近世日本の身分制社会(124/書きかけ143) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか52/?? 2023/08/03

 

今回は、日本と熱心に交流を始めるようになった当時の西洋人たち(西方教会圏の主導国スペインの使節団役のイエズス会が、九州の諸大名、堺衆、織田政権に接近)がまず、日本にどのような助け船を求めていたのかについて、本能寺の変と関係あることとして整理していきたい。

 

まず注意点として織田信長は、前近代的な次世代化の敷居確認(議会改革)への取り組み(国家構想)をうやむやに妨害し合う低次元なねじ伏せ合い(上・古参にただ甘く下・新参にただ厳しい低次元化)しかできなくする無神経・無関心・無計画なやり方をこの上なく嫌う性分だった行動原理(前近代的な情報・技術・資本交流社会化に向かい始めていた中での開国主義的=教義競争的な議会理念)が、ろくに考慮されてこないままの低次元な思い込みの論評ばかりが繰り返されてきた。

 

織田信長の当時の怒り表現のほとんどは、上全体への愚かさ・だらしなさ(敷居認識不足が招く低次元化)に対する遠回しのあてつけの議会的姿勢(評議会的姿勢・国家構想的姿勢)だったことは、西洋でもその傾向が強まったカール5世の帝国議会時代でも同じ、向こうで仕切り直された貴族品性(身分再統制の一環 = 各王族領の騎士修道会に所属する士分たちの公務吏僚化の手本姿勢)も見られる当時(近世化=前近代化)の特徴になる。(のちの豊臣秀吉と徳川家康への大きな手本になった部分 = ただ下品で見苦しいだけの劣情共有に過ぎない猿芝居劇場の教義権力ごときにいとも簡単に振り回される時点で、精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまっているのも同然の、官民再統制もできないだらしない偽善者 = 国家構想の手本となるべき絶対家長・総裁・重役側に居座る資格などない、中央や地方の公務吏僚側・書記局官僚側・等族指導側・社会敷居管理側・士分側を気取る資格もない = 人の合格・失格を裁量する資格などない )

 

織田信長は、人の上に立つ基準すなわち前近代的な地政学間の国際協約評議性といえる敷居確認の手本などないような、その時の勢い任せや流行だけの低次元な裁量や人事手配が安易に通るかのよう思わせてはならない部分を、重臣たちに話していたことが実際に伝わっている。(後述。豊臣秀吉とのち徳川家康への大きな手本になった部分)

 

 教義権力の悪用 = 社会性・主体性・啓蒙合理性の曲解 = 他力信仰一辺倒の猿芝居劇場のただの愚民統制 = そこを改革できている高次元な格上側から低次元な格下と見なされ人事整理されて当然の法賊ども = ただ人に厳しいだけの低次元な偽善者ども

 

 数物権威の悪用 = 人間性・当事者性・人文多様性の曲解 = 自力信仰一辺倒の猿芝居劇場のただの愚民統制 = そこを改革できている高次元な格上側から低次元な格下と見なされ人事整理されて当然の法賊ども = ただ自分たちに甘いだけの低次元な偽善者ども

 

本能寺の変の事情と関係あることとして、そもそもスペイン・ポルトガルがどういった狙いや計画で、当時の日本の織田政権に熱心に接近することになったのかについて、その分析的な事情(前近代の地政学的敷居競争)の大事な説明がこれまで全くされてこなかった。

 

前近代(近世)から顕著になった教義史( 裁判権史 = 議会史 = 身分再統制史 )の基本中の基本の全体像(地政学的敷居競争のための国内再統一・議会改革)も無視され続け、地政学的史学観(前近代史観=近世史観)が欠落した印象(劣情)付けばかりが、これまで繰り返されてきた。

 

西洋では16世紀前半に高度成長期(多様資本交流社会化)の豊さを謳歌後、16世紀後半にはその反動の不景気(急激な次世代化の観念整備に追われる一方)に常に迫られ、主導国のスペインは苦しむようになっていた。

 

スペインは大見栄の威勢でその弱みをごまかし続け、織田政権と親交するようになっていた頃( 1570 年代~ 1580 年代 )の内情は、いつ財政破綻してもおかしくないような苦境に陥っていたのである。

 

一部の上層しか知り得なかった、フッガーのスペイン王室財務官との王室債務台帳でここはもう明らかで、それまでフッガー(南ドイツ経済圏)から強引に引っ張り続け(南ドイツでの資金集めをフッガーに延々と強制し続け、南ドイツ経済圏も共倒れさせられる形で大打撃を受けることになった)、南ドイツに対してもどうにもならないほど膨らませ続けてきたスペインの巨額債務(返済義務)はアントーン・フッガー死去後も、先付け的な年金特権扱いに棒引きされる形で 1590 年代に入ってもまとまりのない少額の償還(返済)がズルズルダラダラ続けられていたのが、実情なのである。

 

