近世日本の身分制社会(131/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか59/??  本能寺の変の全体像05/? 2024/03/06

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~04」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

今回は織田氏の 1575 年 からの反織田派らへの猛反撃の様子、というよりも大局( 次世代政権を巡る敷居 )が決する一方のもはや残党狩り( 低次元化させ合う原因でしかない、次世代的・議会改革的な敷居確認の手本など皆無な旧態弊害慣習の総巻き上げ = 荀子主義的改革 )といっていい段階に入っていた 1570 年代後半( 1575 - 1579 )に触れていく。

 

織田信長がいかに優れていたかが1570 年代後半( 1575 - 1579 )から窺える部分の説明に入りたい所だが、1570 年代前半( 1570 - 1574 )との時系列の地政学観( 全体像・社会心理 )がしっかり認識できていないと、なぜ本能寺の変に向かってしまったのかの結論だけ説明しても、具体的な意味( 全体像・社会心理 )が何も伝わらず何も解らないままになる。

 

逆に言えば、16世紀当時の国内/国際地政学観にしっかり関心をもって、日本の1570 年代の ”前半と後半の全体像のつけ合わせ” と ”外( よその敷居 )から見た内( 自分たちの敷居 )の全体像と、上( 自分たちの敷居 )から見た下( よその敷居 )の全体像の付け合わせ” の観点( 当事者軸・痛感性・個人尊重・初動的動機  主体軸・教訓性・体制的責任・本分的終点 の自他と前後を読み取って整理していく力量 )に努めれば、今まで見えていなかった、皆が気づかなかったことも自然に見えてくるようになる。

 

その意味で前半( 1570 - 1574 )と後半( 1575 - 1579 )とで当時何が起きていたのか、特に上同士ではどのような情勢だったのか、現代でも大いに教訓できる話として、筆者がこれから伝えたい、本能寺の変に迫っていくまでの後半部の説明の意味が、読み手が前半部の意味と繋げられないままでは何も伝わらない、だからくどかろうがしつこかろうが今一度、前半側の時系列のおさらいをしていく。

 

なお今回は、後半部( 1575 - 1579 )の説明に入るに前に、ということで特に 1565 年時点の織田氏の様子への注目してもらい、そこから前後関係を見ていくことをやや強調した時系列説明をする。

 

1554 年頃に織田氏を家督継承した織田信長は、先代の織田信秀時代からさらなる組織強化を目指す高次元な尾張再統一 国際地政学観の敷居競争を前提とする地方議会改革・人事序列改革・前期型兵農分離・官民再分離 ) に早々に乗り出す。

 

1560 年に織田氏の尾張再統一による敷居向上が大方を果たされる頃になると、その敷居が近場で浸透されると自分の所の立場がなくなることにあせった旧態体制のままの大手気取りの今川義元が、それを荒らしに大軍を率いてそれを桶狭間の戦いに挑むも、猛反撃される結果となる。今川氏のかつての尾張介入( 尾張の元々の支配者である斯波氏・足利一門の、その親類である今川氏が尾張支配を代理するという理由も、著しく衰退し続ける室町機構の中でその言い分もいい加減に時代遅れ感が強まっていた。斯波氏の有力家臣であった織田氏が尾張支配を代行するようになったのを今川氏が横槍を入れ続けた今まで )の権威消滅の決定打となったと共に、三河での今川権威も崩れ始めるきっかけにもなったため、これを機に松平元康( 徳川家康 )も三河再統一に乗り出すことになる。

 

1561 年、織田信長はその後も組織改革( 前期型兵農分離 )の改良を続け自領を安定させながら、伊勢( 三重県 )北畠氏( まとまりの見通しが立たず難儀していた )の隙を窺いつつ、美濃( みの。飛騨市を除く岐阜県 )斎藤氏( 織田信長との婚姻で友好関係化した義父の斎藤道三と争う美濃再統一で代表格を交代した斎藤義龍が、まだ34歳の若さで急死してしまったことが原因で結束を乱し始めていた。織田信長から見ると、失脚してそれほど間もなかった道三派を調略・収拾しながら切り崩していく好機だった。なお明智氏は道三派として失脚した側だった )攻略に注力するようになる。尾張再統一を果たして美濃と伊勢を窺っていた織田信長と、三河再統一に乗り出す機会を得た徳川家康との間で、これまでの険悪関係が見直される。かつての織田氏と今川氏の二強闘争の都合で、織田氏の手先扱いの水野氏、今川氏の手先扱いの松平氏( 徳川氏 )で争った険悪構図が仕切り直され、以後の織田氏と徳川氏は不戦・協力関係の清州同盟がこの頃に結ばれる。

 

