近世日本の身分制社会(112/書きかけ139) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

本能寺の変とはなんだったのか40/?? 2022/12/01

今回は、16世紀の西洋の、織田信長も関心を向けていたのは間違いないと見てよい金融・証券市場の様子について触れていきたい。

それがキリスト教徒の受け入れだった、だから西洋人たちの歴史経緯(社会心理)も織田信長がどのように見ていたのか、そこに関心を向けることも重要になってくる。

開かれた世界文化交流の敷居に、今後遅れをとらない日本にしていくための国際体制まで織田信長は構想していたと見た方が自然で、それを前提に見直していけば、今まで見えていなかった部分も見えてくるようになる。

当時の西洋の様子もひと通り把握しておくことで、織田信長がどのような国際体制を敷こうとしていたのか、本能寺の変が起きるまでの当時がどんな様子だったのか、日本はどのような岐路だったのかも自然と列挙しやすくなる、というのが筆者が伝えたい所になる。

できごとをただ追うだけでは何も見えてこない、どんな社会心理(歴史経緯)だったのかまでがこれまで十分に説明されてこなかった。

今回は16世紀の西洋の経済社会面の様子について、現代でも多くが教訓にできる話として、うやむやにされがちなその全体像の説明もしていきたい。

まず、皇帝カール5世(ハプスブルク家の当主。マクシミリアン1世の孫)の時代にさらに変容していった西洋の経済の様子から先に触れ、次に、その準備をしてくれていた前時代の皇帝マクシミリアン1世が結局どのような計画(狙い・予測・思惑)をしていたのかを、当時の特徴を踏まえながらそこを解明的に後述していく。

1519 年にマクシミリアン1世が亡くなり、カール5世がカスティリャ王(スペイン)とドイツ皇帝(神聖ローマ帝国の総裁=帝国議会の総裁=イタリアの世俗議会を肩代わりするキリスト教徒全体の総裁)に就任し、しばらくすると帝国議会が開催されるたびに、大市(おおいち)が開かれるようになる。

帝国議会と連動するようになったこの「大市」を、帝国議会の特徴と一緒にまず説明しておきたい。

ドイツで行われていた帝国議会は中世末までは、重要な裁決を迎える際の開催場はフランクフルト・アム・マイン(ヘッセン州の都市)と定められる形で、等族諸侯の中では格式が高く扱われ、16世紀もその格式は保たれた。

帝国議会が開催されたことがある都市、その数が多い都市、特に重要な裁決がされた都市が、格式が高いという性質があったため、都市(市政・市参事会)はこぞって自分たちの都市が帝国議会の開催場となるように、誘致活動に熱心だった。

帝国議会(現代風でいう国会)は年に2回~4回行われ、前回に受理された意見提出の裁決が行われ、前回裁決の異義申し立ての提出も含めて次の開催期までに、と順繰りに行われ、開催日程は大体1週間~2週間ほどだった。

帝国議会の開催は、そのための費用の用意もなかなか大変で、皇帝陛下とその重臣たち、そして各代表的な諸侯を都市に迎えるだけの、つまりキリスト教徒全体の進路が決定されるに相応しい重役の一同が集まるに相応しい、立派な会場がまず用意できなければならない。

帝国議会から、その開催場を優先的に指名されるようになったひとつアウクスブルクは、フッガー邸がまさにそれに相応しい開催場だったといえるほどの、市庁舎のような立派な豪邸だったことが伝えられている。

鉱山業でも銅市場の主導権を握るようになったフッガー家は、フッガー邸を銅葺き(どうぶき)の屋根に豪華に改装したため、西洋中で評判になったと言われている。

当時の都市は、瓦葺きはまばらで木葺きの屋根も多かった中、貴族でも難しいような、銅製の屋根で豪華に構えたフッガー邸はひときわ目立った。

中世から近世にかけての都市は、日本の江戸時代と同じく、火の不始末による火災にはかなりの注意が払われていたことと、屋根の質が実は大きく関係している。

江戸と同じく、いったん1軒の家が火災で燃え始めると、密集していた隣の家にどんどん燃え移ってしまい、あっという間に都市そのその一画が大火災になって壊滅し、経済活動に大打撃となり、再建も大変だった。

そのため家屋の規模に応じた、水が入った木桶(現代でいうバケツ)の数を用意しておくことが義務付けられ、市政はその見回りの取り締りを毎月行っていた。

規定通りのバケツの数がない、または水が入っていないことが発覚すると厳しく罰金を徴収する形で、どの都市の市政も熱心にその厳重注意をしていた。

火災が起きた際に、木葺きの屋根と瓦葺きの屋根とでは、燃え移り方もだいぶ違ったといわれる。

瓦葺きの屋根にするだけでも火の勢いをだいぶ遅らせることができたため、市政は瓦葺きの屋根を推奨していたもののそこは強制はできず、その維持費までは捻出できなかったり惜しまれたりで、瓦葺きにしていなかった家屋も当時は多かった。

ヤーコプ・フッガーの時代に、フッガー邸が銅葺きの屋根に豪華に改装されると、天気が良い日はその銅製の屋根が光ってかなり目立ったといわれ、都市からだいぶ離れた所からでも、旅人がアウクスブルクに近づくにつれて「あれがフッガー邸だ」とすぐ解ったといい、遠くからでも窺えたその壮麗さは、人々の間で驚かれながら評判になったといわれている。

1540 年代に、ザビエルの一団の西洋人たちがとうとう日本人と正式な国際交流を始めることになった、航海技術による世界交流意識が高まっていたその少し前に

 「東洋の果てに、日本という中国大陸のアジア強国との仏教の兄弟国があり、14世紀のマルコ・ポーロの伝記(東方見聞禄)によると黄金が豊富で、その王朝の宮廷の屋根は黄金でできているというぞ」

と話題になっていたのは、力のある者や富裕の者の家屋は「まず屋根が立派であるに違いない」という西洋の感覚も手伝っていたと見てよい。

日本としても古来から、城の屋根や、上級武士や貴族(公家)たちの屋敷の屋根、また寺院の屋根などにも、神道や風水などの言い伝えが元になっている魔除けの鬼瓦を飾ったり、何らかの理由の吉兆祈願のための金細工や銀細工の小さな置物などを屋根に設置することもたまに行われていたため、その慣習が誇張されて伝わったものと思われる。

