近世日本の身分制社会(113/書きかけ145) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか41/?? 2022/12/16

今回は、カール5世時代のスペイン・ポルトガルの航海事業がどのようなものであったのかの話に触れたい。

もちろんこの話も織田信長が把握していた前提と見た場合の、筆者が説明したい本能寺の変の理由と関係ある紹介となる。

最初に注意しておくこととして、現代でも敷居確認の教訓に大いにできる歴史経緯(社会心理)に向き合う上で

 被害(貸方・人文多様)加害(借方・啓蒙合理)社会心理(歴史経緯・時系列・全体像・評議会的敷居)

 

 その議決性 = 社会的説明責任・国際的指導責任の手本 = 等族指導の手本 = 公務吏僚の手本 = 書記局官僚の手本 = 国会議事堂の本来の目的 の示し合い


の最低限の基本(国際人道観といえる民権言論)の見方が普段からできているかどうかが、まずは重要になる。

 

そこを自分たちで普段からろくに敷居確認し合えていない内から、センノー、シハイ、シューキョー、ドクサイなどと今の日本の低次元な教育機関とそのいいなりどものようにだらしなく思考停止用語化(低次元化・衰退化)し合ってはならない。

 


のち人種差別に大きな禍根を残すことになった事例(歴史)こそ、被害(人文多様的な配分結果)加害(啓蒙合理的な構想の敷居)の経緯(社会心理)を把握しようとしているかどうかの民権言論の基本姿勢が、普段から維持できているかどうかが重要になってくる。

その社会心理(歴史経緯)の把握が普段からできていない時点で、それをうやむやにし合うことしかしてこなかったのと同じ、

 「やらかし」の事例をただ落ち度狩りすることしか能がない、それで調子に乗りながら解った気にケンカ腰に責め立てようとすることしか能がない

 

 ただ迷惑ヅラや被害者ヅラしたがることしか能がない、正しい立ち位置とやらにだらしなく図々しく立ちたがることしか能がない、それでケンカ腰に頭の下げさせ合いたがることしか能がない

 

 自分たちが被害側であることしか意識を向けようとしない、自分たちが低次元な加害側にまんまと乗せられてそれに加担しているかも知れないことに自分たちで注意を向けようとしない

 

 それで思考停止(低次元化・衰退化)させ合うことしか能がない、そこに無神経・無関心・無計画な人生観しかもち合わせていない今の日本の低次元な文科省とやらとそのただのいいなりの法賊(偽善者)ども

とまさに同じである。

 

その自分の深刻さを自分たちで改善・対処(敷居向上・人事改革・身分再統制)できたことがない低次元な格下同士が、解った気にセンノー、シハイ、シューキョー、ドクサイなどと寝言をほざきあっている場合ではない。

当時のスペインのやらかし(加害)は、これは現代の日本人でも決してよそ事ではない、自分たちの身近でも陥りがちな危うさや深刻さの教訓の構図が、そこには多く見られることとして説明していきたい。

実際に日本でも、範囲が限定的で期間も短期的ではあるが第二次世界大戦末「環境が劣悪化すれば」同じようなことをやらかしたという実例もあり、悪い部分もあったが良い部分もあった日本だったから最終的にはそこは大目に見てもらえた部分もあった、だから目立たなかったに過ぎない。

根強い非難を受けることさえなければ、皆の非難の的にさえならなければ許され、それさえあればただ非難し続ければいいかのような、低次元な勧善懲悪化(ただの指標乞食化・ただの劣情共有化)をし合えばよいという話では当然ない。

「やってしまってから、そうなってしまってから」落ち度を得意気に拾い上げ、議決性も無しにただ調子に乗りながら解った気にケンカ腰に責め立てることしか能がない時点で、

 十分な対応力(敷居確認力・等族指導力)など間に合っていなかった深刻さに最後まで向き合うことがされないまま、どうにも取り返しがつかない状態になった後になってから、怒りを向け合ったり負担を押し付け合ったり要求し合っているようでは遅い!

ことへの深刻さをまず認識できていない、やらかした相手と何も変わらない低次元同士の無関心・無神経・無計画な人生観しかもち合わせていないのと同じなのである。

当時だろうが現代だろうが、日本人だろうが西洋人だろうが所詮は人間のやることとして

 「それでちょっとうまくいったからといって、なんでもかんでも勢い任せ、威力任せでやってしまう」

 「それで環境が劣悪化していった場合、どうなるか」

 「その劣悪環境に自分たちも置かれたら、自分たちも同じように踏み外したり対応不能に陥るかもしれない


という、被害(孟子主義的な結果的性善論・貸方論・自力信仰視点)だけでなく加害(荀子主義的な敷居的原因究明論・借方論・他力信仰視点)の経緯(社会心理)にも関心(当事者視点の深刻さの自己等族統制)をもとうとすることが、まずは重要になる。

 

そこに軽々しく「自分は大丈夫」などと思い上がるようでは何も見えてこない、「明日は我が身」でなければならないと念押ししておいた上で16世紀の西洋の貿易・入植の様子の年表列挙にまず入りたい。

なお、スペイン・ポルトガルによる[アジア貿易の現地環境][新大陸事業の現地環境]とではその快適さ・劣悪さがまず大違いだったことがこれまで完全にごっちゃにされ続けてきた。

ポルトガル主導のアジア航海はかなりの遠距離ではあったが、それでもスペイン主導の新大陸側の航海と比べると現地基礎(インフラ)が断然良かった、船乗りたちにとってはそこに天国と地獄ほどの差があった、だからその環境の違いだけでも、現地への差別圧政的な意識の向け方の有無や度合いもかなり違っていた事情などについても順述する。

- スペイン・ポルトガルの16世紀の航海事業の年表まとめ -

1500 この時点でポルトガルによるアジアからヨーロッパへの胡椒輸入800トン。丁子20トン(ちょうじ。香辛料の一種だが薬用にもなったため別枠扱いで重宝された)。これは 1390 年にヴェネツィアに届いた最盛期の胡椒800トンと同等量となる。(年々増えていく。順述)

