近世日本の身分制社会(115/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか43/?? 2023/01/10

今回は、前回に列挙した

 ① 1558 と 1560 以降の16世紀後半からのフェリペ2世とジェノヴァ筋の資本家たちの時代

 ② 1558 と 1560 までの16世紀中盤までのカール5世とフッガー銀行(アントーン・フッガー)の時代

 ③ 1519 と 1525 までの15世紀末から16世紀前半にかけてのマクシミリアン1世とフッガー銀行(ヤーコプ・フッガー)の時代


の時系列を意識した、

 先々のこともある程度予測しながら資本管理体制(国家金融)を計画していたと見てよい皇帝マクシミリアン1世と資産家ヤーコプ・フッガー

が始めたことが結局どういうことだったのか、本能寺の変の話に入る前に、16世紀の特徴としてこちらについて先に触れておきたい。

中世(公的教義主導・聖属議会主導の寡頭社会)との決別自体が、当時の西洋の多様資本交流社会化に向けた、資本管理体制(国家銀行体制)に動かなければならなくなっていたことを意味していた当時の特徴をまず、改めて整理しておきたい。

聖属議会側(公的教義権力。教皇庁権威と司教座権威)が今までそこを整理し切れてこれず、見通しもない中でいつまでもキリスト教社会の序列権威(身分統制権)を握り続けていた、だから世俗議会側(帝国議会側。王室側)がそれを巻き上げる(立場を具体的に逆転させる)形で、その整理に動き始めなければならなくなってきていた、それが見え隠れし始めたのが15世紀末の特徴になる。

西洋中で多様資本交流社会化が顕著になり始めた15世紀末、イタリアでは教皇領内でもフィレンツェ共和国(トスカーナ州)でも、その法(議会制)の整備が間に合わずに都市同士の利害で揉め始めてまとまりがなくなり、何を基準にしてよいのか解らない群雄割拠の状況に陥っていた。

そんな中で先に身分制議会を整備(近世化)して軍事体制を整えたフランスが、まとまりのないイタリア(ローマ)の足元を見てその主導権を握るためにイタリア介入を始めたため、イタリアはフランス派と反フランス派とでますます派閥利害が複雑化していき、混迷を極めることになる。(マキアベリがイタリアの主体性の無さを深刻に訴え始めた時期)

15世紀末の新時代的な多様資本交流社会化にろくに対応できなくなっていたイタリア(ローマ)は、そこをフランスにつけこまれて軍事介入される(身分制議会の確立ができている格上側が、できていない格下側を従わせる動きに出る)と、イタリアはいよいよまとまり(議決性・主体性・キリスト教社会の中心のはずのローマ文化の発信主導)などなくなり、親フランス派か反フランス派が全ての基準であるかのように荒れに荒れることになる。

フランスのたびたびの軍事介入によって、まとまりのないイタリアの主導権をフランスが支配支持力を握り始めたことは、イタリアの特権(教皇庁の主導権とナポリとシチリアの王権)をフランスに移管させようとする動き、そして皇帝権もドイツからフランスに移管させようとする動きだったことを意味する。

この時期のフィレンツェ共和国(トスカーナ州)は、文化面や資本面の存在感こそあったものの、国防面においては古臭い旧態人脈任せ、つまり完全に事なかれ主義のよそ任せ(ローマ任せ・よその強国の便宜任せ)で、自分たちの文化国家を自分たちで守るという国家議会的な結束が完全に欠落していた。(そこをマキアベリが指摘していた)

フィレンツェ共和国も少しはそこに深刻さがもたれる形で、このフランスのイタリア介入を機に、今まで失策続きだったメディチ政権の貴族支配的政治を改めさせるため(メディチ派権力追い出しのため)の、ソデリーニを擁立する民権化政治運動と連動する形で、フィレンツェはフランス派の政治方針に改められる流れになる。(マキアベリが書記局官僚に抜擢され活躍期)

フランスのイタリアへの威力介入が繰り返され、反フランスの立場が悪くなっていく一方のイタリアは、代表のはずであるローマ(教皇庁)もそこに何ら対策の主体性(議決性)など示せずに、キリスト教社会の中心としての存在感なとせ皆無であることが露呈するばかりになり、その非難が相次ぐようになっていた。

 

そんな時期に就任した教皇ユリウス2世が、とうとうその対策に動き始める。

ローマのお膝元政権といってよい肝心のフィレンツェ共和国(ローマ文化の発信を肩代わりしていたといってよかった国家)が顕著だったこととして、まるでローマが盟主なのではなくフランスが盟主であるかのようなイタリア情勢と化してから、教皇庁(ローマ。公的教義の総本山。西方教会の聖属議会の中心地)はようやく危機感をもったような有様だったのである。

まとまりなどないイタリア(ローマ)につけこんだフランスが、イタリアを属国扱いし始めた(先に身分制議会=国内再統一を確立した側が、できていない相手を従わせ始めるようになった)ことで、ナポリとシチリアの王権(占有権)を脅かされ始めたアラゴン王フェルナンド(カール5世の母方の祖父。スペイン王)も、イタリア支配を始めたフランスへの巻き返しに動き始める。

同じく皇帝権(表向きは教皇の公認・叙任制だった。等族諸侯の裁定権。表向きの身分序列統制権)を脅かされたマクシミリアン1世も、イタリアでやりたい放題のフランス軍の阻止に動き始める形で、教皇ユリウス2世、アラゴン王(スペイン王)フェルナンド、皇帝マクシミリアン1世の3者の間で、反フランス連合が組まれるようになる。

慌てて教皇軍を編成したユリウス2世が、ナポリ軍(アラゴン王)の加勢を得てまず教皇領内のフランス派の追い出しに成功すると、次にフランス派としてローマに反抗を続けたヴェネツィア軍(ヴェネツィアはローマとはあまり仲が良くない歴史が続いていた)と戦うことになり、これには教皇軍側(教皇ユリウス2世側)にオーストリア軍(皇帝マクシミリアン1世)が加勢する形で、ヴェネツィア軍の制圧(フランスと手切れさせる)に成功する。

教皇領内とヴェネツィア共和国のフランス派の追い出しに成功した教皇ユリウス2世は、次には親フランスでどうにか結束するようになったフィレンツェ共和国(トスカーナ州)のフランス派解体(追い出し)に動き始め、これにもアラゴン王が教皇ユリウス2世に軍事的に加勢、マクシミリアン1世も政治的に加勢する形で、トスカーナのフランス派の追い出しが達成される。

