近世日本の身分制社会(130/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか58/??  本能寺の変の全体像04/? 2024/02/18

 

ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~03」を読んでいる前提で、その話を進めていく。

 

先に報告として、前回の 03 の記事で織田氏による長島一向一揆の制圧は、1573 年の朝倉氏・浅井氏制圧の翌 1574 年でのことだったことのを、間違えて 1573 年内としてしまったことに後で気づき訂正しておいた。( 説明面ではほとんど支障はない )

 

今一度、1570 年代前半( 1570 - 1574 )までの織田氏の畿内近隣の再統一( 前期型兵農分離・官民再分離・身分再統制・人事敷居序列改革 = 街道整備を始めとする農工商の前近代経済交流社会化 )の流れとして、1573 年の越前朝倉氏の制圧、続いて北近江浅井氏の制圧、翌 1574 年の長島一向一揆の制圧と続いたことは、次世代構想を巡る争和らしいことなど全くできていない反織田派たちのいい加減さを( 組織理念の無さ = 中央再統一・中央議会改革の敷居を前提とする地方再統一・地方議会改革などできないだらしない低次元な格下の集まりであることを )はっきりさせていった、今後の日本の方針が決し始める時期となる。( 本能寺の変に関係 )

 

畿内にしても地方にしても、地位の低い下々は上の間で何か起きているのかすぐに理解するのも難しくても、その敷居で織田氏が畿内から迫った様子( 畿内再統一に乗り出された様子 )に無関心な訳がないそれぞれの地方の上層たちは、近隣から順番に同じように迫られるのももう時間の問題だった( から、今の内に織田氏の敷居に少しでも合わせる地方改革を急ぎながら格下げ覚悟で織田氏と和解交渉するか、それとも織田氏に妥協させるために反抗するのかの進退を迫られ始めていた各地方の状況 )くらいは、上同士ではそのくらいは認識できていたのである。

 

1575 年の長篠の戦いによって、織田氏の天下静謐( の敷居の次世代政権議会の姿 )がより明確化されていく一方の情勢( 下々も上の事情はよく解らなくても「中央経済を大再生・次世代化させ、さらには戦国最強といわれた武田氏との一大決戦に大勝利した織田氏の天下は、もう時間の問題なのでは・・・」くらいはさすがに感じ始める情勢 = 気まずかった地方裁判権止まりの上層たちが今まで地元で敷いてきたごまかしの偽善統制も織田氏の敷居の前には通用しないことが露呈してくる社会心理 )と化していくが、ここで今一度、織田家が足利家に代わって畿内( 中央近隣 )再統一に乗り出した時点(  1570 - 1574  )で、畿内( 織田氏の統制下・管轄扱いされていく中央近隣 )とは近めの地方( 近隣から順番に上洛要請の恫喝を向けられる、または織田氏の師団長たちに地方再統一に乗り込まれるまでに、時間の猶予がない近隣地方 )遠めの地方( 格下げ覚悟で臣従するにせよ、反抗して妥協させるにせよ織田氏の敷居に備える時間の猶予は少しはあった遠方地方 )とでの様子( 全体像・社会心理 )について、ざっと整理しておきたい。

 

別格だった織田氏の高次元な敷居( 次世代政権議会改革/前期型兵農分離/身分再統制 = 街道整備を始めとする農工商の次世代産業法・測量法改め = 半農半士たちの地侍闘争・惣国一揆・閉鎖有徳闘争の原因となる、各地域に無数に点在していた小口の武士団戦国後期に代表格の本部・武家屋敷に収拾の貫高制に移行するが、そのための閉鎖有徳狩り・旧態地縁切り離し政策の身分再統制にどこもモタつきがちだった中でそれをどこよりも進めることができていた織田氏は、その次の段階の今一度の領有制・石高制・所領安堵制の手配まで始めていた、すなわち等族諸侯体制・地方区画整備体制・次世代身分制議会を織田氏ならできるという国家構想差を見せつけていた。そこを手本的に率先できなければならなかった畿内がろくにできなくなっていたのは論外として、各地方もどこもそこまで進められていなかったから気まずい一方だった )に、畿内( 中央 )でも地方でも大抵は、ただちに合わせられる訳がない( 知能疾患の隔離病棟ともいうべき今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、上としての和解・健全化・敷居改善化への手本の作り合いをケンカ腰にうやむやにし合いながら低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合いの外圧任せの愚民序列の足並みの揃え方で全力でねじ伏せ合うことしか能がない = 下同士で下を作り合うのみしか能がない自分たちのその愚かさだらしなさをやめ合う/やめさせ合うための前近代的な人事敷居改善の手本の示し合いなどできたことがない、そこをケンカ腰にうやむやに低次元化させ合うことしか能がない反地政学観主義の汚物老害どもがそこを危機管理できる訳がない = 異環境間の合格・高次元/失格・低次元を裁量する資格などない )、だから下々への次世代敷居の状況説明( 次世代敷居の足並みにさっさと揃えなければならない上としての本来の等族義務 = 中央との連携が前提の地方行政権としての本来の公務 = 前近代的な評議名義性/選任議決性を危機管理・等族指導する側の等族諸侯側・公務吏僚側・書記局官僚側としての本来の資格の見直し )を迫られれば、内々では錯乱気味にモタつく( 等族指導の次世代敷居にすぐに対応できる訳がない地方裁判権止まりども/閉鎖有徳ども/口ほどにもない家長気取りどもが織田氏の敷居への向き合いに迫られること自体が、その危機管理もまずできたこともない化けの皮が剥がれることを意味した = これ以上暴走させないようにとうとう織田氏から保護監察扱いされた廷臣たちと公的教義も同じ、今まで国内教義議会としての次世代敷居をまとめることなどろくにして来れなかった、そこをこれ以上うやむやにさせ続ける時代ではなくなっていた転換期を迎えた = そういう所を追求できる前提の中央再統一・政権議会の次世代化を上の誰かができなければならない時代、そのための評議名義性/選任議決性の次世代敷居を等族指導できなければならない、その国際地政学観の国家構想に向き合わなければならない時代となった )のが実態であったことを、まず認識できている/しようとしていることが、日本の16世紀の特徴に向き合う前提となる。

