近世日本の身分制社会(114/書きかけ144) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか42/?? 2022/12/28

筆者の、本能寺の変の説明で前提としている、西洋事情(当時の世界情勢)について、今回も引き続き順述していく。

 

今まで紹介してきた西洋の事情と、本能寺の変とどう関係しているのかの話にもやっと入れそうな段階になってきているが、今回も西洋の


 ① 1558 と 1560 以降の16世紀後半からのフェリペ2世とジェノヴァ筋の資本家たちの時代

 ② 1558 と 1560 までの16世紀中盤までのカール5世とフッガー銀行(アントーン・フッガー)の時代

 ③ 1519 と 1525 までの15世紀末から16世紀前半にかけてのマクシミリアン1世とフッガー銀行(ヤーコプ・フッガー)の時代


の視点から「当時の日本と西洋は、当時の世界情勢の中はどのような立場だったのか」の話にも順述していきたい。

時系列(歴史経緯・社会心理)で全体像を見渡すようにしていくと、西洋ではそもそもマクシミリアン1世(ドイツ皇帝。オーストリア大公。ハプスブルク家)ヤーコプ・フッガー(アウクスブルクの大銀行家・資本家)の2人が、どのような優れた予測や狙いをしていたのかも、自然と見えてくるようになる。

良い意味の策士であったマクシミリアン1世が、人文主義(情報交流・教義交流・産業交流などの地域間の個々尊重による多様社会化=今までの他力信仰一辺倒の足並み強制社会に対する抗議)に理解を示し、文化面でも産業面でも力をつけていたアウクスブルクを奨励し始める。

 

さらにはアウクスブルクの資本家たちの中から人事的に抜擢されることになったフッガーを使って、上から資産の巻き上げに動く方向にもっていったことが新時代の始まりだったといってよいほどになる。(後述)

他の都市よりもまとまった資本供託ができるようになっていたアウクスブルクの資本家たちが、ハプスブルク領(オーストリア)のシュヴァーツの鉱山業に積極的に参加するようになると、その資本家のひとりヤーコプ・フッガーが、マクシミリアン1世からうってつけの人材だと人事的に見出されるようになったことが、前代未聞のフッガー大銀行が作られるきっかけになる。

マクシミリアン1世がこのヤーコプ・フッガーを後押しする形で、1510 年代までには国際的な送金・両替・手形為替の対応と、巨額の資本管理をさせる形の、国際的に優れたフッガー銀行が登場することになり、今まで見たことも聞いたこともない巨額を広範囲に扱うようになったその存在は、とにかく世間には強烈な印象で驚かれた。

この2人(皇帝マクシミリアン1世と銀行家ヤーコプ・フッガー)がどんな真意だったのかは、フッガー銀行ができた後にどうなっていったかの時系列(社会心理)をひと通り把握できなければ見えてこない。

手形割引(証券経済の意味。分割化や条件取引の細分化)発行を可能としたフッガーの銀行体制が大きな手本となる形で、先物も含める証券取引への小口参加(少額からの資本取引)も可能とした。

カール5世(ドイツ皇帝とスペイン王を兼任。マクシミリアン1世の孫)時代には、帝国議会の閉会後に開催されるようになった大市で、利率の良かったスペイン王室主導の国債発行と、それと関連していた商取引の手形(証券)が下々でもこぞって買い求められるようになり、ポルトガル王室からスペイン王室が主導となったアントウェルペンでは、年中開かれる証券大市場が登場する。

1530 年代までには、貿易面でまずヴェネツィアよりも大規模化していたアントウェルペン(カール5世の妹マリアが、その支配代理のネーデルラント総督を務めていた)に、西洋全体の為替相場の基礎がすっかり作られるようになった(まずはフッガー銀行の金融業務の手本が大きかった)ため、ここの証券取引所の相場を頼りに、西洋中の人々がアントウェルペンの投機・投資に訪れるようになり、現地市場は常に人でごった返すようになる。

1540 年代にはこの証券市場の最盛期となり、特に手形割引の浸透による資金繰り(先付けの支度金作り)を可能としたことが経済景気を加速させることになり、この年代が西洋全体の人々が最も浮かれていた隆盛期になる。

しかしこの 1540 年代からは、フッガー銀行のスペイン王室関係の為替台帳上の数字は、もうメチャクチャなものになっていた。

アントーン・フッガー(ヤーコプ・フッガーの甥。フッガー会社・銀行の総支配人の後継者)は、まず帳簿上でインフレが起きていたその危うさの実態を先取りして把握し、内心は青ざめながらスペイン王室に内々に警告していたのが真相だったが、世間では上の間(王室関係者やそれと関係していた大資本家たちの間)で何が起きていたのかなどは知る由(よし)もなかった。

1550 年代のスペイン王室の年の歳入(税収)は、新大陸からの収奪とポルトガルとのアジア貿易協約を除き、維持費は差し引かない各公領(オーストリアを除くドイツ、スペイン、ネーデルラント、ナポリ・シチリア)の総額は、多めに見て250万ドゥカードほどになる。

 

計算が難しいが、アジア貿易分と、安定感がない新大陸収奪分も全て含めると、大まかにはざっと年400万ドゥカードほどはあったと見てよい。(時期によっては500、600万ドゥカード)

その中で、カール5世時代までに積もりに積もった、フッガー筋だけでないジェノヴァ筋なども含めた、スペイン系ハプスブルク家としての借金総額は、実に2500万ドゥカード以上の累計にのぼっていた。

 

どうやって処理すればいいのかも解らない、先が思いやられるその深刻な返済義務もフェリペ2世(カール5世の子。スペイン王後継者)が引き継がなければならなかったのが、スペインの実情だった。