1502 の時点でスペインは、コロンブスによる新大陸大航海で調査こそ大幅に進んだものの、期待したほどの資源獲得には至っていなかった。一方ポルトガルは東インド貿易で香辛料の満載で往来するようになり、完全に一人競争勝ちだった。そこでスペインとしても、新大陸の西回り大西洋(南海=マール・デル・スール)からのアジア貿易航路の計画も熱心になる

1503 セビーリャ(スペイン南部アンダルシア州の都市。16世紀に貿易都市として巨大化する)に「インディアス通商院」開設(この通商院は当初はアジア方面への意味が強かったが、のちに新大陸に対する意味の方が強くなる。のち莫大な銀が新大陸からもたらさせた際に、この通商院がその管理が顕著になる)

 ※この大都市セビーリャは、のちにアマルガム精錬法で新大陸から莫大な銀が持ち運ばれた際の、その銀の管理の中心地となる。1550 年代にはスペイン最大の商業都市に巨大化し、証券市場や外来銀行が立ち並ぶようになった

1504 大西洋と太平洋の水路探査事業におけるスペイン王室の協約が民間参加型として計画される。1502 年の時点で計画されていたコロンブスの第4回航海計画は、コロンブスの死後のこの 1504 年に実行された。スペインはポルトガルと「先に航路開発・確保した側に、後から奪い合いをしない同盟。航路を確立した側の許可を得る(支配権に従う)同盟」の調印(初期のトルデシリャス条約では利益協約はまだだった)をしたため、スペインはポルトガルが航路開発したアフリカ大陸南部回りからのアジア航海ができなかった。(しても利益が上げられなかった)。そのためスペインは新大陸側での航路開発をきっかけに、新大陸側・太平洋側からのアジア航路開発も同時に摸索していた

1508 アラゴン国王フェルナンド5世(カール5世の祖父。スペイン王)が航海者を召集しブルゴス会議を開催。モルッカ大航海(新大陸側・太平洋側からのアジア航海)が計画される。ブルゴスはスペイン北部の商業都市。地元の優れた商人団が集まっていた

1508/03ブルゴス会議に出席したソリス(ポルトガル人航海士)とピンソン(コロンブス第1回の新大陸調査に参加していたスペイン人。アンダルシア州出身)がモルッカ航海協約(新大陸側からのアジア航海計画)を結ぶもこの企画は成功せず

1508/06ブルゴス会議に出席のオヘーダ(スペイン人。カスティリャ・ラ・マンチャ州出身)とニエクサ(たぶんスペイン人)が(新大陸経由・太平洋側からの)モルッカ航海協約。バルボア(凶暴なコンキスタドールとして歴史的に有名になるスペイン人。エストレマドゥーラ州出身)も参加。1499 年コロンブス第2回航海にオヘーダアメリゴ・ヴェスプッチ(トスカーナ人・イタリア人。アメリカという名称の元となった人物)、デ・ラ・コーサ(たぶんスペイン人)らが参加しており、その時にエメラルド等の宝石を発見する快挙が得られていた。この時のブルゴス会議での、航海協約の8人の有力出資者に、アメリゴ・ヴェスプッチも参加している

1510 オヘーダ、ニエクサらの航海は「暑い地」ティエラ・フィルメ「南米の北岸」に達する。新大陸の地理調査・地図作成が進む

1510 サンタ・マリア・デル・ダリエン(今のキューバ。サンタマリア島)に基地を建設。バルボアがここの初代総督(現地の執政権と、海域支配権の提督も含める)になる。スペイン航海士やイタリア航海士たちが、新大陸の新地の地図作成の際にヨーロッパの巡礼地感覚で、なんとかドミンゴ、なんとかセバスティアン等を各地に名づけていた。なおこのバルボアの船団には、同じく凶暴なコンキスタドール(征服的探検者)として歴史的に有名となるピサロ(スペイン人。エストレマドゥーラ州の都市トルヒーリョ出身)も同行していた

1513/09 バルボアの南海発見報告(太平洋側に向かう方法)がスペインに届き、関心が高まると同時にポルトガルとの制海権の境界解釈が本格化し緊張も高まる。この時アグラモンテ(たぶんスペイン人)がフランス人水先案内人とで新大陸の北東岸の探査を計画していた矢先の事だった。新大陸の地理がまだ把握できていなかった当時、パナマの南側から太平洋に出られることが解って盛り上がった。太平洋側からアジア方面までに中継的な大陸があるのかどうかもこの頃はまだ把握できていない時代だった。このバルボアの報告に急遽、アラゴン王(スペイン王)フェルナンド(カール5世の祖父)はソリスの航海を要請、計画された

1514/02 国王フェルディナンドはソリス「アメリカ大陸西岸沿いから北上する遠大目標」計画を協約。国王自らも艤装(ぎそう。航海のための船、装備、食料物資などを揃えること)資金負担

1515/10 ソリスはサン・ルカル・デ・バラメーダ(セビーリャの南側にある要港)から、主力船から3隻のカラヴェル船(帆柱を複数備えた小型帆船。早船。調査の際の小回り向けに造られた)を率いる形で新大陸へ出航

1516/02 ソリスはウルグアイ海岸の「大きな流れ」リオ・デ・ラ・プラタを発見。ここを「淡水の海」マール・ドゥルチェと命名。ソリス河とも呼ばれる。このラ・プラタ河口西岸が、今のアルゼンチンの首都ブエノスアイレス。ここにソリスがやってきてスペイン領を宣言。ソリスはその後太平洋に出る事なく現地で殺害されることになった。ソリスの発見で名づけられたリオ・デ・ラ・プラタは 1536 年以後に地図に「ラ・プラタ河」と記載されるようになる

1517/10 リスボン支店の外来商人クリストバル・デ・アロ(ブルゴス人・スペイン人)が、当時ポルトガル王室と航路開拓計画のことで折り合わずに内心の不満をもっていた航海士フェルディナンド・マゼラン(ポルトガル人)をスペイン王室に紹介。人材引き抜きの斡旋となったことが問題となり、ポルトガル王室を怒らせたクリストバルはリスボンから追い出された。スペイン王室はマゼランの意欲的な太平洋計画を抜擢、出資した。マゼランクリストバルは盟友関係となったといわれる。クリストバルはのちスペイン航海事業の中心議会となるインディアス通商院の王室代理人の知遇を得ていた他、リスボンの貿易事業に参入していた頃からヴェルザー(アウクスブルクでフッガーに次ぐ大手の資本家)ら南ドイツ筋との交流関係もあった

