近世日本の身分制社会(125/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか53/?? 2023/09/10

 

16世紀(近世初頭)当時の基本中の基本として、前近代化の特徴( = 前近代的な資本・情報・技術の多様交流産業社会、国家銀行的な資本・税制管理体制、軍兵站体制に対応するための選任議会改革に向き合わなければならなくなった苦難の特徴 )の国際間・地政学間(教義圏間・文化圏間)の情勢(権力均衡観・相場観・評議観の激変における当時の各階層の各当事者的な社会心理)について、その全体像で見渡すことが必要だと説明してきた。

 

日本でも織田氏による強国化(前近代化)が進んでいた、つまり政権議会の敷居改め( 前近代文化的な評議性・選任議決性に改めるための旧態序列の大幅な見直し = 公務吏僚・書記局官僚の人事議席序列の官民再統制 = 資本・産業・税制・軍兵站体制・教義の敷居管理の見直し )においては日本も西洋と同じ方向に進んでいた。( = 織田政権がとうとう中央再統一・世俗・聖属の両議会改革に着手 = 他の有力諸氏は織田氏の最低限の地政学的敷居交流観の構想に追いついていない、地方裁判権止まりのだらしない敷居序列しか構築できないことが明確化され、格下げを恐れて皆とぼけるばかりだった )

 

1570 ~ 1580 年代の日本(織田政権)と西洋(スペイン王室)とは

 

 ・次世代的(前近代的)な経済社会化を日本はこれから迎えようとしていた(のち徳川政権によって結果的に鎖国政策が敷かれたことで、少し遅れる形で江戸中期の元禄~宝暦あたりで開花)

 

 ・前近代的な経済社会化の隆盛をひと足早く迎えた西洋(西方教会圏の主導国スペイン)は、豊かさを謳歌しながら強力な国力を有するようになったのも束の間、好景気観の背伸びを勢い任せに続けたしわよせの経済恐慌を迎え、どうにも穴埋めできなくなるほど無茶な債務処理(資本管理)に難儀するようになっていた

 

という状況から交流が始まった、という前近代な地政学的経済史観で見渡せば、その関係性も自然に見えてくる。

 

1582 年に起きた本能寺の変に関係してくる、当時のスペイン(の外交大使役であるイエズス会士たち)が、やけに日本(織田政権)との交流に熱心になったことを、前近代な地政学的経済史観で説明されてこなかった。

 

日本では、織田氏が中央再統一を果たす(三好氏が先に中央進出したものの、それをできずにモタモタやっていたため織田氏が追い出し、続いて公的教義への選任議決性の追求に対する低次元なうやむや錯乱も織田氏が踏み潰した)形で 1570 年代前半には前近代的な敷居(身分再統制)の手本を示した織田政権は親たな次世代政権をほぼ形成していたも同然になっていた。( = 織田氏の敷居を上回る中央再統一ができるだけの有力な組織など他にいないことははっきりしていた = 本能寺の変の時点において、日本全体の世俗議会と聖属議会の再統一・身分再統制を代行できる者はその有力家臣であった羽柴秀吉くらいだった )

 

織田氏の中央敷居(等族指導の最低限の基準)で中央近隣から順番に併合されていく中で 1570 年代後半にもなると、織田氏とのつけ合わせをモタモタやっていた(地方裁判権止まりのだらしない家長気取りどもに、中央の織田氏の身分再統制の敷居で等族指導したら地方は崩壊する恐れがあったから地方は気まずく、ごまかしすように戦国後期を続行していた)諸氏たちは、織田信長をあきれさせる形( もう時間切れだから格下げ覚悟で次世代的な政権議会の敷居の足並みに潔くさっさと合わせよといっているにも拘わらず、地方裁判権止まりのだらしない遠方諸氏どもは、もう敷居序列競争する必要がない戦国後期をいつまで続けようとしていた、だから織田信長はそこへの厳しさを強めるようになった。のち本能寺の変後に急いで中央再統一を果たした時の羽柴秀吉もそこは同様 の、日本全土に向けた身分再統制のための制圧も時間の問題となった。

 

聖属裁判権の再興運動を起こす形で、戦国前期に何のまとまりもなかった当時の世俗裁判権側(武家社会側)と決別して以来、根強く独立運動を続けてきた浄土真宗(日本の自力教義の事実上の最大手)も 1580 年にはとうとう世俗側(織田政権・武家側)に降参・和解(聖属寺社側の特権序列・武装自治統制権は、物的には今後は世俗側が前近代的な議事録処理・謄本登録の身分手配裁定をしていくということで今一度返上)に向かわせたことが次世代化の決定打(これも織田信長でなければできなかった偉業)として、この時点で日本再統一はほぼ達成していたといってよい。(言い逃れ無用の戦国後期の終焉)

 

本能寺の変が起きてしまった 1582 年までには、かなりの数の準備要領数が話し合われていたと思うが、その中でも今後の日本の情報・技術・産業の交流社会に向けた前近代的な法案に対応できるだけの新たな教義体制の方針(今後の日本のための前近代的な評議性・選任議決性のための内外教義の多様化について、朝廷の廷臣たちが本来は敷居管理できなければならなかった)について、開国主義(国際世界観での導入的な教義競争による文明敷居向上を目指す)前提でいくのか、それともそこをしばらくは鎖国主義的に規制しながら様子見していくのか、いい加減にそこをうやむやにし続けることも許されなくなった、すなわち日本の今後を決める政権議会の次世代化がいよいよ求められていた中で、理由はどうであれその付け合わせに支障が出て錯乱的に起きてしまったのが本能寺の変である。

 

情報交流にしても技術交流にしても産業交流にしても(それらに関する今後の教義体制 = 交流敷居の基準にしても)、どの部分のどの範囲をどこまで地政学観をもって自由化・規制化していくのか、前近代国家としてそこを主体的・構想計画的に評議・選任議決できなければならない段階になった、だから何ら手本( 前近代的な人文多様と啓蒙合理の整理による主体的・構想計画的な議事録処理 = 和解・健全化・改善化が前提の敷居確認 = 人の合格・失格を裁定する品性規律の資格 )の示し合いなどできたこともないにも拘わらず、ケンカ腰に人の上に立ちたがりそこをうやむやにし続けようとする低次元な法賊(偽善者)どもの化けの皮が一斉に剥がれる形で、上から順番に制裁(格下げ)されるのも当然の話なのである。

 