教皇ユリウス2世、皇帝マクシミリアン1世、アラゴン王(スペイン王)フェルナンドにテコ入れ(再統一)されたフィレンツェ共和国は、親フランス政策を進めていたソデリーニ派が追放(ソデリーニ政権の急先鋒の立場だったマキアベリも失脚)され、以前のメディチ政権復帰が後押しされることになるが、この関係で擁立されたのが次期教皇のレオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)になる。

教皇ユリウス2世のこの一連のイタリア再統一(フランス派の追い出し)は、皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公。ドイツ王兼任。ハプスブルク家)とスペインの代表フェルナンドに協力してもらわなければ、イタリアはもはや混迷を鎮めること(治安回復)ができなかったこと、このイタリア再統一によってイタリアはフランス派からスペイン・オーストリア派に塗り替えられることになったことを意味する。

すなわちこの時点でこの両王室(ドイツ王とスペイン王)が、フランス王室よりも格上だと明確にされる形でイタリア再統一を肩代わりしたも同然、すなわちその実権を握るようになったも同然となったことを意味する。( 1512 年頃)

下々の間では上の間で何が起きていたのかすぐには理解できなかったが、教皇ユリウス2世の代からこの両王(カール5世の両祖父)がローマの首根っこを掴み始め、これらのお膳立てで教皇にしてもらったレオ10世は内々ではさらに弱みの立場になっていた、すなわちこの時点で世俗議会側(帝国議会・等族主義)聖属議会側(公的教義体制・旧態寡頭主義)権勢の逆転は始まっていた。

時系列は前後するが、以後のイタリアがオーストリア・スペイン派による主導政治が著しくになると、教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)の時代には反スペイン・オーストリア派がイタリアの主導権を取り戻そうと「あれほどフランスにイタリアを荒らされて何もできなくなった」過去に凝りもせず、フランス派を表明するよそ任せの形でスペイン・オーストリア王室にケンカを売ったため、とうとうローマ(教皇庁)は世俗議会側(帝国議会=皇帝カール5世時代はスペイン王室主導)を本気で起こらせる結果( 1527 年のローマ劫略)となる。

スペイン王室を本気で怒らせた 1527 年は、この時にローマ(教皇庁)に加勢したフランス勢(フランソワ1世)はスペイン・オーストリア勢(皇帝カール5世勢)に撃退され、教皇軍(教皇クレメンス7世=ジュリオ・デ・メディチ)を肩代わりさせられることになったフィレンツェ共和国(メディチ政権)もろくにイタリアの国防もできないまま、皇帝勢に制圧される。

そしてこの時に、何ら等族指導(議決性)などもち合わせていない、今の日本の知能障害者(偽善者)の集まりの低次元な文科省とやらと同等の

 教会財産を、教会改革(裁判権改め)のためではなく旧態権威(寡頭主義)のためだけに、ただ偉そうに頭を下げさせ合うためだけの建造物(偶像=低次元な頭の下げさせ合い)を乱立させることしか能がない、ただ偉そうなだけの音楽隊(偶像=低次元な頭の下げさせ合い)を盛大に雇ってドンチャン騒ぎする費用に当てることしか能がなかった、人文主義運動(のち教会体質の抗議運動の過熱=プロテスタント運動)をただ煽ることしか能がなかった

 
経済景気(多様資本交流社会化)の恩恵を全く受けられずに、市民権を獲得することも自由保有地権を取り戻すことも絶望的なままだった、大昔の納税滞納の借金証文による旧態身分制(旧態裁判権)の時代錯誤の縛り付けを強要され続け、生活保証権から弾かれ続けられるままだった、奴隷制に等しかった大勢の貧民たちをただ逆なでし続けることしか能がなかった

その教義圏内における非等族社会的原因(加害究明の等族義務)がどこにあるのか見向きもしようとしない、その苦痛を逆なですることしかしてこなかった悪徳都市ローマ(教皇庁の巣窟)が、とうとう皇帝軍(カール5世が代表のスペイン勢)に乗り込まれる事態となる。

 

この時に、ただ下品で汚らしいだけの悪徳都市ローマの丸ごとの徹底的な焦土作戦(都市機能破壊活動。軍に木槌をもたせて1軒残らず建造物の解体に回らせた)による制裁(格下げ)が行われ、格上の世俗議会格下の聖属議会を保護監察下に押さえ込む立場であること(何を勘違いしておるのだ! 身の程を知れ!)が明確化される。(下々の間では上の間で何が起きていたのかを、すぐに理解することは難しかった)

カール5世の代になって、帝国議会でプロテスタント問題(旧態公的教義体制への抗議運動)と絡んだツンフト問題(貧民たちが蓄財や社会的地位の格上げができるようにために乱立していた、非公式な庶民政治組合を巡る問題)への対策が始まった矢先の、その教皇庁(ローマ)の帝国議会への余計な反抗劇の錯乱・暴走(できもしないイタリア主権の取り戻し=イタリアを再統一できるだけの教会改革など自分たちでできたことがないにも拘わらず、身の程知らずにも権利だけ主張し始める身の程知らずの教義権力の巻き返し)には、スペイン王室だけでなくドイツやネーデルラントの等族諸侯たちの上の間でも、ただあきれる他なかったのは間違いない。

なおこのスペイン・オーストリア(帝国議会)とローマ(教皇庁)のこうした対立は、多様資本交流社会化の発達が急激に進みつつあった中で、教義圏全体としての資本管理(国家銀行体制など)を今後どうしていくのかの問題と、今までの教会財産(司教特権)の扱いを今後どうしていくのかのその主導的な問題も絡んだ、新時代に向けた山積みの課題との複合的な対立も絡んでいたことが、今まで指摘されてこなかった大事な部分になる。

マクシミリアン1世の存命期( 1519/01 )までには、どう転んでいくかも予測的に計画された上での、ヤーコプ・フッガーによる優れた大銀行体制の構築がされたことが、こうした一連の流れを時系列で照らし合わせていくと、この2人(マクシミリアン1世とヤーコプ)が当時をどのように見ていたのか、どのような見通しでいたのかも段々と見えてくるようになることを、順番に説明していきたい。

