近世日本の身分制社会(119/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか47/?? 2023/04/07

16世紀前後の西洋と日本との相違点(異環境間・時系列間)を整理していくと、共に前近代(等族議会制の時代。近世)の転換期として、身分再統制(時代に合わない教義権力・旧態序列を見直し撤廃しながら、時代に合った前近代的な情報技術交流産業社会に変えていくための議会改革・人事序列改め・官民分離の、敷居の仕切り直し)しなければならない深刻さがもたれた、苦慮された共通点(社会心理)が見えてくる。

 

日本人だろうが西洋人だろうが「所詮は人間のやること」として、現代でも個人・組織・国家それぞれでどこかで大小の転換期が迫られる際の教訓になることも、自然に見えてくるようになる。

今回も全体像を整理していきながら、それまで不当に不遇に扱われ続けてきた大勢の最下層貧民をしなければならなくなった当時の様子に触れていきたい。

16世紀は西洋がひと足早く、日本でもしばらくして上の間で意識されるようになった

 国政全体(情報交流・技術交流・産業交流・税制の見直しの資本管理体制・軍備兵站体制に関する管理体制=内外の異環境間の文化交流にも対応できるだけの国際協約評議的な裁判権・身分制議会)の総力戦体制(議会改革・身分再統制)の敷居競争(国家構想がもてている手本家長の示し合い)が急に始まってしまった

 主軸国間での地政学的(教義圏的・文化圏的)領域競争(制海権・現地支配権・貿易権・関税権=現場での市場競争的な優先権・交渉権・介入権・身分統制権)の国際敷居が強まるようになった

 

ために

 総力戦体制(国家的な兵站軍制改革=小貴族・士分たちの階層ごとの保安官・指揮官の公務吏僚化)と、それを支えられるだけの国力総生産体制(内需と外需の産業改革・資本管理・直間比率的な税制対応=小貴族・士分たちの行政官の公務吏僚化)をどれだけ進められるのか(等族指導できるのか)

 

 異環境間で互いに良い所は見習い合い、悪い所は捨て合う文化交流の基本 = 道義内の人文多様 と 道義外の啓蒙合理 の議事録処理的・時系列処理的・社会心理的統計の手本の示し合いの基本 = 和解・健全化を大前提とする異環境間の国際協約評議的な敷居更新の基本 = 本来の文化的な施政評議性・選任性・議席の譲り合いの品性規律の示し合いの基本 = 大事な組織構想・全体像戦略をいつでも確認し合えるようにしておく基本

 

の見直しについて、今までなかったことを次々と体験するようになったからこそ、そしてこの先どうなるかの予測も難しかったからこそ、そういう所に「どこまで敷居向上・議会改革・国内再統一できるのか(特に下の中の下の敷居向上ができるのか)」について、ようやく上の間でも少しは深刻さがもたれるようになった。

 

戦国後期に織田氏と諸氏との間で、

 

 身分再統制する(=国際協約評議できる)高次元な格上の主導側と、身分再統制されなければならない(=国際協約評議などできたことがない)だらしない低次元な格下側

 

 天狗の鼻をへし折る高次元側と、天狗の鼻をへし折られる低次元側 = 精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまうだらしない低次元側

 

との力量差がはっきり開いていった部分であり、ここは現代における個人間・組織間・国際間の敷居(を認識・自己等族統制する力量)でも同じことがいえる。(荀子・韓非子の組織論、孫子の兵法の組織論で指摘されている部分)

西洋では、13世紀の物流経済隆盛期を迎えた際に、法(議会)の次世代が全く間に合わずに崩壊・失敗してしまった教訓が、15世紀末までに都市の有力者層の間で活かされる形で再起されることになった。(異環境間の敷居確認を皆でうやむやにし合い、それができていない弊害負担をただ押し付け合うだけの、低次元ないがみ合いを続けさせる教義権力の挑発・思考停止の手口に乗ってはならない人文主義運動)

遠隔地間商業(キリスト教の教義圏内の異環境間)交流の構築を始めた庶民側の中産階級たち(資本家ら都市の有力層の商人団が地域貢献施政のシンジケート結成・協約提携を始める = 産業社会側からの表立った人文主義運動のきっかけ = 産業社会の変容に法・議会が対応できていない間に、遠隔地間交流の一環として現地の開発や公共事業の出資をし始めたことで、庶民の中の有力層が下の施政権を掌握し始める)の間で、助け合わなければならないはずのキリスト教徒同士のはずで揉めてばかりいた所が、教訓として活かされるようになる。

 

15世紀末までには産業社会側では、揉めながらも協約評議的(敷居確認的)な和解(健全化)もしながらの今一度の多様資本交流社会化が目指され、情報社会化・技術社会化・経済社会化が顕著な、前近代的な文化交流的な成長期を迎える。(この時点で旧態任せの教義権力による下の旧態慣習序列は、もはや崩壊していたも同然だった)

上同士としてもいい加減に、今まで通り内輪(教義圏内)で低次元ないがみ合い(低次元な格式争い)をしている場合でも、下に対しても今まで通りの低次元ないがみ合いを続けさせる(下の中で下を作らせて下を低次元のままで居させ続ける)教義体質(今の日本の教育機関のように議決性をうやむやにさせ合う低次元な猿芝居劇場型の叙任・社会序列統制権=身の程知らずもいい所の時代遅れの旧態身分制体質)をいつまでも押し付け続ける(聖属側の低次元な教義権力の挑発手口の落ち度狩りで、世俗側の異環境間の敷居確認をうやむやに阻害し続ける)場合ではなくなってきている国際情勢(=人的資源の有効活用ができているといえる前近代的な総力戦体制・国内総生産体制のための等族指導の施政が下にしっかり行き渡っているのかのが問われる時代)になり、15世紀末には上の間でもそこに深刻さがもたれるようになった。

教義圏内外・国際間の敷居競争が黎明期的に強まり始め、近代の前身の国際裁判力(教義圏としての地政学的領域権・優先権)の力量が問われ始めた16世紀は、黎明期だったからこそどこまで改善できるかは解らない中でも

 

 「次代たちのため(自分たちの教義圏・国家を衰退させないため)に、今しておかなければならないことは今の内に、できるだけ良例作りをしておかなければならない」

 

ことに、上もようやく少しは取り組むようになった。(自分たちの教義圏国家の主導的な総裁らしい総裁を自分たちで明確化できているのか、そして各階層の各議席ごとの代表選任性の国際意識・等族統制がもてているのか、という所に危機感がもたれるようになったのが16世紀の絶対王政・等族議会制の特徴)

 

