近世日本の身分制社会(110/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか38/?? 2022/11/06

前回は16世紀の教義面(裁判権改め・等族指導・身分再統制)のアウクスブルクの話が中心だったため、今回は経済面のアウクスブルクの特徴を説明していきたい。

まず、皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公)が、すぐ北隣のバイエルン州のアウクスブルクの伸び盛りの様子に早い段階で着目し、積極的に文化交流に努めるようになったこと、その傾向は先代のフリードリヒ3世(マクシミリアン1世の父)から節が見られた、その説明の続きになる。

 

皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公)と、アウクスブルクのヤーコプ・フッガーがどのような関係だったのかも非常に重要であるため、その説明に入りたい所だが、それまでの時代背景(社会心理)が解っていないとそこを把握することも難しくなる。

 

しかしその説明に入る前に、皇帝フリードリヒ3世の時代の15世紀後半はどんな時代だったのか、何度か説明してきたことだったとしても、それまでの経済史的な西洋の事情を今一度、整理しておきたい。

15世紀後半には、ポルトガルの航海事業による、アジア方面の交易品と世界間情報がもたらされるようになったこと、また資本家たちの遠隔地間商業の交流も顕著になったこと、さらにタクシスの郵便事業や、グーテンベルクの印刷技術研究がきっかけの出版事業の隆盛で、西洋中が多様的(=人文的=全てひとまとめに従わせ合うのではなく、個々の目的の債務範囲の敷居を尊重し合う=細分化社会的=自力信仰的な情報社会化・労働社会化が進み始めていた時代になる。

ジェノヴァ人(イタリア人。リグリア州出身者たち)などは、当初はヴェネツィア共和国と東西貿易の優位性を競うも、結果的にはうまくいかなかった代わりに、イベリア方面(スペイン・ポルトガル)に目をつけ、そちらとの遠隔地間商業網を優位に確立するようになるが、こちらの動きは14世紀から早くも目立つようになる。

 

つまり、中間層(貴族側ではない、都市の庶民側の有力者・資本家たち)の間での、地域ごとの今までの狭い情報視野(敷居確認)のままの旧態慣習を、取引網の拡張のための多様的交流によって壊し始めるのは、14世紀から見られる動きになる。

都市の地元有力者との間での、遠隔地間の交流網が作られ始め、庶民政治的な資本力が構成されていき、相互の地域貢献も含める貴族特権も巻き込んだ協約(シンジケート)が作られていくという、そうした得意先との交流網が15世紀には目立つようになっていたのである。

 

一方で15世紀までの教義権力(公的教義体質)といえば、皆が愚民(低次元)のままであり続ければ良いといっているに等しい

 

 「それぞれの層で横並び(旧態のままの社会観=旧態のままの身分制議会)に足並みを揃えていればよい」

 

で一方的に落ち度狩りして罰すれば(議決性など皆無な頭の下げさせ合いをしていれば)良いとしていただけの今の日本の文科省とやらと同じ

 議決性(人間性・当事者性=和解を前提とする敷居確認の示し合い=等族指導の手本)など皆無な時代遅れの愚民統制観(低次元な身の程知らずが叙任権を握り続ける=身分統制権を握り続ける=教義権力=寡頭主義)の植え付け

がいつまでも繰り返され、文化面でも経済面でも一向に法(議会・社会観念)の見直しがされていかないまま、時代に全く対応できていない教義権力(総偽善)で、ただ足並みを揃えさせることばかりが、それまでは続けられてきた。

 

だから何ら議決性(等族議会制の更新・社会的地位の身の程の敷居の仕切り直し)がされないまま、中世(寡頭主義の押し付け合い)の乱世をただ助長するばかりだった。(大空位時代・教会大分裂時代・叙任権闘争時代が顕著)

 

事情は何でもいいから、誰でもいいからとにかく上(王族や上級貴族たち)がそこを整備してくれなければ(等族義務の手本=教会改革も含める議会改革を、誰かが果たしてくれなければ)、文化面でも経済面でもいつまでもその先の進展はなかったことに、貴族層も富裕層(豪農や有力市民たち)もそこにウンザリするようになっていたのである。

 

中世の乱世による崩壊劇の、自分たちの愚かさ・だらしなさの体験もあったからこそ、15世紀人文主義(他力信仰一辺倒の教義権力の威力任せの旧態身分体質への疑問の、自力信仰不足の対応)と、それと似た原点回帰(リナシタ。イタリアでの教義の見直し)運動が芽生えるようになった。

