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本能寺の変とはなんだったのか50/?? 2023/06/06
 

「本能寺の変はなぜ起きたのか」の筆者の見解を説明するには、16世紀の国際情勢をざっと見渡しておくことが大前提となるため、西洋についてのおおまかな様子をこれまで紹介してきた。

今回も西洋の様子に触れるが、今回からは日本と西洋の相関の話に入ってもいいかなと思える、最低限の説明はこれまでできたかなと、そろそろ進めてもいいかなと筆者も思えるようになってきている。

 

そのため今回からは、16世紀後半の日本( 織豊時代 = しょくほう。織田信長時代と豊臣秀吉時代 )と西洋( カール5世の晩年時代からフェリペ2世時代 )の相関に迫っていく、つまり本能寺の変の性質の話に迫っていく説明の進め方をしていく。

 

日本に興味をもって交流にやってきた西洋のキリスト教徒たちと、同じく西洋の様子に興味をもって交流を始めた織田信長が、互いにどのよう見ていたのかについてから、進めていきたい。

今まで、異環境間での「言葉、用語」の敷居確認は非常に重要になってくることは何度か触れてきたが、それがどういうことなのか、日本と西洋の交流が始まった当時もそこは同じという話から入っていきたい。

これから、織田信長もいかにも興味をもちそうな、政治経済上の敷居確認にうってつけの16世紀当時に西洋で使われていた言葉・用語を列挙する。

 

なお下記列挙は、諸田實氏著の書籍「フッガー家の時代」「フッガー家の遺産」で散見される、向こうで使われていた言葉・用語に興味をもった筆者が、書籍内ではそれが一覧的に整理されていなかったために筆者が抽出して一覧化し、解説を加えたものになる。


・ファクトライ          支店・代理店
・ファクトル           支店長・代理商
・商人団コンソルティウム     商人団合同出資共同体
・コンソルティウム        貸付銀行家団
・コムネーロス          都市住民
・ヘルマニーア          兄弟団という意味。より結束を強調する血盟(クラン)と似た使い方がされていたと思われる。意見整理の人文主義会や商人団など
・セルビシオ           特別上納金
・インテリム           暫定措置
・フォンダコ・デイ・テデスキ   ヴェネツィアのドイツ人商館
・センサーレ           仲買人
・カルテル            同業者間(シンジケート)の規律的な協定
・アシエント           租税質入譲渡。取引税・特権に関するものも多かった(スペイン)
・アルモハリファスゴ・マヨール  関税局・官
・セルビシオ           特別上納金
・アルカバラ           売上税
・フェイトリア          ポルトガル政府倉庫(西アフリカやその西側諸島から運んだ物資を入れる倉庫)
・ギニア庁(ギニア・ミナ庁)   ポルトガル政府倉庫は最初ラゴス(アフリカ西部の海岸都市。今のナイジェリア)に設置されたが、ポルトガルに移されて規模が拡大されていった
・フェイトル           ポルトガルのミナ庁・インド庁の総裁。その会計士が2名いた。ポルトガル窓口のフランドル商館(ネーデルラント南部。現ベルギー)の商館長という意味もある
・インド庁(ミナ庁)       バスコ・ダ・ガマが東インド大航海成功後に設置。ミナ庁と兼用となった
・コンズル            領事(ポルトガル)
・コルテス            身分制議会(または等族議会)
・サンタ・エルマンダー      警察組織(アラゴン王国)。コロンブス第一回大航海出資にここの金庫が使われたとある
・コンパニア           小人数短期当座組合(スペインの新大陸事業-貿易のジェノヴァ人の自由化と初期の貿易組合)
・マール・デル・スール      南海(太平洋へ通ずる水路)。当時は大西洋そのものの事も指した
・マエストラスゴ         騎士修道会の地代請負 ※本来の意味は「騎士修道会の裁判権領域」を表すスペイン語。裁判権=所領