不健全闘争を繰り返した戦国前期と、段々と統計集約的に高次元化される議会改革(地方再統一・人事改革・組織構想としての序列敷居の仕切り直し)に向かった戦国後期との違い(それができていなかった戦国前期と、それをようやくするようになった戦国後期の違い)が十分に説明されてこなかった。


下の中で下を作り合わせ続ける非文明的な低次元な虚像(愚民統制)を、いつまでも下に強要し続けることでいつまでも時代遅れの旧態権力を維持(思考停止)し続けてきた時代は、とうとう

 

 前近代的な国内総生産力と軍兵站体制に対応できる人的資源の有効活用のための、意欲奨励と総所得引き上げになるような次世代的な等族議会制(官民分離。軍保安官と行政官の士分・公務吏僚の敷居の仕切り直し)

 

に早く改めなければならなくなったことで、旧態体質のままは許されなくなる(自分たちで地方再統一・地方議会改革による敷居向上もできていない時点で、その総力戦時代の力量比べに何ら対応などできない低次元な集まりであることを意味した)流れ自体は、「上から順番の格下げは必至になっていた」上の間では気まずさでとぼけていただけだったことも、ろくに説明されてこなかった。

 

1570 年代の段階で織田氏にその敷居差を見せ付けられる一方になっていた諸氏たちの間では、それについていけずに気まずいばかり( = 家臣団にその敷居の社会説明責任・国際指導責任が果たせていなかった = 織田氏から大幅に格下げ裁定されても仕方がない組織構築しかできていなかったことを部下たちに正直に打ち明けることもできていなかった = その時点で精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了する低次元な集まりでしかないことを意味した )だからとぼけていただけである。

 

 戦国終焉 = 低次元ないがみ合いを一斉にやめさせる = 国際協約評議性(和解・健全化を前提とする異環境間の敷居確認の裁判権・議席序列・謄本登録の公認体制)の等族指導の手本の示し合いなどできたことがないにも拘わらず、そこをうやむやに軽々しくケンカ腰になろうとする(人の上に立とうとする)身の程知らずの低次元な格下ども(閉鎖有徳ども・騒乱罪予備軍ども・家長気取りの偽善者ども)を上から順番に制裁(格下げ・身分再統制)する = 高次元な格上側の力量差(国家構想)を明確化する = 次世代的な武家の棟梁(世俗政権の総家長)を明確化する = 中央再統一 = 今後の地政学的国際敷居に対応するための政権議会の次世代化

 

本能寺の変が起きた 1582 年の段階ではもはや、次世代化が十分可能な構想(今後の国際協約評議性に対応できる旗本吏僚体制・経済社会大再生体制・等族議会制)が明確な格上(中央再統一をした)であったことは少なくともはっきりしていた織田氏から、まだ公認の支配下登録を受けていなかった(織田氏から格式の典礼を受けていなかった=官民分離の仕切り直しの身分再統制をまだ具体的に受けていなかった)格下の遠方諸氏(各地方の家臣団)たちは、織田氏の敷居に合わせるざるを得ない上から順番の総格下げを、皆が覚悟しなければならない段階になっていたのである。(本能寺の変で一時中断されてしまったが、誰かがやらなければならなかったそれを羽柴秀吉が肩代わりすることになったことも、上の間では渋々認識できていた)

 

西洋の議会改革においては、下々から(プロテスタント運動)によるその突き上げ(抗議)が激しかった部分は、日本では戦国前期の浄土真宗がそれに似ていたといえる。(世俗政権(武家政権)も聖属議会(公的教義体制)も、あまりにもまとまりが無さ過ぎたことに浄土真宗が見切りをつける形で、独自で(これまでの権力という権力に一切頼らずの決別 = 皇室・朝廷も一切巻き込まずに、新たな有徳自治権(議会力)を身に付けながら下々の救済活動を始めるようになった)

 

それまでは下々を失望させるばかりに荒れる一方の(地方再統一も中途半端にしかできなかった)世俗議会側は、浄土真宗が独自に始めた聖属裁判権(議決権)の再興運動に行政権(徴税権・賦役権と代替義務の基準)をかっらわれ始める事態に慌て始めるようになり(ようやく敷居競争するようになり)、戦国後期に織田信長がとうとうそれを上回る下々の大救済(官民再統制)で巻き返し始める。(織田信長が世俗・聖属に関わらず、荀子主義的・啓蒙合理主義的な敷居を上から順番に厳しく追及するようになる)

 

西洋の上同士の格式争い(キリスト教圏の主導強国としての明確化)において、国際意識(前近代的な国力総生産体制・軍兵站体制の議会体制の力量意識)で上同士で厳しくなり合うようになった所や、とうとう世俗議会側(産業管理側。西洋は人文多様側)が聖属議会側(教義整理側。西洋は啓蒙合理側)の旧態教義権力を大幅に格下げ(世俗権力が聖属権力も謄本支配下登録制度化=公的教義権威の名残りが強かったドイツの司教も、これからは皇帝総裁権の最終身分公認による等族諸侯扱い)するようになったように、今まで上が下にばかり厳しさを向け、同胞同士で下と見なし合ういがみ合い(相手が従うべき格下だとする既成事実作りのためのうちのめし合い=低次元化し合い)を強要し続けてきた教義権力構造はとうとう規制され始める(=今まで施政が行き渡っていなかった下の中の下に対する救済・敷居改善をし始める)ようになる。

 

上(公認する議席側・支配者側・管理指導責任側・手本家長側)もこれからは、下(従事層)にただ厳しくなるのでなく上同士でも、意見整理・提出・受理・裁量という議会的な法的手順( = 前近代的な敷居確認の品性規律の手本 = 裁判権の裁量ごとの議席序列 )など通っていない( = 各階層の議長に正式に認知すら受けていない = 等族議会制の規律が維持されていない )だらしなさから来る弊害の作り合いとその押し付け合いを始めるような、議会( 国際協約評議性 = 総力戦体制の組織構想の議事録処理 )を軽々しく乱し始めて周囲(序列・下)に甚大な悪影響を与える原因( = 等族議会制・国際協約評議性の選任責任・等族指導の議事録を確認し合う手本を、うやむやに壊し合い低次元化させ合おうとする風紀壊乱運動 = キリスト教社会を乱そうとする悪の異教徒扱いの法賊 )と見なされ次第、上に対しても手厳しい格下げ( 議席追放。等族諸侯資格や公務吏僚資格を剥奪。異教徒扱い的厳罰・非国民的厳罰 )を向けるようになっていく。( = 前近代的社会改革が目指された時代が近世。日本でも江戸時代前半にはそこが顕著 )

 

