近世日本の身分制社会(111/書きかけ138) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか39/?? 2022/11/18

今回も、15世紀末からの皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公)の動きがどのようなものであったのかの続きとなる。

 

前回の内容として、15世紀末までの情勢をざっと箇条的に整理すると、

 揉めながらでも、都市の有力者同士の遠隔地間商業で特権貴族層や教区を抱きこみながらの地域貢献(聖堂参事会・教義施設への献納、貧民救済、産業拡張の出資など)の交流で結び付くようになり、14世紀までの教訓が活かされる人文主義的(多様主義的)な個々の協約(シンジゲート)が構成されながら、農・工・商の再生と隆盛も目立つようになっていた

 各都市の有力市民たちが、遠隔地間での多様的(異環境間の文化交流的)な商人団体制・商会体制(コンパーニュ)を構築して資本政治的(議会的)な力をもつようになり、国政に影響するような王族・上級貴族相手へのまとまった多額の用意も可能となった、ヘタな特権貴族よりも資本力を有する商人団が増え始めた

 国策として外来の資本家集団と提携するようになったポルトガルの航海事業の成功で、世界間情報も含める交易品がもたらされるようになった中、タクシスの郵便事業やグーテンベルクの印刷技術の浸透で情報社会の変貌も顕著になり、多様社会化(異環境間の文化交流)も急速に進むようになった

 一方で大小の資本家が各地で台頭し始めたことで、中には資本力任せで不当廉価、買占め、代替条件の悪用などで、同業者排撃の派閥的な市場支配争いも時折起こすようになり、地域振興が商人団の出資主導になり始めていたからこそ、教区や特権貴族層もそれを抑えるのも難しく、社会問題化(旧態身分崩壊)し始めるようになった

 資本家と提携するようになった地域ごとの特権貴族層も教区も、遠隔地間での人文主義的な交際協約(異環境間の敷居確認をしながらの条件交渉)で、良い意味での評議会的な慣習破りをするようになった

 だからこそ、いい加減に帝国議会(総裁による身分再統制的な議決の基準の仕切り直し = 時代に合った裁判権改め)による整備(寡頭的な旧態戒律の足並みから、議事録的・謄本登録的・公認保証的な身分再統制への切り替え=等族社会化)に向かってもらわなければという認識を、特権貴族たちも、資本家たちも、各地元の教区もするようになっていた


明らかにキリスト教社会は変貌してきていた中で「どうにもならなくなるまで深刻化してから」モタモタ対処しているようでは、かつての低次元な利権闘争、資本派閥闘争の中世の乱世の巻き戻りになるという中世の教訓を、上の間では揉めながらもその認識自体はするようになっていた。

神聖ローマ帝国(西方教会圏のキリスト教徒国家)の競争相手であったオスマン帝国(イスラム教国家)の方が、多様寛容的(国際社会的)な近世議会化(等族社会化)が明らかに進んでいた、それを見せ付けられてしまっていた側だったから、あせり始めていたのである。

そんな中で、

 等族主義(人文性・多様性と啓蒙性・合理性の整備)と寡頭主義(たたの指標乞食主義=ただの劣情共有=議決性など皆無な教義権力=ただの愚民統制)の違いの最低限の区別(自己等族統制=社会的説明責任・国際的指導責任の品性規律の手本の示し合い=等族指導=身分再統制・議会改革の器量)

も自分たちでできたことがない

 その最低限もできたこともない、その手本(等族指導の手本=和解を前提とする異環境間の敷居確認)をうやむやにし合う叙任権(教義権力=議決性など皆無な低次元な旧態戒律への頭の下げさせ合い、従わせ合い、うちのめし合い、失望させ合い)の手口(時代遅れの階級制)にしがみつくことしか能がない

 今の日本の低次元な文科省とやらと全く同じ人を合格・失格と裁定する資格(等族指導力)などない「議決性の示し合い」 と 「ただの劣情の押し付け合い」の区別(自己等族統制)も自分たちでできたこともない知能障害者(偽善者)の集まりの身の程知らずの公的教義体制(教皇庁・ローマ・枢機卿団・教義権力・叙任権)

に、特に上の間ではあきれるばかりだったのである。

議会で取り沙汰されていない時点では、異端論争に発展しかねないから表立って直撃的に批判できなかっただけで、聖属議会(教義で等族指導する側・ローマ・教皇庁・公的教義体制)に対しては

 自分たちの愚かさ・だらしなさを改革(議会再統一・敷居の基準の仕切り直し・身分再統制)できるだけの器量(議決性=人文性と啓蒙性の再整備力=状況回収の等族指導力)などない

と、特に上の間ではそう見なしていたことは明らかだった。

そう見なしていたのは貴族たちだけでない、各都市の市参事会員たちも、また資本家から多額の出資を受けて地元教義の健全化と貧民救済活動も以前よりもできるようになった修道院長たちや聖堂参事会員たちも、教会改革(公的教義改革)が遅々として進まないことに、失望させられるばかりになっていたのである。

だから、これからのキリスト教社会のあり方の意見交換と回収整理の場として、地元の市政や教区と連携する形の小議会的な人文主義会が隆盛するようになった。

その姿は、今までの慣習通りでない遠隔地間(異環境間)の交流を資本家たちが進める代替条件として、最初は揉めながらも地域貢献にも出資して積極的に支え合う異環境間の文化交流網を形成していった、資本家たちの影響も大きかった。

近代の前身の、人文化(多様化)啓蒙化(合理化)の社会観念が見られるようになる15世紀末を迎えると、先見力・人事力に優れていた皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公)がとうとう、

 世俗議会側(帝国議会)を格上聖属議会側(身の程知らずにも叙任権にしがみつき続ける公的教義体制)を格下と見なし始める(その教義権力の巻き上げに動き始める)前提

の、世俗主導(近代の前身的)によるキリスト教社会の、経済・教義の両対策(教会改革・身分再統制)に本腰を入れ始めた、それがどのようなものであったのかが今回の本題になる。