・メサ・マエストラル       修道会総長地代
・コムトライ           修道会修道士地代

・メサス             騎士修道会の食卓費の意味だったが地代徴収の意味でもあった
・メスタ             大牧羊業者の組合(の評議会)
・クルサーダ           十字軍税
・クアルタ            教会税
・コンタドール・マヨール     スペイン(修道会の?)会計責任者
・マンテニミエント        サンティアゴ修道会(スペイン王族領・公領)の騎士の扶持。枠組み。全体の8割が約三〇ドゥカード(年42グルデン)という少ない扶持(家禄)だった
・エンコミエンダ         管区委託地の所有騎士。修道会騎士地代のことも指す。 ※スペインの新大陸の植民地化が始まった際に、スペインのこのエンコミエンダ制の序列慣習が丸ごともちこれまたことが顕著
・エンコミエンダ・マヨール    マヨールという言葉は基本的には有力管理者。総督、総長、管区長、長官、領事長などを意味する
・カバリェーロ・デ・ラ・オルデン 貧しい騎士・下級騎士。スペインのサンティアゴ修道会のマンテニミエント権利者。士分
・コメンダドール         有力な騎士・上級騎士。スペインのサンティアゴ修道会のエンコミエンダ権利所有者。士分
・コメンダドール・マヨール    管区長
・ランサ             本来は槍騎兵という意味だが、それを率いる軍役義務の規模を示す家禄の意味の方が強い。日本の江戸時代でいう家格の所領の石高表現に似ている。ランサ22や9は大エンコミエンダ。3は小エンコミエンダと見なされた(スペイン)
・ゴベルナドール         修道会領地-農村部/都市部の管区の「王室代官」
・コレヒドール          修道会領地-農村部/都市部の管区の「王室補佐官」
・カルゴ             複式帳簿の借方(スペイン)
・ダタ              複式帳簿の貸方(スペイン)
・リプランサス          リプランサが支払命令書のことを指す。こちらはその財務担当官
・ドナティボ           贈与金(特権)
・スプシディオ          臨時の地代(特権)
・キント             鉱山算出貴金税(1/5)
・テルシアス           王室三分の一税。教会十分の一税の1/3に相当
・アルネバリファスゴ・マヨール  セビーリャ(スペインの貿易大都市)の関税局のことと思われる
・メスタ             牧羊組合
・セルビシオ・デ・ガナドス    牧羊組合への入牧料
・モンタスゴ           牧羊組合への羊群通行税。通行対象の村落がまず徴収、それを王室に納税
・タサ              各都市の油の販売税
・マーチャント・バンカー     大商人・大銀行家団
・サン・ジョルジョ        ジェノヴァの税制機関。1404 年成立。租税管理、スペインの植民地支配への支援と銀行業を強化した。国家銀行のような存在だった
・フーロ             国債-王室発行の年金証書
・センソ             公債-都市発行の年金証書
・セマナ・サンタ         セビーリャ(スペイン・アンダルシア州の商業大都市)の復活祭前の聖週間
・フェリア            セビーリャの春祭
・ヒラルダ            回教(イスラム)寺院の尖塔のこと。セビーリャの建物。15世紀後半のアラゴン・カスティリャのスペイン統合再統一・国土回復運動(レコンキスタ)の際に、それまでイベリア南部(グラナダ近辺)を占拠し続けていたイスラム教徒が追い出されるまでの彼らの建設物のこと。取り壊されずに残っていた所も多かった
・アルカサル           宮殿や城塞王宮
・レーリヒ            ヨーロッパの遠隔地間商業システム。中世の世界経済を指す言葉
・エスカラ            寄港地システム
・ヘールス            中継貿易網
・テリョ             財務官
・フカタン・デル・フカル     フッガーの綾織。フッガー領ヴァイセンホルンで生産されていたバルヘント布。輸出先スペインでの呼び名と思われる
・ブルゼ             ブリュッヘ(ブルージュ。ネーデルラント北部。現オランダ)の取引所
・ストレッテッザ         貨幣不足
・ラルゲッザ           貨幣過剰
・コント             リヨン(フランス・リヨネ州。以前プロバンス州と誤記してしまった。貿易・大市で栄えた。出版社も多く書店街としても著名な優れた都市)の大市の為替相場(公定平均相場)
・シュトリーダー         主導的役割・主導役
・ナチィ             運送屋組合。遠隔地間での物流協約組合(ギルド)
・ファクトル           商館長
・ファン・デル・ウェー      短期借入金急増の新局面の時期のこと
・フッガー・ブリーフ       領邦君主(国王やそれに次ぐ公領主・デューク、侯領主・マーキスなど)の等族諸侯の上層たちに預託貸付する際に、フッガーが商人仲間から借入(資金集め)する時に発行していた債務証書(金融証券)。これと結び付いていた証券が広く流通し、手堅い価値として人気があった
・エード             贈与金
・グラン・パルティ        大償還計画
・プチ・パルティ         小大償還計画
・アルベルゴ           ジェノヴァの旧貴族のうちの特権保持者たち(旧貴族特権保持者)
・フロー・ディ・レスグアルド   担保の国債(ジェノヴァ人の巧妙な変更許可による新型国債)
・フーロ・デ・カウシオン     保証の国債の預かり。こちらは第三者への売却(裏書や付与などの債権取引)は容易に認められなかった
・メディオ・ヘネラル       1575 年スペインの第2回の債務支払い停止措置(国家破産宣告)時に、イベリア(スペイン)資本市場に介入し続けていたジェノヴァ人商人たち(アントーン・フッガーが亡くなったのを境に国際市場でのドイツ筋の力は無くなり、ジェノヴァ筋が独占するようになった)は「吸血鬼ジェノヴァ」と非難されながら、ジェノヴァ人介入削減対策に動かれるようになった際の担保国債の外来への売却禁止の規制処置のこと。しかし資金繰りを外来のジェノヴァ筋(以前はドイツ筋にも)に依存しすぎてきたスペインの王室財務は悪化の一途に向かい、今までスペインが乱発してきた国債・公債と外来(ジェノヴァ筋)とを急に切り離す(総清算する)ことも容易ではなく頓挫。1577 年の調整措置で外来が前払いしていた担保国債は短期債務化に仕切り直され、担保国債の販売も再び許可           
・バンチェリ・ディ・コント    イタリア筋の銀行家たちの公定相場の決定のこと。イタリアの都市ピアチェンツァでのジェノヴァ人(イタリア人)たちの大市。ピアチェンツァは地理的には教皇領内(エミリアロマーニャ州)だが、資本力的自治権の強い格式の都市だったと思われ、当時はパルマ公国扱いだったようである
・ジョルジョ・デ・ネゴティ    ピアチェンツァでのジェノヴァ人たちの大市の取引日
・カンツラー           ピアチェンツァでのジェノヴァ人たちの大市の仕切り司会者
・コレスポンデンス        ピアチェンツァでのジェノヴァ人たちの、大市外国為替の付け合せと思われる
・エキュ・ドゥ・マルク      スクード・ディ・マルキ。スクードはイタリアで使われていた貨幣単位。アントウェルペン、スペイン、フィレンツェ、ジェノヴァ、ナポリ、ヴェネツィア、フランスの7種類の代表的な金貨を基準に、その平均市場価値を決定した。このエキュの単位が、西方教会圏の市場平均相場として重宝されるようになった
・コンパーニュ          ジェノヴァのアルベルゴの原型の任意組合。8つあったがアルベルゴ化していき 1528 年には28で固定化
・コンパーニャ・コムーニス    アルベルゴ化の過程の政治軍事クラン。貴族領主が都市に移住し、貴族様式で有力者を吸収、市場広場や教区教会を囲う地区固め
・イダルゴ            スペインの下級貴族のこと。またその特権様式のこと。受託貿易特権(ヴェラクルス条約)をもつセビーリャ商人は、このイダルゴ特権の獲得による小貴族の暮らしを望む者が多かった
・コンパニア           スペインの新大陸貿易の、1~4年の少人数短期契約組合。大ラーフェンスブルク会社(下述)のものとは対照的に、スペインでは契約の長期継続性の無さが指摘されている
・キーウィタース         都市。ローマ風の呼び方
・シュテイフト          僧院
・アジール            庇護権
・フォークト           領主称号のことだが、その権力者(支配者層)の代官や代理人のことも指し、後者の意味の方がたぶん強い
・ブルクグラーフ         グラーフは、そのブルク(城塞や都市)で有している伯爵特権の意味。城内や市内での正式な貴族特権階級のことと思われる
・ウルバニ            12世紀頃(司教都市時代)の都市住民

大ラーフェンスブルク会社は、事業者の名ではなく発祥地の都市名が会社名にされた、ドイツのバーデンヴュルテンベルク州の都市ラーフェンスブルクに本店を置く、近年風でいう合資会社のような性質が強かった商社になる。