西洋では、そこが意識されて以降のプロテスタント啓蒙国家運動が17世紀以降も顕著になっていく(だからカトリック派としても、下々をこれ以上失望させないための国際意識の健全化を努力していくようになる)が、16世紀はその黎明期だったことと、今後どうなるか予測もしにくかった部分で、17世紀よりも危機感がもたれた時代になる。
 

本能寺の変が起きた日本の 1580 年代は、もはや身分再統制(次世代型の官民分離)の裁定を待つ側だった、織田氏の敷居に追いついていなかった遠方地方の有力諸氏たち、また同じくそれを待つ身だった旧中央関係者の廷臣たちが残された選択肢というのは、

 

 1 織田氏の敷居に観念しその準備要領を待つ、臣従せざるを得ない立場

 

 2 またはそれ(織田氏の敷居についていけない分の格下げ=織田氏が公認していない、公務吏僚の手本に見合っていないと見なされる地方の旧士分序列の剥奪・官民再分離)をもう少し緩めてもらうことの、何かしらの時間稼ぎも含める努力運動をするくらいしかない立場

 

だった中で「変」が起きた。

 

仮公認の廷臣たちも含め、大幅な格下げ(身分再統制 = 議席序列の見直しと家禄の再配分)は免れなかった者も多かった状況の中で、の意識を強めていた者は当然多かった、だから本能寺の変が起きてしまった経緯(社会心理)自体は決して不思議なことではないことが、しっかり説明されて来なかった。

 

戦国前期のような低次元な天下乗っ取り論が通用するかのような、前近代化(=身分再統制)の総裁(武家の棟梁)を巡る機運が少なくとも上同士の間では認識されていた部分が欠落した( = 戦国前期と戦国後期の違いが理解できていない = 何を以って戦国終焉・天下総無事なのかの前近代化が理解できてない = ただ外圧任せに威力でねじ伏せ合うことしか能がない今の日本の低次元な教育機関並みに思考停止している )視野で、かなり安直に「織田信長が殺害されれば誰が得するか」を当てはめようとする起因説が、いまだに軽々しく持ち込まれ続けている。

 

織田信長のおかげで文明強国化(近世化)に向かうことになった日本は、それまでアジア最大どころか世界最大級だった文明強大国の明(みん。中国大陸側)との力関係も、中世までのように日本はもう外交上で一方的に外圧を向けられる側(一方的に格下扱いされる側・認めてもらう側)ではなくなっていた。

 

アジア内としてのこれまでの、日本列島側と中国大陸側との国威・格式の国際交流関係の見直しを、日本が問い返す側になった関係は、西洋でもそれまでのカトリック主導強国だったスペインに、次第に国威・格式を問い返すことになるイギリス・オランダの、カトリック主導との決別(スペイン主導から離脱=プロテスタント独立運動)と、力関係の構図が類似している。

15世紀あたりまでは世界最大級であった中国大陸政府(明やその前時代のモンゴル合併国家)は、弱体化したというよりも、西方教会圏、ロシア正教圏、イスラム教圏、そして日本列島それぞれが、16世紀(近代の前身)らしい国際意識的な強国化(議会改革)が始まったことを境に、今まで開き過ぎていた文明力差もだいぶ縮まるようになった、といった方が正確になる。

ここから本題として説明したかった

 

 今まで整備(身分再統制)されてこなかった最下層貧民たちの救済対策が、ようやく議会で(プロテスタント運動で煽られながら)取り沙汰されるようになった16世紀初頭からの様子

 

に触れたいが、これは今後の税制改革(=前近代的な直接税・人文多様税・道義内体制課税 と 間接税・啓蒙合理税・道義外体制課税の整備)にも関係してくる

 

 等族議会化(前近代的な国力産業交流体制と軍兵站体制の議会改革・身分再統制)の刷新による、教義圏総活躍的な人的資源の有効活用の文化交流社会化

 

 文化的な情報技術交流を規制(愚民統制)し続け、下の中の下の社会構造が強要され続けてきた(前近代的な総国力生産体制の人的資源の有効活用を阻害し続けてきた)特に第三階層(最下層貧民)に対する、生活面・品性面・文化面・情報技術面全体における敷居向上対策


 そのための上(これからは公務吏僚の手本家長としての敷居確認の姿勢が求められる貴族身分・議会)の再整備(時代に合った下の施政産業管理体制・資本管理体制・税制整備体制・謄本登録体制)

 

 上の正式(法的・政権議会的)な公認・認知(仕切り直された身分制議会。意見受理と裁量の議事録処理・謄本登録保証)など受けていないような、今まで(中世まで)教義権力(低次元な聖属議会の慣習)で曖昧にされ続けてきた、今の日本の低次元な教育機関(猿芝居劇場)と大差ない手口の「低次元な落ち度狩りの低次元な頭の下げさせ合いを押し付け合わせ、下同士で下を作り合わせる」の、下を低次元化・衰退化させ続ける非文明的な旧態構図はいい加減に撤廃・緩和

 公共面も含める下の施政(民力的政治)の敷居向上(産業文化的な議事録処理の構想の品性規律)、すなわち賦役・賦課税(ふやく ふえき ふかぜい)体制の準備要領(文明的な公共事業力)も整えていく(そこを下々に等族指導していく)ための、上(貴族側・高位聖職者側・士分側 = 公務側 = 品性規律の手本家長側)の本来の議席・地位・序列の務め(等族統制)を確認し合いながらの、今後の国力総生産体制的(資本・情報・技術・学術等の今後の異環境間との文化交流社会化・法整備化・品性規律化的)な対策

 

に乗り出すことが、それがどこまでできるかは難しくても、できるだけそう変えていかなければならない課題(=今まで低次元な教義権力任せの施政管理しかできてなかったことに世俗裁判権側がとうとう問題視するようになり、地政学的な国際情勢に対応するためにも非文化交流的なだらしない旧態身分制に対する総見直しに動かざるを得なくなった)として

 

 「それができておらず(まず自分たちの所の前近代的な産業改革施政管理・税制対策もできておらず)に、内輪で低次元ないがみ合い(=議決性をうやむやにし合う旧態教義権力の押し付け合い)を繰り返すことしか能がない臣民で溢れかえっている有様に自分たちで深刻さももてずに、それを改めさせる(異環境間の敷居確認の等族指導をするための)代表家長の選任議会(国際敷居の裁判権)も自分たちでろくに確立(再統一・議会改革)できないだらしない集まり(国家・教義圏)など、自治権・統制権など認める必要などない低次元な格下扱いで構わん!」

 

となったのが16世紀(近世)の特徴になる。

 

日本でも同じことがいえるが、そこが整備されて来ないまま旧態税制( 旧有徳税と旧賦役強制権 = 公共環境整備性・産業文化成長性などないただ下を隷属させ続けるためだけの時代遅れの人頭税 = 低次元な税制 = 直接税と間接税の整備も自分たちでできない口ほどにもない低次元な教義圏国家)を、中世末(15世紀末)まで引っ張り続けられてきた。