日本でも13世紀には刀鍛冶の技術や、建造物の金具作り、銅製の仏像作りなどあなどれない冶金技術があったことで知られている。

15世紀以降の室町時代の経済期には、金箔をふんだんに使った豪華な金閣寺が建てられた例もあるように、金箔で奢侈品(しゃし。富貴的な贅沢品や娯楽品のこと)を作ることもよくされていた。

話は戻り、フッガー邸は有力諸侯たちが一同に集まる帝国議会を開催するに相応しい会場とされた他、マクシミリアン1世やカール5世がバイエルン州に長期滞在する際の王宮代わりにも利用され、またルターの異端審問の会場にもされた。

アウクスブルク市政(市参事会)としても、貴族でもなかなか用意できないような、都市部の一等地に大きく建てられているそのフッガー邸を借りて自分たちの大事な会議ができていたということ自体が、等族諸侯(皇帝公認の自治権)としての格式と誇りの象徴にもなっていたのである。

このようにアウクスブルクのフッガー邸はもはや国際会場の公共施設扱いだったため、別館ももっていたフッガー家は実質はそちらを住居・本社事務所にしていたようである。

帝国議会を誘致する上でのその準備費と、さらに帝国議会に対する臨時税の支払いも条件だったため、都市側(市政・市参事会)がそれを用意するのも大変ではあったが、都市はどこもこぞって「その開催はぜひ我が都市で!」と帝国議会(カール5世)の誘致に熱心だった。

これは現代の身近な例えると、オリンピックの誘致の感覚と似ていて、つまり

 「何々問題におけるあの大事な記念的裁定が、ここで行われたのだ」の場として、帝国議会が行われた回数の経歴がそのまま都市の威厳・格式となった

 それを誘致することで、自分たちの都市の国際文化交流意識を高めようとした

 帝国議会の閉会に慣例的に行われるようになった大市が、都市としても大きな利益をもたらしたことが何より魅力的だった


という良い面が多く、感覚的な部分でいうと、近年のオリンピック誘致をきっかけに文化的な観光も促進することの準備・開発で、経済景気を狙おうとする部分が少し似ている。(実際に大市では娯楽事業も盛んだった)

帝国議会の開催は、プロテスタント問題が主なものとなったり、他にも例えば物価高騰が起きている地域と起きていない地域の問題や、不景気になった地域と好景気になった地域との格差問題、また増税や規制に対する説明不足などが取り沙汰される時は、下々も目を吊り上げて裁決を待つピリピリ議会になりがちだった。(これらはプロテスタント問題と連動していたものも多かった)

しかし議会が閉会すると、大市が大体5日~7日ほど開かれることが慣例になったため、帝国議会の次の開催地が発表されると、指名を受けた都市はその準備にかなり盛り上がった。

議会後に大市が始まると、スペイン王室(ハプスブルク家)が準備していた国債発行の競売が行われ、最初はその利回りがかなり好条件だったことから、その大市(帝国議会)の開催都市に各地の資本家たちが、その入札合戦の競売に参加しようと駆けつけるようになった。

さらにはこの証券取引は、間接的に小口でも参加できる銀行体制も急にできたことで、中小の商人や民間もその大市に駆けつけるようになった。

スペインの国債は、まずは国営事業の資金繰りのためのものであった他、ポルトガルと連携していたアジア貿易事業と新大陸事業の資金繰りが主で、どれも地元スペインの銀行(地元ブルゴス筋とジェノヴァ・イタリア筋)と、フッガー銀行(南ドイツ筋)、そしてアントウェルペン市場(ネーデルラント筋)と結び付いた金融証券と化していた。

特にフッガー銀行の金融体制の急激な発達により、1つの証券(手形)を手形割引(金融業界での手形を割るという意味。つまり分割化で期間を延ばしたり債務者を分割する代わりに条件や手数料等の契約付与)し、債務の多様細分化を可能とした、現代の金融証券の原型を急に見せるようになった。

また、先に貨幣や代替品を受け取る代わりにその債務を肩代わりするという、裏書人の登録手続きも銀行処理されるようになった(これもまずはフッガー銀行の国際体制の手本が大きかった)ため、このように割られていく、近代風における約束手形取引・小切手取引に小口でも参加できる形、つまり発行者でもなければ最初の受取人でもない第三者が、条件交渉で売買できる証券の流通市場が、急に出現した。

 

例えば、元は大きかったものから割られた50万円分の手形を10ヵ月前に45万円で購入した者がいたとし、その持ち主が次の商機などの急用で1ヵ月以内に現金40万円になり、現金の手持ちはないがしかしあと2ヵ月後に50万円受け取れる期日の手形は持っている、そこで

 

 「2ヵ月後に受け取る権利の、アントウェルペン取引所の公認もちゃんと入っているこの50万円の手形を、誰か48万円で買わないか? 47万円だったら? 仕方ないそれで」

 

という、まさに「時は金なり」の取引が急に可能となった。(互いに好都合になる条件の、複数の証券の交換などももちろんされた)

 

スペインが発行する国債を中心に、大手の資本家も銀行を通して大小の額の手形を振り出すようになるが、期日が1年後など長い証券はその分安くなり、残りの期日が短くなるほどその証券の価値も高くなる特徴があった。

 

商会としての信用が前提にはなるが、何らかの都合で資金集めをしたい大手が、期間1年の総額1億円分の手形を細分割で振り出す手続きをして、急いでそれを証券市場で売りさばいて9000万円分の現金を集めて時間対応する、といったこともカール5世の時代にいきなり可能となった訳だが、これができてしまうということは、扱いを間違えればいい加減な穴埋めの自転車操業の大問題化と隣り合わせでもある。

 

1575 年の第2回目のスペインの債務支払停止宣告(国家破産宣告)に至った要因は複合的ではあるが、簡潔に述べるとこの自転車操業の悪循環(苦しくなるから好利率で強引に資金を集め続ける低次元化)に市場全体が完全に陥ったことに帰結する。

 

カール5世の時代には、対オスマン帝国対策、対フランス対策、対プロテスタント一揆対策の軍備費に直面するたびに、国力任せの少々乱暴な資金集めの内実を繰り返したことで、収公以上に負債が膨れ上がっていき、証券経済はとうとう限界を迎えて大崩壊することになる。

