近世日本の身分制社会(129/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか57/95  本能寺の変の全体像03/41 2024/01/29 年違い訂正 2024/02/03

 

近い内に前回と前々回の 本能寺の変の全体像01~02 を読んでいる前提で 1582 年の本能寺の変に向かうまでの説明を続ける。

 

前回では 1570 年代に入ってから 1573 年の国内地政学的情勢までしか説明できなかった。

 

今回は 1570 年代前半( 1570 ~ 1574 )と1570 年代後半( 1575 ~ 1579 )の特徴とで説明していきたい。

 

今回は時系列については省略気味に 1574 年までの特徴( 全体像。社会心理 )の整理を優先していく。

 

まず今までの前提をざっと整理した上で 1574 年までの様子に触れる。

 

織田信長がとうとう中央に乗り込む、すなわち織田氏の高次元な敷居改革( 官民再分離。街道整備/民事政治的な産業技術交流に対する改革再統制/賦課・税制改革/前近代化のための身分再統制 )が畿内の下々にもとうとう敷かれ始める事態となる。( いい加減にさっさと中央再建に取り組んでもらいたかった、経済の担い手である堺衆も大津衆も織田氏のこの街道整備の官民再分離政策/農工商の次世代経済対策には内々は大歓迎だった。ひと足早く堺衆との国際交流の縁を深めていた西洋のキリスト教徒たちも、この織田氏こそが次世代政権だと期待し、堺衆たちの案内を頼りに織田氏と積極的に交流を求めるようになる )

 

そこが旧室町領( 室町将軍直轄地や、室町将軍公認の三管四職の世俗領 )であろうが旧荘園領であろうが( それが公的教義の寺社領だろうが中央聖属領だろうが = 比叡山延暦寺が禁じ手のはずの武力運動を起こし、警告しても下品に見苦しく錯乱するのみだったためいったん巻き上げ )上の誰かがやらなければならなかった、しかし今まで誰もできなかった/踏み込めなかった畿内全体の上から下までの官民再分離( 閉鎖有徳狩りによる、公認無き城塞や関所の破却。織田氏の奉行所/謄本登録役所の設置。民事法改革。特に公務吏僚体制と軍兵站体制の次世代化ための仕切り直し )を、中央( 南近江と山城。今の滋賀県南部と京都近辺 )に乗り込んだ織田氏がまずは下に対して、とうとう踏み込む事態となった。

 

今までそれをしてこれなかった、すなわちろくな国内地政学的領域戦( 国家戦略構想 = 異環境間を広域的にまとめるための裁判権争い・家長権争い・器量比べ )などしてこれず( 議会改革/人事敷居改革などしてこれず )に、それぞれ閉鎖的な旧態慣習にただしがみ続けてきただけ/たらい回してきただけ( 低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合い/低次元ないがみ合いを続けることしか能がない = 前近代的な評議名義性/選任議決性の人事統制の手本のあり方をケンカ腰にうやむやにたらい回し合いながら、ただ弊害負担を押し付け合うために低次元ないがみ合いで下を作り合ってきただけ )のいい加減な旧態有力者ども( 前近代的な当事者軸・痛感性・人文多様主体軸・教訓性・啓蒙合理の調整のための議事録処理/国家構想計画の準備要領など構築できたことがない = 国内異環境間交流のための前近代的な敷居確認/国際人道観といえる評議名義性/選任議決性の品性規律の手本の示し合いなど何ひとつしてこれなかったにも拘わらす、人の合格・高次元失格・低次元を裁量する地位・議席に図々しく居座り続けようとする今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような身の程知らずの法賊ども = 高次元な次世代敷居の身分再統制によって裁かれて/格下げされて当然の老害・偽善者ども )の内心は気まずくなる一方になることを意味した。

 

下々から見ると今までとはなんだか違う、ついに織田氏が流れを変え始めた上の様子( 中央の世俗・聖属両議会の敷居改革を巡る争和 = 国際地政学観に対応できるようにするための国内地政学観の品性規律の整備 = 中央再統一 )を下々の間ではすぐに理解することは難しかったが、上の間では気まずいからとぼけていただけで、とうとう次段階の進退( これまでうやむやにされ続けてきた次世代政権議会的な評議名義性/選任議決性への向き合い )を迫られる( 織田氏の高次元な敷居による上洛要請/和解交渉などの対応に、格下げ覚悟で向き合うのかどうかを明解化しなければ、地方裁判権止まりの自分たちの閉鎖自治権が解体/官民再分離されるのも時間の問題となった = 低次元な旧態慣習のままの地位・議席がとうとう保てなくなる流れになった )新局面を迎える事態になってきていたことくらいは、少なくとも認識できていた。

 

中央に乗り込んだ織田氏が敷き始めた次世代敷居( 前近代的な公務吏僚体制、民事法/刑事法体制、情報技術産業交流社会化に大事な税制改革、国際地政学観の示し合いのための部将の師団長化、寄騎の旅団長化の軍兵站体制など、人事敷居改革/前期型兵農分離/官民再分離/身分再統制による天下静謐 = 戦国後期から戦国終焉への流れ )がこれから畿内近隣に波及、次第に地方全国にも波及していくのも時間の問題となった。

 

国際地政学観の危機管理が大前提の次世代政権議会化にさっさと合わせることもできない、今までそれを巡るための国内地政学的領域戦などしてきていない、まずは上から順番の畿内近隣の低次元な等族諸侯気取りども/家長気取りの旧態有力者ども( 一部の有志たちを除くいい加減な廷臣たちも当然含める )に対する恫喝( 上洛要請 = 内外の低次元ないがみ合いに対し、等族指導を以って和解/健全化/解決/2度と繰り返させない どころか、その騒ぎをだらしなく再発/拡散させ合うことしか能がないお前らの所の上はどういうつもりだ! = 今後の日本のため、すなわち次代たちのための国際地政学観/前近代的・国際敷居的な情報技術産業交流社会化の品性規律の手本の示し合いをケンカ腰にうやむやに阻害/低次元化させ合うことしか能がない、その天下静謐違反に深刻さももてたこともないお前らが等族諸侯/公務吏僚/書記局官僚側としての人事統制権の合格・高次元/失格・低次元を管理する資格なんかねぇんだ! 身の程を知れ! が畿内近隣から順番に向けられるのも時間の問題となり、織田氏の次世代敷居の足並みに合わせることなどできていない分だけ上から順番の大幅な格下げ裁定もまぬがれない事態を迎えたのである。