ここでまずいったん話を15世紀末に戻し、多様資本交流社会化に対応できなくなってまとまり(主体性)など失っていたイタリア(ローマ権威)を、フランスが好機とばかりに踏みにじり始める、すなわち教皇庁(枢機卿団。イタリアの代表)をいいなりにさせるためのイタリア主導権介入とは、この時点でフランスはオーストリア大公(ドイツ皇帝権)とアラゴン王(スペインの代表。ナポリとシチリア王権)に宣戦布告したのも同然の行為になるが、この動機の順番は立場を悪くするようになったフランスが慌てた結果だったといった方が正確になる。

15世紀末に、皇帝マクシミリアン1世とアラゴン王(スペイン王)フェルナンドとで、我が子同士(マクシミリアン1世の子フィリップとフェルナンドの娘フアナ)の国際等族協約的な相互相続契約にとうとう動くようになった、今まで見られなかった大手同士の議会的な王族連合化にとうとう動くようになったことが、フランスをあせらせることになった。

今までのような、似たり寄ったりのドイツ側の王族とどんぐりの背比べのような格式争い(領有権・等族諸侯の統制権争い)などしている場合ではなくなってきた、この大手同士の動き(相互相続契約)が成立してしまえば、フランスはいよいよ孤立して立場が悪くなることが懸念された、だから先手でその動き(イタリア介入)に慌てて出たというのが正確な所になる。

この相互相続契約(婚姻政策)は、男子と女子を互いに出し合って結婚させ合い、それで生まれてくる男子側の子を自分の所の継承者にする、という、後になって継承者争いをしないための事前の「こういう場合になった時には、途中で亡くなってしまった場合には」などしっかり想定確認し合う、議会的な取り決めになる。

アラゴン王側(スペイン側)が出した男子とオーストリア側が出した女子の間には子ができないまま終わってしまい、オーストリア側が出した男子(オーストリア大公マクシミリアン1世とネーデルラント公マリーの子フィリップ)とアラゴン側(スペイン側)が出した女子(アラゴン王フェルナンドとカスティリャ女王イサベルの娘フアナ)との間には、カール5世(スペイン王)、フェルディナント(オーストリア大公)、マリア(ネーデルラント総督)らが生まれることになった。

アラゴン王(スペイン王)側の継承予定が生まれないまま、オーストリア側だけに子ができた結果、この議会的な相互相続契約の取り決めでカール5世にオーストリア(とドイツの公領)、ネーデルラント公領、アラゴン・カスティリャ(スペイン)の王領、ナポリ・シチリア王権が集中的に継承されるという、前代未聞の別格の大継承者が誕生することになる。

フランス王室から見れば、最も恐れていた流れになってしまった、一番そうなって欲しくなかった事態が起きてしまったのである。

騒動や破談にならないまま 1500 年にカール5世が誕生してしまい、そのカール5世がもはや良い訳無用の別格の大継承者(誰も超えることは不可能な、王族の中の絶対家長的な格式)になる認識の流れに上の間ではなっていた。

多様国際的(教義圏外はともかくまずは教義圏内の異環境間の敷居確認的)な強国化(議会改革・国内再統一)が顕著となった西洋での15世紀末は、今まで見られなかった、大手王族同士(オーストリア・ドイツ・ネーデルラント側と、アラゴン・カスティリャ側)の多様連合も強国化の一環としてとうとう始めるようになった所も、まさに当時の特徴だったといえる。

フランスは、今までの感覚でドイツ側との格式争い(似たり寄ったりの王族同士の派閥的な皇帝権争い=等族諸侯をまとめる最終議決代表権の争奪・阻害戦)をしている場合ではなくなってきていた新たな局面を迎えた。

その前段階のオーストリアとネーデルラントの統合強国化、アラゴンとカスティリャ(イベリア)の統合強国化(スペイン)の動きもまさにそれだったが、だからフランスも慌てて国内の身分制議会(軍事動員体制)を強化し、キリスト教圏内におけるフランスの権勢を少しでも有利にしようと、まとまりのないイタリアへの乗り込みを(ローマをフランスのいいなりの傘下にして皇帝権やナポリ・シチリア王権を横取りしようと)先手で始めたのである。

この動きは現代商社風にいうと、平成の後半から顕著になったような、それまではその業界の競合間で市場規模を競い合ってきた同業間が、大手としての主導的な格式がはっきりしてくるようになると大手同士が合併したり、大手が小口を吸収集約し始め、他の大手も同じようにそれで対抗しようするようになる多様統合的な動きと似ている。

平成前半( 1998 年あたりから )には、それまで主導的だった有名大手でも、主体性が欠落するようになれば衰退・消滅も目立つようになった一方で、銀行の統合化や、大手量販店の統合商社化、また娯楽事業や飲食事業の多様提携化などが顕著になってきた時期になる。

各業界の競合間の経営体制的(業務規範的)な統計集約化(啓蒙合理化)が進んでいくと、今まではその業界で王様の立場だったとしても、ただ過去の栄光に頼っているのみで時代に合った存在感(強みの主体性の対応力)というものを失っていく所は、大手・小口に関わらず求心力を失っていき、やっていなけなくなるのも目立つようになる。

小口でも目立った実績があるほど、銀行から有利な融資を受けやすくなる力量と比例し、存在感が評価されるほど大手から優遇合併や優遇提携を受けやすくなる姿は、戦国後期における身分再統制(人事改革・議席改革的な格式再統制)の流れと類似している部分になる。

似たような力同士の個人技的乱立競争の黎明期から、段々とその業界の品質管理体制も統計集約化(等族統制化=公私整理の手順分業合理化。ISO9001的業務指導体制化など)されていく形成期となると、それを

 主導牽引する主体性(議決性。等族指導力)ある格上側

 その敷居の背中を追いかけるのに精一杯な、主導牽引に頼る格下側


の格式も顕著になっていきがちな競争集約の流れは、現代社会でも16世紀の多様資本交流社会化でも同じになる。

いってみれば

 どこからがケインズ理論(組織対策的形成期 = 加害予防的啓蒙合理期)で、どこまでがその前時代のマーシャル理論(奔放的黎明期 = 被害予防的人文多様期)なのか

の、その業界やその世界観の中で

 背景・経緯判断力 = 減価償却的時系列整合 = 社訓的指導 = 仕様・計画構想手順の当事者的主体性 = 等族指導の手本 = 育成理念の構想力の手本

を自分たちがどれだけそこに取り組んでこれたのか(旧態議会改革・人事改革・身分再統制=育成理念構想をしてこれたのか)の示し合いが重要になってくるのは、いつの時代でも同じになる。