ドイツでのその改革基盤にアウクスブルクがうってつけだとマクシミリアン1世が着目するようになったこと、そしてそこから人事的に見込んだ気鋭の有力市民ヤーコプ・フッガーを注視すればその多くが窺えるが、まず15世紀末までの情勢(社会心理)を理解できていないと、上の間で何が起きていたのかも全く見えてこない所になる。

今まで見たことも聞いたこともないような国際銀行・政商に急成長したヤーコプ・フッガーの存在自体が、マクシミリアン1世の優れた国策の準備要領そのものだったといってよい。

国家銀行体制が構築されるまでの、マクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーの時代の説明に入りたい所だが、筆者が伝えたい説明が難しくなってしまうと思ったため、それが構築された以後の様子から先に説明していきたい。

まず、1519 年にマクシミリアン1世が亡くなり、その孫であるカール5世が次期皇帝に就任、国籍上はカスティリャ王(スペイン王)に就任した時から、カール5世は帝国全体の資本をすっかり掌握していたフッガー銀行に、さっそく資金面で大いに支えられることになる。

これからは経済観念もどんどん変化し、国営にしても帝国議会にしても、今後は資本をいかに掌握・管理できるかがモノをいう時代になることも、マクシミリアン1世は予測できていた。

だから次のカール5世の時代に、どうにか対応していけるようにと、今までなかった、世界的にも希有だった国家銀行体制(と国際的な大証券市場)を、それができそうだったフッガー家を後押して整えさせ、カール5世の時代を支えさせることになった。

マクシミリアン1世が 1519 年に亡くなり、カール5世が皇帝に就任したその頃の西洋は、リスボンとアントウェルペンの二大貿易市場が盛り上がりを見せていたことの事情も、フッガーの銀行体制と関係あるため、時系列が少し前後するがそちらも説明しておきたい。

スペインとポルトガルが当初は航海事業を競い、次第に協約関係が築かれるようになっていくと、ハプスブルク家(スペイン・オーストリア王室)の管轄であった要港都市アントウェルペン(ネーデルラント南部。アントワープ)が、ヴェネツィアに代わる東西貿易(のち新大陸貿易も)の中心市場とされる形の、リスボンとの二大市場化は 1510 年代から始まっていた。

ポルトガル船がアジアへの航路を拓(ひら)いて以来、この 1510 年代までに、直接インドネシア現地での交易権と、それまでの中継地点との得意先的な航路権も築かれるようになったことで、この頃からヴェネツィアよりも、リスボン、アントウェルペンに持ち帰られるようになった交易品の方がだいぶ優位になっていた。

東西貿易がヴェネツィア共和国からポルトガル王室の主導に変わったというだけでない、リスボン、アントウェルペンの方があきらかに好条件だったため、今までヴェネツィアに出かけていた小口から大手までの各国の商人たちは、一斉にアントウェルペンに駆けつけるようになった。

このアントウェルペンは、東西貿易(と、のちの新大陸貿易市場と証券市場)で盛り上がる以前から、ハンザ都市同盟(バルト海側)とも縁のあった国際的な要港都市だったことで知られ、さらにはイギリスが得意としていた羊毛産業の、ネーデルラント側(からフランスやドイツに流通していった)への受注口になっていたことでも顕著だった。

イギリスは、古くからヒツジの飼育を重要な産業に位置付け、その毛織物産業を得意としていた。

ネーデルラントやドイツでもヒツジの飼育はされていたが、良質なものや安価なイギリス産の毛織物がアントウェルペンにどんどん出荷される流通体制が、中世から確立されていた。

イギリスの毛織物産業は、中世には大量生産と出荷の体制がすっかりできていて、西洋中で不足気味だった羊毛需要を支えていたといえるほどだった。

ロンドン(正式の都市名はシティ・オブ・ロンドン)からアントウェルペンに船で毛織物がまず運ばれ、ハンザ都市同盟の交易船が毛織物の買い付けにアントウェルペンにやってきた他、アントウェルペンからの陸の販路も中世には確立されていた。

ネーデルラント南部(アントウェルペン。今のベルギー)とは近めの、ドイツの都市ケルン(当時はラインハルト州。ケルン大聖堂が顕著で、かつての司教都市の伝統は尊重され続けた都市だった)に毛織物が運ばれる陸の販路が、確立されていた。

ケルン商人(ドイツ人)たちが、アントウェルペンに毛織物やその他の交易品の買い付けにやってきて、まず陸の販路でケルンへ運ばれ、そこからドイツの内陸側に毛織物その他が運ばれていくという販路がすっかり構築されていた。

アントウェルペンとケルンの都市間を結ぶ、ネーデルラントとドイツとの内陸側の販路は、中世後半にはすっかり形成されていた。

アントウェルペンは、イギリスの毛織物やハンザ都市の交易品だけでなく、マデイラ島などで生産された砂糖などの人気商品も届くようになった中、ついにアジアの交易品も届くようになったため、16世紀になると急に港も手狭になってしまった。

拡張工事もされたが合わず、せっかく魅力的な物資が船で次々と運ばれてきても荷揚げが遅々として進まないという、交通渋滞のような支障が出るようになってしまった。

そのため、そのすぐ北にある要港都市ベルヘン・オブ・ゾームが急いで整備される形で、アントウェルペンで許容し切れなくなった分の物流を肩代わりすることになったため、こちらにも人が集まって取引で栄えるようになった。

アントウェルペンの貿易市場がきっかけの、世界規模の証券市場が出現するまでの、その国際交流的な下地は15世紀末には既にできていた。

現地のネーデルラント人たちは、外来のイギリス人たち、ケルンからのドイツ人たち、フランドル方面(ネーデルラント)とフランス北部と交流があったフランス人たち、さらにはハンザ都市の船の他、スカンディナヴィア方面(ノルウェー・スウェーデン・デンマーク)の船も時折来ていた、文化的な交流がそれまでには形成されていたのである。