 

16世紀の中央再統一( 畿内全体の次世代化改革 = 世俗領・世俗議会側と聖属議会・聖属領側の両議会の裁判権・人事敷居の再統一 )とは、これからは国際地政学観( 文化圏国家の単位の強国としての世界視野 )にも対応できなければならないための次世代政権議会のあり方を上から順番に総選挙的/選任的な評決を迫る( 上としての本来のその等族義務に向き合う )ことができなければ( = 低次元ないがみ合いの国内紛争をやめさせることができなければ = 上としての次世代化の等族義務を果たさなければ = 前近代的な文化圏国家らしい議事録処理ができる政権議会が維持できなければ ならない新時代を迎えたのである。

 

織田氏( 次世代政権議会 )の敷居を巡る具体的な進退( 評議名義性的・選任議決的 )が日本列島全体で迫られ始める、日本の16世紀後半のこの新局面( これが、今後の中央政権議会の主導を巡るのちの羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦いや、のちの徳川家康の関ヶ原の戦いの良例手本となる。上同士で後でごねさせないためのその進退の白黒の明確化、すなわち上としての等族義務 = 公務吏僚・書記局官僚・等族諸侯側としての手本家長姿勢を明確化しなければならない選任的な総選挙戦の良例手本 )を迎えた意味は、上の誰かが次代たちのためにやらなければならなかった、しかし今まで誰もできなかったこの流れを織田信長がとうとう作ってくれたことを意味したのである。

 

今回は、織田氏と浄土真宗との対決についても触れるが、そもそもなぜそんなことになったのか、自国教義のあり方を巡る大事な問題として、これまでその全体像が説明されてこずに過小評価され続けてきた浄土真宗( の仕方なくの聖属裁判権再興運動 )の惜しい所も、できるだけ指摘していきたい。

 

まず、戦国前期( 応仁の乱以後 )に世俗・聖属の両面共がいよいよ乱れに乱れ始め、もう何を信用していいのか、誰を信用していいのか解らず日本中が迷走し続け、どこかでうやむや騒動( 低次元ないがみ合い )が起きれば皆がそれにただ振り回されるのみの奪い合いと下の作り合い( 低次元な敗者復活戦/報復人事戦 )が延々と続くのみの、だらしなさすぎたその姿を正させることに大きく貢献することになった、とうとうその抑制に動き始めたのが、浄土真宗( 本願寺 )による結束になる。

 

この世直し的な公的教義決別運動反世俗権力運動の組み合わせの戦国仏教運動( 和解/健全化の国家機構らしい上としての等族義務など何も果たしていない、何の見通しもない、何もかもが曖昧でいい加減な、ただ横取りし合いただ下を作り合っているだけの低次元ないがみ合いが延々と繰り返されるのみの、何の解決( 敷居改善 )にも繋がらない低次元な軍役や労役や徴税法などに従わない世直し運動 )が根強く100年近く継続されたことが、織田氏が台頭するまでの日本全体の国家再生への流れに多大な影響を与えたことと、そして織田氏による閉鎖有徳狩り/聖属改め/自国教義議会改めも前提とした世俗政権再興の見通し( 今まで裁判権における世俗特権との境界も曖昧な所が多かった、聖属側の物的特権に対する謄本登録の議事録処理も、これからは世俗政権議会を中心に改めて前近代的に評議/議決しながら公認保証管理していく次世代的身分制議会 )を以ってその役目を終える流れ 室町発足でやはり世俗政権中心で行くとなった中で、世俗側がろくに法整備できなくなっていったからこそ浄土真宗が無理をして一身に背負ってきたその重荷がやっと解放される流れ = 裏を返せば一向一揆/反世俗権力運動もろくに抑えられないような、些細なことでいとも簡単に総崩れを起こすようなこれまでのいい加減な世俗側の支配者と何も変わらないようでは困るからこそ、軍閥化してそこに頑強に睨みを効かせてきた浄土真宗に対し、それを上回る前近代的な公務吏僚体制と軍兵站体制を見せ付けながら抑え込み始めた織田氏との、その高次元同士の社会心理の激闘 )となった、この大事な経緯についても順述していく。( 今後の国内教義のあり方の話として、本能寺の変の事情にも間接的に関係 )

 

