近世日本の身分制社会(116/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか44/?? 2023/01/26
 

今回も、前回から列挙している

 ① 1558 と 1560 以降の16世紀後半からのフェリペ2世とジェノヴァ筋の資本家たちの時代

 ② 1558 と 1560 までの16世紀中盤までのカール5世とフッガー銀行(アントーン・フッガー)の時代

 ③ 1519 と 1525 までの15世紀末から16世紀前半にかけてのマクシミリアン1世とフッガー銀行(ヤーコプ・フッガー)の時代


の時系列(社会心理)を意識しながらの、そもそものマクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーが始めた

 当時の多様資本交流社会化の対策としての国家銀行体制(と、それがきっかけとなった証券経済)

がどういうことだったのか、内々ではどんな想定の計画だったのかの帰結的な整理と、それについての当時の西洋の社会情勢について、整理していきたい。

まず、皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公。ドイツ王兼任。ゲルマン全体の王族の代表格ハプスブルク家。公・大公は国王並みの格式。デューク・グランドデューク)は、本来の皇帝(帝国議会の総裁=キリスト教社会の世俗側の全代表。王族の代表)らしい姿に立ち返って、議会再建を始めた優れた人物になる。

 

重要なこととして、このマクシミリアン1世は

 「上であればあるほど、キリスト教徒のための仁者(じんしゃ。ただ善人ぶるのではなく、特に下々の敷居向上のための対策に当たろうとする手本家長らしい人。本来の有徳思想に取り組もうとする人)でなければならない」

という、本来の等族義務(下を良い方向に導いていく上のとしての最低限の務め)に真剣に立ち返って諸対策(世俗議会としての改革)に動いた部分が、当時の時代背景(社会心理)が十分に説明されてこなかったことでそこが評価されてこなかった、それを説明していきたい。


まず西洋の15世紀末は多様資本交流社会化(遠隔地間商業による資本家同士の政治的協約の台頭と、航海・出版・郵便の国際的な情報交流の発達)が進み始めたことは、近代の前身の経済社会の姿を見せ始めたことを意味する。

 

だから時代に合わない今までの中世(寡頭主義)のままのキリスト教社会の旧態規範(国際協約評議性などない今の日本の低次元な教育体質と同じ偶像の押し付け=低次元な頭の下げさせ合い)に、人文主義(他力信仰一辺倒に対する、自力信仰不足の訴え)が芽生える形で賛否が起きるようになった。

 

それは、遠隔地間で協約力(施政的な庶民政治力)をもち始めた資本家(人文主義を推進することになった)たちだけでなく、上級貴族や聖職者たちの間でも、ただ足並みを揃えるためだけの今までの教会体質に、内々では賛否が起き始めていた。

 

何にしても教会改革(時代に合わなくなってきていた旧態規律に対する見直し = 価値観改め = 裁判権改め = 社会的地位・議席の基準の身分待遇改め = キリスト教国家全体の国際力化・立法力化・高次元化のための議決の敷居の見直し)を望む風潮が、16世紀に入るとより強まるようになる。

多様資本交流社会化が進み、生活権(農地での自由保有地権か、都市での市民権)を得ていた者たちはその恩恵で豊かになれた一方で、それを取り戻す見通しもないまま、今まで通りの隷属(古い納税滞納の借金の利息縛りの、下同士の厳しい上下身分慣習)を強制され続けていた貧困層(小作人や日雇い労働者たち)もいい加減に、生活苦改善のための教会改革(規律の社会観改め)を求めるようになっていた。


今までの教義のあり方に不満だった、これからの教義のあり方に熱心だった人文主義者(自力信仰・人文多様不足への取り組み)たちに、生活苦を理由に貧困層たちの多くもそれを支持した当時のプロテスタント運動(抗議闘争)は近代の民権運動の前身といえる。

 

その時代の節目(社会心理)を見渡しながら、

 生活保証権がいつまでも得られなかった(何の所有権も認められてこなかった。市民権または自由保有地権の謄本登録保証など一切なかった)今までの通りの隷属待遇(旧身分制)を強要され続けてきた多くの最下層貧民たち

 

から見ると、当時できた大銀行体制と証券経済は、上の間で何が起きていたのか下々は訳が解らないまま、下同士で格差が広がる一方に「その時はなった」ため、経済景気の恩恵を大して受けられなかった貧困層たちを「その時は」間違いなく逆なでしていた。

 

長続きしなかったこの証券経済の隆盛と崩壊は結果的に何を意味していたのか、これが崩壊したら崩壊したで実は貧困層の救済に繋がることを意味していたことは、少し後のことだったこともあり、当時の下々がそこを理解するのが難しかったのも無理はない話になる。

 

この崩壊に向かっていくまでの


 いくつかの結末も想定済みだったと見てよいマクシミリアン1世が、ヤーコプ・フッガーを人事的に抜擢する形で急いで国家銀行体制(と証券経済体制の手本)を作らせたことと、アントーン・フッガーもその想定を内々では踏まえていた上で、引き続き国家銀行を支えていたこと

 次期皇帝カール5世の重臣たち(帝国議会の中心人物たち)の中には、先代マクシミリアン1世の動機(内々の計画の議事録)をよく知る者(管理する者)もいて、カール5世(スペイン王)もやむなく借金を繰り返すことになり、メチャクチャになっていく一方のスペイン王室財政にアントーン・フッガー(国家銀行)も仕方なく付き合わされることになった

 

その一連の流れが結局どういうことだったのか、マクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーが生前中に始めた

 

 「この多様資本交流社会化に対応できるだけの大銀行体制、大証券経済をとりあえず作っておけば、後はそれで神聖ローマ帝国(西方教会圏・カトリックのキリスト教国家)の強国化(近代化にむけての近世の始まり)を、後は次代たちがどれだけしていけるかの問題にしておける」

 

 「それで新時代に向けて主導国が(今まではイタリア・ローマの世俗議会をドイツが肩代わりしてきたのも、スペインがこれからはそれを肩代わりするならそれならそれで)さらなる強国化がしていけるならそれで良し。長続きせずに破綻(処理し切れなくなって国家破産・強制デフォルト・虚像証券経済崩壊)させることになるなら、それならそれでどちらに転んでも結果的に最下層貧民たちの救済になるから良い」