 

この大ラーフェンスブルク会社1380 年に設立され、1530 年に事業が畳まれる(解散される)ことになるが、ジェノヴァ商人団のようにこちらもかなり早い段階でイベリア商業(スペインのバルセロナ、サラゴサ、バレンシアの諸都市)にも進出していたことで知られ、また 150 年続いた長寿の会社になる。

 

1512 年からドイツで勢いを強めたフッガー会社が、まずはドイツ、ネーデルラント、しばらくしてイタリアとスペインと、西方教会全体の資本相場を独占するかのような急な勢いを見せたため、世間を大いに動揺させたが、それまではこの大ラーフェンスブルク会社がドイツでの最大手の商社だった(であろう)ことが確認されている。

 

中世後半から近世初頭にかけての西洋経済史では、この大ラーフェンスブルク会社の存在は散見されたものの、この会社が実在していたといえる直接の文献が一向に発見されなかったため、「幻の会社」と西洋史学の間で困惑させていた。

 

しかし20世紀初頭にその文献が発見され、この大ラーフェンスブルク会社は確かに実在していた確認がされて西洋史学界で話題となった。(西洋では19世紀末には中世史・近世史の学術研究とその発表に熱心に取り組まれていた。名が広く知られるマックス・ウェーバーもこの時期に活躍したひとり。正式名マクシミリアン・ウェーバーは生年 1864~1920 年のドイツ史研究者)

 

大ラーフェンスブルク会社は、最盛期には実に16もの遠隔地間の支店をもつ大規模なものであったこと、構成員は80名、100ほどの大小の資産家たちの出資の受け入れをしていたという、いずれも大規模といえる運営で、会社資産は13万グルデン以上と多額だったことが確認された。

 

のちのフッガーの、上の都合の国策でほとんど動いていた特殊すぎた運用額200万グルデンだの400万グルデンだのの数字の方(遠隔地支店は27ほど。その内の大支店8)が異様すぎるのであって、この大ラーフェンスブルク会社の方が、本来の大規模らしい数字だったといえる。

 

この大ラーフェンスブルク会社が畳まれた時期が、1530 年であったことが興味深い。

 

この頃というのは、まず15世紀末の多様資本交流社会化の勢い以降、物流事情も物価も年々激変し続けていき、一方で今まで隷属慣習で縛り続けられたままの時代錯誤的な貧困層の労働差別もとうとう社会問題として取り沙汰される形の、プロテスタント運動で騒然となっていた時期になる。

 

庶民間でニワカな資本家も増え始め、証券市場による資産運用で盛り上がるようになっていた中、大ラーフェンスブルク会社はそこに積極的ではなかったことは、結果的には賢明だったといえる。

 

この会社は中世期には(恐らくは関税対策や相場調整が目的の)荷止め(買占め)もしていたというが、基本は作物と手工業製品の物流取引を中心とし、取引事業ごとの資金集めには熱心でも、金融業・資本取引(や他、多額の前貸しの代替の徴税請負の期間契約など)のための資金集めは熱心でなかった。(あまり政商的ではなかった)

 

16世紀には物流経済と資本(金融的)市場が、これまでよりも国家権力(国政・国庫)と結び付き始めるようになり、その資本交流に参加しなければ、資本家の仲間入りをすることや、資本家としての地位を維持することも難しくなってきていた。

 

大小の資本家の多くが、帝国議会主導(スペイン王室主導)の大市(国際証券市場)に漬かる形になり、そしてのちにカール5世が、その総額の巨額債務を強引に踏み倒す形で膨大な数の貨幣(金貨と銀貨)を巻き上げ、格差が広がる一方だった貧民たちに貨幣を分配してしまった結果を考えると、大ラーフェンスブルク会社は当時に便乗せずに 1530 年に畳まれた(解散された)ことは、むしろ英断だったといえる。

 

会社資産が13万グルデンもあれば、解散の清算時の配分をざっと考えると、経営者の有力な家系が5つあったとして各2万グルデンずつ配当し、残り3万グルデンを各役員の序列地位に合わせて退職金を渡していくといった、大まかな概算になる。(フッガー家にそうした清算例がある)

 

1525 年にヤーコプ・フッガーが亡くなり、フッガー会社の次期当主をアントーン・フッガーが引き継ぐことになった際に、ライムント・フッガーとヒロニムス・フッガーの2名は経営陣から降りて土地所有貴族(領主)としての道を歩むことになるが、この2名は会社資産の権利を各3万グルデンほど有していた。

 

2万グルデンや3万グルデンといえば、無数にいた小領主たちにとっては簡単には用意できないような、大きめの教区が教会財産(公共予算)として保有していたほどの大金になる。

 

筆者は近世の西洋情報は書籍中心で、Wikipedia 等のネット情報もたまに見る際に、そちらでは16世紀の有力商人たちのことを「支店は3、4店と規模は小さい」と評しているのを見かけたが、誤認の元といえる。

 

ドイツのフッガーやヴェルザーや大ラーフェンスブルク会社、イタリアではジェノヴァのグリマルディ家やトスカーナの大手、スペインではブルゴスの大手、といった大物ばかりを引き合いに出せばどこも「小さい」になってしまう話で、特に異様すぎたフッガーを基準に大きい小さいを評しようとする時点で規模観がおかしいといえる。

 

ここから本題に入りたいが、上述のように16世紀の西洋の経済関係の言葉・用語を列挙するだけでも、大まかな様子が見えてくる。

 

イエズス会(を乗せたポルトガル船)が西方教会圏の主導国スペインの外交大使役として 1543 年に九州に上陸、交流に訪れるようになるが、堺衆たち(さかいしゅう。現大阪府堺市に商業大都市とその自治権を維持し続けていた有力者たち。京の中央経済崩壊後は日本の中央経済を支えていた)は以前からの対馬貿易との縁による琉球方面の交流網もあったことから、その前から琉球や五島列島に下見に訪れるようになっていた西洋のキリスト教徒たちの交流を、ひと足早く始めていた。

 

西洋のキリスト教徒たちが日本に興味をもって訪れるようになった 1540 年代は、鉄砲の伝来に関心がもたれながら日本中で話題になるが、その交流のために早い段階でキリスト教に改宗していた者もいた堺衆たちは、その国際交流的な姿も注目されるようになる。

 

