近世日本の身分制社会(123/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

本能寺の変とはなんだったのか51/?? 2023/07/10

今回も

 

 スペイン王室(西方教会圏の主導国)

 

 その外交大使役のイエズス会士(カトリック再生委員会)たち

 

 

 織田政権(織田信長と、外相の重役予定の羽柴秀吉と明智光秀)

 

 海外貿易の今後のことに備えて積極的に関わっていた堺衆たち

 

 日本の今後の国際交流のあり方( = 今後の外国教義との国際対応の方針と、今後の日本の前近代的な国際教義議会としての評議性・議決性の敷居改革)をただ問い質(ただ)しただけのことに見苦しく錯乱することしか能がないから織田氏から保護監察扱いされるようになった朝廷(廷臣たち。公的教義の管理人たち)

 

のそれぞれが、織田氏の中央再統一が顕著になった 1571 年頃からの当時をどのように見ていたのか、16世紀の特徴や前後関係を見渡して行きながら、本能寺の変の性質についての説明をしていきたい。

 

スペイン・ポルトガルによるアジア方面(インドネシア開発市場・貿易)の進出は確かにされていたが、16世紀後半の時点では、西洋人たちがアジア圏において強力(国家議会的)な睨みを効かせるといえるほどの支配権までは構築できていない。(一定の要港権がせいぜい)

 

中国大陸政府圏の南方の海洋都市マカオは、アジアに頻繁にやってくるようになったポルトガル船が、明政府(中国大陸政府)の公認で貿易特権が貸与されることになるが、のち19世紀までに中国が弱体化していく中で、ポルトガルは確かに優位な自治権を確保するようになっていくが、領土権にしても制海権にしても16世紀の時点でのアジアに対しては限定的なものだったと見てよい。

 

16世紀時点での明は、内乱と国内整備で忙しくても強力な権威は有し、ポルトガルから見るとかなり遠かったマカオ(明政府の地政学的領域圏)を、そう簡単によそ者が完全支配(独立自治国家化)はできないと見てよい。

 

インドネシア進出の後発組として17世紀から力をつけていったイギリス・オランダ(プロテスタント勢)が、先発組のスペイン・ポルトガル(カトリック勢)を阻害し始め、また現地の混乱に乗じた地政学的領域権確保の結果としてのイギリス・オランダ組による隷属支配力が現地で強められるようになるが、アジアに対するその印象が16世紀以前からそうであったかのように誤認されがちな所になる。

 

19世紀から20世紀前半にかけて(第二次世界大戦までにかけて)、西洋人たちがそれまで手を伸ばしてきた広範囲の地政学的領有権(貿易権・要港権・制海権など)の正当性を各国首脳が押し通すため、また国民に国家に忠誠を誓わせるために、キリスト教主義(18世紀までの、子供騙しみたいな教義権力で自国や他国を操ろうとする言い訳もいい加減に通用しない近代議会化)に代わるテキトーもいい所の白人至上主義とやらに頼り始めて煽るようになったに過ぎない、そのかなりいい加減な20世紀前半の後付け印象操作に振り回されているようでは何も見えてこない所になる。

 

何の歴史的経緯(社会心理)の把握も無しに、19世紀後半から20世紀前半になってから、何か大事なことを急に思い出したかのような、テキトーな思い付きもいい所の当時の白人至上主義を、いまだに真に受け過ぎているだらしない人間が多いが、キリスト教主義が使えなくなってしまった途端にテキトー過ぎるにもほどがあるただの思い付きの発想に頼らなければならないほど、21世紀どころか20世紀後半に向けた国際協約評議性に、それだけどこも向き合うことなどできていなかった現れだったというだけの話に過ぎない。(そういう所は日本人だろうが西洋人だろうが、所詮は人間のやること)

 

労働組合や社会保全にしても、電話やネットなどの情報交流通信技術にしても現代ほどはまだまだ育っていなかった20世紀前半までは、どこも資本家層が絶対的な国家操作権力(愚民統制権)を握りがちで(21世紀現在ですら、まだそのような20世紀の頃の時代遅れの教義権力=愚民統制でねじ伏せ続けようとする口ほどにもない国家しかないが)従わなければ非国民扱いが当たり前の、政府(近代政府の教義権力の悪用=愚民統制権)の意図と少しでも違う異論を唱えようものなら、即座に憲兵に連行されかねない時代だった。(イタリアの社会学者トリアッティや、イギリスの経済学者ケインズが生きた時代。彼らは民権言論の自由など危うかった当時の非国民狩りの検閲が強まっていた中で、愚民統制のためだけと化していた時代遅れもいい所の世界経済学的な社会論に異論を唱えた)

 

どこの国民もその大勢は、世界で何が起きているのかよく解らないまま政府の操作(従わなければ非国民扱い)する報道(白人至上主義の煽り)のいいなりになるしかなかった時代に、いい加減な国際協約評議性の向き合いなどできていない中で苦し紛れにテキトーに思いついただけの、それで他人種にケンカを売りまくった結果が、のち日本を怒らせて強烈な猛反撃を食らう原因にもなった白人至上主義なのである。

 

20世紀前半までの(第二次世界大戦前までの)力関係ばかりの乱暴な地政学的領有権の根拠を強調しようと、15世紀からそうであったかのように、その頃からアジア現地での明確な領有権を確保できていたかのように後付けで印象操作ばかりされてきた所には、注意が必要になる。

 

少なくとも16世紀時点では、ポルトガルはマカオでは中国大陸政府による条件付きの許可制を受ける立場、マカオでの貿易活動ことは明が条件を決めて公認する主導側、ポルトガルが交渉させてもらう側の外来の立場であったのが実際になる。

 

その力関係は丁度、イタリアのジェノヴァ商人団がイベリア(スペイン)での商業活動の許可を求めるようになった際に、スペイン王室が多額の税を支払わせ、また現地での施政義務も請け負わせる代替として、国内における遠隔地間商業特権(特許状)を公認するという、徴税請負(ちょうぜいうけおい。特権の期間譲渡的な契約。マエストラスゴ)契約のように請け負わせる側と請け負う側のような、文化的な関係だったと見てよい。

 