 

都市の有力市民同士の遠隔地間商業の間にいた、その協約に囲い込まれて文化的な交流網に参加するようになった特権貴族層も、旧態のままのキリスト教社会の見方も、その多くが15世紀後半にもなると形ばかりの面従腹背と化していたのである。

 

今の日本の低次元な文科省とやらと同じ、議決性(自己等族統制)を放棄し合っているだけの教義権力(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有=敷居確認の等族義務をただ放棄させ合うための、ただ低次元に失望し合うための人格否定)の手口(敷居確認など皆無な旧態身分制社会)など、少なくとも上(特権貴族層)の間ではいい加減に通用しなくなってきていたのが15世紀後半には顕著になっていた。

14世紀にも都市間の交流自体は顕著だったが、それまでは等族諸侯間(都市の市政間)が中心で、取引の際の関税や先付けの代替条件も、それまでは有力市民の単位(商人団の単位)ではなく、等族諸侯の単位が中心で行われていた。

まず中世前半(12世紀~13世紀)に、各地の農・工・商それぞれの物的経済が急発達を見せるようになると、新たに興(おこ)る今まで無かった権益に、教義体質(聖属権力側)も議会体制(世俗権力側)もそれに全く対応できなくなっていき、上から下までそれに群がるように奪い合いと蹴落とし合いばかりに一生懸命になり始めていった所は、日本も西洋も共通している。

 

ここは日本の室町の高度成長期(3代将軍足利義満の時代がきっかけ)以降も同じく、それで荒れる一方となり、それまで中央を経済的に支えていた、旧態のままだった荘園公領制が完全崩壊した姿と共通点が多い、避けて通れない崩壊劇だったといえる。(後述)

15世紀以後も、揉めながらでも農・工・商が今一度、再生されるようなった過程には、14世紀の教訓が活かされながらだった、すなわち今までの教義権力(公的教義体質・聖属権力)を遠回しに疑い始める人文主義と原点回帰(リナシタ)運動が芽生え始めたのが特徴的な時期だったといえる。

今までは見られなかった、都市の有力者たちの資本政治的な商人団(コンパーニュ。カムパニーの語源と思われる)が協約的に形成されるようになったことからも窺えることとして、

 

 いつまでも世俗政治的(現世的)な議会整備が進まなかったからこそ、資本家たちが地域ごとの貴族層を抱き込む形で、今まで見られない条約(シンジゲート)を作り始めるようになった

 

ことが、突き上げ的な議会整備(身分再統制)の催促になっていたといえる。

今までは聖属議会(ローマ・教皇庁・公的教義の頂点)の都合をただ絶対としていれば良いとしていただけの、地域ごと(異環境間)の事情など完全無視の、つまり多様性(人文性)など皆無な押さえつけ方を資本家たちが良い意味で面従腹背で無視し始め、地域同士の教区の都合単位で外来との交流網を築き始めるようになり、その取引網と関係してくる貴族特権を協約(資本的政治力)で囲い込むことが顕著になる。

農・工・商の発達に見合った法の整備が、13世紀の時点で全く間に合わなくなっていたことが目立ち始めていたことは、その頃には各地で司教都市(教義権力・公的教義体制による支配)から自由都市(皇帝都市=司教権威による都市の議決権を、帝国議会と交渉しながら譲渡し世俗権威化)への鞍替えが顕著になったことからでも、明らかだったといえる。(派閥闘争と絡んで西洋中で大揉めした)

 

聖属議会の権威(公的教義・教皇庁・教義権力)中心の政治(身分制議会)から、世俗議会の権威(帝国議会・皇帝権)による等族諸侯(身分制議会)扱いの切り替えの流れ自体は、13世紀から始まっていた。

これは、16世紀にフランス王室側がオーストリア・スペイン王室側(帝国議会側)に対する格式の張り合い(それにフランス側も切り込んでいたという既成事実作り)に一生懸命だった流れとも関係している。(順述)

自由都市(皇帝都市)への鞍替えの初動では、近世に向けた議会も大して育っていなければ、カール5世のような「キリスト教徒の王族の全代表」といえるような強力(圧倒的な家長格式)といえる王位継承者(等族議会制の必要に応じて議席権をいったん返上させられるだけの総裁=仕切り直しのための絶対王政君主)もいなかった。

