近世日本の身分制社会(118/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか46/?? 2023/03/08

今回も、前回から列挙している

 ① 1558 と 1560 以降の16世紀後半からのフェリペ2世とジェノヴァ筋の資本家たちの時代

 ② 1558 と 1560 までの16世紀中盤までのカール5世とフッガー銀行(アントーン・フッガー)の時代

 ③ 1519 と 1525 までの15世紀末から16世紀前半にかけてのマクシミリアン1世とフッガー銀行(ヤーコプ・フッガー)の時代


を見渡していくと、皇帝マクシミリアン1世と銀行家ヤーコプ・フッガーが始めた最下層貧民たちの救済計画が見えてくる所について、引き続き説明していきたい。

15世紀末(中世末期。近世への転換期)までの最下層貧民たちはどんな様子だったのかについて触れていきたいが、まずは前後背景から整理していく。

 

皇帝マクシミリアン1世が最下層貧民の救済計画を始め、次期皇帝カール5世(マクシミリアン1世の孫)の時に対策に動かれることになった16世紀(近世)の情勢は、

 

 よそ(教義圏外)よりも自分たちの所(教義圏内)の方が、前近代的な規律(議会制)といえる総生産体制、軍兵站体制が自分たちの方が優れた高次元な議会(内外の情報技術文化交流における身分制裁判権整備・議事録処理が可能な政権)が確立できている格上側であることを示し合わなければならなくなってきた時代

 

 そのための等族議会制(法整備体制。身分再統制的・議会改革的な謄本登録制=時代に合った等族指導構想)を、まず自分たちの所(教義圏内)をまとめ(前近代化し)、外(教義圏外・世界の敷居)に向ける地政学的(教義圏的)領域権(現地産業権・関税権・貿易権)において強国の格上側か、強国の同格同士か、弱小扱いされて当然の格下側かをはっきりさせ合う調印のさせ合いの力量(総力戦・総生産力)の示し合いをしなければならなくなった時代


であり

 

 等族指導の手本(=議決性の手本=議事録処理・時系列処理・社会心理統計の手本=和解を前提とする異環境間の敷居確認の手本=人文多様・道義内啓蒙合理・道義外の整合の品性規律の計画=公正に受理と裁量をする側の人の上に立つ議席・等族諸侯・代表家長の手本=国家構想の手本)の示し合い

 

など皆無な今の日本の低次元な教育機関のように

 

 教義権力(ただの愚民統制=ただの劣情共有=ただ思考停止させ合うための指標乞食主義の強制)の挑発手口に頼り切っているだけの時代遅れの足並みの揃えさせ方(低次元な頭の下げさせ合い=下同士で低次元な下を作らせ合う)

 

では、

 

 下(最下層貧民たち)への前近代的な総所得的引き上げ(=下の生産経済技術の敷居向上=等族国家的な税制の見直しのための下の施政的な資本管理の謄本登録保証についての身分再統制)に対応できない

 

それでは

 

 下の人的資源の有効活用(=役割ごとの当事者的使命感をもたせる技術文化国家化=近代的総力戦体制化)に対応できない

 

すなわち、

 

 自分の所の教義改革(同胞として謄本登録保証するための国際協約評議性の基準・裁判権をうやむやに乱し低次元化・衰退化させ合うことしか能がない法賊は議会追放・格下げ扱い・異教徒扱い・奴隷扱いで裁く身分制議会。国際敷居の等族指導の見直し)も自分たちでできない(=何を以って同胞同士の助け合いの人文多様啓蒙合理の調整・和解・敷居向上なのかの議事録処理も自分たちでろくにできない)

 

 その等族指導(身分再統制・議会改革・国内再統一)が行き渡っていない危機管理能力の無さへの深刻さももてなくなっている、そこをうやむやにし合うことしか能がない低次元な臣民で溢れ返っている

 

こと自体が、そういう所にようやく少しは上の間で危機感をもち始めた時代が16世紀の特徴になる。(孫子の兵法の組織論で指摘。織田信長の時代の戦国後期の内戦はまさにその競争)

 

文化圏ごとの国際間(教義圏外間)の政権(議会)で、高次元側(強国)なのか、対等な同列扱い(強国同士)なのか、格下扱いされて当然の低次元側(弱小)なのか、まず教義圏内からその敷居の高低の深刻さに危機感が問われ始めた時代、格上格下を従える国力差、総力戦差の力量(国際議会力差)が、国際関係として問われるようになった時代になる。

 

16世紀の段階では今後どうなるのかの推察は難しいものの、その前近代的な黎明期を世界で見せ始めていた様子を、日本では織田信長がそこを重視していたと見て間違いなく、海外対策の重役(外務、海外運輸等の情報技術文化交流)の担当予定だった賢臣の羽柴秀吉と明智光秀もそこを認識、また織田信長がどんな海外対策を予定していたのかもこの2名は当然把握していたと見てよい。(本能寺の変がなぜ起きたのかを知るための手がかりの部分)

 

日本の幕末の19世紀に、近代化に向けて法(議会制・裁判権)のあり方が議論されるようになったその前身が16世紀にも起きていた、この大事な部分がしっかり説明されてこなかった所になる。

 

教義圏内(道義内。人文多様。業種内・教義内異環境間との社会心理的統計整理)をまずどれだけまとめられるか(=自分たちの明確な総裁の選任と、時代に合った各階層の序列の見直しの議会体制・議事録処理体制・身分的謄本登録体制が整備できるか)の意欲的な力量(自己等族統制力)が、そのまま教義圏外(道義外。啓蒙合理。業種外・教義外異環境間との共通整理)への敷居差(内と外を見渡せる調整力差・取捨選択の文化的な情報・技術の導入力差)として開いていくのは、現代の個人間・組織間・国際間でもそこは同じである。


世界間での異環境間(異教間)の文化交流(国際協約評議性の敷居確認)において人類は、20世紀前半(第二次世界大戦時代)までは、主導国の強国同士が、教義圏外を格下と見なし合いながら厳しさを向け合うことばかり加熱させ

 