 

例えば支配者層の所領(教区・修道会領の領地特権も)ごとの道路の通行税・物流関税に関することや、川の水を利用する際の灌漑工事(かんがい。農業用水路や生活用水路のための工事)の企画とその公共的権利や営利的権利、もっと小さな単位の地域ごとの水汲み利用の権利や、庶民間の倉庫などの共用地の権利、風車小屋の設置の権利やその利用権(風車小屋の水力で臼を回転させて、それで麦から小麦粉を作っていた)など、いわば不動産的・自然支配的な権利を、それまで上(各地方の貴族ら、高位聖職者ら)があまりにも古臭い教義権力支配に頼ったやり方から、なかなか切り離せられなかったことで

 

 従わなければ天罰うんぬん、異教徒扱いうんぬんの、議決性(前近代議会体制)がうやむやなままの教義権力が介入し続ける特権(旧態叙任権=教義の正しさとやら)が続けられてきた、時代遅れもいい所の許可制の足並みで各階層をうやむやに従わせてきた、あまりにも非文明的(非近代的)すぎるやり方が永らく続けられてきた

 

のも、15世紀末の遠隔地間商業の多様資本交流社会化を迎えるといい加減に限界に来ていた、上としてもそういう所からいい加減に見直しに取り組み、下々を少しずつでも敷居向上させていかなければならない所は、現代の組織性でも教訓にできることとして触れていきたい。

 

説明の要点が少し交錯するが、今風でいう自然エネルギーといえる当時の水車や風車を利用した石臼小屋は、重工業的な機械動力が用いられるようになる19世紀でもしばらく重宝され続けるが、それ以前はもっと重宝されながら、庶民は麦から小麦粉を作るために水車小屋でいつも行列を作って順番待ちするのが慣例になっていた。

後列の人たちは自分の番になることにかなり時間がかかることが解っていたため、その順番待ちの列に自分の麦袋を置いて、時間を見ながら他用に出かけていた。

石臼小屋には、信用ある管理者・番人がおり、列に置かれているその麦袋を誰かが勝手に触ったりする者がいないよう見張られていた。

 

勝手なことを始める盗賊団などが出現しようものならただちに領主に通報、武装した小軍団がその取り締まりに動き、犯人は捕まり次第にこの上なく手厳しい極刑、すなわち「交渉(敷居確認)の余地などない悪の異教徒扱い(=キリスト教社会と敵対して乱そうとする悪魔崇拝者扱い)」向けの裁判法が課せられることになっていたため、むやみに荒らそうとすることもそう簡単ではなかった。

石臼小屋(天然動力・自然エネルギー)の使用権は領主特権になっていたこうした一例は、特権側が使用料を課税させる代替として、その治安保証義務や、それに関する下の何らかの揉めごと(どういう場合はどういう規律になるのかが曖昧な部分)の調整(等族指導の義務。必要なら上層議会に確認)を果たさなければならなった。

 

神道文化があった日本は、自然を人間の都合でなんでもかんでも強引に手入れするばかりの考えだけではなく、共存で工夫していく考えも重視され、江戸時代に世俗政権としてより強化された徳川政権時代以降でも、表向きは寺社と供に自然を管理していく(藩領やその管轄の寺社領の森林を無計画に伐採しないようにするなど=土砂崩れや河川崩壊の原因になるため)形も採られていたが、キリスト教社会では特権層が天然動力・天然資源を支配・管理していかなければならない側だと先行されがちな所があった。(西洋にも風水学的な教えもあったが、キリスト教としての規律の方が優先されがちだった)

 

西洋では16世紀の議会改革(カール5世の王族連合時代の帝国議会による法の次世代化)をきっかけに、時代に合わない慣習と見なされたものは少しずつ整備されていくようになるが、この天然動力・自然エネルギーの権利のような、地域ごとで慣習が一貫していない閉鎖土俗がいつまでも残りがちな、教義圏全体(または国家単位)の評議(等族議会制としての議事録処理)に挙げられていないものは公共環境事業面での文化交流(教義圏内の異環境間の敷居確認)の弊害として、17世紀以降にも少しずつ取り沙汰されるようになる。(日本でも共通)

 

日本では、江戸時代の国替え(武家の棟梁である徳川本家による、加増・減封に関わらずの近世大名たちへの転封・領地替えの言い渡し)制度からも窺えるように、戦国前期のように閉鎖有徳(旧地縁序列)と結託して地方正規団ぶりながら、その地縁にしがみつきながら利害次第で(地方行政権そのものを)乱暴に私物化し合いがちだった(支配のための勝手な正しさの格上格下の押し付け合いを乱立させ合いがちだった=人の上に立つ前近代的・国家構想的な議席序列の施政管理側・公務吏僚側の手本をうやむやに騒ぎ合いながら、議会改革・地方再統一など進まないまま下々を煽って領有権の奪い合いと生活権の壊し合いのいがみ合いばかりし合った)天然的権利・不動産的権利は、織田政権・豊臣政権・徳川政権がそこを収容(集権化。政権の等族諸侯資格の裁量の公認制・謄本登録制による序列管理権利に整備)するようになった。(そこをとうとう次世代化させるきっかけを作ったのが織田信長だった=そこをうやむやに騒ぎ合い低次元にいがみ合うことしか能がない口ほどにもない人生の先輩ヅラ気取り・家長気取りどもの旧態権力を総巻き上げした=総償却した=身分再統制した)

 

西洋でも、天然資源的権利や不動産的権利について、中世までのように全て「キリスト教の教えによる苦難と恩恵の計らい」のみの単純な教義権力(世の中の正しさとやら)でただ片付ける(他力信仰一辺倒で思考停止し合う=低次元な落ち度狩りで頭を下げさせ合っているだけの低次元な足並みの揃え方)だけでなく、文明開化的な環境設備対策の公共交流事業化の議事録処理もしていかなければならない所に、16世紀のカール5世時代をきっかけにようやく少しは向き合われるようになる。(順述)

 

17世紀以降もプロテスタント派たちが、カトリック派たちにそうした整備が遅れている・時代遅れであることを物理科学的に煽っていた部分になるが、プロテスタント独立国家(=中央体質の公的教義権力への献納従事との決別=その首根っこを掴む主導国体質との決別)を強調するようになったイギリスのニュートンの輩出(王立学会の重役に抜擢)などはまさに好例だが、プロテスタント側はいわば「科学や産業の現実世界と、神学(規律・社会学)との関係」を、何でもかんでもという訳ではないものの現実主義に結びつけることで、多様許容化への壁を解決していくようになったのが特徴的といえる。

