近世日本の身分制社会(117/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか45/?? 2023/02/12
 

今回も、前回から列挙している

 ① 1558 と 1560 以降の16世紀後半からのフェリペ2世とジェノヴァ筋の資本家たちの時代

 ② 1558 と 1560 までの16世紀中盤までのカール5世とフッガー銀行(アントーン・フッガー)の時代

 ③ 1519 と 1525 までの15世紀末から16世紀前半にかけてのマクシミリアン1世とフッガー銀行(ヤーコプ・フッガー)の時代


の時系列(社会心理)を見渡し、そもそものマクシミリアン1世ヤーコプ・フッガーが始めた

 当時の多様資本交流社会化の対策としての国家銀行体制(と、それがきっかけとなった証券経済)

が、これが上を改めつつ(多様資本交流社会化の今後に対応していく議会にしつつ)、下の最下層貧民たちの救済になる計画も入っていた説明をしていきたい。

15世紀末に多様資本交流社会化か顕著になり、貧民の救済も、それと関係している下の税制(施政の敷居)のあり方も見直さなければならなくなった(=身分再統制をしなければならなくなった)事情も、簡単な話ではないこととして説明していきたい。

マクシミリアン1世が、帝国の経済顧問としてうってつけヤーコプ・フッガー(国家銀行体制)を見込んで抜擢し

 キリスト教社会全体の問題として、特に下々に対する救済にも取り組まなければならなくなった

 しかしその対策は「まず今までの上からの権力構造・社会観念(特に聖属議会の旧叙任権の社会構造)の大幅な見直しが必要」なため「下々にただちに行き渡らせる」ことはすぐにはできない

 下々は最初は理解できずに混乱はするだろうが、どう転んでも下々の救済に繋がるものにしておく


ものだったことが時系列から窺えることとして、説明していきたい。

西洋では世界的にも希有な大規模な証券経済を16世紀に急に体験することになり、長続きしなかったその経済対策の難しさは、日本の江戸時代の経済景気後でも迷走するようになる所でも、その難しさは共通する。

 

経済景気時、またはその後の法(議会制)の近代化は、人類史的にも簡単な話ではなく19世紀まで待たれる部分になる。

近世(上としての本来の等族主義がようやく芽生え始めた16世紀~19世紀中盤)は、迷信打破的な近代化の基(もと)となる天文学(物理数学)、機器技術、医術などの学術文化がもち寄られるようになる一方で、それを法(議会・権限構成)でうまく有効活用していけずに禍根・弊害が作られていきながら、近代に向かう下地が作られていく時期になる。
 

その初頭となる16世紀は、それまでの時代遅れの中世(寡頭主義)との大幅な脱却期、次世代的な議会制の幕開けの時代変容の大きな転換期(身分再統制・議会改革の時代)になる。

人類史的にも時代変容が特に激しかった16世紀のような転換期(異環境・社会心理)を見ようとするほど、

 

 教義権力的な時代遅れの虚像(低次元な頭の下げさせ合い)の終焉(やめさせる) = 次世代的な等族議会制の幕開け

 

を巡る深刻さの様子(時系列・社会心理)を理解することも簡単ではなくなっていくのは、それは現代における世界間の敷居確認についてや、また個々の人生観(社会観)ごとの敷居確認(高次元と低次元の区別)についても同じになる。


今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、自分たちのその深刻さに対する議決性について、気絶(思考停止)し合うためのただの劣情をケンカ腰に押し付け合うことしか能がない法賊(偽善者)どもには、なお理解できる訳がない所になる。

16世紀には、

 

 中央議会(政権)の正式な公認などしてされていない(正式な議事録処理の謄本登録の手続きなど受けていなければ、その意見整理の認知・回収・裁量中ですらない)旧態上下慣習が野放しにされ続けている(-不良債権の乱立と押し付け合いが横行している=低次元な頭の下げさせ合いの勝手な上下関係が維持され続けている)こと自体を問題視できなければならない

 

だから

 

 それまでの時代遅れの、下同士での労働搾取的・格差収奪社会な時代遅れの非文化的な旧態裁判権(低次元な頭の下げさせ合いの偽善教義体質・偽善叙任権)

 

に対する取り締まり(身分再統制)ができる議会(政権)を、まずは教義圏内(自分たち)で確立できなければならない、そこに総力戦体制的・国力総生産的な力量が問われるようになった時代を、日本でも西洋でも迎える。

 

それまで(中世まで=寡頭主義任せ)は

 

 教義圏内における同胞間(キリスト教徒同士)の助け合い

 

 

 できていることにしてきただけ(=教義権力に威力任せに屈伏させ続けてきただけ)の、うわべ(虚像)ばかり

 

で実質、教義圏内でそこがろくにできていなかった。

教義圏内(国内)の等族指導体制(国際協約評議性の立法力があるといえる議会体制・裁判制度)も、自分たちでろくに仕切り直すこともできていないような低次元なだらしない弱小は、それができている高次元な強国の格上側から格下扱いされ、従わされることになって当然の時代、それは

 高次元(世界線的な国家戦略)な議会制(まずは教義圏内における国際協約評議性の敷居に更新する)に仕切り直せる格上側 = 時代遅れへの弊害改めの等族指導の示し合いになる議事録処理・時系列処理ができる側 = 人の合格・失格を管理する公務吏僚側(謄本登録を管理・受理・裁量をする側)の敷居改め(身分再統制)ができている側



 低次元な議会制(序列)しか敷けない、賞味期限切れ(ただの猿芝居)の旧態権力(ただの劣情の猿知恵)にしがみつき続けることしか能がない格下ども = まず自分の所の低次元な頭の下げさせ合いをやめさせることもできない集まり = まず自分の所(教義圏内)の議決性異環境間の敷居確認=議事録処理の確立(手本の示し合い)もできていないことの反省(自己等族統制)もできない = そこをうやむやにケンカ腰に気絶(思考停止)し合うことしか能がない低次元な格下ども

の、その等族指導の力量差がそのまま経済力・技術力・文化力の国力に、それが地政学的(教義圏的)領域戦の軍事外交力(国防条約体制・兵站体制)の国威・格式に直結し始める、今まで通りのことをしている場合ではない近代の前身の姿を見せ始める16世紀を、人類はとうとう向かえる。