 

そして、そのスペインと無理をして張り合ったフランスもオスマン帝国も、同じようにメチャクチャな資金集めを繰り返したことで国政に甚大な支障をきたすようになり、共倒れの張り合いに終始することになる。

近代(19世紀後半)の前身の姿を見せ始めた近世初頭(15世紀末から16世紀初頭)は、長続きはしなかったものの今まで体験がなかった新たな経済社会を体験することになり、こうした国際規模の再びの為替市場は19世紀まで待たれることになる。

まさに当時の多様社会化の象徴だった証券経済は、悪い意味で過熱しながら好景気で浮かれるようになり、今までの信用(慣習)の向き合い方も急変させてしまったため、何を信じてよいのか解らなくなった人々は困惑・動揺するようになったのも特徴的な時代でもある。(順述。日本の江戸中盤の経済期もまさにそれと同じような体験をしている)

現代感覚でいうと、今までは100万単位や1000万単位というまとまった自己資金がなければ参加できなかった資本取引も、10万円、20万円の単位からでも参加できるようになった時代が、カール5世の時代にいきなり急に訪れることになった。

今まで体験がなかった、帝国議会(スペイン王室)が国力任せに急に始めたその大市の証券市場に人々も驚きながら、なぜそんなことが可能になったのかなどの理解力も乏しいままに、皆がその利率ばかりに関心を向けて話題で持ちきりになった。

資産相続手続き保証を得ていたような貯蓄可能な、都市で市民権を得ていた者たち、また農地の自由保有地権を得ていた者たちなら、その下っ端でも現代感覚の10万円や20万円、50万円や100万円くらいの貯金はできている者も多かったため、

 「その市場でうまく渡り歩けば、もしかしたら億万長者に成れるのではないか?」

とその魔法の市場(証券市場)に飛びつくように投資しようとする者が急増した。

そこに50万円を投じる余裕がある者なら、そこから55万円、60万円、65万円になるよう、どの証券がより有利な資産価値なのかに熱心になりながら交換を繰り返そうとしたり、値上がりしそうな証券を購入して値上がりするを待ち、思ったほどでもなさそうなら早い内に見切りの損切りで売る、ということも頻繁に行われるようになった。

この社会現象はまさに日本で「財テク」「金融ビッグバン」などの偉そうな煽り用語が流行したあの時代、さらにはいい所取りだけして厄介事はたらい回す禍根を作るのみに終わった「できもしないノンバンク(貸付専用事業)」を始めて事態を余計に収拾不能にした、昭和後半から平成前半にかけての、今見れば愚かしく思えるあの時代と、その傾向は全く同じである。

段々と

 ①「損した分を次の機会で取り戻せばいい」

 ②「自分たちが損したのは(不遇なのは)、得している(優遇されている)奴らが皆ズルをしている悪い奴しかいないせいだ!」

 ③「だから善人のはずの自分たちが得するために、悪人のはずである他の集まりが損すればいいんだ!」

 ④「悪人の証拠である負け組みの弱者側とはさっさと手切れして、善人の証拠である勝ち組みの強者側の中に常に入ることさえしていればいいんだ!」

 ⑤「皆、定められた決まり(キリスト教)を大事にせよと口ばかりで、この世は結局はカネ(のために頭を下げさせ合うこと)が全てだという、そんなこともワカランノカ!」

 ⑥「世の中の皆のその気持ちの正しさに何を逆らっとるんだ!」


の、まるでその足並みのいいなりに屈伏(思考停止)し合うことが絶対の身分制議会(公務吏僚)の基準であるかのような、短絡的・発散的にそこにただ振り回されているだけの主体性(議決性・当事者性・等族指導の手本・育成理念といえる組織構想)など皆無な低次元な頭の下げさせ合いが強まるばかりの

 低次元なギャンブル化(罰ゲーム化)を助長するばかりの、事業的・基金的な計画とかけ離れた、時間・労力・意識も含める資産乱用(悪い意味ばかりのマネーゲーム化)

 等族指導(議決性)など皆無な、ただの欲まみれ(ただの劣情まみれ=万事外圧任せの指標乞食主義)の負担を押し付け合うための、低次元な頭の下げさせ合い

 ※ 現代の仮想通貨問題でも類似する教訓として順述 ※


と隣合わせの、まさに日本の昭和後半から平成前半にかけてのあの泡沫経済(バブル経済)と酷似した状況を、カール5世の時代にいきなり体験することになったのである。

②~⑥と大差ない考えしかできていない、高次元な議決性と低次元な劣情の違いも自分たちで区別できたことがない愚かさ・だらしなさは、当時は仕方ない部分も多いといえるが、現代ではもうそれは許されない時代になっていなければならない。

②~⑥程度の低次元な考えしかできたことがない、そこに自分たちで深刻さをもてたことがない今の日本の文科省とやらの教育機関とそのいいなりの身の程知らずどもも同じ、

 世の中(品性規律といえる公務公共の議決性=組織構想の育成理念=時系列的な社会心理の整理力=手本家長の姿の示し合い=世界に向けなければならない国際人道観)について、自分たちで一度も考えたこともない

 自分たちで何を大事にしてきたのかの議決性(社会的説明責任・国際的指導責任)の手本(和解を前提とする敷居確認)の示し合いなど、自分たちで一度もできたことがない

 ただ上(自分たち・古参)に甘いだけ、ただ下(外・新参・異環境)に厳しくなり合うだけ(=議決性の敷居確認をうやむやにし合う頭の下げさせ合い)のだらしない低次元な構図(敷居確認できもしない性善説)でケンカ腰に頭の下げさせ合うことしか能がない

 自分たちのその愚かさ・だらしなさが原因の自分たちの課題(自責多様と他責合理についての自分たちの歪んだ線引き認識=低次元な衰退思考)を、自分たちで改善(議会改革・人事改革・序列の仕切り直し=異環境尊重の人文多様と組織構想の啓蒙合理の議決性の整理=自己等族統制)できたことがない

低次元同士の格下どもであるにも拘わらず、人の合格・失格(格上と格下の身の程の身分統制)を巡って身の程知らずにもケンカ腰になり合おうとしている(口ほどにもない頭の下げさせ合いを始めたがる=世の中の正しさとやらを無関心・無神経・無計画に乱立させたがる)時点で、