関ヶ原の戦い後( 1600 年以後。豊臣体制から徳川政権主導に代わり始めて以後)、有馬晴信の管轄の朱印船(しゅいんせん。徳川政権の特許状の公認による日本人交易船)が 1609 年にマカオに寄港した時に、取引のことで揉め、現地のポルトガル人領事長から一方的な誅殺を受ける事件が起きる(のちポルトガル船焼き討ち事件と岡本大八事件に発展するがそちらの話は今回は省略)が、これは主に2つの要因のものになる。

 

まず、織田時代(本能寺の変で織田信長が討たれて)から豊臣時代(羽柴秀吉が中央再統一を果たして自身が武家の棟梁であることを明確化し、織田政権に代わって日本全土への天下総無事を進める)への移行時に、それまで(織田時代まで)は外国交流の自由化的(情報技術交流=文化教義交流における自由競争的)政策だったものから、豊臣秀吉がスペイン・ポルトガルに対する交流規制を急に強めるようになる。(豊臣秀吉はそこも身分再統制の一環にしてしまった。本能寺の変の性質に関係。順述)

 

織田時代までは日本とは良好だったポルトガル・スペイン(カトリック勢)との親交関係も、豊臣秀吉がそこを大きく方向転換したことでだいぶ悪化した様子が窺えるのと共に、現地での本来の主導国のはずであった明政府がこの事件(マカオでのポルトガル領事の一方的な日本交易船誅殺事件)の判決を「ポルトガルに任せきりにした(明が日本と揉めることに慎重になっていた)」ことをいいことに起きた、この2つの要因で起きた事件だったといえる。

 

この時( 1609 年のマカオでの日本交易船誅殺事件)に明政府がポルトガルに任せきりにしたのは、少し前の日本の

 

 間違いなく強国化(国内再統一 = 絶対家長の天下総無事による前近代的な政権議会の序列敷居の仕切り直し)していた日本に対し、今まで通りの格下の弱小国家扱いの外交態度をやめようとしないアジアの宗主国気取りの明政府を豊臣秀吉が懲らしめる戦い

 

となる慶長・文禄の役( 1592 ~ 1597 年。朝鮮出兵による、日本軍と明・李氏朝鮮連合軍との戦い)で明が攻め入られる側となり

 

 格下とやらの日本が乗り込む側・懲らしめる側で、格上とやらの明が乗り込まれる側・懲らしめられる側 となった戦い

 

が長引かされ、

 

 それをいつまでも追い返すことができなかった明は、すなわちアジアの宗主国としての面目丸潰れの既成事実が作られてしまった

 

だけでなく、明は日本以上に凄まじい疲弊をさせられた(相手を困らせるための地政学的領域戦らしい国力比べの消耗戦に持ち込むために、明の国威・格式下げのために挑発し続けたことがまさに豊臣秀吉の狙いだった)ことが影響していたのは間違いない。

 

16世紀時点では世界最大規模の国力を有していた明に(日本列島側をいつまでも今まで通り格下扱いに朝貢と臣下の礼を要求してくる態度を改めないから)ケンカを売った豊臣秀吉(天下総無事を果たし新政権を確立した日本の武家の棟梁 = 日本の総裁・代表家長 = 日本全体の選任的な身分統制権を握る絶対家長)が、大規模な外征を5年近く継続させることになった。

 

実際に明を散々疲弊させられるだけの国内再統一( 絶対家長を始めとする選任序列の見直しの議会政権改革 = 前近代的・次世代的な身分統制権・国家指令権・国際的裁判権の制定 = 前近代的な官民再統制 )を日本はできていた(織田信長がきっかけだった)ことを、世界最大級の明を相手取るだけの耐久戦(地政学的兵站戦)を日本はできたことを世界に見せつけたことが、重要な部分になる。

 

これは、スペインもオスマン帝国も同等のことをやれないことはないものの、しかし国家を崩壊に招いてもおかしくなかった(実際にこの両主導国は無理をして近代的な大規模な消耗戦をやり過ぎて、互いに自国を疲弊させてしまっている)一方で、日本はその後に徳川家への政権交代劇(関ヶ原の戦い)こそあったものの、ただし内乱が頻発するといったような、まとまりの無さに歯止めがかからなくなるような国体(政権議会)が崩れ始めるような様子は(織田信長と豊臣秀吉の敷居改革のおかげで)全くなかった。(多人種的議会だったスペインやオスマン帝国は、日本よりも維持が難しかった)

 

理由はどうであれ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵での明軍との戦い)の後に、ただちに崩れ乱れる(低次元化・衰退化する)ような様子などは全く見られなかっただけでも、日本が世界的な強国化ができていた姿を国際的に見せつけることができたといえるのである。
 

生前の豊臣秀吉にとっての最後の大仕事となったこの外征(文禄・慶長の役。文明的な強国としての日本を皆が支え合わなければならない意味と、国内和平の尊さの意味を、思い知らせるための懲罰軍役)のそうした真意は、小西行長宗義智(そう よしとし。対馬の支配者。日本人大名。中国大陸政府からの規制に反感的にこの海域近隣を生業にしていた日本人・琉球人・朝鮮人・中国人らの交易を取り持つ代弁者だった)と堺衆たち、また豊臣政権の政務吏僚の重役の増田長盛(ました ながもり)、大谷吉継(おおたに よしつぐ)、石田三成(いしだ みつなり)らは内々で理解、また有力諸侯の大手の徳川家康前田利家らも、内々ではそこは理解はできていたと見てよい。

 

豊臣秀吉による強制(従わなければ、大目に認めてやった近世大名の公認資格の取り消し・格下げ。天下総無事による国内和平もつかの間の、芸事などを悪用した余計ないがみ合いの家格競争をさっそく始めようとする、人の上に立つ姿勢をすぐに忘れる諸大名たちのそのだらしなさを鍛え直すための懲罰軍役)のこの過酷な軍役義務に日本の諸大名たちは苦しみながらも、「格下の弱小とやらの日本」からの消耗戦的な攻め立てに明政府は明らかに政体に支障が出るようになった、それがあったからポルトガルはマカオでの優位性を高めることができたことと影響していたのは間違いない。