1519/01 皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公)が亡くなる。まもなくカール5世がカスティリャ王(スペイン王)とドイツ皇帝に就任するが、この皇帝選挙と就任費用をヤーコプ・フッガーから巨額借り入れした。簡単には返済できずに次々に借り入れを繰り返すことになるカール5世も、それに付き合わされることになるのちのアントーン・フッガーも互いに苦慮することになる

1519 バルボア船団の有力者であったピサロが、アルマグロ(スペイン人。カスティリャ・ラ・マンチャ州の都市シウダーレアル出身)と共にパナマの植民事業を始める。ここを拠点にしばらくしてこの2人がペルー方面(インカ帝国)への探検と支配に乗り出すことになる

1519/09 マゼランを中心とする5隻200名以上の大規模な、新大陸・太平洋側からのアジア航海の編成。スペイン王室が1万7200ドゥカード、クリストバルが2000ドゥカードの出資を中心に出資者が募られた。クリストバルがその艤装や交換商品調達の管理も担当した。この編成ではマゼランが信頼する血縁者や友人も参加していたが、内3隻は派閥敵意者が実情だった。サン・フリアン湾(キューバと思われる)で暴動が起きた際にマゼランエルカノ(デル・カーノ。バスク出身。バスクはスペインに統合扱いだが自治権的にはスペイン王室とはあまり仲が良くない歴史が続いた。バスク人も航海士が多かった)が揉めている。なおこの遠征船の乗組員に2名のドイツ人砲手も参加していたことが判明している

1520秋 マゼランの船団が新大陸南端のマゼラン海峡(アルゼンチンの河口を記念的に名付けた)を通過。この船団は当初はパナマから太平洋側に出る計画もされたが、アルゼンチン側から太平洋側に回る航路計画となった

1520 スペイン王室はこのマゼラン航海中に、次の航海計画としてニーニョアヴィラ2名(2人ともスペイン人と思われる)の航海3隻出資金380万マラベディ(1万ドゥカード。1万4000グルデン)を準備。王室の個人的な資産からも出資された

1521/03 このマゼラン(スペイン主導)の船団が、とうとう太平洋の海流からアジア方面のフィリピンのサマル島(セブ島)に3隻で到達。最初の5隻からこの時点で2隻失っていた

1521/04 マゼランは要港権の便宜を受けるためにセブ島支配者と同盟し、それと敵対していたマクタン島攻撃に加わるがここでマゼランが戦死。マゼランに代わってエルカノ(デル・カーノ)が代表となり、まもなく目的地であるモルッカ(インドネシア)に到達

1522/09 マゼラン船団の生き残りのエルカノたちがスペインに帰港する。5隻200名で出発したマゼラン船団が戻ってこれたのは、エルカノのヴィクトリア号小型85トン1隻18名のみだった。7万ポンド分の香辛料(主に丁子)を積んでのセビーリャの帰港だった。これだけでも遠征費用以上の利益となり、この太平洋横断の成功はとにかく驚かれた。このマゼラン船団の利益がフッガーへの借金返済に当てられるという約束になっていたため、フッガーとしてもこれは朗報だった

 ※ マゼラン船団の艤装の内訳 ※

 <船> サン・アントニオ号(120トン) トリニダッド号(20トン) コンセプト号(90トン) ヴィクトリア号(85トン) サン・ティアゴ号(75トン)

 <積荷> パン2万ポンド余 ベーコン5700ポンド余 いわし200樽 チーズ984塊 蜜5400ポンド余 革袋の酒417袋 酒253樽 ろうそく1万4000ポンド 牝牛7頭 大砲58門 槍1200本 鐘や鈴2万個 ドイツ製ナイフ400ダース(4800本) その他、補修用材料の木材、タール、ピッチ

 <交換商品> スペイン製の織物 水鉢(アントウェルペンで南ドイツ人からの買付した真鍮製品=銅製) 腕輪(アントウェルペンで南ドイツ人からの買付した真鍮製品=銅製) 銅貨 その他銅製品

 <持ち帰りの収穫>7万ポンド分の香辛料。そのほとんとが特に価値がある貴重な丁子(ちょうじ)だった。船が沈んでしまう際に丁子が沈まないよう最優先されたと思われる

1522-1529 の期間、エルカノが持ち帰った丁子を管理するためのモルッカ通商院がラ・コルーニャ(ガリシア州。スペイン北西の海岸沿いの都市)に設立される。その収納倉庫と売却手続きの管理局の長官にクリストバル・デ・アロが就任した。アロ家は兄のディエゴと共にスペインの政商として信任が高かった。ヴェルザー(の代理人)とディエゴがこの販売業に関わった

1522末 カール5世はネーデルラント総督マルガレーテ(カール5世の叔母。しばらくしてカール5世の妹マリアがその後任者となる)への手紙で「アヴィラ船団が既に暑い地(ティエラ・フィルメ・南米の北岸)から出航した。次の新たなゴメス船団のモルッカ遠征を派遣するつもりだ」と知らせた手紙が残っている。この手紙には、ヴィクトリア号(エルカノ)が持ち帰った香辛料(主に丁子)を、アントウェルペン支店を経営していたディエゴ・デ・アロに送る旨も書かれている

1523/03 ゴメス(マゼランの友人)が1隻あたり70万マラベディ(1800ドゥカード)を出資するという計画の、モルッカ(インドネシア方面)航海協約が結ばれる(スペイン王室も出資)

1522/11/13 スペイン王室はモルッカ遠征事業に、外国人を制限したスペイン人中心の企画で資金を募るも、スペイン国内だけでは思うにように資金が集まらなかった

1522 にスペインがマゼランの新大陸・太平洋回りからのアジア航海の成功(戻ってこれたのはエルカノ以下18名のみだった)に沸き立っていた頃、ポルトガルではアフリカ南端回りからのアジア方面への制海権を維持するための、ガレオン船数隻の派遣を繰り返していたことが、大きな利益の一方でのその維持費も財政の大きな負担となっていた。同じくスペインも、太平洋側からのアジア貿易船だけでなく、新大陸調査・支配のために毎年20隻以上の船団の派遣を続けたことで、その負担は甚大なものになっていた