という思惑だったと見て間違いないこととして、当時の経緯・情勢(時系列・社会心理)を説明していきたい。

教会改革(下としては聖堂参事会側の民事的な保証を巡る裁判権改め=人文多様的・個人尊重的な規律見直し=労働組合的な待遇改革)の意識が強まった15世紀末から16世紀初頭に、マクシミリアン1世もそれをきっかけにとうとう最下層貧民たちの救済計画にも動き始めたことが、それがどうしても直接的なものでなく、そこが全体像的な時系列(社会心理)でしっかり説明されてこなかった所になる。

 

そのためにはまず、上の認識改め(等族義務の見直し=世俗議会と聖属議会の両方の議会改革)のためのテコ入れ(特に動こうとしない公的教義体制にケンカを売る)から始めなければ、(等族義務を示す手本家長側=人の上に立って裁量するための議席・人事序列の資格側)がその主体性(議決性・等族義務)にまとまり(再統一・議会改革の示し合い)もなく、そこをうやむやにいがみ合い続ける国際協約評議性といえる議事録管理の手本など皆無なだらしない劣情を延々と押し付け合う)ようでは何も始まらない。

 

16世紀は日本でもここは同じ身分再統制(= 今までの議事録処理の仕方・裁判記録の管理の仕方の一新 = 人の上に立つ敷居・品性規律の基準の仕切り直し)にいい加減に動かなければならなくなった、近代の前身の姿を見せ始めた16世紀の特徴が、これまでどういう訳かそこがろくに説明されてこなかった。

何にしてもまずはから、つまり

 

 国際協約評議性といえる状況回収の議事録処理・時系列処理の仕方の基準更新の手本

 

  =

 

 被害予防の道義内的(つじつま的)な人文多様加害予防の道義外的(協約外為的・開拓的)な啓蒙合理の整合力・構想力

 

  =

 

 身分再統制(高次元化のための人事序列改革)をする側の代表議長(絶対国家政権的な手本家長)としての裁量力(体制的な議事録処理の社会的説明責任力・国際的指導責任力=信用証書力)の示し合い

 

 =

 

 国際情勢(異環境間)の敷居への対応力(議会力=主体性・計画性=国際協約評議性の議事録管理力)による、強国化のための組織構想

 

について、まず上(議会・政権のあり方)からなんとかしなければ、自分たちのそこ(主体力・当事者力)をいつまでもうやむやに妨害し合っていては、時代遅れの価値観争い(万事外圧任せの低次元な頭の下げさせ合い)をただ繰り返すだけでは何も始まらないのは、現代での個人間・組織間・国家間での課題対応の力量差(等族統制力差)でもそこは同じ、戦国後期の中央・地方再統一(議会改革)でも、幕末の旧態議会解体(江戸幕府解体)でもそこは同じになる。

その議決のあり方(見直し)から着手し、上から順番に調印(敷居確認)させていく大事な取り組みなどできたことがない、すなわち

 

 旧態議席(旧社会観)にしがみつき続けて議席を譲り合う(序列の基準を自分たちで見直す)ことをしようとしない

 

 =

 

 議決性(国際協約評議性)共有とただの劣情(ただの指標乞食主義=ただ下品で汚らしいだけの外圧任せの寡頭主義)共有の区別(自己等族統制)も自分たちでできなくなっている

 

 

 

 人の上に立つ資格(その議席に居座る資格・人の合格失格を回収裁量する資格)などない時代錯誤の法賊(偽善者)をあぶり出す

 

 

 

 主体性(当事者性=議決性=人文多様啓蒙合理の妥当性を議決するための議事録処理の手本=等族指導の手本)など何ひとつ大事にしてこれたことがない今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものように、今まで通りの偶像(低次元化・衰退化のための頭の下げさせ合い)を無神経・無関心・無計画に押し付け合うことしか能がない、その議席(等族指導側=低次元な頭の下げさせ合いをやめさせる側)に居座り続ける資格(人の上に立つ資格)などない知能障害者(偽善者)の格下どもは議会から叩き出す

 

ことからしなければどうにもならないことを、ようやく人類は少しは反省(自己等族統制)するようになった近代の前身の議会改革(新時代への社会構造・観念改革)の回り道の姿(法治国家的な議事録処理の対応の姿=裁判権の本来の姿)を、日本でも西洋でも見せ始めた時代が16世紀の特徴になる。

 

上からということで、西洋ではマクシミリアン1世がとうとう着手するようになり、カール5世の時代の帝国議会で本格化したように、日本でもとうとう織田信長が具体的に乗り出し、その大きな前例手本を基(もと)に豊臣秀吉、徳川家康で調整されるようになる。

上の賛否にして下々の賛否にしても


 自分たち(当事者)にとって大事なことが何なのかの敷居確認の手本 = 異環境間で相手の良い所は導入し合い自分たちの悪い所は捨て合う、本来の見習い合いの品性手本

 

国際協約評議会的な敷居確認の手本といえるものをもてている者(真剣に向き合っている者)など、いつの時代もわずかしかないものである。

 

自分たちの待遇(地位や生活権)の安泰を計ることや人を出し抜くために低次元な頭の下げさせ合いをケンカ腰に強制し合うことしか能がない、自分たちが大事にしなければならない主体性(議決性・等族指導の手本)は何なのかを、自分たちで終始うやむやに、不都合の押し付け合いで足を引っ張り合うことしか能がない身の程知らずどもがいつの時代も大半な中で、次世代的な刷新の課題(敷居確認)に皆が急に向き合う訳がないというそこが、まず簡単ではない。

 

いつの時代も、その深刻さに向き合おうとしているものは全体の1割もいないものだが、それでもとうとう選別(改革)せざるを得なくなってきた近代の前身を見せ始めるようになったのが、16世紀の特徴になる。

 

絶対家長的(国政の総議長や重役たちの議席序列のあり方の仕切り直し)な身分再統制の議会制が芽生え始めた、いい加減に上の間でその敷居改めをせざるを得なくなった16世紀は、日本でも西洋でも

 

 議決性(国際協約評議会的な敷居確認の手本)など皆無な人生観しかもち合わせていない化けの皮(教義権力任せのただの指標乞食主義・ただの劣情共有・ただの思考停止)がいとも簡単に剥がれる(その敷居で何ら提出・議事録処理・時系列回収などできたことがない)ような身の程知らずの低次元な格下(偽善者)が、その議席(合格失格を回収裁定する格上側=公務吏僚の手本を示す側=書記局官僚として議事録と謄本登録を管理する手本を示す側=ケンカ腰になる資格)にいつまでもしがみ続けることが、とうとう許されなくなった

