本能寺の変とはなんだったのか49/95 2023/05/14
本能寺の変の説明に戻りたい所だが、キリスト教徒たちが日本に交流に訪れるようになったその少し前の西洋はどんな様子だったのか、身分感覚(価値観)の転換期だった16世紀の特徴を、もう少し説明をしておきたい。
今回は、マクシミリアン1世(オーストリア大公。ドイツ皇帝=神聖ローマ帝国の総裁。ハプスブルク家)からの政治的な要望に応じることになったフッガー家が、帝国議会(で次世代的・前近代的な資本管理を主導しなければならなくなっていたハプスブルク家)を支える国家銀行体制(と証券市場による流通経済)の構築とその維持の重務を請け負っただけではなく、最下層貧民救済にも熱心に取り組んだ視点で、当時の特徴に触れていきたい。
筆者がフッガー家の情報源の主体にしている、諸田實氏著「フッガー家の時代」「フッガー家の遺産」では、このフッガー家が有力市民として富裕層化する初代と目されているハンス・フッガーの経緯は書かれているものの、当時のアウクスブルクの情勢は窺えるが全体的な身分制の情勢については省略的になっている。(本題に支障の頁の都合も大きい)
一方で、筆者が重視している書籍のひとつ、クラウス・ベルクドルト氏著 訳:宮原啓子・渡邊芳子氏「ヨーロッパの黒死病」が、まさにこのハンス・フッガーが生きた時代が窺える。
「フッガー家の遺産」の方では、中世から近世のアウクスブルク史が窺えるものの、黒死病時代の西洋全体の大変さには触れられていないこともあり、「ヨーロッパの黒死病」その他で筆者が見渡した中で整合・補足していく説明をしていきたい。
余談だが重要な話として、ヨーロッパの中世史/近世史は、外国の史学者の書籍を日本語訳したものが日本で出版されているものがやはり多く、何冊か読んだことがある人なら気付いている人もいると思うが「外国史学の書籍を日本語訳する」ことは、近代以降、近年の書籍を日本語訳す」よりも難易度がかなり上がることが、読んでいて思い知らされる。
よく「西洋の史学関係の書籍は読んだことがあるが、ワケがワカラナイ」という意見がチラホラ見えるが、近世史よりは少しは楽のはずの中世史でも、中世後半に触れるような近世史(前近代議会史)に近いものほど難しくなり、史学という観点での日本語訳は、近代以降の現代訳とは勝手もだいぶ違ってくる。
「フッガー家の時代/遺産」の諸田實氏の場合は、自身でドイツに赴(おもむ)いて現地の資料館の文献を収集し、またフッガー家に関する海外史学者たちの見解も添えながら説明もできるほどであるため、だから読み手が史学に不慣れであることで諸田氏の説明が難しい部分はあっても、日本語的にはだいぶ見やすい方になる。
訳が中心ではないからこそ日本語的にはだいぶ見やすい部類としては他に、菊地良生氏著の「神聖ローマ帝国」なども優れているが、訳という形が強くなるものほどそこが難しくなる。
内容次第の所もあるとは思うが、海外史学を日本語訳して書籍化すること自体が難しい挑戦で、それを「日本語的に見やすく仕上げる」こと自体が難易度が高いことが、日本語訳の史学関係を見ているとその難しさがよく解る。
訳として出版という話になると、あくまで原文著者の意図を翻訳すること(原文著者が何を伝えたいのか)に徹さなければならず、訳者の一方的な解釈になってしまわないよう、誤解した見解で書き並べてしまうことのないよう、史学関係だからこそそこに神経を使わなければならなくなるためどうしても難しくなる。
エルンスト・シューベルト氏著 訳:藤代幸一氏の「名も無き中世人の日常」も、訳に少し苦労している様子が窺える(『当局』という言葉がよく出てきて、原文側が貴族側から見た議会的な視点、市参事会・市庁舎・書記局官僚から見た議会的な視点、聖堂参事会側から見た議会的な視点での紹介をあまりしていない)が、こちらはだいぶ優れている方になる。
マイケル・L・ブッシュ氏著 訳:指昭博・指珠恵氏の「ヨーロッパの貴族」の方では、内容がただでさえややこしい貴族特権について、中世から近世にかけての事例を列挙しながら特長を分析しているものになるため、原文の意図の説明に苦労している様子が窺える。
この「ヨーロッパの貴族」のようなそもそも「取り組まれ不足だと指摘しながら挑戦」の試みほど日本語訳も困難になるのも当然で、筆者としても改めてその難しさを思い知りつつ、こちらの書籍も貴重な参考にしている。
筆者はそんなに多くの書籍を見渡している訳ではないが、上記のクラウス・ベルクドルト氏著「ヨーロッパの黒死病」は、訳者の宮原啓子・渡邊芳子両氏が、筆者が見てきた中では内容が難しい中での日本語化がかなり優れている部類になる。
書籍でのこうした、海外の言葉(=異環境)から相互理解していく話は、最初は大変かも知れないが敷居確認的(国際協約評議的)な取り組みとして重要になってくるのは、西洋のキリスト教徒たちが16世紀に日本に興味をもって交流に訪れるようになった様子を窺う上でも同じ、重要な部分になる。
日本でも西洋でも前近代化が始まって情勢が一変していた中で、強国化(前近代化。絶対家長の手本のあり方から選任序列の見直しをしていく等族議会化=議事録処理・謄本登録管理する公務吏僚側の敷居向上の議会改革)が目指されていた文化圏同士の交流が始まった当時を、日本と西洋とで様子(異環境間)を見渡していくことが重要になる。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が当時の国際情勢をどのように見ていたのかを知る上でも、また本能寺の変の性質を知る上でも、そうした当事者性(異環境間同士の立場)がもたれる見渡し方をそれぞれができるようにしていかなければ、何も見えてこないのは現代における個人間、組織・業界間、文化圏・国家間でも同じことがいえる。