カール5世時代のスペイン王室に仕方なく付き合わされることになった、南ドイツ筋の中核だったアントーン・フッガーが、スペインの財務を半分管理していたも同然(すなわちその実態はフッガーからは丸見え)の状態だった。

この帳簿上のスペインの借金総額自体ももはや「その2500万ドゥカードは、どういう意味の2500万ドゥカードなんだ」というべき、その説明も困難になっているような錯乱的な数字だったといえる。

 

※スペイン王室の返済義務の内訳 ジェノヴァ人1160万D(40.1%)南ドイツ人1030万D(35.6%)スペイン国内450万D(15.6%)ネーデルランド人240万D(8.3%)


つまり、フッガーが管理していたスペイン王室関係の債務台帳は、数字上ではもうその債務価値と国際為替相場の整合などもはや不可能だったといってよい、すなわち国家としての資本管理の基準(経済面での等族指導力)など完全に失っているメチャクチャな状態にスペイン財政は陥っていたことを意味するのである。(フッガーの台帳が動かぬ証拠。どういうことなのか順述)

この姿はそのまま、そのとばっちりの負担を完全に肩代わりさせられることになった、新大陸の足元をみた当時のスペインの圧政の態度の余裕の無いだらしなさそのものだったといえる。

新大陸現地に対して同胞統合国家的な等族指導政策など何も見られない、ただ相手の足元を見るばかりの格下狩りで甚大な負担をかけることで、それを支えさせようとする収奪隷属政策のだらしなさが、まさにそのものだったといってよい。

表高(おもてだか)の数物威勢に頼るばかりで、被害予防道義内(人文多様・自力信仰範囲・個人尊重)に見合った加害予防道義外(啓蒙合理・他力信仰範囲・国際社会観尊重)の区別(敷居確認=自己等族統制)を自分たちでできる余裕がないはずのことまで無神経・無関心・無計画に口出し手出ししようとすることは

 そこをうやむやにし合うことしか能がなくなっていく、今の日本の知能障害者(偽善者)の集まりの教育機関(等族指導と劣情の区別もできたこともないただの猿芝居劇場)と大差ない、低次元な落ち度狩り(格下狩り)をすることのみしか能がなくなっていく

 議決性(等族指導のあり方=当事者性・主体性の手本の示し合い=人文多様と啓蒙合理の整合手本の示し合い)などどこにもないまま、ただ迷惑ヅラ(気絶)や被害者ヅラ(思考停止)をし合うことのみしか能がない、口ほどにもない人生観しかもち合わせていないはずの身の程知らずどもが、軽々しくケンカ腰に頭の下げさせ合い(低次元な指標乞食主義の押し付け合い=ただの劣情共有)を始めたがる

状態に陥っていき、自分たちのその愚かさ・だらしなさも自分たちでろくに改善できなくなっていく衰退(低次元化=国際交流観における知能障害化=国際評議力の低下)の原因となる。

ただし当時の教義圏外の異環境間との敷居確認は、格差があるほど国際人道観(世界全体のための国際評議会の意識)が今よりももたれにくい時代だった、当時はそこが現代よりも育っていなかった時代背景(社会心理)も考慮されなければならない。

近世は、近代の前身の第一次世界大戦の地政学的(教義圏的)領域戦(富国強兵主義=強力な議会制を確立できている格上側が、できていない格下側の権力や資源を接収し、徴税や労役や軍役等に従わせる)で脅威を与え合う、その国威・格式を張り合う観念が変に芽生えてしまった事情(社会心理)も、教訓的に把握することも重要になる。

近世初頭(16世紀)は、今まで人類が全く体験しなかった多くを急に体験した時代だったからこそ、当時の勢い任せのやらかし(落ち度)が近代までに禍根を残してしまうことも多かった、その時代背景(社会心理)も冷静に把握(自己等族統制)していく必要がある。

 

一方で、そこを整理できる情報環境が当時よりも遥かに有利なはずの現代では、教訓にできるはずの当時と類似する過失(やらかし)はいい加減に許されない等族指導(人文多様と啓蒙合理の構想指導の評議会的理念)ができていなければならない、それで当然が前提になっていなければならない。

1519 年にマクシミリアン1世が亡くなり、カール5世がカスティリャ王(スペイン王)とドイツ皇帝に就任した時から、スペインから見れば外国為替関係となるフッガー銀行(南ドイツ筋)への返済手続きをしっかり済ませない内から、次から次へと巨額借入の要求を延々と続けることになったことが、まずはスペイン転落の根深い原因を作っていたともいえる。

そこからまず、自国の複式帳簿的な収支登記(経済統制・計画性)を不可能にさせていったことが、短表(出納帳)だけの自転車操業的などんぶり勘定(時系列破綻の勘定)で切り盛りすることしかできなくしていく原因となり、公的な国債発行とその債務処理能力(経済面の等族指導力)が 1540 年代の時点で、内々ではもはや崩壊していたといってよい。(順述)

これはスペインが愚かだったというよりも、まずマクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーがやり始めた銀行体制の発想に、結果的にはどこも対応する(適正に扱う)のは難しかった、そこがそもそも近代的すぎたこといった方が正確になる。

近世化に向けた強力な等族議会制(絶対君主王権の名義力の見直しによる法治国家的集権化)をスペインは先駆けで確立はできたが、ただし資本・証券管理の近代的対応は、当時は結果的にはどこも難しかった。

資本管理の近代的対応結局19世紀まで待たれることになるのは、それはオスマン帝国(イスラム教国家)にしてもフランスにしても、中国大陸側の強大国の明(みん)にしても、日本の江戸時代の徳川政権にしても、そこはどこもが同じく対応し切れずに迷走した所を歴史認識しておくことが非常に重要な所になる。(近代税制への切り替えの難しさの話として後述予定)