 そこを対処できている高次元な格上側から裁かれて(格下げされて)当然の、身の程知らずの低次元な格下ども(騒乱罪予備軍ども。閉鎖有徳ども)

である証拠なのである。

 日本の室町前半(南北朝問題を巡るいがみ合いもいくらかマシになった3代目将軍の足利義満時代がきっかけ)の大経済景気と崩壊

 西洋の16世紀の証券大経済の隆盛と崩壊

 日本の江戸時代中期の大経済期と崩壊

 人災でもあった日本の大正以降のおかしな戦争景気

 日本の昭和後半から平成前半にかけての、おかしな資産価値の高騰に群がるばかりの泡沫(バブル)経済と崩壊


は、いずれも当時はそれに対応できるだけの国際評議会(等族議会制)の文化が今ほど育っていなかった、だからその分だけ対処も難しかった点では「避けて通れない悲劇だった」といえる部分も確かに多い。

しかし現代では、それらの当時と比べれば特に情報環境においては現代の方が遥かに有利なはずである分、そういい訳し続けることもいい加減に許されなくなる社会観(次世代観・自己等族統制観)にしていかなければならない。

いくらでも教訓にできるはずの歴史経緯(社会心理)のその拾いやすさも、当時と比べると現代の方が遥かに有利なはずなのである。

16世紀の話に戻り、1519 年にカール5世が皇帝に就任し、その絶対君主(総裁としての最終公認権)が強調されるようになった帝国議会は、しばらくして議会の閉会後に大市が慣例的に行われるようになる 1520 年代は、イエズス会にとっては先が思いやられる事態を向かえたといえる。

 正統派としての西方教会(カトリック)のこれからの教義の向き合い方への再建(プロテスタントたちへの巻き返しの対抗宗教改革=公会議制による立て直し)

に、深刻に取り組んでいた矢先に、今まで体験したことがないような証券大経済社会も急に始まってしまったため、イエズス会士たちから見れば内心はウンザリする他なかった。

しかし逆にいえば、今まで体験したことがない資本派閥的ないがみ合いが世間で始まってしまったからこそ、イエズス会としても

 「もうこれ以上はいい加減なことはできないぞ(=少しでも気を抜けば、完全にどうにもならなくなるほど教義崩壊が加速するぞ)」

と良い意味で、危機感がもたれることになったともいえる。

西洋全体の資本対策も絡んで帝国議会側(皇帝権)との対立が過熱した西方教会の総本部(叙任権・聖属議会側。ローマ教皇庁)は、とうとうスペイン王室を本気で怒らせる形で 1527 年に皇帝軍に踏み潰されることになった。

それをきっかけに「もう人任せにしている場合ではない」と各地の有志たちの間で慌てて結成されることになったイエズス会は、その対立構図だけ問題視していれば良かった訳ではない。

多様社会化に激変していく西洋経済観の中で、今まで失望させることばかりしてきた西方教会(カトリック)を、本来の正統派としてどうやって信用や尊重を取り戻していけば良いのか、それを公会議制(正統派カトリックとしての公式な議会改革)でどう対応・再建していくのかの難題に、生真面目なイエズス会士たちがその役目の肩代わりを始めたことで、やっとそこに深刻に取り組まれることになったのである。

イエズス会は、ローマ(西方教会の総本部)の踏み潰しに動いた帝国議会(神聖ローマ帝国の総裁権)に対して意見提出し、つまり世俗議会側(帝国議会・スペイン王室の皇帝権)による受理と公認を得た上で、それと連携しながら聖属議会側(カトリックの伝統派)の再建活動をしていたという所も、当時の時代変容の議会制(身分制議会の謄本登録的な、全体的な世俗公務吏僚化への仕切り直し)の特徴として重要になってくる。

今まで聖属議会側は、偉そうに世俗議会側に頭を下げさせることをしてきた立場だったのも、マクシミリアン1世時代からカール5世時代にかけてその立場の逆転に動かれた。

事態を重く見たイエズス会がその仲介に入る形で、遠回しではあるが格下の聖属側格上の世俗側に頭を下げる」その和解の役目までイエズス会に肩代わりしてもらわなければならない有様だった、だから

 「上の事情をよく解っていない下々をこれ以上失望させる訳にもいかないから、だからイエズス会を介したその形で公的教義側は、帝国議会側からそれで寛大に許容してもらっている現状にありがたく思え!(=帝国議会が公認している、公会議制で懸命に再建しようとしているイエズス会士たちの努力を乱すようなことはするな! 身の程を知れ!)」

といわれていたのも同然なのである。

ただ下品で汚らしいだけの今の日本の低次元な文科省とやらと何も変わらないような、韓非子や孫子の兵法で指摘されている組織論(等族主義)の基本に反してばかりの、その最低限の手本などどこにも見られない身の程知らずどもが身分統制(優先権や議席序列)に口出しすることは許されなくなる等族議会制が、上の間で再認識されるようになった。

これからは世俗議会(帝国議会)の公認(皇帝権による最終認可。謄本登録的・議事録的な正式な典礼や特許状)がなければ、叙任権(教義権力)の旧態慣習(ただの劣悪性癖)は認められなくなる、すなわち教義権力をただ悪用しているだけ(議決性をうやむやにし合ってきただけ)の猿芝居(職権乱用)の手口が、とうとう巻き上げられる時代に入ったのである。

カール5世の時代には、強国スペインの国力任せの証券経済市場がいきなり持ち込まれたことで、15世紀末から著しかった経済社会観の変容をさらに加速させることになった、西洋中の資本対策にも取り組まなければならなくなっていた、フッガー銀行体制がまさにその象徴といえる時代に入った。

そんな中、キリスト教社会全体の教義側としての国際裁判権(議席序列・品性規律)の手本でなければならないはずの、だからそこの教会改革が求められていた聖属議会(教皇庁。公的教義体制の本部。枢機卿団。叙任権。そのための教皇選挙制)は、イエズス会がいなければ何もできない、時代の足を引っ張ることしか能がないお荷物でしかなくなっていたのである。

人の合格・失格(人文多様と啓蒙合理)をとやかく語る資格などない、自分たちのその議決性など皆無な低次元な人生観しかもち合わせていない格下どもの世代の正しさが延々と次世代に強制され続ける、誰かが等族義務(手本家長の姿勢・議会改革)を以ってそれを止めさせなればいつまでもその低次元な順繰りのままの構図(社会心理)は、いつの時代のどの国の個人間・組織間でも共通なのである。(荀子・韓非子の指摘)