国際意識(前近代的な国家構想)を視野に入れていた織田信長が、西洋での文化経緯(特に産業社会の立法整備による身分統制権の議事録処理的な品性規律)を重視していたとみた方が自然で、本能寺の変の性質も自然に見えてくるようになる。(この部分は後述で整理)
どんな言葉・用語が、どのように使われているのかの重要な異環境間の国際意識(国際協約評議的な敷居確認)というものは、当時の織田政権とイエズス会(当時のキリスト教圏の主導強国スペインからの外交大使役)の交流間でも、現代の国内の道義内外の交流間でも根底は同じになる。
歴史経緯の時系列の異環境に、さらに違う文化間(外国間・地域間)の異環境が加わる、つまり異環境(違う時代や、異業種的・異文化的な時系列)に異環境(道義観や目標構想観)が重なるものほど、それを教訓的(社会心理的)に把握・整理することも乗算的にどうしても難しくなっていく構図は、現代の個人間・組織間・国際間ごとの異環境間でも、そこは同じことがいえる。
そこを整理できるだけの下地を積極的に身につけてきた訳でもない、その機会も無かったような特に20代や30代が急にそこを相互理解(敷居確認)できる訳がなくて当然だからこそ、
全て外圧任せ( 数物権威・教義権力 = ただの指標乞食主義・ただの劣情共有 )にケンカ腰にねじ伏せ合う(自分たちの議決性=主体的な当事者性・選任性・構想性・計画性・時系列性・議事録処理性をうやむやにし合う)だけの、低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合い
をやめさせ合う交流環境 = 和解・健全化を前提とする異環境間の敷居確認の手本の示し合い = 自分たちの人文多様と啓蒙合理の線引きによる主体的な議決性の整理力・自己等族統制力
に変えていかなければ、周囲や次代たちに無神経・無関心・無計画に甚大な負担を押し付け続ける原因、低次元化・衰退化させていく原因となる。
ひとつの書籍(ひとつの異環境間の例)だけで基本(格下どもの猿芝居劇場に対する打破・決別=敷居向上)をいきなり全て理解する(求める・解決する・自己等族統制する)のは簡単ではないからこそ、「こうした取り組みが不足している」という意欲的な挑戦姿勢が見られる複数の書籍(複数の異環境間の取り組み例)を見渡していく必要も出てくる。(人文主義の意味)
本題に戻り、そもそも経緯が「少し特殊であった」フッガー家を輩出したアウクスブルクは、他の都市よりもツンフト(帝国議会や教区の身分統制権で公認していた訳ではない、貧民たちが生活権を得るために勝手に組織し始めた第三労働組合)が民権力を獲得する形で市政に介入していた様子が、諸田氏「フッガー家の遺産」の方で、アウクスブルク史の視点で紹介されている。(開祖ハンス・フッガーと関係)
他よりもツンフト市政(ギルドに対抗し始めた貧民層からの突き上げ)を強めていたアウクスブルクが、ドイツでの教会改革(プロテスタント運動)の議決(キリスト教社会のこれからの規律の見直し)を巡る舞台(アウクスブルク信仰告白の意見書提出と宗教和議の場)となってもおかしくなかったこと、また先見性に優れていたマクシミリアン1世がアウクスブルクのそういう所に着目したこと、そして貧民救済にも熱心に動くことになったフッガー家というこれらは、他の書籍と整合していくと、どういうことだったのかが自然に見えてくる。
もちろん今回も、現代でも教訓(社会心理)にできる話として、説明していきたい。
フッガー家がアウクスブルクの富裕層の仲間入りを果たすきっかけとなったハンス・フッガーは、アウクスブルク近隣の農村グラーベン村の出身で、身立てするためにアウクスブルクの都市労働者の仲間入りをするようになったことは判明しているが、貧民出身であったことは強調されておらず、しかしその経歴から貧民出身だったと見てよい。
ハンス・フッガーが富裕層の仲間入りを果たす過程で、素性は自由保有地権をもつ農家ではない、その従事層の小作人だったと見てよいのは、当時よくあった、貧民から身立てするために都市に向かった口の、同じように大勢の貧民が集まっていたひとりだったと見てよいのは、このハンス・フッガーがツンフト(貧民たちが勝手に構築し始めた第三労働組合)から立身した筋であったことがはっきりしているためになる。
どの都市も常に貧民が大勢で溢れ、このツンフト(貧民たちが市政に対抗的に組織するようになった特殊労働組合)でも枠が限られ、その仲間入りをして市民に次ぐ生活権を確保するのも大変だった中で、そこから富裕層の仲間入りを果たすことは、さらに難しい話になる。
ただし、ツンフトの勢いが他よりも強まっていたアウクスブルクは少し特殊だった。
アウクスブルクではツンフト(貧民たちによる第三労働組合)が民権的な勢いを構成する形で、ギルド(市政公認の労働組合、つまり帝国議会の等族諸侯公認からの正規の身分制的な都市の産業労働組合体制とその謄本登録制)と対等な市政意見権を確保するようになった経緯について、説明していきたい。
中世に、どこも司教都市(聖属権威。公的教義体制の教区権威の統制権優先)から自由都市(皇帝都市。世俗権威つまり皇帝権・帝国議会の公認による統制権優先への鞍替え)に脱却するようになった際に、市参事会(各ギルドの役員たちで書記局官僚を構成していた市政・市庁)が等族諸侯扱い(小国家的な自治規律権の格式が公認)されるようになったことは、何度か触れてきた。
15世紀末を第二次産業改革期とし、その第一次産業改革期を向かえた13世紀頃に、どこも司教都市(聖属権力の法・統制権優先)から自由都市(世俗権力の法・統制権優先)への鞍替えをどこも始めるようになると、それまでの教区(聖属権威)の聖堂参事会(下々に対して)の教義権力的な施政序列統制権は弱まり、今まで教義権力の支配力と連携してきた都市貴族(パトリシア。正式な貴族ではないが貴族層との交流資格をもっていた庶民側の上級国民的な貴族風紀委員会)の統制権も弱まるようになる。