1565 年、軍兵站体制がどこよりも進められていた織田氏は、庶民産業側にできるだけ負担をかけない動員体制ができていた。年中いつでもの美濃攻略の織田勢になびき始める美濃衆も目立ち始め、織田勢を追い返すことが苦しい斎藤勢の結束も崩れ続ける。この時点で専属正規軍2000はいたと見てよい、専属正規軍としては驚くべき多勢を整えていた織田勢は、さらに庶民の中でも整備された足軽・中間( あしがる。ちゅうげん )の雇用序列の優先基準から例えば1000の動員で加えた計3000で乗り込むとなれば、一方で専属軍は500もいたか( どの地方でも )怪しい、下士官以下の正規士分と庶民の序列境界など曖昧な旧態慣習通りのまま( 前近代人事敷居化が進んでいないまま )の斎藤勢は、いつまでも半農半士( その多くが普段は農工労働従事者 )が大勢の5000近くを動員しなければならず、織田勢が5000( 計画的な3000の産業負担 )で出てきたら斎藤勢は7000( 無計画な6500の産業負担 )近くの半農半士( 官民未分離 )たちを動員して追い返さなければならない。織田勢を追い返すことができた所で、何度も繰り返される分だけ美濃の経済阻害を受け続けることになり、織田氏のような経済成長( 前期型兵農分離・官民再分離・前近代軍兵站体制のための地方議会改革 )など進められていない中で十分な恩賞( 昇進や特権 )も手配できない。だから斎藤勢( 軍兵站体制・前期型兵農分離・官民再分離・身分再統制 が進められていない側 )が苦しくなる一方に連( つ )れ、美濃の各地域も斎藤氏体制のままで頑張り続ける( 斎藤氏を支持し続けながら織田勢を追い返し続ける )ことの明るさなど見える訳もなく、根を挙げながら織田氏の次世代身分制( 官民再分離・産業法 )の統制下になびき始めていったのである( 次回紹介したいのは、次世代法を敷くための前近代保証議会的な大事な名目・誓願 )。斎藤氏の弱体化も顕著になり始めていたこの頃に織田信長は、やろうと思えば大軍の動員を繰り返して斎藤氏を一気に畳みかけ、さっさと美濃を制圧することも可能になっていたが、あえて時間をかけた着実で賢明なやり方( 次世代統制を巡る総選挙的な支持戦にしなければならないことを美濃・尾張間で明確化・理解させるやり方。中央を巡る 1570 年代以降でも同じ大事な部分 )で攻略を進め 1568 年頃に美濃併合の大局を制することになる。織田氏はこの 1565 年の時点で、他ではとてもできそうにもない師団長( 寄親 )旅団長( 寄騎 )体制による司令改革( さらなる前近代的な軍兵站体制 = 国家構想 )の準備まで積極的に進め、のちのその師団長格の候補として、かつての半農半士の中の下っ端もいい所の出身であった木下秀吉( のちの豊臣秀吉 )を大抜擢したのもこの頃になる。

 

 ※織田信長の 1565 年頃の、あえて時間をかけたこの頃に見られる賢明なやり方( 名目・誓願の立て方 = 次世代政権議会の手本 )が、中央に乗り込んで以降、畿内再統一の際でも大いに活用されることになる非常に優れていた近代議会的な部分。現代でも大いに参考・教訓にできる大事な部分として次回触れる

 

1568 年頃に織田信長の美濃攻略( 織田氏に臣従した美濃衆の内、見込みの身分再統制に沿って格下げで武家屋敷に収容か、条件付きの仮公認で従わせる )の大局は決し、明確な2ヶ国、実質は3ヶ国近くの実力を有するようになった織田氏( 険しい峠や谷が他の地方と比べるとかなり少なかった尾張の、その低地地方としての恵まれた特性が有効活用される整備がその後も進められていったことで、尾張は1.5ヶ国~2ヶ国近くの国力を有していた。そこから伊勢北部への介入・調略も進めながら美濃を併合した織田氏の整備力はこの時点で既に、全国で1位2位を争う強力な実力者になり始めていたと見てよい )は、その地政学的敷居でもう中央改めもできるのではないかと評判となっていた。堺衆や、京を追われた足利義昭たちからも 1565 年の時点で織田氏に関心がもたれ、堺衆も織田信長と早めの交流を始めていた。堺衆たちとの文化交流をもっと前から始めていた西洋のキリスト教徒たちも日本の事情を色々と聞きながら「織田氏こそが次世代政権の最有力候補だ」と期待する( = 日本列島が戦国終焉に向かう流れが見え始める )ようになっていた。のち本能寺の変に特に関係してくる、中央再統一後( 次世代政権議会の設立後 )に向けた強国文化圏同士( 日本とスペイン間 )の通商条約・文化交流の話を早く進めたがっていたキリスト教徒たちも、堺衆たちの案内を得ながら織田氏の動向に注目・期待する( なんなら協力・援助も惜しまないと織田氏に好意を寄せる )ようになっていた。

 

 ※中央再建が遅々として進まないことを永らく問題視してきた堺衆たちは、美濃攻略も時間の問題になっていた織田氏なら次世代政権としてその肩代わりができるかも知れないと 1565 年の時点で先見的に期待し、その頃から友好関係を築こうと接近していた。西洋のキリスト教徒たちとも早い段階で文化交流を始めるようになっていた堺衆たちは 1568 年に、西洋人たちに織田氏との正式な面会の斡旋もしている。織田信長は、好意的に交流を求めてきた堺衆たちから西洋についての優位な情報を前々から聞くことができていたと見て間違いない。カール5世時代に帝国議会で取り沙汰されていた多様資本交流社会化にともなう公共税制や教義改革の問題、騎士修道会改革、スペイン主導の大証券経済を支えきれくなってとうとう壊してしまったフッガー大銀行のことなど、織田信長はひと通り把握できていても何ら不思議ではない。堺衆たちは中央再建とその次世代経済社会化に向けた見通しもしっかり立てながらさっさと動きたかった、その様子( = 中央経済の再建の見通しがいつまでもうやむやなままの畿内の旧中央関係者たちにウンザリしていた様子 )に織田信長も「よし! そういう話は俺の所にどんどんもってこい!」危機感をもって熱心に話を聞いてくれる、一緒に計画してくれる性分だったから堺衆たちもなお期待したこと、そして同じく畿内のその見通しの無さ不満をもっていた大津衆たちとも事前に連携しながら織田氏に優位になってもらう準備( 再建準備の他、火縄銃の優先の融通など )を内々で進めていたと見て間違いない。1568 年冬に中央に乗り込むことになった織田氏の、そこからの中央再建の手際の良さは 1565 年の段階で、織田氏と堺衆の間で中央再建に向けた色々な想定計画の段取りを内々で進めていたものと見て間違いなく、同じくその再建産業網に重要になってくる大津衆( 今の滋賀県大津市。京からすぐ東の商業交通地を拠点とした商人団。こちらも織田氏の近江支配時代に経済面で活躍 )とも早めに連絡を取り合っていたと見てよい