しかしその面で、うまくいくかどうかはともかく日本をいきなり19世紀(近代)に連れていこうとしていた織田信長が良い意味で脅威だったことも、筆者が説明したい部分になる。(順述)

近世(16世紀~19世紀前半まで)はいってみれば、どうにか法治国家らしく国内(今までの教義圏内)をまずは内輪揉めは議会制(身分再統制・人事改革体制)でだいぶ収容できるようになった段階になる。

それで資源資本や文化(新産業や物理的数学術等)を謄本登録的にかき集められるようになった状態から、今度はその運用方法の近代化に向き合わなければならない時代に入ったともいえ、そこに非常に時間がかかった。

やっと中世(寡頭主義の偶像の足並みに頼ってばかりいた時代)から決別・脱却するようになり、近世(等族主義)がようやく芽生えるようになった16世紀は、さらなる旧態慣習への決別と、さらなる異環境間との世界評議会的敷居の格式競争が求められる時代に入ったといえるが、「日本人だろうが西洋人だろうが所詮は人間のやること」として簡単な話ではない。

その国家(教義圏)が近世化に優れていたとしても、中世までに根深く形成されすぎてしまった禍根を一挙に全て決別・償却することは難しく引きづりがちで、また近世以後の時代変容にうまく対応できなかった分だけ作りがちな余計な禍根を、19世紀半ばに慌てて大改革されるまでズルズルダラダラと足枷にしがちだった時代であることも、考慮できなければならない。

世界的にそこが難しかった中での織田信長は特異だったといえ、本能寺の変が起きてしまったのもまさにそこだったといえる。(後述)

スペイン王室は 1510 年代から 1540 年代までにかけて、激しく変動していった為替相場的な各地間の物価と貨幣価値、それに連動していた証券価値という市場体制を維持するための当時の相場ごとに見合った手本的な債務処理(返済や代替処置)を十分にしてこなかったことが、まずは大転落の大きな禍根になったといえる。(アントーン・フッガーが内々でスペイン王室にそこを警告し続けていた。順述)

背伸びしてスペイン王室と張り合った当時のフランス王室もここは同じことがいえるが、債務(負担に見合った代替)処理がおかしい分だけ相場観念(等族統制力)を狂わせることになり、そこを整備(改革)せずに国債の乱発(威力任せ・時代遅れの世の中の正しさとやらの教義権力的な虚像の押さえつけ)を続ければ、当然のこととして自分たちの市場相場観念(組織理念)を不健全に壊していきがちなのは、いつの時代でも同じである。

だからこそアントーン・フッガーが、スペインが期限ごとの債務処理(経済面での等族義務の手本)を果たそうとせずに次々と無茶な借り入れ要求を続けたことに、渋る形で内々で警告していた。

1525 年にヤーコプ・フッガーが亡くなった際に、次期総支配人の予定だったライムント・フッガー(アントーンの兄)はすっかり意欲を無くし、ヒロニムス・フッガー(アントーンのいとこ)と共にそれを機に経営陣から引退してしまうことになったのも、その凶兆が 1520 年代から早くも見えていて、その大変さが既に予測できていたことが窺える。

カール5世時代になってからのスペイン王室の債務処理の対応の悪さには、しばらくヤーコプ・フッガーが顕在だった時期にはヤーコプがそこにかなり怒っていた様子も実際に伝わっている。

 

ちなみに、いくら資本力を有していようがフッガー家のようなにわかの伯爵資格の分際がスペイン王室(貴族資格を公認する側)に対して「怒る」などという態度をおおやけに出すことなどは本来は身分制的に許されない所だが、ヤーコプは前皇帝マクシミリアン1世から特殊な知遇を直々に得ていたことと、公的債務での話だからギリギリ許されていた。

アントーンが使命感(順述)をもってフッガー銀行を支えながら、スペインに危うさを内々に警告するも、当時のスペインは

 「資本戦(消耗総力戦)をけしかけて、ウチ(スペイン)が破産するよりも先に相手(オスマン帝国やフランスやプロテスタント一揆)を破産させればよい!(ねじ伏せればよい、こちらの資本力には到底かなわないと格下だと向こう思い知らせてやればよい!)」

 「それでまず競合大手(オスマン帝国)を排撃し(黙らせ)、領域戦的に優位性を築いてから、それまで無理をした分の穴埋めを後でなんとかすればよい!」


といわんばかりに、スペインはアントーン・フッガーの懸念をよそに、国威・格式任せに凄まじい資本力をその消耗戦的軍費に投入し続けてしまった。

そして、互いにすぐには根を上げずに、それでやせ我慢をし合うというありがちな、第二次世界大戦でも顕著だった「我慢大会の消耗戦を長引かせる」最悪の方向に向かってしまった。

この「我慢大会の消耗戦の長引かせ」は第二次世界大戦では、健全化させていく訳がない禍根憎悪を目的化(目的を見失い合うケンカ腰の劣悪性癖化=閉鎖有徳化)させてしまうこととして、国際人道的に禁じ手だと各国首脳間では周知(第一次世界大戦での反省点のひとつ)だったはずが、第二次世界大戦で結局それをどこも守れていなかったのことが現代、教訓にされている(はずでなければならない)貴重な部分になる。

 

その基本中の基本も一貫できていないにも拘わらずケンカ腰になりたがる(手本家長を気取りたがる。人の上に立ちたがる)身の程知らずが、世界にしても日本国内にしても多いのが実情だが、筆者が

 

 国際裁判性(等族議会制の姿勢=法治国家の品性規律の姿勢)の大前提である、和解を前提とする敷居確認(国際評議会的な被害的人文多様と加害的啓蒙合理の手本の示し合い)をうやむや(無神経化・無関心化・無計画化)にし合うための頭の下げさせ合いをケンカ腰に始めたがるような、今の日本の文科省とやらとそのいいなりどものようなその最低限の自覚もできたこともない口ほどにもない人生観しかもち合わせていない身の程知らずどもにいつまでも乗せられるな!