 

アジア最大どころか世界最大であった中国大陸政府も、16世紀になると今まで通りの世界の王様を気取っている場合でもなくなってきていた。

 

それは中国大陸政府が弱体化したのではなく、他の文化圏の国際的な強国化が目立つようになったことで、今まで開き過ぎていた差がだいぶ縮まったというのが正確になる。


産業文化力や軍事力を含めた世界間の国力評を、中国大陸政府が10とすると、15世紀末までは、ロシアは4や5くらいはあったかも知れないが、日本も西洋も中東も3や4ほどだった所、16世紀以降になると中国10に対し、日本も含め強国化(政権議会の次世代化)が目立った文化圏主導国はそれぞれ6や7ほどまで成長した。

 

だからかつての国際間の力関係(相場観・統制観)も今まで通りでなくなってきて当然で、つまり世界間の権力均衡(地政学的権威の事情)も今まで通りではなくなる変容も起きて当然になってきていた(だから豊臣秀吉が、そこをいつまでも認めない中国大陸政府にケンカを売った)、むしろ中国大陸政府こそが最も、今まで通りのままで過ごす訳にいかなくなってきていたことを意味していたのである。

 

これは現代でも教訓にできる所になるが、世界の中心の(その業界などの中心の)王様として今まで通りに威張っていたいのなら、だったら10の力を15くらいまで引き上げなければならない話で、しかしそれは16世紀の時点で19世紀や20世紀の水準まで議会改革できなければならず、その前段階(前近代議会化)にどこも難儀するようになっていた当時は決して簡単ではない話になる。

 

「明の疲弊をいいことに(=日本が明を疲弊させたおかげでポルトガルはマカオで優位になれた)」の、ポルトガルのこの時の日本(の有馬晴信の管轄)の交易船への対応の悪さには、徳川家康(関ヶ原の戦いという総選挙戦で今後の武家の棟梁が徳川家であることを明確化。皇室を肩代わりする日本政権の代表家長としての交易船の特許状発行者)としても、内心は少しイラッとしていたと見てよい。

 

豊臣秀吉は棄教までは迫らなかったものの、イエズス会(織田氏と親交)、浄土真宗(親鸞派。聖属裁判権側の有徳規律のあり方を巡って織田氏と殴り合った末に、世俗裁判権側の織田氏に返上=家長権・人事統制権をいったん世俗側で一本化する形で和解)、法華宗(日蓮派。織田氏の下同士の助け合いの教義改革に協力)といった、教義力面・人気面で優勢が目立っていたこれら有徳(聖属。教義指導組織)たちを狙い撃ちする形で、急に厳しさを向け始めた(織田時代では開放的だった自由教義競争を規制し始める)ことも、本能寺の変の性質と関係している。

 

豊臣秀吉の身分再統制の一環となっていたといってよい、それまで(織田時代)の教義の自由競争化に対するこの急な規制の流れは、豊臣政権(武家側・世俗側)と朝廷(聖属側・教義管理側)の内々の融和交渉があったのは間違いないと見てよいが、それは本能寺の変から始まっていた流れ(教義面で何ら求心力を維持できなくなっていた朝廷の廷臣たちのその弱みも深刻だったことと本能寺の変と関係。のち豊臣秀吉が内々でそこを救済的・調整的にやむなく便宜し始めた流れ)だったと見てよい。(順述)

 

ここは16世紀の特徴を見誤らない見方ができなければならない所だが、まず、朝廷が明智光秀に本能寺の変を起こさせる形で「織田政権と決別」した朝廷(廷臣たち)の動きに対し、その意味はすぐに察した羽柴秀吉はあえて朝廷は追求せずに、明智勢を反逆者扱いして早急に制圧し(武家の棟梁=世俗側の総家長の明確化をモタモタしてはならない)、朝廷が次にどのような動きを見せるのかを横目で様子見することになった、という所が大事になる。

 

つまり羽柴秀吉は「朝廷(廷臣たち)が織田政権と決別したという政治的(議会的)な部分」を暗黙的にいったん容認したという見方、つまりここを旧主の織田氏の構想に対する不義理や裏切りうんぬんばかりで見るのではなく、日本の今後をどうするのかという調整的(議会的)な見方でその後(世俗・羽柴方と聖属・朝廷方)の動きを見ていけば、当時がどんな様子だったのかも自然に見えてくる。

 

変が起きるまでの織田信長、明智光秀の心情(社会心理)や、また思惑にまとまりが無い中でもようやく自分たちの方針を少しは選任議決するようになった廷臣たちの当時の心情(社会心理)については、これは現代でも大いにできる教訓が多いこととしてその当事者性は後述でまとめることとし、まずは全体像的な情勢から整理していく。

 

羽柴秀吉も明智光秀も、日本の今後がかかっていた国家創設的な調整事業者(重役)としての苦労人の立場だった、そこに慎重さや冷静さがもたれたやむなしの立場だったという部分が、いささか軽々しい個人事業主的・個人契約的な想像ばかりがこれまで繰り返されてきた。(そもそも 戦国前期 - 戦国後期 - 戦国終焉期 の前近代的な等族議会化・官民再統制の世界情勢的な流れ自体がろくに見渡されてこなかった)

 

本能寺の変の首謀(計画した者たち)が廷臣たちであったとしても、政体を巡る闘争においては世俗側(武家側)の務めという形にしておかなければならない(廷臣たちが、議会改革的・敷居確認的な評議性・議事録処理などないただの派閥利害的な劣情だけで、そこに軽々しく便乗・介入してはならない)ことは、羽柴秀吉も明智光秀もよくよく理解していた部分になる。(やっとそういう基本的な形にできたのは、織田信長の説教的な中央再統一でだらしない無神経・無関心・無計画な利害(劣情=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)を議会にもちこむな!」とようやくそこが叩き直されたおかげ。少しチグハグだが本能寺の変の性質を見誤ってはならない大事な部分)

 