日本と西洋とでは文化的な経緯の違いこそ多いものの、新時代的な身分再統制(議会再統一)の流れは、日本の戦国後期(織田信長の時代)と全く同じになる。

まず教義圏内(国内・自分の所)で

 天狗の鼻をへし折る恫喝をする側 = 高次元な格上側 = 身分再統制をする側 = 次世代型の身分制議会(国家戦略体制)を敷く側 = 相手よりも高次元な議事録処理の受理と謄本登録の裁量ができている側 = 国際協約評議性(被害予防の人文多様加害予防の啓蒙合理の統計整備)を目指せる側

 

 

 天狗の鼻をへし折られる恫喝をされる側 = 低次元な格下側 = 身分再統制を受けなければならない側 = 議事録処理の受理と謄本登録の裁量を自分たちでできたことがない側 = 公認してもらわなければならないはずの低次元な格下であるにも拘わらず、公認させようとケンカ腰に勝手に格上を気取ろうとする(議決性をうやむやにしようとする)裁かれて当然の身の程知らずども

 

との、その選任性の力量の白黒(等族義務のあり方=全代表の手本家長、家訓政権としてのあり方)をはっきり(=議決性の確立を)させなければならない、その議会収容力(国家戦略の主体性)が国際間の軍事経済力・文化技術力の国威・格式に直結する時代を迎える。

低次元な議会制(政権)しか維持できていないだらしない国家は、それができている教義圏外の強国からの外圧を向けられた際に「敷居が低すぎて(知能が低すぎて)話にならないから格下扱いされて当然」と見なされても仕方ない、自分たちの教義・自分たちの領域も自分たちで守れなくなっていることに、ようやく上の間で少しは危機感をもつようになった時代が16世紀である。(近代の前身の姿。戦国後期はまさにその縮図)

まず教義圏内(国内・道義内)での整備(異環境間の敷居確認)も自分たちでろくに取り組めない(=総力戦体制にも対応できるだけの議会改革もできない)時点で、教義圏外(世界線・道義外)の国際協約評議性の敷居(国威・格式)での軍事的・外交的な対処(国際間の国家戦略の展開)などできる訳がない。

近世以降(16世紀以降)はそういう時代(そこを等族指導できなければならない時代)に入ったからこそ、改めて荀子や韓非子や孫子の兵法のような本来の組織論の基本に今一度立ち返る見方で、近世以降の経緯(社会心理)を見れるようになることが、重要になる。


16世紀は、航海技術の向上で海を越えた遠くの世界間の国際敷居(教義圏ごとの軍事経済力・技術文化力)が意識されるようになったからこそ、まずは教義圏内(国内)全体をまとめる議会(政権)の強力な総裁(当時の絶対王政の意味=議席・地位に見合った公務吏僚の序列に敷居改めができる代表)のあり方にも、深刻に向き合われるようになったのである。

 

今のように携帯とネット環境も普及していない20世紀までは、現代の21世紀ほどの国際協約評議性の敷居はまだまだ育っていなかった、だから20世紀以前までの教義圏外は強国間で厳しさを向け合う、そのさじ加減次第な所が強かった。

 

20世紀と比べればだいぶマシになった21世紀の国際協約評議性でもまだまだ不足が多い中、そこがもっと育っていなかった20世紀までは、教義圏外(異環境外)で厳しさ(落ち度狩り)の外圧を向け合う方法でしか、自分たちの国家(組織)の存亡に向き合うことができなかった。

 

幕末(江戸終焉期)の黒船来航で、近代化の方針を巡って深刻さがもたれ、騒動が頻発するようになった様子もまさにそこが顕著になる。
 

人々にそれだけの余裕などなかった時代、敷居確認のための環境も今よりもかなり不利な時代だったという所(社会心理)も、冷静な見方ができなければならない所になる。

 

だから今の日本の低次元な教育機関のようなだらしない集まりのように、教義圏外(国際間の異環境外)の敷居確認などろくにできなかった時代遅れの20世紀の国際感覚21世紀にいつまでももちこみ続ける法賊(偽善者)どもの挑発手口(劣情の押し付け合い)にまんまと乗せられるような、その低次元な敷居で軽々しく応答・応戦してしまう時点で、口ほどにもない人生観しかもち合わせていないのと同じなのである。

 

所詮は上(自分たち・古参・古い事例)にただ甘いだけ、下(異環境・新参・新しい事例)にただ厳しいだけの、まず教義圏内(国内・同業内・身内)の異環境間の敷居もまとめられない低次元な集まりが、教義圏外(その外の世界や業界)の異環境間の敷居の集約(健全普遍。ソーシャルディスタンス)などできる訳がない。(=それができていない低次元同士のいがみ合いをやめさせられる訳がない)

 

その深刻さ(時代錯誤)を認識しようともしない時点で、20世紀21世紀の違い(社会心理)を理解しようとする訳がなく、16世紀に何が起きていたのかの法(前近代の等族議会制)の原点などさらに理解しようとする訳がない。(教訓にしようとする訳がない、してこれた訳がない=等族指導できる訳がない)

1570 年代の日本では、中央に乗り込んで国家的な復興の手本を果たした、それができるだけの旗本吏僚体制(等族議会制)を全国に見せつけた織田氏に対し、やむなく恭順して織田氏の身分再統制(裁判権改め)に組み込まれていった者たちと、身の程知らずにも反抗して時間稼ぎを始めただらしない者たち(そういう世界情勢になってきていたことをとぼけて今までの地位を維持しようとした、格下げされて当然の旧態権力層や地方)の構図も、まさにそこなのである。

20世紀前半の第二次世界大戦でも、特に地政学的領域戦の対峙国となり得る教義圏外(主軸国間)には厳しさを向け合う傾向が異様に強かった時代だったことを考えれば、教義圏外への向き合い方がより不慣れだった前近代の16世紀は、そこがさらに強くなりがちな時代だったことは容易に想像できる所になる。

 