自分たちのその主体性(議決性)を自分たちで何ひとつ大事にしてこれたことがない、その示し合いなど何らしてこれたことが無いにも拘わらず、万事外圧任せ(議決性を放棄し合わせるため)にケンカ腰の頭の下げさせ合いを続けることしか能がない、ただ下品で汚らしいだけの今の教育機関とそのただのいいなりどもというのは

 議決性(自分たちの構想・主体的な計画性)を全てうやむやにし合いながら、旧態弊害負担(議会改革が必要なはずの旧態時代逆行の不良債権的価値観)の押し付け合いしかできなくなしていく、無神経・無関心・無計画な劣情(ポグロム = 非同胞憎悪・異環境憎悪)を押し付け合うことしか能がないだらしない人生観しかもち合わせていないのと同じ

 自分たちのその愚かさ・だらしなさ・深刻さに、自分たちで何ひとつ取り組めた(手本を示し合う)こともできたこともない、すなわち
等族主義(議決性。等族指導の手本。加害・弊害・衰退予防構想の育成理念)と寡頭主義(ただの指標乞食主義。ただの劣情共有)を区別(自己等族統制)できたことがない、口ほどにもないにもほどがある人生観しかもち合わせていない

 人にケンカ腰になる資格(人の上に立とうとする手本 = 人の合格・失格を論評できるだけの等族指導力の手本 = 議会的受理の構想性の手本 = 謄本登録する側の書記局官僚(上官)の手本 = 公務吏僚の品性規律の手本 = 被害予防的人文多様と加害予防的啓蒙合理の敷居確認の手本 = 国際人道観の手本)などない、裁かれて(格下げされて。粛清されて)当然の身の程知らずの法賊ども(偽善者ども = 騒乱罪予備軍ども = 等族指導の議決性のあり方をうむやむにし合うことにしかしていない正しさとやらの、ただの劣情を乱立させ合うことしか能がない = 低次元化・衰退化させ合うことしか能がない)


なのである。

話は戻り、これまで何度か説明してきたように西洋の15世紀末経済(異環境間取引)の発達、情報(出版・郵便)の発達における交流の多様社会化が顕著になってきていた中、旧態観念(旧聖属議会体制・旧公的教義権威体制)のままの足並みの単純なやり方(旧態規範の使い回し)の繰り返しも、いい加減に法的(議会の対応力的)に限界に来ていた時期になる。

教会改革(聖属議会・公的教義体制の今後のあり方)が上から下まで求められるようになっていた時点で、キリスト教社会全般の価値観念改革(旧態身分的価値の一斉の減価償却=旧社会的地位に対する身分再統制)が必要になってきたのは明らかだった。

そのためにも、絶対的な強力な代表(教義圏における序列見直しも可能な、強力な総裁による議会体制)の輩出というものを、今まで自分たち(キリスト教徒たち)でできてなかったという所も今一度、深刻に再確認されるようになった時期になる。(オスマン帝国にその統制力差を見せ付けられる一方になっていた)

だからカール5世のような絶対家長的な総裁の存在の必要性が、まず上の間で再確認される形で望まれるようになり、それによってまずは教義圏内における多様連合化(異環境間交流)くらいは、いい加減に自分たちでできなければならない近世時代(等族主義時代)に入っていたことを、上の間ではようやく観念するようになっていた。

15世紀に旧態慣習破りの資本家同士の遠隔地間商業と人文主義的(異環境間の相互理解的・尊重的)情報交流が形成されていき、今まで(中世まで)の貴族身分慣習も、まるで資本身分制に移行したかのような多様資本交流社会化が進む一方で16世紀を迎えた西洋は、新時代に向けた身分再統制が明らかに必要になってきていた。

そんな中で上が「今まで通りと違う!」と時代遅れの旧態権力にただしがみつき続けるのみでは、今後に向けた強国化の整備などできる訳もなかったことは、その差で神聖ローマ帝国(西方教会圏のキリスト教国家)がオスマン帝国(イスラム教国家)の脅威に押される一方になってきていたことからも、いい加減にそこに深刻さがもたれるようになっていたのである。

スペイン・オーストリア王室とフランス王室が、今までと違う近代の前身的な権勢争いを始めるようになった15世紀末から16世紀初頭にかけての、実質は格下扱いのイタリア(ローマ)の首根っこを巡る主導権争いを始めるようになった様子は

 国際裁判力(教義圏内における等族指導力)の手本など皆無(そこに無神経・無関心・無計画)な聖属議会側(公的教義体制・旧態教義権力側)が、今まで通りに世俗議会側(多様交流社会側)に頭を下げさせる(旧態のままの戴冠式と破門という合格失格の旧身分制を押し付け続ける寡頭主義)時代はいい加減に通用しなくなっていた、その立場の逆転が始まっていた

だからこそ教会改革が求められ、何ら対応できていなかった聖属議会側の当時のだらしない錯乱ぶりの様子がそのまま現れていたといえる。

教皇ユリウス2世、教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ。トスカーナのメディチ政権の有力者)、教皇ハドリアヌス6世(スペインの重役)、教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ。トスカーナのメディチ政権の有力者)の時代の

 ① ろくに教皇選挙(コンクラーヴェ。キリスト教社会のこれからの等族指導のあり方の主体性の表明)も自分たちでできなくなっていた、今まで通りの旧態教義権力を乱用することしか能がなかった中、多様交流資本社会化に何ら対応できず(法整備=議会改革できず)にまとまりなどなく荒れる一方になっていたイタリア(ローマ)に、フランスが支配介入し始める

 ② そのフランスの動きを、大手同士の相互相続契約で等族協約的に手を組み始めたマクシミリアン1世(ドイツ王兼任のゲルマン代表のオーストリア大公)とフェルナンド(統合国家スペインの代表)が阻止・排撃する形で、世俗議会側(帝国議会)が聖属議会側(イタリア・ローマ)の首根っこを掴み始める

