り締まりのための諜報 )を敷いていた織田信長から見れば、摂津衆がまとまりがなくなる一方だったことは全て筒抜けで、だからこそ荒木村重もますます気まずい一方だったと見てよい。摂津のそうした内部分裂の凶兆は既に出ていたその前年以前から織田信長は「悪いことはいわんから」と荒木村重とその取り巻きたちに摂津代理を解任し、武家屋敷にいったん収容しようとしたが、摂津の代表格の地位にこだわった荒木村重は「何とかして見せます」と先延ばしし続けた。そして摂津がどうにもまとまらなくなった時に荒木村重は、あきらめて自分から進んで辞任を申し出るのかと思ったら反織田派に鞍替えするという大不祥事を起こした、そこ( 人の上に立つ器ではない態度 )に織田信長は大激怒したのである。織田信長が大改革しておいてくれたおかげで、それまでの不健全な人質体制も江戸時代になってだいぶ健全化されるようになったが、この頃はその過渡期で、荒木村重は旧態的( 旧畿内的 )な人質体制に頼ってばかりの従わせ方を強めていた。織田信長は摂津衆たちに「毛利派に組みした荒木村重とは手切れせよ」と呼びかける( 調略する )も、摂津衆の織田派たちはそれに応じたくても、荒木村重が握っていた人質の身を案じて身動きがとれない緊迫した状態となった。この時に織田信長は、キリスト教の熱心な信徒となっていた高山重友に対し「織田派を表明しなけば、お前のキリスト教の布教運動も、畿内でのキリスト教も有徳総代であるこの俺が規制するぞ。お前のせいでそうなってもいいのか」と一計を演出する。高山重友は織田信長からはキリスト教のことで、荒木村重からは人質のことで従えと両方から迫られ進退窮( きわ )まり、織田信長の下( もと )に「私は高槻城の地位を捨てて参じました。どうかキリスト教をこれまで通り公認してください。高槻城の家来たちをどうかお守りください」単身で出頭した。織田信長は内心は喜び「高山重友の身柄は織田家が人質として預かった、だから高槻城は織田家に従うように」とまずは高槻城の調略に成功する。高山重友が、自身の地位と人質のことよりも、キリスト教徒の皆のため家来たちのためを優先したこの投降劇を織田信長も絶賛した( 織田信長直々の絶賛自体がもはや格上げの恩賞・優先権が与えられることを意味した )ことで、世間では上から下まで大評判となった。そのような異例事態の雰囲気が作られたことをきっかけに他の摂津衆たちも、この高山重友を見習う形の人質が殺害されてしまうのもやむなしの覚悟を決めて次々と織田派を表明し始めるようになる。荒木村重は、ただ人質で脅すのみでは信望をますます失うのみ/ただ怒りを買うのみのやりにくい雰囲気が作られてしまったことで人質を結局手がけることもできなくなった。( 「キリスト教の奇跡」と注目された ) 初動からつまづく離反劇になってしまった( 勢い任せに皆を巻き込んで織田氏をできるだけ困らせようとしたが、摂津衆を大して巻き込むことができない離反劇となってしまった )荒木村重は、この時点でもう不忠罪( 上意討ち・死罪 )は免れないが、それでもこの段階でもまだ織田氏から降参を呼びかけられただけでも寛大だったといえる。つまりこの時点で荒木村重とその取り巻きたちが「全て我々の責任ということで」と進んで降参すれば、その連中の罪だけで許されたはずだった。荒木村重は、今まで摂津衆から人質の弱みを握りながら格上を気取ってきた中で、今まで従えてきた高山重友の際立った一件で悪い見本( 失格・低次元 )良い見本( 合格・高次元 )の象徴にされる結果となってしまった体裁の悪さに開き直るかのように、反織田派( 主に毛利氏と浄土真宗 )の姿勢を崩そうとしなかった。ここは現代でも明日は我が身の教訓として、相手を格下だと軽々しく見なし続けケンカ腰にねじ伏せる格上側( 低次元な顔色の窺わせ合い・低次元な落ち度狩り・低次元な頭間の下げさせ合い の旧態体質を押し付ける側 )を気取り続ける( 押し付け続ける。調子に乗り続ける )ことをすればするほど、それをし過ぎてしまったほど、引っ込みもつかなくなるこうした典型的な見苦しさ( 時代遅れの偽善老害体質のたらい回し合いの実態 )というのは現代でも誰しもが陥りがちな、常に皆が抱えがちな弊害疾患の愚かさだらしなさである。だから織田信長は心を鬼にし、荒木村重とその取り巻きたちの人質である女房衆たちを、苦しく過酷な焼き殺しのやむなしの公開処刑をすることにしたのである。