 

その敷居差は、地政学間の債務信用差や情報戦差にそのまま直結し、領域戦に入る前の品性規律戦・政治外交戦の方で既に勝敗が決してしまっている危機管理の敷居確認から始めなければならないとしている孫子の兵法の組織論の前提そのものになる。

 

 「戦わずして勝つ姿勢で、まずはどちらの方がより国策・組織作りの品性規律に優れていて見習う所が多い側なのかの危機管理( 諜報・敷居確認 )を互いにし合いながら、まずは健全な和解交渉( 構想計画 )を前提( そこに反し合い低次元化させ合うことしか能がない内外の偽善者・老害・騒乱罪予備軍どもは上から人事整理できて当然の前提 )としていくことこそが、血を流さずにその後の憎悪対立も減らしていく最上策」

 

の大前提があった上で「どうしても争わなければならないという以上は」

 

 「だったら弊害禍根を残すことしか能がない低次元な組織体制しか作れないような、下々や次代たちをただ苦しめることしか能がない低次元同士が軽々しく争おうとするな!」

 

の、上策と下策の使い分けもできていない、因縁禍根をただ蓄積させ合うのみの傾国の原因となる下策のみ( ただの威力任せ・その時の勢い任せ )の低次元ないがみ合い( 仮想敵統制 = 愚民統制 )をダラダラと続けるな! という意味の

 

 「争う/競う以上は、ここ( 孫子の兵法の組織論 )に記されている最低限くらい互いに敷居確認( 情報戦的議事録処理・次世代構想計画 )できているのか、その手本の示し合いができている上で争え!」

 

 「そこ( 当事者軸・主体軸と始点・終点の構築計画・品性規律の明確化・敷居確認 )無神経・無関心・無計画にうやむやにし合う外圧任せの猿知恵のたらい回し合しを繰り返すことしか能がない低次元同士どもが、最初からいがみ合おうとするな!( = 低次元化させ合う弊害慣習をやめ合う/やめさせ合う危機管理などできたことがない低次元同士が合格・高次元/失格・低次元の敷居を扱う側軽々しく立とうとするな! )

 

荀子主義的に警告( 説教 )しているのが孫子の兵法の根幹であり、まさに織田信長の天下静謐の姿、のちの豊臣秀吉の天下総無事の姿そのものであることも、今回触れていきたい。

 

 ※西洋の場合は陸続きの多民族多慣習同士で憎悪闘争( ジェノサイド・族滅闘争 )に発展させないよう、広域的にキリスト教( 西方教会主義 )に頼らざるを得なかった( 揉めることは仕方がないにしても、同じキリスト教徒同士なら和解・解決し合い助け合わなければならない。キリスト教徒同士なら特に教区内・修道院内・神学校内では異環境慣習の違いを引き合いに人種差別し合うことなどしてはならない、上としてもその平和的な文化交流を阻害し合わせてはならない貴族思想・有徳思想・等族指導を重視しなければならなかった。しかし自分たちのそれぞれの地域圏内で、キリスト教徒同士のはずが下同士で差別し合わせ下を作り合わせる他力信仰一辺倒の教義権力の悪用 = 地政学観経済交流が求められ始めた中でその阻害でしかなくなっていた時代遅れの愚民規律統制が延々と続けられ、つまりキリスト教同士で敷居向上などならない教義権力の悪用を作り合ってねじ伏せ合わせる奴隷制のような社会構図をキリスト教徒同士で作り合ってはならないとされていたはずが、下にはほぼそれが向けられ続けてきた実態が延々と続けられてきた矛盾がいつまでも克服されてこなかった、だから16世紀の多様資本経済社会化をきっかけにとうとう教会改革という形でそこに向き合われることになった。下々の救済・健全化・敷居向上化のためとはほど遠い教義権力の悪用ルターが特に糾弾したことが、人文主義運動として教会改革を超えた次の段階のプロテスタント運動/公的教義不要論・決別論の導火線となった )が、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものようなただ見苦しいお荷物でしかない公的教義が踏み潰される形で仕切り直されることになって当然なのは日本も西洋も同じこととし、日本の場合は皇室を家元とする分家間・外戚間の家長権序列争いが前提の単民的な社会観だったからこそ、上同士での身分再統制の度合いは日本の方がより強烈だった( その象徴が織田信長、次いで豊臣秀吉だった )といえる。しかし西洋でも軍兵站体制による強国化 = 騎士修道会・軍部側の貴族序列特権の大幅な見直しの公務吏僚化改革による、前近代的・次世代的な身分制議会がスペインとフランスで特に顕著だった

 

本題に戻り、畿内( 中央近隣 )でも地方でも、織田氏にさっさと臣従しようとなかった反織田派らは内心では織田氏の敷居に動揺しながらしばらくは強がったものの、織田氏の敷居が浸透し始めている1570 年代後半( 1575 - 1579 )にもなると近隣から順番に総崩れ連鎖が起き始める頃になる。

 

時間の経過に連れて、織田氏の敷居と比べるとどこも中途半端な地方再統一しかできていないことが( 中央再統一・次世代政権議会を巡る前提の国内地政学観の敷居競争といえるような地方改革などできていないことが = 地方裁判権止まりのだらしない集まりであることが )はっきりし始め、手遅れ寸前( 織田氏から近世大名・等族諸侯・地方公務管理としての資格を公認してもらえるかどうかの瀬戸際 )の今頃になって、大事なことを急に思い出したかのように織田氏の敷居( それも 1560 年頃の織田氏の尾張再統一の前期型兵農分離の敷居 )の背中を慌てて追いかけ始める有様の「やっていることが10年15年遅い!」と織田氏から恫喝されても仕方がない、それが各地方の実態だったのである。

 