朝廷が織田政権とどうしても決別したくて(国内教義でさえこれまで朝廷は手本的にろくにまとめることもできなかった中で、新参の外国教義の合祀を求められてもついていけそうにないから)決別するための、「どうにも」の手遅れ寸前の土壇場になってようやく、聖属議会(朝廷)としての議決らしい議決というものを少しはするようになったのは、情けない話だが織田信長が最後通達を朝廷に催促し続けたおかげであり、朝廷にとっては大きな前進だったといえる。(今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもにはこの深刻さの意味が理解できない部分。現代でも共通する教訓として後述)

 

おかしな話に聞こえるかも知れないが、相変わらずまとまりなどない朝廷(日本の聖属議会。国内教義の叙任敷居の管理機関)が、今まで全くできていなかった選任議決を「本能寺の変」という形で少しは前進することになったのは皮肉にも、「朝廷(廷臣たち)は何をモタモタやっておるのだ!」と、今まで誰もやらなかった、できなかった、しかし誰かがやらなければならなかった世俗側からの聖属側への圧力(危機管理能力の無さを恫喝)に、織田信長がとうとう踏み切ったおかげだったといえるのである。

 

廷臣たちだけでない、地方の代表格たちにしても、本能寺の変が起きた 1582 年は上の間での大幅な身分再統制が間もなく実施される段階になってきていた中で、織田氏の身分再統制(前近代的な官民再統制)をまだ受けていなかった、これからそれを受ける遠方地域では(廷臣たちもそうだったが)、それぞれ部下たちにその状況を伝える等族指導(前近代的といえる地方再統一・地方議会改革)も果たせておらず格下げ必至で気まずいから、どこも錯乱する恐れがあったから、各上層はとぼけて続けていた。

 

織田信長にしても豊臣秀吉にしても、また明智光秀にしても総合的に見ると、情けないことこの上ない当時の朝廷に対してはむしろ大甘だったといえるくらい寛大過ぎたといえる。(あまりの選任議決性のモタモタぶりが原因で、むしろ織田氏のおかげで少しは朝廷の形を立て直すことができた部分を、本能寺の変という形で結果的に不義理を働くことになってしまった所が、少しややこしい部分。現代でもありがちな大きな教訓として後述)

 

だから徳川時代になってからの上層(世俗側・武家側)の、朝廷(聖属議会・日本の教義議会)の内々の見方としては

 

 「廷臣たちは織田時代に散々手を焼かせながらあれだけ寛大な処置を受けておいて、自分たち(廷臣たち)のモタモタぶり(敷居確認・状況認識が遅れに遅れたこと)が原因(話がすっかり進んでしまった後になってからの土壇場)で本能寺の変を起こさざるを得ない状況を作り、続いて豊臣時代にもこの上なく世話になっておきながら!」

 

という見方だったと見てよい。

 

教義の自由競争化(=日本の自国教義力の強化)は今しばらく規制していく流れに向かうことになった(廷臣たちが結局それを望んだ)からこそ「我が徳川政権では、以前(織田時代・豊臣時代)のように朝廷を甘やかすようなことは、もう誰のためにもならないから容赦しないぞ!(廷臣たちが力関係による規制を自分たちで望んだことだろうが!)」という態度で、些細な不祥事・落ち度でも遠慮無用に手厳しい(廷臣たちは自分たちで議会改革・人事敷居改めなどできておらんではないか!の)対応(教義側の統制権への規制)に乗り出す(教義面において、武家の棟梁の本家側の公認・認知などない、上の乱れから招く勝手な正しさの聖属裁判権の乱立が起きることがないよう未然に防ぐ)ことになったのである。(「武家側から格下扱いされたくないのなら、だったら廷臣たちはあの大事な貴重な時期に、なぜもっと議会改革しておかなかったのだ! もう遅い!」

 

廷臣たちは徳川時代に手厳しい規制ばかり受けるようになってから、結局自分たちで自分たちを格下げしてしまう結果になってしまったことを、織田時代を契機に自分たちの取り組み(議会改革・人事敷居改革といえる選任議決)を自分たちで十分にしてこれなかったことを改めて思い知ることになったと見てよい。

 

織田時代は朝廷(聖属議会)にとって逆境であったが、同時に今までの劣悪な旧態慣習を一新(改革)する好機だったことを結局活かすことができなかったことを意味し、これは現代でも「明日は我が身」として大いに教訓にできるありがちな部分になる。(後述)

 

織田信長は、今の日本の低次元な教育機関と同じように今まで廷臣たちが無神経・無関心・無計画に握り続けてきた教義競争の規制(低次元な叙任統制権=低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合いで下同士で低次元ないがみ合いを続けさせるための、低次元な序列敷居を維持し続けるための教義権力)を巻き上げる前提でいた。

 

世界敷居に対応するために教義競争の自由化(和解・健全化が前提の人文多様と啓蒙合理の敷居確認の基本的な取り組みを自分たちで何も大事にしてこれなかった、そこをうやむやにケンカ腰に低次元化させ合うことしか能がない思考停止的な劣情共有しかできない閉鎖有徳は格下げ・解体・議席追放されて当然)に改めさせる前提としていたからこそ、内々では廷臣たちに手厳しい追及をした一方で、表向きはさも日本の朝廷(教義議会)はそれを管理できるだけの議会改革が可能であるかのような、国際的な体裁を織田信長が先付け的に装ってくれていたのである。(織田信長と明智光秀がそこを肩代わり的に対立劇を装ってくれていた)

 

要するに、西洋人たち(向こうのキリスト教徒たち)が日本に交流に訪れている中で、織田信長が朝廷に公開説教をしてしまえば「日本の教義議会は世界敷居に何ら対応できない、居てもいなくても同じの役立たずの集まり」であることを世界に公表してしまうのと同じだからこそ、それではまずいからこそ、その対立劇を織田信長と形明智光秀が肩代わりする形で演じることになったというだけの話に過ぎないことが、まず史学的に誤認され続けてきた深刻な部分になる。(そこまで織田信長に配慮してもらわなければならなかった廷臣たちは、ようやく少しは危機感をもった者もいたと見てよい)

 

当時の織田信長と朝廷の様子を見ていたイエズス会士たちも、廷臣たちのモタモタぶりに織田信長が遠回しに催促していた部分については「自分たち(キリスト教社会)も(教皇庁が)そうだった」と、さらには当時のキリスト教徒ではできそうにもないことを織田信長が実現(神道・仏教とキリスト教の合祀化を)しようとしていたことに、むしろ青ざめながら当時を窺っていたと見てよい。