 和解を前提とする異環境間の敷居確認 = 教義圏の内外のいずれも、外(異環境)同士で敷居確認し合い、良い所は見習い合い、時代遅れの自分たちの低次元な悪習は改善し合う = 平和的な国際協約評議性の文化交流で解決していく

 

ことに難儀したのが人類史の実際であり、2023/03 現在の本記述日から見てそんなに遠い昔でもない、つい 80 年前までは日本も、事情はどうであれその荒波(第二次世界大戦)に振り回されることになり、教義圏外間の国際協約評議性で和平的・文化交流的に解決していくことに人類は難儀してきた様子からも、軽々しい考え(道義内の異環境間の敷居確認もできていない低次元な落ち度狩りのみの、低次元な頭の下げさせ合い)でどうにかできる問題ではない簡単ではないことは明らかになる。

 

時代遅れの20世紀の教義権力ただの指標乞食主義の植え付け=ただの思考停止の植え付け=ただの劣情共有の植え付け=ただの愚民統制)をいつまでも21世紀にもちこみ続ける今の日本の低次元な教育機関(=裁かれて当然・格下げされて当然・粛清されて当然の、人の合格・失格を管理する等族資格・議決性などない身の程知らずの偽善者の集まり)と同じように、16世紀は日本も西洋も15世紀や14世紀以前のままの教義権力をいつまでも持ち込み続け、等族指導(教義圏の内外の文化交流の国際協約評議性)を阻害し続けた構図は全く同じである。

 

近代の前身を急に見せ始めた16世紀は教義圏外との議会的な国際敷居競争の意識(高次元な議会制の総力戦体制の敷居競争)が高まった、だから教義圏外間(国際裁判権の敷居・世界の敷居)のことをとやかくの前に、まずは教義圏内での異環境間の文化交流的な敷居確認(議事録処理)もまずできていない所(自分の所の国内再統一・議会改革・身分再統制もできていない所)に、上の間でようやく少しは深刻さをもたれるようになったのである。

 

20世紀でも難儀した教義圏外間の文化交流は、16世紀はもっと不慣れだった、だから格下と見なした現地の領有権・制海権・関税貿易権(事実上の現地支配権)のことで列強同士が優位性を築き合おうとする意識ばかりが17世紀以降よりもそこが黎明期的に加熱することになったのが16世紀の特徴になる。(一方で日本の16世紀は少し特殊だった)

 

神聖ローマ帝国側(西方教会・カトリック圏としての統合国家)もオスマン帝国側(イスラム教圏としての統合国家)も、さも究極的に国内整備(総生産体制・総力戦体制)ができているかのように(我が教義圏こそが世界教義の中心であるかのように)見栄の背伸びばかりしながら、その地政学的(教義圏的)領域戦が加熱していった。

 

そして互いに無理をし始め、19世紀以降の近代でもやってしまいがちな、富国強兵的な総力戦時代にありがちな「ウチはまだまだこれだけの余力があるのだ!」やせ我慢大会の消耗戦のけしかけ合い(相手の資本・資源を先に枯渇・債務破綻させることで、相手の国政を崩壊させた側が勝者であるかのような物量戦任せ)も歯止めがかからなくなっていくという、人類が今まで体験したことがない事態を迎える。

 

豊臣秀吉がその大変さを承知で、策謀的にわざと長引かせた唐入り(からいり。朝鮮出兵)における明軍との戦い(朝鮮半島が主戦場となった)も狙いはそこだったと見て間違いない。(今までの明政府のアジア主導国的権威の切り崩しが狙いの軍事工作)

 

陸路だけでなく、地中海やアフリカ北部の領域権を巡って総力戦で激突したキリスト教徒(神聖ローマ帝国)とイスラム教徒(オスマン帝国)が痛み分けとなった情勢を豊臣秀吉は、それを把握した上で(唐入りを)やっていた、そして豊臣秀吉の賢臣の増田長盛(ました ながもり)、石田三成(いしだ みつなり)、大谷吉継(おおたに よしつぐ)ら国策の参謀部も豊臣秀吉のその意図はよく理解していたと見た方が自然と筆者は見ている。

 

物量戦的(富国強兵的)な総生産力体制のための経済整備(議会体制)も国威・格式の力量として急に問われるようになった時代になった、だからこそ下の中の下まで、前近代的な人的資源の有効活用と税制のための総所得の敷居向上になるように、まずは教義圏内(同胞内・国内)での時代遅れの非国際文化的な旧態支配体質も改めていかなければならない、これは今後の総文化交流規律(新資本信用・新情報・新技術・学術的新発見等の多様文化交流社会化)の問題(議会の敷居)としても、取り沙汰できなければならなくなったのである。

 

この部分は、より具体的な近代化が求められるようになった幕末から明治前半にかけての日本の19世紀後半でも大いに議論された部分、何を以(も)って国民(同胞としての総国力生産的・情報技術交流的な助け合い)なのかの民力増強(民側と官側の妥当な権利)を巡って庶民側が、当初圧政的だった明治新政府に目を吊り上げて(旧薩長藩閥体制だと揶揄されながら)大揉めした(全国的に大規模な自由民権運動が起きた)部分であり、国会議事堂(=和解・健全化を前提とする国際的な民権言論の敷居確認のための、まずは民事産業面での裁判法の議事録処理をしていくための正式な場=官民整備は太政官任せではダメだとなった)が建てられるきっかけにもなった大事な部分になる。

 

それまで(中世まで)うやむやにされてきた、特に経済産業面(士分の行政官としての公務吏僚化)と軍兵站体制面(士分の保安官・指揮官としての公務吏僚化)の新たな法体制(兵農分離=官民再統制=新たな教義体制・新たな政権議会体制)に、16世紀になって急いで向き合わなければならなくなり(日本では織田信長の前期型官民分離をきっかけに、豊臣秀吉の後期型官民分離の身分再統制でここが急がれたのが顕著)、一方で学術文化的な発達(今までの迷信を覆す物理科学的発見による法整備や、新産業観念の税制的な新たな資本管理の芽生え)が目立ち始めたことに、すぐに対処するのも難しいものも多く17世紀以降にもどこもそこに難儀するようになる。