教義圏内(国内)の狭い敷居の中だけでただ頂点争いしていればいい訳にも、その段階で手間取る訳にもいかなくなっていた、教義圏外(異教間や文化間)の敷居にも文明的に、国際軍事的・国際外交的にあなどられないように対応しなければならなくなった、その代表政権(議会)が機能していることを見せ付けなければならなくなったのが、16世紀の特徴になる。


まず、前近代的な公務吏僚体制(次世代的な身分制議会)で教義圏内(国内)の内政(産業・技術・文化)を整備できなければ、当然のこととして前近代的な軍体制(兵站体制)の確立もできる訳もない、だからそれができている教義圏外の強国の外圧に十分に対応できる訳もなくなる。(その縮図がまさに日本の戦国後期 = 孫子の兵法の組織論通りの世界)

そこに問題の多い低次元な弱小の格下は、高次元な強国の外圧の敷居に何ら対応できずにいとも簡単に総崩れを起こすばかりになり、いいなりにさせられて当然、主導(基準)として仰がなければならなくなって当然の時代に、西洋では15世紀末から火蓋が切られていた。

上の間では時代変容の深刻さをもつようになっていた、そしてフランスは自国(フランス王国内)で身分制議会を急いで整備・強国化し、まとまりもなく荒れ続けていたイタリア(表向きのキリスト教社会の叙任権国家)をいいなりにさせる再統一の介入に先手で乗り出した様子は、まさに顕著だったといえる。
 

下々はそこをすぐに理解することは難しかったが、上の間ではこれからのキリスト教国家として、総力戦体制(新たな身分制議会=前近代の等族議会制)に対応できるようにするためにも、下々のあり方(下の人的資源の有効活用=前近代的な経済社会化とその税制)についても、ようやく少しは深刻に向き合うようになった。

経済・情報・技術・国防の国際間の敷居確認の前近代に入った16世紀は、まだ内需と外需(今でいうGDP)という言葉こそ出ていないものの、まずは教義圏内(国内)のそこに対応(多様資本交流社会化の対応=今まで他力信仰一辺倒の教義権力で否定され続けてきた自力信仰の見直し)に向き合わなければならない時代となった。

日本でも織田信長の時代には、今後のその中央議会(政権としての国家戦略)のあり方をどうするのかを見直さなければならなくなった時期だった、1570 年代はもうそこにさっさと着手しなればならない情勢になっていた、( 1580 年代に入って起きた本能寺の変と関係。後述)

織田信長やカール5世が生きた16世紀中盤から後半にかけての時代は、次世代的(前近代社会化・等族社会化)な国家経営のあり方に着手しなければならない段階に来ていた時期(=それができていない弱小は、それができている強国の外圧に何も対抗できなくなり、世界に遅れをとることに、上の間で深刻さがもたれた時期)になる。

それは、文化的(教義圏の前近代的)な税制(議会階層ごとの政局の資本管理)のあり方や、強国同士としての対等な貿易交流(情報・技術・経済交流)のあり方、その優先権・関税特権のあり方も、全て前近代的なものにいい加減に仕切り直さなければならない、上の誰かがやらなければ(有力者層もその選任性くらいもてなければ)ならなくなった時代になる。

上もそうだが特に下々に対しても、今までのような非文化的(非国際協約評議的・非等族指導的)な、下同士の中での低次元な愚民上下統制通りであり続けさせるためだけの、人的資源の有効活用(育成理念構想)を阻害し続ける旧態支配体制も、今後の国威・格式の総力戦的な国力総生産体制にも関わってくる問題として、そこにとうとう深刻さがもたれるようになった。

 

まずは教義圏内全体で、上から下までの各階層の議会ごとでの、国際文化的な選任性(前近代的な等族指導・議事録処理・謄本登録の手本の示し合い)をもたせなければならない、その転換期に直面した大変な時代だったのが、織田信長とカール5世が生きた時代になる。

織田信長の時代は、日本から見て海外のどの教義圏がそれをどこまで実践していたのかをすぐに正確に把握することは難しかったものの、その世界線の敷居は地方も気まずいからとぼけていただけで認識はしていた。

 

日本は今まで、体裁上は中国大陸側の家臣扱い・従属国扱いだった、体裁上だけとはいえその国威・格式の関係性ももう以前通りで居る訳にもいかない、世界からみた日本の国威・格式の問題としてそれも仕切り直さなければならなくなった、だから戦国後期には身分再統制(中央再統一の次世代型の政権・議会)の敷居競争が急がれたのである。

 

地方再統一まではできても、中央再統一の敷居まではもち合わせていなかった諸氏は、それができていた織田氏の敷居につけていけなかったことを 1570 年代に入った時には、もうそこがはっきりさせられることになった。

 

すなわちその敷居に対応できていない地方は格下げは必至となった中で、その進退をはっきりさせられず、廷臣たちにしても気まずくなってそこをとぼけ続け、旧幕府派に組して織田氏にだらしなく反抗していた。

 

16世紀のキリスト教徒たちの日本訪問は丁度、19世紀の幕末の黒船来航の国際情勢と類似していた所が、ろくに説明がされてこなかった。

最下層貧民たちの今までの扱い方を改善していけないことは、国際力に関係してくる今後の自分たちの優れた国力を見せつけるための文明的な公共事業つまり

 

 よそにはない立派な行政施設や公道や大使館の建設、戦う前の国防力の品性規律を見せつけるための国際正規軍としての立派な軍備と整列をさせる規律指導ができている = その軍用品の生産力と費用がいつでも用意できる余裕を教義圏外(世界の敷居)に見せつける = まずは教義圏内(国内)の等族政治がうまくいっていることの国威・格式を示し合う

 

というものにも、いつまでも着手できる訳もなく

 

 まず教義圏内の内需と外需の資本管理(国益管理)をまとめる(同胞間の助け合いと敷居向上)こともできていない低次元な議会しか構築できない(=国内の異環境間の敷居確認もできずに、低次元な頭の下げさせ合いで足並みを揃えることしか能がない)時点で、今後の世界線(教義圏外)の敷居競争(=地政学的領域戦の調印のさせ合い)で優位性を構築(=教義圏外との異環境間の敷居確認)できる訳がない