1540 年代の日本は、戦国前期から戦国後期への、国際意識の国家構想がもたれなければならない移行期だったこともあり、西洋人たちとの国際交流が始まって話題になっていたことも、良い刺激になったといってよい。

 

 戦国前期 = 世俗・聖属共に時代遅れだった旧態序列と決別するための地方再統一・地方議会改革・人事改革にどこも難儀していた、地縁問題の半農半士闘争・閉鎖有徳闘争に手を焼いていた惣国一揆時代 = 下々の救済のために浄土真宗が独自の聖属裁判権の再興運動を起こし(いつまでも身分再統制が進まないからやり始めてしまい)、まとまりのないだらしない旧態支配者たちを煽るようになった時代

 

 戦国後期 = 下々の求心力・支持力(裁判力・指令力・家長権)を浄土真宗に奪われ始めてあせるようになった世俗側(武家側)は、地方裁判権の敷居を切り直してまとめることができる器量ある(中央裁判権も仕切り直せる、その主体性・選任性・国家構想性・規律指導性までもてている格上の家長といえる)代表格を中心とする、その力量比べの広域的な総力戦時代(日本国内における地政学的支持戦・領域戦)を慌ててやるようになった時代

 

1540 年代は西洋では、プロテスタント運動を巡る議決のことで、帝国議会側(カトリック再確認主義で教義再統一したかったスペイン王室主導側)とプロテスタント派(の新政党的な自治権の意見書を提出していたシュマルカルデン都市同盟側)との折り合いが険悪化していった一方で、この年代には西洋では凄まじい証券バブルが起きた時期になる。

 

大した額でもなくても少しくらい貨幣を貯蓄できていた、謄本登録を得ていた市民や保有地農家たちの多くがそれぞれ家産を増やそうと、その証券取引に夢中になったこの証券バブル

 

 それに参加する余地などないまま、教義権力で今まで通り貧民であり続けるねじ伏せしかしてこなかった今までのカトリック支配体質が本当に改革されるのかを疑い批判し、それと決別するためにプロテスタント派を支持していた多くの貧民たち

 

から見れば

 

 「謄本登録を受けている市民たちや保有地農家たちだけが良い思いばかりして、我々貧民との格差をますます助長している!」

 

と逆なですることになるが、実はこれに手を出せば出しただけ後で大変なことになる(手堅い資産価値だと思われていた手形・証券が 1550 年代に一斉に大暴落を起こす)ことなど、1540 年代に浮かれていた下々は知る由(よし)もなかった。

 

皆が食いつきそうな利率の良い国債を勢いよく乱発していた 1540 年代の、さも世界最大の国力があるかのようなスペイン主導の国際証券市場のその内情は、背伸びの資金繰りのために翌年はさらに背伸びの資金繰りを繰り返し、それで先延ばしを続けた分だけ重くのしかかる利息もどうにもならないほど膨らませていくという、泥沼の最悪の自転車操業に陥っていく一方だったことは、一部の高官ら(上級貴族ら)や大銀行家・政商たちしか知り得ないことだった。(スペイン王室の財政管理を半分手伝っていたも同然だったアントーン・フッガーによる、王室に関する帳簿記録からここはもう明らか。カール5世時代の王族連合の重臣たちはもうこの 1540 年代の段階で、債務を踏み倒す視野も入れていたと見てよい)

 

フッガー銀行やアントウェルペン取引所の台頭で、手形(証券)を割ることで、債権(得る権利)分割化債務(支払う義務)分割化の近代的な優れた金融処理を可能としたことで、小口でも証券取引に参加できるようになり、約束期限でなくても大市(や大手銀行)に出向けば換金能力があったことを実体験をしてしまった人々は、すっかり錯覚してしまっていた。

 

「日本の都合」「西洋の都合」は、互いにどのような狙いや付け合わせの意図があったのか、本能寺の変にも関係してくることとして、慌てずに冷静に時系列を見渡していきたい。

 

1540 年代の日本は、旧室町体制を再建する方向なのか、それともそれを一新して中央再建(国家全体の再建)を肩代わりする新政権が台頭しそうなのか、イマイチはっきりしない中で

 

 「何でもいいからとりあえず、中央経済の再建および国際外交体制(海外との文化交流および通商条約)の再建の見通しが早くできて欲しい」

 

と期待していた堺衆たちは、日本側の都合(事情)と、西洋のキリスト教徒たち(スペイン側)との都合(事情)を、早い段階で互いに内々に確認し合っていたと見てよい。

 

1550 年代には、戦国後期(日本国内における地政学的支持戦・統制家長権的領域戦)の敷居の再認識(前近代的な地方議会人事改革競争)をし始めた各地の戦国大名たち(地方の代表格たち)の皆が、西洋から伝来した鉄砲を次世代兵器になり得ると興味をもつようになり、早い段階でキリスト教徒たちと交流を始めていた堺衆たちから、高値でも買い求め(または技術提供を求め)、堺衆たちの国際交流の様子にもかなり意識を向けるようになっていた。


1554 年戦国後期の転換期の象徴的な人物だった織田信秀(尾張の元々の支配者である斯波氏の執政であった織田家が尾張支配を肩代わり後、織田宗家であった伊勢家と大和家を抑え込んで尾張の代表格として台頭した弾正家の当主)が急死し、尾張の次期代表格の継承をはっきりさせることも含める織田信長による、さらなる次世代化が目指される主体的(手本家長的)な尾張再統一(支持選挙的な地方議会改革)が始まる。


1560 年には織田信長による尾張再統一(身分再統制。前期型兵農分離。人事敷居改革による官民再分離)は達成されつつあった時に、東海道の大手であった今川氏が「何か大事なことを思い出したかのように今頃になって」慌ててそれを阻止しようと、自分の所(今川領内)の身分再統制(駿河・遠江・三河の再統一 = 人事敷居の組織改革)もろくに進められていない中、無理をして大軍を動員して織田領(尾張)に攻め入ることになったあの桶狭間の戦いとなる。

 

西洋では 1558 年にはカール5世が、1560 年にはアントーン・フッガーが亡くなり、前後するが 1557 年には第1回目のスペインの債務支払い停止措置(国家破産宣告)に踏み切られ、それまで投機熱に浮かれていた多くの下々は証券価値の大暴落で大損を受けて一斉に意気消沈することになる。(この時はごまかされる形で国際証券市場は復旧されることになる)