15世紀末までに「今までできていなかった」こととして、16世紀にキリスト教社会の明確な(等族議会制のための絶対君主的な)総議長(皇帝・総裁)のカール5世がどうにか立てられる形で、教義圏国家としての選任性(教義圏としての国際議会らしい体制・帝国議会の体裁)がようやく立証され(そうなるようにマクシミリアン1世が懸命に準備要領を整え)、これによって「揉めることはあっても議決を巡りながら」という前近代的な議会(議事録処理・謄本登録身分制)らしい形をやっと見せられるようになった。

 

16世紀のカール5世時代のこの「揉めることがあったとしても」の法(意見整理・提出・受理・統計的敷居確認・裁量)の次世代化の良例が全体的に示されたのをきっかけに、教義圏内(まずはキリスト教社会の中で)の人種文化圏ごと(ドイツ内ごと、フランス内ごと、ポーランド内ごと、ハンガリー内ごとといったように)で多様国際交流に立ち返られる法整備が、17世紀以降に顕著になる。(今まで各国議会の次世代化の足を引っ張り続けてきたのが教義権力=これからのキリスト教社会のための各教区の等族指導・教会改革など一切できないにも拘わらず乱暴だったからプロテスタント運動が過熱した=身の程知らずだからローマ劫略の制裁で格下げされるようになった)

 

15世紀末に多様資本交流社会化が進んだことで、教義圏全体どころか国家内(人種文化内)ですら基準が曖昧になる一方になっていった貴族特権も、少しずつ整備されていくようになる。(都市や小貴族ら、特権を有していた大小の等族諸侯たちが、今までと違う特権契約で資本提携するようになったため)


他力信仰社会でどうにか足並みを揃えてきたキリスト教圏では、貴族特権の基準や優先を巡って貴族同士でいがみ合うというならまだしも、貴族資格つまり皇帝や国王やその大臣などから正式な等族諸侯の序列(公務)に関する身分公認(典礼)など受けていない下が、まるでそれと同列であるかのように振る舞いながらそのいがみ合いに勝手に参加しようとすること自体、そこは上は下に暴力的だろうが厳しく罰する貴族議会(序列意識)だけは保たれていた。

 

ここは日本ではだいぶ違い、日本の戦国時代では半農半士でどこも溢れるようになった、つまり領域的特権争いに敗れた元名族の没落組や、また代を重ねて名族の家来筋からどんどん枝分かれして特権にありつけなくなる末端たちで溢れ、皇室・廷臣・政権上層の血脈と無縁な者など日本列島にはすっかりいなくなっていた中で、皆が「自分たち(我々の地域)は元名族(皇室や廷臣の家系・家来筋。政権の元重役の家系・家来筋)の正規武士団」だといい張りながら、どこかで揉めるごとに、勝って特権(生活権)を得たり維持できた格上気取り側と、それを奪い返そうとする格下扱いされた負け組側との構図で延々といがみ合うことばかりされていたのが、戦国前期になる。


だから戦国後期に織田信長

 

 「これだけ没落半農半士で溢れ帰っている(それら生活権保証の面倒を誰も看ようとしない=低次元な落ち度狩りの頭の下げさせ合いを誰もやめさせられない=そのための等族指導・地方再統一・議会改革による国体・公務吏僚体制の次世代化を誰も果たそうとしない)中で、荘園公領制(聖属・有徳行政体制)を崩壊させた旧態教義にいつまでもしがみついているだけの法賊(偽善者)ども、室町体制(世俗行政機関・三管四職体制)を何ら立て直せない旧態行政権力にいつまでもしがみついているだけの家長気取りの法賊(偽善者)どもは今頃になって、何が名族高官主義だ!(=上から順番に制裁だ!)」

 

と、庶民側の管轄権(下の産業交流法改め)の範囲と、政権の公務側の管轄権(等族指導する役所・指揮官側としての状況回収・意見受理・裁量の品性規律の敷居改め)の範囲を大幅に仕切り直す身分再統制(官民分離=前期型兵農分離)を、とうとう始めたのである。

 

それをしなければ「自分たちも元名族の末裔(行き着く元は皇室の家来筋)だからその権利に介入する資格がある」と皆がいい張り続ける戦国前期(地方再統一・地方議会改革の選任性など何ら維持できていない、低次元ないがみ合いしかしてこなかった自分たちの深刻さを誰も考えなくなる旧態社会)も一向に改まらない、だから誰かがそれ(身分再統制)をしなければならなかった、それを室町政権(前世俗政権)が結局できなかったからこそ、織田信長が肩代わりすることになったのである。

 

日本では江戸時代になると、士分(武士)側の特権は、その名義の下(もと)に庶民側に手伝わせる公務従者・公務補佐役(雇用による半公務待遇の足軽層・中間層。あしがる。ちゅうげん)までなら曖昧な部分も黙認していたが、西洋のような権利のあからさまな期間契約貸与は幕府は許可しなかった。(議論自体はされたが、深刻な半農半士問題を体験した日本では、せっかく仕切り直して迎えた江戸の身分制議会が崩れるきっかけになると危険視された)

 

それに対し西洋ではそこは(上と下の境界自体は)貴族文化として中世以前から元々根強かったのが文化的な違いになるが、近世以降は西洋でも対処されるようになる。(日本では元禄の大経済景気後の反動の経済恐慌を境に、田畑永代売買禁止令すなわち権利契約禁止による身分統制が維持できなくなり、たたでさえ曖昧な所が多かった下級武士たちと平民たちの境界(力関係・平民と士分の秩序)をいよいよ曖昧にしていった、つまり経済景気の悪化に振り回される形で、幕府が公認している訳ではない下同士で下が作られていってしまう、身分制のなし崩しに向かっていった)

 

西洋では貴族側の特権は徴税に関するものであっても、自由保有地権をもつ有力な(多くの小作人を従える)農家や、市民権の中の有力な資本家らと期間契約(請負事業扱い)する文化があり、15世紀末の多様資本交流社会化が顕著になると、基準に統一性がなくなっていったというよりも、日本の江戸時代のように為替商業相場次第であるかのような、貴族(士分)特権はまるでその市場価値のいいなりに支配されているかのような特権契約があちこちでされるようになったため、17世紀以降にはそういう所も(国内ですら地域ごとでその慣習の基準が議会的に一致していない、つまり国政の上層が資本管理できていないと文化交流の支障にもなるからの、身分秩序統制として)少しずつ改正されるようになる。

 