1540 年代までの好景気後の逃れられない、相場観(身分統制観)も著しく狂い始める不景気の弊害もいよいよ顕著になっていた 1570 年代も、スペインは以前通り(好景気期のままの相場観)の大規模な軍兵站体制が強引に維持され続ける形で、さも世界最強の軍事規模(海軍力)を有しているかのようにやせ我慢をしながら国威を振る舞い続けてきた

 

 ※ スペインはオスマン帝国とフランスを威嚇しながら、西方教会圏内ではプロテスタントたちに議席権などもたせないよう、その軍事力でスペイン主導のカトリック絶対主義で強引にねじ伏せ続けていた。カール5世時代にスペイン、ドイツ、ネーデルラント、イタリアの王族連合体制を強引に維持し続けていた間には、スペイン国内では強い不満を募らせていたのを我慢させ続けてきた所も限界に来ていた。フェリペ2世時代にはその維持も困難になり、ネーデルラントとの一体感も薄まりのちオランダ独立のきっかけとなるオラニエ公ウィレム1世との対立が激化していった。スペインはカトリック絶対主義で教義統一できているかのように見せかけいただけで 1560  年代の時点で既に危うさが見え始めていたことと内々での深刻な財政難が、強国化が進んでいた日本に頼り始めた事情と関係。当時の難しかった税制問題も後述 ※

 

スペインは新大陸からの収奪もとうに使い果たしてしまい、そちらの資源権や徴税特権はおろか、あらゆる王族領特権もまるでバーゲンセールのような先付けの質入れが(カール5世時代から)ことごとくされ、スペインは財政破綻の危険水域の限界( = すなわち西方教会圏全体における前近代的な資本管理力の限界 )をとうに超えていたのである。

 

実際の所のスペインは、当時難しかった税制改革もますますうまくいかず苦境(ここは日本も江戸中期以降には大いに苦しむようになる部分として後述)に陥っていた。

 

この事情は、織田信長がスペイン(の外交大使役のイエズス会士たち)に対して足元を見たやり方をしなかったから表向きは解りにくいだけで、ひと足早く西洋のキリスト教徒たちと交流を始めていた堺衆たちも、織田氏の重臣たちもほとんど把握していたと見た方が自然といえる。(後で時系列を整理する)

 

日本では 1582 年に本能寺の変で織田信長が討たれてしまい、少しして豊臣秀吉が天下総無事に動いて小田原包囲戦(関東の大手の北条氏制圧戦)や朝鮮出兵(実際は中国大陸政府との戦い)の大規模動員を続けることになるが、日本は政権交代(関ヶ原の戦い)は起きても政体的(政権議会的)にただちに総崩れる(戦国前期のような乱世に逆戻りする)ような様子などは全くなかったことからもはっきりしているように、日本の方がスペインよりもだいぶ優位だった。

 

1570 年代~ 1580 年代の頃の、キリスト教国家の表向きのスペイン主導の権力均衡(すなわちスペイン主導の身分統制権)は、いつ壊れてもおかしくなかった経緯(社会心理)は、現代でも多くの教訓が窺える部分として、地政学的史学観(前近代史観=近世史観)のない従説は一掃していきたい。

 

キリスト教を擁護するかのような記述に見えたとしても、筆者としては今まで誤認・曲解され続けてきた史学観を訂正しておきたい意図のみになる。

 

それまで自力信仰過多だった日本の仏教社会と、それまで他力信仰過多だった西洋のキリスト教社会公正な見方( = できるだけ曲解を避ける見方 = 前近代的な国際協約評犠牲の敷居確認を面倒がりながらケンカ腰になり合うことしか能がない、それができたことがない今の日本の低次元な教育機関とそのいいなりどものような偽善・思考停止を避ける見方 )ができなければ、近世史(前近代史)の把握など到底無理といえる。

 

つまり

 

 1.自国(自分たち)の経緯(当事者性・同業的道義性・人文多様性)の整理(敷居確認)もろくにできない・しようともしていないのに、よそ(異環境・異業種・異文化)の経緯(評議性・社会性・社交的公正性・啓蒙合理性)の整理(敷居確認)などできる訳がない = 自分たちのことを整理(敷居確認)できていないのに人のことよそのことを整理(敷居確認)できる訳がない

 

 2.よそ(異環境・異業種・異文化)の経緯(評議性・社交的公正性・啓蒙合理性)の整理(敷居確認)もろくにできない・しようともしていないのに、自国(自分たち)の経緯(当事者性・同業的道義性・人文多様性)の整理(敷居確認)などできる訳がない = 人のことよそのことを整理(敷居確認)できないのに、自分たちのことを整理(敷居確認)できる訳がない

 

関係性は表裏( = 一定の両立は必要 = 自己等族統制の基本 )であり、高次元・低次元の差となってくる所であり、筆者は他力信仰型の人間であるため2の見方優先というだけで1を軽視している訳ではない。

 