 

のが特徴になる。

教義圏外はともかく教義圏内でようやくそこに取り組み始めるようになった、その議会改革(選任議席的再統一)の力量差(裁判力の国際敷居向上力差)が国力差(情報外交産業力差=総力戦差=国際協約評議力の優劣差)となって現れるようになった、近代の前身の国家の姿を見せ始めたその大前提がまず、これまでろくに説明されてこなかった所になる。

 

だから、織田信長の時代の戦国後期も簡単な言い方をすれば、そこができている高次元な格上側が、そこができていない低次元な格下側のだらしない閉鎖慣習(低次元な頭の下げさせ合い)に対し、とうとう一斉に身分再統制される議会的な力関係が明確化されただけの話だが、その大前提が全く欠落した解釈ばかりがどういう訳か、今なお続けられている。


話は戻り、マクシミリアン1世が、ヤーコプ・フッガーを見込んで始めた国家銀行体制も含む議会改革は実際には、時間は少しかかるかも知れないがどう転んでも貧困層の救済対策に結びつく深慮遠謀の計画だった(なぜそういえるのかを順述)一方で、上の間で何が起きていたのか理解できる余裕など常になかった貧困層は、それまでどれだけ劣悪な社会環境だったのか、今まで放ったらかされ続けてきたそれまでの旧態社会がどのようなものであったのかにも、触れていきたい。

経緯こそ違えど近世(16世紀~19世紀前半)では日本でも、民権的な敷居向上も含める資本管理(資本社会的身分)は、

 

 絶対的な国家議会(強力な世俗政権)による公認・謄本登録を正式に受けていない、代表名義による意見提出・認知・裁定・控訴という法的手順も踏まれていない閉鎖慣習任せの勝手な上下身分構築の禁止、つまり公認資格(議会・総裁の謄本登録的な認知)なき支配する側(頭を下げさせる側)と支配される側(頭を下げる側)の勝手な行政権力的な上下構築の禁止

 

 これからは聖属序列も全て世俗議会(強力な絶対家長)が身分統制権(謄本保証の議事録処理)を請け負うという、法治国家(近代的)らしい議会制への立ち返り

 

を、今までできていたことにごまかし続けてきただけで、できていなかったそこを、自分たちの教義圏で今一度、できているといえる既成事実を国際力(当時の地政学的・教義圏的領域戦)の問題として、具体前例を示しておかなければならない時代になってきた。(日本では本能寺の変に影響)

 

それをどこまでやるのかを巡って、上同士でも賛否の動揺が起きた様子は日本と西洋で共通点も多いため、自国の歴史(教義史・裁判権史・議会史・身分再統制史)の理解力(社会心理)をより深めるためにも、西洋(異環境)の様子にも関心を向けておくことも決して損ではない。


15世紀末から16世紀初頭にかけて、多様資本交流社会化が顕著になったからこそ、資本家側・市民権側・自由保有地農家側と、その従事層の貧民との下同士の格差が一時的ではあるが急激に広がって深刻化するようになったことと重なり、最下層貧民たちは遅々として旧態改めが進まない現状に対してプロテスト(教会改革への抗議)を称して、暴動を起こし始め、治安を乱すようになる。

 

これは、高度成長期の急激な流れにおいては避けて通れない、経済社会が進化したからこそ起きても何らおかしくない、一時的な社会現象になる。

 

貧困層にとって不条理でしかないように「この時は」見えたこの流れで、結果的には貧困層たちのそれまでのあまりにも劣悪過ぎた生活苦も、マシなものに少しずつ改善されていくようになるが、それは資本力がある順から勢いよく過熱的に隆盛し、やがて崩壊(健全に維持できた少数と、不健全なやり方で維持できなくなっていった大勢とではっきりしてくる)の体験後の、その教訓的な成長後(下同士で協力し合う組合の構築力)の話にどうしてもなる所が、1960 年代でもそうだった高度成長期の特徴といえる。

 

15世紀から16世紀初頭にかけて、情報社会(郵便や出版や海外文化交流)の発達も含める多様資本交流社会化が急激に進み始めて、今までの足並みのためだけの化けの皮の慣習(時代遅れの公的教義体質)の時代錯誤(子供騙しみたいな教義の解釈の仕方)に人々もいい加減に疑問をもたれる形で、人文主義会による交流で意見をもち寄るようになった。

 

教会改革(キリスト教社会観の規律の見直し)が遅々として進まない中、強力な王族(ハプスブルク家中心の国際連合貴族の大継承者カール5世)が急に誕生したり、国家間の為替・証券業務をこなす大規模なフッガー銀行が急にできたり、また上同士でも今までと違う国政・軍制改革で急に近代的な格式争いを競い始めるようになるなど、今まで見たことも聞いたこともない出来事が連続したため、下々は上の間で何が起きているのかすぐには解らないまま、困惑する一方だった。(日本の織田信長の時代でも、下々がすぐには理解できないことだらけだった所は全く同じ)

 

今まで体験したことがないことが立て続けに起き、これからどうなるかの想像もしにくかった中での特に最下層貧民たちにとっては、証券経済の隆盛が起きて、銀行・取引所・国債による手形割引(証券の細分化)の発達によって市民や保有地農農家たちもその資産運用(資本取引)に参加できるようになったことで、それに参加できる者たちだけが良い思いばかりしているように、貧困層は完全に置いて行きぼりのように見えていた。

 

その多様資本交流社会化の中で、貧困層たちは今まで通りの隷属規範(貧困層を減らすための見通しの体制など皆無な旧態裁判権)のままいつまでも変わらないことに、その本音として

 

 「貴族層でない資本家や市民や保有地農家たちが、自分たちの資産を増やすための証券取引に投資するだけの金がそんなにあるのなら、我々を1人でも救済するため(生活苦の貧民から抜け出す)ための正式な市政組合を作ることにも、少しくらい協力したらどうか!」

 

と、それぞれが自己資産を増やそうと証券取引に夢中になる者が急増していた者(市民権または自由保有地権を得ていた、その生活保証権をもっていた側)たちに対してや、またそこを少しは等族指導しなければならなかった教区の聖堂参事会たちに対し、貧民側は当然のこととしてそこに強い不満をもつようになっていた。