施政管理する側(平民を統制する側)の特権の価値が、まるで平民(産業社会側の有力資本家や市参事会の担い手たち)の相場(事情)次第で自動的に評議(議決)されるかのような、貴族の存在自体が市場相場の左右にただ振り回されているだけの構造になってしまっていては(=商人団の相場情報操作のただの操り人形になってしまっていては)さすがにマズイということで西洋でも、日本の江戸時代ほどではないにしても17世紀以降には、少しずつだがそれまでの地域ごとの自由特権契約の慣習に対し、規制的な調整がされるようになる。(この平民側と貴族側の間の施政権・統制権のせめぎ合いも、いい加減に近代化に間に合わなくなった19世紀後半に王政解体に向かうことになった部分は、幕末でも共通している部分)

 

西洋では17世紀以降になるとキリスト教圏(カトリック国家でもプロテスタント国家でも)のそれぞれが、各国政の議会で特権契約に関する価値(相場)を規定し始めるようになったため、上層議会が規定した相場よりも期間権利を安く売ってしまった貴族が多かったことで悲鳴を挙げた小貴族たちが続出したという、今までされなかった所も見直されるようになっていく。

 

国政で「我が国では、小貴族たちはこの権利をこういう条件で期間契約する場合は1000グルデンを相場とし、この基準例で統一せよ」となった際に、その議決前にそれを700グルデンで売ってしまった者は時間差的に、単純に300グルデンの大損をするはめになったという者が続出し、買戻し的な契約をしていた場合などはその差額分だけ丸ごと大損することになった小貴族たちは悲鳴を挙げるようになった。(日本も江戸中盤には今まで体験したことがない物価の激変に振り回されるようになったため『物価引き下げ令』を始めとする強引な手入ればかり強行されるようになり、経済対策をますます深刻化させることになった)

 

このように17世紀以降は、新たな産業文化価値・学術文化価値が次々と生み出されていくことになる(=旧態慣習の押し付け合いが緩和=多様化されるようになって過去の旧態価値はすたれていくことになる)、避けて通れない情報交流・技術交流と経済成長の変移によって、それぞれの生活権(身分)の相場もどんどん変容してくる前近代的な新社会化に対し、21世紀でも調整に難儀しがちなそういう所を、当時の前近代的(近世王政的)な身分制議会で、特に公共環境事業面や税制面を調整していくことは簡単ではなかった。

 

21世紀ほどの国際協約評議性(国際世界間・教義圏間で和解・健全化を前提とする敷居確認の品性規律)は育っていなかった、やっとその国際敷居に少しは向き合われるようになった16世紀以降は、現世的な産業や学術の進化に、許容するのか規制するのかにどこも難儀しながら200年近くかけて、中には全く合っていない身分制の価値観(相場)が無理やり当てはめられ続けながら、本格的な近代化が求められるようになる19世紀までの下地が作られながら、王政の限界が迎えられることになる。

人文交流的(他力信仰一辺倒に抗議的=個々尊重の自力信仰社会化的)な、第三権力的な(=議会による公認・謄本統制が及んでいない)新たな施政権をもち始めた庶民側の資本家、中産階層ら(国家財政、税制、序列に影響を与えるようになった者たち)と、上(貴族・等族諸侯)の間で身分制(各階層の議席序列)を調整しなければならなかった(プロテスタント運動の争点になっていた = 等族義務を果たさない役立たずの公的教義体制・旧態司教区権威を今まで通り支え続けるためだけの献納・教会税を工面するのを止め、これからは産業都合ごとの教会税・公共税を民事的な地域施政権として教会財産を管理・工面していくようにするから、教皇庁はもうその教区から贅沢な献納を要求したり虚像義務を押し付けることは今後するなと言い始めた = 今まで下同士で低次元な頭の下げさせ合いの教義権力を押し付け続け、多様交流の和解・健全化・敷居確認をうやむやに妨害し続けてきた愚民統制でしかないお荷物の旧態教区体制の叙任権に対する不要論を言い始めた = 教区の公共性と税制の人文多様的・異環境間文化的な構築が問われた = そこをいい加減にうやむやにし続ける訳にはいかなくなっていた)ように、民権的な謄本登録保証がされていた(保有地権または市民権による、労働組合保証や地域施政参与権を得ていた)社会的に有利な中産階級層・良環境労働者層と、今までその枠から弾かれ格下扱いされ続けてきた奴隷扱い同然(異教徒でないのに異教徒扱いの矛盾した格下扱いのまま)の、低次元な罰ゲーム理論の劣悪環境労働層の立場(=『低次元な落ち度狩り罰ゲーム理論の押し付け=教義権力=旧態慣習』で大事な公共環境事業が粗末化・雑用化され続けてきたものも多かった)を押し付けられ続けてきた旧態構図のままの大勢の最下層貧民たちについても、全体的に調整(前近代的な国力総生産体制の産業法に合った裁判権改め。敷居向上)しなければならなくなった。

 

全体的な見直しによる、特に下の中の下たちの生活面と、国力総生産力面と公共環境面の意欲奨励・敷居向上(等族指導)も、今後の教義圏全体・国家全体の国威・格式(=前近代的な国内総生産力と税制体制と文化交流環境事業体制と軍兵站体制)の問題として16世紀以降には向き合わなければならなくなった。

一方で大勢の最下層貧民たちを経済再生的な行政指導面で救済しようにも、その良例の下地があまりにも無さ過ぎた中、15世紀末の遠隔地間商業(多様資本交流)の隆盛をきっかけに、資本家たちが異環境間の親交の施政文化交流として福祉事業にも着手し始めるようになったこと自体が

 

 そうした産業社会的福祉環境体制を今まで作らせない( = 下同士で低次元な落ち度狩りの頭の下げさせ合いを強要し続け、下同士で下を作り合わせる低次元ないがみ合いを続けさせる = 今まで通りの愚民統制を続けさせる )ための教義権力(時代遅れの破門と戴冠式の公的教義体質)を、各教区の司教座(教区・各地の庶民の裁判権管理の聖堂参事会のまとめ役が司教と高位司祭たち)に押し付け続けてきた

 

所を、とうとう愚民統制破りする(旧態身分制を慣習破りし始める)ようになったことを意味していたのである。( = 教義権力を、前近代社会化を阻害し続ける愚民統制に悪用し続けることしかしてこなかった教皇庁体質・公的教義主義との決別運動 = プロテスタント運動)

 

都市の有力者たちが、商人団を結成してまとまった資本を用意するようになり、王族国政との資本取引で特に鉱山開発業(鉱山権は王族・上級貴族たちの専売特権だった)を促進するようになると、重要な鉱物である銀や銅などの他、ミョウバンも今までよりも多く採掘されるようになり、ミョウバンも人気商品として市場に出回り、盛んに取引されるようになったことがフッガーの鉱山業の帳簿から確認されている。