 

教義権力(寡頭主義・ただの指標乞食主義の煽り合い・ただの劣情の煽り合い)議決性(等族主義)をうやむやにされ続けてきた中世は、王族間同士は力関係にしても社会観念の発想にしても全て横並びの権力均衡(他力信仰一辺倒で世俗議会側をただ押さえつけるのみ)のままだったからこそ、頂点(実質の議会の総裁・最終議決権)が誰なのかをいつまでも自分たちで国際的(議会的)にはっきりさせることができず、何かあるごとに奪い合いと蹴落とし合いしかしていない派閥争いの乱世となって大荒れすることになるが、ここは日本でも同じ歴史経緯的(社会心理的)な通過儀礼だったといえる。(15世紀でも荒れるが、13世紀~14世紀は特に荒れた)

14世紀に大荒れした中で、突如として大黒死病(大ペスト)が襲ったことで、中世の教義体質(寡頭主義)では、何ら議決性の構築の手本にもならなければ何の救済にもならなかったことも具体的となり、教義崩壊の決定打となった。(大空位時代と教会大分裂時代)

今の日本の低次元な文科省とやらと全く同じ、教義権力(寡頭主義=議決性をうやむやにし合うための指標乞食主義=ただの劣情共有の愚かさとだらしなさの化けの皮がいよいよ剥がれる形で、今までのキリスト教社会のあり方に大いに疑いがもたれ始めながら、15世紀を迎える。

 

15世紀には資本力を身につけるようになった有力市民側が、土地所有貴族(伯爵・カウント)ら特権貴族層や、都市貴族(パトリシア。厳密には貴族ではないが貴族層との交流をもっていた庶民側の権力者たち。都市の貴族風紀委員会たち)から

 販路としての物資運搬や、倉庫や市場(売店)などの設置の許可(有利な優先権・通行権や、関税の交渉など)を得る

代わりに代替取引として
 

 特権側も得する条件の徴税請負などの、期間特権契約を結ぶ

 その領内・管轄内の街道整備(宿場の新設や新たな道路工事)や治安等の施設の拡張などを資本家たちが請け負う

 その領内・管轄内で貧窮している貧困層に、衣食住を手配する福祉事業を請け負う

 それと関係する教区の神学校、修道院、礼拝堂の、補修や備品や人件費、祭事費のための予算を献納する

 文化的な教義貢献に人々に関心を向けさせるための学会の設立や、宗教画や彫刻物の展示会などの手配を請け負う


といった地域密着の政治活動が顕著になる。

15世紀にはポルトガルが好例だったが、国を挙げて造船、航海技術、航路の研究・開発に熱心になり、アフリカ西部の海岸沿いやその西側の島々での殖産事業に成功し、砂糖他の人気商品の輸出で国力(特に船舶力は目覚ましかった)を増強するようになったように、異環境間の壁に風穴を通すような外来の資本家同士の交流の資本提携が目立ち始めていた。(ジェノヴァ人たちの活躍が顕著だった)

14世紀までの、何ら議決性の構築にならない派閥闘争の繰り返しが少しずつ教訓にされながら、揉めながらでも異環境間の交流の見直しが意識された人文主義や原点回帰(リナシタ)運動の下地が形成されていった期間が、15世紀の特徴でもある。(ペトラルカやボッカッチョの社会風刺文学が、のちの人文主義を手助けすることになる)

15世紀も、厄介な争い事や、疫病、天災(水害、日照り、麦角菌)による飢饉などの苦難は続くが、しかし14世紀と比べればいくらかは対策できるようになり、皆が生活苦に追われて忙しい中でも14世紀と比べれば15世紀には少しは余裕を人々ももてるようになった。(資本家たちの地域貢献の支援が大きかった)

今まで西方教会圏は、ロシア正教圏やイスラム教圏、アジアでは中国大陸側に大きく遅れをとっていた世界交流情報も、15世紀後半にはポルトガルがもたらすようになったことも、今までの自分たちの情報社会がいかに時代遅れで狭い了見しかもてていなかったかを思い知るきっかけにもなった。

そんな頃に、今までなかったタクシス家による優れた郵便事業が登場し、さらにグーテンベルクの印刷技術も進んで各地に書店ができ始めるほど出版事業も隆盛する形で経済再生が見られるようになると、キリスト教社会の情報交流の事情も急変するようになる。