ここでいったん、江戸時代中期に大坂で維持されるようなった、優れた金融体制だったといえる「信用貸し」の話を引き合いに、これは現代の仮想通貨などのあり方でも社会心理的に共通していることとして触れたい。

日本は 1467 年の応仁の乱(武家の棟梁、またはそれを奉戴する執権の総選挙戦)で、上同士でできていなかった等族義務のやり直しでもあったといえる 1600 年関ヶ原の戦い(豊臣体制の身分制を続けるか、それとも有望株の徳川家に総家長権を移行させるか争点)で、以後は徳川政権が内乱を鎮めていく形で江戸時代を迎える。

17世紀前半では、徳川政権を揺るがすような内紛や事件もたびたび体験しながらどうにか処理され、また諸侯同士(近世大名同士)の内乱を未然に防ぐ体制も、上から下まで家格裁定的に監視されるようになった。

それまでは、よそを巻き込む戦乱のその長期化が招く、下々の生活権の奪い合いや壊し合いと、それが原因の食糧危機に人々も苦しんだが、少なくともそこに悩まされることがなくなった、近代の前身の法治国家らしい形がやっと見え始めたのが江戸時代の特徴になる。

どんな風に日本を発展させていけばいいのかについて、幕府としても当初は不慣れな所もありつつも、幕府(絶対家長=天下のご政道)の許可などない近世大名たちの勝手な家格争い(正しさの乱立)の暴走をとにかく起こさせないためのも身分制議会的な取り締まりの徹底と共に、農業改革が行われた。

開発を巡る人事問題、資金問題やその失敗などには苦労しつつ、また天災にも苦しみながらも、しかし戦乱には悩まされることがなく農業改革が続けられていったことで、それにともない商・工も少しずつ発展していくようになって迎えたのが、江戸中期の有名な大経済期の元禄時代になる。(その少し後の宝暦時代が豊かさが顕著だった)

大坂は、かつての織田・豊臣時代と政商として深く関わっていた、関西方面の商業網の中核となっていた戦国後期の堺衆たちの文化が根強かったこともあって、日本を代表するような米相場の優れた取引所が、江戸中期には大坂ですっかり構築されていた。(他にも福島県の会津や、滋賀県の大津や甲賀の街道筋など優れた商人団が集まっていた所でも、米座、銅座、銀座といった取引所があった)

近世の商業経済においては、日本人も西洋人たちに決して負けておらず、金融・証券の便利さと難しさに自分たちで気付きながら、16世紀に急に始めた西洋人たちのように、江戸時代の人々も自分たちで発達させることができていた。

幕府の方針でどこも農地開発に熱心だった近世大名たちは米の収穫が済むと、西日本では余剰分を大坂の取引所へ運んで貨幣に交換するという形が慣例になっていた。

天災の面では食糧危機に苦しむこともまだまだ多く、激しい流れの多い河川だらけだった当時のその工事にしても、また水を確保するための溜池を造ることもひと苦労だった当時は、少し豪雨が続いたり、少し雨が降らない日が続くだけで、洪水で農地がすぐに荒れたり、水不足に陥ったりした時代だった。

5年連続の悪天候続きで苦しむことも多かった一方で、5年連続で比較的良好な天候になる場合もあって、その際の社会基盤の安定と伸びしろは大違いだったといわれている。

全国の地域が一斉に不安定になる場合もあったが、運良く良好が続いた地域もあったため、不良が続いてどうしても食料不足になる所は、仕方なく借金しながら米問屋から補充しなければならないといったような供給がされていた。

ちなみに旧暦の7月が米の収穫期で、だから年の中では6月が、米の値段が最も高かった。(旧暦の月日は今と1ヶ月~1ヶ月半くらいの遅れの差がある)

一斉に米問屋に納入される時期になる7月に米の値段がいったん下がり、そこから月ごとに米問屋から減っていくに連れて、少しずつ値上がりしていくという相場が年々続き、6月と7月での米相場は倍の値段差だったことで知られている。

まず農業力が伸びていったことの米相場市場のおかげで、農地での生産従事から、農地・河川・溜池の工事の従事の動員も段々としやすくなり、次第に工・商活動の従事もしやすくさせていったため、その分だけ金融の考え方も発達するようになった。

それまでの農地開発過多から、新たな文化価値が次々に生み出されていくようになる、商業活動が顕著の華やかな時代を迎えたのが、江戸の元禄時代である。

元禄の少し前には、大坂では「信用貸し」という名で、これは現代でいう金融証券でもあり、基金体制でもあったといえる、優れたものが運営されるようになっていた。

これは銀行体制の前身だったといえるもので、時代がそれを求められるようになったから形成された象徴だったともいえるが、その説明の前にもう少し江戸中期の事情を説明しておく。

天災や、開発失敗、また人事問題(例えば村請けか町請けか、定面法か検見法か等)のちょっとした揉め事や資金難などにいつも直面し、どこも苦労しつつも、良質な農具造りや用水路作りも含める農業拡張が進められて迎えた江戸中期は、江戸初期の頃と比べると食料供給の事情もだいぶ改善されるようになった。

農地の村民たちは、常に天候を気にしながら、害虫や獣害(イノシシやクマなど)やまた窃盗などから守りながら耕作と収穫の食糧生産に従事することに当初は手一杯だったが、良質な農具造りの職人に専念する者や、道路工事や用水路工事に専念する者など、少しずつ多様分業化していったように、商・工の文化的な労働に乗り換えることも可能な経済社会に、自然に向かっていった。

織田政権時代がきっかけで、少なくとも日本は戦乱で衰退(低次元化)することはなくなった、それまでは天災とその両面で下々は苦しんだのも、戦乱の苦しみにおいては議会的な人事問題に置き換えられるようになっただけでも大幅な改善となった、この偉業はとにかく織田信長の旗本吏僚体制の手本のおかげだったといえる。

そして次に、豊臣秀吉が諸大名を恫喝しながら、上から下までの強固な身分再統制によって、特に下々の民力増強のための、政権の断りもなくの勝手な上下統制を始めることを禁止(天下総無事令)の保有地権的手配(人権的保証)を徹底させる良例を敷いてくれたおかげもあって、その基本を踏襲することになった徳川政権時代には、庶民政治の単位も良い方向へ変化していった。