文字数を圧迫してしまうため今まで控えていたが、これを読んでいる中でもし20代や30代がいるなら、筆者がその層に特に伝えておきたいこととして「そこをうまくやれるようになるためには、ではどうすればいいのか?」の要点を指摘しておきたい。

 

これは原理を理解することはそんなに難しくはないが、いざ実践しようとすると注意点の多い難しい取り組みとなる。

 

まず「できるだけ直接関係性の低い専門分野(特技的な構造理解)を最低2つは身に付ける前提をまずは目指す」ことが、遠回りでも結局はこれが当事者本人にとっての「伸び悩み課題」の確実な近道になる。

 

この「直接関係の低い2つの専門分野」の筆者の例でいうと、

 

 史学関係(近世史・前近代史) ← 筆者にとって、どちらかというと啓蒙合理の取り組み

 

 コンピュータプログラム関係(C++とASM) ← 筆者にとって、どちらかというと人文多様の取り組み

 

になるが、片方さえ特化させることができれば、もう片方は中途半端(人よりもちょっと知っている程度)でも問題ない。(片方の敷居向上の影響によって、中途半端側も次第に敷居向上の流れが作れる。注意点も順述していく

 

これは実際は簡単な話ではないからこそ、筆者は「こうせよ」という率先したいのではなくむしろその逆で

 

 何をやっても中途半端なままの自分にくやしい思いばかりしている

 

 伸び悩んでいる自身をなんとかしたいが、その前にまずはその原因を知りたい

 

「そこまで思いつめるほどでもなかったなら、さもそれをもっているかのような振りなどは、ろくなことにならないからやめておいた方がよい」ことを喚起しておきたい。

 

さもそこに取り組んできたかのような、それを乗り越えてきたかのような雰囲気作りの無神経・無関心・無計画な背伸びを始めたがる悪癖(成功者気取りのだらしない態度)は早々に改めるようにしなければ、自身や周囲の信用(相場観・敷居観)を狂わせ合う信用事故の原因となる。
 

筆者としては両方とも(史学分野もプログラム分野も)別に大したものでもないと思っており、だから自身では乗り越えてきたかどうかなども大して意識はしていない。(雰囲気を出すことが重要なのではなく、自身が可能な社会的説明責任・国際的指導責任といえる手本の示し合いができているのかどうかがあくまで重要)

 

自身にとってどちらの方がより専門的な取り組みができているのかといえば史学関係(近世史)の方といえ、だからコンピュータプログラム関係(C++とASM)の方は自身としては、なお中途半端なことしか知らないと自身では思っている。

 

それでも GUI・DIB 設計(メタデータ自由的グラフィック描画処理。ここでいうメタデータは BMP フォーマットに似ているが、ただし描画の走査線は上下が逆になっている。走査線とは画像表示の際のピクセルの配列順番のこと。いずれ説明したい)に関する Windows の大元の仕様である DC (デバイスコンテキスト。GetWindowsDC、GetDC、CreateCompatibleDC 等。ウインドウハンドルHWNDと関係)の説明くらいは可能になる。(恐らく来年の 2024 年にはこちらの話に移行予定)

 

Windows の MSG 設計( 各ウインドウに関するマウスクリックやマウス移動やキーボード入力などの反応や、ウインドウの ForeGround / BackGround 動作といったフォーカス的切り替え時や、その他タイマー処理などの様々な WM_ 各種イベント)にしても、その構造設定の元手の CreateWindow の仕様にしても HWND (インスタンスウインドウハンドル)中心の制御であることばかり強調され、実際は HINSTANCE(インスタンスプロセス)から HWND を制御する仕組みになっていると見てよい基本仕様もろくに説明されてこなかったことも、説明したいと思っている。

 

Windows 由来の DLL や Microsoft Visual C++ で新たに作った DLL を呼び出せる仕様になっている Excel VBA マクロなどから、自作した DLL を経由して( Microsoft Visual C++ の仕様で)ウインドウ生成と制御は可能、つまり Excel VBA 内の HINSTANCE(インスタンスプロセス)からでも 32 Bit 時代以来の Windows の Common Control (昔からあるネズミ色のボタンや文字列入力枠や文字表示枠やリストボックスやチェックボックスなど。全て HWND 処理群扱い)の呼び出しも構築もいくらで可能であることも筆者は確認している。

 

この意味は、どの EXE (エグゼキュートファイル。ソフトウェア実行場所。スターター)であろうが(どこのインスタンスプロセスからであろうが。Excel からであろうが) DLL の呼び出しさえできるように作ってあれば、いくらでも、いつでもその HINSTANCE に横入りするようにウインドウ生成構築と制御が可能、つまり HINSTANCE(インスタンスプロセス)の単位において HWND(生成ウインドウハンドル。ボタンもテキストボックスも基本はこの単位で生成管理される)が管理されるのが基本であるかのように見える一方、スターターではないどこから呼ばれるか解らない DLL からでも GetWindowLong でどのプロセスから自身が呼び出されているのかを取得できるのも Windows の仕様の特徴だという部分が、どういう訳かろくに説明されてこなかった。(プロセスとプロシージャの関係性の Windows の特徴を、皆解っているつもりで認識できていない?)