 

ミョウバンは、羊毛や綿や糸などにより白さを出したい際の漂白剤のための工業薬品として重宝され、16世紀に流通量が増えると、今まで漂白業で生計を立てていた者たちの事情も、だいぶ変わるようになった。

 

ミョウバンの流通が少なかった頃は、肌色や茶色がかかっている衣料生地を漂白するために尿を使っていたといわれ、タライを使って重石で漬けたり足で踏みながら、水洗いしながらの精錬は、時間もかかり労力も大変だった所、ミョウバンがあると時間的にも労力的にも衛生的にもだいぶ違った。


もちろんそうした仕事は「下の中の下っ端が低賃金でやる仕事」と相場で決まっており、それでも常に収入が不安定だった貧民たちにとってはそれで定職として成り立っているならいい方だった。(当然のこととしてこうした業者の正規の労働組合などはない場合が多かった)

 

こんなものは職業差別の序の口で「これよりももっと下っ端がやる仕事」が他にまだまだあり、青色や赤色に生地を染めたり何かに塗ったりする、藍、茜を使った原料作り業者は、かなり職業差別的な見られ方がされていたといわれる。

 

色の原料を作るために、収穫された藍、茜を大釜で茹でる際に強烈な悪臭が生じたといわれ、広範囲にかなりの距離の悪習を放ったといわれている。

 

そのため、その業者は都市や農村からかなり隔離した僻地で仕事をさせていたといわれ、その労働者はその悪臭が体に染みついてしまうため、近づくことも嫌われたといわれている。

 

国王や上級貴族が街道を通る際に、その道の近くに染め物業があるとその日は業務を停止させたという話もあり、悪習はかなりのものだったようである。

 

ちなみに日本でも藍と茜は栽培され、その染め物業者もいたが、製法や原料の品種が違うのか、日本でのこうした話は筆者は見かけたことはない。

 

フッガー家に関して、筆者が情報源の中心としている諸田實氏著「フッガー家の遺産」の方で紹介されている、1475 年1536 年のアウクスブルクの正規の労働組合(ギルド)構成の一覧では、毛織物業者・織布工はあるが染め物業は見られず、この構成に入っていなければ地位は低かったと見てよい。

 

ただしこの一覧は特徴的なものだけ列挙していたり、また染め物業は織布工などに統括されていたり、藍や藍の栽培が盛んだった農地の近くの都市では市政公認の組合があったかも知れないため、地位は低くはなかったかも知れないが、とにかく悪臭が目立ったことで職業差別的な目があったのは間違いないようである。

 

貧困層の日雇いの定番的な仕事のひとつだったのが、ワイン作りの原料の「ぶどう摘み」で、これは忙しくなる収穫期だけ貧民を雇う短期のもので、これを「ぶどうをただ荷車やカゴに積んで運ぶだけの、技術も何もいらない手伝い仕事は、格下の下っ端どものやる仕事」だとする、その職業差別的な旧態社会(旧身分制社会)が維持されるための教義権力(下同士で下を作り合わせる偽善産業社会の強要・愚民統制)による押さえ付けが、延々と続けられてた。

 

西洋での鉱山業における職業差別の具体的な話は筆者は確認できていないものの、日本で徳川政権が強固なものになり始め、徳川家が全国の鉱山権を掌握する形で熱心に開発が進められるようになった際に、採掘業の中で過酷な仕事ほど、罪人を送り込んでやらせていたことは顕著だったため、西洋でもそういう所はあったと見てよい。

 

差別はともかく、西洋では資本家たちの開発費用の用立てによって、15世紀後半から王族の鉱山業が盛んになり始めると、多くの人員の雇用も顕著になり、やはり鉱毒で長生きできなかった鉱山夫が多かったことは確認できる。(日本も同じ)

 

鉱山の付近で精錬する際の煙で少しずつ鉱毒に侵されてしまい、体調を悪くする鉱山労働者が多数出たことは間違いなく、特にスペインの新大陸支配のボリビアのポトシ銀山では、現地人やのちアフリカから連れてきた奴隷たちに過酷な強制労働をさせ、過労、食料不足、鉱毒で早死にする者を続出させることになった話は有名になる。

 

ただし早死にといっても、16世紀の時点ではそもそも公共衛生環境はまだまだ整っておらず、食生活面にしても不健康だったり、西洋の方では日本よりも不衛生面の対処が遅れることも多かったため、20代~40代で具合を悪くして急死してしまうことも珍しくない時代になる。

 

特に西洋の都市部近辺の水質汚染は深刻だったといわれ、飲み水用、農業用、海に流していく排水用といったように西洋では、用水路を工夫することが日本よりもできていなかった。

 

廃棄物処理の公共化にしても、衛生的な用水路の整備も利益優先で後回しで、廃棄物置き場が山積みになってから「誰かなんとかしろよ!」と皆がイライラしながら、その始末を低次元な落ち度狩りの『罰ゲーム理論』でやらせようとする(目の前の面倒事を誰かに負担させるために格下扱いし合おうとする)たらい回しな考え(非賦課制的=非施政的=非文化的=非近代的な考え)が根強かったのも、16世紀の等族議会制をきっかけにようやく少しは見直されるようになっていく。

 

まず、常に人だかりの都市の、常に排泄物も満載になるその処理も含める廃棄物置き場とその処理場といった体制も、遅々として用意されないまま、あまりにもテキトーで乱暴な押し付け合いしかされて来ず、貧民も多く集まる都市部近隣では、まず新鮮な飲み水を確保するのに苦労していた。

 

商業地で何かの排水を地面にたれ流して井戸の地下水源を汚染させたり、中にはゴミや排泄物の処理を面倒がり、その処理業者に賃金を払うのを嫌がって都市近隣に流れる川に平気で捨てたりする者も多かった。

 

都市では地点ごとに公共便所が作れらていたが、現代のような下水道処理などは発達しておらず、狭い都市内に人口に十分に許容できるだけの建設もなかなかされなかったため、絶えず排泄物で一杯になるのを、やはり下っ端の格下扱いの貧民にその処理を職業差別的に押し付けるように低賃金でやらせる旧態慣習が永らく続き、職業差別している場合ではない大事な公共事業対策として向き合わなければならない部分(賦課体制)が、遅々として改善されていかなかった。

 

一方で日本はそこは大違いだったと歴史的に賞賛されている部分で、17世紀~19世紀で世界全体で比較すると、産業的にも衛生的にも江戸の大都市は世界最高級の文化都市だったといわれている。

 