アウクスブルクでは、ツンフト(貧民層からの民権)が他よりも力をもち始める形で市政に介入し始めたことで、今まで都市で優位性を保ってきた都市貴族(パトリシア)の施政支配権威(下々に対する序列統制権)は、切り崩される(旧態序列が通用しなくなってきた)形で弱まることになった。
ツンフトが施政権(=議席権獲得=民権力)をもち始めたこの流れは、かつて司教都市から自由都市(皇帝都市)にどの都市も鞍替えするようになった際に、ギルド(で構成していた市参事会・市政)が支配層(司教権威に渋々合わせていた聖堂参事会、都市貴族、そして貴族)に条件を突き付け始める形で施政権をもち始めた順繰りであり、つまりそのように力をつけ始めたそのギルド(で構成していた市参事会・市政)に対し、今度はその下のツンフト(貧民たちの第三労働組合)がギルドに条件を突き付け始めるようになったという、民権史的な自然な流れだったといえる。
ギルドの役員たちで構成されていた市参事会(市政)がまず力をもち始めた(等族諸侯扱い=小国家扱い=帝国議会で許容する一定の自由的自治統制権が公認されるようになった)ことで、都市で市民権(謄本登録)を有する労働層と、それと連携していた農地で自由保有地権(謄本登録)を有する労働層の、この層の実質の格上げとなったことは、その隷属従事の貧民層との格差収奪関係がますます拡大していくことを意味する。
都市(産業社会)の正規(労働組合による謄本登録・生活保証権を得ていた)市民層がキリスト教社会の中で、産業面での資本力を身につけながら今までよりも施政権的な議席地位を獲得するようになった(貴族権力と聖属権力から要求される納税義務・賦役義務に見合った、上に対する議会改革的な代替交渉権を突きつけるようになった)からこそ、その労働層(有力市民・有力農家)に隷属させられ続けてきた貧民層も、同じようにその労働層に対して民権的な運動を起こす形で条件を突きつけるようになったのが、ツンフト(貧民たちが規制を破って勝手に組織しはじめた第三労働組合)になる。
都市貴族(パトリシア)は主に、その都市の富裕層(庶民の中の有力市民・資本家)の中から、貴族品性が見出されながら会員構成がされていた。
中世の第一次産業改革期に、産業社会側の法の整備が間に合わなくなり、旧態法のままの司教都市(公的教義の権威主導)から、どの都市も条件交渉の自由都市(皇帝権主導・法の世俗化)に鞍替えするようになったことは、何度か先述してきた。
以後も都市貴族(パトリシア)は、市参事会と並ぶ都市政治の発言権(施政権)の議席は表向きは有していたはずだったが、アウクスブルクではツンフトによる突き上げが他よりも強かった影響で、旧態的(教義権力指導的)な都市貴族(パトリシア)の権威が崩れるのが他よりも顕著になっていた。(12世紀~13世紀頃までの司教都市時代では、教義権力主導の教区の聖堂参事会と強く結びついていた都市貴族側が、市参事会側・産業組合側を従わせていた力関係だった)
庶民と貴族の間の交流役でもあったこの都市貴族(パトリシア。貴族風紀委員会)が、
「もしかしたら貴族の仲間入りができるかも知れない(庶民の中の有力層が、男爵や伯爵の資格を得られるかも知れない第一歩)」
であったため、都市の有力市民や、都市と連携していた(同じ教区の管轄下だった)保有地農家の中の富裕層をこの都市貴族(パトリシア)の仲間入りさせる(会員資格を与える)ことで、庶民側の有力者を半貴族扱いに懐柔しながら、それまでは貴族権威と聖属権威の連携で、庶民の自治的な施政・統制権との均衡を維持していく形が採られていた。(しかしアウクスブルクではその形が崩れていくのが他よりも顕著だった)
ここで面白いのはこのフッガー家は、ツンフト筋から富裕層(資本家・有力市民・メーラー)の仲間入りをすることになっただけでも難しかった中、とうとう都市貴族(パトリシア)の仲間入りまでしてしまった所にある。
ただし、フッガー家がいくら大手資本家の有力市民(メーラー)だったとしても、ギルドよりもさらに民権性(下の中のさらに下からの突き上げ)を強めて旧態身分制(教義権力)に遠回しに逆らう(下同士で下を作り合わせてねじ伏せ合わせるための、低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合いを強要し続けた旧態身分制に反抗・慣習破りし始める)存在だったツンフト筋出身を、都市貴族(パトリシア)にすぐに仲間入りさせる訳にもいかず、少し時間がかかっている。
ツンフト筋から富裕層化したフッガー家も、やがて都市貴族(パトリシア)の仲間入り(正式な貴族交流資格をもつ、アウクスブルクでの上級市民扱い)を果たすようになるが、これ自体が、いつまでもダラダラと続けられていた時代遅れの旧態身分(教義権力)制が崩壊し始めていたことを意味し、上から下までの身分再統制(議会改革)による見直しが迫られていたことを象徴していたといえる。
ツンフト出身筋が(フッガー家が)都市貴族(パトリシア)の仲間入りをしているなどという、慣習破りもいい所の下克上のような社会現象が起きていた時点で、アウクスブルクでは庶民と小貴族との施政権(自治的統制権)の境界が(特に下々に向けられてきた今までの表向き主導の低次元な教義権力が)半壊していたといってよい。(=国政単位の議会でそこを整備せずに放っておいたら、貴族層が管理するはずの庶民政治側の資本管理・税制権を庶民側の有力層が握り始め、地域間で閉鎖的な正しさの押し付け合いの乱世の原因にもなりかねないからこそ、15世紀末には前近代的な議会改革が求められるようになった)
15世紀末までのキリスト教社会の時代変容(= 教義権力任せのままダラダラやってきた旧態慣習の自然崩壊 = いい加減に選任人事の敷居の前近代的な議会改革・身分再統制による見直しをしなければならなくなってきていた事態 )の激しさは、このフッガー家がそれをよく象徴していたのである。