 

としつこく繰り返しているのも、そこである。

話は戻り、スペイン経済の虚像証券(見通しなど見失っていた自転車操業証券)の実態は、王室関係者や有力諸侯の上層や大資本家たちの一部しか認識しておらず、上の間で何が起きているのかよく解らない、上の財務事情など知る由もない世間では 1540 年代の隆盛がこれからも続くものだと、いつでも換金可能なこの証券が手堅い資産であるかのように永続するものだとすっかり錯覚していた。(順述)

1550 年代のフッガーの台帳上のメチャクチャな数字は、もはや物価の時系列関係と、各国各地方の貨幣価値と、先物も含める証券価値のそれぞれの実態と全く噛み合わないものとなっていた、すなわち資本管理面での等族統制力など完全に失っていたといってよいスペイン国債が、さも価値があるかのように(それができていたかのように)虚像的に維持され続けていた危険な状態になっていたのである。

 

この実態は世間の多くが知り得ないことで、今まで体験したこともなければ、なぜそんな銀行振替体制ができたのかの経緯の理解もまずできていなかった下々の間では、仮に説明できる者がいたとしても理解できる者もほとんどいなかったと見てよい。

この弊害のうってつけの好例は、日本の平成前半の泡沫経済崩壊(バブル崩壊。有名証券会社や銀行の不倒神話の崩壊)の際でも見られる。

 

その時間差的なしわよせが顕著になったひとつの、インフレ期の数字の価値をデフレ期に負担させる流れとなる、ますます債務解消を困難にしていく金回りの悪循環化の金利問題におけるズレなどが典型的といえる。(後述予定)

そういう所が内々では顕著になり始め、いい加減にごまかしきれなくなってきたしわよせが 1570 年代後半から目立ち始めたことが、今までの価値観(格式)通りにし続けるための錯乱気味なポグロム(非同胞虐待支配。異文化否定)をスペインが起こし始めたことが顕著になったことからも窺える。

 

そして 1580 年代に入ると、イギリスでは苦労しながらどうにか議会改革で建て直し始めたエリザベス1世が、スペインの弱みを探りながら、反スペイン運動(カトリックの首根っこを掴みながら諸国を従わせていたスペイン主導との決別=プロテスタント独立国家運動)に表立って動き始めるようになる。

前後するが、幸か不幸かアマルガム精錬法の新技術によって 1550 年代には、ボリビア(新大陸)のポトシ銀山から膨大な銀がセビーリャに運ばれることになったことで、今にもちぎれかけていたスペイン王室財政の首の皮がかろうじて維持されたものの、これも最初だけだった。

この膨大な銀の流入も、これもむしろ貨幣価値の事情を急変させ、フッガーの台帳上の数字もますますメチャクチャなものとする原因となった。

 

大経済化が進む一方の経済面に対する議会整備が追いつかない(日本の江戸時代も類似)まま、スペイン銀市場の中心地であったセビーリャの役人たちの不正の横行も止まらず(この傾向も日本の江戸時代と類似)、本来の適正額での銀取引も困難になっていたほどだった。(セビーリャの代理店から、現地の通商院と銀の持ち出し特権の取引をしていたフッガーは、その事情も当然把握していた)

1570 年代には財政面でいつ崩壊してもおかしくなかったスペインのその大使役として交流を求めてきたイエズス会士に、織田信長

 「お前らが日本に来た目的を全て正直に洗いざらい話すんだ! そうすれば日本におけるキリスト教の扱い(身分再統制議会=世俗議会側が聖属側を教義保護。謄本登録保証)も少しは便宜してやる!(お前たちが何に困っていて、我が織田政権にどんな対応や便宜をして欲しいのか、そこを正直に今までの経緯もちゃんと話してくれなければ、こちらも対応のしようがないだろうが!)」

という、表向きの体裁は厳しくても内実は「新参(外・異環境・下)にはこの上なく寛大だった」その性分から、今後の国際交流(相互理解)のためにもと、そこを織田信長は全て聞き出していていたと見て間違いない。

当時のスペインは、世界最大の権威であるかのように「文献上では」その国威を誇らしげに威勢の良いことばかり書いているが、1550 年代の時点でのアントーン・フッガー時代の貴重なスペイン関係の帳簿を見れば、その実態はいつ崩壊してもおかしくない張子の虎でしかないことは一目瞭然なのである。(オスマン帝国もフランスも同じ凶兆)

聖属議会と世俗議会の力関係が完全に逆転するようになった西洋(日本でも)では、自分たちで議会改革(異環境間の見直し)などできていなかった教皇庁(ローマ・公的教義)をイエズス会が肩代わりするカトリック(正統派の西方教会)の大使役として、それを事実上傘下に押さえ込んでいたスペイン主導の公認で日本に訪れていた。

事実上イタリア(ローマ)を傘下に降していた(ローマを肩代わりするイタリア自治権の手本強国となったフィレンツェ共和国をスペインが後押し)といってよいスペインに対し、イエズス会士たちがスペインや教皇庁に宛てた内輪の書状は、さも日本よりも西洋の方が圧倒的に優れているかのようにもち上げる書き方を内々ではせざるを得なかったに過ぎず、むしろ後ろめたさすら窺える。