 ③ 教会改革などできていなかった教皇庁(ローマに)に痺れを切らした世俗議会側(スペイン・オーストリア)が、とうとう制裁人事的にハドリアヌス6世(神学教授出身の人文主義者。スペインの国家裁判長アードリアン)を擁立してしまう事態となる(教皇選挙でそれに対抗できるだけの国際的な議会改革などできていなかった、教皇庁の化けの皮が剥がれる)

 ④ 今までの劣悪性癖(金まみれの献納制度を始めとする低次元な旧態弊害権力)への解体に乗り出される形で、とうとう教会改革に動いた教皇ハドリアヌス6世が不自然に急死し、クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)がにわかに後釜として擁立されると「イタリア(ローマ)の国内再統一(議会改革・教会改革)も自分たちでできなくなっていただらしなさが露呈するばかりで深刻になっていたから、スペイン・オーストリアに抑え込まれるようになったはずだった」ローマ(教皇庁)は、その自分たちの議決性(国際裁判力・等族指導力)のなさを何も反省もせずに、あれほどイタリアを荒らしたフランスと無神経・無関心・無計画に懲りもせずに手を組む形の反スペイン・オーストリアを表明する

 ⑤ 外的要因をうやむやに用いていがみ合わせるだけの、旧態教義権威の回復をただ計ろうとしているだけ(旧態通りにただ巻き戻そうとしているだけ)の、今の日本の低次元な教育機関のような下等な猿知恵(だらしない思考停止的劣情)しかもち合わせていないローマ(教皇庁)のその時代錯誤行為が、とうとうスペイン王室を
自分たちで何ら国内再統一(身分再統制)もできずに全キリスト教徒を失望させ合うことしか能がない、格上の監視下に置かれなければ自分たちの治安も維持できなくなっていることもまず反省(教会改革)できない格下の分際が!」と本気で怒らせる(ローマ劫略)

この一連の流れは、多様資本交流社会化に向かっていた当時の、その対応の主導にも大きく関係していたことと、マクシミリアン1世が人事抜擢的かつ計画的にヤーコプ・フッガーに大銀行体制を急いで作らせた経緯も関係していることが、これまで指摘されてこなかった重要な所になる。

教会財産(教区の資本特権。司教特権)が教会改革のための予算にも充てられなければならなくなってきていた中、公的教義の旧態弊害体質による金まみれの汚職序列権力(教区への献納額次第の合格・失格の旧態序列制度)がその大きな弊害になっていたことも問題視されるようになった。

そこに無神経・無関心・無計画なままだった聖属議会側(公的教義体質。ローマ)に対し、もはやその不正(時代遅れ)への取り締まり(反等族指導の摘発)のための特殊監査官として教皇庁(ローマ)に乗り込むことになったといってよい教皇ハドリアヌス6世の時代には、今の日本の低次元な教義権力と大差ないただの劣悪性癖(旧態体質の弊害)の、その巻き上げがいよいよ顕著になったことも当然関係している。

その制裁人事の教皇ハドリアヌス6世(本場ネーデルラントの人文主義神学者。ルヴェン神学校の学長出身)の存在にしても、そもそも皇帝マクシミリアン1世による抜擢人事からそもそも始まっていた計画だったことも、これまで指摘されてこなかった重要な部分になる。

マクシミリアン1世から始まっていたといってよい、それら一連の内々的な計画にヤーコプ・フッガーも関わることになった、当時のその手口がどのようなものであったのか、そして証券経済の隆盛も結局どういうことだったのかを順番に説明していきたい。

当時の資本管理(銀行体制)の新時代的対策として、まずマクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーの間で内々で計画されて動き出されていたその裏側から、世俗議会側と聖属議会側との間で対立が過熱していった流れが、時系列(社会心理)で逆追いして見ていくとそこが窺える。

多様資本交流社会化の黎明期の15世紀末には、教義圏内(キリスト教圏)における異環境間(各都市間)の相互理解(人文主義)が形成されながら遠隔地間商業交流が発達するようになり、資本家たちが地域貢献(商業地や商業道の拡張工事や、教区の寄付や貧民救済資金など)の施政資金を拠出し合う形で、その周辺の特権貴族たちを資本力で抱き込みながら都市政治を改善・発展させていくようになったことは、何度か先述してきた。

今までは自力信仰(人文多様主義。異環境間の敷居確認)を否定させ合う他力信仰(啓蒙合理主義)一辺倒の旧態体質(教義権力主義=愚民統制主義)のままの公的教義体制(司教特権と教区のあり方)も、各都市の資本家たち、都市貴族(パトリシア。貴族風紀委員会)たち、また貴族特権層の間でも内心ではいい加減にその時代錯誤の旧態教義体質にはウンザリしていたことの本音も、多様社会化の静かな慣習破りで露呈し始めるようになる。

貴族特権層も資本家たちと、今までと違う特権契約をし始める形で、良い意味の慣習破りで結託をしながら、不足していた自力信仰(人文多様主義)で相互理解(異環境間の敷居確認)をしながら今までできていなかった、地域を発展させていくための施政資金(都市の資本的政治力・格式)を築き上げるようになった。

人文多様的な資本交流・情報交流(自力信仰・教義圏内の異環境間の文化交流。ネーデルラントが特に人文主義学が目立っていた)が15世紀に芽生えると、都市ごとの資本家の数も増えていき、それらが商人団を結成(企画)して今まで見られなかったまとまった巨額資金を用意できるようになると、王族(国政)との商人団との資本交流取引も顕著になり始める。

王族と都市の資本家たちとの資本取引の内、特に目立つようになったのが王族特権の鉱山取引で、扱われる資金額も大きくなったことで、今までよりも鉱夫や精錬業者が雇われるようになり、鉱山開発と銀製品・銅製品の製造業、また経済を活性化させるための貨幣鋳造といった面も急速に発達するようになった。(王権強化にも繋がった)

ドイツでも人文主義が目立ち始めていたバイエルン州の商業都市アウクスブルクの経済成長は目立ち、まとまった資金を形成できるようになったアウクスブルクの資本家たちが、オーストリアの鉱山開発、精錬業、銀や銅の先買い権に積極的に出資参加するようになる。