 

1555 年アウクスブルク宗教和議の影響で、プロテスタント派に議席権を具体的にもたせるような教義圏全体としての前例など作らせないために、今まで通りの西方教会圏の主導強国スペイン(カトリック再確認主義)としての表向きの威勢を維持しながら、財政再生の見通しが立たないまま粉飾決済を無理に続けることになったため、スペイン財政は相場観を狂わせながら内情を悪化させていく一方となる。(この件は、日本の江戸時代でも共通している当時の難しかった税制問題に関係することとして後述)

 

そんな折、日本では織田信長による地元での尾張再統一が 1561 年には大方決着すると、先代までは織田氏とは険悪だったが三河再統一で忙しかった松平氏(徳川家康)とは不戦・協力同盟が結ばれ、織田氏による美濃(岐阜県)斎藤氏攻略が始まるが、織田氏も鉄砲を盛んに買い集めるようになる。

 

それは織田信長と堺衆との交流の本格化、すなわち織田氏と西洋のキリスト教徒たちとの交流のきっかけを意味している。

 

それまで戦国大名たちとは中立的な政商として交流しながら情勢を窺ってきた堺衆は、1568 年まで美濃斎藤氏攻略を進めていた織田氏の様子を見て、他と比べるとかなり整備力(次世代的な議会改革=人事序列敷居改革)に優れていた所を早い段階で有望視していた(中央経済再建と国際外交体制の立て直しが可能そうな次世代政権ではないかと、その後押し候補に挙げていた)と見てよい。(正式な国際交流の話を進めたかった西洋のキリスト教徒たちも、そこを期待していたのは間違いない)


1568 年に尾張・美濃の2ヶ国は織田氏によって併合されたも同然となり、本拠地をさっそく岐阜城(旧稲葉山城)に移した織田信長( 他の戦国大名はそもそもこれができるだけの、地縁問題の対処の閉鎖有徳改めの官民再分離・公務吏僚再指導の身分再統制などできていなかった = のちの豊臣時代と徳川時代への国替え制度や、中央公務である直参旗本と、地方公務である藩士の家格序列体制の手本となる )は、伊勢(三重県)攻略も進めつつ、中央(京・帝都)進出に本腰を入れることになる。

 

次世代議会的な2ヶ国の統制で目立っていた 1568 年の織田信長は、表向きは足利義昭(名ばかりだった旧室町政権の実質の最後の当主)から中央奪還(足利義昭を追い出して中央に居座り続けていた三好氏の追い出し)の協力要請を受けた(その時に足利義昭が手配した連絡役が明智光秀だった)ことと、内々としては有力な堺衆たちの支持を得る協力関係が築かれたことで、織田氏による中央進出は表裏共に好機だったといえる。

 

織田信長と西洋のキリスト教徒たち(西方教会圏の主導強国スペインの外交大使役を請け負っていたイエズス会士たち)が正式に面会することになるのは 1568 年末のこと(中央進出に動いた織田氏の上洛路を譲ろうとしなかった近江六角氏を排撃して上洛路を確保し、続いて国家構想の見通しを示すことなどできていないまま山城(京)をダラダラと占拠し続けていた三好氏の追い出しに成功して間もなく)になるが、以前からキリスト教徒たちとは堺衆たちを介してその様子(カトリック派のキリスト教徒たちのいくつかの目的=内情はガタガタだったスペインの都合)は織田信長は早い段階で把握していたと見てよい。(交流の段取りも堺衆たちが事前に準備していたと見てよい)

 

1569 年には織田氏による山城再統一がどんどん進み、織田氏の管轄領としての 尾張 - 美濃 - 旧六角領の南近江(大津) - 山城(京)を結ぶ交通網の大整備(閉鎖有徳解体と奉行所の設置。寺院の地域貢献のあり方の織田氏の改革に日蓮派法華宗も同胞意識的に協力)が行われる。

 

永らく荒れ果て続いていた帝都(京)の再建にとうとう着手され、1571 年までに、実に100年以上ぶりに中央(京)の都市経済が大再生される快挙となる。

 

その来たるべき時を準備していた堺衆たちの支援も大きかったと見てよいが、どちらにしてもそれを法整備で仕切り直すことができる織田氏の前近代的(国際敷居的)な国家構想(中央議会改革まで前提の地方議会改革 = 日本全体の聖属議会改革と世俗議会改革の国家構想まで前提)がそもそもなければ到底不可能だった話になる。

 

それまで畿内(きない。今の近畿地方から少し西側の範囲。当時の中央圏)を勢い任せに占拠していた三好氏だったが、織田氏に国家構想差(等族統制力差・議会改革力差)を見せつけられる一方の三好氏は(旧室町体制の三管四職体制を否定するのか、あるいはその旧行政機関・旧権力序列をどう再生するのか、いずれもそれができる明確な方針を示す代表家長・総議長は誰なのかも曖昧なままだったために)挽回できず、表向きは一大勢力に見えていた三好氏の結束は、織田氏に切り崩される一方となる。

 

それまで三好派として大和の支配代理を請け負っていた松永氏と、同じく摂津北部のその支配代理の荒木氏といった有力者たちが織田氏に帰順した他、若狭衆も織田氏になびき始め、大した地方再統一などできてなかった中央近隣は織田氏に腰が引けたような状態に、1571 年の中央近隣は次世代的な進退を迫られる事態となる。

 

それまでは戦国大名たちとは中立的な立場を維持してきた堺衆たちも、これを機に織田氏との関係を名実共に強め、織田氏最優先の中央再建を熱心に後押しするようになったことは、そこに至らずにモタモタやっていた三好氏だけでない、地方の代表格たち(戦国大名たち)としても、そういう所からの威厳を大いに不利にしたのである。

 

織田信長が 1568 年末までに、南近江の六角氏(ろっかく。佐々木源氏。室町の三管四職体制時代における中央警護的な重役の家系だったが、地元の思い切った再統一ができずに衰退は著しかった。さんかんししき)を切り崩して上洛路を確保し、そして山城(やましろ。京。中央)に乗り込んで(三好氏を追い出して)から 1571 年までに、永らく荒れ地のままだった中央は100年以上ぶりに、政局の建造物も都市経済もとうとう織田氏の身分再統制(議会改革)の敷居によって大再生されたこの段階で、戦国後期はもはや終焉していた(次段階の話になってきていた)といって良い。