16世紀では、先に議会制(総力戦体制)を整備できていたオスマン帝国側(イスラム教統合国の代表スレイマン1世)が、その遅れに慌てて整備し始めた神聖ローマ帝国側(西方教会統合国の代表カール5世)をかなり押していた感が強かったが、それにあせって急激に強大国化することになった、実質ドイツの肩代わりを始めたスペインが懸命にそれを阻止することになる地政学的(教義圏的)領域戦は、互いに甚大な痛み分けで終わることになる。(地中海とアフリカ方面の領域を巡って激戦が繰り返され、互いに国政に支障になるほど莫大な戦費を消耗し合うことになった)

 

西洋のカール5世の時代も、日本の織田信長と豊臣秀吉の時代も、どこまで整備できるのか、また今後世界はどんな動きになっていくのかも予測するのも実際には難しかった。

 

しかしそこがどうであれ、とにかく次代たちに教義圏(自分たちの国家)を衰退(低次元化)させずに、今後も国際的(高次元)に自立自営・存続していけるようにするために「今できる限りのことを、できるだけ調整(今までの弊害禍根を緩和=議会改革=良例作り)しておかなければならない」と、少なくとも絶対君主制の黎明期(16世紀)では、誤解の弊害に悩まれながらもそこが懸命に努力された(上としての等族義務が再認識された)ことだけは間違いない所になる。

 

※※※ マクシミリアン1世もカール5世も、セリム1世もスレイマン1世も、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、それに対応しなければならない大変さの内々の苦慮は同様 ※※※

 

16世紀の西洋では、とうとう社会問題(プロテスタント運動)として取り沙汰されるようになった、抗議(プロテスト)の意見が通らなかった(その見通しが下々は訳が解らないまま、身分再統制の一環として貧民組合・ツンフト解体が議決された)ことから闘争(矛盾した時代遅れの旧態支配体質のままの教義権力への武力反抗)に発展した、奴隷同然の扱い(=格下の異教徒扱い)の生活苦を強制させられ続けてきた最下層貧民(弱者的立場から順に自由保有地権を剥奪されていった、市民権の獲得も難しかった庶民の中の格下の奴隷同然の格差収奪的な扱いを強いられ続けてきた者たち)の救済を巡る問題について、経緯から整理していきたい。

まず西洋は15世紀まで、かつては各領主(土地所有貴族・伯爵)に所属していた農村(農村部でのちょっとした商業市場も含む)の庶民たちは、天災による不作、疫病、不景気などが原因で定免税(じょうめん。検見・分量税への切り替えなどはされない下に容赦ない固定税)が支払えなくなると、

 その滞納を理由に農地の保有地権(生活権)を売り払って補填させることを強要(従わなければ異教徒扱い=さらに不遇扱い)

 それを手放させて、それを肩代わりした大手の保有地農家のいいなりの小作人(奴隷同然)として従わさせることを強要(従わなければ異教徒扱い=さらに不遇扱い=下の中で下を作らせ合う)

 一度小作人(奴隷同然)の立場となったら二度と保有地権(生活権)を取り戻せなくなり、市民権の獲得による再起も困難な下の旧態身分制を強要(事実上の生活権の巻き上げ。それに従わなければ異教徒扱い=さらに不遇扱い)

 下同士で下を作らせる(=下が低次元同士のままであり続けさせる)教義権力(今の日本の低次元な教育機関と同じ構図の愚民統制)の裁判権を強要(従わなければ異教徒扱い=さらに不遇扱い)


が続けられてきたのも、15世紀末の前近代的な多様資本交流社会化が顕著なると、いい加減にその旧態支配構図も弊害(=隷属しなければならない理由にされてきた古い借金の価値自体が、新たな時代の価値と全くかみ合わないものとなった=減価償却が進んでいない=身分再統制が進まない)ばかり目立つようになる。

 

この構図は日本でも、旧態慣習のまま室町前期に京(当時の中央文明都市。今の京都)の都市経済を支えさせ続けてきた荘園公領制(有徳特権領地)が時代に合ったものに改められなかった(同じように納税滞納を理由に、各荘園領地に隷属させられ続けてきた下の中の下たちを身分再統制しなければならなくなっていたが、全くできなかった)から、中央から崩壊させていくことになった問題(戦国時代の大きな原因となったひとつ)と類似している。

中央体制からの大崩壊は、全国的な閉鎖有徳化の惣国一揆の起爆となり、上(武家の棟梁・三管四職体制・手本家長側)が下(家臣団やその従事層)を施政管理する手本を果たせなくなる戦国時代(=あてにならない三管四職の国司・郡代らの司令権崩壊=その有望な有力家臣たちが地方を肩代わりでまとめる代表戦をせざるを得なくなる)の始まりであり、正しさの勝手な乱立、上から下まで勝手な上下関係の押し付け合いに歯止めがかからなかった、それを誰もやめさせられなくなって荒れに荒れたのが戦国前期の特徴になる。

中世末までにダラダラと続けられたこの、納税滞納やその他の旧態の勧善懲悪を引っ張り続けてきた隷属慣習は、室町ほどの豊かさの体験はまだでも経済成長は目立つようになった鎌倉時代でも、武家(武家の棟梁や上級武士に公認されていた士分)や小名(しょうみょう。名主・庄屋。織田信長の時代に身分再統制されるまでは有力武士団に仕える最小単位の小領主的な意味合いが強く、閉鎖有徳と結びついて乱暴になりがちだった)に所属していた隷属家人たちも、いつまでのその不遇身分から抜け出せないことに不満をもつようになり、待遇を良くするために別の主人に勝手に鞍替えし始めることも多く、そこに対する法整備(身分再統制)など進んでおらず慣習任せばかりだったからこそ、それを巡る揉め事もよく起きていた。(その拡大構図が、半農半士で溢れるようになった戦国前期の閉鎖有徳闘争=不健全化ばかりしていった惣国一揆)


日本の15世紀の正長土一揆(しょうちょう つちいっき どいっき)も、西洋の16世紀のプロテスタント運動も、いつまでも解決しないこの旧態体質(下同士で下を作り合わせる、同胞同士の低次元な落ち度狩りの挑発手口で下を低次元化させ続ける隷属慣習の愚民統制=教義権力の悪用=孟子悪用主義)が特に原因で、不健全闘争(=戦国前期)が大規模化することになったのである。(日本では浄土真宗がとうとうそこを抗議するようになる)