 

例えば別の EXE が2つ起動された際、つまり別の HINSTANCE(インスタンスプロセス)で動いている同士での、互いのメインウインドウ( 親 HWND )とそれに所属しているボタンやテキストボックスなど( 子 HWND )を、設計次第では互いに干渉・作用させることも可能、例えばソフトウェア A 側の方のボタンを押すことで、ソフトウェア B 側の方にあるボタンを押すことも可能(それこそ2個3個同時に押すようにしたり複数の編集的な働きを設計することも可能 = GetForegroundWindow 等で他のインスタンスプロセス内の HWNDを取得し SendMessage で他のインスタンスプロセスの HWND に動作や編集を働きかけることが可能 )である特徴的な仕様がろくに説明されてこなかった。

 

それぞれ自分の所のインスタンスプロセスで自分の所のボタンやテキストボックス等を制御することが基本であるかのように思い込まれがちだが、設計次第ではそれをよそのインスタンスプロセスから「乗っ取るように」という言い方が適切かどうはともかくとして、GetForegroundWindow、GetWindowsLong、SendMessage を使えば介入・制御できるという説明を予定している。

 

 ※ 自身の HINSTANCE 内で HWND を生成・制御しなければならない規則などない(外の HINSTANCE  の HWND と干渉してはならない規則などない)という見方もむしろできなければならないのが、Windows の本来の仕様の特徴のはずという話

 

だからこれまでの Windows でのソフトウェア開発事情は、せっかく便利なソフトウェアが開発されても、使用者の都合によっては例えば大量にファイルを操作していかなければならない場合などで画面操作回りでの手間の不便さが目立った際(例えば指定先フォルダを使用者ごとの特定条件として、あるファイル名の法則によって自動認識的に指してくれる動作になっていれば、それだけでもだいぶ楽になるはずの場合など)、その開発元がそこを要望回収的に対応してくれなければそうした不便な操作回りの部分はいつまでも解消されない、だからそれを解消するための筆者が指摘するような HINSTANCE や HWND の基本指導も必要なはずが、一向にされてこなかった。

 

その基本指導がされてこなかったから操作補助に関する開発の敷居が(それこそOSそのものの使い勝手自体が)ろくに発達(状況回収)されていかない、特に問題なのがそれをオブジェクト指向などという余計な猿知恵の愚民統制的規則(低次元な頭の下げさせ合いとねじ伏せ合いの思考停止化)をわざわざもち込んでそこを延々と妨害( 弊害規則でしかない役に立たないオブジェクト指向の不都合と Windows の仕様との区別をうやむや = オブジェクト指向という猿芝居劇場体質を持ち込み Windows の仕様の快適化妨害 )し続けてきた部分を、筆者が指摘したい所になる。(実際そういえる内容になるのかどうかは解らないが予定)

 

Windows プログラムはただでさえ、C の規格都合と、Windows 側 の PROC (プロシージャ。手続き。筆者は関数という言い方は推奨していない)等の都合と、Windows 側の  HINSTANCE や HWND や HDC 等の都合を両立的に把握していかなければならない所に、そこに何の役にも立たない手間で余計なだけのオブジェクト指向(効率化どころか敷居向上をただ妨害させ合うためだけの低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合いを繰り返すことしかしていない、だらしない劣情規則のただの押し付け合い)をいきなりケンカ腰に強要し合って Windows プログラム業界全体の敷居を阻害(低次元化・思考停止化・愚民統制化)し続けてきた。(どの部分がどうなのかを筆者が Windows プログラムの全オープンソース前提の具体例から説明したい部分)

 

この構図こそがまさに、教義競争(史学観も含める情報戦略力・技術力・産業力競争)に対して何の役にも立たない教義権力(愚民統制。ただの劣情共有の繰り返しているだけのだらしない偽善)による低次元な序列敷居を強要し続け、次世代化(和解・健全化を前提とする敷居確認の議事録処理・時系列処理の手本の示し合い)をケンカ腰にうやむやに阻害し続けてきた構図と、オブジェクト指向でねじ伏せ続けてきた愚民統制(偽善)の典型手口は、全く同じなのである。

 

別に専門家でもないはずの筆者のプログラム関係でも、それなりに向き合った近世史(前近代史・教義史・議会史・身分再統制史)と次第に結び付いていく(自己等族統制されていく)ことで、このように自身に合った明確化(主体性・構想性の自己等族統制)も段々と自然にできるようになっていく、という利点が「2つの専門分野を目指す」の理由になる。

 