 

所で遅れをとるようになる。

 

国内総生産体制にも関係(=文化的な行政施設・軍備力・外交力に直結)してくる、だから最下層貧民に対するいわゆる「所得倍増論」的計画にも着手(身分再統制)しなければならなくなった。(近世=前近代)

王都や都市部ばかりが立派で、都市の外れや農村を見渡せば施政(庶民政治の文化的な資本管理議会)の品性指導など行き渡っていないことが簡単に窺えてしまえるような、議決性など皆無なボロボロの貧民で溢れ返っているような旧式の格差収奪社会(下同士の低次元な頭の下げさせ合い=民度の低さ)のだらしなさが丸見えになってしまっている時点で、その教義圏(国家)の国力・文化力(=世界線の敷居確認力)の総力戦体制(内需と外需の資本管理体制)の力量など、それだけ知れているものなのである。

時代遅れの旧式の格差収奪社会(低次元な頭の下げさせ合い)で下々を延々と支配し続け、それで下に甚大な負担を押し付け続けているだけの、まず同胞(教義圏内)で助け合いの産業発展(敷居確認の議事録処理による等族社会化・前近代経済社会化)もしていけないような、

 

 下の間で下を作らせて下同士で厳しさを向けさせ合うこと(低次元な頭の下げさせ合いを強制し合うこと)しか能がない

 

 旧態権力任せに等族義務(階層ごとの施政体制の品性規律)をうやむやにさせ続けることしかできなくなっていて(その主体性を放棄させ合うことしかできなくなっていて)、低次元な国民で溢れかえっていることに深刻さももてなくなっているような低次元な教義圏(国家や組織)

 

が見苦しいことこの上ないこと、格下扱いされて当然なのは、現代の個人間・組織間・国家間でも同じである。

 

その等族指導(自分たちの議決性の確立)も普段からろくにできていない集まりは、いざ格上の外圧の危機を迎えれば、結束などもてる訳もない(=自分たちで何も大事にしてこれなかったのに、自分たちが大事にしてきたことを守ろうとする意識など育つ訳がない)所は、まさに地方再統一と中央再統一を巡って争われた戦国後期(織田信長が生きた時代)がその縮図なのである。

 

そこに欠陥ばかり抱えている集まりというのは、本戦(競争)が始まる前のちょっとした調略戦(情報戦・議事録処理戦)の突き合いが始まったくらいで、いとも簡単に精神的支柱の総崩れを起こすばかりの所も、現代の組織性でもそこは同じである。(孫子の兵法で、まずその上策で相手を切り崩しいくためにも組織の敷居が大事だと指摘)

自分たちのそういう所もまず自分たちで再整備(議会改革・旧態の減価償却の身分再統制)もできない、非国際的な(=まず自分の所の異環境間の敷居確認の公正な受理と裁量の議事録処理の判決権もろくに確立できない)弊害疾患ばかりかかえているようなだらしない法賊(偽善者)の集まり(教義圏国家や組織)が、何が世界線の地政学的(異教の教義圏外間)な国際協約評議性(徴税権や貿易権や関税権など)の調印(基準争い)の力量比べ(国家戦略)なのだという話である。

西洋では15世紀末に多様資本交流社会化が顕著に進み始めたことで、庶民側の有力層(資本家たち)が、遠隔地間商業の文化交流の一環として施政的な地域貢献(産業拡張事業出資、教区出資、貧民救済の福祉出資)をとうとう始めたことは、それは上院議会(上級貴族層・高位聖職者層)が管理しなければならない、下に対する徴税権や労役権にも関係してくる下の施政権を、下院議会(資本家たちの都市同盟的な遠隔地間協約)が一手に握り始めることを意味する。(これがプロテスタント運動の構図にも関係)

 

今までと違う謄本登録制(下に対する議事録処理の体制・下に対する裁判権体制・特に今までろくに整備されこなかった税制のあり方・国家的な資本管理)に対応しなければならなくなった、上(帝国議会・世俗代表議会と教皇庁・聖属代表議会)もいい加減に身分再統制に乗り出さなければならなくなっていた、そこをいつまでも上がモタモタとしている訳にもいかなくなっていた。(事情は少し違うが日本も織田信長の時代に共通)

西洋では、人文主義(今までの他力信仰一辺倒の教義権力による押さえつけへの抗議)が台頭する形でその新興的な施政権(下の間の行政権)を資本家たちが形成し始める(握り始める)事態となったことは、その周辺の土地所有貴族(伯爵)たちも資本家たちに抱きこまれながら今までの慣習と違う特権契約をこっそり始めるようになった様子と、そして教区ごとの聖堂参事会(庶民の裁判権管理者たち)も、出資してくれるその遠隔地間交流を便宜し始めるようなった様子から明らかなように、これ自体がもはや旧態身分制(時代遅れの公的教義体質の正しさとやら)の崩壊が始まっていたのである。

こうなった時に、何の役にも立たないお荷物でしかないその化けの皮がただ剥がれるのみなのが、教義権力(公的教義体制=思考停止=愚民統制=偽善)の実態なのである。

これは現代における、仮想通貨を始めとする「非物質化(デジタル化)信用社会(メタバース化)」の国際法の共有の課題でも類似しているといえる、そう飛躍した話でもない。

今まで個人技的に対応してきた役目や労働が、これからどんどんAI化(統計収容の機器開発の自動化)されていき、その内に言語の壁もなくなる国際情報社会化(メタバース化)が進んでいっても、まだ

 

 「日本人の教育体制はこうだから、物的体質(数物権威任せ)のままの教育機関の時間割(時間と資本の価値管理)を絶対に守らせ、その服従性の低い人間から不遇扱い

 

の壁(愚民統制のための弊害負担=低次元な頭の下げさせ合い)を強制し合う寝言と泣き言の弊害を、その中(メタバース後の情報社会)にもちこみ合い(物質旧社会の世の中の正しさとやらを非物質新社会に当てはめ)、その中で今まで通り教義圏(異環境間)の壁(弊害)を作り合って下同士の低次元ないがみ合いをさせ続けるのかという時代錯誤と同じになる。