 ※当時のポルトガルは近代戦に例えると、制空権を握り続けるために、その空域に航空戦闘機団を飛ばし続けなければならなかったのと似ている。中継ごとに確立したばかりの要港権を、イスラム教徒らやその他の地元の派閥が現地の権力者を介して排撃に動かれることがないように、現地の味方を便宜するための品々を届ける定期船を送り続けなければならない大変さがあった。だからのちにスペインとポルトガルは、航海開発の利権競争に落ち着きを見せると協約するようになる

1522/12/10 スペイン王室は、スペイン国内だけでは資金が思うように集まらなかったため、外国人規制をやはり解除し南ドイツ人とハンザ人に船団の艤装と積荷調達の出資を呼びかけた。この呼びかけにはフッガーに頼る期待が大きく、クリストバルもフッガーに働きかけることになった。フッガー中心の南ドイツ商人団が組まれて1万ドゥカード(375万マラベディ)が出資されることになった。フッガー4500ドゥカードと5人の匿名アウクスブルク商人で5500ドゥカード出資。さらにフッガーの代理人ヴァンドラー(たぶんドイツ人)もこの遠征同行が認可された

1523/03 フッガークリストバルの間で、必要な船の資材を北ドイツのハンザ都市で調達する計画が組まれ、皇帝カール5世がそれを後押しした。リューベック(北ドイツ・ホルシュタイン州の海洋都市。ハンザ都市同盟の大手だった。牛で有名な州)とグダニスク(ポーランド北部の海洋都市。こちらもハンザ都市の大手。ドイツとの縁も強くドイツ人の間ではダンツィヒと読んでいた)にフッガーらに協力するよう、カール5世による要請の手紙が送られた

 ※この頃、経済景気にともなってドイツ中の物価が上がる一方になっていた様子に「フッガーとヴェルザーが裏で買占めの荷溜めをしているせいではないか」という疑いの世論非難がドイツ中で強まり、その疑惑が帝国議会で取り沙汰されていた。「フッガー(南ドイツ商業圏のよそ者)が北ドイツ商業圏(ハンザ商業圏)で何やら大規模な商業活動を起こそうとしており、それを見逃せばさらなる物価高騰になるに違いないから、皆でその妨害運動を起こそう」という世論の流れになっていたため、そうではないことを皇帝自らが議会で擁護強調された

1524~1525 パナマに支配拠点を築いていたピサロアルマグロが、このパナマを拠点にそこから南側の今のペルー方面の探検・征服を開始する

1525/07 ラ・コルーニャ(スペイン北西の海岸都市)からロアイサ師(サン・ファン・デ・ロダス騎士修道会総長)の船団7隻450名のさらなる大規模アジア航海が出航された。これにはエルカノも同行した。この出資にはフッガー中心の南ドイツ商人団も加わっていた

1525 この年ヴェルザー(アウクスブルクの資本家)が、スペインのインディアス通商院(実際は新大陸に対しての議会の意味が強かった)を介して貿易特権を獲得。ヴェルザーはスペインの新大陸植民事業(ベネズエラ入植)に積極的に関わった、外来としては唯一の大手の資本家だったといわれている(そのヴェルザーの資本集めに間接的に関与していた者たちはいた)

1526 スペインが占拠していたエスパニョーラ島サント・ドミンゴ(今のドミニカ共和国の首都。キューバの近く。もちろんスペイン人たちが勝手に名づけていた。エスパニョーラは新たなスペインの地という意味)にヴェルザー支店が開設される。この支店がヴェルザーのヴェネズエラ入植事業の拠点にもなる。このサント・ドミンゴの都市開発は、クリストファー・コロンブスの弟のバルトロメー・コロンブスによって 1496 年にその建設が始まった。1514 ~1520 年の間にここで建設されたサンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂は、新大陸(アメリカ大陸)での最古のキリスト教の聖堂となった

1526/05 ロアイサ船団は新大陸に向かったまでは良かったが、太平洋に出た頃から散りじりになり、7隻中2隻がかろうじてティドーレ島(フィリピン)に到達。ロアイサ師エルカノもこの時点で死亡していた。結局1隻だけが、収穫がほとんと沈んでしまったままどうにかアカプルコ(新大陸メキシコ)まで帰り着くことができた

1526/04(ここで時系列が1ヶ月遡る)ロアイサ船団の失敗を知る由もないスペインでは依然としてモルッカ航海(新大陸側・太平洋側からのアジア航海)に湧き立ち、カボート船団4隻がセビーリャから出航される。カボート(ヴェネツィア出身の航海士)の出航の時にクリストバルは次の、ソリスの水先案内人だったガルシア(たぶんスペイン人)の船団の準備を始めていた

1526 スペイン王室とジェノヴァ人資本家組合の間で、エスパニョーラ島(新大陸の新地)の出資・貿易の取り決めが話し合われる。これはディエゴ・デ・アロが仲介するベルナルド・グリマルディ(グリマルディ家はジェノヴァで1位2位を競う資本家。ジェノヴァ人はトスカーナ人以上に金持ちが多かったといわれる)を中心とするコンパニア(少人数短期当座組合)だった。サント・ドミンゴ(キューバ)、ノンプレ・デ・ディオス(パナマ?)、メキシコ、リマにおける外洋船、家屋、鉱山、家畜、奴隷、真珠の採取場、またメキシコやペルーの鉱山の坑道配分などの特権について、まだその支配権が確立する前から取り決めが話し合われていた

1526~1528 ペルー探検・征服を進めていたピサロアルマグロが、インカ帝国とその首都クスコを発見してしまう

1527(1526?)カボートはロイアサ船団の航路を通らずにラ・プラタ河(今のブラジル。ブエノス・アイレス)に到達。ここでロアイサ師の失敗を知ったと思われ、モルッカをあきらめカルカラニャ河とパラマ河の合流地にあたるサンクティ・スピリトゥス(ブエノス・アイレスから北西。現在サンタフェとパラナという都市があるあたりと思われる)に砦を築き、ここを拠点に、多くの銀があるという「白い王」が統治するという神秘の王国の探検を試みる