 

 ※なんでもかんでも勢い任せ・威力任せ( = 今よければ善、今悪ければ悪 )にただねじ伏せればいいというものではない、前近代文化経済交流社会化に対応する次世代政権議会の視野( = 次世代交流観・国際地政学観 )までもって、下々の今後のことまでしっかり考えてくれる次世代的な支配者( 前近代的な武家の棟梁。皇室・国王の威光を肩代わりする総裁 )を求めていた堺衆が織田信長に期待するのも当然だったその部分( しかしこの急速な進め方が残念ながら本能寺の変による否定に向かってしまい、下方修正されていくことになる全体像・社会心理 )に次回触れていきたい

 

1568 年冬 織田氏による美濃支配の大局が決した 1568 年頃に織田信長は足利義昭の中央奪還の後押しの要請を実行する。美濃攻略中での織田氏の改革力の姿は足利義昭からも 1565 年の時点で注目される形で、織田信長と足利義昭の間での交渉連絡も始まっていた。足利義昭の中央進出の要請に応じられる体制を美濃攻略中に整えた織田信長はまず、そのための上洛路を譲ろうとせずに抵抗に動いた南近江の六角氏( ろっかく。この頃は衰退が著しかったが、室町政権内ではかなり力をもっていた。名族として知られる佐々木源氏一族の本家筋的な家系 )の主要地を短期間で攻略し、上洛路を確保すると即座に山城( やましろ。中央。京 )に乗り込み、山城を占拠し続けていた三好勢の追い出し戦いもあっという間に済ませてしまった。1568 年内に中央進出を果たせたことは全国的に驚かれ、これは織田信長としても想定よりもだいぶ早く済ませることができたことに少し驚いていたようである。

 

 ※それまでの中央の経緯を補足。衰退する一方の京兆細川家( けいちょう。室町政権の最有力であった細川一族の本家は京兆家とも呼ばれていた。京兆は役職名が由来で、政権の重役たちのまとめ役、棟梁代理のような執権と同じような意味 )の、その有力家臣であった三好家が、細川家の領地特権を奪いながら中央も占拠するようになるが、しかし三好氏は中央の覇者を気取るばかりで畿内( きない。中央近隣 )は相変わらず、派閥利害構図( 力関係構図 )が細川権威から三好権威にただ置き換わっただけで中央再建の見通しなどうやむやな低次元ないがみ合いの不穏情勢が続いたままだった。この三好氏がそうだったように畿内( 中央 )の旧室町体制の有力筋たちは、自分たちの総家長のはずである将軍家( 足利家 )を盛り立てようとせずに( = 各序列役分の仕切り直し・身分再統制・中央議会改革に動こうとせずに = 上としての等族義務を明確化しようとせずに )応仁の乱の教訓など活かされない将軍家のただの擁立合戦( 自分たちの利害のための操り人形扱い )を繰り返しながら領地特権の勝手な奪い合いと荒らし合いを繰り返すのみだった。将軍家の公領と荘園領が横領( 中央政局を支えるための領地特権が横領 )され続け、できることも限られていた足利義輝( 事実上の室町最後の希望だった )が孤立無援だった中でも危機感をもち、武家の棟梁としての命懸けの中央改革を始める。畿内よりはいくらか改革が進んでいた地方大手たちから足利義輝は注目され始め、将軍家回復のための資金援助を申し出るようになる。しかしまとまりのない旧中央関係者らはそのせっかくのその中央再建の機会を活かすこともできず、三好派の上層らに邪魔者扱いされる形で( = 三好権威に合わせようとしない理由で = 権威は全て三好氏のものにすればよく、面倒事の責任だけ全て足利家に押し付ければよいとする理由で )暗殺されてしまう。ここが旧中央関係者たちが自力で再建する( 人事敷居改革。世俗・聖属両中央議会改めをする )最後の機会を逃してしまった分岐点( 実態 )だったといえる。それを肩代わりすることになる織田信長( 旧中央有力筋らの旧態序列から見れば下っ端出身もいいところの、地方の有力家臣の家来筋から台頭した家系 )から見れば、旧室町権威内における最後の希望の足利義輝を皆で守ろうとしなかった、盛り立てようとしなかった時点でもはや言い逃れ無用だったといえる。すなわち次世代政権議会を巡るため( 中央再建・次世代政権のあり方の評議名義性/選任議決性のため )の争和( 総選挙戦 )を畿内の旧有力筋( 中央の荘園領も再起不能と化したままの廷臣たちと公的教義も当然含める )たちに期待し続けた所で、あと100年待ってもとてもできそうにもないその末期症状の様子に織田信長はそこに内心かなり怒っていた( = 「将軍家にせよ管領にせよ畿内の有力家臣にせよ、誰かが再建に取り組もうとしてもお前たち旧中央関係者は次世代政権化・第三次世俗政権議会発足に向けた評議・議決の進退を自分たちで何ひとつはっきりさせてこれず、何かあるごとにその負担の押し付け合いと足の引っ張り合いでうやむやに妨害し合うことしかしてこなかったではないか!」と、各地位・各議席の序列に対する等族責任が上から順番に追及されて当然の準備要領を整えていた = それを解決できる準備要領の地政学的敷居までもてていた織田氏の後押しを受けることになった足利義昭が、室町総家長の武家の棟梁の立場としての再帰を望むのならなお、後押ししてもらっている織田氏にも納得させる前提で足利義昭自身がそこを仕切り直す根強さを以って挑まなければならなかったことは、上の間では解り切っていた。しかしいざ様子見してみるととてもできそうにもなかったから織田信長が結局肩代わりすることになった、絶対家長主義/文化圏総議長/前近代国家構想を前提とする各議席・地位の政権議会の見直しと次世代に向けた役目・機能が求められるようになったからこその16世紀の基本的な特徴がろくに説明されてこなかった )と見てよい。暗殺されかけた弟の足利義昭( と同行した反三好派たち )は、1565 年頃に越前朝倉氏の下( もと )に逃れて中央奪還( 三好派排撃 )を要請するも、朝倉氏は足利義昭たちの庇護( ひご )は受け入れたが中央進出には全く乗り気ではなかった( 朝倉氏は地元はなんとかまとめ都市開発も進められていたが、加賀はともかくまとまりのない若狭の介入も進めてはいたが大した成果は挙げられていなかった。勢い任せに中央に乗り込んで三好派の排撃ができたとしても、そもそもまとまりのない若狭の攻略・再統一に手を焼いている朝倉氏が、末期症状に伏魔殿化していた畿内をまとめられるほどの構想力まではなかった )。朝倉氏の庇護下で中央奪還を望み続けた足利義昭は、1565 年時点で地方改革( 地政学的敷居競争 )が目立っていた織田氏を有望視・期待し始め連絡を取り合うようになる。織田信長は、朝倉氏の下に亡命していた足利義昭らとその頃から中央進出に関する段取りの連絡を取り合い、また中央再建を希望・期待していた堺衆たち( 財界人たち )とも段取りの連絡を取り合っていた。つまり織田信長は 1565 年の美濃攻略中の段階で、この両面と中央進出に向けた手際の想定準備を始めていた。だから織田氏による中央進出戦までの手際も、その後の目覚ましい中央経済再建活動もやけに手際が良かったのである。織田氏は次世代政権議会の構想( 中央再統一に対応 = 前近代国家構想 )が前提だったからこそ、先々の想定ごとの下準備とその諜報( 情報戦・調略戦・信用戦 )も他よりも進めることもできたのである。織田信長は 1565 年の段階で時間の問題になり始めていた美濃斎藤氏に対し、大軍任せの連続で一気に畳みかけようと思えばできた状態だったが、先々に備えて地盤固めをしていきながら 1568 年に美濃攻略( 織田氏による美濃再統一 )を果すという賢明なやり方をした。美濃支配を明確化しながら本拠を早々に岐阜城に移動し、それまでに織田氏の身分再統制に臣従させた美濃衆たちもさっそくそれに従わせる形で早々に中央進出に動けたのも、次の段階の準備要領を整えながら今のこと( 美濃攻略 )を進めていく( 次への大目標に向けての今の小目標という全体像の計画の組み立て方ができている )賢明な姿( 評議・名義 と 誓願・議決 の前近代政治・次世代議会・国際地政学的議事録処理の手本の姿 を面倒がりながらケンカ腰にうやむやにねじ伏せる従わせ方は低次元化させる一方、いい加減な正しさの乱立とそのたらい回しの押し付け合いは戦国前期の逆戻りになる、その愚かさだらしなさを繰り返させないための高次元な評議・議決の手本の示し合いが前提の敷居確認・等族指導ができなければならない = 人の上に立つ側としての合格・高次元/失格・低次元を敷居管理する手本の示し合い )が窺える部分になる。織田信長のその基本姿勢は 1570 年代以降でも同じ、現代でも大いに教訓・参考にできる重要な部分