 

そんな中で 1520 年代から(カール5世時代になってから)帝国議会が

 

 「議会が正式に公認していない、裁定で却下されたはずの言い分や、そもそもその意見書の公式な提出すらしていない序列や組織は、相手が高位聖職者だろうがその旧態慣習は全て巻き上げる!(身分再統制する!)」

 

と言い出し、貧民救済を長らく放ったらかしにし続けてきたから150年近くも維持され続けてきたはずのツンフト(市政の公認の労働組合による労働階級制の規制に貧困層が反抗して産業活動を続けてきた、非公式な特殊組合)の慣習も、身分再統制の対象になるということになった。

 

だから貧困層は

 

 「なら我々の救済(教会改革)の見通しはどうなるんだ!」

 

となった、だから貧困層の多くは、教会改革について熱心に議論していた人文主義会や、プロテスト運動が見え隠れするようになった神学者たちを支持する形で、無条件にツンフトを解体させられることのないように、必死になった。

 

当時の多様資本交流社会化の経済景気によって、資本家たちも民権的な福祉運動にようやく取り組むようにはなったものの(人文主義の先駆けとなったネーデルラントがそれが顕著だった)やっと少しはそこに向き合われた始まりの段階で、その姿勢の段階すら十分でなかった地域もまだまだ多く、その分だけ貧民を逆なですることになった。

 

そこの本音の露呈がとうとう形として現れたのが 1532 年2月シュマルカルデン都市同盟27都市

 

ザクセン州 6都市

 

 ブレーメン  ライプツィヒ  アイスレーベン(エアフルトの近所。ルターの故郷。父はここの鉱山技師) エアフルト(ルターはここの神学教授出身) ヴィッテンベルク  マクデブルク(最後の砦の反抗地) 

 

ニーダーザクセン州(ニーダーとネーデルは読み方とつづり違いで同じ、低地という意味) 2都市

 

 ブラウンシュヴァイク  エムデン

 

バーデンビュルテンベルク州 4都市

 

 コンスタンツ  シュヴェーヴィッシュ・ハル  ハイルブロン  ウルム

 

テューリンゲン州 3都市

 

 アイゼナッハ  イエナ  シュマルカルデン(協約地)

 

バイエルン州 4都市

 

 アウクスブルク(信仰問題の議決の場となった)  リンダウ  メミンゲン  ノェルドリンゲン(ネルトリンゲン)


ヘッセン州 2都市


 フランクフルト・アム・マイン  マールブルク

 

ホルシュタイン州 2都市

 

 ハンブルク(当時はホルシュタイン州?) リューベック

 

プファルツ州 1都市

 

 シュパイエル

 

他 3都市


 ケーニヒスベルク(ドイツ騎士団領のちプロイセン)


 リガ(ラトビア)


 ストラスブール(フランス・アルザス地方。ドイツとの国境に位置し、ドイツ人との商業交流が盛んでドイツ人たちはシュトラースブルクと呼んでいた)

 

の、教会改革が一向に進まないことに業を煮やし、都市単位でとうとうプロテスタント運動を始める事態に発展したことでも明らだったように、下同士の助け合い(救済民権的な議決性)を阻害してきた旧態序列(人文多様の自力信仰を否定させ合う、啓蒙合理の悪用虚像の他力信仰一辺倒で下を押さえつけ続ける = 下同士で低次元な頭の下げさせ合いの下の上下関係を続けさせる)の教義権力の強制にウンザリしていた下々(の苦痛を回収していたその都市の市参事会とその教区の聖堂参事会)の本音の姿が表に一気に出た、歴史的瞬間である。

 

ドイツで大小100以上あった都市(市参事会・自治市政)は、それぞれ小国家の格式の交渉権をもつ等族諸侯扱いとして、地方の大小の土地所有貴族(伯爵)たちと同じく下々の直接の面倒見役でもある立場だった。

 

その同盟に参加したかった都市はもっとあったが、しかしやみくもにその数を増やすことで議会や治安を乱す恐れもあるためやむなく自粛的に様子見していた、内心では同情的な都市が多かった数も含めれば、その支持的な数字はかなりのものだったと見てよい。

 

時系列が少し前後するが、1520 年代になっても教皇レオ10が教会改革らしいことが何一つできなかったため、特に貧困層の怒りが爆発し始め、各地でちょっとした騒動(陳情一揆)が起き始めるようになり、何かあればそれがいつ大規模化して大混乱が起きてもおかしくない、議会どころではなくなるかも知れない怒りがドイツ中で充満するようになった。(内心では上の間ですら、ローマにあきれる者も増えていた)

 

それで仕方ないからとうとう帝国議会(スペイン王室)は、人文主義の本場の神学教授出身であるアードリアン(教皇ハドリアヌス6世)を、制裁人事のごとく教皇庁に圧力をかけて強制的に擁立したのである。

 

ルターの言い分が波及しながら、各地に怒りの導火線に火がついていたような、いつその爆発連鎖が起きてもおかしくなかったその時に、教皇ハドリアヌス6世が全キリスト教徒に対して

 

 「教皇だろうが、今までの高位聖職者たちも所詮は人間のやることだから、間違いもする」

 

 「今度こその教会改革を、この私が約束する」

 

と、今まで「神に選ばれし教皇庁に従わないことは神に逆らうのと同じ」と、下々に教義権力でただ威嚇してただねじ伏せることしか能がなかったのとは全く真逆の、教皇が直々に下々に向けてそう布令するという、今まで見たことがない動きに出たため、これだけでも世間は大いに驚き、教会改革を巡る教皇庁に対する下々の怒りもにぶることになった。

 

この教皇ハドリアヌス6世が教皇庁(ローマ)に乗り込む形で、教会改革の弊害(劣悪性癖)にしかなっていなかった今までの旧態聖属特権の巻き上げ(聖属議会の人事改革=身分再統制)にとうとう動き始めた矢先に、不自然に急死してしまう。

 

教皇庁(枢機卿団)は慌てて教皇クレメンス7世を擁立し、フランスを巻き込んで帝国議会への反抗(スペインに首根っこを掴まれるようになった教義権力の巻き返し)を始めた、だから教会改革と何の関係もないその時代錯誤にとうとうスペイン王室を「そんなことをしている場合ではない!」と本気で怒らせる形で、あの 1527 年のローマの踏み潰しが断行されたのである。