15世紀末の第二次産業改革期(経済社会の前近代化。多様資本交流社会化。異環境間で個々を尊重し合うことも大事だという人文主義のきっかけ)を迎え、前近代的(総力戦体制的)な国際情勢(情報・技術・文化の多様交流社会)が認識(等族人事選任意識)され始めていた中で、ツンフト筋から富裕層の仲間入りをしたフッガー家のような旧態身分破りも見られるようになったからこそ、いい加減に聖属議会側(教皇庁)も世俗議会側(帝国議会)も、大掛かりな身分再統制(議会改革・人事敷居の仕切り直し)に動かなければならなくなっていたのである。(ネーデルラントはより顕著だった)
この前後経緯(時系列)がしっかり理解できていないと、のちカール5世時代に起きたシュマルカルデン戦争(プロテスタント都市同盟一揆)の鎮圧後( 1550 年代 )に、今まで帝国議会に非公式に(正式な認知など受けていなかったまま)維持され続けてきた「言い分が認められないからといって、都市同盟の反抗運動で議会を乱そうとする温床」と見なされたツンフト体制は一斉に解体させられることになったこと、そして弱体化が目立っていた都市貴族(パトリシア)権威も、議会改革の一環として仕切り直す(身分再統制する)意味でその回復(公務吏僚化の敷居の再確認)をさせることになった事情も、理解できなくなる所になる。
当初( 1530 年)のアウクスブルク信仰告白の意見書が通らず(プロテスタント派という新たな議席的自治権が公認・認知されず)それを巡ってドイツの27都市がプロテスタント同盟で反抗する形のシュマルカルデン戦争に発展( 1540 年代)し、最終的に皇帝軍側(帝国議会側)に鎮圧されることになる( 1550 年代)が、勢力面でのプロテスタント派の旗頭といってよかったザクセン選帝侯モーリッツが、帝国議会(皇帝カール5世)といったん和解したと思われたが再び反抗に動かれてしまい(プロテスタント派として認めるのではなく人文主義派として、カトリック再統一の中での許可制の傘下に置かれかねない議決がされかけたため、再び反抗して同格扱いさせようとする動き)に出られ、これに帝国議会は手を焼くようになる。
この時期のスペイン王室(カール5世)は、度重なる対オスマン帝国、対フランス、対プロテスタントの軍事活動が続いたことによる軍費不足で苦しんでいて、その甚大な補填をアントーン・フッガーに押し付けて困らせていた。(次代フェリペ2世の重臣たちは、スペインの財政をガタガタにする一方に向かわせたカール5世のことを悪くいうこともできず、スペインから見れば外様のドイツ筋のアントーン・フッガーにその責任があるかのように、全て補填しなければならないかのようにやり場のない逆恨みの怒りを向けていたと見てよい。ここは日本の江戸時代にも共通している税制問題の件として後述)
モーリッツの反抗劇(ザクセン勢の反抗。ルターの出身地であるザクセン州でもプロテスタント運動を強めていた地域が多かった)は長引く恐れが出てきて、これによって競争相手のオスマン帝国やフランスに付け入る隙を与えたくなかった帝国議会(カール5世)は、モーリッツと再度の和解(プロテスタント派に有利な条件をいくらか譲歩)をすることになり、これが大きく影響する歴史記念的なアウクスブルク宗教和議の宣言( 1555 年)で、とうとうプロテスタント派の存在を帝国議会が認知してしまう(自治統制権を認めるかのような)発表をする。
こうした前後の流れから、カール5世時代の帝国議会の当初の計画としては、
教皇庁の首根っこを掴んだキリスト教圏の世俗・聖属両面の事実上の主導強国となっていたスペインによる、一強主義的なカトリック再確認主義(スペイン再統一=アラゴン・カスティリャ統合時のレコンキスタ・国土回復運動で掲げられて以降のスペイン地元の伝統主義)
で、教義問題も肩代わりする形でキリスト教社会全体の教義再統一を図ろうとしていたことがよく窺える。
シュマルカルデン戦争の終結(カール5世とモーリッツの和解)とアウクスブルク宗教和議によって、今まで帝国議会(世俗側の身分統制権)に公認されてこないまま「餓死者が大勢出るよりはよい」と150年以上にわたって非公式のまま黙認され続けてきたツンフト体制は、この時にとうとう解体(身分再統制)させられ(市参事会の再裁定で新参扱いでギルドに編入。品性秩序的に認められなかった旧ツンフト組は諦めさせる)、伯爵(大小の土地所有貴族。保有地権農家たちの支配者)たちや騎士修道会に属する小特権貴族たちの公務吏僚化を再認識させると共に、弱体化していた都市貴族(パトリシア)の施政権を回復(帝国議会が教皇庁の首根っこを掴んで教義権力を巻き上げる形の、教義権力主導から国政主導化)させた、までは計画通りだった。
プロテスタント派という新政党的(新議会的)な構築は当初は認めない計画だった(カトリック再確認主義のスペイン王室議会が認める訳がなかった)、つまりプロテスタント派たちを人文主義派という扱いに仕切り直し、それをカトリック内での枠の新参序列に収めようとしていたのは結果的にうまくいかなかったことが、前後の様子を見渡すと窺える。
カトリック再確認主義を強めていたスペイン主導の帝国議会の思惑通りに、カトリック再統一で全体を仕切り直すことができなかった、だからスペイン筋の重臣で固めていた次代フェリペ2世は、スペインが強大国としての威勢は(表向きは)まだ維持できていた 1570 年代まではプロテスタント派に議決権(議席人事)をもたせないよう、西方教会圏全体に向けて国威任せにカトリック一党主義で強く威嚇し続けるが、その維持も限界を迎えるとやがてポグロム(=非同胞文化排撃・虐待)を起こし始める。