 

ここは後述でまとめたい所だが、今の日本の低次元な教育機関(教義権力でねじ伏せることしか能がない愚民統制機関)とそのただのいいなりどものような、基本的な等族指導(当事者性=人文多様性、主体性=啓蒙合理性の敷居構想)の議事録処理(計画書整備・人事手配書整備)の手本の示し合いなど普段からろくにできたこともない低次元同士というのは、ただ人を踏み台にねじ伏せ合うためだけだけの外圧任せの低次元な落ち度狩りで、ただ大声で公開説教したがる(無神経・無関心・無計画にケンカ腰になりたがる)ことしか能がない、ただ迷惑ヅラ被害者ヅラしたがる(自分にただ甘いだけの、人にただ厳しくなりたがる)ことしか能がない、そこに深刻さがもてたことがない法賊(偽善者)には、意味が全く理解できない所になる。

 

高次元な構想計画の手本的(議事録処理的)な指摘低次元な劣情共有通りでないことに思考停止的にただ怒り狂うことしか能がないだらしなさの違いの区別も自分たちでできたこともない、だから低次元同士の個人間や組織間はいつまでも敷居改善や敷居向上などしていく訳もない、だから織田信長のこうした当てつけ的(荀子主義的)な手本(等族指導のあり方)の偉大さにいつまでも気づかないまま(高次元側の敷居確認などできたことがないまま)なのである。

 

徳川政権までに、鎖国(日本での世界間教義の自由競争化については、武家側の最終権限で規制していく = 時代的にそこはもう少し後で検討ということでよい)の流れに向かった、だから国内教義にそこまで世界間敷居を意識する必要(そこを世界に発信する必要)もなくなった、だから徳川政権以降は朝廷を遠慮無用に「お前たちがそう望んだ結果なのだぞ!」と遠回しだが低次元な格下扱いを露骨にするようになったのである。

 

※だからこそ織田信長は「朝廷(廷臣たち。国内教義の管理人たち)がそんなことではダメだ!」と案じ、だからあえて厳しく議会改革を要求していたのを、廷臣たちは結果的に本能寺の変という形で幕を下ろす流れを作ってしまった。(後述)

 

16世紀は、今後の自国教義の次世代的(前近代的)な裁判権(序列身分敷居・議席資格)の基準についても、それをひとつひとつを順番に見直していきながらさっさと明確化(前近代的な議事録処理体制化)していかなければならなかった一方で、ここはどこも難儀するようになっていた。

 

そんな中で日本でも、聖属議会側(朝廷側・廷臣たち)は何も決められず(朝廷をまとめられず)にモタモタとやっている間に、織田信長から遠回しに説教的に催促され続ける日々を10年近く体験した末、やっと廷臣たちは「どうにもついていけそうにない織田政権(教義競争の自由化政策=世界間情報技術交流政策)とは決別」という最低限の議決くらいは、自分たちでできなければならないことを少しはやるようになった、そこは羽柴秀吉明智光秀も冷静に慎重に見ていたと見て間違いない。

 

織田政権と朝廷の間の折衝役および、朝廷の弁護役(援助役)をしてきた明智光秀からすると

 

 「特に、海外国際間の情報・文化交流と教義の受け入れと通商の交流について、今後の国策方針の話がここまで進んでしまっている今になって、それを否定する(日本教義として、かつて仏教は合祀に加えたがキリスト教は加えないことにする)議決を今頃されましても・・・」

 

 「それを朝廷(の皆様)がせめて5年くらい早くそう議決した旨の公文書を作成できたなら、少しは調整的な対処のしようもあったかも知れませんが、今の段階ではさすがにもう遅すぎます・・・」

 

という状況になっていたと見てよく、そのことで明智光秀を困らせ、しかしこの状況自体は織田信長もほとんど把握していたと見てよい。

 

教義権力(偽善)には、上から順番に遠慮無用に厳しさを向けたがる筆者と同じような性分(荀子主義者)だったと見てよい織田信長は、平安末から良い所無しの朝廷体質(自力信仰一辺倒)をここらで懲らしめる今の低次元な教育機関のような歪みきった猿芝居劇場体質を叩き直すただ下品で見苦しいだけの等族指導の手本など皆無な低次元な教義権力を徹底否定する)良い機会だと

 

 「神事・教義を統括しなければならない(=世界間敷居の情報・技術・交易交流のための国際協約評犠牲をこれからは整備できなければならない)廷臣たちは、カトリック(キリスト教)だろうがイスラム教だろうがロシア正教だろうがヒンドゥー教だろうが、仏教の時のようにさっさと合祀体制を構築すればいいだけの話だろうが!」

 

 「それができる日本の姿を世界に見せ付けてやることこそが、次代たちのため、日本の文明強国化のため、ひいては皇室のためだという、ただそれだけのことではないか!(それもできていないアジアの文明宗主国気取りの中国大陸政府を、今度は日本が格下扱いする番の絶好の機会ではないか!)」

 

の態度をありありと出していた。


国内教義をまとめることもろくにしてこれなかった廷臣たち(国内教義の管理責任者たち)に対する、その今までの教義史的(裁判権史的・議会史的・身分再統制史的)な危機管理能力の無さのていたらくぶりを、ここぞとばかりに議会改革的に懲らしめる今の日本の低次元な教育機関と何も変わらない、ただ下品で見苦しいだけの時代遅れの教義権力の乱用とそのたらい回しなど二度と繰り返させないための)意図がまずは強かったと見てよい。

 

廷臣たちは要するに、織田信長から

 

 「今までのやり方で国内教義(自力信仰・人文多様・当事者尊重性 と 他力信仰・啓蒙合理・主体尊重性 の整理の国家構想 )をまとめることなどろくにしてこれなかったのだから、だったら外国教義と教義競争する前提の体制に改め、刺激を与えあう前提くらいにでもしなければ、お前たちはいつまでも自分たちにただ甘いままの旧態のままではないか」

 