 ※ ここをうやむやにし合うようでは戦国前期の低次元化の逆行となる = だから前近代的な議事録処理・謄本登録による軍制改め・税制改め・身分制改め等の等族社会化を進めなければならない = 政権議会といえる選任議決・評議性の議事録処理という上の等族指導のためのはずの公務吏僚・書記局官僚・士分の地位・議席・代理人の評議・選任議決の立場が、雑用扱いに責任・負担を押し付け合いながら待遇をただ奪い合うだけの低次元な敷居であることにようやく深刻さがもたれたから、そこを仕切り直すための国家代表家長体制・絶対王政体制による選任序列の身分再統制・官民再分離で大幅に見直されるようになった = その器量比べが戦国後期の国内の地政学的裁判権争い 

 

その黎明期であった16世紀は、現代における国際軍事裁判権(国際協約評議性)のあり方や、身近な交流の社則なども含める主体的・構想的な品性規律のあり方( = 和解・健全化・構想が大前提の人文多様と啓蒙合理の整理のための議事録処理・時系列処理の手本の示し合い)に対しても同じ、全て外圧任せ(劣情任せ)にねじ伏せ合っているだけで敷居改善する訳がないことの教訓にできる部分になる。

 

人類(それぞれの教義文化圏国家)は16世紀にとうとう、世界国際間での文化敷居(情報・技術・産業)の前近代化について向き合わなければならなくなった、それが急がれる中、そこを聖属議会側(教義管理機関)がろくに教義改革できずに(敷居向上できもしない偽善の性善説の猿芝居劇場でうやむやにし続け)足を引っ張り続けた、そこにいい加減に危機感を覚えるようになった世俗議会側をとうとう怒らせることになった(世俗議会と聖属議会の立場が具体的に逆転した)様子も、日本と西洋とで共通しているのも特徴になる。

 

人類史上でもかなり貴重な当時の特徴(社会心理)を、地政学史観(文化圏間の教義史観・裁判権史観・議会史観・身分再統制史観)で全体像を見渡すことができていない印象(当事者性・人文多様性主体構想性・啓蒙合理性の整理の手本をうやむやにし続けているだけのただの劣情)で、文献上の不都合を穴埋めしているだけのだらしない従説は一掃しなければならず、さらには教訓もできるだけ盛り込んでいかなければならないのが史学の本来の役割なのである。

 

19世紀の幕末から近代明治政府への改革期が主題の場合、その部分(地政学史観)についての近代的な民権言論面( 民選議員設立建白 = 倒幕後に近代明治新政府の宣言がされたまでは良いが、特に当初の賦課・税制の進め方が、近代的な民権言論のあり方をあまりにも踏みにじる弾圧的なやり方がされ、かえって博徒問題を深刻化させたために官民間で大揉めとなり、大規模な自由民権運動が全国的に起きた = 国会議事堂が建てられることになったきっかけ )についても取り沙汰されることもあるが、19世紀を第二次地政学的国際社会化の局面とすると、16世紀(織田信長が生きた時代)はまさにその前身といえる第一次地政学的国際社会化の局面を迎えていたことが、説明されてこなかった。

 

そうした世界的な動きに意欲的(主体的・教義競争的)な視野を向けた織田信長( 事実上の中央再統一を果たした = のち豊臣政権・徳川政権への大きな手本となる公務吏僚体制による官民再分離・施政権再統一・人事序列敷居改革の身分再統制の手本を示した )が、国内統一後の次段階としてさらなる文明強化を目指す開国体制( 教義競争を前提とする世界敷居の先駆けの遠方との異文化間交流 )を敷こうとした、そこを本能寺の変( それが前提だった織田体制に対する否定 = その前近代的な評議性・選任議決性の敷居について、聖属議会・朝廷側があまりにも対応力が無さすぎた所ばかりが既成事実的に露呈させられることになってしまった。織田氏の議席身分序列敷居の次世代化が確定されてしまうことによる、今後の教義競争的な身分制に朝廷は気まずいばかりだった所への否定 )でいったん白紙にされる結果となる。(本能寺の変で特に大きかった争点)

 

本能寺の変( = 開国体制が前提だった織田政権への否定 )をきっかけに、以後の豊臣時代と徳川時代を経て時期尚早的な調整がされ、当分の鎖国政策(幕府に公認されていない外国との文化交流の禁止。幕府への許可などなく意見書提出・名義的認知すらない勝手な教義競争も禁止。貿易交流権は幕府が完全に規制独占。関ヶ原の戦いにももちろん影響に向かったという、この一連の流れは地政学観で見ていけばそんなに難しい話でもない。

 

順番に説明していきたいが、日本再統一後の海外対策において、どこまで開国的(自由的教義競争)または鎖国的(教義規制)な方針を採っていくのか、国際間(世界敷居の地政学観)における今後の日本の国威・格式にも関係してくることとして、これからはそういう所を自分たち(自分の所の文化教義圏)で明確化できなければならない、すなわち前近代的な政権議会を有していることを示さなければならない時代に、なっていたのである。

 

そんな中で、その危機感などろくにもてていなかったそれまでの朝廷(日本の聖属議会。国内教義の管理機関。海外対策も本来は廷臣たちが主体性をもって評議できなければならなかった)は、いざというその時期を迎えていた中で何かと手のかかった、だからこそさっさと話を前進(次世代化)させるために、その甚大な負担を織田信長と明智光秀が犠牲的に進んで肩代わりすることになった最終的な結果が、本能寺の変の特徴だったといってよい。


印象ばかりで語られ続け、誤認され続けてきた当時のスペインの実態も指摘していきたいが、筆者はキリスト教を擁護することが主目的ではなく、地政学史観不足が著しい従説の誤認を訂正することが主目的ということを念押ししておきたい。

 

西方教会圏の代表格として主導強国化した当時のスペインは、今までのキリスト教社会の中で、これまでにない国力と栄光を得たと同時に、主導国としての前近代的な等族指導(教義圏全体のまとめ役)も請け負わなければならなくなった負担においても、これも思った以上に甚大だったこと、そして長続きせずに大転落に向かっていったその深刻な様子は、現代での個人間や組織間でも教訓にできる所が多い。

 

急激な栄光や増長を「得ようとする/得ることができてしまった」ことの、後々の弊害の大変さまで指摘(敷居確認)されずに、その虚像(偽善の便乗)ばかり加熱し、それに皆が振り回されながら軽々しく求め合う総偽善化(自分たちの愚かさだらしなさを誰もやめさせることができなくなる低次元化)の流れに向かっていきがちなのは、当時でも現代でも同じになる。