庶民は当初は、大家族形体で大きめの家屋で過ごしていたのも、大きくなる一方になっていったため、その大家族形態からそれぞれ分家して、そこが大家族形態になると分家するという、それで鍬下年季(くわしたねんき。4年間の下準備専念保証。無税・無労役保証期間)の新地に新たな家族単位の家屋へと、段々と個人的な家族単位の農地手配と居住に分化していくようになった。

下々の対応においては織田信長と豊臣秀吉のおかげで、まずは農村単位で資産を議会的に持ち寄らせる形の、それで公共事業や開発企画や祭事(大市と関連するようになる)の予定を管理する下同士の助け合いの庶民政治を可能とした。

 

まずその形が維持されながら、次に家族単位でも少額でも個人的な資産を少しずつでも貯蓄できるようになっていくという、近代の前身らしい法治国家(等族議会制)の形が見えてきたのが江戸中期の特徴になる。

ただしここで少しややこしいのが、日本は確かに全体的にはその傾向に向かったものの、そのように有利に進んでいった地域と、大いに遅れをとっていた地域との格差も目立つようになった。

商業的な街道の特性も含め、例えば換金作物の有利不利の地質や、不良天候続きの運の悪さなどで、地域ごとで優劣も出始めるようにもなり、豊かになった農村とそうでない遅れをとっていた農村との格差も、かなり目立つようになった。

だから、一向に豊かにならない農村で過ごしていた次男坊以降の者たちの中には、経済基盤の弱いその地元の農村で分家して新たな鍬下年季の農地で過ごすよりも、文化的な経済景気が目立つようになった工・商側に乗り換えようとする者も急増した。

それまでは食糧自給の経済価値が重点だったものから、工・商での新たな文化経済価値も重視されるようになると、その資本経済に投資的に連携できていなかった農村は、地域の価値も低下していくことを意味するため当然の流れだったともいえる。(結果的に余剰作物や換金作物を作る生産力がない、自給自足で精一杯の不利な地域は経済的価値を確立できずに豊かになれないままだった)

豊かさが顕著だった農村では、小額でも個人的な資産の貯蓄も可能になりながら、農村でのまとまった多額資金を商業的な活動に投資できるようになったことで、村民の中からそちらの物流などの活動に専念させる動きも顕著になっていったことは、いよいよ本格的な、近代の前身の資本経済社会が江戸中期に始まったことを意味する。

豊臣秀吉の身分再統制は、印象ばかりでまるで隷属的な身分固定化を強要したかのような誤解ばかりされてきたが、そうではなく政権(武家の棟梁の議会)が公認(謄本登録・議事録処理)などしていない勝手(低次元)な上下慣習の押し付け合いや奪い合いをやめさせ(それを助長する上の存在などもっての他!)、特に下々の民力増強(産業力の等族義務)のための足並みに向けさせることが目的の固定身分制議会であったことが、時系列的にろくに説明されてこなかった所になる。

その形で以後の揉め事は身分制議会的に処理(等族議会的に助け合い)していくことで多様的に民力増強できたからこそ、今までの地位の固定化ももはや江戸中期の時点で、それこそ新政権でもいいほどの身分再統制(見直し)が必要な時期に迫られるようになる。(それを幕府は結局うまく対応できずに、江戸後半からは迷走し続けることになる)

「処理し切れなくなる資本価値闘争に発展するよりは、皆が貧しい横並び統制で仕方なく足並みを揃えていた方がまだ良い」といっているのも同然の、不健全な暗い経済政策が江戸後半からはズルズルダラダラと続けられることになる。

農地から商工活動に転じ始める下々が急増した、要するに江戸初期における固定的身分制などなし崩しの多様資本社会化の様子に、諸大名もその監視役のはずの幕府も、格差が出ていた農地にそれをやめさせる訳にも、都市部の文化経済の隆盛をやめさせる訳にもいかないまま、しばらく黙認するしかなかったのである。

豊かになった連中は良いとしても、経済景気にともなって直面することになる物価の急変によって、豊かになれなかった側は増税に対応できなくなって借金を抱えるばかりに悪化していく者も増え始めた。

 

その貧富格差対策も含める、次々に生まれていった新たな資本観念の諸対策を、幕府が身分再統制的にろくに処理できなかった。(金公事のさじ投げなど顕著。かねくじ。経済社会面の債務問題の判例管理)

だからこそ、それを肩代わりせざるを得なくなった、仕方なくの名主(なぬし。みょうしゅ。庄屋。村民たちの代弁者。半公半庶の徴税管理者。江戸時代では担当する地域の庶民たちを守る等族義務の立場だった)の大地主富裕層化(せっかく豊臣秀吉が隷属小作人の下同士の格差上下関係を禁止してくれたはずが、皮肉にも今度は救済のためにその形で弱者的農家たちを保護収容せざるを得なくなった = 田畑永代売買禁止令など成さなくなったことによる事実上の身分制の崩壊)を招いてしまい、身分制問題はどんどん深刻化していくことになる。(今までの謄本登録的な固定身分制が、経済成長にともなって時代に合わなくなり完全に崩れた)

元禄時代には都市部では、食文化、衣服・家具文化、学術研究文化、小説出版や芝居小屋の娯楽の隆盛、高級思考や性産業も含めるオトナの娯楽文化と、多面で華やかな盛り上りを見せるようになった。

小禄のままの家格で出世の糸口など何も見えてなかった、上級武士からの知遇を得られる機会などそうそうなかった大勢の下級武士たちのその次男坊たちも、下級武士の家格のままであり続ける分家継続から離脱して、商業活動の町人に転じる者も出始める有様だった。(激しい物価の変動に下級武士たちも、今までの固定的な小録のままでは貧窮するようになっていた)

物流経済側への投資や換金作物の為替的な条件取引で結び付いていた名主たちと、都市部の豪商(資本家)たちが、

 幕府が救済できなくなっていた、貧窮し始めるようになった下級武士たちや弱者農家たち

を彼らが資本面で救済し始め、なんだかその資本家長社会が中心であるかのような血縁関係が結ばれるようになったことは

 武士(表向き公務側)とそれ以外の庶民(農・工・商)の身分区別など、いよいよ表向きばかりの体裁と化すようになった

所も、元禄から宝暦あたりにかけての江戸中期の特徴になる。(だから江戸後半から幕府が、大事なことを急に思い出したかのように、そこに急にうるさくなった)