 絶望の戦国前期においてこの親鸞派浄土真宗が日本の自力教義の最後の希望としてそこを必死に手本的に支えた( 下同士の助け合いの等族指導の第一歩に踏み込んだ )ことで、これまで下々への面倒見の手本牽引などろくにできておらず求心力が著しく低下する一方になっていっただらしない世俗側/武家側が、その事態 まとまりもなく閉鎖有徳化していく一方の各地の聖属領・寺領を、軍閥化し始めた浄土真宗がそれをまとめ始め、地方議会改革などろくに進んでいない世俗領もまとめて浄土真宗の管轄の寺領扱い/聖属領扱い/聖属裁判権扱いに接収し始めた = 農工商の賦役・徴税権・施政権・人事統制権・選任権といった等族指導を世俗議会側が主導で請け負うということになっていたにも拘わらず、その見通しなど一向に見せないまま低次元ないがみ合いのみが延々と続いて餓死者も続出するようになり、国体的な限界を迎えていよいよ深刻化したから浄土真宗が広域的・地政学的にそこを次々とかっさらい始めた )にようやく危機感をもつようになって慌てて地方議会改革/地方再統一( 浄土真宗が「世俗側はたいがいにせよ!」とけしかけ始めた国内地政学観の敷居競争への対抗 )をやるようになったと共に、源空派浄土宗や日蓮派法華宗や臨済宗といった有志的な宗派に対し日本の自力教義のあり方に深刻に向き合わさせる手本にもなった。本来はその( 聖属同士の対立にしても、世俗と聖属の間での対立にしても )和解調停と健全化は公的教義( とその管理人である廷臣たち )がまずはできなければ/やらなければならなかったにも拘わらず、その大事な役目など何もできなくなっていた/誰もできなくなっていたからこそ、日本の自力教義の敷居を浄土真宗が仕方なく肩代わりすることになった。今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものようなただ下品で見苦しいだけの自力信仰一辺倒( 低次元化させ合うのみの閉鎖有徳的な性善説悪用主義のねじ伏せ合いの愚かさだらしなさに深刻に向き合う国内地政学的異環境間交流における和解・健全化のための敷居改革。孫子・荀子・韓非子が指摘するような敷居領域的な組織戦略構想などできたことがない、それを延々とうやむやにし続ける猿芝居劇場・愚民統制の中の低次元同士の低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合い/低次元な下の作り合いを繰り返させ続けることしか能がない知能障害者ども = 前近代的な評議名義性・選任議決性の議事録処理の品性規律・等族指導の手本の示し合いを神経質に面倒がりながらケンカ腰にうやむやにし合うことしか能がない老害・偽善者ども = 人の合格・高次元失格・低次元に口出し手出しする資格などない身の程知らずの法賊ども = 無神経・無関心・無計画に低次元化させ合うことしか能がない、上から順番に摘発/裁かれて当然の騒乱罪予備軍ども )比叡山延暦寺( 天台宗 )は、これまで日本で不足し過ぎていた他力信仰( 社会性・啓蒙合理性・教訓性・主体軸 )重視で根強い人気を得るようになった浄土真宗のことを、自力信仰( 人間性・人文多様性・痛感性・当事者軸 )優先でないというだけで散々格下扱いしてきた( 西洋のキリスト教社会はここが真逆。ヴェネツィア経済からアントウェルペン大経済移行の多様資本交流国際産業社会化の新経済時代を迎え、今までの教区の教会財産・公共税制・賦課のあり方についても、資本家たちの台頭による地方貴族と庶民の上下関係も一変し始めたことの今後の身分制のあり方についても、今までなかった驚異的な資本的権力が良い方向にも悪い方向にも作用するようなかったからこそ今までできていなかった下同士の助け合いにそれを活用しようという前近代文化的な福祉方針についても、とにかくキリスト教社会全体の大きな見直しをしなければならなくなっていた、その課題が山積みになっていたにも拘わらず、他力信仰一辺倒の時代遅れの教義権力で今まで通り下同士で下を作り合わせるねじ伏せ方をこれからも延々と続けようとするのみのローマ・教皇庁・公的教義の無策無能ぶりに全キリスト教徒が本気になって怒り始め、ついには帝国議会 = 皇帝マクシミリアン1世と次代皇帝カール5世のオーストリア・ネーデルラント・カスティリャ・アラゴン王族大連合時代 も、遅々として教会改革が進まないどころかイタリアの主導国としてまとめる役目はおろか、教皇領内で頻発し続ける内乱を収拾するのにも手を焼く有様の、教義権力の悪用が通用しなくなるたびに品性規律の手本など皆無にただ錯乱・暴走するのみ = もはやキリスト教徒としての社会規律の合格・高次元/失格・低次元を裁量する資格などない、聖属議会としての文化圏国際裁判権らしい機能など皆無なだらしないにもほどがあるローマ・教皇庁 に対して上から下まで本気になって怒り始めるようになった。