 

 「そういう所を普段から自分たちでろくに議事録処理(情報戦的整理)もできない( = ろくに作戦計画も立てられない = 外圧の策略にいとも簡単に乗せられる = 当事者性・主体性などもててないことに身の程知らずにも口出ししようとしたり挑もうとするから精神的支柱もいとも簡単に粉砕してしまう )ような、国際軍事裁判権(地政学間の評犠牲・選任議決性)の敷居を低下させ合う( = うやむやにし合う = 万事面倒がりながらケンカ腰に雑用扱いし合い、下々と次代たちに甚大な負担を与え続けようとする )ことしか能がない低次元な集まりが、軽々しく争おうとするな!」

 

と警告しているのが孫子の兵法の組織論であり、

 

 「そういう所に自分たちで危機感をもって対処(敷居序列改善のための手本の示し合いが)できたことがない、傾国の原因でしかない衰退化・低次元化させ合うことしか能がない身の程知らずの法賊(偽善者)どもが人の上に立とうとするな!(人文多様啓蒙合理の敷居整理による組織構想の議事録処理の手本の示し合いなどできたこともないただの劣情だけで人の合格・失格を軽々しく裁定しようとする立場にいつまでも居座り続けようとする低次元な連中(低次元な旧態身分制にしがみつき続ける連中)を許すな!)」

 

と警告しているのが、荀子主義から展開していった韓非子の組織論になる。

 

織田政権と熱心に交流を始めたスペイン(の外交大使役のイエズス会士たち)の、これまで触れられてこなかった内情は、深刻な財政難でいつ崩壊してもおかしくなかった(スペインから公認・後押しを受ける立場だったイエズス会士たちとしても、スペインが破綻すればカトリック再建委員会のための公会議制の維持の支障になる)中で、財政再建に難儀していたから日本に助け舟を求めたのが実情だったと見てよい。

 

スペインのそういう経緯を、荀子主義的に内々で正直に確認し合っていたと見てよい織田信長は

 

 「ひと足早かったスペインの大経済景気後の負の宿業の貴重な教訓事例も、正直な交流によって互いに対策案を導入していかなければならない」

 

今の利害体制(貸方体制・不都合のつじつま)だけでなく、時系列の教訓体制(借方体制・主体都合のつじつま)も重視していたと見て間違いない。

 

日本でも、室町3代将軍の足利義満時代をきっかけに大経済期を迎えて豊さを謳歌以後、遅々として議会整備し切れずに大崩壊(8代将軍の足利義政時代に旧態経済法の限界を迎え、表立った室町崩壊の決定打となる 1467 年の応仁の乱に向かった。もはや身分再統制による次世代化のための主導者が必要だったからこそ応仁の乱が起きたはずだった。それ以前から既に半農半士闘争が顕著な戦国時代に突入していた、だからこその応仁の戦いのはずだった。そんな中で情けないことに旧室町権力の誰もが次世代的な中央改革・再統一などろくにできなかった所が露呈したのみだった。結局は旧態のまま何も変わっていなかった旧室町体制の上層のことを従事層はますます信用しなくなり、地方行政ごとの労役や徴税権に拘わってくる身分統制・等族指導のあり方を巡って地域ごとでますます閉鎖社会観を強めた威力任せの勝手な押し付け合いと奪い合いで荒れることになった)し、戦国前期を経た苦しい経験をしている。

 

ここはまず先代の織田信秀による地方再統一(選任議決的・地方議会人事改革的な尾張の代表格争い)の段階で、先見性がもたれながら経済対策面でかなり意識されていた部分であり、だから織田信長としても堺衆としても、そうした所も今後に向けてしっかり準備しておきたいという慎重さも互いにもてていた、だからこそ、思った以上に深刻だったスペインの内々の財政難も「明日は我が身」と健全に理解できていたと見てよい。

 

賢臣の明智光秀羽柴秀吉も、織田信長のそうした方針(荀子主義的な教義競争の性分)を理解していた、そして西洋人たちと早い段階で交流していた優れた政商集団でもあった堺衆たち、また大津衆らといった今後の日本経済の担い手たちも当然のこととして、今後の税制国政にも関係してくるそういう所の準備要領(構想・議事録処理)まで考慮してもらえる、織田信長のような次世代政権の棟梁(総裁)を当然のこととして望んでいた、と見た方が自然になる。

 

外交的で数字に強かった(政商らしい前近代的な経営学の資本・帳簿管理にもしっかり関心を向けることができていた)堺衆たちは、室町経済崩壊時に、次世代化しなければならなかったが当時ろくにできなかった債務信用の難しさ(うってつけの悪例として8代将軍の足利義政時代の経済恐慌期に、どうにもならなくなっていた中で強引に布令されることになった「徳政令」は美名ばかりで、実態は足元を見合う力関係任せの売官制に等しい悪政令もいい所の経済対策だったため皆が苦み、社会規範・身分制を崩壊させ閉鎖有徳闘争を助長することになった)について、中央再建を待ちながらその時(次世代政権の台頭)が来ればいつでも対応できるように準備していた。(彼らの本拠地にしていた現大阪府堺市は、西洋人たちから「日本のヴェネツィア(異教人種間の国際商業都市)」と称賛されるほどの優れた自治商業都市が維持されていた)

 

内乱(戦国)収束の見通しが立たない間は、堺衆たちは有力諸氏たちとの間で中立を保ちながら自律的に中央経済を肩代わりしてきた気鋭の商人団だったからこそ

 

 「そういう所を前提(議会改革・身分再統制・官民再分離)に動いてくれる、本来の代表家長らしい政権(公務吏僚体制)がやっと中央で台頭(世俗・聖属両議会の再統一 = 次世代化)してくれた」

 

と織田信長に共鳴的(協力的)になるのも当然だったといってよい。

 

日本(織田政権)と西洋(スペイン王室議会)とで、当時としては先駆けで特殊だったといえる開かれた総会的な市場の遠方交流・通商の協定が成立すれば、この関係は長続きするかどうかはともかくこの試みは世界的に注目されたことは間違いなかったといってよい。

 