 ※カボートたちは本来は、新大陸から太平洋へ出てインドネシア方面に向かうという、そのための艤装(船団準備)だったはずのスペイン王室との契約をここで勝手に破る形で、新大陸の内地探検を始めてしまった。大して交易品を持ち帰ることができなかったロアイサ船団の結果を新大陸の現地で聞き、多大な危険に挑んでまでアジアへ向かうよりも、その艤装戦力を現地支配と資源探検に向けた方が得策と、勝手に動き始めてしまった

 ※時系列が前後するが、サンクティ・スピリトゥス(アルゼンチン内陸側)に砦を築いて(スペイン領を宣告して)現地人支配を始めたこのカボートの一団は 1530 年に結局、現地人の反抗運動に遭って砦は破壊され、生存者たちはセビーリャ(スペイン)に逃げ帰ることになった。当然のこととしてカボートは裁判にかけられることになった。船団長であるカボートに仕方なく従っていた、その船団に参加していたドイツ人ニュルンベルガーと、この時期にユカタン半島(メキシコ)に滞在していてカボートの様子を聞いていたフッガー代理人クルツが、その証人として出廷している

1527/08 スペインから出航したガルシア船団はブラジルに到達後、アルゼンチンの内陸部に砦を築いていたカボートに会いにいくことをしている。結局このガルシア船団もモルッカ(アジア)には行かなかったという(カボートと合流したのかも知れない)

1527 スペイン国内では、次のアルカソーバ船団のモルッカ航海が計画されていた。しかしクリストバル中心でフッガー、ヴェルザーに呼びかけるも両者は断ったこともあって思うように資金が集まず、この企画は断念された。この直後にロアイサカボートの失敗の報告がスペインに届いた

 ※企画倒れとなったこのアルカソーバ船団の計画中には、クスコ支配(インカ帝国支配)に向かったピサロアルマグロが、現地人を巻き込んでこのふたりが派閥闘争で揉めてばかりいる報告(互いに悪人扱いし合う報告ばかりスペインにしていた)がスペインに届いていた。こうした実情はスペイン王室と取引していた大手の資本家たちや王室の議会関係者、上級貴族らの一部しか知らなかった。内心は先が思いやられる報告を受けていたアントーン・フッガーは、この頃から新大陸事業への出資要請に消極的になっていた。ただし全て断る訳にもいかずスペイン王室の要請にいくらか応じることになった

1529 ベネズエラの入植(植民地計画の)貿易権を獲得していたヴェルザー(の代理人たち)とスペイン王室の間で、ベネズエラ統治権協約について話し合われた。この頃にはベネズエラではコロ市、マラカイボ市が建設されていたが、しばらくしてこの植民地事業は失敗に終わる。巨額投資していたヴェルザーはこれを引き金に家産は著しく傾いていき、破産に向かうことになる

1529/04/22 結局スペインのモルッカ航海は、サラゴサ条約によってスペインが主張していたモルッカ諸島の権利をポルトガルが金貨35万ドゥカードで買い取るという取り決めで調印される。これによって新大陸・太平洋回りからの、あまりにも代償が大きすぎたスペインのモルッカ航海は終結した

 ※スペインの新大陸・太平洋回りからのアジア貿易は、最初のマゼラン(エルカノ)の奇跡的な大成功を収めて以降は振るわなかった。スペインの新大陸・太平洋回りからの、あまりにも危険が多すぎたアジア貿易計画は 1529 年に終焉した。この苦しい経験はスペインの航海力を向上させることにもなった。17世初頭にはその時の経験が活かされて日本とスペインの交流が少しだけ行われた際に、この太平洋側の航路が一時使われている

 ※当初のマゼラン(エルカノ)のアジア貿易成功に、ポルトガルが「アジアの交易権侵害だ!」とスペインにかなり強く抗議し、外交上ではスペインとポルトガルは一時険悪となっていた。スペインが太平洋回りからの航路権をポルトガルに売却するという形が採られて以来は、和平協約化が進んでいくことになる

1529 スペイン王室が、ピサロに今のペルー北部の広域の支配権を公認。のちアルマグロにもペルー南部の広域の支配権を公認

1530?「アジア航海の契約を守らずに、予定と違うアルゼンチン内陸部の支配を始め、結局現地の反抗運動に遭ってスペインに逃げ帰ることになったカボートの裁判が行われる

1531/04 ヘント(ガン。ネーデルラント。カール5世の生まれ故郷)に滞在していたカール5世がスペインに帰国してインディアス会議に出席。この会議でスペイン王室はフッガーの代理人と、新大陸の征服協約の話を進めようとしたが、この植民地計画の出資は結局折り合いが合わずに破談となった

 ※破談となったこの時の大まかな内容としては、8年間の間に3回の遠征費用をフッガーが巨額投資してくれれば、マゼラン海峡近隣の島々(アルゼンチン南部の島々)の領有権(現地の民事裁判権の割譲)が獲得できるというものだった。スペイン収公の内の5%がフッガーの領主特権保証となる他、そのフッガー領内で得られた利益の10%をスペインに収めれば後は自由、牛馬等の畜産の輸出入も無税、造船特権付きという好条件のものだった。ただしその植民地事業の体制作りまでの、西洋人の派遣人員500名分の維持費や、現地での役所や武器庫や病院などの施設建設の費用も巨額で、徴税請負(ちょうぜいうけおい)よりも遥かに難しくなるその代行管理は極めて大変だったことも予測され、折り合いがつかなかった

 ※ベネズエラ植民地事業を先行していたヴェルザーの様子に、うまくいっているように見えなかったフッガーが断ったの無理はなかったといえる。ポルトガルのマデイラ島での換金作物農園の拡張事業の大成功例に影響されていたスペインは、新大陸で砂糖やアジアの香辛料などの畑を作らせることに熱心になっていたが、そもそも現地でどんな作物が適正に育てられるのかどうかも解らない中での話だった

 ※スペインのこの「新大陸出資に莫大な資金と労力を投じたのだから、現地資源で早く取り戻さなければ」ばかりの本国本意によって、現地に適した農地開発も行われずの、まず食料補給もろくにされないまま換金作物のためばかりの強引な農地開発と鉱山開発の強制労働を、現地人たちやのち口車で連れてきたアフリカ人たちにさせることになった。現地の西洋人代官たちでさえ衣食住に困るほど貧窮させることになり、現地での社会環境は劣悪化していくばかりになる。それが現地での奴隷収奪的寡頭上下社会を助長させる結果となり、現地人を巻き込んだ西洋人代官同士での現地での激しい権力闘争(支配権争い・主導権争い)も各地で頻発することになった