1555 年のアウクスブルク宗教和議で、プロテスタント派はカトリック派と対等であるかのような曖昧な議決(下々は、その支配者が支持している派に従うという議決 = 支配者がカトリック派であることに納得がいかない従事層は、プロテスタント派の支配者に鞍替えしてもいいかのような、それで納得できないカトリック派の規定の身分制・裁判権から離脱してもいいかのような議決 )をカール5世が公表してしまうことになり、これがプロテスタント派たちの、のちの啓蒙国家的な運動に向かっていく第一歩となる。(だからフェリペ2世が、プロテスタント派に議席人事権など握らせないように、力関係任せに教義圏内の各国をカトリック派中心の議席人事体質を維持させ続けるための威嚇を強めた)
日本と西洋とでは経緯もその後も違いは多いものの、整理しながら見ていくと、下々についてと、聖属(教義圏内の教義敷居)についてと、また学術文化的な進展も、16世紀の身分再統制をきっかけに少しずつ前近代化に向かっていった様子は、時間差はあれど共通している部分も多い。
日本と西洋とで全然違うように見えても、1527 年のローマ劫略と 1571 年の比叡山焼き討ちで共通しているのは、次世代化(前近代化)の流れに直面していた中で聖属議会側(日本では朝廷側 = 国際交流外交と国内教義の管理人・等族指導者のはずである廷臣たち)が教義改革で国際対応することなど(日本も西洋も)もはや不能に陥り、いつまでも15世紀以前の時代逆行を持ち込み続け、ただ足を引っ張るお荷物機関でしかなくなっていた、そういう所はいつの時代も同じ教義権力の愚かさ・だらしなさの実態としてピッタリ共通している。
今まで威張り散らしてきた(合格・失格の基準=叙任統制権を握り続けようとした)身の程知らずの教義議会(聖属議会)側は、議会の次世代化の転換期(16世紀)には具体的(法的・制裁人事的)に世俗議会(武家政権側・手本家長側)の統制下に制裁的(格下げ的)に置かれる側になった(ただ下品で見苦しいだけの、人々を低次元化させるのみの教義権力がとうとう巻き上げられた=身分再統制された)部分も、ピッタリ共通している。
そこ( 世俗行政人事統制権と聖属教義人事統制権の敷居の明確化の前近代的国家構想 = 教義圏全体・国家全体の前近代的な軍事体制・産業体制・税務賦課体制・文化交流体制の議会整備力による国威・格式 )を今までうやむやに曖昧にし続けてきたのもいい加減に許されない、その黎明期であったのが16世紀の特徴になる。(戦国後期はまさにその縮図の器量比べによる序列再統制の世界)
20世紀前半ですら国際協約評犠牲(世界国際間で和解・健全化を前提とする異環境間・地政学観の敷居確認の文化交流)が中途半端にしか育っておらず第二次世界大戦で苦んだ中、そこがようやく少しは認識されるようになった16世紀では教義圏外で「同格扱いする必要などない格下」と見なせば、教義圏内での序列再統制(格下扱いでも同胞扱いしなければならない地政学的敷居が見直される=同胞のはずなのに下々に異教徒的な奴隷待遇扱いをしてきた地政学的矛盾への改革に少しは取り組まれるようになる)よりも厳しさを向け合った(それが当時のやむを得ない世界敷居競争=地政学的領域権の確保のし合いだった)所は、日本はともかくキリスト教社会とイスラム教社会では、16世紀に黎明期的にそこが強まったのも特徴になる。
大継承者カール5世(ハプスブルク家の当主。マクシミリアン1世の孫。ドイツ・オーストリア、ネーデルラント、スペイン、イタリア南部 の各国の王族領・身分統制権を継承する)の議会的な強調のされ方にしても、今まで装っていただけでできていなかった(最初で最後の)皇帝らしい皇帝の姿(キリスト教国家全体の前近代的な等族議会制のための絶対君主・総裁らしい姿)というものを、一度くらい立証しておかなければならなくなった(できなければならなかった)ことに、いい加減に上もそこに取り組むようになった(前近代的・等族指導的な議席序列人事の見直しをようやくするようになった)様子も、当時をよく象徴していたといえる。
15世紀末から16世紀初頭にかけて、ポルトガルとスペインとで航海力が競われながら、マデイラ島・アゾレス諸島方面(アフリカから西にある島々)での殖産貿易、地中海を介さないポルトガル船主導によるアジア(インドネシア)貿易、そしてスペイン船主導による新大陸(アメリカ)入植貿易がアントウェルペン(ネーデルラント)にもたらされて盛況し(ヴェネツィアに代わる西方教会圏の国際貿易の中心地と化し)、ここを中心に今までみたこともない大規模な証券・金融為替経済(大市)が促進されて各地にもその取引所が作られていった様子も、それを可能とする大継承者カール5世のような明確(強力)なキリスト教徒の全代表(総裁)がいなければ成し得なかった所も、当時をよく象徴していたいえる。
そこにタクシスによる郵便網の発達、グーテンベルクによる出版体制の発達がそれを後押しするように国際間の情報化社会が促進されるといった、色々なことが重なって激変していった社会観念に、次世代的(前近代的)に対応しなければならなくなった(プロテスタント運動にも関係していた)から、ますますカール5世のような強力な総裁(自分たちの教義圏の絶対家長)を改めて立てて、それで前近代議会的な選任序列に改めて仕切り直さなければならなかったのである。
スペインとフランスで顕著だった、身分再統制(騎士修道会・貴族議席の公務吏僚化の敷居の仕切り直し。前近代的な身分制議会の整備のための国内再統一。地政学的優先権確保のための国内総生産体制改革、軍兵站体制改革、税制改革)の力量で、西方教会圏(カトリックのキリスト教圏)全体の統制序列権(教義圏全体の身分統制権の敷居基準)を再確認し合う、前近代的な国威・格式争いをするようになった(今の日本の低次元な教育機関のように、議会の次世代化・前近代化に無神経・無関心・無計画な時代遅れの旧態権力をもち込み続け、いつまでも落ち度狩りや頭の下げさせ合いを続けさせようとする、列強から格下扱い的・制裁人事的に再統一されて当然の格下国家は教皇庁・ローマだろうが容赦しなくなった)上の変容に、下々はすぐに理解するのも難しく困惑するようになった様子も、当時をよく象徴している。