 ※そこに今頃になって慌てたのが顕著だったのが土佐( 高知県 )の長宗我部氏( ちょうそかべ )、常陸( ひたち。茨城県。日立 )の佐竹氏らで、陸奥( むつ。宮城県付近。米沢と仙台 )の伊達氏( だて )、薩摩( 鹿児島県 )の島津氏あたりは遠方地方にしてはその深刻さがもてていた方だった。それでもこれらはまだマシな方で、むしろ中途半端なまま強引に背伸びしながら大手化してしまいもう引っ込みがつかない所まで来てしまっていた毛利氏、上杉氏、武田氏、北条氏あたりと比べると、ヘタに大きくなる前に地方再統一をやり直すことが大手よりはしやすかった前者たちの方がまだだいぶ救いはあったといえる

 

普段から上の詳しい事情( = 織田氏の次世代敷居 )など聞かされないまま( 等族指導されて来なかったまま )、上同士で何が起きているのかの国内地政学観などすぐに理解できる訳もなく従ってきた各地方の下々というのは、上がだらしない分だけ( 地方裁判権止まりの分だけ )その地方・地域の従事層たちへの次世代社会化の遅れをとることを意味し、そこにモタつけばモタつくほど地域差( 国内地政学観の品性規律差 = 国内の異環境間での情報交流処理力差 = 国内敷居における当事者軸差と主体軸差 )もそれだけ出始めてしまい、そこへの取り組み不足差が今後の国内交流社会観に本来必要のないはずの下同士の非人制・奴隷制のような低次元化させる上下関係の禍根を作ってしまう弊害の原因になる( だからこそせっかくの次世代改革の転換期に、思い切ってそこを一斉に仕切り直す = 置いて行きぼりの地域をできる限り残さないようまとめて次世代化する、ということを中途半端に甘っチョロイことばかりしていては全て台無しになる )その残酷な部分に対する深刻さがもてなければならないことは現代社会における個人間・組織間・国際間でも大いに教訓にできるありがちな構図なのである。( 孫子、荀子、韓非子が指摘 )

 

織田氏の敷居( 天下静謐。前期型兵農分離 )の足並みにはとても間に合いそうもない、そこがごまかされ続けながらどうにか足並みを揃えるのが精一杯な各地方の士分( 人の上に立つ上級武士・公務吏僚 )気取りども( 次世代政権議会後に、地方議会の議席・地位に居座る資格など怪しい地方裁判権止まりの家長気取りども。等族諸侯気取りども )というのは、まとめて士分剥奪か、再指導のために地縁特権( 地方・地域行政管理の立場 )を巻き上げて切り離す形の武家屋敷への強制収容の格下げ扱い( 前期型兵農分離・官民再分離・身分再統制 )と見なされても仕方がない( のちの江戸幕府の身分制議会の大きな手本となる )、その敷居差が上同士では解っていたからこそ気まずく、差があればあるほど下々にすぐに実態を知らせることもできないまま( 上の事情などよく解らずに閉鎖的な社会標準にこれまで力関係的に従ってきた従事層たちの精神的支柱・結束がただちに崩壊・錯乱してもおかしくない残酷な状況だったから = 織田氏の敷居にただちに合わせようとすること自体が、収拾がつかない騒動まで起きかねない残酷な状況だったから = 人事敷居の次世代化改革などできておらず総格下げも必至だったから = 同じくそこを問われるようになった旧中央関係者たちも同様だったから )モタついていたのである。

 

畿内でも地方でもその上層たちは気まずいからとぼけつつ、強がる内心は青ざめながら 1570 年代前半( 1570 - 1574 )には何らか( 織田氏に帰順的に、今の内に自分たちで少しでもその敷居に合わせようとするのか、それとも反抗的に織田氏を妥協させようとするのか )の対処に慌てて備えなければならなくなっていた、この頃が大局の分岐点だったといえる。( のちの賤ヶ岳の戦いや関ヶ原の戦いにおける、上同士での評議名義性/選任議決性を巡る総選挙戦の大きな手本となる )

 