 

今までの数物権威体質との時代錯誤に対し、各国が情報統計的にどう収容していけるのか、つまりこれからの無形知的貢献(デジタル化的)資産にどう向き合っていくのかの法整備(国際協約評議性)が、メタバース化の課題の要点になっている。

16世紀の西洋の画期的(センセーショナル)な人文主義(税制から分業化し始めた多様資本交流社会化)の台頭は、近年のネットと携帯の普及が進む前と進んだ後での社会心理の変化や、非物質化観念整理(メタバース化)に向かいつつある今後見られる社会心理の変化と同じくらい、大きな時代変容期だったのである。
 

下からというよりも、中産階級(ここでは庶民側の小財界的な有力者層のことを指す。貴族と庶民の中間にあたる庶民政治側の資本家たち)からの上(貴族・国家議会)への突き上げとなった、西洋での当時のその資本提携力(協約商人団・シンジケートの結成力)の動きは、庶民政治だけでなく国王・公国(王族や上級貴族たちや高位聖職者たち)の財政のあり方も一変させることになったことからも、議会改革しなければならないことはもう明白だった。

上の間でももうその多様資本交流社会化(人文主義の台頭)に対応する、これからのキリスト教社会としての資本管理のあり方(教義権力の旧態身分制など形ばかりになっていた所=議席・地位の公務吏僚化の仕切り直しが必要になってきた所)にも、いい加減に手を打たなければならない時期になっていた。

 

そういう所の教会改革(これからの下の労働基準と待遇のあり方も含める、キリスト教社会の規律の見直し)が上の間でも求められるようになり、上の事情はよく解らない下々の間でも、特に下同士の今までの、愚民統制の旧身分制議会の格差社会構造の維持のための生活苦を強要され続けてきた貧困層としても、明らかに教会改革による身分再統制(時代遅れの法・規律に対する減価償却)が必要であることが、ルターが抗議(プロテスト)し始めた 1510 年代から 1520 年代かけて、いい加減に深刻にもたれるようになっていた。
 

15世紀末の段階で皇帝マクシミリアン1世は、それが問題になってくる予見を早くもしていたからこそヤーコプ・フッガーを起用して 1510 年代までに国家銀行体制を作らせたことは、それだけでもかなり先見性ある優れた名君だったといえる。

 

人文主義の台頭によって、清貧の教え(苦難が連続しても挫折せずに前向きに生きなければ何も始まらないという教え)についてはともかく、特に取り沙汰されるようになったのが、徴利禁止の戒律が守られない(後述)まま、救済どころか下々をそれで縛り続け、旧態身分制に悪用され続けてきた矛盾についてになる。

ルターも散々非難している所だが、不作や不景気が原因のやむなしの定免税の滞納を補填させるために、生活保証権(都市の市民権・農地の自由保有地権)の売却を余儀なくされる旧態裁判権(従わなければ異教徒扱いとして容赦なく処分)によって、それが利息付きの借金扱いされ続け、そこから一生抜け出せない下の間の上下身分制が強制され続けてきた、すなわち下同士での労働搾取側と隷属労働者側の下の旧態身分制が中世末まで続けられてきたのも、16世紀になってとうとうそれも

 

 「旧式の戒律が裁判権(従わなければならない理由)なのか、それとも国際文化的な議事録処理といえる身分制の謄本登録制が裁判権(従わなければならない理由)なのか」

 

として社会問題として取り沙汰されるようになった。(資本家たちの地域貢献のひとつであった、貧民救済も少しずつやるようになったその動き自体が、その旧態の教会体質・公的教義体質に遠回しに反抗していたのも同然で、明らかにその聖属議会側に対する突き上げだった)

完全に時代に合わなくなってきた、今までの下同士の愚民統制式の旧式の公的教義構図は、むしろ上(貴族資格者や高位聖職者ら特権階級者たち)にとっての死活問題であり、なんとかしなければその内に下の施政権(下同士の身分統制権)を、小貴族たちよりも資本力を身に付けるようになった資本家たちにその主導権(施政権)を全てもっていかれる形で崩壊、すなわちキリスト教社会全体の崩壊だというここが、ろくに説明されてこなかった所になる。

 

 ※日本では下々のこの問題(等族指導)を、上(旧室町体制)が一向に対処できなかったから戦国時代(惣国一揆。正しさの乱立の閉鎖有徳闘争)が長引き、とうとう織田信長が閉鎖有徳狩り(身分再統制・前期型兵農分離)に動く形で対処されることになった部分

この問題が、皇帝カール5世時代のドイツの帝国議会(イタリアの世俗議会をドイツ王族が肩代わりするようになった、その総裁である皇帝がキリスト教社会全体の世俗裁判権の手本でなければならなかった)でようやく本格的に対処され始めるが、その少し後にイギリスでも同問題がいよいよ深刻化し始めることになる。

 

イギリス政府はこれが原因(=資本力による囲い込みのエンクロージャー問題の大地主連合ジェントリーの台頭=これらが資本力でイギリス議会の議席をかっさらい始める)で実際に議会制(王国としての枢密院・企画院)が崩壊しかけた、だからエリザベス1世の時代になってどうにか整備されるようになった部分になる。(スペインのカトリック主義の圧力にも、その決別のプロテスタント独立運動にももちろん大影響)

当時何が起きていたのか(=上・議会が何をしなければならなくなったのか)、税制(身分制)の根幹から見直さなければならなくなるほど急に前近代の姿を見せ始めた16世紀は、説明しなければならないことが多い。

 

税制の根幹にしても、前近代の姿を見せ始めた16世紀からはもはや、近代化における直間比率(直接税と間接税の整備)にもこれから向き合わなければならなくなった時代(=その徴税法の観点からもそれまでの非文化的だった、公的教義体質のままの旧態裁判権は足枷でしかなくなっていた)であり、しかしここは同じく日本の江戸時代での経済景気期でも結局調整し切れずに、日本でも西洋でも大いに苦労する部分になる。(直間比率の件は後述予定)

 