当時の日本とスペインの強み側と弱み側の関係性は、フッガーの帳簿でスペインの方が圧倒的に分が悪かったことは明らかなはずだが、これまでどういう訳かそこに全く触れられずに、西洋側の内々の威勢任せにすぎない文献がそのまま鵜呑みばかりされてきた。

まるで日本が一方的に劣っているかのような、キリスト教社会にいとも簡単に日本が隷属支配させられるかのような印象の強調ばかりされてきたが、優劣立場は真逆だったといってよい。

イエズス会としては、キリスト教徒とは今まで険悪に足元を見合う競争相手の禍根など無かった日本だったからこそ、世間体はともかく等族議会制(時代に合った手本家訓政権=公務吏僚体制)を確立できている織田政権に対して

 

 「相手に自分たちの弱みの足元を見られたくないなどと、もはや体裁を気取っている場合ではない」

 

のが実情なのである。

織田信長が相手の足元の弱みを握ってそこに終始(思考停止)するのみの低次元なやり方を非常に嫌う性分だったことは、とりあえず話を聞いてもらえただけでも当時のスペイン(と教皇庁の大使役のイエズス会たち)にとっては助け舟だったとすらいえる。

織田信長のおかけで日本は、家訓政権(代表家長の手本)の敷居(公務吏僚体制)を巡る戦国後期(低次元化に逆戻りさせない議会再統一のあり方)はもはや 1570 年代後半には事実上終焉させていたといってよかった。(織田氏から「聖属裁判権を世俗裁判権側に返上せよ」といわれたのを渋ってきた浄土真宗も 1578 年あたりにはもう押さえ込みに成功していたも同然になり、いよいよ決定的になっていた)

後はその余波を処理(身分再統制)する段階に入っていた 1580 年代を向かえた以後の日本は、政権(議会)のあり方を巡る総選挙戦的(議席の仕切り直し的)争いはされることはあっても、等族議会制(国際敷居の法治国家のあり方)をうやむやにし合う低次元な旧態上下権力の押し付け合いと従わせ合い(頭の下げさせ合い)許されない等族社会化が、織田信長の手本によって実現されたも同然になっていた。(上の間では)

新時代の身分再統制(等族議会制=近世の法治国家)の見通しがはっきりしてきたということは、すなわち経済(農・工・商)の隆盛をこれから迎えようとしていた明るさが見えてきたことを意味し、今後の海外交流の通商条約についても、どのようにでもできた段階に入っていたことを意味する。

議決性(法治国家の品性規律)をうやむやに乱し合う不当な内乱(議決性をうやむやにし合うことしか能がない身の程知らずの格下にも拘わらず、格上からの議会公認も無しにケンカ腰に人を従わせようとする=無神経・無関心・無計画に合格失格を乱立させようとする閉鎖有徳運動)は許されなくなる(絶対手本家長から格下げ制裁される)方向に織田信長が日本を導いたことは、これから、国際交流・情報社会化・技術向上化を含めた明るい成長が見えていたことを意味していたのである。

 

その一方では「不健全に勢い任せに急激な強大化をし過ぎてしまい、弊害ばかり出始めていた」スペインでは、そのおいしい経済隆盛時代は完全終焉していた。

荀子主義的(原因究明的な地盤固め主義=加害関心)な性分だった織田信長としても、スペインのそれまでのやらかしのこそを、「日本では同じような踏み外しをさせないための、明日は我が身の貴重な教訓の参考」にと、大いに興味をもっていたのも間違いないと見てよい。

向こうの隆盛期には「相手を先に破産させた(ねじ伏せた)側が勝ち」であるかのような、対オスマン帝国、対フランスの莫大な資本総力的消耗戦(派手で莫大な戦費)のけしかけ合いが繰り返され、互いに我慢大会の財政破綻を起こして痛み訳に向かっていったことは、とにかく致命的で深刻だった。(ただしこれには利点もあったことを後述)

スペインは、これからもしなければならなかった国内整備(議会改革)のためよりも「競争相手を先にねじ伏せる(破産させる)ための投入」ばかりに、国威・格式任せに国債の乱発を繰り返し過ぎてしまい、虚像化(自転車操業化)するばかりの証券で財政をごまかし続けてきたのも、いよいよどうにもならなくなってきていたのが 1570 年代の西洋の実情なのである。

その西洋の大まかな経緯は把握していたと見た方が何かと説明のつじつまがつけやすい織田信長の立場の、当時の都合としては

 「日本は今まで、明(みん。中国大陸側のアジア強大国)から格下扱いされ続けてきて、歴代の将軍(武家の棟梁)もそれとは決別する具体的(国際的)な外交・軍事に至っていなかった、だからいい加減に今までの日本列島側と中国大陸側との国威・格式の外交関係も改めなければならない段階になっている」

 「スペインのその危機的な財政難対策に日本に協力して欲しいというなら、だったら形だけでいいからスペインは兵力500くらいの武装船団でいいから日本に寄越(よこ)し、スペインもそれに加勢(前線参戦はしなくてもいいから。後方から援護砲撃だけしていればいいから)したという既成事実作りの、日本の脱明対策(脱中国対策)に加勢・協力でもすれば、こちらも考えてやってもよい」

と言い放つ立場だったとすらいえる。

間違いなく強国化していた当時の日本(織田政権時代)は丁度、しばらくしてイギリスとオランダが、カトリック権威を監視支配下に置いて以来のスペインが、諸国を強制的に従わせる方向を強め過ぎていたその一強主義のキリスト教社会とは決別・脱却する動きに出たように、日本もアジアの中心に居座り続けてきた中国大陸側との今までの格上と格下の外交関係(通商条約関係)も、外交的・軍事的に改めなければならない段階に来ていたのである。