織田領と徳川領に隣接していたからこその武田氏が、大手の中で織田氏との向き合いを明確化しなければならない時期が早めに迫られるようになるが、これはのちに織田氏に代わって中央を掌握するようになった羽柴氏( 豊臣秀吉 )が、近場の大手から順にということで、見せしめ的に手始めに徳川氏を抑え込もうとした( 1584 年の小牧長久手の戦い。表向きは羽柴秀吉と対立した織田信雄を徳川家康が支援するという形の合戦となったが、どちらにしても羽柴氏が織田氏を抑え込んだ次は徳川氏を抑え込もうとする流れは目に見えていた集約も含めた、かつての盟友の義理と同じ境遇で織田信雄と一致して加勢した徳川軍が羽柴軍と争ったというのが実情の戦い。1582 年に本能寺の変が起きた際に、織田氏に制圧されて間がなく身分再統制がまだ浸透していなかった旧武田領の甲斐と信濃が大いに錯乱したため、その支配権を巡って上杉氏と北条氏と徳川氏とで争奪戦が始まって以後 1584 年になってもそれがダラダラと続けられていた。信濃においては武田支配の前時代の小笠原氏再興運動・旧領再興運動が顕著になったことで、信濃支配の象徴であった深志城/ふかし 今の長野県の松本城が特に争点となり、上杉氏が小笠原貞種の支援を名目に、徳川氏が小笠原貞慶の支援を名目に、木曽義昌が織田氏公認による深志城支配を名目に、の深志城争奪戦が顕著になる。上杉派を名目とする小笠原貞種勢が木曽勢を追い出す形で深志城奪還に成功するも、徳川家康の支援を得た小笠原貞慶勢によって深志城が占拠される事態となり、木曽義昌も深志城を奪い返そうと北条氏と連絡を取り合ったりと不穏な情勢が続くが、徳川勢が優勢な立場が続いていた。その間に清州会議と賤ヶ岳の戦いを経て中央を掌握した羽柴秀吉が、天下総無事の名目を以って厳密には北条氏と徳川氏をまず外交的にやめさせようとしたが二者ともやめようとしなかった。羽柴秀吉は織田政権時代の権威を仕切り直すというよりも巻き上げるためにまず尾張・伊勢大手の織田信雄を抑え込み、その次の計画として近隣の三河・遠江・駿河大手の徳川氏から抑え込むことで信濃・甲斐争奪戦をやめさせようとしていたことが目に見えていたこと、この争奪戦を止めてしまえば羽柴氏に優遇扱いされ始めていた上杉氏ばかりが一方的に優位になってしまうことに北条氏と徳川氏の家臣団が強い不条理を感じていたからなかなかやめようとしなかったこと、そして徳川家康からすればなにより、織田時代には苦楽を共にしてきたちょっとした仲間意識があった関係だったはずの羽柴秀吉が、盟友関係がまだ浅かったはずの上杉景勝の肩ばかりもって徳川家康のことは仲間意識など最初から無かったかのように、近場の手前の大手からという理由だけで真っ先に格下げに動こうとした、縁の順番を考えないその不義理的な羽柴秀吉の当時の出方に徳川家康は強い不条理を感じていた。もちろんそこは解っていたやむなしの羽柴秀吉の事情も順述。そういう所にはかなり義理堅い生真面目な所があった徳川家康はその性分が有利に働くことになる部分。関ヶ原の戦いの戦後にそこを面倒がらずに、織田信長の大きな手本を意識しながら徳川家康なりのやり方で大小細かくきっちり賞罰や格式再評価を努力したからこそ、天下泰平に向かわせることもできた部分。羽柴秀吉は小牧長久手の戦いで徳川家康をただちに抑え込むことはできなかったものの、戦後に西側への天下総無事を優先しつつ織田信雄の調略・家臣化に成功し、それによってそれまで織田氏の有力家臣としての公認を名目に信濃争奪戦をやめようとしなかった木曽義昌をやめさせ、深志城を必死に守っていた徳川派の小笠原貞慶を直撃的に羽柴氏の直臣扱いに調略することで天正壬午の乱/てんしょうじんご 上杉氏と北条氏と徳川氏の一連の領域争い の収拾に向かわせることになるが、人質の小笠原秀政の預かり人であった徳川家重臣の石川数正が、険悪化する一方だった羽柴勢と徳川勢のこれ以上の対立を回避するために、小笠原秀政を連れてやむなく羽柴方に出奔したことが小笠原貞慶調略の決定打となる。なお北条氏はこれまで、永らく上杉氏と関東の支配権を巡って格式争いをし過ぎて、関東総代としての自負に地縁的なこだわりを強め過ぎてしまっていたことが、大手ほど苦慮することになる天下総無事の時流に対応できない原因となる。織田信長の大きな手本が参考にされた天下総無事の一環であった移封・国替え政策にとても対応できそうにもない北条氏のそういう所を、豊臣秀吉は絶対家長を強めながらそこに付け込み、過酷な小田原攻めに向かわせ、北条氏の東国最大手としての家名存続は消滅させられる結果となった。北条氏の切り札であった不倒神話の小田原城に、全国諸氏へ軍役を従わせる大包囲網の実現によってあっけなく踏み潰してしまった、今まで誰もできそうにもなかったその武家の棟梁らしい姿を織田信長に代わって豊臣秀吉が実現してしまったことは、全国諸氏を改めて震撼させることになった )その国内地政学的構図が類似している自然な流れだったといえる。

 

武田氏はそれまで、佐竹氏や里見氏や結城氏( ゆうき )や芦名氏( あしな )や能登畠山氏( はたけやま )や神保氏( じんぼう )といった各地の中小らに反上杉、反北条を常に煽りながら、隙あらば上杉氏と北条氏と領域争いし( お互いにそのような「敵の敵は味方」の煽り合いをしていた )、さらに武田氏は足利義昭が煽った反織田派に組して織田氏との盟友関係を維持し続ける徳川氏とも争うようになった、だから余計に織田氏から領域争いをやめさせる天下静謐への進退の地方大手としての第1号的標本にされる運命だったのが、当時の武田氏の立場になる。( お前らが地方大手の見本として観念し、格下げ覚悟で我が次世代政権議会の敷居にさっさと従えば関東方面に対する天下静謐も早まるという 1570 年代での恫喝 = この構図は 1584 年時点でダラダラと続けられていた天正壬午の乱/てんしょうじんご 信濃・甲斐・上野の争奪戦に対して、手前大手からと豊臣秀吉が徳川家康に対し、さっさと上洛せよと向けた天下総無事の国内地政学観の構図と同じ。この当事者軸を下述 )

 

それ( 織田氏の次世代政権の敷居にさっさと上洛せよと迫られる大手第1号の標本にされることは目に見えていた武田氏の反抗劇 )を巡る三方ヶ原の戦いから長篠の戦いへの国内地政学的経緯をざっと説明していきたい。

 

まず武田氏は、小笠原氏の信濃を攻略・支配するようになって以降、武田氏は美濃斎藤氏とは近接し続けたが、武田氏が広大な信濃領( 中部と南部 )を併合して強国化が目立ったことで東側の今川氏、上杉氏、北条氏からの警戒も強められ、武田氏は西側の美濃や飛騨( ひだ。岐阜県北部 )の隙を積極的に窺うことはできなかった。

 