加熱する一方となった人文主義運動/教会改革運動の中で、聖書研究に優れていたエラスムスとルターの両神学教授が、今後の教会体制のあり方を巡って今まで悪用され続けてきた教義権力に対して堂々と抗議・プロテストするようになった )中、山門扱い( 一般教義扱い )から禁門扱い( 公式教義扱い。ここでいうの意味は、限られた格式の者しか通れない場所、また限られた格式の者しか重要事項に触れることが許されないなどを指す。日本の本来の国王である天皇陛下と近しい、限られた側近や特別な高官が公式的に格式を認知したことを強調する意味になる )に渋々に格上げせざるを得ない事態にまで発展する( それも日本の教義問題のためなどではない、自国教義のありかもはっきりさせられない以前に自分たちの荘園領の再建の見通しも立てられない、すなわち聖属議会・朝廷としての教義崩壊対策の危機管理指導など何もできていない体裁/存在感の気まずさだけで、何もしない訳にもいかないから渋々やっていただけのものになる。自国教義に対する地政学観の評議名義性/選任議決性の敷居の手本の示し合いをケンカ腰にうやむやに低次元化させ合うことしか能がない、そういう所は現代と何も変わらない教義権力を悪用することしか能がない口ほどにもない公的教義気取りの低次元な猿芝居劇場の基準などとはとうに決別していた浄土真宗から見ればそんなものは関係なかった )


これら情勢を大まかに理解・把握できている/しようとしている前提で、1574 年までの要点( 全体像・社会心理 )を整理していく。

 

1573 年に入るまで 次代たちのために誰かがやらなければならなかった畿内( 中央近隣 )全体の再統一( 今後の国際地政学観に対応の第三次世俗議会発足/次世代政権議会の身分再統制/前期型兵農分離/官民再分離の足並みにさっさと合わせようとしない、そのための和解交渉に動こうともしない、今まで通りの旧態閉鎖的な低次元な武力自治人事序列権を維持しようとしているだけの、中央再建など何ひとつしてこれなかった格下の等族諸侯気取りども/家長気取りどもを近隣の上から順番に制裁 )について、それに結局踏み切ることができなかった足利義昭とはケンカ別れの形で織田信長が肩代わりし始める流れが 1572 年あたりに露骨になり始める。( 足利義昭は織田氏の敷居にとうとう耐えられなくなる限界を迎えた )1574 年あたりまでの畿内の様子に関係するそれぞれの人物や事象ごとの Wikipedia の記事全体をざっと見渡してみると、この対織田包囲網の期間は織田氏の危機的状況うんぬんのわざわざの強調が目立つが、停戦和解交渉( 格下げ覚悟/仮待遇覚悟ならの受け入れ )の場も設けていた織田氏の品性規律を強気に否定した反織田派側の曲解の強がりでしかない。それぞれ自分たちの進退( 前近代的な評議名義性/選任議決性の足並み )をはっきりさせられずに( = それに対応できるだけの地方議会改革などできていないから )内心は浮き足立っていた反織田派ら( 織田氏の高次元な敷居にさも対応できるかのような背伸びをした所でつじつまが合わなくなるのみの集まり = 今後の中央のあり方の敷居競争/国際地政学観のための争和などしてこなかった自分たちのだらしない精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了する集まり = 高次元側からちょっとした情報調略戦で突かれたくらいで収拾がつかない騒動を起こすような、既に組織崩壊しているも同然の集まり = ただ被害者ヅラ迷惑ヅラ善人ヅラの低次元な顔色の窺わせ合いで神経質に面倒がりながらケンカ腰にうやむやにし合し続け、手遅れになってから騒ぐことを繰り返すことしか能がない = 教義権力悪用主義/性善説悪用主義/数物権威悪用主義/愚民統制主義の外圧をたらい回し合っているだけの低次元なねじ伏せ合いの足並みの揃え方しかしてこれなかった集まり = 織田氏から公務吏僚候補生扱いの典礼など受けられる訳がない、上から順番に解体/官民再分離されて当然の人を低次元化させ合うことしか能がない格下ども )が、自分たちの存在感など空気のごとく怪しくなる一方になってきていた( 前近代的な人事序列統制権の合格・高次元失格・低次元の敷居を巡って口出し手出しする資格などなくなってきていた )中で、反織田派たちがさも自分たちの存在感( 評議/議決 )を織田氏に認めさせてやったかのように強がっていただけである。ただ格下げ逃れのための時間稼ぎをすることしか能がなくなっていたその気まずさの裏返しといえる。