今までろくに対策できていなかった貧民救済の福祉事業の取り組みも、15世紀後半になってやっと重視されるようになるが、それらは遠隔地間の交流のために地域貢献のし合いを政治的に(特権貴族層と連携的に)するようになった、それができるだけの資本家たちが出現し始めたことが、大きなきっかけだったのである。

良い意味で教義・経済の交流もどんどんややこしくなっていき、上同士もいつも派閥争い振り回されがちだった中でも、しかしかつての低次元化(議決性の皆無化)の乱世に逆流させないよう、いい加減にその整備もキリスト教徒たちが自分たちで明確化(等族議会化)していかなければならない危機意識が、キリスト教徒たちよりもそこが進んでいたイスラム教徒側(オスマン帝国側)の脅威も手伝って、もたれるようになった。

 

そんな中でカール5世という前代未聞の王権の大継承者(オーストリア・ネーデルラント・カスティリャ・アラゴン王族連合の家長。ハプスブルク家)を新皇帝に仰ぐ形で、中世までの弊害(寡頭主義・教義権力)一掃(格下の聖属議会側は、格上の世俗議会側に従っておれ!)の議会改革(身分再統制)に動かれることになる16世紀を向かえる。

そんな時代になってきていた中でのカール5世の存在は、帝国議会(皇帝権=キリスト教社会の全総裁権による公式な意見回収整理と最終決議)の仕切り直しの象徴であることが強調されながら

 「今まで聖属議会側(公的教義体制)が仕切ってきた(教義権力を握り続けてきた)旧態慣習(教義権力・寡頭主義)ではもはや、ろくに対応できなくなってきている時代に突入している」

と、今の日本の低次元な文科省とやらと同じ、自分たちの愚かさ・だらしなさを自分たちで議会改革(人事改革・身分再統制・自己等族統制)できたことがない、自分たちで敷居確認・向上などできたことがないのと同じ、すなわち

 

 和解(敷居確認)を前提とする議決性 = 人文性(道義性=多様性)啓蒙性(社会性=合理性)の品性規律があるといえる議事録処理 = 敷居確認のための社会的説明責任・国際的指導責任の手本( 等族義務 = 身の程を語る資格 )の示し合い


うやむやにし合う教義権力で足並みを揃えていてもごまかせた時代もはや終焉していた。

 

経済・情報社会の多様・合理化への対応にしても、イスラム教徒側からの脅威への対応にしても、聖属議会側(公的教義体質)では何ら改革などできなかった、だからキリスト教社会に危機感がもたれる形の人文主義(他力信仰一辺倒への疑問運動=自力信仰不足の喚起運動)が台頭するようになったのである。

遠隔地間商業の資本家たちの間にいた特権貴族たち(土地所有貴族ら)も、旧態のままの教義権力の規制(身分制)をただ厳守し続けているだけでは、いつまでも自分の所の領内・管轄内に対する等族義務(改善・救済運動)も果たせなかった、だから資本家たちと一緒に遠回しに慣習破りする形で協約提携し始めた、だから良い意味で上の間での身分制度も崩れ始めるようになったのである。

15世紀末にはすっかりその色が濃くなってきていた中、上からの身分再統制(上から、特権貴族側からの、時代に合った等族義務=公務吏僚の手本の再確認=議会改革)に乗り出さずにモタモタやっていたら

 

 「イエス様が案内してくれた神よりも資本家の方が偉い、どの議会もどの教区も資本家より格下の、全て資本家のただのいいなりの新社会」

 

ができあがってしまうことになる。

教義権力など化けの皮がただ剥がれるのみになった一方で、資本台頭が全てであるかのような、等族議会制とかけ離れていくかも知れない社会観念がどうにもできなくなるほどできあがってしまった後に対策しているようでは、中世の暗黒時代に逆戻りしかねないことは、貴族側も資本家側も、中世の教訓があって産業社会を再生してきたからこそ、その危うさも解っていた。

資本家たちとしても、揉めながらでも中世での教訓が活かされるようになったからこそ、ただ我欲的に台頭すれば良いという訳でもなく、また教義権力からのいいがかりをかわすために、だから人文主義やリナシタで足並みを揃えながら

 

 「教義権力側(公的教義体制側)に何もいわれなくても、あなたがたが今までしてこなかった地域貢献・救済活動の出資によるキリスト教同士の助け合いというものも、我々は自主的に積極的に行っている」