主人の選び方を間違えると( 総代・家長の選任を誤ると =  口ほどにもない偽善老害を仰ごうとしたりその低次元な挑発に乗せられてばかりいると )大変なことになる、人の上に立つべきではない身の程知らずが人の上に立とうとすることを許し合おうとする( 時代遅れの偽善老害体質をたらい回し続けようとする )と大変な犠牲がついて回ることになる( 次代たちへの甚大な弊害負担となる )ことを、そこを繰り返させないための、皆に印象が強く残る手厳しい処刑方法をあえて実施した。これは織田信長がただ怒り任せにやった訳でも、ただ残忍だったというだけの単純な話などではなく、次世代政権議会の敷居を浸透させる( 上同士での人質の取り扱い方も身分再統制する )ための多くの意味を含んでいる。まずはただ人質で脅す威力任せ( 弱みの握り合い )の上下関係でなんでもかんでも従わせればいいというものではない。地方の代表家長気取りどもにその旧室町慣習のままの人質体質をさっさとやめさせる( 人質を預かる資格があるかどうかもこれからは中央総家長・武家の棟梁による公認制・人事序列統制権とする )ための「公認なき旧態人質体質をいつまでも続けている地方の家長気取りどもはそれ自体が著しい格下げ式目( 御成敗式目 )の懲罰対象だ!( = さっさと次世代政権議会の敷居の上洛要請に応じよ! = 地方の家長気取りの外様家臣の分際どもは中央家長の再裁定の上同士の身分再統制をさっさと受けよ! )」を恫喝する意味( のちの徳川政権の参勤交代制の武家屋敷のあり方に大いに参考にされる )がまずはあった。過酷な公開処刑によって「武家屋敷の中には士分待遇の生活が保証されているといっても、主人が不祥事を起こすのではないかと不安な日々を過ごし続けなければならない瀬戸際の連中も居るのだ」と、軽い気持ちで上( 士分側 )の待遇ばかり見て羨ましがったりひがみ合ったりしてはならない大事なこと( 低次元化させないこと )を下々( 官民再分離で庶民扱いされることになった多くの元半農半士たち )に伝える意味もあった。武家屋敷では織田氏の旗本吏僚たちの姿を見る機会も多いからこそ、人質たちはほぼ全員がいざという時の覚悟の規律をもって真摯に構えるようになっていた。だから残念ながら処刑されることが決定してしまった際でも、ほぼ取り乱すこともなく皆が立派な最後を迎えたというこの大事な部分がずっと見落とされてきた。処刑しなければならなくなることは確かに残酷だが問題なのはそこではない。このように武家屋敷で品性規律を受けて立派な覚悟で構えるようになる人質たち親類のために、処刑される覚悟でそれに駆け付ける・見届けることもせずにそれをただ見捨てるような、その気構え( 立派な姿 )を台無しにする不祥事を起こして平然としているような、武家屋敷と仮公認現場との認識の乖離( かいり )こそが本当に残酷な部分なのである。別格だった織田氏の公開処刑の様子を直接見たり伝え聞いた下々としては「武家屋敷ではあのように妻子たちが皆立派な覚悟をもって、むしろ恰好良いほどの立派な姿勢で処刑に挑んでいるのに、それを軽々しく見捨てるような、誰も駆け付けようともしないあの家系の当主たちはなんて酷い奴らなんだ・・・」と受け取ることになるのである。そういうことになるからこそ織田信長は、旗本吏僚としての基本的な等族指導をを近くで見てきた訳でもない新参の降将たちは、いったん武家屋敷に強制収容することを前提に、それでもどうしても今まで通りの待遇を仮公認してもらいたいというのであれば「だったらそれだけの手本の示し合いをせよ! その間に武家屋敷に収容される人質たちのことを忘れるな! 置き去りにするな! 残酷な心労を与えない努力をせよ!」と厳しかったのである。1575 年にもなると畿内の織田領はもはや終戦を迎えたかのような庶民施政の農工商の繁栄ぶりになっていた。上同士で何が起きているのかよく解らない大勢の下々としても「地方もさっさと織田氏に従えばいいのに。これ以上争うのも早く止めればいいのに」という雰囲気になっていた。下々は織田氏の上同士の処刑に恐がっていたのではなく「やっと上同士の不祥事を、下に一方的に負担させることなく、たらい回そうとせずにまずは上同士で処理してくれるようになった」と見るようになっていたのである。