 ※飛騨は大したまとまりなどなかった上に国力も小規模のため、武田氏も上杉氏も合間に中小の軍勢を何度か差し向けているが、街道整備( 産業地と産業地を結ぶ主要道路と宿場の建設。河川工事や橋の建設 = 前期型兵農分離の力量がものをいった )などろくに進んでいなかった当時での標高の高い飛騨行きの道中は、自然に任せて常に荒れ気味に激しく流れるあちこちの川を船を使って渡ったり、また高低の激しい峠と谷を迂回しながら時間をかけて軍を移動させる必要があったため大変だった( 織田信長と豊臣秀吉が官民再分離してくれたからできるようになった街道整備が、江戸時代に積極的に進められるようになる )。外征を半年も1年も長期維持できるほどの前期型兵農分離・軍兵站体制など織田氏以外は整えられなかった、だから大軍による短期決戦の往復をしようにも、飛騨西部の内ヶ島氏( 金鉱をいくつか保有していた一族であったため昭和期に埋蔵金伝説で注目され、調査会が設置されたものの残存文献が乏しすぎて内ヶ島一族の帰雲城の場所も金鉱の場所も特定することも困難なまますぐに下火となった。うちがしま。かえりくも。きうん。内ヶ島氏は飛騨の代表格ではないがしぶとく生き残り、のち織田氏と羽柴氏に順当に臣従することになるが、天正大地震の際に再起不能の大損害を受けて消滅してしまった。かつて力をもっていた関東平氏と関係の有力筋の末裔だったようである )に時間稼ぎの抵抗をされたりで飛騨支配は簡単ではなかった。室町時代から江戸時代中期にかけては現代よりも気温が低い寒冷期だったといわれ、飛騨のような標高の山岳間の里単位の点在が特徴の地域は冬期に入ると豪雪もすさまじく、街道整備もろくにされていない当時に人馬を移動できるようするための毎度の除雪作業も大変だった。春期に入っても雪解けが遅かったため手間取ったといわれる。越後( 新潟県 )の上杉謙信も、北関東の支配権を巡って北条氏康と度々争った際に、北関東入り( 群馬県入り )する間の道中は高所が多かったことで冬期には軍の移動に苦労したといわれ、同じく冬期には豪雪が厳しくなる東北方面もそれが顕著だった

 

1568 年頃に織田氏が美濃を併合するようになって以降も、武田氏は西側へは積極的に隙を窺うほどの余力はないまま、斎藤氏に代わって近接するようになった織田氏とも不戦関係が続いていた。

 

今川氏衰退の序章となった 1560 年の桶狭間の戦い( 織田氏の尾張再統一の敷居をうやむやに否定・妨害するために今川義元が大軍を率いてそれを荒そうとするも、織田信長に猛反撃された戦い )をきっかけに、三河再統一を果たして戦国大名らしい力を取り戻した徳川氏は 1567 年頃には、衰退する一方だった今川領の遠江( とおとうみ。静岡県西部 )再統一に乗り出すほどの統制力を見せるが、武田氏もしばらくして今川領の駿河( するが。静岡県東部 )の接収に動く。

 

1572 年に武田氏が反織田派に組することをきっかけに、大手になりかけの徳川氏( 三河勢中心 )の遠江再統一がまだ不完全な内に、大手の武田氏( 甲斐勢中心 )がそこに横槍を入れる形の遠江争奪戦に乗り出す( 武田氏と徳川氏との間で、遠江衆の敵味方をはっきりさせていきながらの遠江の支配戦・支持戦が始まる。遠江衆は旧今川派なのか武田派なのか徳川派なのかの進退の明確化を改めて迫られるようになる )が、しぶとく再生して遠江攻略を始めるまでになった徳川家康( 1ヶ国半ほどの実力者 )に、武田信玄( 4ヵ国半近くの実力者 )ももう時間に余裕があまりない状況( 織田氏による畿内再統一の敷居が明確化していく一方の状況 = 上洛させる中央家長側と上洛させられる地方家臣側の国内地政学関係がはっきりしていく一方の状況 )の中で、モタモタと小競り合いをしている場合ではないあせりの大規模な徳川潰し( 三方ヶ原の戦い )に本気で注力し始めるようになる。

 

苦労人の徳川家康( 苦労人という大事な経緯を順述 )にとって大きな命運がかかっていた 1572 年の三方ヶ原の戦いから 1575 年の長篠の戦いについて、具体的に説明したい所だがかなり時間がかかってしまうため今回は地政学観( 全体像・社会心理 )の要点を説明していく。

 

織田信長が足利義昭に代わって畿内再統一に乗り込もうとし、足利義昭が反織田派を煽ってその阻害を始めた 1572 年時点で武田氏は反織田派を表明し、徳川氏が反織田派に組しなかったことをきっかけに徳川領( 三河と遠江 )を接収するべく本腰を入れ、2万の大軍を率いて乗り込んだ序章が三方ヶ原の戦いとなる。

 

秘匿にされていたが容態が良くなく死期が近づいていた武田信玄は、一気にカタをつけようとする勢いで、徳川氏の本拠の浜松城からすぐ北側の三方ヶ原( みかたがはら。三河と遠江の丁度真ん中あたりに位置する )に大軍で押し寄せた様子からも、時間的なあせりが窺える。

 

武田氏は、織田氏に畿内再統一を果たされてしまう間に徳川領を接収・拡張しておき織田氏への反抗に備えようとしたこと、また織田氏が畿内近隣で若狭や大和や摂津を従え始めたように武田氏も、武田領近隣の小口を接収する/従わせることができることを見せつけようとした( 織田氏に対抗できるだけの裁判力・身分再統制力を有していることを競争的に見せ付けようとした )ことに加え、長くはもちそうにない自身の容態のあせりも加わっていたと見てよい。

 

1572 年に織田氏が畿内再統一を強め始めたことは、それまで武田氏とは隙を窺い合ってきた上杉氏も北条氏もそこに無関心だった訳はなく同じく気まずかった、つまり武田氏が織田氏から東国( 東日本 )大手の進退第1号と見なされ始める流れだったことは上の間では察知し、武田氏が和するにせよ抗戦するにせよ次は自分たち( 上杉氏と北条氏 )が、その東国大手の進退第2号、第3号と見なされることも、解り切っていたのである。


だから武田氏( 反織田派 )が織田氏に対し、いかに格下げされずに織田氏を妥協させるかの抵抗運動をむしろ、ここで頑張ってくれなければそこがその後の両氏( 上杉氏と北条氏 )の待遇( 格下げの基準 )にも大いに影響した、だから両氏は気まずいから一時的ではあるが武田氏の隙を窺うことをやめ、反織田派を表明した武田氏に北条氏などは露骨にその三河・遠江攻略( 徳川潰し )に加勢する援軍まで送ったのである。

 

東国全体の今後の身分再統制に関わってくる東国大手の進退第1号の立場を武田氏が背負うことになった象徴が、武田氏にとっての 1572 年の三方ヶ原の戦いと 1575 年の長篠の戦いで、そこを問われた地政学的構図は、1582 年の本能寺の変後にしばらくして羽柴秀吉が中央再統一を果たして間もなくの 1584 年に、その頃には近場大手と見なされていた徳川家康( 三河・遠江・駿河の3ヵ国から、天正壬午の乱でさらに甲斐と信濃半国を掌握 )を、東国大手の格下げの基準第1号として従わせようとした( 小牧長久手の戦いの形となった )その地政学的構図が全く同じになる。