 

 「地元の市参事会、教区(聖堂参事会)と修道院長たち、近隣の特権貴族にも、品性規律的(議会的・協約的)な理解を得られた上で、我々は経済活動をしている」

 

といい返せるかどうかが意識されるようになった。

 

地域ごとの教区も、神学校や修道院の補修、敷地の道路整備、また貧困層の救済にも出資してくれている資本家たちのことは、当然のこととして「彼らは良きキリスト教徒の友」と便宜するに決まっているのである。

下から(貴族層でない富裕層側から)のそうした突き上げが顕著になっていた西方教会圏は、一方では大きな競争相手であったオスマン帝国(イスラム教国家)の方が、明らかに等族社会化(国際社会化)が進んでいたことをキリスト教徒たちは見せ付けられる一方になってしまっていた、だから全体的な教会改革への危機意識ももたれるようになった。

もうモタモタと逆戻りしている場合ではない中、時代錯誤ばかり起こしていた教皇庁(ローマ)に皆が失望させられるばかりで、いつまでも議会的(国際的)にまとまりがなかったキリスト教徒たち(特に上同士では)は、15世紀末にはいよいよあせるようになっていたのである。

だから特に、カール5世という今までになかった強力な王権を有した継承者を改めて皇帝(総裁)として仰ぐ形が整えられ、これを以って教義権力(聖属議会)よりも格上の絶対王政的(当時の集権化の見直し的)な総裁(世俗議会)による等族議会化の方針を整えて

 「これからは聖属側(教義側)のことも全て世俗議会側(等族主義)中心の、議事録制度・謄本登録制度・支配下登録制度の身分再統制(議会改革=上としての等族指導の基準改革)で仕切り直すことにする!」

 「議決性(和解を前提とする敷居確認の議事録の示し合い=法治国家の品性規律)など皆無な、特に教義権力(寡頭主義=ただの老害主義=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)のような愚かさ・だらしなさにただしがみついているだけの低次元な叙任権闘争(虚像の勧善懲悪の押し付け合い)の手口の繰り返しで、逆戻りしている場合ではない!」

と、今までの深刻な諸問題(寡頭主義の植え付け政治=低次元な破門と戴冠式的手口の虚像の押し付け合い との決別)にいよいよあせる形で、上からの本格的な対策(身分再統制)に乗り出された。

上の間では「もうそういう形にしていかなければ」という深刻さがもてていた、だから身分再統制の基準を巡って上同士で険悪になることはあっても、その方向性(議会改革)は一致していた。(のちの皇帝カール5世とザクセン選帝侯モーリッツの対立が顕著)

つまり、新基準(身分再統制の敷居)を巡って賛否両論になっても、キリスト教国家全体としての国威・格式といえる等族議会制(国際的な品性規律)に沿わなければならないという認識自体は、少なくとも上同士ではできるようになった。

ここは日本も同じ、今まで曖昧にされ続けてきた聖属権力(寡頭主義)世俗権力(等族主義)の大幅な仕切り直し(裁判権改め・家長権改め・議会改革・政権を通さずに正しさを乱立させ続けようとする閉鎖有徳の取り締まり)の明確化(身分再統制=公務吏僚体制の仕切り直し)を、自分たちの国家の問題として自分たちでいい加減に議会体制(政権体制)を以(も)ってそれを整備しなければならなくなってきた法(国際社会観)の近代化の前身を、人類はとうとう16世紀(織田政権時代)に迎えることになったのである。

15世紀末にそこを深刻に受け、次代たちのためにその流れを作っておいてくれたのが、かなり先見性があった先代皇帝のマクシミリアン1世で、アウクスブルクもその流れに大きく関係することになったという所が、本題の部分となる。

カール5世(の重臣たち=オーストリア・ドイツ筋、ネーデルラント筋、スペイン筋の上級貴族連合)が中心の、ドイツ側の帝国議会の改革的な動きは、前皇帝マクシミリアン1世の時にその準備が顕著に窺えるようになった、だからその頃から慌て始めたフランスの事情も、順番に説明していきたい。

一方で、中世までに上(貴族層)が永らく、渋々に教義権力(公的教義体質・他力信仰一辺倒の寡頭主義・愚民統制)の旧態慣習(従わなければ地獄に堕ちる)に足並みを揃え続けてきた弊害として、下々は今までそれで徹底的にうちのめされ続け、横並びの足並みを揃えさせられ続けてきた、だからその新時代に入ったことを下々に伝えることも簡単ではなかった。