情勢の説明も必要なため本題から少し脱線してしまったが、ここで大坂の「信用貸し」の話に戻る。

元禄の少し前には、少額でもちょっとした資産を貯蓄できる農村や商家も増えていたため、そこから「この宙に浮いているような貯蓄を、何かの新事業や投資などに資産運用できないものか」という、近代の前身の考えも自然と出てくる。

 

関西方面では江戸時代の代表的な優れた米相場市場が維持されていて、気鋭の商家が関わっていたことから、そうした余剰資金が募られる形で、基金的な「信用貸し」体制が作られることになり、慎重で健全な運用がされていた。

 

この運用を現代風にいうと、総額で500万円分集まったなら、それを基準(資本金)として800万円分までの手形を発行するという、無理のない基準を決めておき、この手形を現金代わりに流通させるために、その管理費としての手数料も利用者に払わせていく、という近代の金融業らしいやり方がしっかりされていた。

まず農業面で余裕が出てきた地域が増えた経済景気から

 

 「新事業を起こしたい所だが、その準備金が揃うには今の調子だとあと2、3年はかかる。せっかくのこの商機の中でなんとか不足している支度金を調達できないものか」

 

となっていた所が増えていた。

 

一方では個々では少額でも貯蓄できるようになったことで、例えば10万円分をその基金に預託(よたく)することで、3年後には10万3000円になって帰ってくる、というようなおいしい話であれば「あの大手の商家の保証主催ということなら、それなら投資しておこうかな」と思う所も出てくる。

 

それで「信用貸し」のための資本金がまず準備され、手形の利用者に手数料を上乗せする運営をし、元手500万円の資本企画から年々530万、560万と、10年後には800万まで増やす計画で、最初に振り出した800万円分の手形額とつじつまを合わせていく、というそこに慎重な運営ができるのであれば、健全な金融業も可能になる。

 

大坂の取引所で、何かあった時にはすぐに換金も可能だという、元手の資本金の保証の信用があれば

 

 「もし何かあっても、最悪の場合はこの手形は大坂の取引所がいつでも価値換算で換金保証してくれているのなら、慌てて換金しにいかなくても、これを通貨代わりに取引すればよい」

 

になる。

 

資本金500万円の企画で総額800万円分の手形が発行されても、割られたひとつあたりの手形の額が1万円分からだったり、10万円分、50万円分、100万円分と多額だったとしても、皆が一斉に換金しなければならない状況などめったになく、少額の短期手形と多額の長期手形の処理とで時間差をうまく調整することで元手500万円の資本金からでも十分に対応はできる。

 

100万円分の手形を利用して事業の支度金100万円を受け取った者に、3年後に手数料込みで債務総額105万円を返済させ、万一不足分の滞納が発生しても、1件や2件程度なら資本金の余力で個々に対応するようにすれば、また最悪は大手の商家が保証するようにすれば不渡り連鎖を起こすこともない。

 

この大坂の「信用貸し」の便利な証券は、利用者もその仕組みを理解し

 

 「この証券の発行は元手300万円の企画から割られたもので、5年経っているからその企画の資本金は400万円くらいにはなっているはずだ」

 

という認識と同時に

 

 「利用者側としても、不足分の滞納が出てしまわないように慎重に扱わないと、遅れた分だけ取引所や出資者たちや台帳の管理者らに、手間や不利益を与えてしまい多大な迷惑がかけ、信用を失ってしまう」

 

という助け合いの基金的なものでもある面も、皆もその意味をよく理解しながらの流通がされていた、だから優れていた。

 

まずそうした信用の基本を普段から確認し合った上で、例えば新興の商家が

 

 「ウチの商売は順調で、来月に最後となる手形15万円分の返済も可能なのですが、しかし来月は値崩れを起こしている地方の商品を買い付けにいき、不足している地方に運ぶ商売をしたいと考えています」

 

 「そのためにいつもよりも支度金を用意したいものの、その15万円分の返済が終わってから用意していては商機を逃してしまう。今から準備すれば2ヵ月後には少なくとも50万円分の余剰利益は固い。だからその先付けで2ヵ月後に20万円にして返す約束で、来月の最後のウチの手形15万円分の返済を立て替えて貰えないでしょうか」

 

と商家同士で話し合いをすれば、商売の熱心さなどで前々から信用できているような間柄であれば、相談された側も

 

 「なるほど。それだったら立替を引き受ける代わりに、ウチもその買い付けの商売にも出資参加させてもらう形で、その2か月間のこういう協約ということでどうでしょう?」

 

 「話はまとまりましたね。では計画に沿ってこの日に取引所に振り替えの手続きに行きましょう」

というように、金融面での本来の健全な考えが互いにまずできている前提だと、ただの損得のたらい回しではない同士での目的意識のある見通しで証券を処理していこうとするようになり、経済成長的な信用意識ももたれやすくなる。

 

逆にそういう所に最後まで無関心・無神経・無計画なままの、ただの欲ボケ(劣情)の見方のみの証券のやりとりで、債務価値が下落した証券を騙されて掴まされて大損しただの、値上がりして得した勝ち組だのと、まさに日本の今の低次元な教育機関の姿のように外圧任せにただブラさがることが身分制を勝ちとる証明であるかのように偉そうにケンカ腰に終始(思考停止)している時点で、経済成長的(議決的・主体的・等族指導的)な意識などもたれる訳がないのである。

 

近年における仮想通貨などは良い例で(発想は今後改められていくと思うが)、会社組織でも国家でも何に対する見方でも同じことがいえるが、大坂の「信用貸し」のように

 

 「せっかく便利な、皆が助かる基金的金融体制が維持されているのだから、余計な資本派閥支配の発想を持ち込むような、健全体制(議決性・等族指導)と関係ない勝手(低次元)な上下関係(無神経・無関心・無計画な負担の押し付け合い)を作り始めて乱し合い、壊し合うことなどはしてはならない」

 

という公共面(啓蒙合理。他力信仰。借方の観点)の考えで皆が持ち寄ることができれば、信用価値は維持されたり成長していく可能性も高まる。

 