 

下々は上の間で何が起きていたのかすぐに理解することも難しかったが、上の間では皆強がりながらとぼけていただけで 1572 年時点での織田氏の国内地政学観( 次世代政権議会観 )の敷居の脅威は既に大きな影響を与えていたことがしっかり説明されてこなかった、だから徳川家康の経緯の大変さもしっかり説明されてこなかった大事な所になる。

 

武田氏が猛反撃を喰らうことになる 1575 年の長篠の戦いの前年の 1574 年まで、大手の格下げ第1号の立場としてあせって三河・遠江攻略を急いでいた武田氏から、徳川氏は潰れてもおかしくない猛撃を受け続けたものの、徳川家臣団も組織崩壊しないようにしぶとくそれに耐え続け、なんとか凌いできた経緯があった。( 武田氏が三河・遠江攻略にモタついていたというよりも、徳川氏が思ったよりもしぶとかったといった方が正確 )

 

1575 年の長篠の戦いは表向きは「徳川領に度々侵入してくる武田氏の追い返し戦いに、盟友の織田氏が加勢する」という、徳川勢主体の戦いという体裁が採られたが、織田氏中心で武田氏との一大決戦だったのが実際になる。

 

1575 年の長篠の戦に向かうまでの織田家と徳川家の間の表裏の様子( 社会心理 )も重要になるが、まず織田氏中心だという体裁を強調してしまうと、まるで織田氏が三河・遠江再統一に出向いてきたみたいな強烈な印象を与えてかねなかった、織田氏の威厳( 身分再統制の敷居 )はそれだけ強烈だったから、それでは徳川家の立場が困るだろうからと配慮された。

 

それと同じで徳川勢が武田勢に押され続けて劣勢だからといって、織田勢の援軍を得ないと何もできないかのような、まるで織田勢に泣きついたかのような印象を与えてしまえば三河・遠江は徳川家の管轄という威信もガタ落ちになってしまう、だから徳川氏が織田氏に露骨に援軍をすがるような形は軽々しく採れないことの苦境が続いた。

 

しかし思いのほかしぶとくなかなか総崩れを見せない徳川勢にあせる武田勢も「今後こそ再起不能に跡形もなく」の、三方ヶ原の第2次徳川潰しの構えで大軍を率いてきた長篠の戦いを機に( もう予断のない徳川家のこの消滅危機をむしろ好機に )、徳川家の旗本吏僚の小栗大六( おぐり だいろく。あまり取り沙汰されないが小栗氏は主に行政面で活躍した徳川譜代のひとつ )が使者として切腹覚悟で織田家に「我々徳川家は織田家の肝心な戦いにはいつも援軍に加勢に行くのに、織田家はなぜ遅々として徳川家に援軍をよこさないのか、その連絡すらしないのか」の苦情を言いに行くというお膳立ての演出によって、徳川家の主体性で織田家を動かしたという形を織田信長に寛大に許容してもらったというのが実情である。

 

反織田派が勢いづいた 1572 年の時点では織田氏が手一杯になっていた様子に便乗するように、武田氏が三方ヶ原の戦い( 武田氏の三河・遠江徳川氏攻略戦 )に乗り出した際には、織田信長は徳川勢に十分な援軍を手配できなかった。

 

 ※三方ヶ原の戦いは、武田勢2万にさらに北条勢2000が加わった2万2000の武田・北条軍が三方ヶ原( 浜松のすぐ北側 )まで乗り込んできたのを、徳川勢8000に佐久間勢( 織田勢の長老格 )4000が加わった計1万2000の徳川・佐久間軍が不利を承知で決戦に挑んだ戦い。大軍側は鶴翼( かくよく。左右ふた手に軍を展開させ、相手を挟んでいく戦い方 )の陣形が基本的には有利だが、しかし徳川勢が鋒矢か長蛇の陣形( ほうし。ちょうだ。一点突破戦術もできる。ナポレオンがこの理屈の作戦立てを大の得意とし、相手の司令線の急所を見抜いてそこを狙い撃ちすることで、少数の味方で大軍相手を何度も撃破して見せたことが有名 )で死を覚悟して本陣に突進してくることを予想した武田信玄はあえて魚鱗( ぎょりん。左右に展開しやすいためいざとなったら本陣を手厚くできる )で構え、その裏をかいた徳川勢が逆に大軍向けの鶴翼の構えで挑むという面白い展開となった。武田軍が順当に雁行( がんこう。軍にとって弱点の側面攻撃に対応でき、先鋒を補強配置してそれを中心に攻撃させることで敵を包み込むように殲滅することもできる。こんな戦い方をよく考えついたなと筆者が一番驚いている陣形 )か鶴翼あたりで構えれば徳川軍の鶴翼は既に負けが確定していたことから( 将棋で例えると自陣の金、銀、香車あたりが各1つ2つ抜けているような状態で四間飛車など相手と全く同じ戦法で戦おうとするような状況 )、死を覚悟してイチかバチかで浜松城から出撃した徳川勢の意気込みが感じられ、もしかしたら勝てたかも知れない惜しい戦いだったからこそ、気概( 危機感 )を見せる良い意味で徳川家臣はこの敗戦に悔しがった。兵力は確かに大事だが、尾張衆が多かったと思われる織田氏からの4000の加勢たち( 佐久間信盛たち )がこの兵力差での決戦に乗り気でなく、浜松城での籠城策を推していたこと、佐久間信盛中心の作戦ではないことに佐久間信盛も少し不慣れだったこと、なによりその劣勢な中で尾張衆が三河衆・遠江衆のために命懸けで戦おうとするほど仲間意識などできているのか疑問だった所など、敗因はいくつかある

 