ここでフッガー家の話に戻り、富裕層入りとして初代と目されたハンス・フッガーが生きた14世紀中盤から後半にかけての時期は、まさに大ペスト(黒死病)時代の真っ只中だったことについても、説明しておきたい。
顕微鏡がまだなかった(目で確認できない感染の細菌学は19世紀後半まで待たれる)当時の医療界は、大昔の二大権威であるガレノスとヒポクラテスの人体解剖学でいったん大幅な向上が見られて以降は、それから1000年近く医療技術は進展しないまま中世の大ペスト時代を迎えることになる。
それまでキリスト教徒たちが医療面で依存してきたガレノス主義、ヒポクラテス主義が全く通用せず、教義体制も大ペストの恐怖の前に完全に踏みにじられた(聖職者たちが聖職としての職務を放棄、聖職禄もたらい回しにし始め、教会体制全体も大混乱を起こした)ことで西洋中が大混乱を起こした、そんな大変な時期がハンス・フッガーが生きた時代になる。
西洋全体で実に1/3の人命を奪ったといわれる大ペストは、上級貴族だろうが都市の富裕層だろうが貧民だろうがお構いなしに感染の猛威を見せ、身分に関係なく次々に死に追いやっていった当時の様子に、人々も
「富貴な者だろうが貧民だろうが異教徒だろうが、平等の死が待っている(死を差別しながら貧民たちを愚民扱いに教義権力でねじ伏せ続けてきた教会体質が崩れる)」
「死の勝利(新たなメメント・モリ。平等的な死が、人々の信仰の弱さを踏みにじる形で勝利した)」
と皮肉るようになり、この頃のできごとを題材とするキリスト教社会に対する遠回しの風刺物語(ペトラルカやボッカッチョといった風刺作家たち)が生まれるきっかけにもなる。(人文主義の走りといわれる)
ペスト感染者には近づいてはならないということくらいしか解らず、医学的には何が原因でペストに感染するのか誰も解らないまま、何ら教義指導もできなかった(今までの古臭い公的教義体制のねじ伏せ方では、医学的にも信用的にも健全化の効能など何ら示せなかった、その化けの皮が剥がれた)ことで皆が疑心暗鬼に陥り大いに錯乱し、治安も乱れに乱れた。
「原因は誰々のせい」だの、「その直し方やその魔除けの秘術に詳しい遠方の先生に、自分は伝授を受けた」だの、「こういう行いをするからペストに感染する確率が高まるから私を(私が知っている方法を)支持しなさい」だのと、実際はどうやって対処していいのかも誰も解らない中で、その対応の仕方などを巡って、金品や支持欲しさの聖職者気取り(善人気取り)の偽善詐欺師たちで溢れるようになる。
「皆を困らせて、自分だけ良い思いをしようとしているあいつ(キリスト教徒と敵対しようとする悪魔崇拝者)の仕業で、こういうことになった」と常に誰かのせいにののしり合いながら、利権争いや資産の奪い合いなどの殺人事件も含める騙し合いや疑い合いが横行し、治安も乱れに乱れることになった有様を、教区(公的教義体制)もろくに事態を収拾できずその取り締まりを投げだしただけでなく、中にはそれに便乗して聖職特権を悪用して詐欺を働く聖職者や、その特権を勝手に又貸しし始める聖職者まで現れる有様になる。
商業都市の中で、今まで有利な産業権・取引権を有していた有力市民たちや富裕農家でも、ペストに次々にやられて死者が続出するるようになる。(感染の約半数ほどはなんとか死は免れ、時間はかかったがどうにか自然治癒できたといわれる)
その間に産業活動が止まって流通上の混乱も起き、中には家族ごと死滅してしまった富裕市民や富裕農家の家屋に、貧民たちによる空き巣狙いも横行したといわれ、今まで表向き世俗側に権威を振りかざしてきた聖属(教区)も今までの教義体制(ただ逆らえば厳罰といっているだけ)で何ら対応などできず、ただただペストに感染するのを恐れて聖務(取り締まり)を放棄する有様だったことが伝わっている。
この期間は、やり場のない下々の怒りがユダヤ人居住区に向けられ、その中のキリスト教への改宗の強要を突っぱね続けてきたユダヤ人商人たちに対する残虐(ポグロム)行為が過熱し、コンスタンツ(バーデンビュルテンブルク州)とヴュルツブルク(バイエルン州)の2都市が特にそれが酷かったことが伝わっている。
地域差はあるがドイツ中でユダヤ人虐待運動が起き、本来はそれを止めなけばならなかった市参事会も聖堂参事会も、下々のその暴動をどこもやめさせることができず、荒れに荒れたといわれる。(ユダヤ人居住区の居住保証のために高額な税を支払わせていた市政は、その暴動を止めなければならない等族義務が本来はあった)
ペストの原因だと言われのない賠償がユダヤ人たちに向けられ、また追い出し運動などが起きてユダヤ人たちの苦しい避難行が起きると、一方でオーストリア方面ではそのユダヤ人難民たちの受け入れに寛容さを見せたため、その時にオーストリアに逃れたユダヤ人商人たちも少なくなかったことも伝わっている。
地域差も激しかったが、各地のユダヤ人居住区も散々のとばっちりを受けることになった 1340年代 ~ 1350 年代の人々の乱れはとにかく酷かったことが伝わっていて、しかし 1360 年代 ~ 1370 年代あたりになると、まだペストは猛威を振るい続けた中で苦しみながらも、その異変に人々も少しは慣れる形で社会自治的な落ち着きを多少は見せるようになる。
騒がれながらも人々の自制も多少は効き始めるようになったこの時期が丁度、ハンス・フッガーが富裕層入りのきっかけになる活躍が始まる頃になる。
西洋全体の1/3を死滅させたといわれているこの大黒死病(大ペスト)時代での犠牲は、今まで産業権を得ていた庶民の中の有力層も、何の生活基盤もない貧民も、平等に死に追いやったことで単純に考えて世帯家屋の1/3の住人を死滅させる形で、その分の空き家を作ることになった。(どの都市も農村も、今までにない遺体の急増に、その処理に苦労していた。遺体からペストに感染することを恐れた多くの聖職者たちが、その葬儀・埋葬の死別に大事な聖務を放棄して逃げ回った=教義崩壊)