織田信長は、中央再統一に乗り込んで以降の 1570 年代からそれ(今後の海外貿易・文化交流にも関係してくる、直接税・人文多様税 と 間接税・啓蒙合理税の仕切り直し)も当然視野に入れていたと見てよい。(賢臣であった明智光秀と羽柴秀吉もそこを当然理解していたと見た方が自然)


そういう所にもさっさと取り掛からなければならない段階になってきていたのに拘わらず、反織田派に組していつまでも旧態社会の権力(議席)に居座ろうとした(前近代時代化・等族社会化のための身分再統制に反抗し続けた)だらしない連中(格下げされて当然、議席に不信任扱いされて当然の、旧式通りでないことに気絶・思考停止することしか能がない偽善者ども)には、織田信長は相当あきれていたと見て間違いない。

 

マクシミリアン1世とカール5世(とその王族連合の議会の重臣たち)も、具体的にどうするのかはともかくとして、そういう所に対応しなけれぱならない時代になってきたことの上としての認識は、少なくともできていたと見てよい。

 

西洋での「何をしなければならなかったのか」について説明しなければならないこと多いが、まずは当面の問題として、日本での豊臣秀吉の施政がうってつけの参考になる。

 

日本では、本能寺の変で討たれてしまった織田信長の役目を豊臣秀吉が代行する(代表選に挑む)形で、上から下までの天下総無事の身分再統制(公庶分離の謄本登録制を守れ! 政権への公認などなければ、意見提出の認知すらされていない勝手な公的資格権力を作り始めることや、武士同士・庶民同士の勝手な上下慣習の押し付け合いは討伐対象だ! 踏み潰すぞ!)が断行されることになる。

 

1580 年代ではまだ織田氏の敷居の身分再統制(公庶分離=行政官・旗本吏僚 と 保安官・正規軍の公務資格の仕切り直し体制 = のち江戸体制の参考)の影響を受けていなかった遠方地域は多く、中央再統一の手本の織田氏と、地方再統一でどうにか足並みを揃えるだけで精一杯になっていた諸氏とのその敷居差は少し深刻な状況だった。

 

1590 年代にかけて、豊臣秀吉の天下総無事の巡回(紀伊・四国・九州・関東・東北を取り締まる=身分再統制する軍事行動)が行われ、それまで各地に溢れかえっていた、身分など曖昧にされ続けてきた半農半士たちの多くは、公務吏僚資格(士分待遇・帯刀資格)を豊臣政権から正式に公認・登録保証されないことの選別が明確化され、豊臣政権から見た非公式なそれまでの旧自治体(閉鎖有徳)は解散させられることになる。(後期型兵農分離)

 

多くが庶民扱いされた代わりに、民間にはそれぞれ明確な生活地権の再手配・謄本登録保証が敷かれる(不当な奪い合いがされた際にはその訴えの届け出ができる)ようになり、その地域単位での連帯責任の政権公認の庶民政治体制(地域単位で資本管理・地域企画ができるようになる政権公認の自治体。地域ごとの代表である名主が、その選任議会的な庶民政治・等族義務の管理者だと再認識させる)に従わせる形が採られる。(元名族同士の半農半士たちのいがみ合いの終結)

 

この下の庶民政治体制(下の品性規律)を守らせるために、上の政権側(手本家長側・公務吏僚側・上の品性規律)がそれを公正に管理(議事録処理の受理と裁定で謄本登録を議決)する体制が徹底される。

 

豊臣秀吉は織田信長よりも、姿勢次第では上(地方でいがみ合っていた戦国大名たちとその家臣たち)をいったん大目に公認・許容した上で、それを少しでも乱そうとする(低次元な頭の下げさせ合いの強要を再燃させようとする=政権議会の裁定はおろか評議性の意見整理すらされていない公務資格や世の中の正しさとやらを勝手に乱立させようとする=低次元なケンカ腰でいがみ合うことが許される理由を乱立し合う=下に甚大な悪影響を無神経・無関心・無計画に与えようとする)だらしない動きが見られれば、上から順番に手厳しく恫喝(等族諸侯資格を巻き上げるぞ! 踏み潰すぞ!)した。

 

そこに少し時間をかけて工夫される形で、国内の争い(選任評議的な意見整理の議決性など皆無な低次元な頭の下げさせ合い)をとうとうやめさせた・終わらせた良例作りに成功(政権公認の謄本登録などされていなければ、意見整理の認知すらされていない序列権力の公的資格を勝手に乱立し合い、勝手に上下統制を始めることは反逆扱いの厳罰を徹底=天下総無事令で克服)した豊臣秀吉の偉業は、今後の法治国家的な国民総生産社会(この基礎が、のちの江戸時代の文化的な経済景気に結びつく)に対応できるようにしていくための、まさに前近代的な体制政策だったといえる。

 

「何をしなければならなくなっていたのか」のこうした、まずは同胞(国内・教義圏内)の「特に下の中の下に対する」救済的な次世代型の身分再統制(文化的な庶民政治改め)は、西洋でも国威・格式の文明力の問題として同じく、いい加減になんとかしなければならなかった部分になる。(その国際意識が強まっていたからプロテスタント騒動が起きた)

 

この背景(社会心理)は、当時ポルトガルと航海事業を国力任せに競うようになったスペインが、アジアについてはともかく新大陸の現地人に対して異様に厳しかったこととも、もちろん関係している。

 

誤乱用され続け、汚染用語化(思考停止化)され過ぎてしまった奴隷という言葉も、歴史的(社会心理的・民権的)な意味がろくに説明されてこなかったこととして、特に16世紀以降のその用法は注意が必要になる。

 

16世紀以降の奴隷の広義的な基本の意味は日本も西洋も同じ、自治権的な登録保証権(生活権)など何も受けていない(庶民政治の中の産業権自体がないから、それを有している者たちの許可が必要になる)ことを意味する。

 

それは日本の江戸時代後半、常に幕府の身分制議会が崩壊しかけるようになって、その支配体制の改革に行き詰ったことの不満そらしの悪用のために始めた、非同胞人種扱いとして社会的制限を受ける非人制場凌ぎ的に押し付け始めたものと、近いものになる。

 