 ※佐久間信盛の寄騎( よりき。与力。師団長に配属される旅団長の立場 )として渋々同行した水野信元( 徳川家康の叔父。母の兄。織田氏の家臣団扱いで池鯉鮒郡の広めの領主待遇を仮公認されていた。ちりゅう。今の愛知県知立市 )は本戦時は浜松城の留守役をしたといわれ、決戦当日に徳川勢が鶴翼、武田勢が魚鱗と知らされた時点でもこの水野元信は、100や200でもいいから自身の手勢を応援軍として向かわせて現地を勇気付ける、というような手配もしなかったようである。惜しくも徳川勢が敗れてしまい、厳しい追撃を受けながら浜松城になんとか撤退した際、水野信元は武田の追撃勢を追い返しながら徳川勢の撤退を手助けする活躍を見せるが、しかし「いわんことではない( 武田は強兵で知られている上に兵力差まである、だから籠城した方がよいといったのに )」と、三河( と遠江 )の代表格である甥の徳川家康に対して逆なでとも取れる余計な態度を出していた。徳川潰しに本腰を入れた武田氏が大軍で三河と遠江のど真ん中に位置する三方ヶ原まで乗り込んできて、ここで座り込み( 武田氏による仕置き・身分再統制 )されるのを籠城でただ傍観していてはどちらが支配者なのかが問われ、武田派に鞍替えされてしまう三河衆・遠江衆の続出を許し味方が減ってしまう。だからその前になんとかしようとしていたこの徳川勢の必死さに対し、水野信元は叔父という立場だったことも手伝っていたと思うが、味方意識よりも対等な有力諸氏であるかのような、自身の格式を意識するばかりの態度だった。水野氏と松平氏( 徳川氏 )はかつて、尾張の今川権威の追い出しを始めた織田信秀と今川義元とでの利害関係に常に巻き込まれ争うことも多かった。桶狭間の戦いからしばらくの清州同盟によって今までの対立が無くなったのをきっかけに、徳川家康としては織田氏に対しても水野氏に対しても今までの因縁は綺麗サッパリ水に流して友好関係を重視する姿勢でいたが、水野氏はそれまで織田派と今川派とを鞍替えしながら自身の本領を必死に守りながら、衰退してしまい郡をまとめるのも難儀するようになっていた松平氏( 徳川氏 )のことを家格・格式争いの指標にし過ぎてしまったことで、ヘタに地縁を強め過ぎる旧態的な競争意識( 地方どころか郡をまとめることも怪しい地方の代表格たちよりも、郡をまとめることができている自分の方が格上感 を出しながら諸氏に一目置かせようとする所 )から抜け切れなかった。そういう所に厳しかった織田信長が、三方ヶ原の戦いの際に佐久間信盛の軍役に水野信元を寄騎扱いに同行させるあてつけの手配をしたことは、水野氏は織田氏の中では有力家臣ではあっても直臣格ではない、陪臣扱いだと強調される形で試されたと見てよい。三好派から織田派に鞍替えした松永久秀が、織田氏の敷居といえる大和再統一を十分に進められなかったことで、後から師団長格に急抜擢された新参の原田直政の統制下の寄騎扱いにされたあてつけの構図と類似している。反織田派たちが水野氏はまるで織田氏の家臣ではなく同盟関係の有力諸氏であるかのように見なして呼びかけることも常々で、これは織田氏に対する嫌がらせも当然あったと思うが、水野氏はその風潮を利用し続け、自身が尾張における特別な家格・存在感を有しているとする強調をやめようとしなかった。これは松永久秀が原田直政の統制下の寄騎扱いされて自身の仮公認の家格が気まずくなってきた際に、勝手な茶道運動を始めて自身の家格・威厳を高めようとして織田信長の内心をかなり怒らせていたのと類似する構図になる。連枝衆( れんきしゅう )に準じるような家格・格式が正式に公認( 準連枝衆は織田氏の信任を得た親類扱い・譜代扱い )された訳でもない、仮公認の裁定が 1580 年あたりで予定されていた貢献の再評価段階の中で、水野氏だけが今まで通り家格を強調し続けることが見逃されていては、「水野氏だってやっている」と松永久秀のように、織田氏に無断の勝手な家格上げ運動を皆が始めてしまう原因となる。上同士での勝手な正しさの乱立( たらい回し )は教義権力の悪用の低次元化構図と同じで、その内に収拾がつかなくなる戦国前期に巻き戻る低次元ないがみ合いの再発・拡散となり、それをやめさせるための改革期( 畿内再統一 )も台無しになってしまう。水野信元は三方ヶ原の戦いで試された、つまりかつて因縁を強めてしまった松平広忠の、その次代である徳川家康の苦境に対し仲間意識を大事にして一緒にくやしがるなどの何か良い所を見せるかどうかを織田信長は期待したが相変わらず旧態通りだった。古参筆頭の長老格の佐久間信盛の統制下ならともかく、後から急抜擢された下っ端出身の羽柴秀吉や明智光秀や原田直政といった面々の寄騎扱いとして何度も再配属されるくらいで格式を踏みにじられただのと怒りをあらわに結束を乱し始めることが目に見えているような、のちの区画整備のため移封・国替え政策( のちの徳川政権における重要な手本となる )にとても耐えられそうにもないような仮公認の分際のだらしない不満分子など上から順番に制裁されて当然と、だから 1576 年の段階でしびれを切らした織田信長はこの水野氏だけは先に、尾張南部のかなり広めの水野領を一斉に巻き上げ、佐久間信盛に池鯉鮒( ちりゅう )郡付近の再統一を命じたと見てよい。それに比べて前田利家( まえだ としいえ )や金森長近( かなもり ながちか )他、面々の中堅の有能たちは、織田氏の旗本吏僚体制を近くでよく見てきたからこそ、少々人使いが荒く配属変更も激しい寄騎扱いがされ続けた中で、織田氏の管轄領が広がるに連れて新参が自分たちよりも明らかに高待遇の仮公認を得ていても家格待遇の不満など一切挙げず、また勝手な家格運動を始めることもなく、重役の柴田勝家、丹羽長秀らと協力的に連携しながら自分たちが今できることは何かをよく考えながら組織貢献し続けた。だから織田信長から内々ではこれらこそが大きな信任を得る形の、将来が約束された特別家臣扱いがされ、天下静謐( 戦国終焉 )が近づくに連れ大昇進の優先権を得ることになったのである