 

1573 年からの畿内の転換期 まず 1572 年の足利義昭による織田信長との決別劇に、それをきっかけに反織田派らが一時的に勢い付き始める。足利義昭に代わって織田信長が畿内全体の再統一に乗り出そうとする流れに対し、反織田派らがその阻害に勢い任せに動き始める。当初は織田氏の畿内再統一を妨害/痛手を与えることはできたものの、所詮は前近代的な国際地政学観の見通しを巡るための争和( 戦略 )などできていない/してきていない、利害保身最優先にケンカ腰にそこをうやむやにし合うことしか能がない、今の日本の教育機関とそのただのいいなりどものように下( 落ち度 )を乱立させ合うのみで上( 手本 )を作り合うことなどできたことがない気の小さい低次元な集まり( 裁かれて/格下げされて/官民再分離されて当然の老害ども/偽善者ども/騒乱罪予備軍ども )の反織田運動( 評議名義性/選任議決性とただの劣情共有の区別も自分たちでできたこともない、そこをケンカ腰にうやむやにし合っているだけの猿芝居劇場 )など長続きする訳もなく 1573 年には早くも鈍化し始める。織田氏に手痛い損害を与えても織田派は総崩れや錯乱を起こす気配などなかった所か、人的資源の有効活用の人事保証体制が強調される結果( 近江防衛戦で劣勢だった織田信治を見捨てずに敵の猛攻を共に防ぐ活躍をした近江衆の青地茂綱と美濃衆の森可成が顕著。惜しくも戦死したが、青地茂綱の兄の蒲生賢秀と、森可成の子の森長可・森成利の兄弟は信任を得て功績/家格を得るための優先権や公務吏僚候補の上位の地位が与えられるなど皆に羨ましがられるような優遇扱いがされた。あおち しげつな。がもう かたひで。もり よしなり。もり ながよし。もり しげとし )にしかならなかった。そうした身分再統制などできていない( = 低次元な落ち度狩りの罰ゲーム感覚で人の足元を見合うことしか能がない、育成理念人事など皆無な利害保身最優先の捨て石人事のままの )反織田派は、織田氏に損害を与えた所で国家構想像( 人事敷居 )の違いを見せつけられる一方の気まずさが露呈するのみなのである。1572 年にいったん反織田運動が勢いづいた際には徳川家康も、足利義昭を始めとする反織田派たちから「織田氏と手切れして反織田派に味方するよう」猛烈な誘いを受けたが、賢明だった徳川家康とその重臣たちは情勢( 織田派に組した有志たちの方こそが、今後の日本のために危機感をもって真剣に取り組んでいたことが明らかだった様子 )を慎重に読めていたから、しばらく苦しくなることは予測できてもその誘いには乗らずに織田派としての盟友の姿勢を通し続けた。なお、のちの荒木村重と松永久秀( あらき むらしげ。まつなが ひさひで )の離反劇は、この 1570 年代前半( 1570 - 1574 年 )での情勢と混同されがちだが、まず、和解交渉( 織田氏の敷居確認の場の寛大さ )の余地をケンカ腰にうやむやに突っぱね続けてきた法賊ども( 次代たちを低次元化させることしか能がない老害ども/偽善者ども )を明確化( 議事録処理 )した織田氏が、その猛反撃的な制裁に遠慮なく出始めるようになる 1570 年代後半戦( 1575 - 1579 年 )以降の情勢での話になる。この2名は織田氏に失望したからとか劣勢だったからとかで離反したのではない。足利義昭と同じくその敷居に結局ついていけず、三好派から織田派に鞍替えした当初の仮公認の等族諸侯扱いの依存をやめなかったことを咎( とが )められ始め、保身に走ったことが原因になる。( = 織田氏の敷居の摂津再統一、大和再統一など結局進められず、今までの仮公認の地方の代表格待遇は無効扱いに格下げ的に武家屋敷に強制収容されそうになったことに耐えられなかった。それまで松永久秀は露骨だったこととして、織田氏の中で急抜擢された原田直政軍団の統制下に大和松永勢が扱われる立場、つまり部将 = 師団長 の統制下ということは 寄騎 = 旅団長扱い に格下げだという表向きの序列ばかり気にしていた。自身よりも後から大身となった原田直政の支配下扱いというやり方は、織田信長に試されたあてつけでもあっといってよい。佐久間信盛はともかく明智光秀の支配下扱いされそうになったくらいで動揺するような荒木村重も同じである。この2名はこれからさらなる出世を果たす立場なのではない。この2名は織田氏の旗本吏僚体制の敷居で等族指導・典礼を受けた上で摂津や大和の支配代理の地位を得た訳ではない、だからこそその仮待遇にふさわしい働きができるのかが試される立場なのである。織田氏の支配下扱いがされる際に、それまで広めの領地の仮待遇を得ていた尾張の水野氏、美濃の安藤氏が結局巻き上げられようになったのもそこである。そのような上の身分制の改革期の真っただ中で気まずいばかりの松永久秀などは、保身権威作りの茶道活動を勝手に始めて織田信長の内心をかなり怒らせていた。フタを開けてみたら、乱暴な策士であった前任の大和代理の木沢長政の後釜に便乗しただけだったという、こういうだらしない態度を採り続けるような格下は格下らしくその取り巻きどもをまとめて再指導扱いに武家屋敷にぶち込まれても仕方がないのである。松永久秀が大和再統一を十分に仕切れなかったことで反松永派ら大和衆たちも丸ごと原田軍団の統制下扱いされることになった、その器量不足的/結束不足的な事情が強敵の対浄土真宗の軍役にも当然響いたといってよい。羽柴秀吉が大手の毛利氏からの横槍に苦戦しつつも播磨再統一をしっかり果たせたその優れた姿と見比べてみれば、それだけの苦労をして地方再統一をしたのか怪しかった2名は、師団長格の家長としての器量は雲泥の差があったのである。師団長格として重きを成していたはずの佐久間信盛と原田直政の取り巻きたちに対する、上だからこその織田信長のその後の厳しめの扱いは、江戸の身分制の前身手本を敷き始めていた特徴が多く窺えることとして後述。なお佐久間信盛も茶道活動を始めたことで織田信長を怒らせているが、こちらはもっと別の理由だったことも後述する )これまでのように上同士で甘くなり合いながら上同士の力量不足、不始末、過分を上同士でうやむやにし合いながらその甚大な弊害負担を下にただ押し付け合う愚かさだらしなさが、また少しでも許されるような再発・拡散があっては、また上から下まで何もかもいい加減な見方しかしなくなる戦国前期( = 事態や課題の見通しを収拾するための自分たちの代表家長/総議長/総代が誰なのかも自分たちで敷居確認できなくなっていく/評議・選任議決できなくしていく = ただ指標乞食的・愚民統制的な時代遅れの低次元な外圧をただ押し付け合うのみ = 上としての手本の作り合いをうやむやに下を作り合うのみの低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合い/低次元ないがみ合いを繰り返すのみで教義崩壊/敷居序列の総崩れを起こすのみ )に巻き戻るばかりで、せっかくの改革期も全て台無しとなる。