中世の経済景気がきっかけで、特権の奪い合いの権力闘争も激化して一度崩壊したことが反省され、今一度の多様資本交流社会が庶民政治側の間で取り組まれるようになって迎えた15世紀末には、王族(国王)たちも資本家たちから鉱山業の多額の出資を得られるようになったり、多額の前借りもできるようになったことで、今までの財務面の見方も変わりつつある時代の移行期を実感していた。

中世までは聖属議会による、自力信仰(人文多様)を否定させ合う自力信仰一辺倒(教義権力=低次元な叙任権維持=愚民統制)の旧態身分制の足並みを強要されられ続けてきた、だから世俗議会はまとまりもなく揉めてばかりでウンザリしていたことが反省されるようになって迎えた15世紀末には、時代錯誤だったからこそ人文主義(多様交流社会化)による今までの教義体制への反抗が表裏で見え隠れするようになった時代に、なっていたのである。

皇帝マクシミリアン1世の時代は、上級貴族たちの間でも資本家たちと巨額の資本取引ができるようになったことで、王族間(王領特権)の格式(資格)を巡るあり方にしても、財政のあり方にしても資本がモノをいい始める時代にいい加減に大きく変容していた、すなわち今までの貴族たちの身分序列制も改めなければならない段階に入っていたのである。

多様資本社会化の黎明期だった15世紀末のマクシミリアン1世の時代は、それを今後どこまで許容しながら、どのように対応していくのかというその法整備体制(身分観の再統制も可能な等族議会制)にいい加減に取り組まなければならない、それに迫られていた時代に入っていた。

しかし肝心のローマ(教皇庁。聖属議会の総監)は 1520 年代に入ろうとしてた頃になってもモタモタと教会改革が全くできないまま、無神経・無関心・無計画に足をひっぱることしかしていない、今の日本の低次元な文科省とやらと同じ、何の役にも立たない(当事者性・議決性・構想性の人文多様と啓蒙合理の等族指導の手本など何らもち合わせていない)お荷物同然だった。

もう自力信仰的な人文主義(まずは教義圏内における異環境間の多様交流社会化)を大幅に受け入れなければならない段階になってきた中で、ローマ(教皇庁)は今までの他力信仰一辺倒通り(世の中の正しさとやらの今まで通りの低次元な教義権力の頭の下げさせ合い)に無関心・無神経・無計画に居座り続けることしか能がなかったのである。

15世末に準備要領を始めたマクシミリアン1世は、アウクスブルクの資本家たちと交流するようになった中から、今後の資本管理体制(国家銀行体制)の計画に対応できそうな、うってつけの人材だと見込んだのが、ヤーコプ・フッガーだったのである。

教会改革が求められていたローマ(教皇庁)の、そのあまりのモタつきぶりに痺れを切らしたマクシミリアン1世は、そのヤーコプ・フッガーを後押しして今まで見たこともない大銀行体制を整えさせると、とうとう教会財産(聖属の資本特権)の遠回しの巻き上げ工作に動き始め、1510 年代にはそれが顕著になる。

この巻き上げの話をする前に、当時の司教(各地の教区長官。表向きの地方最高教育長官。修道院や神学校や聖堂参事会の聖職者たちの、地方教義機関の表向きのまとめ役)たちの実態について先に触れる。

まずこの頃の司教は、教皇庁(西方教会の代表)に叙任(公認の就任)を得るための、巨額の過剰な献納制度(セルヴィーティウム)の慣習が続いていて、これが完全に時代に合わないものに悪習化していた。

教皇庁に送金されるその巨額の献納金が、教会改革や貧民救済のための裁判権改め(生活権の見直しの法改正・身分再統制・教会改革)に向けられることが一向になかったことに、上の間でもいい加減に国際的(等族社会的=下々への健全指導面的)に問題視されるようになっていた。

教義面での地域の救済や改革などのために司教(やその次席の高位司祭たち)の地位があるのではなく、もはや上級貴族たちが「司教になったことがある者を輩出した貴族」の格式の肩書きを得るための偶像(議決性など皆無な低次元な頭の下げさせ合い)と化し、金任せに地方の公的教義体制(聖属議会)の議席(聖属特権)をたらい回しているだけなのが実態だった。

借金などをして多額の献納金を教皇庁(ローマ)に支払って司教の座に就いた上級貴族の一族は、その借金を取り戻すために、その教区資産の特権(教会財産)を目当てにしていた有様だった。

司教の地位は、ただ自分たちの家格上げをしようとするためのものとしてしか見なしていなかった上級貴族も多かった一方で、いい加減にその悪習にあきれる者も上の間でも増え始め、そういう所の刷新(身分再統制)が迫られるようになっていたのも明らかだったが、教皇庁(西方教会の代表)はそういう所の改善(教会改革)に動く気配が遅々として見られなかった。

何ら議決性(等族指導の手本)など見られた試しがない今の日本の低次元な教育機関と同じ、教義のための有志の念で司教(地域の教育長)になろうとしていた者などは少数で、司教(や上位司祭)を輩出した貴族だという家格欲しさやその特権欲しさのためのみで、その議席の本来のあり方をたらい回しているだけの連中が大半だった。(だから身分再統制に迫られていた)

だから皇帝マクシミリアン1世が、その公的教義の旧態体質にとうとう痺れを切らす形で、ヤーコプ・フッガーを使って遠回しの実力行使(テコ入れ)に動いた訳である。

ヤーコプが聖界(司教たち)に呼びかける形で預託(預金)希望者を募ると、献納(セルヴィーティウム。教皇庁に司教就任の公認を得るための多額支払い)のために背伸びして借金苦を抱えてどうにかその座に就いた司教たちは、その手口に乗せられる形で教区の教会財産をそのままそっくりフッガー銀行に預ける者が続出し、まさにマクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーの術中通りとなる。

当時ドイツの司教座(教区・教育長の単位の数)は130ほどあった中で、「預金すれば利息が受け取れる」というその誘導に、実に69もの司教がその教区の教会財産をフッガーに預け始める事態となる。

この時点で、マクシミリアン1世(世俗議会側)が教皇庁(聖属議会側)に対し、フッガーの国家銀行体制を使って立場逆転的に教会財産の特権に介入(テコ入れ・身分再統制)を始めたも同然、宣戦布告(帝国議会の方が教皇庁よりも格上だ!)のケンカを売ったも同然だったといえる。