 

1568冬 - 1571 年 織田氏の強力な後押しを得て京に返り咲くことができた足利義昭たち( 反三好派ら )は、その表向きの威勢だけで有力諸氏たちを従わせる威厳にごまかしている段階ではない( 派閥闘争の勝者をただ気取り合って浮かれている場合ではない、そこで思考停止している場合ではない )政権議会( 旧中央関係者たちによる、特に次世代経済交流社会化のための世俗・聖属両中央議会 )の再統一( 人事敷居改革 )をどうするのかの本題にいい加減に向き合わなければならない、これ以上そこをうやむやにすることはできないことが問われる( 高次元な敷居の織田氏の後押しを受けた以上の調整力も問われる )気まずいことの方が多い立場になる。足利義昭が京に返り咲いた当初は( 織田氏が山城に乗り込んで三好派を排撃した当初は )、( 世俗・聖属両中央議会 )の仕切り直しは自分たち( 足利義昭ら反三好派たち )でしたいという申し出に織田信長も了承し、織田氏としてはさっそく( 庶民政治体制。下同士の助け合いの経済福祉施政のための次世代裁判権改め )に対する面倒見( 身分再統制・前期型兵農分離・官民再分離による街道整備、産業再建、役所手配、保安軍体制 )を熱心に請け負うことになった。の人事序列敷居の仕切り直し( 第3次世俗政権発足。第1次は源頼朝の鎌倉政権発足。第2次は、南朝派の聖属政権再興か北朝派の世俗政権再出発かで争われ、北朝の光厳天皇から委任を得た足利尊氏の優勢による室町政権発足。こうごんてんのう )において、足利義昭らがどれだけできるのかお手並み拝見となった。一方で下々の面倒見については、織田氏の保安管轄領である 尾張( 愛知県 ) - 美濃( 岐阜県 ) - 南近江( 滋賀県南部 ) - 山城( 京都府東部 )間での一斉の大動員の街道整備が始まり、帝都( 京 )再建のための資材も続々と運ばれ、実に100年近くぶりの復興が織田氏によって着手される。何もかもがボロボロのままだった朝廷の建物も、各中央寺院も、将軍御所も、商業施設も、荒れ放題の道路や橋も次々と再建されることになった。それができるだけの高次元な身分再統制( 官民再分離・議会改革 )の準備要領が整えられていた織田氏によってとうとう山城再建( 地方への手本でなけれぱならない中央公領の庶民政治側の仕切り直し )が着手される事態になる。その山城再建( 中央再建 )本来は自分たちでしなければならなかった畿内の低次元な旧有力筋どもがいつまでもグダグダモタモタいがみ合っている間に、畿内から見ればよそ者もいい所の織田信長( 織田信秀の次代 = 旧室町権威の三管四職体制の序列から見ればよそ者の下っ端もいい所の、管領の有力家臣の家来筋出身、陪臣のせがれ )にとうとう乗り出されてしまった。それができる高次元側( 合格・高次元/失格・低次元の人事再統制ができる格上側 )と、全くしてこれなかった低次元側( 人事統制する側に立つ資格などない格下側 )との違いを見せつけられてしまう一方の気まずい新局面( 畿内は揃いも揃って口ほどにもない公務士分気取りの役立たずのお荷物どもに過ぎないと織田氏から見なされても仕方がない、次世代政権において上から順番に総格下げされても仕方がない事態 )を畿内( 中央近隣 )はとうとう迎えたのである。低次元な旧態権威を延々とたらい回し合う挑発のし合いでいがみ合うことしか能がない( = 畿内を低次元化させ続けることしか能がない )、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもの姿とまさに同じ国家のお荷物でしかない旧有力筋どもの面目丸潰れの歴史的瞬間( = 中央再建・畿内再統一できるだけの身分再統制・官民再分離・前期型兵農分離・人事敷居改革のための地政学的敷居競争・総選挙戦 などしてこれなかった = 保身利害最優先のいがみ合いを繰り返すことしか能がないそのだらしさなの化けの皮を織田信長が剥がした歴史的瞬間 )を迎え、その異変( 足利義昭を後押しした織田氏による中央再興の姿 )に気まずい一方だからこそ、とりあえずは足利義昭を武家の棟梁と認める姿勢をその場は表明し一時的に大人しくなった。しかしこの時点では束の間のうわべの畿内平定に過ぎず、所詮はその場の気まずさのみの足並みの揃え方( 具体的な評議名義性・選任議決性がまだ発令・明確化されていない時点での、その場の勢い任せのただの力関係のみの従わせ合いでは = これから具体的な身分再統制に乗り出されるまでの保留段階の状態では )半年ももたずに今まで通りの畿内の低次元ないがみ合いを再燃させる有様となる。