西洋の西側で輸出入の取引(貨幣取引だけでなく相場ごとの物々交換も)をしたければ、アントウェルペン市場(取引所。外来の商会支店)に話にもちかければ、どの国のどの都市が、食品不足だったり原料不足だったり、またどんな品が流行しているかなど、互いに何を欲しがっているのかの話も早かった。

つまり15世紀末の時点で、このアントウェルペンに後はアジアの交易品をもってくれば「ヴェネツィアの後継都市のできあがり」といえるまで、育っていた。

アントウェルペンは15世紀末までには文化的(国際交流的)に成熟していた、だから16世紀に入るとポルトガル・スペインからヴェネツィアに代わる貿易大市場の要港として、重視されるようになったのも必然だった。

ヴェネツィアのようにローマの近くではない上に、ドイツほどはイタリア(ローマ)を肩代わりしなければならない訳ではなかったことと、ネーデルラントの多様国際的な土地柄が、人文主義(これからのキリスト教社会のあり方の異環境間交流)が早めに育った要因だったともいえる。

こうした土地柄(異環境間の文化交流)が、のちオランダ(ネーデルラント北部)が、スペイン一強主義(スペインの伝統のカトリック再確認主義による足並み)と決裂する形の反カトリック国家(プロテスタント国家)の独立運動の、国際的な強国化に向かう16世紀末の下地にもなったともいえる。

16世紀初頭はポルトガル王室がアントウェルペンの主導権を握っていたが、16世紀中盤までには強国スペインの国力任せの巨額の国債発行がアントウェルペンの証券市場に投入され、広く流通するようになったこともあってスペインが主導的になっていく。(スペイン王室とポルトガル王室の婚姻政策による合併も一時期されていた)

一方で 1510 年代に、それまでヴェネツィアの市場を中心としていた西洋中の外来商人たちが一斉にアントウェルペン市場中心に乗り換えてしまったため、ヴェネツィア経済は大打撃を受けることになる。

ヴェネツィアはそれまで東西貿易を中心に、イタリア各州、ドイツ・オーストリア、フランス、イベリア方面と多方面から様々な交換品が常に運ばれていたため、それら輸出品同士での取引も盛んに行われていたが、その役目も完全にアントウェルペンにもっていかれてしまう事態に陥ったのである。

1510 年代には、ヴェネツィア共和国の急激な弱体化も顕著となり、地中海における今までの強力な海軍力(制海権)も維持できなくなった。

ヴェネツィア海軍に代わって地中海の制海権を優位に掌握するようになったオスマン海軍に、スペインが自前の海軍を構成すると共に、ジェノヴァ共和国(イタリア・リグリア州)の海軍を支援する形で、制海権争いをする流れとなる。(こちらの対策にはフランスも渋々協力することもあった)

エジプト方面やアラブ方面の者たちは、今まで東の交易品をヴェネツィアが高く買ってくれたから、大変な距離を陸路と地中海で運んでいたのを、ポルトガルが東西貿易の相場を激変させてしまって以降はその物流網が商売にならなくなってしまい、今までヴェネツィアで溢れていた品々も激減するようになった。

時系列が前後するが、皇帝マクシミリアン1世が、父フリードリヒ3世が始めたネーデルラントとの婚姻交流(大手同士の我が子間の結婚による合併化)の縁を手本にするように、アラゴン(スペイン)との婚姻交流を進めるようになり、それでなんとか、オーストリア・ドイツ、ネーデルラント、スペインの大継承者の家長となる、絶対王政的なカール5世を誕生させるに至った。

西洋は、絶対王政的な等族議会制(国際国家的な総裁権)を先に整備・強国化されてしまったオスマン帝国からの圧迫にあせり、中世の時のような皇帝の肩書など名ばかりの、誰がキリスト教徒全体の代表格なのかよく判らないような横並びの王族同士のままの、格式争いの小競り合いをしている場合ではなくなってきていた。

しかし日本のように、ひとつの民族の中の頂点を競う、つまり皇室の家来筋の末裔の中で頂点(家長権争い・裁判権争い)を競うという形が採れる訳ではない、異環境間の多民族間を他国籍のひとつの王族が丸ごと再統一することなど、西洋では簡単ではなかった。

王族間同士でただ軍事力を用いて格式争いばかりするのではなく、多様国際的な婚姻政策という形で、世俗議会側の強力な代表継承者を整えなければならないことに、大手の王族同士では危機感がもたれるようになった、その事情でなんとか誕生することになったのが、カール5世である。

マクシミリアン1世は、大変な時代になることが予測された孫のカール5世に、フッガー銀行という強力な切り札を用意し、さらには世俗議会(帝国議会)聖属議会(教皇庁・公的教義体制)の暴挙を抑える前提の教会改革もできるようにする布石として、アウクスブルクを介して人文主義会とラテン文学会を奨励し、ドイツ中にその気風を作る手も打った。

各地の遠隔地間の資本家の台頭の影響で、旧態の身分制度(社会観)も崩れ始め、その資本力のおかげで拡張開発や福祉事業にもやっと取り組まれるようになり、さらに情報や労働の多様社会化も始まったため、今までの慣習通りでなくなってきていた時代の変貌に人々も困惑するようになっていた。

そんな中で、今まで見たことも聞いたこともない大継承者のカール5世が出現し、さらに国際間の資本を一手に掌握し始めた、こちらも今まで見たことも聞いたこともないフッガー銀行が出現したため、人々はますます困惑するようになった。

アントウェルペンの貿易市場に、スペイン王室の巨額の国債発行の投入した大証券市場がしばらくして急に登場することになるが、これはフッガー銀行の体制をマクシミリアン1世が用意しておいたからこそそれも可能だったといえ、その大証券市場のいきなりの出現にも、16世紀は驚きの連続の時代だった。(後述)

上も下も揉めながらも14世紀までの愚かさ・だらしなさの教訓が反省されながら、15世紀末には経済成長は昇り調子になり、国際的な証券経済が 1520 年頃から顕著になっていったことで投資的(証券経済的)な金回りが良くなったため、伸び盛りであった経済景気を助長することになった。