そのため、都市施政のための納税にも関係してくる、市政が管理する戸籍謄本上も(産業権の継承や資産の相続予定で、大勢がペストで共倒れしたことに関しても)政治的に混乱するようになる。
市民権をもつ都市の有力市民層(市政から謄本登録を受けていた正規の従事層たち)、また保有地権をもつ農地側の富裕農家層(土地所有貴族・領主との正規の従事層たち)でも死者を大勢出し、大幅な人口減となったことで、それぞれ自分たちの家系を維持するための家族構成の再構築をしなければならない事態となった。
その際に中流・徒弟層の職場での身近な者から縁組で再構成していくことがされたが、人数的にそれでは間に合わずに、日雇い労働層や小作人層の貧民層からも人事選別的に「できるだけマシな者」という見方で穴埋めせざるを得ない、異例事態(良い意味でのやむを得ない、平民の間での身分再統制)をこの時に迎える。
衛生面でも医学面でも、現代よりもだいぶ未発達であった近代未満(19世紀まで)は、飢饉や疫病などが原因でなくても20代や30代で急死してしまうことも珍しくなく、特に中世では子ができても15才を迎えるまでに半数が亡くなってしまうのが平均だったといわれている。(日本でも、栄養状態が良くなかった戦国前期の16世紀前半あたりは15才までに亡くなってしまう率は半々だった)
地位に関係なく、飢饉や疫病でなくても都市の親方(マイスター。今風でいう社長のような立場。従業員である徒弟層を指導する長者の立場。労働組合の重役)でも子がいなかったり(いたが成人できずに亡くなってしまった)、ひとり息子やひとり娘の場合もよくあった。
貴族もそこは同じで、特に貴族の場合は同格の家系の縁談を、できれば格上の家系との縁談を求める意識がより強く、貴族資格のない平民の娘と正式に縁組(正妻扱いとして結婚式を)しようとすれば、貴族資格の剥奪対象となった。
貴族層と平民との事実婚は黙認はされていたが、正規の婚姻扱いはできなかったため、間に子ができたとしても表向きは認知されていない私生児扱い、家人扱いの待遇にしておかなければならず、その子以降の家系は別枠として、上級貴族から改めて貴族として正式に公認を受けない限り、貴族として扱われることはない世界になる。(日本の戦国終焉期頃には、上級武士の世界ではここは類似)
一方で都市部の親方の場合も、例えば親方同士、また取引交流のある都市間の親方同士だったり、また聖堂参事会や修道院の重役だったりの地位を気にした縁組ももちろん意識はされたが、産業体制を交流的に管理しなければならない立場だったことからそれだけではなく、親方から見て将来性の見込みあるお気に入りの徒弟の中から選んで、養子扱いに親方の娘や親戚を結婚させたり、また親方の息子に、候補生の徒弟の娘と結婚させるなども珍しいことではなかった。
ちなみに貴族の場合は、平民層のような現場作業的・生業的な業務などはしてはならず、それに反すれば貴族風紀壊乱と見なされ、貴族資格を剥奪される危険性があった。(領地経営のことや特権の取引契約や、業務代行をさせる手続きなどなら良かった)
貴族は、例えば自ら衣服を作ったり、また自ら植物を育てることや、他に著作や音楽活動にしても、それを生活費を稼ぐような目的ではなく、もっと政治的な大きな視野での指導的な生産研究のためだったり、学芸・技術研究や教養のための文化交流的な目的になっていれば問題はなかった。
フッガー家は、ヤーコプ・フッガーの時代にオーストリア王室(マクシミリアン1世)との巨額貸付の代替として、土地買いの権利と共に伯爵資格(土地所有貴族・領主の資格)も得ることになるが、貴族を名乗る家系と、商家を名乗る家系とで明確化しておけば、金融業務も含める平民の仕事をしていても咎められることはなかった。
伯爵資格を得るきっかけとなったヤーコプ・フッガーは、本人自身は貴族になるつもりはないと明言しながらフッガー会社の銀行業務その他、鉱山業や徴税請負などの事業を今まで通り続けることになるが、その重役であったライムント・フッガー(ヤーコプの甥。アントーンの兄)とヒロニムス・フッガー(ヤーコプの甥。アントーンの従兄弟)はフッガー会社を離脱して、以後貴族の家系としてそれぞれ小領主としての道を歩むようになる。
晴れて貴族資格を得た家系に、親類が商家をしていたとしても、貴族上層から別枠扱いにそこをしっかり届出し、そう認知してもらえれば何の問題もなかった。
ここは江戸時代の武士と平民の関係でも類似している部分になるが、こちらも中級武士以下は富裕農家や商家に親類がいること自体は何ら問題にならなかった。
中級武士との縁組も難しかった下級武士たちなどは、出生・死亡率の問題もあって、平民の娘との間にできた子でも、長男扱いとしての事前の正式な届出さえしっかりされていれば世継ぎとして認められたことは、西洋の貴族社会よりもそこはだいぶ緩かったといえる。(豊臣秀吉の後期型兵農分離を受けて以後の江戸前半の多くの平民たちも、元はどうせ名族の家来筋の半農半士たちという認識があった)
江戸時代中盤あたりから不景気と凶作が重なることが続いて士分特権も不安定で貧窮するようになると、兄弟が多かった下級武士の次男坊以下は、家禄の加増もますます見込めなくなる下級武士からの分家を望まずに離脱して平民(産業活動側)の道を歩む者も少なくなかった。(世継ぎ予定であった長男が急死してしまうこともあり、平民化した兄弟が呼び戻される場合もあった)
本題に戻り 1367 年にハンス・フッガーはグラーベン村から都市アウクスブルクにやってきたその翌 1368 年に、アウクスブルクでツンフト革命運動が起きたことが紹介されている。
その少し前の 1463 年にはフッガー家は、多額を扱う遠隔地間取引の商人ツンフトに移り、織布工から交易を本業にしている様子が窺える。