ここは現代でも同じ、人というのは見境が無いから信用を大事にせずに簡単に裏切ったりするのでも、節度がないから軽々しく方針や支持者を目先だけで鞍替えし始めるのではないことは、荀子・韓非子がその根本を指摘しているように

 和解を前提とする異環境間の敷居確認の手本の示し合い = 議事録処理・時系列処理・社会心理整理の手本の示し合い = 信用証書発行の手本の示し合い = 人文多様(個人利益尊重・貸方論)啓蒙合理(組織構想尊重・借方論)の調整力(議事録処理力=計画力・構想力)の手本の示し合い = 人の上に立つ側としての意見受理と裁量の主体性の手本 = 国際協約評犠牲(健全な民権言論)の競争意識があるといえる等族(序列階層ごとの適正)指導の手本

 

 うやむやにさせ合う、今の日本の低次元な教育機関のような環境(偽善)の低次元な頭の下げさせ合い(=低次元な落ち度狩り=低次元な厳罰強化=愚民統制)の挑発手口のいいなりのままにいつまでも居続けようとする

 

から、全体像的・構想像的な改善に向かっていかない(=育成理念など生じる訳がない=健全化・改善化していく訳がない)のである。(原因究明による改善が前提の議事録処理の手本の示し合いが議会政体でなければならないとする組織構想=荀子・韓非子の組織論)

聖属政権(朝廷社会)から世俗政権(武家社会)に主導が改められて以後も、中途半端に維持され続けてきたこの下の中に下を無神経・無関心・無計画に作り続けようとする原因(議決性など皆無に下を低次元化・衰退化させ合う、低次元な落ち度狩りの虚像の正しさを押し付け続ける)の旧荘園公領的慣習(隷属慣習・愚民統制)は、室町の足利義満時代をきっかけに日本が全国的に初めて大経済社会化を体験して以後、この旧荘園体質のまま今まで不遇扱いに押さえつけられながら中央経済を支え続けさせられ、豊かさの恩恵をまったく受けられなかった(どころか政府や資本家たちの不始末が招いた不良債権の一方的な押し付けまでされるようになった)隷属層が、いよいよ村単位の反抗(旧態身分制改め・裁判権改めのための一揆)を大規模化させる原因となって荒れに荒れるようになった部分でもある。(中央経済の大部分を今まで支えてきた荘園制=中央寺社の支えでもあった有徳公領をまとめられなくなって再起不能に崩壊させた大失態は、室町権力者たちだけでなく公的教義と廷臣たちの有徳管理責任・等族指導責任も重大。裁かれて当然。浄土真宗が遠回しに抗議するようになった部分)

日本の戦国時代に、特に解決(身分再統制・議会再統一・地方再統一・中央再統一のための手本家長らしい代表選出)しなければならなかった国内の深刻な課題のひとつがここで、これをとうとう解決・克服する貴重な流れ(=前期型兵農分離による庶民政治と公務吏僚体制の、官民分離の前近代的な謄本登録の手本)を作ったのが織田信長、そしてそこを引き継いで工夫しながら天下総無事(日本再統一)を達成したのが豊臣秀吉だったのである。(戦国前期にその危機を訴え、下同士の低次元なうちのめし合いをやめさせ始めた浄土真宗の影響も大きかった=他力信仰不足・啓蒙合理不足による教義崩壊に抗議)

中世までは、代表責任的・連帯責任的な施政(地域ごとで税制的に資産管理していく形にし、祭事の大市や開発などの地域振興を企画できるようにしていく庶民政治議会)で対応していくという、前近代的な等族議会制(近代化に向けての階層ごとの公務行政的な序列)が下同士の間では、日本も西洋も十分に育っていなかった。(上が遅々として議会改革・身分再統制・国内再統一で次世代化できない = 前近代的な産業法も発達していかない = 文化的な産業成長の妨げ)

近世(前近代時代=情報・技術・産業・軍事の世界意識交流化の時代)を迎えて、国内総生産技術力、公共事業力、軍兵站体制という国際的な敷居(=地政学的領域戦略・外交戦)に向き合わなければならなくなってきた中で、下同士で下を作らせ合って下同士で低次元な頭の下げさせ合いを強要し続け、情報・技術・経済観念の文化交流の発達を規制し続ける(人的資源の有効活用を遅らせる=次世代化を規制し続ける)、今の日本の非文明的な教育機関のような時代遅れの教義権力(愚民統制)で足並みを揃えていて、国際的(教義圏文化権威の競い合い)に通用する時代ではなくなってきた。

上としてもいつまでも旧態体質に頼ってきた(聖属側と世俗側の旧態叙任権力=身分統制権の見直しを阻害してきた)ことで、自分たちの課題を自分たちで解決(議会改革)できなくしていく弊害を上の間でも(世俗側も聖属側も)抱え続け、議会の選任責任も育たないまま、目先の経済権益を巡ってなまとまりのない二頭政治的(世俗側の上と下と、聖属側の上と下の4すくみ的)な大小のいがみ合いばかり、まとまりもなく(議決性など育てず)されてきたのが、中世(数物権威任せ・外圧任せの寡頭主義時代)までの特徴になる。

今の日本の低次元な教育機関と同じ、下同士での低次元な頭の下げさせ合い(=議決性・主体性・構想性の敷居確認をうやむやに低次元化させ合わせるための下同士の低次元な落ち度狩り)を植え付け、下同士で下を作らせて下に民権力(和解を前提とする異環境間の敷居確認の品性規律)をもたせない、上(今まで通り)に逆らえないようするためだけの教義権力(公的教義体質に仕方なく従ってきた教区の裁判権)すなわち愚民統制(=法整備・組織構想をうやむや=国際協約評議性をうやむや=等族指導のあり方をうやむやにさせ合う虚像の正しさの植え付け)方式で、非文化的な第三階層(下の中の下の最下層貧民)が維持され続けてきた。