 

 松永久秀 まつなが ひさひで

 荒木村重と同じような経緯で、こちらも三好派から織田派に鞍替えする形で大和代理の仮公認を得た筋になるが、状況は荒木村重の説明と類似する。大和を十分にまとめることができていなかった( 織田氏の敷居の地方再統一ができていなかった )ことで、織田氏の有力家臣たちのように同じように目立った活躍を強調することもできずに( 原田直政の寄騎扱いされてしまった )気まずくなり、さら茶道活動による勝手な家格上げ運動を始めたため織田信長を怒らせることになった事情は水野信元と類似している。松永久秀とその取り巻きたちは、大和代理を解任される形で武家屋敷の強制収容がされることも解り切っていたため、次第にそこに反抗的になり始め、反織田派( 主に毛利氏と浄土真宗 )と連携するようになった。やはり説得に応じなかっため、武家屋敷に人質に預けていた松永久秀のふたりの子は公開処刑されてしまった。こちらはできるだけ苦しまないよう介錯( 打ち首 )付きの切腹が配慮されたようである。人質のふたりはやはり立派な最後の姿勢で挑んだだけに、このやむなしの処刑に下々も残念がることになった。信貴山城の松永久秀と有岡城の荒木村重が制圧されると、大和衆と摂津衆はいったん佐久間信盛の統制下扱いとなるが、1580 年にとうとう迎えた仮公認たちの戦力外通告に佐久間信盛がまさかの大失脚となったため、それらは明智光秀( 部将。師団長 )の統制下扱いされることになる。1582 年に明智光秀が本能寺の変を起こした際に、摂津衆の有力寄騎( よりき。与力。師団長に所属する旅団長 )である中川清秀と高山重友、大和衆の有力寄騎である筒井順慶( つつい じゅんけい )が明智光秀の加勢要請に応じなかったため、他の摂津衆、大和衆たちもそれに加勢することは無かった。明智光秀の準寄騎の関係だった丹後の細川藤孝も、明智光秀の加勢要請に応じなかった。毛利氏攻略中であった羽柴秀吉が毛利氏と停戦し、急いで摂津に向かって明智勢制圧を呼び掛けると、摂津勢( 中川清秀と高山重友 )他、畿内西部の織田家臣たちは羽柴勢に加勢する。一方の明智勢は若狭勢や近江勢の中でいくらかの加勢は得たものの、細川藤孝( 丹後勢 )と筒井順慶( 大和勢 )に傍観を決めこまれてしまったため十分な味方を得られないまま羽柴勢との対決を迎える。

 