 

中央のあり方を仕切り直したも同然の織田氏は、旧室町体制の権力構造でねじ伏せるようなやり方には一切頼らずの、そこをほぼ決別・否定(身分再統制)する形の次世代的な新政権(人の上に立つ手本家長としての、公務吏僚の等族指導の敷居の仕切り直しによる中央再統一の選任序列新制 = 等族議会制)としてやっていけるだけの立証をしてしまったも同然だった(三好氏がそこをモタモタやっている間に、織田氏に「それができないなら出ていけ!」と乗り込まれてしまった)ことは、足利義昭(旧世俗議会)や廷臣(旧聖属議会)ら旧中央関係者たちは、果たして織田氏のその敷居に帰順するのか、それとも反抗するならするでどうするのか、中央はとうとうその進退の決断(議決)を迫られることになった分岐点(次段階)だったことを意味したのである。

 

言い逃れ無用の 1571 年を境に、親織田派たちについていけなかった、人の上に立つ資格などない(人の合格失格を裁量する国家構想的な議事録処理などできたことがない)反織田派の法賊(偽善者)どもの化けの皮が織田氏の敷居によって剥がされる形で、時代錯誤的に錯乱(日本の今後の大事な議決をまたしてもうやむやに)し始める(化けの皮が剥がれる)ようになる。

 

時代遅れの旧態序列(前近代的な国力総生産体制と軍兵站体制と税制改革への対応の等族指導をうやむやにし続ける体質)に対する再統一(議会改革)も自分たちでできない、人の上に立つ等族資格(人の合格・失格を整備できるだけの人文多様と啓蒙合理の議事録処理による時代に合った選任権・裁判権の国際敷居的な確立)の手本などない、高次元な国際協約評議性低次元なただの劣情の区別(自己等族統制)も自分たちでできたこともない低次元な集まりの反織田派(偽善者)どもの見苦しい(往生際の悪い)反抗劇が始まる 。

 

中央に乗り込んだ織田氏が全国にその敷居を見せつけたことは、やっていることが15年も20年も遅れていた各地方の家長気取りども(代表格たち。戦国大名たち)の化けの皮(低次元な猿芝居劇場=人の合格・失格を議事録処理する側の上に立つ等族資格などない偽善体質)を剥がしたことを意味し地方も今頃になって慌てて戦国後期(総力戦体制・地方再統一・議会改革)の見直しを始めた(自分たちが中途半端で低次元な序列敷居だったことに慌て、今頃になって織田氏の背中を追いかけ始めた)有様だったのである。

 

織田氏の敷居(中央再統一までできる高次元側として、それができない低次元側であるにも拘わらず家長権 = 聖属・有徳統制権、世俗・地方統制権を返上せよと迫られても手放そうとしない、前近代的な国力総生産体制・軍兵站体制・情報技術文化交流体制・税制改革の国際敷居などもてていない地方裁判権止まりの格下の身の程知らずどもを思い知らせた側)から見れば

 

 「さっさと帰順せよ!(日本のため、ひいては皇室=我々の大元である総家長を皆で支えるためを思うなら、潔く織田氏の次世代的身分再統制の敷居を受け入れよ! 前近代的な新議会政権の足並みにさっさと合わせよ!)」

 

と言われて当然の、どこも格下げ必至( 前近代的な国際協約評議性をうやむやにし合っているだけの低次元な旧態序列は総撤廃で当然だ! その深刻さから等族指導できないにも拘わらず人の合格・失格を議事録処理する書記局官僚側・公務吏僚側の地位・議席にしがみ続けようとする法賊どもは身の程を知れ! )だったといえるほどの大差があったのである。

 

この 1571 年の時点で、堺衆たちだけでない、九州でも西洋のキリスト教徒たちとの情報・技術・舶来品・文学・通商の国際文化交流が 1540 年代から始まっていた一方で、日本としての正式(政権議会的)な国際外交体制(異環境間の文化交流の何をどこまでの正式な基準や交渉の場)をいつまでもまとめられない( 自分たちで議会改革・序列敷居改革・身分再統制できない )でモタモタやっていた廷臣たち( 日本の朝廷 = 日本の聖属議会 = 日本全体の教義敷居の管理機関 )の様子は、かなり深刻だった( 今までのような愚民統制的・外圧任せ的な低次元な数物権威と教義権力の押さえつけ方で地位・議席を維持できる時代ではなくなっていた = 国際敷居に合った議事録処理による強国間同士の議決表明を示し合わなければならない前近代的な地政学的・教義圏的外交力が問われる時代となった )ことが、本能寺の変の事情に関係してくるというのが、筆者の見解の基本になる。

 

いつまでも自力信仰一辺倒(の教義権力任せのまま)だった朝廷(の廷臣たち。日本の聖属中央議会。日本の教義敷居・公的教義の前近代化をしなければならない立場)が、外来の他力信仰のキリスト教徒とどのように対処するのかどころか、国内の他力信仰(浄土真宗)をただ格下扱いし続けたまま、外来対応の前にまず国内の教義改革から何も進められていないままだったのである。

 

少し前の西洋のローマ(教皇庁)と同じで、

 

 イタリア全体どころか自分の所の教皇領の内紛(基準の押し付け合い)も自分たち(教皇庁の枢機卿団)でろくに再統一できなくなり、荒れっぱなしなままだった有様(イタリア全体の国威・格式の主体性が失われていく一方だった当時を大いに危惧したひとりだったのがマキアベリ

 

の愚かさだらしなさと、日本の

 

 自分たちの荘園公領制(中央聖属と中央経済を支え続けさせていた、山城とその近隣に点在していた中央の管轄の有徳領地特権)を大事にできず(時代に合った手本的な施政管理・身分再統制ができず)に、時代遅れの隷属序列慣習をただ強要し続けて(中央の不始末・失策をろくに議会整備しなかったことが原因の甚大な弊害負担を、ただ荘園に押し付け続けて)崩壊させ、皇室も外交体制(国内・国外の有事の和解・交渉の斡旋体制)も何ら立て直せないままの有様(中央としての身分統制権の信用的威厳など何ら機能しなくなり、有徳領地の奪い合いの横領と、不健全な自治運動の閉鎖有徳闘争が繰り返されるのみとなった=戦国前期の荒れ模様をただ助長し続けた有様)

 

の、

 