カール5世時代の教皇庁(ローマ)の踏み潰し( 1527 年のローマ劫略)に至る序章(警告)は、ここ(預託工作による教会財産特権の介入が顕著になる 1510 年代)から始まっていたと見てよい。

この預託誘導で、総額はいくら集まったかは判然としないが、教区の教会財産は小さい所でも少なくとも3000グルデン、広域の大司教区は多ければ7万グルデンほどはあったと思われる。

それぞれが全額預けたかも判然としないため、平均1件あたり4000グルデンほどで約70件とざっと推定すれば、28万グルデンもの巨額が集まった計算になるが、とにかく巨額がフッガー銀行に急に集中することになったのは間違いない所になる。

資本社会化の黎明期の28万グルデンは、おかしなインフレが起き始めた証券経済の最隆盛期の 1540 年代での50万グルデン以上の価値に相当したと見てよい。

司教(教区長)のあり方に真剣に考えている者など少数だった、キリスト教社会の古臭い旧態序列制度の化けの皮が剥がれた瞬間であり、聖職者でない下々にとっては何が起きていたのか理解に時間がかかったが、聖界の間では当然のこととして、教会改革が求められていた中でのこの事態にいよいよ騒然となる。

教会改革のあり方を巡って真剣に取り組んでいた者たちは各地域の修道院長たち、神学校の学長たち、人文主義会たち、都市と連携していた教区の聖堂参事会たちで、そのまとめ役である肝心の司教(地方教育長とその次席の高位司祭ら)と教皇庁(公的教義の権力層)は、議決性をもってそれを意見回収する術(すべ)などもち合わせていなければ、教会財産を教会改革のために使うこともしない、そこに無神経・無関心・無計画に下々をただ逆なでしたのみのだらしない態度が露呈した瞬間だった。

だからこの頃(司教たちがフッガー銀行に教会財産の預け入れを始めた 1510 年代)を境に、各地の修道士たち(修道会の聖職者たち、聖堂参事会たち)も色々な意見が飛び交う形で騒ぎ始め、そしてあのルターの

 「教義(等族義務・教会改革)と何の関係もないことにおかしな巨額が使われるような、今まで通りのままの聖属権力(旧態序列の威嚇)のためだけの教会の豪華贅沢(何ら救済にも改善にもならない偶像)は敵だ!」

歴史的な教会批判(人文主義的な抗議運動。プロテスト)の出番となる。

 

家格欲しさだけのいい加減な姿勢で借金して司教の座に就いたのが大半だった実態は、借金を補填するための利息欲しさにとうとう司教たちがフッガー銀行に教会財産を預け入れしてしまう方向へと向かった、すなわち教会財産(聖属権力)がとうとうフッガーの台帳で口座管理されるようになってしまう事態となったことも、そもそもそれができるだけの銀行体制が急出現したことも、今まで人々が体験したこともなかったこととして世は騒然となった。

 

当時の預託は定期契約で、一度利息を受け取って預け入れをしてしまうと、契約に応じた年月単位で簡単には引き出せない条件だったため、フッガーはその定期期間を鋭く台帳管理しながら、各地の上級貴族や王族相手への産業国政面での貸付事業を始める。(マクシミリアン1世が斡旋で後押しした)

 

この教会財産が元手の巨額資金の活用で商業経済をさらに促進させることになったが、中でも特に顕著だったのが鉱山業で、フッガーが巨額を王族たちに資金提供するようになったことで、西洋中の鉱山業・精錬事業も急発達させることになった。

 

フッガーの資金提供のおかげで、今までにない鉱物の採掘が急にされるようになり、銀と銅の製品と貨幣の流通を促進し、また銅製品においてはアジア交易の先方への貴重な商材としてポルトガル王室が積極的に買い取るようになる。(西洋の銅製品がインドネシア現地で人気で、アジア産の香辛料や植物との交換の際の有利な取引材料になっていた)

 

上級貴族たちへの貸付事業を手広く展開するとともに、フッガーも王族と契約する形で鉱山業に積極的に介入し、西洋中の銅市場を一手に掌握し始めるようになった 1510 年代のフッガーの資金力は、実質西洋中の物価や為替相場を掌握したも同然の大銀行体制が確立され、すなわち西洋全体を資本管理できるほどの強力なものとなった。

 

フッガーが各王族たち、各上級貴族たち、各等族諸侯たちへの財務規模の事業貸付を可能にしたことで産業景気を促進させることになったことは、逆にいえば西洋中の有力諸侯たちの財務事情を口座管理することになったフッガー銀行が、各財務事情も台帳で丸見えのごとく掌握するようになったことを意味し、これは内々のマクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーのまさに内々の計画通りだったといってよい。

 

司教特権の教会財産をフッガー銀行が管理し始める事態を迎えた教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)時代には、旧態教義権力を回復させようと、教会財産を権威のためだけに、中世最後の晩餐とばかりにヤケクソ気味に使い果たさせる方向で枯渇させ、教義問題をいよいよ本格化させることになるこの流れは、教会財産を握り始めた世俗議会側(帝国議会の金庫番のフッガー)に対しての、錯乱気味な低次元な反抗そのものだったと見てよい。

 

教会改革(聖属議会側の人事改革・身分再統制)のための教皇選挙(コンクラーヴェ)などまるでできず、公的教義体制は非難される一方だったことが、マクシミリアン1世(オーストリア大公。ドイツ王兼任)とフェルナンド(スペイン王)がイタリア(ローマ)を「後押し」ではなく「首根っこを掴み始める」ようになった教皇レオ10世時代には、そこもはっきりした。

 

だからスペイン・オーストリア王室主導による制裁人事のごとくの、教皇ハドリアヌス6世(スペインの国家裁判長アードリアン)にとうとう乗り込まれる事態となり、金まみれの献納制度を始めとする旧態悪習をとうとう止めさせる流れとなる。

 

もはや、時代錯誤の教皇庁(ローマ)の不当を摘発(教会改革)しに教皇庁(ローマ)に乗り込んだ特殊監査官だったといってよかった教皇ハドリアヌス6世の時代には、イタリアの貨幣鋳造権をフッガーのローマ銀行支店に移行させようとしている帝国議会(カール5世時代)の裁定の様子からも、西洋の資本管理の主導を巡って、聖属側にはもはやそれを握らせない、その巻き上げに動いていたあからさまな様子が窺える。