 

これを境に、帝国議会がとうとう聖属議会の役目(プロテスト運動の裁定)もあからさまに処理(謄本登録・身分再統制)するようになる。(今までは体裁だけは、教皇庁との共同公認という形を採ってきていた)

 

その事態に各地の有志たちが慌て、危機感を以ってイエズス会(西方教会再生委員会。カトリックの伝統を建て直す会)が結成されることになった際も、もはや教皇庁(聖属議会)ではなく帝国議会(スペイン主導の世俗議会)が公認(議決)する形で、ここからイエズス会たちの懸命な公会議制(西方教会の伝統を守るための改革運動)が始まる。

 

ローマの踏み潰しの制裁を以って、もはや聖属(教義)問題も帝国議会の裁定次第になる、つまり今までの世俗側と聖属側との、うまくいく訳がなかった足元の蹴り合いの二頭政治がとうとう世俗主導で一本化される形にやっとなる(日本でも同じ。本能寺の変に影響)と、1530 年の「アウクスブルク信仰告白(=新約キリスト教社会の規律・立法)」の帝国議会への提出が認められなかったことの賛否を境に、シュマルカルデン都市同盟に発展する。

 

つまり、プロテスタント機運が強まる一方にあせったイエズス会の有志たちが、公会議制でカトリック主義(公的教義体制の西方教会の伝統)の建て直しに慌てたように、プロテスタント側も都市同盟を結ぶ形でプロテスタント主義(公的教義体制を支え合うことへの離脱 = 教義に必要以上に頂点や序列を置こうとする偶像の教義権力との決別を計る)の構築に慌てるという、その議会的な対立構図が 1530 年代から顕著になる。

 

これは本来は、聖属議会(教皇庁)がそれを回収し、時代に合った公的教義体制になるよう改革的に調停しなければならなかったのが何一つできなかった、だから教会改革を巡る問題が一向に前に進まずに深刻化していった、だからそれを当時、イエズス会(の公会議制)とシュマルカルデン都市同盟とで、とうとうその役目を請け負う形になったのである。

 

ここで注意しなければならないのは、イエズス会たちの公会議制が「対抗宗教改革(=プロテストされっぱなしな事実が深刻だからの、カトリック側の改革努力)」と呼ばれていたことでも解るように、カトリック派にしてもプロテスタント派にしても全員が徹底対抗派だった訳ではなく、

 

 「何でもいいから、とにかくキリスト教社会のこれからのあり方が健全化に向かっていけばいい」

 

と考えて、譲歩で許容し合う協調路線で考えていた中道的・和平的な穏健派もいた、だから

 

 「以前はカトリック派(プロテスタント派)を支持していたが、今回の意見書の内容で、それだったらやはりプロテスタント派(カトリック派)を支持することにした」

 

と、論争で揉めながらも意見が少しずつ集約されていくようになると、そのように支持を変える者も少なくなかった。

 

皆が過熱派という訳ではなかった、だからそれで裏切っただのと皆が必ずしも言い合う世界ではなかった、そこに下々も議会的(選挙的)な見方もするようになった所が、特徴になる。

 

その10年後の 1540 年代からは帝国議会との交渉が決裂する形で、それまでの議会的な対立から、武力的な対立のシュマルカルデン戦争が起きるが、この闘争は教義のあり方を巡る問題だけでなく、それがいつまでも前に進まなかった(ように見えた)ことで、旧態通りの生活苦を強いられ続けてきた大勢の貧困層の陳情一揆の性質も大きかった、当時の急激な社会変容が招いた避けて通れない混乱だったといえる。

 

この問題も、16世紀は近代の民権運動の全身の姿を見せ始めた時代に入ったから、こうした騒動が起きたこということが、これまでろくに説明されてこなかった。

 

16世紀の帝国議会の見方にしても、ただ聖属権力の首根っこを掴んで、下々をカトリック主義のいいなりにただ愚民統制し直すためだけのような、中世(寡頭主義)近世(等族主義)の違いもろくに区別されさないままの単純な見方ばかりされてきた。

 

そういう所も強国化のために議会を進化させていかなければならないことが上の間で意識されるようなった、だからお荷物のローマ(聖属議会の本部)の踏み潰しが断行される形で、世俗議会が教義問題の事態収拾に動くようになり、国際評議性もかなり意識(そこが欠落していると思われてはならないと)されながらの闘争に発展していった。

 

1540 年代から 1550 年代にかけて行われた、この段階での皇帝軍(帝国議会)によるシュマルカルデン同盟の鎮圧戦(それを支援していたツンフトの解体も含める)は、議会を通さずに教義のことでまとまりもなく内乱(武力闘争)で揉めているように見えてしまう事実は早い段階で鎮圧しなければならないという、議会が全く機能していないように見えてしまう(=すなわち自分たちの議決性も自分たちでろくに構築できない、キリスト教徒全体がそういうだらしない低次元な格下の集まりに見えてしまう)ようなその国際性が、互いに強く意識されていた。

 

その見通しもなく、応仁の乱から戦国前期にかけてのようにダラダラと内乱が続くようでは、世界から見た神聖ローマ帝国全体(西方教会圏全体)の国際的な権威失墜に関わってくるという意識もこの時は強くもたれ、だからこの時のプロテスタント闘争(シュマルカルデン戦争)は結果的に「進展(和解)のための収拾」に向かうための争いにできていたといえる。(帝国議会は 1555 年に、プロテスタントという存在に対し、とうとう公的な認知をしてしまうという、大きな前進を見せる )

 

逆に 1570 年代のスペイン一強主義時代の、プロテスタントたちへの議会一掃運動(主導国のカトリック派の足並みに揃えないことへの厳しさを強める=プロテスタント派に議決権などもたせずの格下扱いを続ける=ポグロム)は、こちらは崩壊に向かい始める(キリスト教社会全体がカトリック体制でまとまっているように見えるように、それを強引に維持しようとしたが長続きしなかった)錯乱だったため、そこにだいぶ違いがある。

 

シュマルカルデン闘争でのカトリックとプロテスタントの対立の方は丁度、日本の高度成長期といわれた 1960 年代のように、産業社会のそれまでの雇用や待遇について、特にその労働組合のあり方を巡って騒動が頻発するようになった傾向(社会心理)での共通点が多い。