フッガー家では、事業を継承する予定だったヤーコプ・フッガーの兄たちが相次いで急死してしまったため、当初はフッガー会社の経営陣入りする予定ではなく聖界にいたヤーコプ・フッガーが 1478 年に還俗(げんぞく。聖属側から世俗側に戻ること)してフッガー会社の経営陣入りすることになる。(この時ヤーコプ・フッガー19才。マクシミリアン1世27才)
1484 年にフッガーもティロール(オーストリア。チロル)の銀鉱の、銀の先買い契約の多額取引に参加するようになり、当時はフッガー会社の当主ではなく役員のひとりであったヤーコプ・フッガーが、ティロールの銀取引を担当していたことが、マクシミリアン1世から目をかけられるきっかけとなる。
1490 年代になると、マクシミリアン1世に直々に目をかけられるようになったヤーコプ・フッガーを、ティロールの銀取引で優遇するだけでなく、ノイゾール(当時はハンガリー領。現スロバキアのバンスカ・ビストリツァ)の銅山の銅取引での斡旋も受けることになり、ヴェネツィアにおける銀・銅の取引相場をフッガーが独占し始める影響力まで与えるようになる。
マクシミリアン1世の治世時代に入る15世紀末( 1490年代 )は、多様資本社会化(とその情報社会化や文化交流化)が進み(特にネーデルラントで顕著だった)、帝国議会としても近代的な資本管理(と税制対策)もできなければならなくなってきていた。
そんな折に、ティロールの銀取引の交流の中にいた、うってつけのヤーコプ・フッガーを人事的に見込む形で、今までなかった近代的な国家銀行体制を建てさせるために、この頃からフッガーに資本力を積極的に身に付けさせる動きに出ていたことが窺える。(フッガーが遠隔地に銀行支店を設置して、今までなかった大規模な銀行業務を行い始めるのは 1510 年代)
アウクスブルクは14世紀後半にツンフト筋が地位(施政権・議席)を獲得して以来、経済景気に任せてツンフト筋の市民権の枠を拡大させていったまでは良かったが、15世紀末までに都市の有力者層が政治的に経済力を身に付ける一方になっていくと、ツンフトの枠に入れないままでいた大勢の貧民たちとの経済景気の恩恵の配分格差も開いていく一方になり、貧民とツンフトの同胞感に支障が出始めたため、そこに向き合わなければならなくなっていた。(資本力を身に付けた有力市民の資本家との従属関係次第であるかのような、そのさじ加減次第の相場観が下々の身分制的な生活権を決定するかのような資本社会化ばかり進んでしまったことが、今後の税制にも関係してくるプロテスタント運動の争点になっていた)
帝国議会の(ドイツの)国庫を支えられるほど資本社会が育ち始めて金融都市化していたアウクスブルクに、マクシミリアン1世は親睦交流に積極的に訪問するようになり、だからマクシミリアン1世はアウクスブルクの貧民たちに対しても、生活苦改善の対策に動くことも約束した。
マクシミリアン1世から何かと特別扱いを受けるようになってからのフッガー会社は、ヤーコプ・フッガーが主導になり始めていたが、1512 年に会社資産の総決済が行われて改めてヤーコプ・フッガーを当主に経営陣の名義も一新されると、ここからまさに、キリスト教社会全体のあらゆる資本相場を根こそぎ支配するかのようなフッガーの勢いが本格化したため、上の間で何が起きていたのか理解が難しかった下々は大いに動揺するようになる。( のち次期当主となるアントーン・フッガーがこの時に経営陣に参加。この時ヤーコプ53才 アントーン19才)
フッガー家は、その親類たち全員がそうだった訳ではないとは思うが、少なくともマクシミリアン1世に見込まれたヤーコプ・フッガーと、人文主義に肩をもっていたアントーン・フッガーのこの2人は、自分たちもかつては悲惨な貧民の一員だったことを、富裕層化してもその貴重な心がけができていた(本来の有徳思想がもてていた)優れた有望な人物だったと見てよい。
この2人はドイツでの良例作りとして、アウクスブルクでの貧民救済体制を大いに支援した一方で、フッガー銀行を介して行われた、当時の前近代化の大変さがよく解る強烈な資本管理政策でも
マクシミリアン1世の「教会財産(公共予算)巻き上げ大作戦」に協力したヤーコプ・フッガー
カール5世の「にわかな成金たちも含める各地の資産家たちからの、根こそぎの資本巻き上げ大作戦(資本相場のグレートリセット)」に仕方なく協力したアントーン・フッガー
の役目を見渡していくと、当時の大変さが窺える所になる。
特に後者(カール5世とアントーンの時代)は、前近代化の法の下地など全くなくこれからその整備をしていかなければならない、どこまでできるのかも未知数な中で、貴族(公務吏僚)を脅かすほど平民側の資本家たちが政治的な協約商人団を形成して資本力を付ける一方になってしまった(下が資本力で下の施政権と資本相場を握り始めて税制問題の基準をややこしくしながら、プロテスタント運動を助長した)ことへの、やむを得ないやり方だったといえる。(貨幣をもっている連中から国債・証券でかき集めたカール5世は、その債務を強引に踏み倒す形で、資産的な格差が開く一方だった貧民たちにバラ巻いた)
多様資本交流社会化(情報社会化)ばかりが加速していく中で、そこをできるだけ早く整備(議事録処理)していかなければならなかった、そこをモタモタやっている訳にいかなくなっていた中で、聖属(教義)議会側はその足を引っ張ることしかできなくなっていた、甚大な弊害にしかなっていなかったから、とうとう世俗議会側を本気で怒らせる形で踏み潰されたのである。
もっと説明したいことが山ほどあったが、1頁で収めようとする場合の字制限の都合で、今回はこれで区切ることにした。
次からはそろそろ、本題の本能寺の変に迫った織田信長の様子のことや、近世以降でどこも苦労するようになる税制問題についての説明をしていきたい。