その実現だけでも

 「遠方異文化の強国であるスペインを加勢させられる(異教徒を受け入れられる)だけの文化的な国際等族協約(外交力)を有している日本列島側が、その国際力もないお前ら中国大陸側よりも格上に決まってるだろうが!」

 「これからは日本の将軍(武家の棟梁・皇室を支えながら日本全体の等族指導を肩代わりする代表家長)を決めるのに、今までのように中国大陸側の公認権威も朝貢の慣習などもはや必要としていないほどの強国化を、こちら(日本列島側)は実現しているのだ!(今までの国力任せの中国大陸側からの一方的な通商条約も、今後は少なくとも同格・対等だ!)」

と、今までのアジアの家長気取り相手にまずそういい放てるようになるだけでも、国際的に大きな影響力を与えられることになる。

1580 年代に入った時点で、もう織田政権は間もなくそれも実現可能な見通しになっていた。

そんな世界情勢になってきていたにも拘わらず、本来は国際外交の敷居に対応できなければならない日本の聖属議会側(朝廷側・廷臣たち・教義敷居の管理人たち)は、国内の教義面(異環境間)もまずまとめられなくなっていた、だから世界情勢の敷居に対応できる訳がなかったのである。

それは主体性のあり方(議決性ある代表の選任の手本・議決性ある方針の選任の手本=人事改革力=議席改革力)というものを、ただ外圧任せのたらい回しの批判先の雑用程度くらいにしか扱えたことがないのと同じ、自分たちで何もできない低次元同士のままでこれからもあり続けようとしているのと同じなのである。

織田信長からそこを「廷臣たちは何をモタモタとやっておるのだ!」と、その事情をよく理解できていた賢臣の明智光秀に折衝役をさせる形で、織田氏から国際情勢をせかされるようになっていたのが当時の日本の朝廷(聖属議会。廷臣たち・国内教義の管理人たち)の有様だったのである。

国内聖属(国内の異環境間の教義:自力信仰と他力信仰の線引き=人文多様と啓蒙合理の線引き)からまとめることもろくにできなくなっていた朝廷(聖属議会・廷臣たち・国内教義の管理人たち)が、自分たちで国際的(世界敷居的)な外交大使のあり方のための議会改革(人事改革・身分再統制)などできる訳がなかった、だからその議決にろくに参与(の既成事実作りすら)できないままの状態が、ただ露呈するのみだった。

だから世俗議会側(織田政権側)に一方的に決められてしまうという、気まずい立場ばかりになっていくのである。

今の日本の低次元な文科省とやらとそのただのいいなりどものように、そこを何ら反省(自己等族統制・議会改革・敷居の仕切り直し)できたことがない、時代遅れの外圧任せの虚像教義権力(不良債権)の押し付け合いに頼ることしか能がない低次元同士というのは、

 

 今までの自分たちの低次元な人生観を正しかったことにする体裁(ただ劣情統制)のためだけに、ただ逆恨みにケンカ腰になることしか能がなくなっている

 

 その自分たちの愚かさ・だらしなさを自分たちで認識(自己等族統制)するための知能も意欲も喪失している

 

ものなのである。

日本(自分たち)の今後の国際的立場をどう表明していくのかの大事な取り決めをしなければならない、すなわちそれができる等族議会制を有していることを見せ付けなければならない世界情勢の段階になってきていたのが、まさに織田政権時代だったのである。

聖属議会側(朝廷・廷臣たち・国内教義敷居の管理人たち)は、それに対応できるだけの代表名義人を議会的に選任していく力量(裁定力・議会改革力・任官式の典礼を取り仕切る資格=教義を管理する資格=人の上に立つ資格の敷居整備)などなかった、その化けの皮がただ剥がれながらただ錯乱するのみなのは、国際的にあなどられないための皇室の支え方に真剣に向き合ってこれなかったのと同じ、すなわち日本全体を良い方向へ導こうとする等族義務よりも、自分たちの地位や安泰のことを優先する虚像権威にしがみつくことしか能がない自分たちのだらしなさを、自分たちで改めることもしてこれかなったのと同じなのである。

だからこそ織田氏が旗本吏僚体制を以って、形など成していない所か横領の原因でしかしくなっていた旧態荘園公領制も一斉に巻き上げる形(身分再統制の対象)で中央改めを始めたにも拘わらず、この後に及んで「今まで通りでない」ことに逆恨みし、公的教義(延暦寺・天台宗の総本山)は反織田派に組して中央改革の妨害に動く有様だった。

そこを何ら反省しなかった上に、禁じ手(皇室の後継者擁立合戦に発展させる原因=皆で支えなければならないはずの皇室を皆で衰退させることになる原因=日本のあり方そのものを皆で放棄し合い皆で壊し合う原因)のはずであった公的寺社の武力介入(南北朝問題の反省点のはずの禁じ手)まで始める有様だった、だから織田氏(世俗議会側)にあきれられる形で公的教義(聖属議会側。比叡山延暦寺)は踏み潰されたのである。(だから浄土真宗の反世俗権力運動は、皇室・朝廷は一切巻き込まなかった特殊な聖属裁判権再興運動だった)

その暴挙を止めることもできなかった、何らまとまり(国際的議決力)もない聖属議会(朝廷・廷臣たち・教義の管理人たち)は、以後織田氏の旗本吏僚体制の保護監察下に置かれながら、目まぐるしく変容していた世界情勢を明智光秀から渋々聞かされることになり、錯乱気味にただうろたえる一方だったのである。