 

今でこそ春闘(年々少しずつ変化してくる労働と待遇の規範に、社全体で向き合っていることを表向き示しておく労働組合の典礼)は規律的に行われるようになっているが、その国際評議性がまだ今ほど形成されておらず不慣れだった当時(16世紀も 1960 年代も)は、上も下も互いに不健全な意見も飛び交いがちで、どうしても暴走しがちな所もあった。

 

現代では、特に注目度が高い大手(日本経済の景気の統計調査対象になっているような、社会的影響を与えやすい大手)の場合は、従業員側も何でも上任せにするのではなく、少しはまとまった主張や確認をし合わなければならない義務もあるということになっている。

 

ちょっとした失態の報道をきっかけに、社側(権限の高い上)も従業員(権限の低い下)も互いにろくに確認し合ってしていない(大手に見合った労働組合が機能していないと見なされる)と取り沙汰されると、社の印象を著しく低下させてしまい利益に響くということで、その既成事実のため(大手に見合った労働組合が機能している所を見せておくため)にだいぶ平和的にされるようになったが、今よりも乱暴な上下関係が激しく、その禍根も根深くしがちで不慣れだった当時(16世紀も 1960 年代も)は違った。

 

労働組合のあり方の黎明期(16世紀も 1960 年代も)は、管理側(上・支配層)と働き手側(下・従事層)の2者対立で不健全に揉めている内に、そこから互いに分派が起きてその4種(上の分派と下の分派)の縦横の利害権力がまとまりもなく形成されることもよくあり、それで当初の目的(議決性)もどんどん乏しくなっていったり、また加熱威力派と穏健交流派とでだんだん分かれていくということも多い。

 

ただの押し付け合いの閉鎖権力(低次元な頭の下げさせ合い)の乱立が延々と続いて乱れ放しだったのがまさに戦国前期の構図だが、最悪なのは議会的基盤(国際協約評議性といえる業務指導的な議事録管理力の手本)など一向に形成されていかないまま、下同士で下同士の格下狩りの上下関係の押さえつけ合いのみ熱心になり始める、すなわち議決性をうやむやにし合うために偶像(劣情)を向け合う(低次元な頭の下げさせ合いを強要し合う)ことしか能がなくなっていく、その悪循環のおろかさ・だらしなさへの深刻さに自分たちで立ち返れなくしていく、それを誰もやめさせられないまま喪失(思考停止・低次元化・衰退化)させていく所にある。

 

そういう所は、現代においての当事者それぞれの時代(人生観)の節目でも、その4種(上の分派と下の分派)のいずれかの立ち位置に誰しもが直面することとして、ありがちな社会心理の共通点といえる。

16世紀に、今後のキリスト教社会のあり方に熱心だった人文主義者たちと、下同士で格差が広がる一方に不満ばかり募らせた貧困層の思惑とで複合的だった当時の民権運動的なプロテスタント運動の情勢は、19世紀から20世紀半ばにかけての資本社会主義と共産社会主義が乱用されながら対立した構図(社会心理)と類似点が多い。

しかし今まであまりにも汚染用語化(思考停止用語化)され過ぎてしまっている、これまでろくに整理されて来ずに誤乱用され続けてきた

 資本社会主義(自力信仰・被害予防の人文多様・貸方論) と 共産社会主義(他力信仰・加害予防の啓蒙合理・借方論)

がまず何なのか、16世紀はまだこの言葉が出現していないものの、当時の多様資本交流社会化は、まさに近代の前身の姿を見せ始めた、その先駆けの時代だったこととして関係あるため、いったん整理しておきたい。

 

この関係はカトリック(他力信仰を守る派)とプロスタント(弊害を立て合うことにしかならない他力信仰の不要論)で揉めるようになった構図でもはっきりしていることとして、厳密には対義・対立ではなくその一辺倒へ勧告、片方への過剰、片方の軽視、片方の不足を補う関係でなければならないことが、今なお失念され続けてきている。

 

それはいわば、複式的な損益計算の貸方(成立のつじつま)と借方(体制理念努力)の調整関係と同じで、貸方(自力信仰・個人的恩恵)の取り組みに熱心になることがで、借方(他力信仰・組織的健全性)の取り組みに熱心になることがだと言い出し始めることの自分たちのおかしさを、自分たちで自覚できなくしていくのと同じといえる。

 

すなわち経営におけるその損益分岐処理力(項目処理・議事録処理・時系列処理)の自分たちの主体性(議決性の品性規律)などないのと同じ、そこを全て外圧任せにしている時点で

 

 まがいもの(偽善)の虚像体質(そこに無神経・無関心・無計画な自分たちのだらしなさの弊害)の悪例(低次元な頭の下げさせ合い)

 

 

 そうでない良例(国際規格的な協約評議性の議事録処理による、信用証書の作成力を目指しているといえる社訓の手本)

 

との違い、つまり低次元な格下側高次元な格上側との、その違いの区別(自己等族統制)から、自分たちでろくにしてきていないのと同じなのである。

 

その区別(社会的説明責任力・国際的指導責任力の示し合い)もろくに自分たちでしてこれていないにも拘わらず、ケンカ腰に普遍主義(ソーシャリズム・ポリシー。ベクトル・ソーシャルディスタンス。ベクトルやベクターは編成仕様のことや、軍律のことや、その組織単位などを指す)をたらい回そうとするから、低次元化し合うことにしかならない。

 

これまでろくに整理されてこないまま誤乱用(汚染用語化・思考停止用語化)され続けてきた、資本主義(キャピタリズム)共産主義(ワールドコミュニティソーシャリズム)とは何なのかの背景(社会心理)を整理しておかなければ、その構図で見ることもできる近代の前身の経済社会の姿を見せ始めた16世紀に何が起きていたのかも見えなくなってくるため、そこに触れておきたい。

まず、資本社会主義(自力信仰)は簡単にいえば個別的自由尊重主義であるため、その道義範囲にはみ出さないように気をつけること(構築)さえしていれば、こちらはまだ自己完結性の分だけ、共産主義への深刻な誤認・誤用と比べればだが大したことはない。(道義内と道義外の範囲の議事録処理的な見方も自分でできていない内から揉めたがる問題児も多いが)