 

今の日本の低次元な文科省とやらと同じで、等族義務(議決性。育成理念の敷居構想の手本)に無関心・無神経・無計画なだらしない教義権力に時間と金を浪費(頭の下げさせ合い)をさせ続けることしか能がない、時代(多様資本交流社会化)に何ら対応(自力信仰・人文主義を許容する教会改革)などできなかった低次元な分際だから、聖属議会側の資本特権の巻き上げに動かれたのは当然の流れだったといえる。

 

これからは資本管理も全て世俗議会側(帝国議会とその金庫番のフッガー銀行)が謄本登録的(身分再統制的)し始める動きになったのが、教皇レオ10世時代と教皇ハドリアヌス6世時代にかけて、もうその認識が上の間(等族議会制による身分再統制)では顕著になっていたのである。(下々は上の間で何が起きていたのかすぐには理解できなかった)

 

不自然に急死した特殊監査官(教皇ハドリアヌス6世)の後釜として、教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)を慌てて擁立した教皇庁(ローマ)は、西洋中の資本管理に乗り出し始めた(多様資本交流社会化の管理体制を始めた)帝国議会に対して、身の程知らずにも不満をもち(ケンカ腰になり)、対抗馬のフランスを巻き込んでその反抗を始めた、だから強国スペインをとうとう本気で怒らせることになった。

 

ローマ劫略が起きた 1520 年代は、産業にせよ軍制にせよ資本力(兵站。へいたん)がモノをいう近代の前身時代に移行し、だから騎士修道会の公務吏僚化と軍制改革の身分再統制がフランスとスペインでは顕著になり、だからイタリアの世俗議会を肩代わりして以来のドイツでも、今までの身分制改めが求められるようになっていた。

 

教皇レオ10世の前教皇ユリウス2世の時代に、もはやスペインの加勢を得なければイタリアの再統一(治安回復)もできなかったことも、フランス勢がその時にスペイン・オーストリア勢によるイタリア再統一に抵抗できなかったのもはっきりしていたにも拘わらず、ローマ(教皇庁)は身の程知らずにも、凝りもせず(何ら自己等族統制もせず)にフランスと手を組んでスペインに反抗を始めたのである。

 

明らかに教会改革のためなどではなかった、大事なことをうやむやにそうやって外圧をもちこんで揉め合うことしか能がない、もうそんなことをしている場合ではないにも拘わらずの教皇クレメンス7世の擁立劇(帝国議会への反抗劇)は、下々は上の間で何が起きていたのか訳が解らなかったが、これは帝国議会で熱心に法整備を始めていたドイツの等族諸侯の間では、ローマ(教皇庁)のその錯乱気味の様子に内心はただあきれるばかりだったと見て間違いない。

 

当時の多様資本交流社会化に対する、西洋全体のその資本管理を巡る、世俗議会側と聖属議会側のその性質の対立も絡んでいたことが、これまで指摘されてこなかった大事な所になる。

 

今まで、国政・教義改革のために使われていなかった「ローマへの不健全な多額の旧態献納制度」への抑制が始まり、今まで通りに司教たちから集金ができなくなってだらしなく錯乱(思考停止)するのみ、自分たち(枢機卿団)で何ら立て直すことなどできなくなっていた教皇庁(ローマ)は、だから国力としては見込みがあったフィレンツェ共和国(のメディチ政権)が新たな時代に向けたイタリアの国家体制の手本を肩代わりせざるを得なくなっていた。(だからこそのレオ10世の擁立だった)

 

ローマ(イタリア)として国際的な議決もはっきりしない中でモタモタやっている間に、資本管理の主導権を握り始めたスペイン・オーストリア筋に身の程知らずにも時代錯誤的に不満をもち始めたローマ(とフィレンツェ)は、フランスと手を組んで反抗を始めたのである。

 

イタリア(キリスト教文化の主導国でなければならないはず)が等族議会制(資本体制・国防軍体制=近世国家体制)が最も整っていない、強国に首根っこを掴まれて当然の格下にも拘わらず格上を気取ろうとする(議決性など皆無なただの劣情で頭を下げさせる側に立とうとする=低次元化・衰退化させ合うことしか能がない)自分たちの愚かさ・だらしなさの勘違いに自分たちで深刻さなどもてたこともないその実態が露呈した歴史的瞬間が、1527 年のローマ劫略なのである。

 

1527 年のローマ劫略は、その時代錯誤をスペインが徹底的に思い知らせたこと、またマキアベリがイタリアの主体性(議決性=育成理念の品性規律といえる組織構想)の無さを散々指摘していた憂慮が現実となってしまったこととして、まさに時代の転換期を象徴していた事例だったといえる。

 

急激に一大財閥化したように見えたフッガー大銀行の存在は、上級貴族たち、高位聖職者たち、等族諸侯たちを口座管理し始めてその財務事情も丸見え同然となり、西洋全体の送金、為替、両替、手形割引・振り出しに対応できてしまうほどの、前例がなかった優れた台帳管理ができてしまったことには、上から下までとにかく驚かれた。

 

今まで見たことも聞いたこともない巨額を扱うようになったフッガーは、上の事情をすぐには理解できなかった下々からは、何かあるごとに色々な憶測で、教皇庁や帝国議会への不満を直にいいにくい時は、「金の力で、裏で権力者の全てを牛耳っている」ように見えたフッガーへの非難を介すことで、社会問題を訴える風潮が形成されていった。

 

ヤーコプ・フッガーが、マクシミリアン1世と内々で計画してやっていたことだったということは、中間層の間では薄々気づいていたと思うが、フッガーはマクシミリアン1世やカール5世に非難が及ばないように、何かあればまずはフッガーが全て世間からの非難を受け止める役を引き受けていたのが実情になる。

 

ヤーコプ・フッガーとアントーン・フッガーは、国家的な使命感で当時の類を見ない大銀行体制を懸命に支えていたことは、コンピュータがなければ現代人でも難しいような優れた帳簿管理から、その優れた姿勢が窺える。

 

次は、マクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーが始めた国家銀行体制(資本管理)と、のちスペインが財政崩壊していったその流れは結局どういうことだったのか、マクシミリアン1世はそこも考えていたことについて、まとめたい。