 ※ヴェルザーのベネズエラへの巨額投資失敗も、時間をかけて現地整備を始めてから利益を上げていくということを、国債発行の初期投資の債務処理に追われて時間がなかったスペインが結局しなかった。植民支配だろうが家訓政権だろうが何であれ、日本の江戸時代のような鍬下年季制度(くわしたねんき。4年間無税無労役の準備期間保証制度)や村民全体の民力議会的な資本貯蓄管理体制なども無しの、強引な換金資源開発が強行される前提だったことが、結局ヴェルザーの破綻になったと見てよい(順述)

1533 ピサロアルマグロが、インカ皇帝アタワルパの処刑を以って首都クスコとペルー全土の征服を達成。ピサロアルマグロは、首都クスコの領有権を巡って2人は険悪に対立するようになる。なおインカ帝国の貴重なジャガイモが西洋に持ち帰られるきっかけとなった。当初はポテト(ジャガイモ)は西洋人たちからは花としては高い評価を得たが、食品としての価値は全く見なされなかった。のちに食料危機を大幅に改善させる重要食品として品種改良されていくことになる。日本にも 1590 年代に認知的に伝わったといわれる

1534/05 に計画された、ラ・プラタ河近隣(今のアルゼンチンとウルグアイ)の植民事業ためのメンドーサ(スペインの騎士修道会出身で、イタリア遠征で傭兵隊長を務めた経歴もあった)の遠征船団が 1534/08 に出航

1536/01 ラ・プラタ河に到達したメンドーサ船団が、現代のブエノス・アイレス(今のアルゼンチンの首都)の基礎となる本格的な都市建設に着手。この船団には南ドイツ商人団も出資していた縁で、ドイツ代理人もこの船団に同行していた。カボートの船団に参加していた者たちもこのメンドーサ船団に同行。なおメンドーサ1537 年にスペインに帰港中に亡くなった

1539 クスコの領有権を巡るピサロ派(ペルー北部のドール)とアルマグロ派(ペルー南部のドール。ドールやマヨールは総督や長官や司令官や知事などの意味)の派閥闘争は本格化し、その戦いに敗れたアルマグロピサロに処刑される。しかしそのピサロ1541 年にはアルマグロ派の残党に暗殺された

1540 ポルトガル主導のアジア貿易によるヨーロッパへの胡椒輸入量が2000トンに達する

 

 ※だいぶ後になるが 1580 年には2500トン。ポルトガル(カトリック)が主導ではなくなっていたオランダ(プロテスタント)主導によるアジア貿易以後の 1670 年には、現代日本の輸入量に相当する6000トンに達する。また 1650 年からはアジア貿易は香辛料だけでなく、錦織物(キャリコ)と藍(あい。インディゴ。アジア産の青染料は良質だった。日本でも良質な藍の栽培が江戸時代に盛んに行われるようになった)の取引も人気となった(順述)

 ※16世紀内のヨーロッパからの派遣船は全部で793隻、その内の90%714隻がポルトガルからだった

 ※17世紀内でのヨーロッパからの派遣船は全部で3243隻。内オランダ1789隻(55%)イギリス869隻(27%)ポルトガル366隻(11%)。これとは別枠の、これよりもさらに多くの中国貿易船がインドネシア方面を往来していた。17世紀の中国のインドネシアにおける権威は16世紀ほど強力なものではなくなっていたものの、依然としてアジア強大国として睨みを効かせる権威は有していた


 ※16世紀には明(みん。中国大陸のアジア強大国)、中近東のイスラム教徒たち、西洋のキリスト教徒たちがインドネシアに積極的にやってきて、それらと現地の派閥で入り乱れながらもその農園事業を拡大させることにこれらがとにかく熱心に介入した。17世紀になるとインドネシアは国際的な巨大農園市場に成長していた。どこまでが収奪的寡頭支配で、どこまでが国際文化的等族協約なのかも冷静に見る必要がある。少なくとも16世紀の段階ではスペインの新大陸事業とはかなり違っていた

- ここで区切る -

 

諸田實(もろた みのる)氏の貴重な書籍「フッガー家の時代」で、フッガーから見たスペインの新大陸の植民利益が本格化するまでの 1540 年あたりまでの様子が書かれていたものを、筆者が補足する形で年表列挙してみた。

新大陸での強引な農地開発と鉱山開発が始まり、1530 年代あたりから資源のスペインへの持ち込みが顕著になっていく。

 

まず、ポルトガルが15世紀後半に大成功した、マデイラ島、アゾレス島の特に砂糖農園の開発例も「入植」ということになるが、こちらはスペインの新大陸ほどの過酷さや残忍さは、あったかも知れなくても強調されていない。

 

アフリカ大陸から少し離れた西側のこれら諸島では、マデイラ島は発見された当初は無人島で、アゾレス島は原住民が元々いたといわれ、ポルトガル船が調査に訪れた際に、ここの元々の殖産が金になることに目をつけたことが始まりになる。

 

ポルトガルが巨額投資する形(ジェノヴァ筋の資本家の介入が顕著)で、アゾレス島の原住民たちと共同開発的にその農地拡張を奨励し、無人島であったマデイラ島にもポルトガルが開拓民を移動させた。

 

15世紀末までにはこれら島々は、砂糖、乾燥果物、コルクカシ、ワイン製造の一大産業として発展し、マデイラ島は新大陸やアジア方面へ向かうために中継港にもされてますます繁栄し、タクシスによる定期郵便船も作られることになった。

 

ドイツでもマデイラ島は、農業経済的に豊かで華やかな要港都市に成長していたことが出版でも紹介され、一度旅行に訪れてみたい南国だと評判になっていたほどだった。

 

マデイラ島にアフリカ人たちを連れてきたかどうか解らないが、マデイラ島が農業経済(換金作物事業)で豊かな島となったのは間違いなく、ここで過酷な圧政らしいことがされた様子があまり見られない。(現段階の筆者の認知では)

 