共産社会主義の誤乱用の方が深刻になるが、まず共産はコミュニズム(議会不足・敷居確認不足・国際規格不足に取り組む議会主義)、社会はソーシャリズム(健全普遍=良識の整理を異環境間で協力し合う主義)になる。

王政特権政治の撤廃が19世紀中盤に世界的に顕著になり、重農・重工主義の資本的身分制が台頭すると、資本力任せ・産業力任せ・資源確保力任せの、富国強兵主義の威嚇社会ばかりが世界全体で急激に強まるようになった。

 

すなわち第一次世界大戦の乱暴な地政学的領域戦のうちのめし合いの、人よりも資源や兵器を始めとする生産物の出来高の方が偉いとする、機械化的な上下関係の社会風潮(国政)ばかり強まり過ぎたことへの、人的育成軽視に対する批判が始まりとなる。

ジョーシキ、ジョーシキ(普遍主義、普遍主義)と連呼することの本来の意味は、社会主義、社会主義(ソーシャリズム、ソーシャリズム)と連呼することと同じ、その「そんなこともワカランノカ」の態度も「こちらはできている、国際協約評議性といえる敷居の手本の示し合いもお前らはできないのか」と格上を気取ろうとしているのと同じなのである。

国際的なソーシャリズム(異環境間の敷居確認を前提とする国際協約評議性の手本といえる議席構築)の意味に深刻に向き合ったことなど一度もない(等族議会制の構想に至っていない=その社会的説明責任・国際的指導責任の手本の示し合いもまず自分たちでできていない)低次元同士がケンカ腰に頭の下げさせ合い(議決性の手本など皆無なただの劣情の押し付け合い)を始めることが、いかに愚かでだらしないことなのか、だから

 

 その自分たちのその見苦しさに自分たちで深刻さをもつ知能もなくなって(思考停止して)いる、裁かれて(格下げされて、粛清されて)当然の知能障害者(偽善者)の集まりの低次元な教育機関(ただの愚民統制の偽善機関)

 

とはさっさと決別・卒業せよと筆者が繰り返しているのである。

その暴力(国際協約評議会性の手本など皆無な頭の下げさせ合い)をやめさせるための反抗において、国家間(地域間)の枠をとっぱらう国家間の国際等族協約議会(国際評議会)を築こうとする前提でなければ、その時点で既に矛盾(共産社会主義ではない = ワールドコミュニティソーシャリズムでない)といえる。

 

あまりにも語乱用され続けてきたこととして、共産社会主義(ワールドコミュニティソーシャリズム)の本質は、いわばISO9001やかつてのW3C(WWWのHTML5が確立されるまでのHTML規格。現CERN)のような議事録処理的な基準指導を構成することが仕事(目的)になる。

 

そうした集約機関(世界間の啓蒙合理)が当時は全くなかったからこそ、そのための国際機関も必要ではないかと訴えられるようになったというだけの、流れとしてはごく自然な話に過ぎない。

 

当時はその国際協約評議性がまだまだ育っておらず、世界間どころか各国の国内ですら情報交流の環境も今よりも不利だったからこそ、当時は結果的には難しかったというだけの話に過ぎない。

 

「従わなければうちのめすうんぬん(の権力)」は、どちらかというと共産社会主義側(他力信仰側・公正委員会側)ではなく資本社会主義側(自力信仰側・維持側)の仕事だというその関係性も、常に錯誤されがちな所になる。

 

共産社会主義(ワールドコミュニティソーシャリズム)は要するに、各国家が維持しようとしている国際協約評議性の加盟についての水準(敷居)や有無を確認するためのものに過ぎない。(従わなければ制裁うんぬんは資本社会主義側の仕事で、それをやる以上は少しくらい国際協約評議性ももてと喚起するのが共産社会主義側の仕事=損益分岐の借方と貸方の関係と同じ)

 

この本分は、当時の日本と西洋の公的教義体制の本部(聖属議会。教皇庁と朝廷)に対しても、現代の教育機関の体質に対しても、全く同じことがいえる。

 

当時の聖属一揆(戦国前期の浄土真宗の一向一揆と、16世紀のプロテスタント闘争)のそもそもの問題もまさに、自国教義としてのその等族義務を本部が全く果たさずに、何の見通しもなくただ偶像権力(偽善)を振るうことしか能がないから、その決別劇が必然的に起きたのである。

 

16世紀ではその虚像(偽善=国際協約評議性など皆無な低次元な頭の下げさせ合い)で今まで強引にまとめようとしていたのがとうとう通用しなくなって離脱される事態(当時は、その頂点機関を設けた所でどうせその内にまた教義権力の乱用が始まるだけだから、かえってない方がよい)になり、20世紀では世界間の国際規定が不足しているのではないかともち寄られるようになった点で方向は真逆になるが、いずれにしても国際協約評議性に改めて時代的な関心がもたれるようになった、それを巡る問題だった背景(社会心理)は同じになる。


トリアッティ(イタリアの社会学者)のコミンテルン史論(コミンテルン議会への当時の期待とそれに関心を示した当時の人々の様子をまとめた著書)を見れば、当時の様子がよく窺える。

 

人的(民権的)協力軽視、物的資源重視の富国強兵主義による暴力的な地政学的(教義圏的)資源確保領域戦のいがみ合いと、その体制で国家に忠誠を誓わせる機械的な強要労働をやめさせる(つまり暴力的な軍国体制=ファシズムばかり強まる世界情勢の危惧の)ための国際協約評議会(インターナショナリズム・平和的な外交評議性)が不足していることが訴えられ、その暴走に反抗するための武力(反戦運動)をもつべきかどうか、どこまでならストまでにするのか等の意見が、当時は飛び交われた。

 

よその国の市場・貿易権の奪い合いの、日本も含む主導国間の支配力争いの資源領域戦のいがみ合いの加熱の深刻さがもたれる形で、第二次世界大戦手前までには、各地の大手として

 

ドイツ共産党(大きな党が3つあった)、オーストリア共産党、ハンガリア共産党、スウェーデン社会民主党、ノルウェー社会民主党、アメリカ社会党(大きな党が2つあった)、スイス社会民主党、バルカン革命連盟(ブルガリア社会民主党とルーマニア共産党の連合)、ポーランド共産党、フィンランド共産党、ウクライナ共産党、ラトビア共産党、ロシア・リトアニア共産党、エストニア共産党、アルメニア共産党、東ロシア統一党、フランス・ツィンメルヴァルト党