西洋でのち大規模なプロテスタント騒動に発展する原因にもなった、15世紀末(中世末)までの

 市民権(謄本登録)を維持していた都市の市民たち、または自由保有地権(謄本登録)を維持していて、一定の施政権(選挙)に参加できていた、国民的な社会保障がされて相続権を保証されていた、蓄財可能側



 何の保証(謄本登録)も与えられず、市民や自由保有地農家たちの「面倒ごと(順述)」や「重労働(順述)」をわずかな報酬で支えさせ、施政権(意見提出権・投票権)など何も身につけさせないまま用済みになれば解雇が繰り返されてきた、下の中の下の奴隷同然の扱い(格下の異教徒扱い)同然を受け続けてきた第三階層(最下層貧民)側

という、教義圏内におけるこの時代遅れの旧身分構図(100年前や200年前の旧態社会時代の価値観の滞納等の利息的懲罰が、いつまでも下の中の下の隷属身分制の理由であり続けたことの、それに対して何を以って免罪なのかの有効性・失効性が曖昧なまま。日本で中央経済を支えさせ続けてきた荘園公領制の崩壊原因とかなり類似)がとうとう国際問題化(多様資本交流社会化の価値とまったく噛み合っていない=自力信仰・人文多様を一方的に否定し続ける時代ではないと認識)に挙げられるようになった。

まず西洋史では、前書き的、後書き的に農奴(のうど)や封建(ほうけん)という言葉が使われることが多いが、その言葉自体が当時の身分制議会(教義史・裁判権史・議会史)の様子を具体的に著(あらわ)す言葉ではないため、具体説明の方ではわざわざ強調的には使われない。

農奴時代(封建時代)とは大抵は、19世紀中盤あたりからどの国も慌てて近代化の具体的な整備を始めるようになるまでの、それまでの旧王政時代以前のことを大雑把に区別する言葉になる。

奴隷(制時代)のそもそもの意味も、教義圏内(同胞)と教義圏外(低次元と見なし次第、いくらでも圧政を向けてもよい格下扱いの異教)との区別を、教義圏内(自分たち)で改めて明確化(身分再統制=次世代化)もできないようでは話にならなくなった(=それも自分たちでろくに明確化できない時点で低次元な格下側の教義圏と見なされても仕方がない=そこに弊害疾患ばかりか抱えている低次元な教義圏が、地政学的領域戦の敷居の総生産体制・総力戦的兵站体制に対応できる訳がない)近世以降(前近代以降。16世紀以降)には、内外(教義圏内外の国際的な敷居)でそこが意識されるようになり、その意味も変容していくようなる。

 

まず内輪(教義圏内)でそこが大いに矛盾、つまり奴隷同然の格下の異教徒扱いの待遇のままでこれからもあり続けさせる下の中の下の規範が同胞のための規範だという、裁かれても裁かれなくてもそこが何も変わらない低次元な虚像(思考停止の寝言)の愚民統制方式がいつまでも裁判権・規律に残存(=プロテスタント一揆の原因がいつまでも残存)していること自体が、ようやく国際的に問題視されるようになり、

 

 「よそ(教義圏外・道義外・同胞外)をとやかくの前に、まず自分たち(教義圏内・道義内・同胞内)そういう弊害疾患の見直しも自分たちでろくにできずに欠陥ばかり抱え続けるようでは、高次元な外圧に対応できるだけの総力戦体制・総生産国力体制・情報技術戦体制など整えられる訳がない(=格下扱いされて当然)」

 

で仕切り直されて(身分再統制されて)いくようになった所が、近代の前身を見せ始めた16世紀以降の特徴であることが、まずは注意点となる。

 

15世紀末の資本多様交流社会化(人文主義の台頭)を第二次産業革命時代とし、いったん崩壊することになるその前身の13世紀の第一次産業革命時代から見ていく必要がある。

西洋では13世紀に、いったん物流産業社会化の急成長が始まると、各地の商業経済の中心地であった司教都市(司教座中心の公的教義体制・聖属議会・教会権力による公認優先)の今までの旧都市法では間に合わなくなり、経済権力を身につけるようになった各都市は、どこも司教都市から自由都市(皇帝都市。帝国議会・世俗議会・王族権力による公認優先)の基準による都市法に乗り換えるようになる。

 

都市(市政・市参事会)の経済権益の重要性(帝国議会に多額の臨時税を出資させる代替として優先権の格式を与える)が高まったことで、等族諸侯扱い(帝国議会の総裁である皇帝権による小国家扱い・小領主と同格扱い)の格上げが行われたことは、都市の代表である長老(市長)の選任権を維持していた都市の労働組合(ギルド)の構成員(役員)が、帝国議会(世俗議会)に対する意見提出交渉力・外交権が高まったことを意味する。

 

下の中の下(最下層貧民たち)までの施政体制の整備まで行き渡っていなかった中、市政に正規所属の謄本登録を受けていた、つまり市民権を得ていた都市労働者たち(ヴェネツィアが手本になっていた)だけが、全体の見直しも無しに身分再統制的な格上げが急にされてしまう事態となったことが、結果的に下同士の力関係の序列を強めるきっかけとなってしまう。(この構図が、祭事や公共事業への人種差別的な向き合い方を助長する弊害となっていた、だから救済対策しなければならなくなった深刻問題として後述)

 

15世紀末を第二次経済成長期とし、その第一次経済成長期だったといえる13世紀を迎えた西洋では、それまで庶民(貴族資格がない側)は貧富の差はあれど、下同士で横並びに同列化され続けてきたために、庶民同士の間での隷属(奴隷)扱いの格差も狭かったものから、その格差が強まり始めた時代であり、15世紀末の第二次経済景気期はさらにそれを加速させた時代だった、だからますます議会(都市の市参事会にしても帝国議会にしても)による対応も難しくなり、大規模なプロテスタント騒動に発展したのである。(教会改革が一向に進まないことが、その足をなお引っ張り続けていたことが深刻化した)

 