つまり、西洋の奴隷制も、日本の非人制も、議会(政権)が認知するその教義圏(国内)における、下の中の下の公式な身分制という意味が16世紀以降、17世紀、18世紀と強くなっていく。

 

プロテスタント運動の大きな争点のひとつになっていたのも、まさにそこになる。

 

キリスト教徒の同胞内で、なぜ社会的な保証権(市民権や自由保有地権の民間保証)がある側とない側がいるのか、つまり「ない側の奴隷待遇扱いが、いつまでも野放しにされ続けたままなのか」の矛盾が、15世紀末から等族社会化(多様資本交流社会化)が進んだからこそ、そこもとうとう突かれるようになったのである。

 

要するに、今までは教義権力任せにそこを威力(暴力)でうやむやにねじ伏せ続けられてきた最下層貧民たちは

 

 「奴隷扱い(キリスト教社会の中の明確な生活保証権の謄本登録を受けていない)がされている時点で、キリスト教徒ではない異教徒扱いを意味するのに、だったらなぜキリスト教徒の戒律(裁判権)を守っても奴隷扱いのまま(=明確な生活保証権の謄本登録がされないまま)なのか、それ自体がおかしい!」

 

 「キリスト教徒扱いしてもらえないのに、キリスト教徒としての裁判権(今までのままの公的教義体質)に従い続けなければならないこと自体がおかしい! 何を以って我々はキリスト教徒なのか、それとも異教徒扱いなのか、いい加減にそこをはっきりさせてくれ!」

 

と、今まで言い出せなかったその声を、エラスムスやルターら人文主義の神学者たちの公的教義に対する抗議(プロテスト)のおかげで、とうとうその民権的な声を挙げるようになったのである。(実はマクシミリアン1世がその流れを煽ったことが、全く説明されてこなかった部分。後述)

 

世の中(社会規範)もすっかり変わってきているという中で、今までそこを散々曖昧にごまかし続けてきた旧態の西方教会(カトリック)体制に従い続けても何の救済も恩恵もない、そこに何の見通しもないいい加減な状態が続けば人心が離れていく(教義崩壊していく)のも当然の話なのである。

 

その下同士の旧態身分制が今まで低次元過ぎた、つまり自分たちの教義圏内同胞か異教徒かの法規定も自分たちでろくにできない、その騒動もろくに抑えられない低次元な代表しかいない(ポンコツ議員しかいないことの自分たちの選任議決性のなさも自分たちで問題視できない)だらしない教義圏国家が、何が世界線の教義圏外との国際軍事裁判権(国威の調印)の力量争いなのだという話である。

 

この旧態身分制の矛盾は日本でも、「皆が皇室の家来筋の同胞のはずなのに(皆で皇室を支えなければならないのに)」という部分がありながら、戦国前期に下同士で勝手な上下格差社会(閉鎖有徳権力)を作り始めて、上の権力闘争に便乗して負けた側を奴隷扱い(下の間で格下扱い)し合うようになった浅ましさも共通している。(だからこそ戦国前期に浄土真宗が、そこをろくにまとめられなくなった世俗裁判権を否定するようになり、戦国後期に織田信長がとうとうそれをやめさせる公務吏僚体制の手本を示すようになった)

 

ここで時系列の視点になるが、これからのキリスト教社会のあり方を巡ってまずドイツで騒然となっていた中で、帝国議会は何だか本計画を隠すようにツンフト(最下層貧民が勝手に作っていた非公式な労働組合)の解体に乗り出し始めたため、貧民層は無条件で解体させられることがないよう、とにかく慌てた。

 

この時に帝国議会(カール5世)が「何だか予定を隠すように、何か大事なことをごまかすようにツンフトの解体」を始めた、ここが要点になる。

 

まず 1520 年代には、小口も参加できるようになった証券取引を利用して、資産運用することに熱心になった資本家たち、市民たち、自由保有地農家たちの多くがそれに夢中になり、しかし実はそれに手を出した分だけ後で大変なことになることなどは、下々は知る由(よし)もなかった。

 

「とんでもない上(帝国議会)の計画」が待っていたことなど下々は何も知らされず、資本取引で良い思いばかりしているように見えた市民や保有地農家をよそに、ツンフトが解体されるということになった当時、最下層貧民たちは状況がよく判らずに追い詰められているように感じながらかなりごねることになったが、上の狙いとしては全くその逆だった。

 

1550 年代に行われた、プロテスタント鎮圧戦と関係していたツンフト解体は、実は後々で最下層貧民たちが得することになる、下の平等化政策だったといえる。( 1555 年にプロテスタントを認知してしまったことも関係)

 

非公式なツンフトという存在があるから、貧民たちが困った時になんとか凌ごうと、行政の行き渡らないその組合の中での寄り合いが続くことになる、だから下同士の格差もいつまでも縮まらなくなる、だから解体されることになったのが実際になる。

 

その解体で失職し、行き場を無くしたように思われた貧民たちは、スペインが急に軍を大動員することになったその徴用に大勢が雇用されるようになり、食料と貨幣が手配されるようになった。

 

威勢の張り合いで歯止めがかからなくなるほど軍動員とそれを支える兵站(へいたん)の準備も大規模化していく一方になった当時、その分だけ軍用品の生産受注も急に求められるようになったことで職場が増えて、そちらの仕事に貧民たちもどうにかありつくようになり、とにかくスペイン王室を中心とする巨額の軍備の貨幣が、多くの貧民に広く行き渡らせることが意図的にされた。(織物や皮製品や金具作り、染め物業や原料作りなどの、文化的な物流産業拡大の下地作り)

 

プロテスタント鎮圧戦でも大勢が徴用され、鎮圧する側の皇帝軍に応募すれば食料と貨幣の配分が受けられることを強調したことで、そのプロテスタント一揆から貧民たちを調略的に離脱、鎮圧側に立たせることで早めに決着させるという大きな効果もあった。

 

カール5世は、ドイツ皇帝に就任、カスティリャ王(スペイン王)に就任した最初からフッガーに頼り切りで借金だらけで、全く返済の見通しも立っていなかった中、どうやって度々の巨額の軍備を捻出していたのかは、少し先述した通りになる。

 