 原田直政の取り巻きたち

 原田直政はまず、織田領がどんどん拡大されていった中で、師団長筆頭の佐久間信盛が各地の大領を管轄することになり大変になってきたため、原田直政がそれを分担・補佐する副官としての役目としての抜擢だったと思われる。摂津南部( 大坂城の旧地 )の浄土真宗との戦いが激化すると、原田直政が山城勢と大和勢を統制する部将( 師団長 )として佐久間信盛の戦いを補佐するが、戦死してしまう。強力な軍閥体制を維持していた摂津の一向一揆勢( 浄土真宗 )と十分に戦えるだけの結束を、大和勢が整えられていなかったことがかなり響いたと思われる。原田勢の敗報に織田信長が激怒したといわれ、大和衆の寄騎たちの頼りなさ( つまり大和衆の最有力を気取っていた松永久秀に対して )や、原田直政の取り巻きたちが武家屋敷の再収容にさっさと動こうとしなかったことに怒っていたと思われる。こうした織田信長の武家屋敷への再収容制度は、のちの幕藩体制の参勤交代制度や、城代や目付制度の人事における「お前たちはあくまで代理人・管理人に過ぎないということを忘れるな! だから交代人事で江戸への呼び寄せを受けたらさっさと戻ってこなければ天下の御政道批判( 絶対家長である徳川家への不忠・反逆 )と見なして手厳しい懲罰扱いにするぞ!」の等族指導の大きな手本となった部分になる。江戸時代の城代や目付は権威を持ちがちで、10年も20年も同地での任期が長引くと、預かっているに過ぎないその地での領地特権の統制を続けている内に( 権威を振るい続けている内に )、それがまるごと自分たちのもの( 俸禄・家格待遇 )であるかのようにどうしても錯覚しがちな所があり、そこへのしがみつきの問題も起きがちだったからこそ、徳川政権もその等族指導に配慮していた。

 

 逸見昌経 へんみ まさつね( 若狭武田一族 )