前後するがのち徳川政権が、日本の情報や文化の外国への持ち出しに大いに規制をかける閉ざされた総会的な市場として、日本側が厳しく条件を付けながらオランダ船だけは迎えるようになったのが、鎖国政策の特徴になる。(日本文化に魅力を感じていたイギリス・オランダ側は、緩和の自由文化交流を求め続けたが徳川政権は態度を崩さなかった。イギリス・オランダからの西洋式の医学や地理学や物理学などの学術は、徳川政権が検閲して公認したものだけが日本国内で流通されることが許可され、そうでない公認なき文化の勝手な持ち込みは天下の徳川家のご政道に背く禁制違反・法度違反・身分統制違反の反逆として厳しい取り締まりがされた)

 

1580 年代にはスペイン(カトリック主導国)との決別と対立の激化もすっかり顕著になっていたイギリス・オランダ(プロテスタント国教化。国内のカトリック派に対しては過激派でなければ行き過ぎな弾圧はしないよう配慮された)が、

 

スペイン・ポルトガル(カトリック勢)が、強国化(政権議会の次世代化)が進んでいる日本(織田政権下による国際新市場の予定)に目を付けて、ガタが来ている資本管理を再建(次世代化)しようとしている! そんなものは絶対に阻止だ!」

 

と、スペイン・ポルトガル(カトリック勢)を妨害しようと、イギリス・オランダ(プロテスタント勢)があとで慌てて日本に駆け付けるようになったと見て間違いない。

 

当時の織田政権(日本の代表家長による次世代的な家訓政権)とスペイン王室(西洋のキリスト教圏の王族の代表)との通商条約の狙い(本能寺の変でこれを破談させてしまう)が、これが実現されればなぜ互いに良い所ばかりだったといえるのかについて、国際経済史的(前近代史的)な整理をしていきたい。

 

その前に、今まで何度か先述してきたが、日本国内においての情勢も念押ししておきたい。


事実上の中央再統一を果たした覇者(次の武家の棟梁。皇室と日本の治安を守る代表家長)である織田政権が、西洋との交流を進め始めた、すなわち大幅な前近代的な国際社会化(世界敷居が前提の教義競争化)を目指し始めたからこそ、ますます議会改革( 人事敷居改め = 身分再統制・官民再分離 = 公務吏僚・書記局官僚の敷居向上 = 国家構想的な次世代化の合格・失格の敷居向上 = 裁判権の敷居向上 = 今後の産業法・税制法・軍兵站体制なども大きく影響 )の進退を迫られ、立場を曖昧にし続けていた朝廷も遠方諸氏たちも 1570 年代の段階で気まずい一方だった。

 

1580 年代に入って明らかに戦国終焉期に入っていた( 世俗側の代表として台頭した織田氏と対立が続いていた、聖属側の最大手の浄土真宗の本部が織田氏に 降参・和解 = 聖属統制権を世俗側にいったん返上 に動いたのが決定的だった = この世俗・聖属両組織を上回る議会改革などどこもできていないことははっきりしていた )ことで、廷臣たちにしても遠方諸氏たちにしても、いい加減にそれ(戦国終焉)に対応の等族指導・地方人事改革の敷居に切り替えなければならなかったのも、とてもできる状態でなかった所が多かった(それが間に合わない時間切れを迎えてしまった)ことも、はっきりしていた。(上の事情など普段から聞かされていない下々がそこを理解するのに時間がかかるのは仕方ないが、遠方諸氏の上層たちも廷臣たちも気まずくてそこをとぼけ続けていた態度を、織田信長は内心怒っていた)

 

そこをとぼけながら、織田氏の敷居の背中をただ今頃になって追いかけているだけの戦国後期を続けようとしていた、織田氏から見ればそういう地方裁判権止まりの低次元な格下ども国際敷居まで視野に入れた国内再統一の最低限の等族指導の敷居も満たしていないにも拘わらず、これ以上やる必要などない家格競争の既成事実作りに今頃になって慌てているだけの、織田氏の天下静謐の再統制に臣従しようとしない地方のだらしない家長気取りどもと、危機管理能力が欠如している中央の廷臣たち)は当然のこととして上から順番の格下げ(等族諸侯失格・戦力外通告)は必至であり、だから気まずいことこの上なかったのである。

 

 ” 時代は待ってくれない ” 状況とはまさにこのことである。

 

何の準備要領(自分たちの主体性・構想計画といえる品性規律の手本の示し合い = 和解・健全化・改善化を前提とする敷居確認の手本の示し合い = 全近代的・序列再統制的な選任議決性といえる議事録処理の手本 = 合格・失格の敷居を管理する上としての本来の手本 )ももち合わせていない、それだけ慌てなければならなくなる格下げされて当然低次元な連中ほど、手遅れ寸前やもう手遅れの土壇場になってから事の重大さにようやく慌てて本能寺の変を起こさざるを得なくなるという、現代でもありがちなだらしない社会心理も順述していく。

 

※ 織田政権による中央統制の顕在期に、自力信仰派(日蓮派法華宗)、他力信仰派(浄土教)、中道派(臨済など)に、新参のキリスト教(他力信仰)を加える教義面での異宗派間社会交流の法治体制がとうとう実現。聖属特権・教義序列統制を巡る今までの内部間(道義内)のいがみ合い、教義外間(道義外)のいがみ合いの旧態劣悪性癖を、織田信長が前近代的な身分制改めの等族指導を以ってとうとう解決。今後は織田政権(前近代的な世俗議会)に対する認知・意見整理の提出(前近代的な人文多様と啓蒙合理の整理の構想計画といえる議事録処理の手本の示し合い)も無しの、すなわち謄本登録的な公認(法治国家的な和解・健全化・改善化が前提の名義)などない勝手なうちのめし合い・ねじ伏せ合いを始めることは厳正に(荀子主義的に)禁止(閉鎖有徳の取り締まり。指導序列資格の巻き上げ)したことで、とうとう克服される良例(次世代的な産業社会規範)が作られた

 

※ 本能寺の変によって「やむなく」うやむやにされてしまったが、16世紀の時点で、いままでの仏教間のいがみ合いだけでない、キリスト教まで加えた教義力次第のその同列的な融合交流社会化の良例(日本と西洋との前近代的な情報・技術・産業の交流社会化を進めるには、避けて通れない次世代的な人文多様啓蒙合理の難題に向き合わなければならない。19世紀・20世紀まで待たれる)を実現してしまった織田信長は、条件付きではあるがギリシャ正教への寛容政策を始めたスレイマン1世(オスマン帝国のスルタン。イスラム教国家の全代表)を上回る世界的な快挙だったといってよい(結果的には時期尚早と見送られることになったこの良例は、徳川政権時代の鎖国政策 = 諸大名たちへの海外交流を厳しく禁止・規制し幕府が独占管理する政策 において教訓的に活かされることになる)