と遠回しに勧告され続け、その返答にしても、いつまでもモタモタと議決できずにいた有様だったのである。

 

折衝役の明智光秀もそういう所はよく理解し、朝廷(廷臣たち)が全くついて来れていない(まとまりがない)中で、その方針をまとめる手助けのことで難儀していたのは間違いない所になる。

 

西洋でも、時代遅れの教義権力(前近代議会化の阻害にしかなっていない愚民統制)でただねじ伏せるのみの足並みの揃え方ばかり繰り返してきたからこそ、向こうでは日本よりもひと足早く教義問題を巡って分裂し始めていた(教義指導体制のまとまりがなかった)、だからキリスト教徒の強力な代表を仰ぐ形でドイツに代わって主導国化したスペイン(カール5世を奉戴する王族連合議会=帝国議会)が、カトリック主義(西方教会再確認主義)で教義面の再統制を図ろうとしたが、うまくいかず難儀していた。

 

だからこそ織田信長はそこへの、前近代議会化に対する危機管理能力の無さを朝廷(の廷臣たち)に問うための厳しい態度に出たのである。(向こうの経緯を織田信長はイエズス会から聞き出していたと見た方が自然。明智光秀と羽柴秀吉もそこを把握していたと見た方が自然。堺衆や小西行長、高山重友らもそこは知っていたと見た方が自然)

 

教義体制(世界間の相互理解の敷居確認)もこれからは、時代遅れの低次元な教義権力国際敷居の評議性・選任議決性の手本といえる議事録処理と、ただの劣情共有の違いの区別・線引き・構想計画をうやむやにさせ合う愚民統制)でねじ伏せ合えばいいという単純な時代ではなくなってきていた。

 

自分たちの教義問題を自分たちで解決(前近代的な公務吏僚の手本・書記局官僚の手本といえる議会人事改革)できないにも拘わらず、議席の譲り合いをしようとしない(合格・失格の人事敷居の議席・地位に居座り続けるためにケンカ腰に低次元ないがみ合いを強制し続けようとする = そこをうやむやにし続けるための時代遅れの無策無能な教義権力の押し付け合いを延々と続けさせようとする)ことが許されなくなる、前近代的な議会敷居管理ができる(危機管理能力がもてる)良例作りの国家体制が黎明期的に求められ始めた時代が、16世紀なのである。

 

それができない、世界敷居の最低限の選任議決性も自分たちで確立できない非文明国家的な弱小のままで居続けようとするだらしない集まりは、そこに危機感をもって再整備(議会改革・人事敷居改革)できている格上の強国側から格下扱い・失格扱いされて当然であり、特に教義圏外(地政学間)に対しては奴隷扱い(人間扱いする必要などない)の身分再統制(統制権の整備)がされても文句などいえない時代となった。(日本はともかく世界では、第一次世界大戦の地政学的領有権の確保のし合いの前身を見せ始めていた)

 

戦国後期の国内の地政学的領域戦がまさにその縮図であり、国防体制の主体性(国家構想といえる議会改革)などない、何ら等族指導もできない(選任議決性の等族指導責任に何ら主体性などもてずに、低次元な罰ゲーム化に雑用扱いにたらい回すことしか能がない、何の議事録処理もできたこともない = 前近代的な官民再統制もできない)だらしない低次元な代表しか選出できない集まりは格下扱いされて当然、すなわち自分たちで何も大事にしてこれなかった(外圧任せのよその正しさでただねじ伏せ合っているだけの)集まりは格下げされて当然なのである。

 

一方で、どこも次世代化の下地などない中で施行してみた結果を見ながら対応していくしかなかった、だからこそ強国間でそこに危機感をもって敷居確認し合うことが重視されるようになった。

 

だからこそ、そこ(和解的・健全化的な国際協約評議的交流を前提とする敷居確認ができているのかどうか)に危機感ももてない(そこを認識できるだけの前近代議会的な知能などない)にも拘わらず、いつまでも叙任権(合格・失格の人事統制権)を握り続けようとする身の程知らずの格下の集まりは、相手が教皇庁(公的教義)だろうがいくらでも厳しさを向けてもよい(叙任権=教義統制権など規制すればよい、巻き上げればよい)とする時代になった所が、16世紀の特徴になる。

 

織田時代から豊臣時代にかけても、豊臣時代から徳川時代にかけてもまた同じく、まず織田時代に施行(身分再統制)された手本がそのまま受け継がれた部分もあれば、方向転換された部分もある。

 

今後の日本国内の前近代的な教義統制の方針( = 低次元ないがみ合いに向かわせないようにする、教義敷居確認をし合える和解・健全化を前提とする各宗派・流派ごとの所属の、前近代的な謄本登録制の有徳特権の再手配の方針)を巡る部分において、日本をいきなり19世紀以降の国際敷居に連れて行こうとしていた織田信長のやり方に耐えられるか耐えられないかの問題(本能寺の変に至ってしまった内々の理由。明智光秀がやむなく肩代わり)が要点、というのが筆者の見解になる。


織田信長と豊臣秀吉の時代は、日本の今後に大きく影響してくる転換期としての選任議決の再整備のための専制的(絶対家長的)なやり方をどのみちしなければならなかったが、先のふたりが自己犠牲的( 自身の英雄視観を自ら排除的 = 低次元な落ち度狩りの善人ヅラ排除 = 荀子主義的な本来の手本家長の姿 )にそこをだいぶしておいてくれたからこそ、徳川家康は合議的に調整していく形も採れるようになった、いくらかやりやすい流れもできていったともいえる。

 

徳川時代になると、外国船との交流はまず長崎の港を専用の窓口とし、ここに幕府直属の重役扱いの長崎奉行体制が設置されるようになる( = 鎖国政策の初動 = 徳川政権の許可無しの外国との自由交流は一切禁止だと諸大名に規制することによる、「教義の自由化」の抑止と貿易権を幕府が独占する政策が始まる )が、徳川家康の信任でその役に就任した長谷川藤広と、またスペイン・ポルトガルとは長らく( 1540 年代以来 )の付き合いがあったことで海外交易の役を一任されることもあった有馬氏(有馬晴信が著名)の、これら様子を見渡すだけでも、日本の方向転換の様子が窺える所になる。