だからこそこれを機に、上同士としての強烈な喧嘩両成敗法( 特に上が上を取り締まるための、のちの江戸時代の大きな手本となった身分再統制・天下静謐。足利義昭がこういう所に結局踏み込めなかった、だから織田信長が肩代わりする形で乗り出したこの良例手本が、のちの江戸の次世代経済社会化に向かう上での大きな役目を果たすことになる )敷くこと( 次世代敷居の評議名義性・選任議決性のその人事敷居に従わなければ問答無用で制裁・巻き上げ。問答無用に武家屋敷に強制収容連行/再指導。江戸時代の大きな手本となる )をしなければ、100年近くいがみ合ってきた低次元なままの畿内の派閥闘争( 上が地政学的管理・危機管理しなければならない前近代的評議・次世代構想を上同士で延々とうやむやに低次元化させ合う劣悪性癖 = 旧態のままの性善説悪用主義任せ = 無神経・無関心・無計画に低次元な落ち度狩りの挑発をし合うのみのただの放任主義任せ )収拾・解決・認識させられる訳がない。だから足利義昭が京に返り咲いた( ただ政敵を排撃した )というだけの、見た目の威勢ばかりの実績のみ( この段階では具体的な法整備・議会改革が示されていない表向きの威力のみ )の 1569 年時点でのうわべの一時的( その場の勢い的 )な足並みの揃え方では半年ももたなかったのである。畿内の多くのだらしない旧有力者ども( 公務士分気取りども。上級家長気取りども。官僚気取りども )は、かつての細川派と反細川派かの対立構図から、三好派と反三好派の対立構図にただ置き換えただけで何も進歩しなかった( 格上総代としての敷居競争の立場というならなおその上同士で本来できなければならない、中央としての次世代政権議会の人事敷居を巡るための、そこを仕切り直すための明確な絶対家長・世俗総議長を誰にするのか、そこから誰が各議席権にふさわしいのかの序列を明確化していくための総選挙戦的・中央再統一的な争和 などしてこなかった = 保身利害最優先すなわち低次元化させ合う偽善闘争を繰り返すことしか能がない )のと同じく、この時( 織田氏が畿内に乗り込んだ翌 1569 年 )もただ足利・織田連盟派かその反連盟派かに置き換えることしか能がない、それで今まで通りのたらい回しの低次元ないがみ合いを再燃させることしか能がない( 次世代構想計画的な評議名義性・選任議決性といえる敷居確認をケンカ腰にうやむやにし合うことしか能がない = 国際地政学間評議の姿勢といえるような品性規律の手本など皆無な下っ端の考えしかできていない格下の身の程知らずの分際にも拘わらず手本家長を気取りたがる、人を従わせたがる、人の上に立ちたがる、人の頭を下げさせたがる = 上としての手本の作り合いに目を吊り上げようとせずに下同士で下を作り合うことのみに怒り狂い合い低次元化させ合うことしか能がない )こともはっきりしていた。ここは現代における個人間・組織間・国際間でも同じ「明日は我が身の教訓」として常に心得ておかなければならない部分になる。今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、上のあり方( 自分たちの品性規律の指標・認識の敷居 = 構想戦・情報戦の敷居 = 当事者軸・人文多様・個人尊重主体軸・啓蒙合理・体制的責任の調整計画力・異環境間文化交流力の地政学的次世代敷居の手本の示し合い = 評議名義性・選任議決性の次世代規律の手本の示し合い )うやむやにさせ合う低次元な落ち度狩りの挑発のし合いでたらい回し合うことしか能がない、その低次元な顔色の窺わせ合い通りでなければ怒り狂うことしか能がない危機管理も自分たちでできたこともない深刻さももてたこともない格下の下っ端根性しかもち合わせていないにも拘わらず、身の程知らずにも( = 近代議会的な国際人道観といえる評議名義性・選任議決性の品性規律 = 国際地政学観 = 国際公共序列観 )の合格・高次元/失格・低次元の裁量に軽々しくケンカ腰に挑発したがる( = 低次元化させ合いたがる )その法賊行為( = 低次元ないがみ合いの原因を作り合いたがる愚かさだらしなさをやめ合う/やめさせ合う議事録処理・社会的説明責任・国際的指導責任の基本中の基本うやむやにし合う低次元な偽善行為・劣悪性癖・性善説悪用主義の押し付け合い = 次世代敷居確認の品性規律の壊し合い )こそが本来は、傾国・衰退( 低次元化 )分子と見なされて上から順番に裁かれて/格下げされて当然、その最低限の等族指導ができて当然でなければならないのである。( 孫子、荀子、韓非子の組織論で共通している指摘 )