それに便乗して浮かれる、にわかの資本家気取りの成金も目立ち始めた一方で、罠の仕掛け合い(マネーゲーム)のような不健全な派閥資本競争に巻き込まれて資産を失う者たちや、旧式の隷属契約(納税滞納の利息縛りの旧態身分制)を強要させられ続けてその経済活動にいつまでも参加できないでいた貧困層たちの格差問題(悪い意味での身分社会観の崩壊)も、深刻化するようになった。

だから、時代に全く合っていない、教会体制(公的教義体制)の旧態戒律のまま一向に改善されなかった生活保証権(賦役慣習・納税を果たす下に見合った上の代替保証義務・身分社会観・戒律の裁判権制度)の改革を巡って、16世紀には人文主義からの抗議派(旧態のままの戒律と結び付いているその裁判権が、救済・敷居向上になっていない、時代に合っていないことを訴えるブロテスタント)たちが騒ぎ始めるなど、今までなかった困惑の連続を人々は体験するようになる。

困惑といえばまずカール5世の存在からして、国籍上はドイツ・オーストリアの近隣でもない遠方のカスティリャ王(スペイン王)が皇帝(イタリアを肩代わりする帝国議会の総裁。ドイツ王の兼任)であること自体、今まで体験したことがないこととして、上の事情をすぐには理解できなかった下々は困惑した。

スペインの中級・下級の貴族らや諸都市も、カール5世がまずカスティリャ王(スペイン王)に就任することになった時点で

 「ネーデルラント公爵(フィリップ美公)のせがれが、西洋最大の強国スペインの国王とはどういうことだ?」

の印象ばかり当初は強く、反対運動も起きたものの、アラゴン王とカスティリャ女王の孫だからという理由で渋々受け入れる有様だった。

西洋での表向きの、絶対的な最大手の格式としてハプスブルク家が急浮上し、

 「カール5世がその代表家長だから、マクシミリアン1世の後継者として皇帝権(帝国議会の総裁)を引き継ぐ」

という今まで体験がなかった、下々から見れば今までとは飛躍したその国際的な規模のいきなりの絶対君主の格式の出現に、そこからまず動揺した。

日本の場合は「どうせ日本人同士の兄弟喧嘩」としての地元の再統一を、次に広域の地方再統一を、そして中央再統一を最も果たせた手本家長が

 「我が家訓政権こそが、今後の武家の棟梁(絶対君主)の格式(基準)だ!(皇室を肩代わりする、日本全体の世俗側の代表家長だ!)」

恫喝(公務吏僚体制を等族指導できる高次元側が、できていない低次元側を上から順番に格下げ)すればなんとかなかった。

身分再統制が明らかに必要になっていたほど、16世紀までに没落していった半農半士でどこも溢れ返っていた日本は「元をただせば、どうせ日本人の誰しもが皇室の家来筋」なのである。

だから大名にせよ、出身など曖昧に人事改革的に抜擢されるようになった有力家臣たちにせよ、その根拠などは源義家の系譜か、桓武天皇の平氏の系譜か、公家(くげ。皇室の外戚たち。聖属の管理人たち)流なら藤原秀郷流(ひでさと)や藤原利仁流(としひと)あたりをテキトーに名乗ってそれらしく振舞っておけばなんとかなるが、多民族の西洋はそういう訳にはいかない。

ややこしいことに、カール5世の存在に不慣れな当時のドイツ人たちからすると

 「ネーデルラント生まれのスペイン王が帝国議会(世俗権力・等族諸侯のまとめ役を肩代わりするドイツ)の総裁(ドイツ皇帝=神聖ローマ帝国の代表)ということは、ドイツの便宜ではなくスペインやネーデルラントの便宜ばかりするつもりなのではないか・・・」

と思うに決まっており、同じくスペインとしても

 「我がスペインの国王がドイツ皇帝ということは、スペインの便宜ではなくドイツやネーデルラントの便宜ばかりするつもりではないか・・・」

と、何かあると互いにそこに不安になって疑うに決まっており、だから今まで体験したことがなかったカール5世という存在の、国際的な皇帝・王権の継承は、当初は皆が動揺した。

しかし王族間、上級貴族間、高位聖職者間では、このカール5世の存在も、マクシミリアン1世の「フッガー銀行を用意」「人文主義会を奨励」準備要領にしても、それが何を意味する布石だったのかは上の間ではほとんど理解できていたと見てよい。(ここがかなり重要。順述)

これまでは、皇帝権をドイツからフランスに移管させようと、かつての教会大分裂の原因を助長してでもドイツ側の王族と延々と格式争いをしてきたフランス王室(フランソワ1世)もそこは同じである。

 

マクシミリアン1世の次世代的な動きにフランス王室は「もうドイツ側の王族と格式争いをしている時代ではなくなってきている」情勢に、慌て始めたのである。

オーストリア王室(マクシミリアン1世)の諸対策の動きに慌てたフランス王室(フランソワ1世)は、どうにも手に負えなくなる前に自国の身分制議会の整備に乗り出し、まとまりがなくなっていたイタリアの介入(反ハプスブルク派・親フランス派に染めるためのイタリアの支配戦・支持戦)に急いだのである。(フィレンツェ共和国でマキアベリが、フランスから一方的に格下扱いされないための対応で活躍した時期)

オーストリア王室とスペイン王室の大手同士の提携に、いよいよ格式争いどころではなくなってきたフランス王室がそれに対抗するために、先手を打つ形で15世紀末にローマ(教皇庁)を格下扱いし始めながらイタリアの支持・支配戦に乗り出した流れは、実際はマクシミリアン1世の動きがそうさせたといった方が正確になる。

15世紀末から、とうとう世俗議会側(帝国議会側。皇帝側。マクシミリアン1世)が痺れを切らすように教会改革(身分再統制)の布石を打ち始めたことは、遠回し(異端論争に向かわないように世俗問題であることにしていく)なものが多いため、中級・下級貴族や、下々の多くは上同士で何が起きていたのか理解するのに時間差ができる。