 

※ ここは本来は朝廷(の廷臣たち。国内教義の管理人たち。聖属議会)とその実施機関である公的教義(比叡山延暦寺)がこれをまとめなければ(次世代化しなければ)ならなかったのが、全くできなくなっていた( 今の日本の低次元な教育機関と同じで、次代たちに時代遅れの旧態教義権力=愚民統制序列を無神経・無関心・無計画にたらい回しながら延々と押し付け続けることしか能がなくなっていた = 前近代化・等族社会化の評議性・選任議決性のための高次元な敷居確認を延々とうやむやにさせ合う低次元なねじ伏せ合いを繰り返しているだけの、その深刻さも自分たちもてなくなっている = 教義崩壊・敷居低下に対する危機管理の等族指導など皆無な、人の合格・失格を巡ってケンカ腰に口出しする資格などない次代たちに甚大な負担を押し付けることしか能がない、人の合格・失格を裁定する資格などない法賊=偽善者どもがいつまでも旧態議会序列にしがみつき続けていた )この深刻な甚大な負担を、織田信長が明智光秀と共に肩代わりすることになったことが、本能寺の変と大きく関係

 

本題に向かっていきたいが、16世紀ににわかに強国化したに過ぎないスペイン(少し前のカール5世時代に、教義圏国家としての教義統制的なまとまりを「やっと、どうにか」見せるようになるが、フェリペ2世時代にはそのカトリック再確認主義の足並みも内々では早くも崩れ始めていた)が、日本征服を目論んでいたかのような、地政学的経済史観が皆無な俗説がいまだに蔓延し続けているが、そもそも遠方のスペインがそう簡単に日本を征服できるのなら、スペインよりも明らかに格上で近隣の、アジア最大どころか世界最大の中国大陸政府が、とうに日本を征服できている。(中世までは中国大陸側が日本列島側に対し格上を気取り続けてきたがあくまで通商外交上だけで、高官を送り込む統治体制といえるような、完全な身分制議会的・教義再統制的な介入による征服という話になると、実際は簡単ではなかった)

 

スペイン王室は確かに、幸か不幸か結果的に新大陸入植事業(アメリカ大陸支配と現地のスペイン式の農地・鉱山・要港の開発)に成功したものの、それさえできればよい訳ではないことの大変さの前近代的な経済史観、つまりそれだけでは第二の「見通し無き損失補填」にしかならない(本当の経済対策・財政再建にはならない)ことくらい、王室議会は内々では認識できていた。

 

前近代的な為替相場観・財務観・経営学観が自覚され始めたことが16世紀の特徴であることが、失念され続けてきた。

 

現代の会社経営において、最初はうまくいっていても根本的には何も変わっていないようなやり方(権威観や価値観)を10年も続けていけばその内に業績は悪化していくことはどこもありがちで、そんな中で全体像を再構築せずに今まで通りのやり方でいくら対応努力した所で、もうどうにもならなくなってくることも、ありがちな話になる。

 

注目されるようになった商社が、実はその成り立ちが「名が知られていたが消滅した有名商社の旧縁たちで、新たに再起したものだった」というのもよくある話で、つまり

 

 もう別会社といっていいほどの新生体制に改める( = すなわち会社そのものや、またはその企画部署そのものをいったん畳む = 今までのままの旧態体質・権力序列の敷居自体をいったん畳む )ことでもしなければ、このまま続けていてもやっていけなくなることは明白になってくる( = もう誰かがなんとかしてくれるまで待っている任せで過ごし続ける場合ではなくなってくる )

 

ことも、現代でもよくあるこうした話は戦国後期でも幕末でも共通する、次世代体制を巡る争点ともいえ、財政危機を迎えていた 1570 ~ 1580 年代のスペインはそれを迫られていたような状況だったといってよい。

 

現代でも、解体せずに再整備(次世代体制化・人事敷居改革)できることもあるかも知れないが、いったん解体的な進め方で一新した敷居で再雇用化・再契約化を図るくらいの思い切った前提くらいで対処しなければどうにもならなくなる場合の方が大半だと思っておくくらいが現実的といえる。

 

普段からのその前提の敷居確認ができているのなら、解体せずに再整備・再起できる可能性も高まると思うが、その前提が十分でないのに解体せずに再整備・再起を図ろうとしても、自分たちの低次元な人生観を正しかったことにしようとする愚かさだらしなさの弊害禍根をいつまでも残そうとする旧態依然も結局改まらず、長続きしないのが大半だから、前者はごく少数で後者が大半だと思っておいた方がよい。

 

昭和後半から平成前半にかけて日本でも顕著だった泡沫経済(バブル経済。江戸時代でも起きた前近代的な経済景気でも共通)で明らかだが、次世代的な豊かさ便利さを体験するとともに、勢い任せで相場観も狂っていく反動の不景気期には、経営学面(社則改革面)で皆が苦しむようになるのはどうしても避けられなくなる。

 

つまりそれまでは好景気任せにやっていけた

 

 収入源が落ち込んで今まで通りの維持ができなくなれば、他の収入源で補填して今まで通りを維持すればいいというだけの、前後左右の見通しなど全くない単純で乱暴な損失補填のねじ伏せ方の発想(出納帳の出入りしか見ていない、貸方と借方の因果関係と時系列の複式帳簿の管理の基本を無視しているような発想)

 

もいい加減に通用しなくなってきた中で、今まで通り(教義権力のような世の中の正しさとやらの無神経・無関心・無計画な愚民統制のいいなりになり合うためのねじ伏せ合い)の感覚が抜け切れなかった(出資の仕方や人員の用い方などにおいて、何の工夫もない今まで通りのただの根性論だけの乱暴なやり方を繰り返した)ことでどこも負債(皆が人任せ・外圧任せに無計画に景気回復を願って延命しているだけの自転車操業)ばかり膨らませ、虚像価値も一気に崩壊させながら(おかしな物価や、必要・不必要の敷居が次第に正常化していきながら)一斉に路頭に迷う者を急増させていく所は、社会心理的な共通点になる。

 

スペイン王室は、1550 年代のアマルガム精錬法(水銀を使った銀の精錬技術。銀採掘の大増産を可能にした)の発明によって、今まで体験したことがない莫大な量の銀が新大陸の銀鉱(ボリビアのポトシ銀山)からもたらされるようになったものの、もはやそれでは補填できないほど、内々では資本管理体制は崩れていた。