 

 ※外・下・新参( 道義外や特に次代たち )に厳しさや怒りを向ける以上はその100倍の厳しさや怒りをまず上・世全体( 自分たちで次世代敷居化できたことがない自分たちの低次元な規律指標に対する愚かさだらしなさ )に向ける良例手本の示し合いの最低限の順番( = 合格・高次元/失格・低次元の等族指導の基本中の基本 = 国際人道観 )果たしてから向けろというのである

 

 「こちらは ”上から目線” を上回る ”雲の上目線” で恫喝( = 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させないための国際地政学観といえる次世代敷居序列の手本の示し合いを要求 )しておるのだ!」

 

 ※筆者と同じような性分だったと見てよい織田信長の、畿内( 中央全体 )再統一の体制責任的な動機( 荀子主義的な構想 )の根底もまさにここだったと見てよい。その危機管理( 上としての等族指導・構想像の品性規律を作り合う・良例手本を示し合う姿勢 )が大前提の高次元側と、そこをうやむやに下同士で下を作り合うのみしか能がない低次元側とで敷居差( 情報戦差・信用戦差・全体像差 )が開いていくのも当然なのは現代の個人間・組織間・国際間でも同じ、まさに孫子・荀子・韓非子の組織論で警告されている部分なのである

 

 ※織田政権時代のこうした良例手本は、当時としては確かに急進的すぎた所もあったために残念ながら本能寺の変に繋がってしまうことになるものの貴重だったことに変わりはない。そこが徳川政権時代に下方調整( 今後の産業社会法のための上としての権力機構の改正もしていかなければならなくなる局面を迎えるたびに、今まで通りでなくなることに徹底的に面倒がり、そこに常に顔を苦痛に歪ませながら足の引っ張り合いと弊害負担のたらい回しに躍起になり始める前提は整理対象という、人の上に立つ側の序列資格・器量審査の厳しさへの緩和。世襲の許容 )はされながらも教訓的に大いに活かされることになる。つまり上同士で上をしっかり厳しく取り締まる( 上のあり方 = 地政学的・近代的評議会の品性規律について上同士でしっかり等族指導していく )最低限くらいはようやくされることになる。それによって日本もやっと前近代的な国内経済社会化( 前近代的・次世代的な産業法や税制や公的義務を、上同士での勝手な家格競争の正しさの乱立で乱し始め、下に甚大な悪影響と弊害負担を与え合い壊し合う、ということに向かわせないための、上の上つまり武家の棟梁・絶対家長という総裁中心の議席序列・大臣制の地政学的な評議・議決を可能とする政権議会・等族指導の姿によってようやく少しは取り組まれるようになる、前近代的な官民社会化 )らしい姿が完成することになる

 