オーストリア王室(皇帝マクシミリアン1世。ハプスブルク家)がローマ(教皇庁・旧態のままの公的教義体制)を政治的(議会的・身分再統制的)に格下扱いし始めたから、フランス王室がそれに先手を打つように軍事的にイタリア(ローマ)を格下扱いし始めた、といった方が正確といえる。

ここで少し、15世紀末までのフランスの立ち位置はどのようなものであったのか、フランスに視点を向けながら、その権力均衡の変移についてもここで触れておきたいが、それには皇帝権(帝国議会の総裁)をよく理解しておく必要もある。

物流経済の隆盛が13世紀に起き、14世紀にいったん崩壊して15世紀にその再生と再隆盛が始める、西洋のおおまかな流れの中で、13世紀から14世紀にかけて、各地の経済活動の中心地だった都市(近隣の農村政治と連携していた)が、時代に合わない司教権力(教義権力・公的教義権力)からの脱却を始めるようになったことは、何度か説明してきた。

都市(市政・市参事会)は、それまでの都市を大部分を支配してきた司教特権を、帝国議会(皇帝)と交渉しながら勝手に譲渡し始め、司教(かつての知事的な、地方ごとの教区の最高長官)の公認権ではなく、皇帝(王族の代表格)の公認権(等族諸侯扱い)に乗り換える形で、都市政治のあり方を刷新し始める動きが顕著になった。

当時は議会的なまとまりもなかった横並びの王族たち、司教領特権の高位聖職者たちに、都市側もその派閥利害に切り込む形で利害次第で協力関係をコロコロと替えながら、王族同士、司教同士、都市同士で優先権の奪い合いと蹴落とし合いが繰り返されたために、大荒れの乱世がしばらく続いた。

世俗議会(ローマ帝国の皇帝権)は最初は教皇が兼任し、9世紀頃まではイタリア王族が就任するようになっていたが、イタリアの世俗権力が衰退したというよりもドイツの方が国力が上回るようになると、つまりドイツ側の王族の方が格式が高まり始めると、11世紀末には皇帝権はドイツ側の王族が肩代わりするようになった。(10世紀がその移行期だった)

イタリアの王族よりもドイツの王族の方が格式が高まり始めた中、聖属議会側(ローマ・教皇庁)は、世俗議会側(帝国議会側・皇帝側=王族の代表格側)にこれ以上力をつけられると、聖属権力(教義権力)で統制できなくなるからこそ、これ以上ドイツ側に力をつけさせないために意識そらしの十字軍遠征(エルサレム攻略)の軍役を煽りながら、世俗側への愚民統制的な横並び叙任権政策を14世紀まで続けてきた。

13世紀に物流経済の発達も顕著になり、今までなかった都市同士・農村同士の為替的な新たな証文のやりとりの経済観念も次々と出てきた中で、その体質のままでは法整備でろくに対応できなくなっていった。

通商条約や関税のあり方や、納税と労役義務と代替保証(身分制度)のあり方も、どういう場合はどう裁定されるのかの多様保証化(社会価値の整備)というものに、13世紀から14世紀にかけて横並びの派閥闘争しかできなかったからこそ、今までの司教特権の旧態慣習(時代遅れの身分社会観)では全く対応できずに限界を向かえる形で、大荒れしたのである。

日本でも、足利義満時代がきっかけの室町の高度成長時代を向かえた以後も、そこは同じである。

横並びの低次元な派閥闘争しかできなかったからこそ、皇帝権をフランスに移管させる前例を作ろうと、フランス王族はドイツ王族とで格式争いを、両者共に自国で大したまとまりもないまま、それまで皇帝権を巡る小競り合いが繰り返されてきた。

15世紀に経済社会の再生と、情報や労働の多様化の再隆盛を見せ始めるようになると、ドイツ側ではとうとうマクシミリアン1世が、今までまとまりがなかった帝国議会の足並みをまとめ始めながら、今までの諸対策に動き始める。

 有望株のアウクスブルクを奨励することで、ドイツにおける経済社会・教義文化の両面の改革の見本の地と定める

 フッガーによる国家銀行代制を急いで整えさせる(今まで敷居向上・救済のために活用できていたのか極めて怪しい教会財産への、そのテコ入れにも関与させる。後述)

 絶対王政的(国際総裁的・等族指導的)な格式を議会的に築いていくために、強国スペインとの大手同士の連合的な国際婚姻政策に動き始める(上からの合併アレルギーの克服=前代未聞の継承者カール5世の誕生のきっかけ)


といったように、まさに「今までのキリスト教社会の悪い部分をいい加減に、一斉に改めていくといわんばかりに、マクシミリアン1世は積極的に動き始めたのである。

15世紀後半のマクシミリアン1世の動きにフランスが慌て、身分制議会の整備(議会再統一)を急いだように、そこはネーデルラントも、イベリア方面(アラゴンとカスティリャ。スペイン)も同じだった。

神聖ローマ帝国(キリスト教国家)としての、表向きの王族の代表格であるマクシミリアン1世の懸命な立て直しによる手本的な議会整備が波及したからこそ、今まで上同士で揉めてばかりいたイベリア方面でも再統一(統合国家スペインとしての等族議会制の確立)が急がれるようになった、ともいえるのである。

イタリアを肩代わりすることになって以来、まとまりがあったとはいえなかったドイツでの帝国議会が、マクシミリアン1世によってとうとう正常化され始めたからこそ、キリスト教社会の世俗側の頂点である皇帝の基準(議会改革)に合わせなければならないという手本的な流れを作ったの同時に、これが良い意味での「終わりの始まり」でもあることも、上の間で認識させるようなった。(順述)

低次元な横並びのままであり続ければいいかのような、叙任権(世の中の正しさとやら=議決性など皆無な善悪、議決性など皆無な頭の良い悪い)の悪用ばかりする聖属議会側(公的教義体制)の介入を、今までは世俗議会側(帝国議会)は受け続けてきた。