西洋人たちが日本に訪れるようになって以来、その国際相互理解の交流は九州の諸氏、堺衆たち、そして織田氏が目立っていた中、それを手本的に最もしなければならなかった、急いで大使館の設置もしてそれを取り仕切らなければならなかったはずの聖属議会(朝廷・廷臣たち)が、それが一番できていなかったのである。(室町旧態権威にただしがみついていただけの、そこに何ら深刻さなどもてていなかった足利義昭以下、反織田派に組した中央関係者たちも同罪)

だから織田信長がその相互理解(世界情勢の敷居確認)の役目まで肩代わりし、旗本吏僚たちに要約させた内容を、そこをよく理解できた明智光秀が仲介する形で、当時の世界情勢の実態に耳目をただ塞ぐばかりの廷臣たちが、渋々いい聞かされていたような有様だったのである。(世俗執政と聖属教義のその関係は本来は逆でなければならない)

ポルトガル船(スペインと協約)のアジア方面の航海力で、日本にとうとう訪れるようになって以来のイエズス会士たちは 1570 年代

 

 先代のカール5世時代の甚大な、どう処理していいのかも解らない莫大な負債も一緒に継承したのが実情だったフェリペ2世

 

の外交大使役として、戦国後期を終焉させつつあった織田家と熱心に交流を始めた、という所がまず重要になる。

時系列が前後するが、さらにいえば 1540 年代の西洋での表向きの経済最盛期は、

 証券経済崩壊(=スペイン王室の国家破産)の凶兆を、アントーン・フッガーが早い段階で内々にスペインに訴えていた

ことと、

 金まみれの資本多様社会化に魂が奪われるばかりになっていた西洋の人々の実態にウンザリしていたが、その原因を作っていたスペインとは連携せざるを得なかったイエズス会士(西方教会再生委員会)たち

の内心(社会心理)も考慮すれば、なぜ 1540 年代になって熱心に日本との交流を始めたのかの、あせりの都合とも符号する。(ザビエルの時期)

インドネシア方面まで交流網を広げていた西洋人たちはまず、今までキリスト教徒とは険悪関係になったことはなかったアジアの文明強国である明(みん)との交流をきっかけに、その摸索を始めようとしたもの全く振るわなかった。

明(中国)から見たスペイン・ポルトガルというのは、にわかに強国化した国威・格式に過ぎない、歴史的な世界文明強国だった訳ではないと見なされ、当時の明から見れば今までの日本と同様の家臣扱い(属国扱い)の散々の格下扱いの条件が提示されるばかりの、交渉の余地もない、相手にされなかったも同然の手詰まりとなっていた。

カール5世時代のスペインでは、今までキリスト教国とは険悪関係はなく、さらには国際証券市場経済を理解できるほどのどこかの都合の良い遠方文明強国との縁を築いて、今風でいう外貨準備高(通貨交換)を設置し合う関係を築けるような、海外為替市場の縁を作るなどの何らかの対策に動かなければならない時期になっていた。

話は前後するが、西洋の都合というよりも日本側の都合でそれも結局白紙となるが、のち日本が少年大使団や、伊達氏の支倉常長(はせくら つねなが。スペインとローマを訪問した)などを西洋に派遣することになったこととも関係しており、織田信長が亡くなってしまった後のことだったことも、もちろん影響している。

 

1590 年代になると、とうとうイギリス・オランダ勢(プロテスタント勢)が慌てるように日本にやってきて、スペイン・ポルトガル勢(カトリック勢)とで、互いに日本と手切れさせ合う言い合いを激しくするようになり、豊臣秀吉が亡くなって次期棟梁と見なされていた徳川家康に互いに「あんな悪魔崇拝者たちとの縁を作っていたら、ろくなことになりません!」と訴え始めるようになるが、プロテスタント勢からすると

 

 「スペイン・ポルトガル(カトリックたち)に日本との海外為替市場など作らせるか!(それでスペインに少しでも財政難対策や文化再統制などされてたまるか!)そんなものは絶対に阻止だ!」

 

を巡る必死な言い合いも多分にあった、関ヶ原になる少し前の 1590 年代後半には徳川家康も内々には、今までの経緯(時系列)は大方把握できていたと見てよい。

 

カトリック側(スペイン・ポルトガル側)にしてもプロテスタント側(イギリス・オランダ側)にしても、明(みん。中国政府)は相手にしてくれなかったが、強国化(等族議会制)が進んでいた日本(豊臣秀吉はともかく織田信長と徳川家康)は、話だけでも聞いてくれた。

 

日本も今まで、明のように強国の存在を維持し続けていた訳ではなく、急成長的な強国化の経緯が西洋とは似たような所があった、だから日本は西洋人たちの言い分は話だけでも聞くことはしたから、このような面白い優位な立場になっていたといえる。


話は戻り、明に相手にしてもらえなかった 1540 年代のスペイン・ポルトガルはそこで

 「明(中国)は相手にしてくれなかったが、なんだか強国化が進んでいるらしい、国際証券市場(通商条約)の理解もできるかも知れない日本列島との交流で、それを摸索をしてみてはどうか」

と、キリスト教徒とは今まで険悪関係の禍根などない(足元を見合う必要などない=ただちに地政学的領域戦に発展する訳ではない)中で、どこかの都合の良い遠方強国との縁を早く見つけなければならなかった急務から、日本に希望の意識が向いたのも自然だったといえる。