江戸時代の大きな手本となった、それは今後は許されない( 上同士で甘くなり合うことが許されなくなる = 上同士のだらしなさが招く甚大な弊害負担を無神経・無関心・無計画にケンカ腰に神経質に下に押し付けることが許されなくなる = 地政学観の評議名義性/選任議決性の議事録処理的な品性規律の手本の示し合いなどできたことがない法賊どもが人の上に立とうとすることが許されなくなる = 人の合格・高次元/失格・低次元にケンカ腰に口出し手出しし合うことが許されなくなる )ことの白黒( 荀子主義的な人事敷居改革 )をはっきりさせるための今後の身分制刷新( 上としての等族指導のあり方の敷居向上 )の象徴期が 1570 年代( 1570 - 1579  年 )だったといえる。話は戻り、ケンカ腰に家長風を吹かせる( 人生の先輩ヅラをする )ばかりで目先利害の短絡的な結束しかできない、すなわち前期型兵農分離( 官民再分離/公務吏僚体制/軍兵站体制/人事敷居改革/前近代的な組織構想の敷居競争的な見通し )も自分たちでろくに進められない( その地政学観の次世代議会の敷居領域を巡る争和などできたことがない = そこを神経質にケンカ腰にうやむやに低次元化させ合うことしか能がない = 人の上に立つ資格などない )低次元にもほどがある反織田派どもの勢いが早くも鈍化し始めた 1573 年には、モタモタやっている間に対越前朝倉氏戦に改めて乗り出した織田氏に短期間で越前制圧( 朝倉氏消滅 )されてしまう事態を招く。そしてこれまでその朝倉氏と連携して織田氏にしぶとく反抗してきた北近江浅井氏も、この同年にあっという間に制圧( 浅井氏消滅 )、続いてこの同年内翌 1574 年にはは長島一向一揆の制圧( 伊勢北部を聖属領扱いに維持してきた浄土真宗派の消滅。ヘタな戦国大名たちよりもこちらの方がよっぽど強力で軍閥らしかった )まで許してしまう事態を迎える。だらしない反織田派どもにとっての、反抗の頼みである浄土真宗の大事な一角が破られてしまった、それを阻止することができなかった畿内の反織田派どもは大いに意気消沈することになった。空気3号になり始めていた足利義昭の存在などよりも、織田氏の実質の対抗馬であった浄土真宗が劣勢となることが反織田派全体の劣勢に繋がることが実態( = もはや世俗間闘争ですらない = 世俗闘争とは別問題の聖属裁判権を巡る織田氏と浄土真宗の激闘に、低次元な野次馬どもがうやむやに便乗して騒いでいただけの有様 )だったにも拘わらず、それ( 浄土真宗 )を全力で支援するような結束( 和解・健全化・次世代化を前提とする対抗的な敷居確認らしい評議名義性/選任議決性を巡る国内地政学観争い )など図れない、そこが低次元( = 利害保身最優先しか考えていない畿内の反織田派たちは、反世俗権力運動である浄土真宗とどうやって共闘していくのかという難しい問題を調整できる訳がない )だから長続きする訳もない( 織田氏に言い分を呑ませられる訳もない )。何にしても文化圏国家全体の敷居( = 次代たちを再起不能に向かわせないための国際地政学観 )と結び付く運動( 評議名義的/選任議決的な争和 )でなければならない時代になってきていたにも拘わらず、そこに何の見通しもない反織田派ども( 次代たちのための大事な政権議会の前近代化の取り組みを、目先の利害保身最優先でただ妨害しているだけの、裁かれて/格下げされて/官民再分離されて当然の偽善者ども/老害ども/騒乱罪予備軍ども )はそのだらしなさがただ露呈する一方だったのである。16世紀時点では聖属政権( 皇室の名義・調印を慎重に扱う朝廷中心の行政体制 )再興はまだ早かった、今しばらく世俗政権を続けなければならなかった中で( = 廷臣たちは文化圏単位の国際地政学観で教義議会をまとめる = 国内の異環境間教義をまとめる等族指導からまずしてこれなかった。公的教義の暴挙をやめさせることもできなければ崩壊した荘園公領制の裁判権改めてもしてこれず、軍閥化したままの浄土真宗と和解調停することもしてこれなかった廷臣たちが、政権に参与できるだけの準備要領など整えられる訳がなかった。世俗政権中心でもこれからは廷臣たちも外交面などで少しくらいは政権議会に参与できなければならない、だからこそ織田信長から強国化のためのあてつけの制裁人事的な異環境間教義融合・合祀政策を一方的に呑まされる事態を廷臣たちはとうとう迎えた。自力信仰一辺倒通りでなけれぱ悪人扱いに格下げすることしか能がない、かつての時代遅れの低次元な教義権力の悪用の手口など織田氏には一切通用しなくなった中で、自分たちで何ら文化圏らしい評議名義性/選任議決性の言い分も構築できないまま、その評決の土壇場となってからようやく自分たちの置かれている立場の深刻さを自認し、聖属議会との折衝役の教義対策議長を兼任していた明智光秀に「今頃になって」泣きついた。本能寺の変に特に関係してくる部分 )それまで日本の自力教義を支えてきた浄土真宗は、それとはまた別問題の聖属議会( 日本の教義議会 )から見た今後のあり方をどうするのか、反世俗権力運動として武力自治権を手放そうとせずに軍閥化したままの浄土真宗をどう扱うのか、そこを誰もはっきりさせられずにうやむやに過ごされてきた所も誰かが何とかしなければならなかった転換期を迎えた( そこも解決するべく織田信長が乗り出した )のである。浄土真宗は、織田氏を超えようとするには今一歩だった一方で、聖属裁判権再興運動であっても聖属政権再興運動ではないという賢明な立ち位置( 上としての等族義務を果たそうとしない、いい加減な教義権力と世俗権力に対する世直しが目的なのであって、皇室を巻き込むようなご迷惑はかけない = 中央の伝統が強めだった荘園領には介入しない )を維持をしてきた所は大いに評価できる所になる。しかし次世代政権を巡る話としてそこ( 前期型兵農分離の街道整備/行政統制の阻害となる、有徳を根拠とする武力自治権運動を禁止する取り締まりを巡る問題。ちなみに聖属問題ではないが、畿内が混沌としている間は堺衆も武力自治権を小国家的に維持してきたが、台頭した織田氏から軍縮を要請されると早い段階でそれに応じ、織田氏としっかり連携を採りながら治安軍務を委託するようになった )はもううやむやにし続ける訳にもいかない別問題となる。今まで誰もできなかった、しかし上の誰かがやらなければならなかったこの長島一向一揆の制圧・解体( 浄土真宗のこれまでの反世俗的な聖属裁判権の返上を巡る大きな第一歩 = 浄土真宗の統制下扱いにしてきた聖属領/寺社領でのこれまでの人事統制権/施政権/産業法/武力自治権 を世俗側の織田氏が返上を求めた対立 = 世俗でも聖属でも物的概念は今後は織田氏の次世代身分制議会の統制下にいったん帰属するように求めたその解体劇 )を以( も )って、聖属( 教義 )議会改めの大きな前進となった( 織田氏ならそれができることが示された )ことを意味する。本来は朝廷( の廷臣たち )と公的教義( 比叡山延暦寺・天台宗 )がそこを率先して等族指導( 浄土真宗による反世俗権力運動と反公的教義権力運動に対する、つまり世俗と聖属の対立または聖属間の対立における和解・健全化・次世代化の調停を斡旋する、文化圏国家としての国内教義の手本を示し合う努力 = 目的の始点・終点と条件の見通しを明確化させていく品性規律の手本努力 )をしなければ、できなければならなかったのもろくにできなくなっていた、だからその深刻な問題も織田氏が肩代わりすることになったのである。