2つが大事な理由としてまず、1つの専門分野だけだと、1つの専門分野の中だけの人文多様と啓蒙合理の整理力しかないことを、自身で他の分野でも通用する共通点をしっかり確認できないままの状況に陥り、かえって成長の鈍化や伸び悩みの原因となり、2つの専門分野をもってみないとこの深刻な盲点に自身でいつまでも気づけないことが、この話の難しい所になる。

 

1つだけだと根強さがろくに構築されていかない、だからごまかしのつじつま合わせに頼らざるを得なくなっていき、かえって精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまう弱点でしかなくなっていく。

 

少し大変かも知れなくても2つの専門分野の前提をもっておくことによって、もう1つの専門分野の人文多様啓蒙合理の整理力を身に付ける前提が作られることで、自身の中で2つの専門分野の2つの人文多様と啓蒙合理の視点から自身の整理力(取捨選択力)を手助けさせていく状態が作れるようになる。

 

1つの専門分野の中だけだと凝り固まりがちだからこそ、2つという「急がば回れ」の形を採った方が、結果的には成長の鈍化や伸び悩みを早く解決できるようになる。

 

これは実際の筆者の例になるが、筆者も最初はプログラム関係の専門分野の1つを身に付けることしか考えていなかった、だからすぐに成長の鈍化と伸び悩みの壁にぶち当たってしまい、どうしていいのかの方策も立てられなかった。

 

あるきっかけで史学関係を見るようになった時に、最初こそ史学関係も中途半端ではあったものの、だいぶ違う世界だからこそ次第に史学関係の方が向いているのではないかということに気づき、自身が確認したい方法を史学関係で段々と構築できるようになった(プログラム関係の世界では自身に合った理論立ての仕方など全く構築されていなかったことに気づいた)、だから史学関係で身に付けた自身に合った理論立ての仕方をプログラム側に導入しながら、自身で何をどうしなければならなかったのかの目的の共通点の理論も自然に構築できるようになっていき、今に至る。

 

できるだけ関係性の薄い2つの専門分野をもつことによって、自身にとってどちらの方がより向いているのか、合っているのかにも柔軟な見方で気づきやすくなり、時間はかかってもその方が近道という大きな利点になる。

 

1つの専門分野しか眼中にない視点になってしまうと、どういう所がとのように自身に合っていて、また向いていないのかということも1つの世界の中しか見なくなるから何も見えなくなっていく罠に陥りがちで、そこを2つの専門分野の前提をもつことによって「あれ? こっちの分野のこういうやり方の方が、自分には向いているかも知れない」に気づくきっかけになり、時間はかかるかも知れなくても、後で補い合える2つの関係性として次第に構築できるようになっていく。

 

筆者が常々恫喝してきた「こっちが上から順番に化けの皮を剥がす高次元側で、向こうが上から順番に化けの皮が剥がされる低次元側だ!」といっている根拠もこういう所で、これができていない低次元側というのはいくらごまかしても、普段からの説明の仕方や言葉の使い方や物事の捉え方の態度で高次元側からは大体解ってしまうものなのである。

 

これが全くできていなくても筆者からいわせれば「これができるようになるための等族指導を受ける機会もなければ、知るきっかけも乏しい20代や30代が、そう簡単にできるようになる訳がない」話であり、20代や30代は、40代以降に備えてそれを模索しておかなければならない期間だということを、筆者は助言しておきたい。

 

40代以降でまだこの最低限(和解・健全化を前提とする敷居確認の手本の示し合い)もできていないにも拘わらず、筆者にケンカ腰になろうとしている下品で汚らしい身の程知らず(偽善者)どもは、まずこの基本中の基本ができてから人のことをとやかくいえという話なのである。


文字数を圧迫してしまうためこの話は「あとがき」でまとめようと思っていたが、織田信長が当時の廷臣たちにどんな教義改革(開国主義的な教義競争体制への転換)を求めていたのかの話と共通すると思い、ここで触れておくことにした。

 

2023 年に入って筆者の環境の影響で更新速度に支障が出ているが、2019/04/23 の初更新から4年以上続いている当題目の「近世日本の身分制社会」は(たぶん年内で)ようやく決着できそうな見通しになってきた。

 

次の Windows プログラムの解説の準備も始めたい所だが 2023 年の前半はあまり時間が採れず 64 Bit 版での確認もできていない部分が多いが、ざっと見渡してみた所、根底は 2000 / NT4.0 の 32 Bit 時代とほとんど変わっていないらしい確認はできている。

 

今まで Windows プログラム側の解説のことは、大して急ぐ気もなかったが、目的の位置付けははっきりしていて、Windows の  64 Bit 化が主流になっても大元の仕様においては 32 Bit 時代と大して変わっていないから、オブジェクト指向を否定しながら原点回帰的なおさらいをしたいことが、まずは目的となる。

 

2020 年には取り沙汰されていた話だが、特に 2023 年に入ってからAI(自動生成技術や自動判定技術など)の流行とその使い道や規制の判断方法などで議論が増え、プログラム業界の仕事もAIが奪い始めているということも話題になっている。