 

今まで背伸びの債権の乱発を自転車操業的にただ損失補填してきた限界も、その銀の恩恵でもとうとう償還(資本管理)不能なほど限界に来ていた様子( 国債・証券価値を維持し続けるためにスペイン主導のアントウェルペン市場にも大量の銀が運ばれたものの、間もなくスペイン王室の債務支払停止宣告によってその銀は差し押さえられることになる = 1557 年頃のスペインの第一回の事実上の国家破産宣告と国債価値・証券市場の大失墜となるが、第一回目はごまかされる形で間もなく市場が再開 )からも、財務・税制( キリスト教圏全体の物流経済社会に対する資本管理・税制の敷居 )の根底から見直さなければ、もうどうにもならない状況だったことは明らかなのである。(江戸の大経済期でも現代でも共通する危機管理の教訓)

 

今まで体験したこともない前近代的な物流経済社会化(多様資本交流社会化)に対応できなくてはならない時代となった、だから新支配地や収入源をただ増やせばよいというダメな意味の富国強兵( 文化交流的・国際市場的な見通しなどないただの損失補填のためだけの収奪戦 = 議会敷居改革なきただの勢い任せの負担の押し付け合い = 国際軍事裁判力・軍兵站統制力の低次元化 = 地政学的裁判力・支配力の低下 = 教義圏主導国としての国威・格式・求心力の低下 )をやっていればいいという問題ではなくなっていた当時の時代背景(それに対応していくための国際間・地政学間・教義間での選任議決性・評議会性の敷居が上の間で常に危機的に求められる時代変容の当時の激しさ)の特徴(前近代的な地政学的経済史観・国際評議敷居観)が、これまで全く説明されてこなかった。

 

※スペインはカール5世時代に、南ドイツ経済圏(フッガー大銀行)とアントウェルペン国際市場(ネーデルラント)とイベリア(スペイン)経済圏(に資本介入していたジェノヴァの政商たち)から今までにない巨額の資金繰りができるようなったことに加え、過酷な船団派遣の連発を強行して収奪的な新大陸(アメリカ大陸)支配を急ぎ、それで莫大な維持費がかかる対オスマン帝国、対フランスへの軍兵站争い(地政学戦)の甚大な負担(やせ我慢大会)を穴埋めし続けてきた。スペインはヘタに新大陸の隷属支配開発ができてしまったことや、カール5世という前代未聞の大継承者(カスティリャ、アラゴン、オーストリア、ドイツ、ネーデルラント、イタリア南部の各王族領の広大な統制権の継承者)を新王(キリスト教国家全体の強力な絶対家長。王族の代表格)に迎えるといった、今までにないあまりにも急激な勢い任せ的な体験が連続してしまった(西方教会圏における前近代的な主導国化をスペインが肩代わりすることが急がれた)分だけ、その後の法整備も難解にしていった。西方教会圏全体の教義統制と資本管理をスペインが好景気期に独占してきた(等族指導を請け負うことになった)その裏側では、その反動の不景気期の整備に難儀するようになり、だから強国化(議会改革)が進んでいた遠国の日本(キリスト教徒にかなり寛容的だった織田政権)の国際新市場予定に目を付け、明るい見通しが見えてきた矢先にイギリス・オランダに付け込まれる(見切りを付けられる)形で、スペイン・ポルトガルの今までの新大陸支配権・アジア貿易権もイギリス・オランダに著しく奪われていくようになる。(本能寺の変に間接的に関係

 

第二次世界大戦を経て国際評議観(GDP的・IMF的な世界間物流経済観)もだいぶマシになっていった20世紀後半から、日本の高度成長後(豊かさ便利さの明るさを謳歌後)の反動期(バブル崩壊期)でもその対応に大いに難儀した中、その規模のものを初めて体験した西洋(スペイン)の16世紀は、もっと大変だったのである。(日本もしばらく後の元禄~宝暦の高度成長期を迎え、その反動期に同じように大いに苦しむようになる)

 

好景気の勢いが激しい分だけ後で著しく狂っていく国際市場の相場観(前近代的な法治国家の資本管理観・経営学観・地政学観)に対する、その正常化(著しく相場観が狂っていった[証券価値・為替相場と貨幣価値]と[物価]と[徴税額・賦役額]の相関的な税制改革・次世代化)が間に合わなければ財政難の根本解決などできていることにならない、今まで体験したことがない恐ろしい状況に、スペインは陥っていた。

 

スペイン王室議会にしても、スペインが主導していたアントウェルペン証券市場にしても、またそれに仕方なく付き合わされることになったフッガー銀行にしても、高利の相場観のまま勢い任せに資本集めがされていた 1540 年代では、その大元の債権発行は実に14%以上の年利を始めとする相場序列で取引され(つまり、スペイン王室の債権を第一に請け負う入札窓口であった大手資本家たちは14%から始まる相場から、その派生二次債権では年利10%が相場、三次債権では年利6%が相場 といった資本規模の階層で有価証券が細分化されながら流通していた。現代では考えられないような高利だったから証券市場はにわかに盛り上がった。スペインと共倒れさせられることになったため長続きはしなかったが、この近代的かつ大規模な手形割引処理の金融為替・両替・送金の基礎を作った当時のフッガー銀行は、西洋経済史学の間で驚かれている)、景気が良かった頃はまでは少なくとも大手間では不渡り連鎖など起きずに回っていた。

 

それも 1550 年代の後半になるとスペイン王室議会では、内々ではそこにとうとう根を挙げ始め、その年利価値を1/10まで下げた債権の発行に替え始める、つまり今までは14%以上の年利が相場だったのが1.4%まで急落させながらそれを上の間で押し付け始めるようになり、今までスペイン王室の資本取引に関わってきた大手資本家たち(ジェノヴァ筋、南ドイツ筋、ネーデルラント筋。それに次いでトスカーナ筋など)も内々で悲鳴を挙げ始めるようになる。

 

今までは景気の良い14%の相場観を元に手形割引処理をし、小口から資金集めをしていたから王室が求める巨額資金も集めることができたが、1550 年代には大元の入札時での年利を急激に下落させていったことで、当然のこととして資金調達も困難になっていき、しかしスペイン王室は今までの通りの巨額をスペイン国債(もはやバーゲンセール化が著しかった王室特権の質入れも含む)の入札窓口である大手資本家たちに要求し続けた。(国家機密のため下々は知る由もなかった)