王族同士でも、今まで主体性(議決性)が欠けていた分だけ皇帝権(帝国議会の総裁としての裁定力)も曖昧で中途半端だった問題を、マクシミリアン1世がとうとう対策に乗り出したのである。(競争相手であるオスマン帝国に対するあせりも当然あった)

マクシミリアン1世の懸命な帝国議会の建て直しによって、本来の皇帝権(本来の国際的な総裁の姿)がとうとう機能し始めるようになったことは、各地の都市(と、それと協力関係で連携していた土地所有貴族たちや農村部の豪農たち)の社会観の基準(等族義務)を整備(身分再統制)できる形が整い始めたことを意味する。

 「イタリアを肩代わりするようになった、便宜上の神聖ローマ帝国(キリスト教国家)の世俗権力の頂点の、ドイツでの帝国議会(皇帝権)を改めて、参考の基準とせよ」

 「それに文句があるなら、その敷居を上回る等族議会制の整備ができているといえる、その手本で示し返して(より高次元だといえる意見条項を突き返して)見せよ」


といえるようになってきた、皇帝(世俗側のキリスト教徒全体の代表家長)らしい本来の姿になってきていたことは、次期皇帝が予定されていた大継承者のカール5世の存在も、その形をさらに決定付けていたといえる。

中世までは横並びの低次元な派閥闘争しかできていなかった、だから皇帝権もそれだけ曖昧だった、だからフランスもそれまでは格式を理由に皇帝権(キリスト教徒の代表家長)に逆らう形で、フランスの諸都市や土地所有貴族たちをドイツ皇帝の全ていいなりの支配下(裁判権=身分再統制権)に置かれないよう、フランス王室がフランス内の等族諸侯の裁定権(身分統制権)を維持する形を採ってきた。(その傾向自体はどの国も同じだが、フランスが特に顕著だった)

遠回しが多かったから下々は理解するのに時間がかかったが、マクシミリアン1世が聖属議会側(公的教義体制)をとうとう牽制し始めたことは、フランスも含める上の間では、詳細はともかくその準備要領(身分再統制・議会改革の方針)は条例を確認するまでなく、マクシミリアン1世の動向を見ていただけで十分理解できていたと見てよい。

マクシミリアン1世が、皇帝直々という形で多様社会化(人文主義)をとうとう具体的に認知し始めた(アウクスブルクで人文主義会とラテン語学校を奨励し始めた)こと自体が、今までの聖属議会側(公的教義体制)の乱暴な他力信仰一辺倒社会(自力信仰の否定=多様社会化の否定)に、世俗議会側(帝国議会側)が巻き返し的(立場逆転的)なテコ入れを始めるという示唆なのである。

これは現代の損益計算経営の話と同じ、貸方側と借方側の主体的(議決的・計画的)なつじつまがあっていない、実態(繰り越し的な時系列の前後分析で、足枷でしかなくなっている旧態価値観念の償却)とかけ離れた

 

 今の日本の低次元な文科省とやらがやっているような、頭が良くなる訳がない、議決性など皆無な時代遅れの結論付け(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)による頭の下げさせ合い(うちのめし合い)の強制(教義権力任せ)

 

しかしていなければ、経営(敷居)が悪化(低次元化・衰退化)する一方だった、オスマン帝国(イスラム教徒国家)に遅れるばかりだったことを危惧したマクシミリアン1世が、そこへの対策(等族指導)にとうとう乗り出したのである。

他力信仰という借方的(体制的)な啓蒙化・合理化の実現にならない、自力信仰という貸方的(配当的)な人文化・多様化を否定し合っているような愚かさ・だらしなさの社会構造のままでは、衰退(低次元化)の一途に向かうのみなのは当時でも現代でも、個人間でも団体間でも同じである。(日本はそこが真逆だった)

情報社会・経済社会からの突き上げがそうだったように、当時の西洋での多様社会化(等族社会化)の流れに対策せざるを得なくなってきた中で、その議決性(時代に合った等族指導=育成理念の構想の手本の示し合い)を阻害し続けてきた聖属議会側(公的教義権力)世俗議会側(帝国議会)が制裁(身分再統制)しなければならなくなった、そこを逆転(卒業)させなければならなくなった時代が、マクシミリアン1世とカール5世にかけての新時代だったのである。

下々は上の間で何が起きていたのか理解するのに時間がかかったが、マクシミリアン1世の示唆は、上の間では「終わりの始まり」と認識していたと見て間違いない。

マクシミリアン1世は大勢の貧者への対策も考えていた仁者(じんしゃ。ただ善人振るのではなく、何が問題なのかに関心を向けて対策・正常化に導こうとする本来の手本家長らしい人のこと)であったのは間違いない一方で、良い意味でかなりの策士でもあったことは、フッガーを使って教会財産(と教義権力)の巻き上げに動いた様子からも、その優れた先見性が窺える。(後述)

教義権力(劣悪性癖・ただの劣情共有)を振るい続けようとすることをやめようとしない教皇庁(ローマ)が、1527 年にとうとう皇帝軍(帝国議会。カール5世の重臣たち)にめでたく踏み潰されることになるが、これもマクシミリアン1世がその条件を計画し、アラゴン王フェルナンドとカスティリャ女王イサベルの生前中に内々で了承を得ていたものを、その議事録を管理していたカール5世の重臣たちの決議で実行(もちろんカール5世による最終認可で)されたものではないかと筆者は見ている。

1527 年のローマ劫略は、マクシミリアン1世が教皇庁(ローマ・枢機卿団・公的教義体制の総本部)に前々からその警告もしていたと見た方が、教義権力が通用しなくなったそのだらしない錯乱(思考停止)ぶりからもそう見た方が自然だと、筆者は見ている。

 

聖属議会(教義権力)と世俗議会(帝国議会)の今までの立場をとうとう逆転させられるようになったローマ(教皇庁)側は、

 

 自分たちで教皇選挙(コンクラーヴェ)もろくにできなくなっているような、イタリアをまとめるどころか自分たちの領内(教皇領)もまとめられなくなっている、議決性(国際裁判力・等族指導の手本)など皆無な格下ども

 