 

1572 年に畿内近隣の反織田派が勢いづき、翌 1573 年に鈍化し始めると、三河・遠江をすぐには攻略・接収できそうになかった武田氏は、だからこそ織田氏の足を引っ張り続ける時間稼ぎ役として当てにしていた朝倉・浅井連合がその年に織田氏によって制圧・消滅させられてしまったことにあせり、続いて反織田派の本体といってよかった浄土真宗の重要な一角であった長島一向一揆も織田氏によって 1574 年に制圧・消滅させられたため、その時点でも徳川氏にしぶとく抵抗され続け三河・遠江攻略が果たせないでいた武田氏はますますあせった。

 

反織田派を表明した武田氏は 1572 年の時点で、織田氏との盟友を維持し続けた厄介な徳川氏を抑えずして織田氏との戦いに注力する訳にはいかなかった、つまり早期の決着は難しい大手の織田氏と争うことに注力している最中に、大手になりかけのこの徳川勢に遠江再統一を確立されてしまえば、徳川氏の次の一手として駿河攻略に動くこと、そして織田氏と連携して信濃を荒らそうとすることも目に見えていた、だから武田氏はまずは徳川潰しに躍起になった。

 

上の間で何が起きているのかのこの国内地政学観を、下々は中途半端にしか理解できないが上の間ではそういう所は互いに前提とした上で進退に動いていた、つまり徳川家康は 1572 年の時点で反織田派に組するのか、それとも織田氏との盟友関係を維持し続けるのかの進退を迫られた際に、後者を選択すれば反織田派に組した強兵で知られていた武田氏が徳川潰しに躍起になることは戦略的( 地政学的 )に解りきっていて、目先の利害ではない相当の覚悟をもって後者で挑むことになったのである。

 

そうして 1575 年の長篠の戦いを迎えるまでに武田氏が、徳川潰しを結局果たすことができなかった時点で、徳川勢は表向きは劣勢が続いたといっても、ここまでもちこたえることができた時点で戦略的には徳川勢に軍配の粘り勝ちだったといってよい。

 

徳川勢としては、畿内近隣で織田氏の足を引っ張っていた反織田派の力が弱まるまで武田勢をなんとか食い止めていれば良かった、そして三方ヶ原の戦いの時のように中途半端な援軍を得ながら決戦に挑んだり小競り合いをするのではなく、今一度まとまった大軍戦( 長篠の戦い )にもちこんで、阻害が解消された状態の織田氏に本格的な援軍を求めて今後こそ武田軍に三河・遠江介入から手を引かせるほどの大打撃を与えればよい、と頑張っていたしっかりとした戦略( 全体像 )だった。

 

1575 年の長篠の戦いによって、それまで戦国最強を自負してきた武田軍は体験したことがない大敗戦を迎え、建て直しに少なくとも3年はかかりそうなほどの大損害を受け、今までのような三河・遠江介入の勢いがなくなっていった。

 

武田派の追い出しの三河・遠江再統一で徳川勢が巻き返し、徳川氏も明確な2ヶ国の大手らしい実力をつけ始め、織田信長が 1582 年に乗り出した武田氏制圧戦に連携した徳川家康は、制圧後は織田氏との話し合いで駿河を接収するに至る。

 

1582 年に本能寺の変が起きて、制圧間もない旧武田領の甲斐と信濃が錯乱、着任間もなくの織田氏の支配者たちが追い出されると、今まで織田氏の恫喝で縮こまっていた上杉氏と北条氏が甲斐・信濃・上野を巡って争奪戦を始め、それに遅れをとる訳にいかない徳川氏も慌ててその争奪戦に乗り出した。

 

1584 年になってもその三強間( 上杉氏、北条氏、徳川氏 )でダラダラと続けられていたのを、中央を掌握した羽柴秀吉が天下総無事を名目にそれを咎( とが )め始め、今度は徳川家が東国( 東日本 )大手の格下げ標本第1号にされてしまった。

 

徳川氏は、かつてその第1号にされてあせった強豪の武田氏に散々噛みつかれ、大変な想いでそれを凌いで織田氏の天下静謐に連携し、やっと我々も少しは報われたと思っていた矢先に、皮肉にも今度は自分たちがその第1号にされてしまったのである。( 上杉氏を除く北条氏以東の、これから天下総無事の裁定を受ける諸氏たちが「徳川家があの時頑張ってくれなかったから、我々はこんなに著しく格下げされることになってしまったのだ・・・」と言われてしまう立場になってしまった )

 

徳川氏の家臣団たちにとっては報われるどころか「かつてその第1号にされた武田氏の猛攻に、天下静謐のために大変な想いをして頑張ってきた、我々のあの大変な努力は一体何だったのだ!」と、徳川家中全体の今までの人生観( 支え合って次々に戦死別れしていった多くの仲間たち )を全て否定したも同然の当時の羽柴秀吉の( それを解っていた上でわざわざ怒らせようとしていた、わざとの部分が強かったやむなしの )出方に激怒し、徳川家康自身も内心はムッとし家中の怒りを落ち着かせる状態ではなくなった、そこから発展したのが 1584 年の小牧長久手の戦いだったのである。

 

のち天下人となる徳川家康とそれをよく支えた優秀な重臣たちというのは、ここまで酷い不条理な体験はどこもしていなかったその凄まじい二重苦の大苦難を体験したから、だから裁量する武家の棟梁側と、格上げ格下げを従わせる側との両面の、上から下までの人心掌握的な気持ちを慎重にしっかり配慮できるようになった、だからどうにか天下泰平の世に導くことができたのである。

 

字数制限の都合で今回はここまでとする。

 

1570 年代後半( 1575 - 1579 )からの織田氏の猛反撃に入りたかったが、苦労人だった徳川家康がどのような経緯で天下人となったのか、前半と後半との境界の特徴や前後関係、上同士の地政学観も説明しておきたかったため、今回はそこに注力することにした。