13世紀にアウクスブルク(バイエルン州の大きめの商業都市)も、揉めながら司教都市(司教公認都市)から自由都市(皇帝公認都市)に鞍替え(司教の司法判事の追い出しや交渉権提示による牽制)した時にも顕著だったように、司教権威(教区権威。下の裁判権を管理する聖堂参事会)の支配体制とそれまで強く結びついていた都市貴族層(パトリシア。厳密には貴族ではないが貴族交流で連携していた都市の有力者層。貴族風紀委員会)の都市支配権威は、市参事会(世俗権力。ひいてはギルドの各役員たちの構成員)が権力を身に付けるようになって以降は、同列同格化し始めるようになる。(市政の等族諸侯扱い=小国家扱い)

一方で上の間でも、それまでは聖属教義の主導で世俗側に力をもたせない横並び政策の、似たり寄ったりだった貴族(王族)同士が、力をつけるようになった都市との経済的な目先の利権を巡る利害で無節操に複雑に絡み合い、帝国議会(世俗代表議会)でも教皇庁(聖属代表議会)でもまとめられずにいがみ合いも激化するようになる。

誰がキリスト教社会の強力な代表者なのかの選任権(議決権)を整備することにただでさえ難儀していた所に、権威(等族諸侯としての格式)を中途半端に強化し始めることになった都市がそれに横並び的に利害次第で闘争に食い込む形となったことが、中世の乱世に歯止めがかからなくなる原因となる。(だからこそ、自分たちの教義圏の国際議会的な代表といえる、等族指導をするための代表家長らしい強力な絶対君主の必要性と、そのための議会改革・序列の見直しの必要性も再確認されていくようになる)

皇帝(世俗の代表。キリスト教徒の王族の代表)らしい皇帝もろくに選出できなくなっていき、教皇(聖属の代表。キリスト教徒の教義管理責任者)の選出もろくにできなくなっていき、そこがうやむやなまま数物権威ばかり乱立していった14世紀には、目先の経済権益利害で等族諸侯間(貴族同士、都市同士)で荒れに荒れる乱世に歯止めがかからなくなる。

居ても居なくても同じ、皇帝の存在感(代表の選任責任のあり方)が大いに失墜する大空位時代、同じく居ても居なくても同じ、教皇の存在感(教義性の選任責任のあり方)が大いに失墜する教会大分裂という、自分たち(キリスト教社会)の代表を、いつまでも自分たちで議決性(選任責任)を以って決められないまま、権益次第でただいがみ合う一方だった 1330 年代あたりから、突如として天罰のような大異変が起きる。

その頃に、あの強烈な黒死病(ペスト)が、アラブ方面から西洋までの広範囲で猛威を奮(ふる)い始め、1350 年代の隆盛期を境に、西洋ではキリスト教徒全体の人口の1/3の命を奪う大打撃を与える。

黒死病の猛威で、今までのような経済活動といがみ合いの闘争どころではなくなったキリスト教社会は、黒死病の恐怖の前には教義の信念などちっぽけなものであった実態が露呈、教会が黒死病に徹底的に打ちのめされたことの、教会改革を自覚させるきっかけの良い意味で教義崩壊させる(化けの皮を剥がさせる)機会となった。(こうした当時の情勢を遠回しに風刺したペトラルカやボッカッチョの有名な著作が、のちの人文主義を形成していくきっかけとなった)

黒死病(ペスト)は16世紀でも時折再発して人々を苦しめ続けたものの、15世紀に入るとそれまでの教訓が活かされて段々とその予防対策も強化されるようになり、再発しても14世紀のような壊滅的な蔓延は防止できるようになっていく。

黒死病(ペスト)で散々な目に遭ったキリスト教社会は、世俗権力(世俗議会。帝国議会)を破門(非同胞扱い・異教徒扱い)と戴冠式(世の中の正しさとやら・叙任権)などという今の日本の低次元な教育機関と同じ猿知恵(思考停止・愚民統制)の挑発手口で操り続ける側だった聖属権力(聖属議会。公的教義体制。教義権力)の化けの皮が決定的に剥がれる形で、良い意味で教義権力を衰退させた結果となった。

 

下であるほど厳しいばかり(ただ上に甘いばかり)の、下ほど厳しい制裁が死後も課されるとしているだけの、従い続けても下の中の下の生活面・健全精神面の両面の敷居向上的な救済(等族指導)など皆無なただの暴力教義(ただの思考停止・ただの劣情共有・低次元な頭の下げさせ合い)というのは、危機的状況に何ら効力などないことがはっきりしてしまえば体制崩壊していくのも当然なのである。

だからこそ世俗側は上の間で、今までの聖属側のまやかし(今の日本の低次元な猿芝居劇場の教育機関と同じ叙任権=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有=ただの愚民統制=議決性など皆無)の挑発手口(思考停止させ合いながら劣情のいいなりにいがみ合わせる猿知恵)に対策し始めるようになり、キリスト教社会のこれからの体制を見直していく流れを作っていくことになる。

等族指導(国際協約評議性といえる議事録処理・時系列処理の手本=人文多様と啓蒙合理の整理の手本=人の上に立つ公務吏僚の手本=国家構想)のあり方の改善などろくに見られない、世俗側に力をもたせさせない旧態通りを続けさせようとしているだけの、低次元な頭の下げさせ合いを強要し続けているだけの教義権力(旧態慣習・寡頭主義=ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)は、大黒死病のような国家危機に何ひとつ対処できなかったこともはっきりした。(司教や高位司祭らが黒死病から逃げ回り、聖職を職務放棄していた有様だった=司教座・教区の治安的身分序列管理義務を放棄していた有様だった=聖職禄のたらい回しが横行した=口ほどにもない教会の軟弱な信念が黒死病に完敗したことの決定打となった)

それと同じで、次々に新たに浮上するようになった、今まで無かった経済権益(関税権や優先権や税制などの世俗議会側)を巡るいがみ合いも、時代遅れの教義権力(公的教義体制)のいいなりのままに過ごしていても解決する訳がない(その流れを活かした強国化ができる訳がない)ことも、露呈していく方向に進んでいく。

15世紀以降も権益を巡るいがみ合いは続くものの変容するようになり、それまでのような、キリスト教社会としての統制力(教義圏の主導力)を失っていくばかりの低次元な横並び政策(代表家長らしい強力な総裁の選出=選任力=国家戦略=等族社会化がいつまでも明確化できないまま=大空位状態のまま)であり続けることが、いい加減に問題視されるようになっていく。(マクシミリアン1世の時代と、その先代のフリードリヒ3世の時代の15世紀後半で顕著)