 若狭武田源氏の分家筋の有力家臣で、逸見氏の地元の若狭西部の高浜郡( 今の関西電力の高浜原発のある一帯 )はとりあえずまとめることはできていた。しかし若狭の代表格、武田信豊( たけだ のぶとよ。逸見氏の本家。ちなみに甲斐武田氏にも同時代人の同名がいるため少しややこしい )は群ひとつまとめることも難儀・衰退する一方となったため、逸見昌経がそれを肩代わりする代表格代理( 守護代 )のような存在感を維持するようになる。三好長慶( みよし ながよし ちょうけい )が畿内で権勢を強め( 三好氏は京兆細川政権における最有力家臣だったが、衰退した細川氏を排撃する形で畿内の支配に乗り出した )、三好氏の有力家臣・参謀役である松永長頼( まつなが ながより。松永久秀の弟 )が丹波内藤氏攻略に乗り込むと逸見昌経は、松永勢に加勢したらしく( 三好派を表明した )武田信豊派と武田義統( たけだ よしずみ )の親子間擁立闘争で若狭の分裂が決定的になって越前朝倉氏がその介入に動いた( 若狭攻略に動いた )際には、丹波で一時的に勢力を維持するようになったこの松永長頼が今度は逸見昌経に加勢する形で、若狭は 武田信豊支持勢・逸見昌経・丹波松永勢 連合 VS 武田義統支持勢・越前朝倉勢 連合 というまさに代表家長が誰なのかいつまでもはっきりしない( 絶対家長的な代表中心の地方再統一・地方議会改革が進まない )から起きがちな、グダグダな争いが繰り広げられた。朝倉氏は、若狭西部のこのしぶとい逸見昌経を抑えることができず、さらに若狭東部での反朝倉の急先鋒であった国吉城の粟屋勝久( あわや かつひさ。粟屋氏は武田源氏一族とは古くからの有力家臣の関係 )の頑強な抵抗にも手を焼き、朝倉氏による若狭介入( 攻略 )は思うような成果は挙げられなかった。朝倉氏の執拗な若狭介入で不穏な情勢が続いた中、織田信長が畿内に乗り込み、織田氏と朝倉・浅井氏の対立化が顕著になると、反朝倉であった逸見昌経と粟屋勝久は織田派に積極的に組みするようになり、両名は織田氏の仮公認の若狭衆の有力寄騎扱いとなる。高浜郡の地元はとりあえずまとめることはできていた逸見昌経の立場は、木曽郡( 今の長野県木曽郡木曽町 )の地元はとりあえずまとめることはできていた木曽義昌( きそ よしまさ。木曽義仲流の木曽源氏の末裔を強調していた )、池鯉鮒郡( ちりゅう。今の愛知県知立市 )付近の地元をとりあえずまとめることはできていた水野信元、らのように地縁を強めがちだった性質、つまりのちの移封( のちの管区整備のための国替え。上同士の次世代身分制議会 )に対応できるのかどうかが問われる立場だった所が類似していたといえる。あまり注目されないが逸見昌経は、織田氏の敷居の官民再分離こそできていないものの領民のことも良く配慮しながら領内を守ることはできていたため、少なくとも高浜郡では人気・結束はあった。織田家から見た新参筋の中では人物的にだいぶ優れていた方だったと見てよく、織田政権ののちのそうした移封予定の覚悟も踏まえた上での織田派行動だったと見てよい。若狭衆の中で反織田運動に回った大飯郡の武藤友益( むとう ともます。若狭湾近隣でちょっとした勢力をもっていた佐分利水軍との縁をもっていたと思われる。さぶり )が織田氏に制圧されると、その旧領は逸見昌経の管轄として手配したり、1581 年の京都馬揃えでも逸見昌経は有力序列扱いで参列していることからも、織田信長からはだいぶ買われていたことが窺える。しかし逸見昌経がその 1581 年に死去すると、この逸見氏の家督相続は織田信長から認められない残念な結果となる。その旧領は、織田信長に才覚を買われていた溝口秀勝( みぞぐち ひでかつ。後述 )に赴任させることになり、これによって高浜領主としての逸見氏の家格はここで断絶となる。織田信長のこの高浜逸見氏に対する処置からもその特徴( 次世代政権の構想 )が多くが窺えるが、織田信長はまずは荒木村重の取り巻きたち、松永久秀の取り巻きたち、原田直政の取り巻きたちのように、逸見昌経の取り巻きたちにも厳しい見方をしていたことは間違いない所になる。逸見昌経が亡くなった際にその取り巻きたち( 重臣たち )が例えば、その後継者のことで派閥利害的な揉め事を起こしたり、また移封や武家屋敷への強制収容の扱いにごねるなどの不祥事を起こした可能性が高い。織田氏の旗本吏僚を近くで見てきた訳ではない( 等族指導を受けていない )中でヘタに郡の自治権を維持できてしまった新参筋ほど、そうした問題も起きやすくなる。当主本人は覚悟はできていても、旧来の家臣たちにその次世代敷居を十分に等族指導できるかどうか、間に合うかどうか、さらに半農半士感覚のまま( 官民未分離の旧軍役感覚のまま )の下々にも、という話となるとやはり難しかった当時の転換期の特徴が、この逸見昌経の事情で窺える。自身の取り巻きたちとの間での( 自分たちの間での )次世代等族指導( 地方議会改革 )が不十分なまま過ごすことは、旧態感覚のままの家臣たちの勢いに当主もつい流される弊害もいつまでも抱えがちになる。ここは現代における個人間・組織間・国際間の人間関係でも同じことがいえることとして、もっと解りやすい悪い言い方をすれば最初から周囲を外圧イエスマン固め( その場任せの無神経・無関心・無計画な勧善懲悪人事・偽善老害人事 )のねじ伏せ合いの閉鎖風潮で固めてしまうことで、自分たちで最初から何も改善しようとしなくなる環境( 和解・健全化を前提とする異環境間の敷居確認への向き合いをケンカ腰に徹底的に面倒がり合う、その場の機嫌や気分次第の人事敷居に低次元化させていく顔色の窺わせ合い )を自分たちで最初から作り合ってしまう原因、自分たちにとって大事なことを自分たちで最初から何も整備・対処できなくし合っていく原因となる。この事情は規模こそ違えど上杉謙信や武田信玄でも同じことがいえ、グダグダな争いが続けられてきた地方は、大転換期の織田政権の敷居に対応できていない深刻さを当主本人は自覚できても、グダグダな敷居から急に織田氏の敷居に部下たちを等族指導できるのかどうかは簡単ではないことも考慮できなければならない。永らくその地に土着し続けてきたその地域の上層たちを、国替えのために武家屋敷にいったん強制収容させる( 旧態慣習の地縁を切り離す = 地縁のない新地の赴任もこれからはできなければならない )という、今まで体験したことがない上同士の織田氏の次世代身分制議会に抵抗しようとすること自体が不祥事扱いに制裁対象になる( 人の上に立つ等族諸侯・公務吏僚・書記局官僚の品性規律などもち合わせていないと見なされる = 次世代交流経済社会化のための街道整備・官民再分離の妨害・低次元化分子と見なされる )という、織田政権時代のこうした絶対家長的な区画継承権の家格裁定の前例が、のちの徳川政権の幕藩体制に大いに活用されることになった部分( 幕府が謄本登録する上同士の継承権・家格裁定・移封に従わなかったり、内輪揉めの騒動を再燃・拡散させようとする藩や旗本は大小問わず厳しく改易 )なのである。織田政権は領内でそれをやってのけるようになったから次世代敷居で諸氏を恫喝する格上側になり、他の戦国大名たちはそこが手ぬる過ぎたから織田氏に恫喝される格下側になったのである。ちなみに本能寺の変が起きた際、織田氏によって自領を失った武藤友益が大飯郡の旧領再興運動を起こし、旧臣たちを集結させる形で明智勢の加勢に駆け付けているように、明智勢に加勢した中にはこのように失脚した反織田派たちも少なくなかった。