 

有馬晴信が担当した日本の交易船が、マカオのポルトガル領事から反感的な扱いを受けることになった事件は、上述を繰り返すが、以前は親睦的だった織田時代から、豊臣時代から徳川時代にかけてだいぶ方向転換される形でスペイン・ポルトガル(カトリック勢)に対してかなり非同胞的・冷遇的な(日本の都合に従っていればいいかのようなよそ者の)外交態度に急変していったことと関係している。

 

のちプロテスタント勢(イギリス・オランダ筋)との交流網をもつようになった日本・徳川政権に対し、カトリック勢(スペイン・ポルトガル筋)から見ればさらに悪印象となり、日本との親交回復もいよいよできそうにもなくなっていった、だから当時の日本とのやりとりの公文書も、都合の悪い箇所はのちに悪印象にだいぶ書き換えられることなったとしても何らおかしくない。

 

いずれにしても日本は、カトリック勢に対してもプロテスタント勢に対しても、迎えてやる側の優位な強気の立場だったこと、特に先行組のカトリック勢(スペイン・ポルトガル筋)は、強国化(前近代的な等族議会化)が始まって先々の明るさが見えていた日本(織田政権)に協力(通商条約)の助け舟を求めていた立場だった、そこをごますりをする立場だったといってよい。

 

後から慌てて日本に交流を求めてきたイギリス・オランダ(プロテスタント勢)に対しても「日本が求める情報や品々を持参するのなら、日本の都合次第で相手をしてやってもよい」の、世界的な強国としてそれを認めてやる側、条件を付ける側の国家自治権を日本(徳川政権)は有していた強気の態度になる。

 

織田信長の場合は、立場上での足元ばかり見るやり方は非常に嫌う寛大さを見せていたことが、表面上だけだとそこが解りにくいだけで

 

 「そのキリスト教という布教を、日本での正式に許可を求めるお前たちのその意味は、それはつまり日本と西洋の強国同士の情報技術文化の互いの信用協力(世界間文化敷居の国際協約評議性)の強化のためであると、それが大前提であることに絶対の間違いはないんだろうな!

 

と、そこを代表家長らしい態度で強く確認(調印署名)させ、それで先行の西洋人(先行のスペイン・ポルトガル筋)たちの当時の立場の

 

 「強国化が進んでいる遠国の日本で、カトリック(西方教会教義)に共鳴して入信しているキリスト教徒が増えているから、だから日本との交流もこれからは大事なのだ」

 

の、そういう表向きの形を当時はどうしても採らなければならなかったカトリック(西方教会主義)の弱点を、織田信長が「日本と西洋の今後の同盟的な信用交流のため、ということであるなら」と、そこに足元を見ずに寛大に配慮したのが実際になる。

 

筆者は別にキリスト教を擁護したい訳ではなく、ここはできるだけ史学観の誤認を指摘したい前提でいるのみになる。

 

16世紀当時のスペイン王室と教皇庁の、日本に関する公文書の文献で、日本の印象をやけに悪くいっている不自然な書き換えがされる結果となってしまった(と見てよい)その原因は、強いていえばどちらにあったのかといえば、結果的には冷たく突き放し始めた対応を(豊臣秀吉から)することになった日本側にあったといってよい。(イエズス会の必死の交流努力が報われない結果となってしまった。内々ではスペイン王室とは少し複雑な関係だったイエズス会の立場も後述)

 

そこは、わざわざ遠い日本までやってきて親交関係を取り持とうとしていたスペイン・ポルトガルと、日本との当時の立場は、それだけ日本の方が優位だった表れともいえる。

 

ちなみに筆者の家の菩提寺(ぼだいじ。供養を担当する寺院)はたまたま真宗(浄土真宗の略)大谷派(親鸞派の本流とされる)の宗派の寺院であり、そこに不満などは一切なく少し関心的に見ている。

 

筆者は、浄土真宗のことにしても時折賞賛しようとしているように見えても、それもあくまで史学観から浄土教(源空派の浄土宗も含める)が果たした歴史的な努力や存在感は高く評価されて当然だとしているにすぎない。

 

織田氏から豊臣氏にかけての中央再統一(最初の海外対策の方針も含める)の段階では、徳川家康はそこに関与する余裕などはもまだなかった、だからどのような変更を徳川政権がしたとしても(プロテスタント勢との条件付きの交流を始めた)ことに(カトリック勢からの)批判的な意思が向けられる義理もそこまでなかった分、やりやすかったといえる。

 

しかしそこを織田時代から急にひっくり返すことを始めた、その重臣出身の豊臣秀吉の場合、西洋人たちだけでなく、西洋との交流に熱心になり始めていた、堺衆たちも含める日本国内のキリスト教入信者たちからも、相当の悪印象がもたれることになったのは間違いない。

 

それはキリスト教入信者たちだけでない、教義力を身に付けていた(ヘタな戦国大名たちよりも小国家的な統制力を構築できてしまった。簡単に総崩れを起こすようなことはなかった)浄土真宗の信徒たち、また織田政権下で人気があった法華信徒(日蓮派)たちに対し、豊臣秀吉は急に今までの教義競争を規制するべくこれら格下げに動いたために、これら所属の内で教義競争のことにさっそく熱心になり始めていた者たちからは、内々では豊臣秀吉のことに悪印象をもった者も少なくなかったと見てよい。(その怒りの大部分を、結果的には豊臣秀吉が器量的に受け止めることになった所がむしろ偉大だったといえる部分。後述)

 

織田政権をいったん解体させる形で新政権を肩代わりするようになった豊臣秀吉が、日本の教義を巡る方針を織田時代から急に方針転換した立場と、それまではその流れに具体的に介入してきた訳ではなかった(豊臣時代までは教義に関する決定権を有していた訳ではなかった)徳川家康の立場とでは、変更のやりやすさもだいぶ違ったといえる。

 

本能寺の変に触れようとすると見渡しておかなければならない背景(説明しておきたい背景)も多いが、しかし教義問題の基本(16世紀の特徴)を把握しながら、起きたことを順番に自然に見渡していけばそんなに謎でも難しいことでもない。

 