上の間ではキリスト教社会全体を、議事録処理(議会の謄本登録・身分再統制・議会改革)で時代に合った等族指導(貴族側の公務指導のあり方の議席序列を見直し)をできるようにいい加減に誰かがしなければならない、そうなっていないことにあせり始める、そのための絶対君主的総裁(等族指導のための国家元首の選任責任の議会的な明確化・名目化・誓願化が大事だという部分が全く説明されてこなかった、絶対王政の元々の意味)の必要性が、15世紀には再認識され始めるようになる。

13世紀に体験した物流経済の資本産業的な発達で、法(議会。聖属も世俗も)が対応できずに欲望ばかり煽り合って崩壊させた教訓が活かされる形で、揉めながらも、今一度のその再生となった第二次経済隆盛の15世紀末を迎えることになる。

かつての教訓が活かされる形の遠隔地間商業(都市間の資本家同士の異環境間交流。多様商業活動協約商人団。シンジケート)をきっかけに、周辺の小貴族たち、教区の聖堂参事会たちもこっそり慣習破りしながらそれを便宜し始める資本多様交流社会化(人文主義=自力信仰。個々の尊重を大事にさせない今までの他力信仰一辺倒・教義権力一辺倒への抗議的経済運動。日本は真逆)の15世紀末を迎えると、表立った教会改革の意識が芽生え始めるようになる。(地域貢献に出資してくれる遠隔地間商業交流を、教区の聖堂参事会が便宜し始めるようになっていた時点で教義崩壊していたも同然・旧態身分制が崩壊していたも同然だった)

教会改革の意識がとうとう表立って芽生えてしまったその時点で、今まで解った気に調子に乗りながら(議決性など皆無に思考停止しながら)ケンカ腰に偉そうに説教してきた教皇庁(西方教会の聖属議会・公的教義体制の総本部)が、今度は全キリスト教徒から遠回しに上(司教側・教区長官側・聖属議会側・公的教義体制側)は何をやっているんだ!」と説教(プロテスト・抗議)され返される側に、立場が逆転し始めるようになったのである。

何ら議会改革(等族指導)の手本の示し合いなどしてこなかった旧態通りのまま、世俗側に対して低次元な横並び政策(下同士で低次元な頭の下げさせ合いを強要させ続け、世俗側の上から下まで議会力をもたせ続けない愚民統制)のための低次元な叙任権(各司教・各教区の公認権)を強制し続ける(議決性など皆無な不良債権を押し付け続ける)ためだけの旧態聖属権力(教義権力)もいい加減に許されなくなる、今の日本の低次元な教育機関と全く同じ猿知恵(議事録処理の議決性をうやむやにさせ合うための劣情共有)の挑発手口もいい加減に通用しない時代を、16世紀にとうとう迎える。

遠回しの慣習破りといえば、ポルトガル王室自体が14世紀末から外来(教義圏内の異環境間)の資本家たち(イタリア・ジェノヴァ資本家筋。のち南ドイツ・アウクスブルク資本家筋も参加)と国際文化交流的な資本提携を結ぶ形で航海事業に熱心になり、まずはマデイラ島、アゾレス島での殖産事業の大成功で、資本面・技術面・情報面・議会面で大いに国力を強化するようになり、その貿易商業のうってつけの適地とされたアントウェルペン(ネーデルラント南部。今のベルギー。ヴェネツィアに代わる西洋の国際貿易中心地に変貌)も文化的(国際交流的)な多大な商業景気の恩恵を受けるようになったことからも、まずはポルトガルが今までの異環境間の旧態閉鎖的な壁を先駆けで壊し始めるようになったことが、顕著だったといえる。

西洋で先駆けで航海技術向上に熱心になり、地中海つまりヴェネツィアを介さないアジア貿易の航路開発をとうとうポルトガルが始めてしまったことは、今まで西洋とアジアの間にいた、アラブ方面のイスラム教徒が遮断してきた世界間情報技術の敷居確認を道を、とうとうポルトガルが切り開くようになったことを意味する。

ポルトガルが15世紀末までに、西洋での世界間情報交流の国際交易市場を独占し始める一方になったため、同じイベリア圏の隣の強国スペイン(アラゴン・カスティリャ統合国家)もそれにあせり、スペインも慌てて航海事業競争に乗り出す。

16世紀初頭にはポルトガルとスペインの航海探検競争の新情報が西洋に次々ともたらされるようになると、その世界間の敷居に何ら対応などできない、それだけの国際協約評議性(まずは教義圏内における国際裁判権の手本といえる議決性)などもち合わせていない、それについていけるだけの知能(議決性・主体性・当事者性)などない今の日本の低次元な教育機関と全く同じ教皇庁(だらしないただの閉鎖有徳。ただの愚民統制機関)の化けの皮はより剥がれる一方となった。

15世紀末には、イベリア方面で強国化が目立つようになったポルトガルもスペイン(アラゴンとカスティリャ)から見て、もはや何のあてにならない、自国イタリアの国内紛争もろくにまとめられなくなっていた低次元な格下もいい所のローマ(教皇庁)などにイチイチ合わせていたら間に合わないからの、独自のカトリック再確認主義(レコンキスタ=イベリア再統一がきっかけだった)で自国の教区も世俗議会側(スペイン王室)が議会改革し始め、強国化(=前近代的な、国内総生産体制と軍兵站体制の総力戦に対応、その指揮権を整備するための、国内の貴族たちと騎士修道会士たちの公務吏僚化=議会改革・身分再統制)をするようになったのである。

オーストリア王室(ハプスブルク家。ゲルマン圏の王族の表向きの代表格フリードリヒ3世)がネーデルラント公と国際協約連合化するようになり、そのオーストリア・ネーデルラント連合が、今度はアラゴン・カスティリャ連合と国際協約連合化(前代未聞の大継承者カール5世生誕のきっかけ)し始める動きを15世紀末に見せると、今までドイツの王族側と似たり寄ったりの力関係で皇帝権(帝国議会の統制権=キリスト教徒全体の統制権の基準の言い分)を争ってきたフランス王室も、今まで通りのことをしている場合ではないことに慌てる。