 

字数制限の都合で今回はここまでとなる。残りの説明予定の項目をそのまま列挙しておく。( 項目人物は暫定。変更の可能性あり )


 神保長住 じんぼう ながずみ

 

 寺島氏ら越中の 土豪たち

 

 安藤守就 あんどう もりなり

 

- その後の処置も予定されていたと思われる訳あり失脚枠 -

 

 佐久間信盛 さくま のぶもり

 

 林秀貞 はやし ひでさだ

 

- 表向き厳しいだけで仮公認から公認扱いされた寛大枠 -

 

 丹羽氏勝 にわ うじかつ

 

- 格下げ覚悟で真摯に臣従したことで結果的に報われた元外様枠 -

 

 京極高佳 きょうごく たかよし

 

 朽木元綱 くつき もとつな

 

 山岡景隆 やまおか かげたか

 

 長連龍 ちょう つらたつ

 

 神保氏張 じんぼう うじはる

 

 九鬼嘉隆 くき よしたか

 

 粟屋勝久 あわや かつひさ

 

 宇喜多直家 うきた なおいえ

 

- 織田政権時代の優遇も束の間だった枠 -

 

 河尻秀隆 かわじり ひでたか

 

 木曽義昌 きそ よしまさ

 

- 結局失格扱いされたことの危機感で結果的に報われた枠 -

 

 小笠原貞慶 おがさわら さだよし


- 厳しい重務を進んで請け負い、大いに報われた枠 -

 千秋氏( せんしゅう。ちあき。熱田神宮の氏子総代とその社人郎党たち )

 

 尼子一族と亀井茲矩 あまご  かめい これのり


- 皆に羨ましがられる待遇だった枠 -


 蒲生氏郷 がもう うじさと

 

 浅野長政とその親類のねね( 羽柴秀吉の妻。高台院 )

 

 細川藤孝 ほそかわ ふじたか

 

 森長可、森成利 もり ながよし しげとし

 

 斎藤利治 さいとう としはる

 

 溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