1540 年代に正式に、最初に九州に訪れるようになったザビエルたち西洋人が、日本のそれまでの経緯などすぐに理解できる訳もないまま、最初に受けた日本の印象は

 「日本はどういう訳か、奥の院の名族の代表(皇室・朝廷)の公認公領的な騎士修道会(有徳)の名目でまとまろうとせずに、管区長や選帝侯たち(三管四職の旧世俗議会)に仕えていた有望な有力家臣筋がその公領特権(公領特権や侯領特権や有徳権威)を巻き上げる形で各地の騎士(武士)たちを広域にまとめる力量規模(議会力)を張り合っているが、それはともかくこの国は思ったよりも文化的だぞ」

 「堺衆は、かつてのヴェネツィアのような、異教も許容できる余裕まである優れた文化自治権と商業交流力を有しているし、各地方でも自分たちでそれぞれ都市開発しながら、ちょっとした物流経済の建て直しもしようとしている」

 「木工技術は西洋人も優れているが、大きな声は出せないが土木建設力は西洋人よりも自然の摂理を理解している日本人の方が上かも知れない。物理学的技術に関しても日本は今までその交流が乏しかっただけで、新技術がもたらされればすぐにその仕組みを理解し、どんどん改良を重ねていってしまう職人気質もかなり上質のものだぞ」


 「今は内乱も激しいが、これだったら交流の縁を深めながら少し待っていれば、海外為替市場まで対応できそうな国際的な新政権が台頭するのもそんなに時間はかからないかも知れない

と日本のことを見ていたのは間違いない。

1570 年代のエリザベス1世時代のイギリスでは、この時点ではまだ表立ってスペインに反抗できるだけの国力(議会制)はなかったものの、諜報を担当していた賢臣ウォルシンガムがスペイン側の内々の弱みを掌握し始めている。

 

イギリスがまだスペインとは険悪になる前(スペインの反フランスにイギリスがつきあっていたカール5世時代)の 1550 年代に、イギリスの財政再建を懸命に支えたグレシャムは当時のアントウェルペン市場(スペイン経済)に関与していたため詳しく、フッガーとの取引もしていたことからも、スペインの凶兆はある程度は察知できていたとみた方が自然といえる。

1550 年代までの、スペイン(カール5世時代)のメチャクチャな借り入れ要求に最後まで付き合わされたアントーン・フッガーの台帳を見れば、1570 年代の時点でのスペインは

 今まで通りの国威・格式を、無理をして悪循環の自転車操業(虚像)で維持し続け、深刻な財政難に陥っていた

 

 もはや、今までキリスト教徒とは足元を見合う険悪関係はないようなどこかの都合の良い遠方強国に助け(外国為替通商)を求めなければならない、もうなり振りなど構っていられないほどの危機的状況になっていた

のが実態だったのである。

フッガーはフランス王室側と関わっていた訳ではないため、フランス王室財政の実態が窺える台帳はないものの、フランス王室はスペイン王室と張り合うために背伸びして、リヨン市場でフランス国債の乱発を繰り返したため、当然のこととしてフランスでも 1570 年代にはまず帳簿上でメチャクチャなことになっていたのは間違いない。(共倒れするように両者とも債務支払い停止宣告=国債無効宣告による借金の踏み倒し=国債信用の大失墜=国家破産をしている。不渡り連鎖の経済恐慌化)

当時のスペインとイエズス会士たちの自国向けに宛てた書状の文献の態度は、そのまま自分たちの立場の弱さをとぼけながら、それを覆い隠しながら今までの国威・格式の威勢を維持しようと強がっている化けの皮の態度そのものと見てよい。

イエズス会は「日本人は西洋人に従って当然の格下」であるかのような偉そうな態度などは、向こう(西洋)の内々の文献上ではそれらしく威勢よくしていたかも知れないが、現地交流(日本)ではさすがに見せていない。

我らが信長公に対し、もしそんな態度をあからさまに見せようものなら

 「そのアントーン・フッガーという優れた経済参謀(銀行家)の警告を聞かずに、自分の所の度量衡(どりょうこう。天秤のことだが市場相場や経済対策の意味もある)も計れなくなって(整備・改革できなくなって)破綻寸前に陥っている上に、これから自分たちの宗教和議(カトリックとプロテスタントの険悪関係の改善調停)をしなければならない、所詮は新大陸の格下狩りに頼り切って調子に乗っているだけのだらしないお前ら(スペイン)が、お前たちができていない遠方異教の収容ができている日本よりも何が格上(世界全体の手本家長)だというのだ!」

恫喝(説教)され返されても仕方がない状況だったのが、当時のスペイン(カトリック代表国家)の実情なのである。(賢臣の明智光秀と羽柴秀吉もその事情は理解できていたと見てよい)

西洋人たちはそこを内々では正直に白状していた、だから織田信長はその心証(等族義務)によってそこを弱みの足元で見ずに寛大に「だったら少しは容認、便宜してやってもよい」の態度だった、内々ではそこが話し合われていたから織田政権とキリスト教徒たちの間では険悪な関係にはならなかった。

イエズス会士たちはまた彼らなりに別の思惑もあった(後述)が、スペイン(教皇庁を保護観察下に置く事実上の西方教会の主導国家)の大使役を任されて日本交流に訪れていたイエズス会側(スペイン側)が、未来が明るかった遠方強国(キリスト教徒の受け入れまでできてしまった文明的な日本)に対し

 

 「どうかお助けを(海外為替市場の開設提案で是非)」

 

で泣きつく側だったのが実態であり、それが本能寺の変に関係してくるという筆者の見解を後述していきたい。

また文字制限になってしまったため、次は「こういう大変なことになることになるかも知れないことまで、予測した上で始めたと見てよい」マクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーについて今一度、立ち返ったまとめをしてから、本能寺の変の話に入っていきたい。