 教義権力(近代的な国際協約評議性とただの劣情共有の違いをうやむやにし合うための偽善のねじ伏せ合い)任せは、何もかもを台無しにする人類の愚かさだらしなさ

 

の部分は、日本人だろうが西洋人だろうが所詮は人間のやることとしてピッタリ一致しているのである。

 

教義議会(聖属議会)側はそこを自分たちで何ら反省(教義改革・議会人事序列改革・等族統制)してこれなかった、だからとうとう世俗議会側からそこを警告・規制され始める所もピッタリ一致している。

 

今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと何も変わらない、身の程知らずの聖属議会側(教義議会側)は、

 

 前近代的な議会改革(前近代化に向けた国力総生産体制・軍兵站体制・賦課税体制)を進め始めた(国家構想といえる国際敷居の議事録処理を始めた)世俗議会側(行政機関側)

 

に対し、

 

 時代遅れの数物権威任せ・教義権力任せの低次元な旧態序列を無神経・無関心・無計画に押し通そうと騒ぐことしか能がなかった(前近代的な選任議決的な国際協約評議性の議会再統一のための挙兵などではない、教義改革逃れをするためだけの、そこをうやむやに揉め合い騒ぎ合うためだけに挙兵した)

 

所まで、日本と西洋でピッタリ一致している。

 

だから公的教義機関(西洋は教皇庁、日本は延暦寺)は、行政機関(世俗議会。世俗側の手本議会的な絶対家長)にとうとう踏み潰された(ポグロムを起こすことしか能がない=低次元な非同胞拒絶の劣情共有で思考停止し合うことしか能がなくなっている聖属側を、前近代化の国際敷居に危機感をもつようになった世俗側がとうとう具体的に制裁人事の議決をする側に、立場が逆転した)なりゆきまでピッタリ一致している。

 

※1571 年の織田氏公的教義の対立(踏み潰し)を境に、親織田派旧室町派(反織田連合派)とでの対立抗争が顕著になるが、反連合側は政権議会的な団結など最初からできていない。盟主が足利義昭なのか、顕如(浄土真宗)なのか、武田信玄なのかの明確な指令権( 家長権・議決権・身分再統制権 = 前近代的な国家構想といえる法的議事録処理の敷居の手本 )もはっきりさせられない( その議席序列の仕切り直しにおいての譲り合いなどできもしない = まずは国内の異環境間の和解・健全化を前提とする敷居確認の連立同盟などになっていない )、格下げされて当然の地方裁判権止まり( = 今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもと同じで所詮は前近代的な国際評約評議性の人文多様と啓蒙合理の構想敷居確認などできる訳がない、前近代的な公務吏僚・書記局官僚の手本など皆無な、人の合格・失格を裁量する上に立つ資格などない井の中の蛙の閉鎖有徳ども)の見苦しい寄せ集めに過ぎないから、反織田の最初の勢いは実質3年も持たなかった。( = 自分たちにとって大事な構想計画性・主体性といえる敷居改革・自己等族統制の手本の示し合い = 異環境間の人文多様と啓蒙合理の前近代議事録処理的な敷居確認を自分たちでしてこれなかった)

 

そこをケンカ腰に面倒がりながら外圧任せの数物権威と教義権力でうやむやにねじ伏せ続けるのみの、低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合いしか繰り返してこなかった( 近代的な議事録処理による人文多様啓蒙合理の整備などできたことがない = 次世代的な評議性とただの劣情の違いも自分たちで区別してこれなかった = 自分たちで何も大事にしてこれなかった )低次元な格下どもは、何かあれば、精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまうのは現代の個人間・組織間・国際間でも同じである。

 

※単独で織田氏に何度も痛手を与える反抗を長期維持できていたのは、聖属裁判権(旧態のままの中央聖属裁判権とも中央世俗裁判権とも決別の、浄土真宗の自力的教義による有徳自治権・人事統制権)の世俗裁判権側への今一度の返上を巡って争っていた浄土真宗たちだけだった

 

朝廷(聖属議会)は、国際教義間の文化交流に対応するどころか、まず国内教義の自力信仰(人文多様)と他力信仰(啓蒙合理)の序列敷居(の再整備。教義改革)もろくにまとめられない(自力信仰一辺倒のままの公的教義が、教義権力で今まで散々格下扱いし続けてきた他力信仰の浄土真宗に、日本の自国教義の手本主導の立場を完全にもっていかれていた)まま、国内教義もまとめられなくなったままモタモタとやっている間に、1540 年代には、まずは九州や堺衆たちの交易網の中で、日本と西洋のキリスト教徒たちとの間の情報・技術・舶来品・文学・通商の国際文化交流が始まってしまったのである。

 

そしてそれが年々広まりながら 1570 年代までには、キリスト教の入信希望者もジワジワと増え始めていた。( = 日本国内を永らくまとめられないままの日本の自力教義に見切りをつけ始めた日本人が、西洋との交流の便宜のためだけでなくキリスト教に興味をもち始めるようになり、入信しようとする者が増え始めた )

 

しかし日本でいくら、神道・仏教式からキリスト教式に鞍替えする者が増えようが、そこ自体が問題なのではない。(後述)

 

神道・仏教であろうが外国教義であろうが、日本国内としてのその政治的(身分制議会的)な施政人事権(序列統制権)の問題として、それぞれの宗派(教義特権の再手配)ごとで前近代的(国際敷居的)な謄本登録制の議事録処理(書記局官僚・公務吏僚の手本の等族指導)ができる状態なのかどうかが、問題なのである。

 

そのことで(宗派・流派違い=冠婚葬祭の様式違いや聖典の優先順位違いのことなどで)今後はいがみ合わせない(和解を前提とする異環境間の敷居確認の手本、前近代的な品性規律の手本といえる等族指導の)ための、それぞれの格式や規模に合った有徳特権(教義体制)の再整備(教義面での等族指導のための前近代的な異環境間の意見回収と裁量)ができる場(教義議会)があるのかどうか(国際敷居として機能しているのか)が問われるようになってきていた中で、当時の聖属議会(公的教義体制)がそこに何ら対応などできなかった(前近代的な選任議決の仕切り直しなどできていなかった)ことが、国際的な問題なのである。

 

織田氏(次世代的な世俗議会)がとうとう中央に乗り込むことになり、聖属議会(朝廷)側もいい加減にその問題も取り組まなければならない段階になっていたから、とうとう織田氏にそこを問い質(ただ)されることになったというだけの話に過ぎない。