 「お前たち大手資本家・銀行家らは、スペイン王室主導の証券取引の入札窓口として今まであれだけ儲けさせてやったんだから、今度はスペイン財政の悪化に協力しろ」

 

といわんばかりの強権で国債を押し付けられるようになった資本家・銀行家たちは、だからといって急に金利を下げ始めれば証券経済の市場全体を崩壊させてしまう(すなわちその基準の為替相場の流通に沿っていた大多数の小口間の流通経済全体を崩壊させてしまう)ことから、1560 年代以降も実態価値と狂い始める一方になっていく相場を、今度は資本家たちが市場を崩壊させないようにそれぞれ自己資金を放出させられる形で支えさなければならなくなる事態に陥るようになる。(一方で大多数の小口の下々は、上の間で何が起きていたのか知る由もなかった)

 

実態価値が狂っていく一方の中で、資本家たちの間で不良債権の押し付け合いが始まる( アントーン・フッガーが 1560 年に亡くなったのを境に、スペイン主導の国際市場相場における南ドイツ筋の影響力が失われると、キリスト教社会全体の貨幣価値を始めとする以後の物価操作的な為替市場相場をジェノヴァ筋が一本化的に独占するようになる)と、今まで資本取引に便乗・依存してにわかに資本家の仲間入りを果たした者たちから順番に、一斉に衰退し始めるようになる(アウクスブルクでは好景気期ににわかに資本家の仲間入りを果たした家系を多数輩出したものの、反動の不良債権を押し付けられる形で資産を失う形で消滅していったの家系が顕著になった。カール5世時代に維持されてきたスペイン、ネーデルラント、ドイツ間の連立経済感は、そこまで看ている余裕もなくなっていたフェリペ2世時代にはその一体感もあっという間になくなっていった)その様子はまさに、日本の平成後半に顕著だった大手商社・証券会社・銀行の不倒神話が崩壊していった際の社会心理と類似している。

 

前近代(近世)には、今まで体験したことがない経済学的な短期償還(人文多様・当事者性・当面的道義内完結性)長期償還(啓蒙合理・主体性・次善的道義外構想性)に向き合わなければならなくなり、その調整・整備(議事録処理的・評議会的な敷居確認に対応する人事改革)に難儀するようになる。

 

これがうまくいっていない分だけ、または思った以上に過重だった分だけ、時間の経過と共に信用事故を重ねていることにも気づけないまま歯車が大きく狂い始めていくのは、当時でも現代でも同じである。

 

短期償還計画の範囲だと自分たちで敷居確認しながら短期償還していく、長期償還計画の範囲だと自分たちで敷居確認しながら長期償還していく基本の難しさについて、あまりも軽々しく簡単にしか考えてこずに、それができておらず相場観が狂っていることに深刻さももてたこともない(その等族指導を受ける機会もない)のも、20代や30代ならまだ仕方ないといえる。

 

しかし40代以降になってもまだそこに軽々しくケンカ腰になりたがることしか能がない人生観しかもち合わせていない、ただ偉そうなだけの老害(偽善者)が、次代たちに何を等族指導できるのだという話である。

 

「話をすり替えるな!」というような低次元な挑発をやたらしたがる(気絶・思考停止し合いたがる)ことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関(ただの愚民統制機関)とただのいいなりどもというのは、つまり

 

 和解・健全化・改善化を前提とする議事録処理の敷居確認の手本の示し合い = 評議名義的・選任議決的な品性規律の構想計画・準備要領の手本の示し合い = 人文多様啓蒙合理の調整力による等族指導の手本の示し合い

 

本来の姿(国会議事堂が作られた元々の、近代的な民権言論の品性規律の目的)を突き付けられれば、精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまうから、だからそこを延々とうやむやにし合うために

 

 短期償還(当面的道義内完結性で処理しなければならない債務・債権(等族義務・相場観)を、ケンカ腰に面倒がりながら長期償還(次善的道義外構想性扱いにねじ伏せ始める劣情共有化(低次元化)でうやむやにしようとする

 

 長期償還(次善的道義外構想性)で処理しなければならない債務・債権(等族義務・相場観)を、ケンカ腰に面倒がりながら短期償還当面的道義内完結性扱いにねじ伏せ始める劣情共有化(低次元化)でうやむやにしようとする

 

ことしか能がないのである。( = そうではないといえる議事録処理的な社会的説明責任性・国際的指導責任性の手本など見られない

 

筆者からいわせれば20代や30代などは小僧、小娘であり、問題の大部分はそちらではなく40代になってもまだこういう所に深刻さももてたこともないにも拘わらず筆者に軽々しくケンカ腰になろうとしている身の程知らずの法賊ども(低次元化させ合うことしか能がないにも拘わらず人の合格・失格に軽々しく口出し手出ししたがる手本家長気取りの偽善者ども)こそが本当の問題児どもであり、まさに釈迦に説法もいい所の上から順番に処刑(格下げ)されて当然のクソガキどもである。

 
この小僧、小娘という言い方は筆者が尊大に気取ろうと思ってのものではない、これは筆者が20代や30代だった頃を今思い返しても、自身も周りもそれが実態(だから等族指導が必要)だったと正直にいっているだけに過ぎない。
 

話は戻り、西方教会圏で多様資本交流社会化が進む一方になり(だから旧態教義を巡る問題だけでなく、教区の税制的な資本管理を巡って帝国議会側と教皇庁がいよいよ険悪化し、プロテスタント運動も起きるようになった)、各地の生産・物流市場の豊かさを謳歌するようになって、新大陸(ポトシ銀山)から莫大な銀も流入されることになったキリスト教経済社会は、いいことづくめに見えるだけで、近隣の地政学間では厳しくなり合いがちだった当時は、それぞれが抱えていた多大な弊害負担(整備がうまくいっていない部分)はどこも隠したがるものである。

 

王室財政の内々は、先代のカール5世時代にやせ我慢大会(急な地政学的争いの大規模な軍兵站戦)をやり過ぎたことによるしわよせ(当時の人事敷居改革の絶対王政的・総裁制的な等族議会化が進んだことで、今までできなかった前近代的な展開がヘタにできてしまったからやってしまい、今まで体験したこともない大規模な自転車操業的な資金繰りも加熱させてしまった皮肉)が、次代のフェリペ2世時代のスペインに一気にのしかかる形になった。

 