 

が、世界的な和平対策のためと労働社会基準・福祉の見直しのための議会を作ろうとする動きも顕著になる。

 

他に、イタリア、イギリス、チェコ、オランダ、デンマーク、スペイン、トルコ、グルジア、アゼルバイジャン、ペルシャ(イラン)、インド、中国、朝鮮でもその関心が向けられて大小の党は作られ、当時のインターナショナルコミュニティ(国際評議会)に熱心に出席していた。( 1920 年代が顕著だった)

 

しかし当時は、そもそもその中心を作ることから難しかったからこそ期待されたコミンテルンが、その国際評議会の姿が期待されながら所詮は人間のやることとして、威力的な権力を否定しておきながら自分たちも威力的な権力に結局頼らなければならなかったという、残念なオチになる。(そういう所ももちろん、どこかにただ期待しているだけではダメだと議論された)

 

慌てて国際協約機関を構築しようと努力はされたものの、今ほど国際交流が育っていなかった不慣れな当時は、その付け合わせも簡単ではなく困難も多く、第二次世界大戦が始まってしまい国際間の対立も激化すると、この動きも各国の対立事情(国家に不忠だと規制)で下火になる。

 

ドイツと日本の敗戦が決定的になったのを境( 1945 年頃)に、しばらくして国際間のそれまでの対立もいくらかマシなものになっていくと、日本でも戦後の目覚ましい復興と共に再び、当時の世界的な共産社会主義運動も思い返されるようになる。

にわかな共産社会主義の流行で迎えた日本の 1960 年代に、学徒運動を境に再び下火に向かったのも、この段階でもまだ同じく時期尚早であったことが明るみになった所にある。

高度成長期にありがちな、威力的な資本身分社会に不満をもつようになったまではいいものの、国際評議会の敷居に「にわかに向き合われた」段階では、この頃でもまだ社会学がそこまで育っていなければ、それを敷居確認し合う環境も当時は今ほど充実していなかった。(社会全体が自活に追われ、そこに十分に時間を割く余裕がまだまだもてない時代だった)

 

国際協約評議会の確立を巡って、それを解った気にただ騒いで意見を通そうとすればいいという問題でもないことも、運動をしてみて解ったから20世紀では下火になったといえる。

 

資本社会主義の中での仕返しの憎悪をただ膨らませただけの、いい加減な反抗の対義題材のために共産社会主義(ワールドコミュニティソーシャル=国際協約評議会主義=他力信仰主義)があるのではなく、協約や業務のあり方の規格を統計的に整備することがあくまでその役目で、受け入れる受け入れないの話はまた別になる。

 

ISO9001ができたからといって、全ての業務環境において皆がそれに準拠しなければ善だの悪だのと威力的(偽善的)に普遍(ソーシャルディスタンス)を言い始めることが国際協約評議主義(共産社会主義)なのではなく、

 

 「弊害がないようにするために、この国際規格をもち寄るのはどうか」

 

 

 「そんなにそのことに不満があるのなら、ISO9001のような議事録処理(議決性の構築)を自分たちで手本的に導入・実践してみて、それができている自分たちと、できていない相手の国際規格的な力量差を見せつけることから始めればいいのではないか」

 

 「そのための計画的な意見書の整理と、その試行を始めてみるその提案努力からまず自分たちでしようとせずに、誰かがそれをやってくれるのをただ待っているだけ、誰かがそれをやろうとしてできなかった結果をただ皆で叱責し合っているだけで、誰もその代表責任の名義人になろうとしなければ、その選任責任すらもとうとしないなら、何も始まらないよ」

 

和平的に気付かせる(=和解を前提とする敷居確認の姿勢をもたせる)機関を常に目指すことが、本来のその役目になる。(その基本中の基本を教えなければならないのが、学校とやらの本来の等族義務=それがないケンカ腰=だらしないだけの愚民統制のただのいいなりども)

 

大戦の不穏当時は軍事問題から生じる暴力的な産業序列社会も蔓延したから、それを皆でやめさせるためのやむなくのスト(反対運動)も必要なのではないかも議論せざるを得なかった、今よりもかなり過酷な時代背景だったからそこも悩まれたに過ぎない。

 

だから特に、当時の武力問題とは事情が全然違う現代日本では、当然のこととして当時のやむなくの反抗の仕方をそのままもってこようとすること自体、共産社会主義のただ威力でねじ伏せ合うことをやめさせるための、平和的な相互確認の国際協約評議性の敷居を推進・受理していく本来のあり方に反しているといえる。

 

1960 年代の学徒運動では、これを境に一気に下火になっていったことにあせった、一部の過激派が自分たちの存在感を強引に維持・再燃させようと過去のその理屈を用い始め、銀行や猟銃店などを襲ったり爆弾を作ったりして暴走し始めた(ポグロム=自分たちの正しさ通りでない狩りの加熱運動の暴力事件を起こし始めた)ことが問題にもなり、その最悪の印象が、次世代的な共産社会主義の道をむしろ不利にしてしまう結果になったといえる。

 

しかし当時よりも、社会学的な敷居確認の環境が遥かに有利になっている現代日本において、まずは民権言論(文面統制)からの十分な意見整理から始めようともせずに、どこかのテキトーなだらしない言い分をたらい回しながら、ただ解った気にケンカ腰になりたがっているだけの時点で、共産主義(他力信仰)を批判する(合格・失格を裁量する)資格も、資本主義(自力信仰)を批判する資格もない、まがいもの(偽善)である。

 

16世紀の西洋で、特に貧困層たちの間で生活苦改善が望まれたからの教会改革が一向に進まなかったから大規模化していった、当時の自力信仰(人文多様・資本交流社会)と他力信仰(啓蒙合理・国際規格交流社会)のあり方が争点となったプロテスタント闘争(シュマルカルデン都市同盟)は、その本質を理解できていないまがいもの(偽善)の解釈のたらい回しでしか見ていないと何も見えてこないことが、今回筆者が説明したかった部分になる。

 

次は、今まで偶像(虚像の偽善=低次元な頭の下げさせ合い)の戒律で縛り続けられてきた、今まで貧困層の救済がろくにされて来なかったその対策にマクシミリアン1世がとうとう動き出し、カール5世の時代ではその対策も視野に入れられていたがそこが説明されて来ずに解りにくい所について、説明していきたい。