 

それを延暦寺(公的教義の中心地である比叡山)は、議会的(教義改革的)な応答(見通し)など何ひとつよこさないどこか、その選任議決を問わる側にされたことにただ逆恨みし、日本全体の次世代化を進めようとしていた織田氏への反対派(偽善者ども)を煽る目的で、そこをうやむやに騒ぐために、禁じ手であるはずの公的教義の有徳領による挙兵に無神経・無関心・無計画に動いた有様だった、だから踏み潰されたのである。(比叡山焼き討ち)

 

廷臣たち(聖属議会の管理人たち)は

 

 中央があまりにもあてにならないからこそ独自に聖属裁判権の再興運動を起こして以来の、他力信仰の浄土真宗

 

と本来なら、それにさっさと向き合わなければならなかった、まず国内教義における今後に向けた和平交渉(日本の教義全体の身分再統制。議会改革。議事録処理)の良例作りをしなければならなかったのを、ろくにしてこれなければ

 

 延暦寺(公的教義の中心地)の暴挙(挙兵による錯乱)をやめさせることもできなかった

 

上に、

 

 1540 年代から日本に交流を求めるようになった西洋のキリスト教徒たちとの、正式な基準の国際外交指導

 

についての、朝廷(聖属議会。国内教義の管理指導責任層)としての代表的な窓口(主導)としての機能など何ら果たせないでいた。(次世代的な大使館の再建計画すらいつまでもうやむやなままだったから、国際的な国威・格式に関わってくるそういう所に痺れを切らした織田信長が、さっさと新設してしまうことになった)

 

まず国内教義もまとめられない( = 低次元な教義権力でねじ伏せ合わせ続ける今まで通りの猿芝居劇場の手口で議会敷居の次世代化をうやむやにし続けることしか能がない = 国際協約評議性といえる前近代的な敷居確認のための議事録処理などできたことがない = 議席人事改革などできたことがない )だらしない低次元な集まりが、世界間敷居の国威・格式を再確認し合うようになった中での情報・技術・産業の国際文化交流に対応できる訳がないのである。

 

自分たちの低次元な敷居も自分たちで改善(自己等族統制・序列敷居改め)できない、自分たち(の上や古参)にただ甘く外(新参)にただ厳しいだけの(低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合いで気絶・思考停止し合うことしかしてこなかった)今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような口ほどにもない集まり( 身の程知らずの偽善者ども = 身の程知らずの閉鎖有徳ども = 道義外の合格失格を健全的・構想的に議決できるだけの等族指導の手本の示し合い・公務吏僚の手本の示し合い・近代的な評議性といえる議事録処理の手本の示し合いをうやむやにし合うために口出しや介入をしたがる、制裁人事的に格下げされて当然、民権や自治権など巻き上げられて当然の騒乱罪予備軍ども )が、自分たちよりも高次元な外の事象(敷居)への認識・参考や競争・協約への積極性(主体性)などもてる訳がないのは(そこを面倒がりながらケンカ腰にうやむやにし合う低次元な人生観を押し付け合うことしかできなくなっている愚かさ・だらしなさは)、現代での個人間・組織間・国際間で敷居差となって現れてくる所は同じである。(荀子・韓非子の政治思想や孫子の兵法における組織論の指摘)

 

「当時の西洋人たちは、キリスト教信徒を増やす手口で日本のことも乗っ取ろうとしていた」印象の話ばかり繰り返され、前近代的な謄本登録的な議事録処理(国家や教義圏の自治統制権)を巡る肝心な話(=人類史・教義史・議会史・裁判権史・身分再統制史)についてろくに触れられないまま、誤認させることばかり助長されてきた。

 

16世紀は前近代的な政権議会化(による強国化が目指される)の大きな転換期が世界的に起きていたのと同時に、その黎明期でもあった特徴も色濃く出ている当時の等族議会制(絶対家長的な総裁を仰ぐ選任議席人事の序列敷居の見直し)の部分が、ろくに説明されてこなかった。

 

この部分は西方教会圏のキリスト教徒たちも 1570 年代時点でも現在進行形で(プロテスタント派たちと険悪になる一方を、どう和解していくのかに)難儀していた部分であり、日本に交流に訪れていたイエズス会士たちも中央の織田氏の様子を見て

 

 「ああ、カール5世時代の帝国議会に、とうとう公的教義から人事統制権を巻き上げることになったのと結局同じだ。強国化(次世代化)に向かっている国家のこういう苦労は、どこも避けて通れないものなのだな・・・」

 

と、日本も西洋も次世代化(強国化)の乗り越えというものを、現在進行的に互いに体験している強国同士であり、また今後の国際交流にも向き合っていかなければならない使命感もある者同士だからこそ「自分たちも(キリスト教社会も)そうだった・・・」と、よそ事ではないその苦難にむしろ親近感すらもって様子を窺っていたと見てよい。

 

ここからどんどん説明を続けていきたい所だったが、字数制限の都合で、次回の説明のための今回のまとめをしておく。

 

大いに誤認されてきた所になるが織田信長は、織田政権側(世俗議会側)と朝廷側(聖属議会側)の仲介役を明智光秀に任せ、織田信長と明智光秀が険悪であるかのような対立劇を演じたことは、教義改革(日本国内の宗派ごとの前近代的・次世代的な謄本登録管理)が全くできていない廷臣たちに危機感を催促することが真意なのである。(この部分については、織田信長と明智光秀で口裏を合わせていた計画的な演出に過ぎない)


この1頁でまとめたい所だったが、これから

 

 スペイン王室(西方教会圏の主導国)

 

 織田政権(織田信長と、外相の重役予定の羽柴秀吉と明智光秀)

 

と、この間を仲介することになった、

 

 その外交大使役のイエズス会士(カトリック再生委員会)たち

 

 その海外貿易の今後のことに備えて積極的に関わっていた堺衆たち

 

 

 国内教義の方針(前近代的な評議性・議決性)をろくにまとめられずに錯乱することしかできなくなっていたから、織田氏から保護監察扱いされるようになった朝廷(廷臣たち)

 

といったおおまかな5つが、それぞれが当時をどのように見ていたのか、それぞれが相関的にどのように見ていたのかのを整理していくことで、本能寺の変がどのような性質のものだったのかの説明をしていきたい。