 

筆者はプログラム業界のことに大して詳しい訳でもなく、32 Bit 時代の Windows プログラムの初歩的な部分と、業界も 32 Bit時代の大まかな様子しか理解できておらず、2004 年あたりから次々に出てきては長続きせずに消滅するもの多かった新しいプログラム環境のことなども、今は何が流行していて何が現役なのかもほとんど理解していない。

 

ただし「あんなやり方(教義権力的な正しさのコピペと、正しそうな本の付録のコピペの合わせ技の、敷居確認など皆無なねじ伏せ合いのたらい回し)ばかり繰り返してきたら、そりゃそうなる(AIでできる になる)だろ」とすぐに理解できる。

 

2013 年くらいだったと思うが、HTML のコピペ盗用とその乱用があまりにも目立ったことが取り沙汰されたことがあり、盗用したものに絵の差し替えだけしてさも自身が全て組み立てたかのように振る舞うのは確かに図々しいとは思うが、どこかで誰かが似たようなものを作られることはいくらでもあり得るような、所詮は使い回し的なありふれた大衆的な発想のものであれば、著作権うんぬんは少し難しい。

 

たぶん今のプログラム業界もそういう旧態体質は全く反省・改善されていないと思うが、プログラム設計そのものに研究熱心な者(敷居確認し合おうとする者)などほとんどいない、むしろプログラムのことなど何の興味もない無神経・無関心・無計画同士が、AIで簡単に集約できてしまうような HTML コピペ合戦感覚でケンカ腰にねじ伏せ合うことに誇らしげになることしか能がない思考停止体質が9割を占めるのだから、そうなるのも当然といえる。(プログラム業界は教義競争らしいことなど何ひとつしてきていない)

 

たぶん来年から始まる Windows プログラム解説の方は、史学以上に人を選ぶ分野の上に、安直な実現方法のためだけの最新の人気技術を紹介することが目的ではなく(人が安易に飛びつきそうなやり方などする気は一切なく)「教義競争らしいことなどしてこなかっただろうが!」の欠陥を恫喝することが主体のため急ぐ理由などない訳だが、そちらでもできるだけ構想的・社会心理的な話も盛り込んでいきたいと思っている。

 

たまには Windows 関連の話も触れたくて今回は文字数を圧迫してしまったが、ここで本題に戻る。

 

スペイン・ポルトガルと織田政権の親睦はまだ始まっていなかった頃に、彼らがどんな経緯で日本に興味をもったのか、当時の情勢を今一度確認していきたい。

 

西洋のアジア貿易進出の先行組(ポルトガルとスペイン)は、明(みん。中国大陸政府)との交流を試みるも、強国同士の対等な立場として認識されずに、散々の格下扱いされるばかりで話にならなかった。

 

西洋人たちにとって中国大陸政府の認識は、かつて中国大陸を支配するようになった大モンゴル帝国時代、ユーラシア大陸続きの陸路でイスラム教圏とギリシャ正教圏まで強力な主導権で支配的な交易網が拡大されていった際、とうとうモンゴルの偵察団・使節団がハンガリー(西方教会圏の東の防波堤だった)近隣まで押し寄せるようになったことからも、アジアの強国の認識は十分にしていた。

 

モンゴルがハンガリーに開国を恫喝し始める形で、実際に領域権・交易圏を巡って地政学的争いが起き、西方教会圏(カトリック圏のキリスト教国家)は激震が走ったことがかつてあった。(マルコ・ポーロが、中国大陸政府を支配下においた当時の大モンゴル帝国時代がいかに強力な文明強国であったのかの見聞を西洋に伝えている)

 

しかし間もなくモンゴルの大衰退が始まったことで、以後アジア圏と西方教会圏(カトリック文化圏)との地政学的争いは避けられることになり、それからは西洋はアジアからの脅威を直接受けることはなかった。

 

その後、モンゴル主導と決別・介入させない中国大陸政府を再建することとなった14世紀の朱元璋時代となるが、その国力・文明力は、やはり世界規模の強国であったことの認識くらいは、キリスト教国家の上層たちはしていた。

 

広大な中国大陸の中で、時代ごとに大規模な内乱を何度も経験し、長引くこともあっても再建(国内再統一・国家議会改革・身分再統一)も繰り返され、中国大陸政府は文明強国としての歴史を古くからはもっていたのに対し、西洋ではカール5世時代になってやっと、文化教義圏全体の統一国家らしい表向きの体裁(そうでなければならなかった神聖ローマ帝国の本来の姿=帝国議会)を、16世紀にようやく見せるようになった有様だった。

 