ポルトガルによるマデイラ島入植の成功に興味をもったイギリスが、その付近の殖産を目論んで調査船を出し、マデイラ島やアゾレス諸島の換金作物事業の権利に食い込もうとしたが、船舶力を身に付けていたポルトガルに阻止され追い返されている。

 

マデイラ島はポルトガルからは距離自体は結構あるものの、アフリカ西岸のヴェルデ岬島の港や、ギニヤ湾の要港都市ラゴス(今のナイジェリア)との航路が確立されていたことから、マデイラ島でもし主食面での食糧危機が起きたとしても、その補給は維持しやすかったと見てよい。

 

一方で新大陸行きは、後方からの人員や物資の補給が前提になっていない、当初の積荷だけで全てなんとかしなければならない中、食料を積んだ船が嵐にあったり座礁したりで沈んでしまえばもうおしまいで、新大陸でなんとか調達するしかないという過酷な原野生活(サバイバル)が強いられる前提だった。

 

一方でポルトガルの、アフリカ南端回りからのアジア貿易はかなり遠かったとしても、こちらも海難事故で難儀することもあったものの、基本は陸伝いの航路で中継ごとにある要港で地元の権力者たちと交流しながら、困った際の補給も可能だった。


新大陸側までの航路距離は、ポルトガルのアジア航海に比べればだがだいぶ近いものの、しかしその中継の要港もろくにない中で進められた分、かなり過酷だった。

 

西洋人たちによって、現地の反抗派たちの妨害に遭いながら新大陸側にやっと要港が作られたばかりで、現地での食糧を始めとする物資供給もまだ十分でない、エンコミエンダ(現地議会体制・現地身分制議会)もこれからという内から、そこから太平洋側に出て、同じく中継の補給拠点もないままにスペインはアジア貿易を強行したのだから、まさに地獄一直線の航海だったのである。

 

例えば日本の対馬、五島列島、琉球、台湾方面の間も距離は結構あるが、その広い海域で小島伝いに漁業や製塩業や交易をしていた旧倭寇の縁の日本人、朝鮮人、中国人、琉球人たちが船でいつも往来していたため、どこかで海難事故があった際に運が良ければそれらに発見、救難される可能性もあったが、太平洋側はそれも期待できなかった。(旧倭寇たちは明政府に反抗しながら自分たちの持ち場の海域自治権をそれぞれ維持していた)

 

スペインが新大陸の支配権を確立し始めた 1530 年代頃にはイギリスも興味をもち、それに食い込もうと新大陸に船を出したといい、これも当初は先行組のスペイン勢に追い返されるが、スペイン一強主義の強権が崩れ始める(スペイン主導のカトリック再確認主義との決別の独立的プロテスタント国家運動が顕著になる) 1580 年代あたりになると、新大陸で先に支配権を確立していたその体制を、イギリスが横取りするように食い込み始めるようになる。

 

入植・殖民支配・奴隷という語に印象だけで振り回されがちだが、要するに現地人たちにとって豊かになれる見通しがあるかどうか、それは地域ごとで新事業を起こすための地域全体の資産運用や祭事(大市)の管理(自治権的な政治)ができるようになるかどうか、そしてそれを元に個人ごとでも蓄財ができるようになるか、その先々の明るさがあるかどうかが、どこまでが収奪寡頭支配で、どこまでが国際等族協約なのかが重要になる。

 

ドイツのツンフト闘争(のちプロテスタント一揆)にしても、日本の荘園公領制の崩壊と戦国前期の閉鎖有徳闘争(惣国一揆闘争)にしても、そういう所の等族指導(敷居向上のための時代に合った議会改革)がうまくいっていない(それができる手本家長でない身の程知らずが、いつまでも地位・議席にしがみ続けて人の合格・失格を裁定しようとする)から、不健全(低次元)な頭の下げさせ合いを強制し合う勧善懲悪(偽善)の愚かさ・だらしなさに苦しみ続けなければならなくなるのである。

 

今まで大した国際交流(異環境間の敷居競争)の機会がなかった新大陸側では、強国化したスペインの法(議会制)の文化が強行的にもちこまれる形になったが、反抗したくても自分たちの議会力の確立の仕方がそもそも乏しければ、人々をまとめる結束力(主体性ある代表選任力)を維持することも難しく、だからそれを追い出そうとすることも難しくなってくる。

 

異環境間(国際情勢)の文化交流(認識力)も乏しく、自分たちで議会的に結束して外圧に抵抗するという文化がまず乏しい中、そこにいくらか慣れていた西洋人たちが急にやってきて、どう対処してよいのか解らない不測の事態を迎えると、中には仲間を出し抜いて相手の権力に取り入ろうとしたり、同民族同士でうちのめし合わせるための詭弁の口車に乗ろうとする者も出てきたりするものである。

 

新大陸側の現地人たちは、急にやってきて偉そうに文明を見せつけてくる西洋人たちに不満をもちつつも、「そのキリスト教という規律に従って、いう通りに開発すれば皆が豊かになれる」と聞いて、反抗する者たちもいる中でも最初は渋々にそれに従うということもされた。

 

ところがスペイン本国の議会では、現地の議会体制をまず整備することよりも、今まで新大陸進出のために巨額負担してきた補填を急いでしなければならなかったことの、その都合のための開発ばかり現地代官たちに優先させた。

 

まず現地を安定させたり豊かにしていくために必要な、現地のための開発整備が一向にされないまま、スペインの都合のための収穫物ばかりが作らせ、それをスペインに運ぶことばかりされ、その見返りが何も送られてこなかったことが続いたため、当然のこととして「話が違う!」と現地人たちの反抗運動も頻発するようになる。

 

スペインは新大陸を、インドネシアやマデイラ島のような換金作物市場にしようと、今までの現地人たちの自給手段をやめさせて、まるで人間よりも偉いかのような香辛料や砂糖きびなどの換金作物の作付けばかりさせ、その収穫の見返りも送り返さなければ、現地を支えるだけの食糧輸送も十分にしなかったため、どこも慢性的な食糧その他の生活の原料供給不足に陥るようになった。

 