1572 年 中央( 畿内 )に乗り込んできた織田氏の次世代敷居に、旧有力筋たちもとうとう向き合わなければならなくなった、とうとうその進退を迫られるようになったからこそ、畿内では上の間で錯乱気味にグダグダになり始めてきたこの時点で、足利義昭自身もいい加減に進退( 何をどうするのかの評議・議決の次世代敷居人事序列 )を( 室町総家長の立場を強調するならなお )はっきりさせなければならない事態に迫られていた。足利義昭は結局、室町体制の次世代化のため( 次の段階に進めるため = 畿内での今までの低次元ないがみ合いをやめさせるため、それはもう許されなくなる裁判権改め )の畿内再統一に思い切ることができそうにもなかった( 反感派多数に一斉に噛みつかれ始めることも解り切っていた。とても受け止められそうにもなかった )こともはっきりし始めていた。同じく織田氏のその次世代敷居にとてもついていけそうにもない畿内の反織田派たち( 格下げされて当然の分際だから、気まずいから旧態権威通りの地位・議席序列・待遇にしがみつき続けようとした迷惑千万な偽善者ども・騒乱罪予備軍ども )もそこに付け込み始め、反織田派( 第3次世俗政権発足に無神経・無関心・無計画な、旧態序列権威にただしがみついているだけの継続派 )を煽りながら大事なことを思い出したかのように足利義昭のことを急に支持( いい加減な低次元な結束作りを )し始める。畿内は織田氏の敷居に組する有志たち反織田派に組する法賊ども( 低次元化させ合うことしか能がない騒乱罪予備軍ども・偽善者ども )との畿内総選挙的な姿( 地方の手本でなければならない中央はなお、和解するにせよ争うにせよ次に進むためのその進退をそれぞれが明確化していかなければならないはずが延々としてこれなかった。これ以上モタモタやっている場合でない危機感をもった織田信長がそういう形になるようにとうとう踏み込んでくれた = 織田信長がこの時に踏み切ってくれた前近代議会的な評議・議決の良例手本が、のち羽柴秀吉の天下総無事の序章となる賤ヶ岳の戦い、徳川家康の天下泰平の序章となる関ヶ原の戦いの大きな手本となる )が顕著になった年になる。織田氏の敷居による畿内全体の再統一が本格化しそうになってから( 手遅れ寸前になってから )慌て始め、今まで利害次第の見方しかしなかった足利義昭( 室町の総家長 )のことを今頃になって急に擁立し始めた反織田派たちのそのいい加減な出方は、下々は上の間で何が起きているのかをすぐに理解することは難しくても親織田派の有志たちも、同じく織田氏との盟友関係を維持し続けた徳川氏も内心は相当あきれていた( 次世代政権のためのこと、すなわち今後の日本の次代たちのための陛下のためことよりも自分たちの今までの低次元な保身利害・偽善を最優先しようとする畿内の旧有力者たちの実態が改めてはっきりした )と見てよい。この時に織田氏( 実質の世俗の代表格 )と浄土真宗( 実質の聖属の代表格 )との対立もいよいよ本格化するが、こちらはいったん別枠の国内地政学観( 社会心理・全体像 )で見なければならない所がろくに説明されて来ずに混同され続けてきた。こちらの対立は聖属裁判権運動( 聖属権力による物的序列統制 )の禁止を巡って( 全て閉鎖有徳と上の間では宣告して )、次世代政権議会( 織田氏 )にいったん返上せよと勧告( 世俗・聖属に関係なく織田氏公認の公務吏僚と連携していない旧態のままの各地の武力自治権、寺社領特権、地縁特権などは一斉に禁止・解体。織田氏の前近代的な謄本登録手配・次世代産業法を改めて受けるよう勧告 )を迫られた浄土真宗が手放そうとしなかった( 畿内が下々をほったらかし続け、見通しもなく100年近く揉め続けたからこそ、世俗権力とも公的教義とも決別する形で独自で自治権を維持し続けてきた、戦国大名たちよりも強力な戦国仏教体制を、急に解体するのも難しかった新局面に浄土真宗も向き合わなければならなくなった )のを、反織田派がその対立を煽ったのが実情になる。繰り返すが畿内( 中央近隣 )の反織田派どもというのは、地方に手本を示さなければならなかった次世代議会的( 国内地政学的 )な敷居競争などしてこれなかった、外圧任せの猿知恵( 時代遅れの旧態慣習・老害主義 )をたらい回し合いながら低次元化させ合うことしか能がない、まさに今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような末期症状の集まりなのである。その場の利害任せに織田氏をただ仮想敵化しただけ( 旧室町体制の解体がとうとう始まりそうになった直前の手遅れ寸前になってから面倒がりながら現状に向き合い、急に大事なことを思い出したかのように慌てて派閥利害を煽ったのみ )で反織田運動( 次世代化格下げ・解体阻止運動 )を3年も結束できるのかまず怪しい中、浄土真宗から見ても自分たちはできている地方再統一( それぞれの地元での地政学的な裁判権争い )もろくにできたこともない低次元な格下と見なされて当然のこの畿内の反織田派( ただの利害保身最優先の偽善の集まりでしかない室町旧態権威派 )どもが、世俗権力( 室町体制 )と決別して戦国仏教化( 軍閥化 )した浄土真宗の敷居と十分な連携( 前近代評議的提携 )などできる訳がない( 浄土真宗の代表の顕如とその優れた参謀役の下間頼簾から見ても、畿内の自分たちの持ち場の地政学的議会改革・危機管理もしてこれたことがないにも拘わらず上級公務士分・中央官僚を気取り続けようとするその反織田派どもというのは要するに最初からあてにならない、当事者軸・動機的始点と主体軸・本分的終点の物事を整理・認識できるだけの、人の上に立つ手本側としての近代評議会的な規律・知能などない、だからどのような結果になろうが常にその危機管理を面倒がり続ける自分たちの不始末を、その場の利害次第で誰かのせいに負担させるためにケンカ腰に迷惑ヅラ被害者ヅラ善人ヅラし合いながらうやむやに騒ぎ合い低次元化させ合うことしか能がない、関わるとろくなことにならない懸念が必要な下品で汚らしい低次元な格下のザコども・クソガキどもと内心は見られていた。けんにょ しもづまらいれん。下妻氏 )という国内地政学観( 当事者軸と主体軸の全体像・社会心理 )が、これまで全く説明されてこなかった大事な部分になる。

 