にも拘わらず、西洋中の資本対策の問題も絡んで対立が過熱すると、勘違いの開き直りの「やれるものならやってみろ!」の身の程知らずの態度に出た、だから

 

 「教皇庁(ローマ)などは十字軍編成(キリスト教社会の構想力・国防力)で撥ね返す力量などない、叙任権(身分統制権・キリスト教社会の人格基準)を握り続ける資格(議決性の品性規律)などない口ほどにもない格下ども

 

であることを具体的に思い知らせる形で、踏み潰されたのである。

16世紀に入っていよいよ教会改革の意識が強まっていた教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ。トスカーナ政権関係者)の時代に、化けの皮が剥がれたように「中世最後の晩餐」といわんばかりに、教義権力のためだけの贅沢な興行を強行して教会財産を枯渇させる動きに出て、人々をいよいよ失望させることになったのは、今まで善用などされていなかった教会財産をマクシミリアン1世がフッガーを使って、その巻き上げに動いたことへの反抗からのものだったことが、これまで説明されてこなかった。

 

フッガーを使ったそのやり方がどのようなものだったのかは後述するが、教皇庁(ローマ。枢機卿団。西方教会の本部)が教会改革(敷居の仕切り直しの人事改革)などできる訳がないことを決定付けるのみだったのが、教皇レオ10世時代だったのである。(ルターが堂々と抗議し始めた時期)

 

だから、これまでの慣習からいえば教皇選挙の対象外だったはずの教皇ハドリアヌス6世(ネーデルラント神学教授出身の、スペインの国家裁判長。人文主義者)が、懲罰人事的に帝国議会側(オーストリア・スペイン王室)から指名される(押し付けられる)事態となったのも、当然の話なのである。(その圧力に抵抗できるだけのまとまりなど教皇庁にはなかった)
 

「終わりの始まり」の意味に触れる上で、まず多様社会化の人類の歴史経緯(社会心理)の基本を、ここで今一度整理しておきたい。

この話は筆者が考える「教育の本来の姿」がその基本そのものであるため、その例から説明していきたい。

 

筆者は小学校までは必ずしも否定する姿勢ではなく、中学以降が大問題と見ている、つまり多少は嫌がっても押さえつけながらやらせるという体験は、「ある程度は」小学校までは大目に見てもよい部分もあると、筆者は見ている。

 

つまり、足並みを強制的に揃えさせる未熟期(歴史でいうと15世紀までの人類)は、個人を尊重するための価与評動、価受評動、支与評動、支受評動、自己格上げ(6星5行4柱)の自己等族統制のための統計期間でなければならず、それを未熟期の間に採っておいたものを中学以降(歴史でいうと16世紀以降の人類)に、それを基(もと)とした職能訓練の細分化(身分統制・公庶分離の公務吏僚化も含める)をするべきと筆者は考えている。

 

筆者から言わせればたったそれだけのことを「今の日本は何をモタモタとやっておるのだ。さっさと世界にその手本を示せ」といいたい所になる。

 

まず自身の(自分たちの)その統計も採れたこともない、その最低限の情報処理能力(議決性)もない、今の日本の低次元な教育機関の身の程知らずの格下どもが、人・よそ(異環境間)の統計を採れる器量(主体性・当事者性・議決性による敷居確認力)などある訳がない。

 

自己等族統制もできたこともない、その議決性(和解を前提とする敷居確認の示し合い)が何なのかの認識(時系列的な社会心理の把握)も自分たちできたこともないにも拘わらず、世の中の正しさとやらを教えようとする知能障害者(偽善者)の集まりの今の日本の教育機関とそのいいなりの身の程知らずどもに、それができるようになる訳がないのである。

 

荀子・韓非子・孫子の兵法の最低限の組織論の敷居からまず話ができない、その意味を認識させることからそもそも手がかかるような今の日本の低次元な教育機関と、そのただのいいなりのだらしない身の程知らずの格下どもが、筆者にケンカ腰になろうとすること自体が釈迦に説法もいい所なのである。

 

以前にもこのことで少し恫喝(宣告)したが、筆者は進んで人の上に立とうとする性分ではないが、必要であれば、求められるのであれば、自国の歴史経緯(社会心理)の把握(等族指導)もできたことがない身の程知らずの教育機関(偽善者)どもの化けの皮を上から順番に剥がしていく再統一(教義改め)の役目を、誰もできないのであれば筆者がその嫌われ役の名義人として、それを無償で請け負っても良いと考えている。

 

ケンカ腰になる以上は

 

 こちらが化けの皮を剥がしながら天狗の鼻をへし折る側の、自己等族統制ができている格上の高次元側

 

 むこうが化けの皮が剥がされながら天狗の鼻がへし折られる側の、自己等族統制などできていない格下の低次元側

 

の手本を常に示し合うことが社会(人文性・多様性と啓蒙性・合理性)の最低限の礼儀になってなければならないと、筆者は考える。(荀子の根底)

 

話は少し逸れたが、この筆者の言い分自体が、第二次世界大戦以後がまさに例の、世界全体の自然な多様国際社会化の動向そのものなのである。

第二次世界大戦の教訓によって、それまで協約的だった部分と、植民支配的(よその身分制議会に従属的)だった部分の、つまり健全だった部分と不健全だった部分が国際交流のあり方として見直されていく形での、独立自治国家の細分化が顕著になった。

 

それまでは近隣自治地域を力関係でまとめる前提で国力を有していた、20もなかった主導国同士の押さえつけ合いの時代から、以後はその解体で自治的に100以上の国家化にあっという間に細分化されていった。

 

第二次世界大戦での教訓は、力関係任せの強国主義的な富国強兵社会で押さえつけ合ってはならない、またその外圧に頼り合っても誘い合ってもならないという、その認識不足を世界に自覚(等族統制)させ、次世代国際交流のためにそれを解体させていくことになった、まさに旧社会の破壊と新社会の再生に向かわせることになった戦いだったといえる。(日本の影響が多大だったと今でも評されている)