それに明らかに反している今の日本の低次元な教育機関とそのいいなりどものように、人の得を制限することで自身を得させる前提の下品で汚らしい劣情(低次元化・衰退化)を人に押し付け合うことしか能がない、その自分たちの愚かさ・だらしなさを自分たちの議決性で改善できたことがないような口ほどにもない人生観しかもち合わせていない分際(偽善者)が、この「信用貸し」のような基本信用(議決性・主体性・等族指導のあり方)を大事してこれた訳がないのである。

 

大坂で、米相場市場と信用貸しの体制がせっかくできていたものの、幕府は結局、商業改革でそれをうまく活用できないままに、江戸後半は迷走を続けるようになる。

 

明治時代に入っても、江戸中期にできたこの米相場市場と信用貸しが元となった資本観念は活き続け、明治以降の日本のあり方が整備される過程で日本経済の基準をこれがしばらく支えることになったことからも、優れた体制だったことが窺える。

 

ここでカール5世の時代の16世紀の証券経済の話に戻る。

 

下々の間では、上の間で何が起きているのか訳が解らないまま、帝国議会の閉会後に行われるようになった大市で、小口でも参加可能な利率の良い証券が流通し始めたことで、皆が大市に群がるようになった。

 

ドイツでの帝国議会の大市の証券取引は、スペインの証券市場、アントウェルペンの証券市場と連動していたものが多かった。

 

アントウェルペンは、東西貿易、新大陸貿易、バルト海貿易、イギリスとの貿易、マデイラ島貿易の中心地となっただけでなく、先物の証券取引も常態化した、ヨーロッパ中の貨幣相場、物価、証券の為替相場がいきなり登場したため、皆も驚きながら、帝国議会の大市だけでなく、アントウェルペンの取引所にも常に人でごったがえすようになった。

 

アントウェルペン市場はもはやヴェネツィアどころの規模ではない、ここでヨーロッパ全体の証券や貨幣や物価の為替評価が仕切られることになった、アントウェルペンのその相場表を皆が頼りに、商取引が盛んに行われるようになった。(情報処理力に優れていたフッガーが特に、その相場を支配していたというより調整していた)

 

物流とも連動していた先物も含める証券取引の人気で、アントウェルペンへの人々の往来も急増するようになったことで、金持ち狙いの詐欺師、スリ師、またカネ・モノ目当てや損得を巡る殺人事件も急増したといわれ、アントウェルペン市政も治安対策が間に合わず、苦労するようになったといわれている。

 

スペインではマドリッド(カスティリャレオン州の都市)のすぐ近くの都市メディナ・デル・カンポが、スペインにおける証券市場の中心地として経営されるようになった。

 

このスペイン・オーストリア王室(ハプスブルク家)の動きにあせったフランス王室(ヴァロア家)も、リヨン(プロバンス州・フランス。16世紀には出版社が多く立ち並ぶ文化的な都市に成長していた)にフランス王室の国債発行を持ち込む形で、利率の良い証券市場を慌てて作って巨額の資金調達をするようになる。

 

リヨンは、規模は大きくなかったがもともと 1463 年には商取引用の大市の基礎はできていて、フランス王室が資金調達する際にもこれまでこの大市が利用されていたが、16世紀ほどの巨額が扱われることはなかった。

 

1513 年までは以前通りの規模だったが、ドイツ、アントウェルペン、スペインで急にでき始めた証券市場の動きにあせったフランス王室は、フランス中の大小の大市をリヨンに強制移動させ、1515 年には大規模な国債を投じ始め、巨額の資金調達を先行するようになった。

 

1530 年代には、ヨーロッパ中の人々が特にアントウェルペン(スペイン国債)に駆け付けるようになってしまったため、フランソワ1世はリヨン(フランス国債)の証券市場に来させる対抗策として、今までリヨンの市政と縁がなかった外来の新参たちでも、資本に応じて免税特権などいくらかの優遇手続きが受けられる条件で、リヨンでの証券取引を誘致することに熱心になった。

 

小口たちはともかく資本家同士では、アントウェルペン市場での裏側の資本派閥権力で良い思いなどできずに不満をもつようになった者たちも出始め、アントウェルペンから資本を撤退してリヨン市場に乗り換える者もいた。

 

ドイツでも、ハプスブルク家にひいきされる商人団たちが優先で、結局彼らの食べ残しから利益を模索しなければならないような、それが身分制であるかのようになっていたことに不満をもった一団は、こっそりリヨン市場に走ることもあった。

 

金持ちが多かったフィレンツェ共和国(トスカーナ州・イタリア)の資本家たちも、アントウェルペン市場に走る者たちと、リヨン市場に走る者たちとで、なんだかハプスブルク派とヴァロア派とで見え隠れするようになり、とにかく儲かればよいと双方に出かけていた者たちももちろんいた。

 

フランス王室が、リヨンで証券取引をするようになったドイツ人やトスカーナ人たちに「彼らは理解あるキリスト教徒の良き友のドイツ人、トスカーナ人たちだ」と、スペイン・オーストリア王室を挑発するように歓迎の優遇を強調した。

 

その内に帝国議会でそれが取り沙汰されるようになり「ドイツ人、イタリア人、ネーデルラント人、スペイン・ポルトガル人の間で、リヨン市場への出入りは禁止とその監視の取り締まりを強化する」といい始めるようになった。

 

今までは資本取引といえば、貴族の仲間入り(土地の権利の売買と、土地所有貴族の伯爵の格式を得る)ができるかも知れないような、そんなにたくさんはいなかった資本家たちだけの紹介制の人脈が中心の閉ざされた市場だったのが、手形を銀行や取引所や大市で割るという処理ができるようになった(フッガー銀行がまずは大きかった)ことで、庶民でも参加できる開かれた市場いきなりなったため、それに不慣れな下同士の信用取引間での損得を巡るいがみ合いも多発した。

 

支持を得ようとする相場の専門家なる者があちこちでにわかに出現し、16世紀には書店が人気になっていたこともあって、相場予想関連の本が出版されるごとに皆に関心がもたれたというように、急に多様社会化していった当時の西洋は、今まで人々が体験したことがないことばかりが連続した時代だったのである。

 

また文字数制限になってしまったため、次も引き続き経済関係の話をしていく。