 

 ※空気2号( 天台宗。公的教義 )は論外として、織田氏は浄土真宗だけに厳しかったのではない。例えば越前・若狭( 福井県 )再統一の際に、だいぶ大手だった気比( けひ )神社に対しても、態度があまりにも悪かったために問答無用にその旧態社人体制を破壊し広大な社領を巻き上げている。中央の聖属議会が何もできない( 廷臣たちで国際地政学観の評議名義性/選任議決性らしい敷居構築もろくにできていない中で、地方の大手有徳の敷居管理を任せておいたら、また利害保身次第の低次元な報復人事戦/敗者復活戦の押し付け合いが始まり、戦国前期のような低次元な地域紛争を助長する原因となる = だからこそ聖属議会の次世代敷居を明確化させるまで廷臣たちと公的教義の旧荘園領を保護監察扱いに、織田信長、旗本吏僚たち、佐久間信盛、明智光秀らで管理を代行していた。本能寺の変と関係 )からこそ、この上なく手がかかるだらしない廷臣たちと公的教義を肩代わりするようになった織田氏の寺社領統制( 前期型兵農分離の一環。街道整備/異環境間交流の妨害となる閉鎖有徳改めの次世代人事統制 )に従おうとせずに( 教義側でありながら和平交渉の敷居確認の品性規律から始めようとせずに )神経質にケンカ腰に閉鎖有徳運動( 人を低次元化させ合うことしか能がない、世の中の正しさの伝統とやらのただ下品で汚らしいだけの時代遅れの旧態聖属特権の押し付け合いを誇らしげに掲げながらねじ伏せるための武力運動 )を起こすような、地方再統一( 地方議会の次世代化 )の人事敷居( 次代たちのための国内/国際地政学観の異環境間交流 )の足をただ引っ張ることしか能がない、そこをケンカ腰にうやむやに低次元化させ合うために揉め続けることしか能がないにも拘わらず、人の合格・高次元失格・低次元に軽々しく口出し手出ししたがる裁かれて/格下げされて/身分再統制されて当然の身の程知らずのお荷物どもには容赦しなかった。他、1570 年代後半( 1575 - 1579 )に顕著になるが、武力解体に応じなかった紀伊( 和歌山県 )の諸寺院( 紀伊も戦国仏教化を強めながら浄土真宗と連携していた。雑賀寺、粉河寺、根来寺あたりが強力な大手として知られ、大量の火縄銃を生産保有し、石山本願寺の摂津勢を支援したため織田勢のち羽柴勢を大いに苦戦させた。さいかじ・こかわじ・ねごろじ。強力な牽引役だった雑賀衆の鈴木一族が浄土真宗寄りであったため紀伊全体が一向一揆であったかのような印象が強いが、紀伊は大和のような統合仏教的な宗派が多かった )や高野山( こうやさん )にも、旧態聖属権全般の織田氏へのいったんの返上( 織田氏の次世代政権議会の天下静謐の敷居による、賦課税と度量衡の整備にも関係してくる街道整備/次世代地域開発のための有徳全体の武力自治解体と、物的特権の再手配 )に応じようとしない、交渉しようともしないことを理由に、そこがかつての皇室由縁の霊山であろうが由緒伝来の大手であろうが問答無用にその寺社領を攻撃している。なお織田信長が本能寺の変で急死してしまったことで停滞した紀伊の戦国仏教解体は、変後に中央を掌握した羽柴秀吉がそれを引き継ぐ形で再制圧戦が行われ、降参・和解させてその解体に成功している。一方で早い段階で織田氏の次世代敷居を理解/共和することができていた、尾張に多かった日蓮派法華宗や、近江の臨済宗、のち源空派浄土宗( 親鸞派浄土真宗と同じ浄土教だが、こちらは武力自治運動は起こさず世俗側とは和解的に動いた。例として徳川家康の三河再統一で浄土真宗との対立が決定的となった際に、有力家臣のひとり石川家成はやむなく浄土真宗から浄土宗に鞍替えして事なきを得ているように別枠扱いされていた )は、畿内における次世代経済交流社会化のための地域施政に協力的に動いたため、これらは優遇扱いといえるほど手厚い保護を受けている。他にも中央寺院を再建するための勧進特権( かんじん。下同士の助け合いの健全化の福祉活動にも関係してくる、寺社の維持費のための寺社領の産業特権。催し物の開催場としての徴収権や免税特権を利用したものなど色々あった )の手配についてもこの上ない面倒見の良さを見せている。また織田氏の伊勢再統一によって、それまで荒れ続けて苦しみ続けた伊勢神宮の、その社領の再建にやっと取り組まれるようになった際でも、この上ない面倒見の良さで支援をしている。( 伊勢神宮の再建中に織田信長が死去してしまったため、こちらについても豊臣秀吉がその支援をしっかり引き継いでいる )世俗、聖属に関係なく、織田氏の次世代裁判権に従う/従わないを巡る差は天国と地獄ほどの差があったことを後述する。今まで誰もできなかった聖属側への恫喝( テコ入れ )を織田信長がとうとうやり始めたその大救済が、惜しくも本能寺の変に関係してしまうことになる所を順番に説明していきたい。いずれにしても地方裁判権止まり的な閉鎖権威( 旧態閉鎖上下序列。勝手な身分制 )に従わなければ「そこを通さない、許可しない、他宗異教というだけで格下扱い懲罰扱いの差別を始める」というような、今後の国内交通網・情報技術産業交流網の阻害を再発・拡散させる時代遅れの勝手な正しさの乱立させ合いの総踏み潰し( 低次元化させ合う劣悪性癖でしかない旧態閉鎖権力の総巻き上げ )に乗り出した織田信長の様子は、今までまとまりが無かった国内の宗派問題だけではない、外国教義の受け入れを巡る問題も含んでいることが 1570 年代に顕著になる。織田政権による次世代社会化後に、キリスト教徒の西洋人たちが国内を往来する機会が増えるからとって、またはキリスト教に改宗する日本人が増えたからといって、政権議会からの公認はおろか届け出の認知の手続きすらしようともしていない勝手な上下統制( 勝手な身分序列や優先性や、閉鎖的な度量衡・測量法といった無届け無許可の勝手な産業法基準 )を再発させることの、地域間文化交流( 国際交流経済社会化 )の遮断( 特に下への情報遮断統制による低次元化と、地域間の低次元な勝手な正しさの押し付け合いのいがみ合い )を始めるような反国際地域の法賊ども( 老害ども・偽善者ども )は、古参教義であろうが新参教義であろうが問答無用に踏み潰すことを鮮明にし始めたことを意味する。ここについては、自力教義はしっかりしていて事情が特殊だった浄土真宗から見れば、同じ他力信仰であるキリスト教を教義面では大して毛嫌いしている様子などはなく、キリスト教が今後日本で広まろうが大して問題視などしていなかった所は廷臣たちの様子でも窺える。少数ではあるが他力信仰に一定の理解を示せていた廷臣の中の有志たち( 神道系は、皆がそうではないもののその傾向があった )はそこは同じだったといってよい。その文化圏国家が、体裁だけでも聖属議会らしい形を有している以上は、外国教義が流入しようが次世代政権の公認・認知の下( もと )で文化交流の健全化を管理( 前近代的な国家構想の議事録処理 )すればいいというだけの極めて基本中の基本の話に過ぎないことでも、大事なことの評議/選任をうやむやにたらい回し合い低次元化させ合う教義権力の悪用を始めるから、外圧に振り回されて錯乱するばかりのだらしない集まりの、何の地政学観もない( 国家戦略といえるような情報処理戦もできない )今の日本の教育機関のようにただ神経質にケンカ腰になり合うことしか能がない下品で汚らしいだけの老害愚民序列議会が構成されてしまうのである。浄土真宗の反教義権力運動と反世俗権力運動の内、織田氏によってまず前者が解決に向う見通しが 1570 年代前半( 1570 - 1574 )には見えていた。結局は織田氏も他力信仰的政権だった( だか一辺倒ではない、だから自力信仰というだけでただちに格下扱いにねじ伏せるということはしない。反教義権力は浄土真宗が急先鋒ではあるが、他力信仰的だった浄土宗も臨済宗も、また自力信仰主義であった法華宗でも、必要以上の権力を乱立し合ってねじ伏せ合うような、教義を上下統制のためのケンカ腰の道具に悪用し始めることが人々を大いに低次元化させてしまう危うさが懸念できていたから織田氏に優遇された )ことははっきりしてきていた。少なくとも教義面( 等族指導の品性規律 )は優れていた浄土真宗は、戦国後期まではヘタな戦国大名よりも強力だった軍閥体制( 戦国仏教体制 )を維持できていたが、教義面が低下することはなくても物的権勢争い( 反世俗権力運動 )においては、織田氏がこれまでのあらゆる社会病的な劣悪性癖( 低次元化させ合うことしか能がない世の中の正しさとやら = 上としての敷居向上/品性規律の手本を作り合うことに目を吊り上げようとせずに下を作り合うことのみに目を吊り上げ合おうとするだらしなさ )の荀子主義的改革( 総巻き上げ )に動いた、その次世代政権が示され続ける( 反世俗権力運動を続けなければならない前近代的な理由が乏しくなっていく )以上は、今までの運動も次第に下火になることも時間の問題だったといえる