本能寺の変が起きた時点まで、織田氏の重役のひとりとして活躍していた羽柴秀吉は、中央の様子を横目で見ながら「それで行けるなら良いに越したことはないが、果たしてその方針に皆がどの程度までついていけるだろうか?」「もしかしたらひと悶着あるかも知れない」と、生前の織田信長の計画はよく理解し、独自にいくつかの想定もしていたと見てよい。

 

羽柴秀吉は、本能寺の変の予見までしていたのかどうかはともかくとして、主君の織田信長が変によって討たれてしまったことが、それが何を意味していたのか(織田政権とは決別の朝廷の意向)は、即座に理解したとみてよい。

 

羽柴秀吉は、堺衆出身の小西行長(堺衆とは商業網の縁をもっていた備前の政商で、備前をどうにかまとめていた代表格の宇喜多氏とは義理の親類扱いの特殊な立場だった。宇喜多直家が毛利派から織田派に鞍替えしたのをきっかけに、小西行長は人材的に見こまれ羽柴軍団で抜擢・編入される。宇喜多氏の織田派への鞍替え劇は、中央経済にも関与していた堺衆の後押しも当然あったと見てよい)が、羽柴軍団の中で重宝されていた(のち大きめの等族諸侯扱い・近世大名に昇格)所からも羽柴秀吉は、中央の様子の有利な情報網ももっていたと見た方が自然になる。

 

何が起きていたのか、まず表向きの現場の様子から要点をざっと説明していきたい。

 

本能寺の変の起きた 1582 年 6 月は、それまで武家側(世俗議会)と朝廷(聖属議会)との折衝役を任されていた明智光秀がその役を間もなく解任される告知(=それまで中央の執政を任されるひとりだった明智光秀の管轄領の近江坂本と丹波が、別への領地替えが告知されたことがそれを意味した)は既にされ、そして明智光秀は手勢を率いて、羽柴秀吉の西進(対毛利氏の中国平定方面軍)に加勢に向かう予定だったことも、告知されていた。

 

この時点で織田信長は、今後の日本における朝廷(教義議会)の身分再統制を巡る交渉(外交対策と国内教義の人事敷居)を、いったん打ち切ることをしたというより、廷臣たちから議決(今後の教義議会の方針)を要求し続け、得た(時代に迫られる形で渋々提出することになった廷臣たちは、本当にそれを不祥事を起こさずにできるのかという面で内々ではあまりにも気まずく、何らかの手を使ってこれを白紙に戻すつもりでいた)状態だったと見てよい。

 

誠仁親王(さねひと しんのう。次期皇位を継承する予定だったが変で中断となり、しばらくして亡くなってしまう。しかしのちその子が後陽成天皇として即位)と織田信忠(織田信長の正式な継承予定者)の継承式典の段取りも既に決まっていた。

 

1582 年 5 月の段階で、新時代的な新政権(廷臣たちの議決内容も含める、前近代化の身分統制の基準)の公布予定(地方への「地方は(前近代的な官民再統制もできない家長気取りどもは)さっさと降参せよ!」の恫喝をより強める予定)の段取りが、中央では進められていたのもまず間違いない。

 

ここで織田信長本人は、四国(長宗我部氏)攻めに、あるいは中国(毛利氏)攻めに加勢する予定を短期的に挟み、織田信長はこれを新政権の公布の凱旋式にしようと考えていたようである。

 

四国攻めへの加勢か、中国攻めの加勢だったのかは諸説あるが、ここでの説明では、明智光秀に毛利攻めを加勢させ、自身は長宗我部(ちょうそかべ)攻めの後詰め(うしろづめ。陣地戦的な作戦や援軍のこと)に向かう予定となった、としておく。

 

凱旋式(今後の日本の教義体制も含める新政権の基準の公布)をするために軍を編成し、短期間で京に戻ってくる予定だったと見てよいこの織田信長の動きに対し、自分たちでしっかり選任議決性をまとめられないまま「仕方なく提出させられてしまった」ばかりになってしまった廷臣たちは相当あせっていたと見て良い。(提出した通りのことを廷臣たちが取り組めるのか怪しかったそういう所も、織田信長は把握した上だったと見た方が自然。そこもどういうつもりだったのも後述)

 

朝廷にしても、まだ織田氏の身分再統制を受けていなかった遠方地方にしても、その敷居差は現代的に例えれば、織田氏の間では公務吏僚の全員にネットも使える携帯電話を完備していたのに対し、地方では数個しかない黒電話を、さも携帯電話よりも価値があるかのようなくだらない作法や使用権ばかり当てはめるような、部下たちへの公務機能のための次世代指導よりも、上下権力的な旧態価値でねじ伏せ続ける使い方しかできていない、というほどの国家構想の敷居差があった。(現代でも教義競争を忘れた組織が陥りがちな低次元な弊害の教訓)

 

織田政権の敷居による身分再統制をこれから受ける運命だった、旧式の人事敷居でねじ伏せられ続けてきた序列のままだった朝廷や地方は、それぞれ部下たちになぜ今まで通りの議席(士分・貴族)待遇が維持できなくなるのか、格下げされる運命なのかの上としての本来の等族指導(社会的説明責任・国際的指導責任)など果たせていなかった、そういう所をとぼけ続けていた上の連中に織田信長は厳しかったのである。(等族諸侯の格式整備のための国替えに耐えられるだけの身分再統制もできていない、土俗信仰頼みのままの地縁の旧態慣習も改められない、平民の敷居と何も変わらないただの半農半士風情の武士団気取りどもは改易されて当然!)

 

本能寺の変は、日本がそのような状況になっていた時に起きたのが特徴になる。

 

織田信長の凱旋式の動きは、中央の廷臣たちだけが気まずかった訳ではなく、これまで織田家との和平交渉がろくに進められていなかった地方も同じように気まずかったのは、のち地方は豊臣秀吉にそこを恫喝される(日本の政権議会の代表家長統制権=武家の棟梁への主従を明確化するための天下総無事戦に乗り出される)ようになった様子からも明らかといえる。


次は、本能寺の変が起きた時点での、それぞれの立場のそれぞれの社会心理面についてまとめていきたい。