中世までは教皇庁(ローマ)が、古臭い手口(=愚民統制の手口)の破門(失格)と戴冠式(合格)を使い分けながら、王族(世俗議会)に力を付けさせないように(聖属議会に逆らえないように)、強力な統制力を有しているかのように十字軍遠征を名目とする地政学的領域戦(エルサレム争奪戦)をズルズルダラダラ強制し続けてきたが、教会改革(前近代的な軍兵站体制改革や税制改革)など全く進められていなかった。(そのやり方は、江戸末期にいい加減に疑問視されるようになった、諸大名にただ力をつけさせないためだけの甚大な浪費を負担させ続けることだけが目的でしかなくなっていた、問題だらけの参勤交代制や国替え制の固執に近いものだった)

 

15世紀末に、キリスト教国家の競争相手であったオスマン帝国(イスラム教国家)に先に議会改革(前近代的な軍兵站体制改革や異教問題の身分制寛容政策等)されてしまい、キリスト教徒たちはイスラム教徒たちに陸でも海(地中海)でも地政学的領域争いで押される一方になった。

 

だからそれに対応するべく、キリスト教徒たちも西方教会圏における絶対総裁的な強力な身分制議会(前近代的な国家議会の敷居序列見直し)の整備に慌てて着手(とうとう世俗議会側が聖属議会側をねじ伏せる側の立場に逆転)されることになったのである。

 

20世紀前半までの第二次世界大戦時代ですら「自分の所の文化圏こそが世界の中心」であるかのようにどこも自負し合うのが当然だった(資源大戦をやめさせる和平・健全化のための世界間の国際協約評議性など大して育っていなかった)ことを考えると、ようやく前近代議会の姿が少しは自覚され始めるようになった15世紀や16世紀などはますますそうなる。

 

16世紀になってようやく主導国らしい形となったに過ぎないスペインのことを、明(みん。中国大陸政府)が

 

 「にわかに強国化したに過ぎないスペインは、それがいったん崩壊したら再びその規模(教義文化圏全体)で再建(再統一)できるのも怪しい、歴史の浅い格下」

 

と見なしたのも仕方がなかったといえ、中国大陸政府も世界の王様を気取っている場合でもなくなってきていても、こういう所は厳しいものである。

 

これは、中国大陸よりもさらに多人種観・異文化観が強い地域ごとをまとめなければならなかったイスラム教国家やキリスト教国家の難しい弱点で、カール5世がやはり最初で最後だったこと、実際にその次代のフェリペ2世(スペイン王)がカトリック再確認主義・絶対主義で教義圏全体を再統一しようとして果たし得なかったことでもはっきりしている。(プロテスタント独立運動の激しさを増す一方となる。そこに危機的だったスペインが日本を頼るようになった理由と本能寺の変と関係。順述)

 

ザビエルの一向が日本に正式に初上陸することになった 1543 年頃の西洋では、買い手にとって利率の良い国債をスペイン王室が今まで以上に勢いよく発行し、帝国議会後に開かれる大市(おおいち。西洋中の人々が殺到する形で、色々な事情の証券が持ち込まれたり発行された)やアントウェルペン取引所(各地の資本家たちが支店を開設し、世界経済規模の資本取引が行われていた)で異様な経済景気を見せていた時期になる。

 

その実態は見通しなどいよいよ怪しい自転車操業化の加速であり、大見栄を張って国債を乱発するばかりのスペイン王室の内情のメチャクチャな財政管理(西洋全体の資本管理)に付き合わされることになったアントーン・フッガー(国家銀行規模であったフッガー銀行の総支配人。南ドイツを代表する銀行家・政商)は内心は青ざめていたが、上の間で何が起きているのか知る由もなかった下々は、その経済景気にただ浮かれていたような状況だった。

 

ここで筆者としては、どうにもならなくなっていたこのスペイン王室に対し、アントーン・フッガーだったなら

 

 「こうなった以上は、今までキリスト教徒とは根深い険悪関係になった訳ではない、ただちに地政学的領域争いに発展する訳でもない中国大陸政府かどこかのアジアの遠方の強国(議会改革が進んでいる文化国家)との取引先を早急に見つけて、足元を見られようがさっさと通商条約を結び(国際市場を開設してもらい)、今までのメチャクチャな隠し負債を補填していくくらいしか、もう他に手はないのではないですか?」

 

くらいのことは、準備要領(再建計画)のひとつの案として内々では確認されていて当然の案件と見ている。

 

西洋では16世紀前半に、凄まじい資本多様交流社会化と情報社会化(郵便事業と出版事業の発達)が進み、今まで体験したことがない物価の高騰と貨幣価値と証券価値の大規模な激変を体験しながら、隠され続けてきたカール5世の負債総額は2000万ドゥカード以上にのぼることになり、これは新大陸の植民地の収奪とネーデルラントやドイツやイタリアの王族領も含めたスペイン王室の、ざっと10年近く分の歳入額(年税収額)に相当する額になる。

 

相場観自体が完全に狂っているような、スペイン王室がキリスト教社会全体の資本管理ができなければ・しなければならないはずが整備不能に陥っているような「どういう意味の2000万ドゥカードなんだ?」というものになるが、1560 年まで生前のアントーン・フッガーならこれについて