1574 年まで。織田氏による有徳全般の仕切り直し( 街道整備と今後の庶民政治の度量衡の測量制や税制や産業交流法に関係してくる物的な寺社特権の見直し。織田氏へいったん返上の再謄本登録保証制 )に応じようとしない、交渉しようともしない寺社は、力をもった大手であろうが公的教義( 比叡山延暦寺・天台宗の本拠地 )であろうが踏み潰すことを鮮明にしていた 1571 年の時点で織田氏( 実質の世俗権力の代表格 )と浄土真宗( 実質の聖属権力の代表格 )との対立( もはや有徳総代を巡る織田信長と顕如の二強対決。元は織田家は剣神社の氏子総代・神官武士の出身であることが再確認されたかのようなこの織田信長の問答無用の聖属裁判権改めの態度に、廷臣たちは今頃になって青ざめたり錯乱したりした。本能寺の変に向かってしまう大きな要因のひとつになる )は顕著になっていた。伊勢北部で大きな聖属領の武力自治権を維持してきた長島一向一揆( 浄土真宗勢力 )に対し、織田氏は 1572 年からそれに本格的に制圧に動こうとするたびに反織田派が横槍を入れて妨害し、朝倉氏・浅井氏連合との対立も激化していく。畿内の反織田派たちが勢い任せに騒いでいる間に、東国( 東日本 )大手への天下静謐の格下げ( 上洛要請 = 織田氏の家臣扱い )第1号にされることが目に見えていた武田氏は反織田派を表明し始め、徳川氏と共に対織田包囲網に加わり畿内再統一の妨害に動こうとしていた。三河再統一を果たして実力をつけ始めていた徳川家康はこの 1572 年反織田派たちから猛烈な誘いを受けるも、自分たちの倍の戦力があった大手の武田氏との苦しい対決は避けられない不利を覚悟し、織田氏との盟友関係を維持し続ける賢明な表明に出る。1572 年時点では、織田氏は反織田派の勢いに手痛い打撃を受け、徳川氏も武田氏に手痛い打撃( 三方ヶ原の戦い )を受けるも、翌 1573 年には反織田派の結束が早くも鈍化し始める。織田氏は浄土真宗の制圧を阻害し続ける朝倉氏・浅井連合の制圧を優先するが、向こうは 足利義昭( 畿内の反織田派たちに擁立される ) - 浄土真宗( 聖属裁判権を巡って織田氏と対立 ) - 武田氏( 反織田派たちの畿内再統一妨害に協力 ) - 朝倉氏・浅井氏ら畿内近隣の反織田派たち の間での連携などうまく採れることもないまま( どのような総代なのかの立て合いや議席の譲り合いなどできる訳もない、勢い任せの利害次第同士が作戦統制できる訳もないまま )越前朝倉氏が制圧、続いて北近江浅井氏が制圧されてしまう。畿内での反織田派の弱体化が顕著になると、これまで誰も解体させられそうにもなかった伊勢北部の長島一向一揆( 浄土真宗が統制していた強力な武力自治権 )も、翌 1574 年に織田氏に制圧・解体されてしまい驚かれた。長島制圧が果たされたことは、織田氏なら次世代政権のための世俗・聖属の裁判権改め・身分再統制が可能であること( 戦国終焉に向かい始めていたこと )を上から下まで全国に知らしめる大きな第一歩の意味があったのである。これで織田氏の畿内再統一における主な強敵は摂津( 大阪府北部 )の石山本願寺( 浄土真宗の本拠 )と、それと連携しようとする紀伊( 和歌山県 )の戦国仏教勢力くらいとなり、いよいよ時間の問題と見なされ始めたため、三河・遠江( 徳川氏 )攻略を果たし得ないでいた武田氏( 徳川家臣団にしぶとく抵抗され続けられてしまった )はあせる一方となる。今までのように皆で織田氏の足を引っ張るという手口も難しくなってきていた中で 1575 年の長篠の戦い( 織田徳川連合軍と武田軍との一大決戦 )を迎え、武田軍は大打撃を受けて大敗する。ここを境に織田信長は、佐久間信盛原田直政に摂津南部( 浄土真宗 )攻略を、柴田勝家に越前( 福井県 )再統一と加賀( 石川県 )攻略を、羽柴秀吉に播磨( 兵庫県 )攻略を、明智光秀に丹波・丹後( 京都府西部 )攻略をと、前近代的な司令統制( 軍兵站体制 )の整備まで進めていた織田氏の次世代敷居の見せ付けが始まる。それら部将( 師団長 )たちの方が戦国大名( 地方の代表格たち )よりももはや格上、ヘタをすれば池田恒興( いけだ つねおき )、蜂屋頼隆( はちや よりたか )、前田利家ら有力寄騎( 旅団長 )たちの方がまとまりなどない地方よりも格上という、格上の織田氏格下の地方諸氏の家長権関係( 天下の趨勢 )もはっきりし始める。1575 年後半( 1575 - 1579。安土桃山時代。織田氏の前近代的な産業法整備の面倒見によって中央の農工商経済が活気づき、人々は生活に追われる忙しい中でも文化遺産的な伝統工芸・教義交流文化・衣食住も含める娯楽などの意識も向け始めるほどの余裕ももたらされた・取り戻された時代。桃山文化と呼ばれる )の織田氏の裁判権改め中心( 絶対家長による各階層の家長序列改めと天下静謐の喧嘩両成敗法 )時代の突入は、もはや裁く高次元側残党狩りされる低次元側と化し始める。旧態のくだらない( よそのまやかしの価値観にただ振り回され合ってきただけの、たらい回し合ってきただけの過去の栄光や弊害禍根でしかない )地縁や出身や経緯にこだわっている場合ではない織田氏の人事統制の配置転換( 管区整備のための移封・配置換え )の激しさに、さっさと対応しながら目覚ましい活躍を続けていたそれら有力家臣たちと同じ活躍ができなければならなかった松永久秀荒木村重水野信元ら、かつての待遇を仮公認してもらっているに過ぎない立場たちが、それについていけずに気まずくなる( から格下げされないように勝手な家格・正しさ運動を始めようとする )一方だったように、畿内が織田氏の敷居で大局が決し始めていた( 浸透し始めていた )中で、中途半端な地元再統一しかできていない地方の上層たちの内心の気まずさ( 織田氏の敷居の前に格下げされても仕方がない連中 )もまた同じだったのである。

 

字数制限の都合で今回はここまでとする。

 

これで後半部( 1575 - 1579 )の様子に触れるための説明もざっとできたかなと思えるようになったため、次回はたぶんそちらの話に触れていく予定。