 

 ※自力信仰 = 多神教 : 他力信仰 = 一神教 であるかのように軽々しく片付けられがちだが、その関係性はそのまま 人文多様性・痛感性・当事者軸 : 啓蒙合理性・教訓性・主体軸 の関係性の 調整裁量力・議事録処理力・構想計画力・異環境間情報交流力・準備要領力といった個人ごと団体ごとの敷居構築力( 特に人事序列の位置付けにおいての等族指導力 )の問題であり、そこへの向き合いをケンカ腰にうやむやに低次元化させ合うことしか能がない今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもがその意味を認識できる( 国際人道観をもつ )だけの知能など当然もてる訳もない。多神教と一神教はいわば形而的な例え( けいし。社会心理や組織理念などの各事象を把握していき、良い流れと悪い流れを整理していくこと )でしかなく、西方教会( カトリック )再興を肩代わりするようになった有志の集まり( この上なく手のかかるローマ・教皇庁に目を吊り上げていた生真面目な苦労人の集まり )であった、地政学観をもって危機管理できていたイエズス会士たちもそこは内々では当然認識できていた。自分たちの西方教会圏に対する体裁として、自国向けの文面上の都合でプロテスタント勢を勢い付かせないためにそこ( 一神教 )を強調せざるを得なかっただけである。実際は賢明揃いのイエズス会は、最初こそ戸惑ったものの日本のそれまでの神道仏教社会の特徴も交流を通して理解することにそんなに時間はかからなかった。もしキリスト教の教理の押し売りをケンカ腰に畿内( 中央 )にいきなり持ち込もうものなら、中央としての聖属議会改めに目を吊り上げていた真っただ中の織田信長「聖属荒らしどもめが!」と激怒させてただでは済まなかったはずだが、しかしそうならなずに事前に確認し合うことができていた所が、文化圏国家間の強国同士の外交規律から互いに始めることができていた何よりの証拠になる。早い段階で西洋人たちとも織田氏とも友好関係を築いていた賢明だった堺衆たちとしても、もし西洋人たちがそういう所に非国際交流的な態度ばかり採る連中だったのなら、織田氏に斡旋どころか堺衆たちもその交流は断絶していたといってよい。一神教うんぬんをそのままそっくり額面通りに真に受けようとする考えしかできていない時点で、等族指導をする側( 合格・高次元/失格・低次元の深刻さを管理する側 )ではなくされる側/ただ丸投げし合ってそのいいなりのままに下同士でねじ伏せ合う側の考え方しかできていない、教義のうわべにただ支配され続ける低次元な人生観の足並み通りでなければ怒り狂うことしか能がないだらしない格下の下っ端どもの考えしかできていないといっていい。性善説・性悪説にしても、次代たちに何の役にも立たないシホンシュギ・キョーサンシュギにしても、そこに無神経・無関心・無計画なもち出し方がされがちなのは同じ。後者は19世紀後半の曖昧な所が多かった( 特に租税改革を資本力任せにうやむやにし合う向きが強かった )産業革命期にいったん盛り上がってそれらしい形が成立されて以後、現代においてまで中途半端なまま、そこから自分たちで進めようともしていない( 自己等族統制できていない )当時のままのものを解った気にそのまま無神経・無関心・無計画に引き合いにたらい回した所で低次元化させ合うことにしかならない、その愚かさだらしなさにしても同義になる。こちらが高次元化/敷居向上化/和解/健全化し合うための議事録処理/社会的説明責任/国際的指導責任の手本の示し合いができる格上! 向こうがそこをうやむやにケンカ腰に低次元化し合う猿知恵をたらい回すことしか能がない格下!だと明確化する( 国際地政学観/国際人道観の評議名義性/選任議決性といえる手本を果たす = 低次元ないがみ合いを2度と繰り返させない )ことを自分たちでできないこと/しようとしてこなかったこと( 自己等族統制できていないこと = 自分たちの今までの課題研究範囲ではなかったはずのこと = そのことに今まで軽々しい無神経・無関心・無計画な見方しかしてこなかったはずのこと )にイチイチ反応しようとする( 解った気に人生の先輩ヅラをしたがる )ことは、猿芝居劇場の低次元な落ち度狩り/低次元な頭の下げさせ合いのただの外圧のたらい回し合いの挑発にまんまと乗せられることしか能がない、その低次元な人生観を再発・拡散させ合うことしか能がないのと同じ、その愚かさだらしなさの繰り返しをやめ合う/やめさせ合う準備要領の構築( 情報戦の基本 )などできたことがない深刻さも自分たちで対処できたこともないのと同じなのである( 孫子・荀子・韓非子が指摘 )

 

前後関係にも触れつつも今回も字数制限の都合で 1573 年の情勢までしか説明できなかったが、1574 年までの情勢は 1573 年  1574 年までの説明となったが、ここまでで畿内( 中央 )の運命( 次世代政権議会の評議名義性/選任議決性の敷居 )がほぼ決していたことによる、1575 年からの織田氏の猛反撃( もはや残党狩りと化し始める「お前らの所の上どもはどうなっておるのだ!」の手本家長らしい説教人事 )が始まるまでの準備期間であるため、今回で 1574 年まで説明したものとする。 の区切りの準備期間となる。

 

次回は 1575 年からの、戦国終焉がはっきりし始める織田氏の躍進的な情勢( 全体像・社会心理 )を説明していく。