豊臣政権時代の、徳川家康の関東移封をきっかけに江戸の都市建設(この時に現代の東京都の地形の原型が作られる)が始まると、のち徳川政権が確実なものとなって以降も建設が進められていった際も、風水学(自然学)も多く取り入れられた。

 

徳川家康はその重要性に理解を示し、学者たち(神社の社人や寺院の僧たちの中に、風水学に詳しい者もいた)の意見を賢明に取り入れたことで知られている。

 

かつて平安京で、不衛生から生じる疫病(悪霊と例えられていた)で苦しんだ教訓が、江戸の建設時に風水学(自然学)が大いに活かされることになり、江戸では飲み水と排水のこともかなり考慮された都市部の用水路として、優れた公共水道設計がされていた(新鮮な水が流れる井戸式の用水路と、今の東京湾側に流れていく排水路の、優れた下水道処理ができていた)ことに、まず驚かれている。

 

世界では都市部における、特に水に関する衛生問題は18世紀以降もどこも苦労していた中で、江戸では17世紀初頭の時点で早くも、しかも大都市として計画的に設計できていたことに、かなり驚かれている。

 

西洋でも17世紀からは衛生面にも少しは取り組まれるようになり、都市部での水道工事も少しずつされ始めるようになり、まだまだではあっても17世紀以降は16世紀以前と比べると、衛生環境は施政的に向上させていくようになる。(地域差が激しく、全く取り組まれなかった都市も多かった)

 

日本では、ゴミや排泄物を回収する業者がおり、再利用業者たちの間で有効活用されたり、排泄物は農地の肥溜めに運ばれることが江戸時代前半では差別されることなどなくされていた。(そのための街道もどんどん整備されていった)

 

徳川家康が生前に、のち財政難になった際にと、必要以上の贅沢は控えながら家産を多く溜め込んでおいてくれた品々の中に、大量のロウソクがあった。

 

幕府は商家にそれを買い取らせて資金調達をすることもよくされていたため、ロウソクは次第に庶民に流通するようになり、夜間も仕事をする庶民も増えるようになるが、ロウソクの燃え殻は再利用できたため、使用済みのロウソクを買い取りに家々を巡回していた業者を武家、商家に関わらず皆が待ち、捨てずに保管しておくようにしていた。

 

江戸後半に、貧窮する一方の下級武士たちを幕府が救済できなくなっていき、それを救済し始める平民(有力農家や有力商家など)たちと下級武士との親交関係が強まってしまい、その間の身分秩序などいよいよ曖昧になっていく一方の、下の間での身分制など半壊してどうにもならなくなった幕府は、経済政策面で何も改善されていかず貧窮する一方の幕府への怒りの不満そらしの、下同士の愚民統制的な階級制の押し付けばかり強めるようになるが、それまでは廃棄物処理業者が格下のやる仕事などと差別されることなどはなかった。

 

農地では、各農家の農耕地の持ち分に毎年、農業生産していくための養分も与えなければなかった中、現代のように都合の良い化学技術の合成肥料が作れなかった当時は、肥溜めは必要不可欠だった。

 

農業生産で特に重要な養分だといわれているのが窒素とリンで、その農地で植物を育てるごとにその栄養素がなくなってしまうため、肥料でそれを与えければならなかったが、肥溜めはつまり科学反応を起こさせて、その重要な窒素とリンを生成するための装置になる。


「無用の用」という言葉があるが、この意味は

 格下がやるべき雑用だと軽く思っていたことが、実は全体的な大きな支えになっていた一環だったことが、それを失ってみた(乱暴な扱い方ばかりし続け、以前のように機能しなくなってしまった)時になって(自分でやらなければならなくなった時などに)初めて、それがないと非常に困ることに、もっと大事にしなけばならなかったことに思い知らされる用(部分や役目や機能や事例)のこと

 実際に失ってみて、また取り返しがつかない事故や決裂が起きてしまった後になってから、今まであまりにも軽々しく見なし続けてきたこと、扱い続けてきたことを、もっと大事に考えていかなければならなかったことの愚かさに気付く用(元々の仕様や要因など)のこと


といった、いつの時代も常に軽視されがちな大事なことへの警告の、やってしまいがちな「後悔先に立たず」的な意味になる。

無用の用は理論的には理解はできても、これを思い知るのは20代や30代では難しく、経営者的な立場の意識が職場の中でこの指導が行き渡っていない(社内間で敷居確認できていない)場合なども気づきくい、簡単ではない話になる。
 

議決性(和解・健全化を前提とする異環境間の敷居確認・国際協約評議的な議事録処理=くどい低次元ないがみ合いによる敷居低化を繰り返させないためのISO9001的取り組み)を、ただうやむやにさせ合うための勧善懲悪(低次元な猿芝居劇場)の偽善序列を強要しているだけの教義権力(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有=愚民統制)というのは

 

 無用の用に向き合ってこれなかった = 施政としての賦役的議事録処理(直接税的賦課・人文多様の等族義務 と 間接税的賦課・啓蒙合理の等族義務 の産業社会化構想の調整の品性規律)による助け合い・支え合い(組織構想の敷居確認)など自分たちでしてこれなかった = 時代に合った産業法の次世代化(文化的な情報・技術交流の見直し=下まで施政を行き渡らせる人的資源有効活用政策=国内総生産体制化)に対する弊害疾患

の過ちを繰り返すことしか能がない、自分たちで手本的な対処をしなければ(敷居向上させなければ)ならないはずの大事なことを、低次元な落ち度狩りと低次元な頭の下げさせ合いでケンカ腰(思考停止的)に負担を押し付け合うことしか能がないその見苦しい姿こそまさに、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどもの姿そのものといえる。

無用の用に向き合ってこれなかったこということは

 いい加減な向き合い方しかできない(=それに見合った自分たちの準備要領・議決性の手本の示し合いなどできていない自分たちの無神経さ無関心さ無計画さをうやむやに面倒事扱いし合い、押し付け合い続ける)= そこを改善できている列強の外圧に何ら対応できなくなり、一方的に握り潰されたり一方的に格下扱いにされる原因 = 精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまう低次元な集まりのまま

への自分たちの深刻さに自分たちで向き合ってこれなかったのと同じであり、現代の個人間・組織間・国際間における構想性(戦略性・計画性)の力量差(主体性・議決性・当事者性・議事録処理力)でも同じことがいえる。

この1P内でまとめたいことがまだ山のようにあったが、字数制限の都合で今回もやむなくここで区切ることにする。

 

次は、フッガーがとうとう始めた福祉住宅建設と、最下層救済の再生指導の当時の社会的な様子についてや、マクシミリアン1世がアウクスブルク(バイエルン州の商業都市。資本家フッガーの発祥地)に着目した貧民救済対策の様子について、整理した記述をしていきたい。