 

 「強引でもなんでもいいから、その負債をまず500万ドゥカードあたりまで時間をかけて減価償却しながら圧縮していき、キリスト教社会の実体経済が多少知られた所でただちに地政学的領域争いに発展する訳でもないような、どこかの遠方の強国の新市場の開設を頼みながら負債を減らしていくようなことでもしていかないと、もうどうにもならないでしょうに・・・」

 

くらいの助言はスペイン王室にしていたと筆者は見ている。

 

スペイン王室は中国大陸政府に相手にされず(受け入れれば国威に大いに影響するほど散々格下扱いされて)参っていた矢先に、どうやら強国化が進んでいるらしい日本列島に興味がもたれ、同格の相互関係としての助け舟の交流を求めるようになったと見て間違いない。

 

1570 年頃に中央で国体(政権議会)らしい織田政権が台頭した頃の西洋では、ごまかしの財務で強引に維持し続けたスペイン主導の力関係の、カトリック主義の表向きの教義統制をどこまで維持できるのか、もうあまり時間がなかったスペイン王室としては、内々は相当あせっていた一方で、日本に希望が見えてきていた。

 

昭和末から平成前期でも元禄でもそうだが、大きな好景気が始まるほど避けて通れない不景気に向かっていくことに、人々はどうしても、相場観が著しく狂っていることをつい忘れながら、高度成長期から豊かさを謳歌する間までの「あの頃のような景気に戻って欲しい」ことばかり考えるようになるのは当時も同じで、今まで体験したことがない大規模な経済景気を体験してしまった16世紀のスペインは、なおそう思うようになることも間違いない部分になる。

 

今まで全く指摘されてこなかったが、カトリック絶対主義を強める一方になっていたはずのスペインが、わざわざ日本に熱心に接近するようになったのは、実際はもう異教徒がどうのなどといっているような余裕などないほど、景気回復のための(ただちに地政学的争いに発展する訳でもない)遠方強国との国際新市場を、スペインは求めていたのである。(その最恵国待遇に関して西洋側のことにはスペインがそれを一手に得ようとしていた前提というのが重要。後述)

 

ここが大いに誤解されてきた所になるが逆の見方をすれば、強国化が目立っていたスペインがキリスト教徒の代表として、地政学的敷居競争の肩代わりを急にしなければならなくなったことで、どうやってその穴埋め(前近代的な軍兵站体制の維持)をするのかに常に追われ続け、スペインも地政学間の脅威に散々振り回されながら、新大陸支配にしてもキリスト教国家の代表として、キリスト教を支配のための道具として強引に使わざるを得なくなっていったのが実情だったといえる。

 

教義圏全体の大きすぎた等族義務を果たすためにスペインが急に一身に負担しなければならなくなり(当時ここを税制改革するのは難しく、思った以上に甚大なものになった。後述)、スペインの利益にならない負担ばかりを強いられることになったことでスペイン国内は不満ばかり噴出するようになった。

 

フェリペ2世時代にはむしろキリスト教徒同士での険悪化が露呈し始めた(当時の大変さを下々にすぐに理解させることもできなかった。スペインは今まで面倒を看てやったから従え観ばかり、諸国は今までスペインに付き合ってやったんだからこちらの言い分も受け入れろ観ばかり)のを、スペイン主導のカトリック主義で強引にねじ伏せ続ける悪循環ばかりに向かった。

 

スペインの強引なやり方は実はスペインとしても不本意だったとすらいえ、やむなくそうせざるを得ない後ろめたい部分が実はあった、つまりスペインは身分再統制の次世代化の視野もあったと見てよいのが、日本との交流の動きだったといってよい。

 

もうどうにもならなくなっていて時間もあまりなかった(ごまかしの経済がいつ破綻してもおかしくなかった)スペイン王室議会は、今まで仕方なく強引にカトリック主義を強要してきた、自分たちがしてきた深刻な教義問題に完全に無神経・無関心・無計画だったはずがなく、日本との国際市場をきっかけにそこも解決していく計画もあったと筆者は見ている。

 

どうやって解決しようとしていたのかも次に説明していきたい。

 

残念ながら16世紀の時点では早熟な感(16世紀の時点で19世紀以降の敷居を織田信長が求めていた感)もあって、結果的に本能寺の変という形で破談に向かってしまうが、どういうことなのか、なぜそういえるのかを説明していきたい。

 

イエズス会と今後のことをよく確認するようになっていた織田信長としても「こういう形にしていけば互いに発展的かつ健全化になり、丁度良い機会だ」と今後を構想しながらそれに応じようとしたこの部分が、本能寺の変にかなり関係していたこと、織田体制(自由教義競争が大前提 = 近代的な情報・技術・産業文化交流体制が大前提)だったなら双方にとって弊害よりも健全的・進展的な利点の方がかなり多かった、文明開化的な大事な部分が説明されてこなかった所を次に説明していきたい。