カール5世の生前中の 1550 年代の時点で、いわばそれまでの短期償還長期償還のやり方(前近代的な経済相場観)も大幅に仕切り直し(もはや経済面全体での大がかりな身分再統制が必要といっていいほど)しなければならなくなっていたが、大規模化したプロテスタント闘争(シュマルカルデン都市同盟闘争)をいったん鎮めるのに精一杯(表向きの教義統制をするために今まで通りの軍兵站体制を維持せざるを得なくなった)で余裕がなく、フェリペ2世時代のスペイン王室議会に甚大な負担となった。(特に賦課・税制の近代化は当時は難しく、この部分は江戸時代後半の日本でも政権のあり方として苦しむようになる部分。後述)

 

莫大な銀が新大陸からもたらされたことが顕著になった 1557 年頃でも、スペイン王室財政は一時しのぎにしかならず焼石に水だった(スペインはカトリック再確認主義で足並みを揃えさせるためと制海権維持のために大規模な軍兵站体制を維持し続けざるを得なくなり、負債隠しの自転車操業が延々と続行されたことで実体経済との市場相場観を狂わせすぎてしまった。そんな中でその旧態相場観を改めずに先付けし続けた利息付けの古い国債の重荷をただ補填・償還しているだけでは、どれだけ隷属収奪支配地や新資源開発地を増やそうが、スペインの財源はあっという間に消えてなくなるという破綻状態に陥っていた。うやむやにただ損失補填するためだけの戦国前期的な低次元な富国強兵主義の時代はとうに終焉し、前近代的な資本相場管理、税制財務管理ができなければならなくなっていたが、今まで体験したこともない規模の多様資本交流社会化後の対応も思った以上に大変で、困難に陥っていた)ことは、スペイン王室財政を半分手伝わされていた内々のフッガーの帳簿からも明らかになっている。( 1560 年まで顕在だったアントーン・フッガーは 、証券大景気が加速した 1540 年代の時点で危機感をもって内々にスペイン王室財務官に警告していた。上の間で何が起きていたのか知る由もない下々は、証券経済景気で金回りが良くなったことにただ浮かれていた)

 

もし西方教会圏でいくらかマシの経済対策(狂い過ぎている相場のいくらかの正常化)がされたとしても、世界間の貿易相場観が芽生えた当時に、それ無しに西方教会圏内での相場内(経済観)だけで対策するにはどちらにしても限度があったといえる。(近代的な通貨交換・外貨準備高のGDP観の内需外需政策に取り組まなければならない段階だったが、そこに向き合うことが難しかったのが近世中盤の特徴。日本の江戸時代でも好景気後にその視野の対策案も浮上はしたが乗り出せず苦しんだ共通部分)

 

そんな背景だからこそ、有力な外国為替(つまり日本で織田政権が堺衆や大津衆らと話し合って新設しようとしていた、開かれた海外貿易新市場)にも向き合わなければならなくなった所も、前近代化の黎明期であった16世紀後半の特徴になる。

 

先に前近代的な情報・技術・産業社会化が進んでいた西洋(スペイン)は近代的な経済社会にありがちなこととして、職場が増えて色々なものが今までよりも安定多様的に参入・量産できるようになっていくことは、それが供給過多になり始める前までは好景気が続くがやがて、いったん上がっていった品質も向上が鈍化し始めながらただ量産だけできるというだけでは、つまり品質競争がないものは次第に価値は下がっていく、しかし豊かさ便利さは追求されながら物価ももう上がり傾向ばかりで下がらないという、今まで体験したこともない前近代的な新局面を迎えたのである。(日本の江戸時代の経済景気も同じ。これを本格的に海外貿易経済で為替相場的に解決しようとすることは、教義競争的な海外文化の受け入れも避けられなくなる。それに踏み込まず今まで通りの鎖国政策を続けることになった江戸幕府は強引に「物価引き下げ令」で逆行的な対策をしようとしてうまくいかずに、皆が大いに苦しむようになる。近世の課題的な特徴。だから幕末にそういう所が大いに議論されることになった)

 

スペインの内情は大変なことになっていた一方で、これから多様資本社会化を迎えようとしていた日本から見た西洋は、鉄砲の伝来に高く関心がもたれた所などはまさに顕著だったといえるが、先に向こうで進んだ見本的な情報(人間学的教義だけでなく、啓蒙的な医学や物理学や、向こうではすっかり浸透していたアラビア数字式の帳簿例など)を始めとする品々(フォント式の印刷機械やオルガンなどの楽器や、時計や眼鏡、製菓も含む娯楽文化など様々。カステラは、カスティリャ国から持ち込まれた製菓を日本でそう呼ぶようになったのが語源)がもたらされることになる、つまり西洋では当たり前になってしまって、それをただ作るというだけでは価値が下落し始めていた売り物も、日本では興味がもたれながら高く買ってくれる関係になる。(西洋側としても、まだ浸透していない日本の文化的な情報や工芸品などを小出しに流通させていけば大金で取引させていける。だからこそ日本文化と西洋文化の融合的な教義改革が必要で、日本で先にそれが始まろうとしていた。ガチガチのカトリック主義の印象ばかり語られてきたスペインだが、プロテスタント側からの多様主張に対抗するために、実はそこも覚悟していたと見てよい。のち少年使節団や支倉常長が顕著)

 

「当時の西洋のキリスト教徒たち(スペイン)は、日本にキリスト教をもちこんで、あわよくば日本を乗っ取ろうとしていた」印象は完全な誤認で(なぜ誤認されることになったのかも後述)、償還不能に陥ったまま威勢をごまかし続けてきたスペインにとっての日本(織田政権)の国際新市場は、絶対に壊してはならない、互いに外貨準備高(と相殺債務体制)を用意し合って融通し合う新たな信用関係の命綱であり、まさに日本も西洋も大事にし合っていくための計画だったのである。

 

織田信長は今後の日本のためにもそういう所まで計画していた、そして外相としての今後の外交改革を担当する予定だったと見てよい賢臣の明智光秀と羽柴秀吉も、織田信長のその方針(性分)はしっかり認識していたと見た方が自然になる。

 

このまま説明を書き切りたかったが、文字数制限で今回はここまでしか書けなかった。

 

筆者が今年に入って急に多忙になってしまったことで、ただでさえ更新速度は遅いのにさらに遅くなってしまっているが、なんとか年内で終わらせたいと思いながら次も、本能寺の変を知る上での当時の日本(織田政権)と西洋(スペイン)の関係性について、引き続き説明していく。