「そのキリスト教という文明的な規律に従って頑張れば、大きな見返りが期待できる」と聞いたから頑張って働いた現地人たちは、見返りなど得られなかった上に、食糧を始めとする現地を支える基礎供給をやめさせられる形でスペインの都合の開発ばかりすることになったため、当然のこととして現地人たちは衰弱・疲弊し、生産意欲も大激減させることになった。

 

現地人たちには発散的な一時的な反抗はできても、議決性を以って長期的に自分たちの議会を確立できるだけの国際文化交流的な力(器量・裁判力・自分たちの身分統制力・自分たちの主体的な代表選任力・自己等族統制力)が育っておらず、その敷居の体験自体が乏しかった。

 

それが現地人よりもできている西洋人たちに対抗できるだけの力はなく、その等族指導を受ける機会もない中で現地基礎が破壊されて衰弱・疲弊させられてしまった劣悪な環境を迎えてしまえば、そしてその中でただ生き残ることだけが全ての目標になってしまえば、その反抗もなお難しくなる。

 

年代が判然としない所もあるが西洋人たちは、危険な薬物といわれているあのコカを育てさせ、それを現地人たちに与えて労働搾取をするようになった地域もあったといわれ、重労働の鉱山開発が特に顕著だったといわれている。

 

現代でもたまに取り沙汰されるコカは、感情の起伏を狂わせ、神経痛や空腹感や疲労感といった人体の基礎を麻痺・破壊させていく危険性が知られているが、現地人たちの生産意欲減退をそのコカに頼って操り始める形の、スペイン本国主義の過酷な強制労働が続けられた地域もあったといわれている。

 

そもそも広域的な農地開発に取り組まれるようになった近世前半でのその難しさにおいては日本の江戸時代も顕著だが、開拓したは良いものの、土壌が酸性が強すぎたり硬すぎたりで稲作には向かずに、せっかく開拓しても失敗に終わることも少なくなかったように、新大陸の砂糖農園開発も、開拓するだけしてろくに育たなかったということも多かった。

 

農地を広げるだけ広げたはいいが、水路造りの方が十分でなく水不足に陥ってうまくいかない場合もあり、また新農地にどうやって栄養を与えていけばいいのかの肥料も、人や動物の排泄物からだけでなく、灰を撒いたり菜種のしぼりカスを畑に撒くなど色々工夫しなければならなかった。

 

江戸時代の場合は稲作はできなかったとしても、そば、麦、茶、木綿、亜麻糸、菜種(植物油)、柿やみかんや桃などの木、たばこの葉、茜や藍などの染料植物なども試され、何でもいいから何かが育ってくれればと有効活用できた場合もあったが、新大陸ではその配慮もろくにされなかった。

 

近代の前身を急に見せ始めた16世紀は、資本派閥的な権力の台頭や、世界線の領域的な資源確保競争に急に意識が向けられるようになった時代、すなわち列強国が弱小国を従わせ(強力な議会制を確立できている格上が、できていない格下の権力や資源を接収し)、列強同士でどちらの方がより列強の格上なのかを地政学的(教義圏的)領域戦でぶつけ合う(調印させ合う)、富国強兵主義の第一次世界大戦の前身の姿を急に見せ始めた時代である。

 

フランスはともかく、急に強大化し合った当時のスペイン(ほとんどドイツを肩代わりの事実上の西方教会圏の代表国家)とオスマン帝国(イスラム教国家)のその力量比べの投入の加熱も、まさにそこである。

 

世界全体での敷居確認をやっとするようになっても、世界全体の等族指導(和解を前提とする敷居確認)に結びつく国際評議会は20世紀まで待たれるその背景(社会心理)も考慮しなければならない。

 

今回は字数制限とまとめの都合で説明できない部分が多くて残念だが、変に強大国化してしまい、貴族的な水準が急激に不健全に上がりすぎてしまったスペインは、その異様な強国化後からの弱体・衰退後が激しいほどありがちな、時代錯誤的な典型的なポグロム(非同胞虐待的支配)を顕著に起こすようになる。

 

そのとばっちりはネーデルラント公領やプロテスタントたち、スペイン国内に今まで住んでいたユダヤ人たち、新大陸の現地人たちにも当然のこととして向けられ、さらなる悪循環を招くことになる。(スペインの居住区にいた各地のユダヤ人たちの多くは、資産を巻き上げられながらの厳しい追放処分を受けることになった)

 

西洋で証券経済で盛り上がった一方で、借金して低次元な博打的投機(マネーゲーム)を繰り返したことで借金を膨らませてどうにもならなくなっていた者も急増し、それを挽回するための一攫千金を狙って、危険が多いスペイン航海事業の乗組員に参加した者も少なくなかった。

 

何が何でも手土産をもって帰らなければならなかった、借金に首が回らなくなっていた乗組員も実際は少なくなかった、だから珍しい動物でも植物でもなんでも、とにかく金になりそうな収穫を持ち帰ろうとしたり現地での収奪権力に頼ろうとしたため、劣悪な環境の中でそうした事情が重なって、さらに狂暴化を助長させることになった。

 

被害の劣情(手遅れ)から愚かさ・深刻さ・残酷さ・だらしなさを把握できるものだと、そこをまず勘違いしていること自体が時代遅れなのである。

 

加害の原理(予防・敷居)から愚かさ・深刻さ・残酷さ・だらしなさを把握し、織田信長や豊臣秀吉のように手遅れになる前に「よさんか!」といい合えるようにすることが、今の日本にも世界にも、それが最低限の急務になっていなければならないことくらい、人類はいい加減に認識(自己等族統制)できなければならない。(荀子主義)

 

その議決性(当事者性・等族指導のあり方)など皆無に、全て外圧任せの都合を求め合わせることしか能がない今の日本の低次元な文科省とやらの身の程知らずの知能障害者どもに疑問も持てたこともない時点で、被害視点で調子に乗ることしか能がないだらしない人生観しかもち合わせていないのと同じ、加害視点で深刻さに向き合うことなどできたことがない口ほどにもない人生観しかもち合わせていないのと同じなのである。

 

織田信長はこれら一連のスペインの流れを理解していた、そしてその賢臣の、外相の立場が予定されていたのは間違いなかった明智光秀羽柴秀吉のふたりも理解していたと見れれば、本能寺の変の性質も自然と見えてくるようになる。

 

次も引き続き当時の情勢を説明していきたい。