近代の前身の姿が見られるようになった16世紀は、日本では国内での見直しの規模になるが、西洋でのそれまで多民族をどうにか収容してきたキリスト教社会では、マクシミリアン1世の時代には、その傾向が見え始めていたのである。

 

つまり、幼少期から青年期への移行期である中世以降も、多様社会化(成人期)を認めないその未成熟期のままの、他力信仰一辺倒の教義体制を敷き続けてきたことに、キリスト教社会は限界を向かえていたのがマクシミリアン1世の時代には顕著になっていたのである。

 

日本はその真逆の、啓蒙国際化(世界の敷居対応の国家構想)をうやむやにし合う未成熟期のままの自力信仰一辺倒が続けられてきたのを、とうとう織田信長の出現によってそのだらしない閉鎖有徳闘争が改められることになった。

 

マクシミリアン1世の時代の従説はどういう訳か、やたらと「神聖ローマ帝国が弱体化した」ということばかり強調されてきたが全く的確ではない。

 

それは丁度、第二次世界大戦後の日本が、アジアの強国主義時代としての宗主国を肩代わりしてきた役目を終えた状態と類似した意味になる。(厳密には次のカール5世の時代が、その最後の時代になると示唆した)


帝国議会と協約らしいことなどできていないままの曖昧な西方教会の公的教義体制で、一党的に足並みを揃えてきた今までのキリスト教社会のあり方に、マクシミリアン1世がテコ入れを始めたことは、ドイツはドイツ、ネーデルラントはネーデルラント、スペインはスペイン、イタリアはイタリア、フランスはフランス、イギリスはイギリス、ポーランドはポーランド、ハンガリーはハンガリーと、今までされなかった多様国際社会的な異環境間の基準も、これからは許容していくことを遠回しに示唆したのである。

 

今までキリスト教社会(の上級貴族たちや高位聖職者たち)は、キリスト教という表向きの足並みで仕方なくそこを曖昧にしてきたのも、いい加減に限界にきたために、そこを明確にせざるを得ない状況になってきたというのが正確になる。

 

国際交流社会の基準を、多様社会化に合わせていったん個々重視に統計的に見直すことにし、今までの強国(格式)主義的な領有権闘争も改めていくという姿は、弱体化という言い当て方は全く的確ではない。

 

聖属議会(教皇庁・公的教義体制)にせよ世俗議会(帝国議会)にせよ、キリスト教国家として一党的にまとまるのことなどろくにできていなかったのを、今まではそれがさもできていたかのように虚像の体裁で見せかけていただけで、今までそこをうやむやにグダグダに続けていたに過ぎなかったのも、限界に来ていたのである。

 

人文主義(多様社会化)を容認してしまったマクシミリアン1世がとうとう正直に、今までのキリスト教社会をニセモノの姿を「敷居向上できもしない性善説(=ただの劣悪性癖)」と見なして対策に動き始めてしまった訳である。

 

カール5世が皇帝に就任した時点でフランス王室はもはや、等族諸侯の身分統制権(皇帝権)を巡る格式争い自体がもう時代遅れと思いながら、スペイン・オーストリア王室と「皇帝権を巡る格式争いをしていたという、最後の既成事実作り」という認識だったといってよい。

 

どうあがいてもフランス王室は、スペイン王室(ハプスブルク連合)の、キリスト教社会全体の絶対君主的な家格は絶対に超えられないことは、それは全ての王族が内々では理解し、今まで通用していた家格争い(身分価値)の理由(敷居・基準)は終焉させることになった。

 

要するにマクシミリアン1世は、

 

 「今までできていなかったキリスト教国家の全ての代表格を肩代わりすることを、今度こそカール5世の時代のスペイン・オーストリア王室がそれを実現するのと共に、それをするのもこれを最初で最後にする(キリスト教国家として、それを自分たちでできた証明は、それで十分とする)」

 

 「だから、カール5世の時代まででキリスト教社会全体としての改革(意見受理)は締め切ることになるだろうから『ああしておけば良かった』ということにならないように、キリスト教社会全体の議決としての今までのわだかまりの争和はこの期間(カール5世時代まで)に悔いのないように全て済ませておけ(=多様社会化が進めば皇帝権にせよ叙任権にせよ肩代わりできなくなり、今までとは違う争いを国家間でしなければならなくなる時代になるから、それに備えてそれぞれ敷居向上しておけ)」

 

と、まさに17世紀以降に備えた的確な先見性を以ってマクシミリアン1世は準備していたことを、下々はすぐには理解できなかったが、各国の上級貴族たち、高位聖職者たちの間では当然理解していたと見て良い。

 

弱体化ではなく、今まで表向きまとまりがあったかのようにごまかし続けてきた、しかし実際は専制力など知れていた、できもしない皇帝権(帝国議会)や叙任権(聖属議会)のあり方がとうとう正直に見直されたというのが、正確になる。

 

マクシミリアン1世が賢明だったのは

 

 「カール5世の時代で、キリスト教社会全体としての帝国議会の時代はこれで最初で最後になるから、その足並みでなんとか合わせるのもこれで最後とし、後はそれぞれなるようにせよ」

 

と、ずっとその体制で長続きするかどうかも解らないことも考慮し、「カール5世の時代までは」と期間を限定することで次代たちを縛りつけようとしなかった先見性も、非常に優れていた所だったといえる。

 

渋々にカール5世を新国王として受け入れたスペインも、マクシミリアン1世の意向の、皇帝の本来の姿として、

 

 今までできていなかったキリスト教国家全体の絶対君主(国際的な総裁)としての議会体制が、自分たちで整えられたという具体的な既成事実作りをしておかなければならなかった

 

ことは自覚できていた、だからスペインは不満も多かったものの、カール5世が亡くなるまではやむなく我慢していたのである。

 

資本市場の話もしたかったがまた文字制限になってしまったため、今回はここまでとする。

 

次も、まずはカール5世の時代の資本市場はどのようなものであったのかを説明し、それを準備しておいてくれていたマクシミリアン1世は、どのような計画だったのかの話をしていきたい。