次代(カール5世時代)のために皇帝マクシミリアン1世が帝国議会の準備要領を整え始め(議会改革に着手。特に聖属議会・教義権力に対する牽制を遠回しに始め)皇帝権(世俗総裁権=キリスト教徒全体の身分統制権の手本)を回復させ始めると、フランス王室はそれにあせり、帝国議会(皇帝権)にどうにも逆らえなくなるほど権威(身分統制権の基準)を確立されてしまう前に、フランスも急いで自国の身分制議会(貴族の公務吏僚化の議席・地位の仕切り直し=皇帝権の強化後にフランスがそのいいなりにさせられないための対策)で強国化を始める。

一方で15世紀末には、イタリアの国内再統一もろくにできなくなっていた、イタリアどころか教皇領内すらまとめられずに内乱で乱れきっていた口ほどにもないローマ(教皇庁。時代遅れの思考停止の教義権力を振るうことしか能がない公的教義の本部)は、上(ドイツはともかくスペイン、フランスら強国の上級貴族たちや高位聖職者たち)の間では、もはや低次元な格下と見なされるようになっていた。(事情が複雑だったドイツはともかく、スペイン王室とフランス王室は国内再統一・議会改革・強国化ができていたのにも拘わらずという話。手本でなければならないイタリアの国際的な弱さをマキアベリが指摘していた)

乱れきったイタリアに、フランスが先手で介入に乗り出すことになる(イタリア再統一・議会再統一をフランスが肩代わりすることで、西洋全体の叙任権の基準の実権を握ろうとした)が、結果的にはオーストリア・スペイン連合がそれを阻止し、こちらがイタリア再統一(すなわち聖属議会・ローマの実権)を制する(皇帝カール5世時代の帝国議会が教皇庁の首根っこを掴む)ことになる。

 

14世紀の黒死病時代に聖属議会側(教皇庁・公的教義体制側)は大いに教義崩壊して以後、いつまでも教会改革などできずにモタモタとやっている間に、遠隔地間商業が聖属権威を遠回しに慣習破りするようになったように、世俗権威側(王室議会)もあてにならない聖属議会側など無視し始め、国家の存亡の危機感を以って立て直すようになった。

 

15世紀末の時点で、世俗議会と聖属議会の国際的な立場は逆転し、「教義への反逆だ!(異教徒だ!)」などという今の日本の低次元な教育機関のような非国際協約評議的(人文多様啓蒙合理の調整の手本など皆無)な寝言をほざき合っている情勢ではなくなり、今まで通りの教義権力(今の日本の教育機関のような低次元な頭の下げさせ合い)を無神経・無関心・無計画に強要し続けようとすることが、上の間で許されなくなってきた風潮が15世紀末の時点で既に強まっていたのである。

15世紀末に顕著になってきた資本多様交流社会化、通信社会化(報道的な小冊子を含む出版業の隆盛と郵便網強化=異環境間の敷居確認をしやすくする情報伝達の隆盛。タクシスとグーテンベルク)によって、遠隔地間商業で下の施政権を資本力(地域振興の協約出資)で牛耳り始めるようになった資本家協約団(商人団・シンジケート)の存在が、小貴族たちだけでなく王族たちの国庫に影響を与えるようになった。

 

目下の競争相手であるオスマン帝国(イスラム教国家)に遅れをとるばかりだった神聖ローマ帝国側(西方教会のキリスト教徒側)は、すっかり劣勢の立場になっていたことも、今まで通りのままごとみたいな低次元な叙任権の猿芝居式典をやっている場合でなくなってきていることは、上だけでなく下々も、そこに深刻さがもたれるようになった。

 

上の間でもいい加減にそこにあせりながら16世紀を迎え、身分再統制(旧態序列改め。敷居見直しの議席改革)による仕切り直しに着手、すなわち法体制(国際協約評議会)を改善化・明確化していかなければならなくなった中、ただそれを阻害しているだけ(低次元な頭の下げさせ合いを強要し続けるのみ)の旧式のままの教義権力は、完全なお荷物(=等族指導・議決性の議事録処理の手本・公務吏僚の手本など皆無=人に人文多様と啓蒙合理の国際人道観を教える側に立つ資格など皆無=身の程知らずは格下げされて当然でしかなくなっていたのである。

特に15世紀からは時代変容が激しかった西洋では、今までのキリスト教徒社会は、王族・上級貴族たち、高位聖職者たちだけがその主役であり続ければいいという訳にはいかなくなってきた。

 

日本の戦後復興の昭和後半から平成前半かけて一億総活躍的な経済社会化が唱えられるようになったように、16世紀に資本力的な国民総生産力がものを言い始める総力戦体制に切り替えられる議会の次世代化が(実際には簡単ではなくてもそれが)求められるようになると、今まで放ったらかされ続けてきた最下層貧民たちも、皆が国(教義圏)の文化的な生産技術の一端を担う主役でなければならなくなった。(同胞同士のはずの下同士で差別し合っていがみ合わせることばかりしてきた、低次元な頭の下げさせ合いに対する旧態慣習への緩和政策も、本来の上の等族義務として対処しなければならなくなった)

 

そんな意識の高まりが形として顕著に現れたのが16世紀のプロテスタント騒動であり、今まで教義権力が阻害してきた、今までは許されなかった新鋭の神学者(社会論者)や物理学者(技術者)や芸術家(文化人)なども、文化的な貢献になる成果なのであれば(これもどこまでできるのかは簡単ではなくても)これからは教義圏の敷居の問題として許容・容認・公認・奨励していかなければならない時代として、17世紀よりも強く意識された黎明期だったのが16世紀の特徴になる。

 

今回は、最下層貧民についてもっと触れた説明をしたい所だったが、まずどんな時代(社会心理)だったのかが解らないと筆者のその説明も理解できないと思ったため、今回もあえて全体像を重点的にまとめることにした。

 

今回は、最下層貧民の救済処置もなぜしなければならないのか、どんな事情だったのかの話で、次はその続きとして貧民の救済に視点を置いた様子についてまとめていきたい。