フッガーの国家銀行と、帝国議会後の大市と、アントウェルペン取引所を介した国債発行の乱発という盛大な必殺技を駆使して、貴族だろうが資本家だろうが市民だろうが保有地農家だろうが、とにかく金をもっている順から口車で貨幣をかき集めた。

 

おかしな利率で証券市場が異様に盛り上がった 1540 年代に、勢いよく乱発されたスペイン国債が通貨のように流通されたことは、下々は上の事情など知る由もなかったが、カール5世はこの時点でもう内々では「総踏み倒し(=金持ちから順番の強制的な臨時税的巻き上げ)」を決め込んでいたと見てよい。

 

1550 年代後半になると、それまで資産価値扱いされていたスペイン国債の換金能力が大いに低下し始めた(自転車操業で間に合わなくなってきた)ことで急激に下落し始め、フェリペ2世の時代にどうにかごまかしながらその証券市場を維持していたが、1575 年に限界を迎える形で債務支払停止宣告(国家破産宣告)、以後 1580 年代にはその立て直しはもはや不可能な状況に陥る。

 

自ら借金大魔王を演じることになったカール5世のやったことを簡単にいうと要するに、表向きの利率の口車で、金に余力のある者から金を集めるだけ集めて、全額ではないもののそれでもその内の多額が、貧困層たちの社会復帰の支度金のために盛大にばらまかれたのである。

 

カール5世の王族連合時代の無理難題に付き合わされることになった、帝国の金庫番のアントーン・フッガーも、内々では当然そこには気づいていたと見てよい。

 

ただしアントーンの立場としてはそれは理解していても、国家銀行として維持し続ける責務がある限り、その公信用で資本管理しなければならなかった、そこがかなり大変だった所が窺える。


証券市場という今まで体験したことがない新環境(手品)を巧妙に利用し、金をもっている連中から根こそぎ金を巻き上げて、貧民たちに強引に分配してしまった当時の手口は、今風でいう強烈なグレートリセットだったといえる。

 

貧民には無縁の世界だった、証券経済で資産運用できていたように錯覚して夢中で投機していた多くの連中は、一斉に資産を失う者が増え始め、中には損切りで大損は免れた者もいてたとしても、所詮は不良債権の押し付け合いだから助かった者も少数になる。

 

オスマン海軍の追い返しとフランス軍の反抗でただでさえ軍費がかかる中、そこにプロテスタント鎮圧戦が加わる三重苦を強いられることになったカール5世は、あらゆる所から金を引っ張るだけ引っ張り、あらゆる特権を質入れ(後述)までしてどうにもならなくなった中で、なおフッガーにメチャクチャな借入要請を繰り返した。

 

銀行ではもう間に合わなくなったアントーンは、内々でカール5世に実質泣きつかれる形で、巨額の個人資産を放出させられている。

 

そんな動きになったのは、カール5世にしてもアントーン・フッガーにしても、その前時代のマクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーが始めた救済計画を、内々で律儀に守ろうとしていた現れだったといってよい。(後述)

 

これは、カール5世は資本管理にだらしなかった等の単純な話ではなく、どうやって下々を身分再統制するのか、そのための下地をどうやって作るのか自体が簡単な話ではなかった。


証券取引に夢中になった、それで資産運用ができているかのように錯覚していた市民や保有地農家たち、ヘタに貴族より金持ちになった成金の資本家たちは、議会で税制の見直しも含める資本管理をしていかなければならない深刻さをよそに、また貧民たちの生活苦をよそに、

 

 より資本を多く獲得できた者、市場を資本力でより押さえられる者との縁を資本力で構築していくことこそが、議会や貴族を差し置いて社会的地位としての施政権(下の統制権)を制することができる

 

かのような

 

 カネさえあれば下をいくらでもいいなりできるだけでなく、上も牛耳れる(意見を通せる)

 

かのような、そこが安直で単純な危険な風潮が蔓延していた。

 

経済景気でにわかな金持ちが増え始めて、資本力こそが小貴族の頭を下げさせることも可能であるかのような、それが身分制であるかのような風潮が蔓延していた中、大して貴族品性を身に付けている訳でもないにわかな成金たちが、自分たちの直接の利益にすぐに身入りする訳でもない公共事業にそう簡単に金を出し合おうとする訳がなかった。

 

金がある者から金を出させるという、近代的な徴税法を制定することはすぐには難しかった(そこは有志の資本家の出資次第の所があった)中で、カール5世とその重臣たちはそこに内々で悩まれた末に、やむなくとぼけながらやっていたものと見て間違いない。

 

当時のそうした情勢も考えると、カール5世(の王族連合の当時の重臣たちの密議)のしたことは、やり方はかなり強引ではあるものの対策としては、だいぶ利にかなっていたと筆者は見ている。

 

カール5世時代は、人類史的にも世にも奇妙な珍しいことが起きた。

 

それは、いつの時代も金持ちが権力と結びついて、何かあれば一部の金持ちたちだけが得をし続け、金がない大勢の下から順番に損や負担をされられる構図が常であるはずな所、カール5世の時代にはそれと真逆の世にも不思議なとても愉快なことが起きてしまったのである。

 

どんなカラクリだったのか知る由もなかった貧民たちは、大規模化していくばかりの軍の徴用や軍用品産業の雇用のおかげで生活もいくらかマシなものになっていく形で、ようやく貧民救済の、貧民たちにとっての所得倍増計画の下地の対策が少しはされるようになった。

 

その資金は欲ボケして投機に夢中になっていた連中から、証券市場という盛大な手品で金持ちたちから巧妙に巻き上げた貨幣が、実は貧民たちに配給されていたことなど、下々は何が起きていたのかはすぐには理解できていなかった。

 

ただ、証券市場の 1540 年代の勢いから 1550 年代に急落が始まり、それに投機して財産を失って落胆する者が急増するようになったその時に「上は最初から、そのつもりでいたのではないか・・・」と気づいたかも知れない。( 1560 年代に市場信用は多少回復するが 1570 年代に大崩壊 )

 

次も引き続き、16世紀の西洋での最下層救済の様子に関することに、触れていきたい。