救済活動が全てに行き渡っていた訳ではない中で、今まで生活苦への余裕も意欲的な関心もろくに与えられてこなかった貧困層に、等族社会化に切り替えられる時代に入ったことを理解させるのもひと苦労なのである。

15世紀後半からは、ネーデルラントでは人文主義会(自力信仰不足への見直し)が、イタリアでもそれに似たリナシタ(原点回帰運動)が目立ち始めるようになり、ドイツでもその気運が見え始めていた。

キリスト教社会のこれからの教義のあり方について、市政議会の枠を超える騒ぎに過熱するものでないなら、市政が公認している人文主義会なら、もう聖職者でない誰でも所属してその枠で議会的(議事録的)に意見整理し合ってもよいという風潮(遠隔地間の資本家たちの地域貢献がきっかけだった)ができていき、今まではそれを規制してきた公的教義側も、黙認するようになっていた。

繰り返すが、中世までの教訓が活かされる形で、遠隔地間の資本家たちが貴族特権を巻き込んだ地域貢献(貧民救済や教区設備の献納)にも向き合うようになった、それで旧態慣習の身分制(人事観・社交観)も良い意味で崩れ始めることになったことは、人文主義会が構築されるようになったことも、貴族特権を抱き込み始めた商人団の協約も、その多様化社会の姿(なんでもかんでも規制し合うことが本当に健全なのかの社会問題に真剣に向き合う姿)がまさに象徴的だったのである。

そんな流れになっていたからこそ、皆に教会改革(キリスト教社会のこれからのあり方)の関心を向けさせる好機だとマクシミリアン1世が、ドイツでの人文主義会とラテン語学校の設立を急ぐようになった。(ネーデルランドでのその手本をドイツに持ち込んだ)

マクシミリアン1世(カール5世の祖父)は様々な予測ができていて、自身が亡くなる 1519 年までに、カール5世(マクシミリアン1世の孫)が皇帝を引き継ぐまでにかなり準備してくれていたことが大きいが、この時期が強調されてこなかったこととして紹介していきたい。

マクシミリアン1世が、教義文化面でも経済面でも有望だったバイエルン州の都市アウクスブルクに目をつけ、ここがのちにカール5世時代の帝国議会の国庫役として、フッガーを中心にその大変な金融処理を支えさせることになっただけでなく、結果的に教義問題を巡る「アウクスブルク宗教和議」の舞台にもなったのである。

マクシミリアン1世の懸命な帝国議会の立て直しの計画にアウクスブルクも大きく関係することになった、だから16世紀のアウクスブルクの様子を知ることは重要になってくる。

マクシミリアン1世の時代に、アウクスブルクのフッガー銀行が、今まで見たことも聞いたこともない国家銀行体制が急に形成されたために人々に大いに驚かれるが、これ自体がもはや計画された国策であったと見てよいことも、これまでろくに説明されてこなかったこととして、その経緯(社会心理)に触れていきたい。

このフッガー銀行の存在はまさに、当時のキリスト教社会全体が「その内に資本戦争に暴走し始めて、制御不能に低次元化」ということにしない目的も含める、つまり国家(帝国議会)が資本全体を管理できなければならない時代になってきていた、しかし今までそんな体制など構築されてこなかった中で先見的に形成された、だから当時の人々も今まで体験したことがない、急出現したフッガー銀行(と、しばらくして作られる証券市場)の強烈な印象に、それだけ困惑することになった。

フッガーは企業家として商業全般に優れていたのは間違いないが、フッガーの銀行業、鉱山・精錬業、貿易・証券・国営取引・徴税請負、福祉事業と、多方面に急成長していった当時の規模も異例もいい所だった。

フッガーは、表向きは勝手に台頭していったように世間は見えただけで、実際はマクシミリアン1世が計画していた経済戦略の後押しで形成されていったものだったと見てほぼ間違いない所が、これまで指摘されてこなかった所になる。

当時注目されたヤーコプ・フッガーも、その次代のアントーン・フッガーも、今まで見たことも聞いたこともない巨額を扱うようになったことに、上の事情をよく解っていなかった下々からはその強烈な印象だけで想像を膨らませた流言が蔓延したが、この2名はカネの力で威張り散らしたり、欲ボケで暴走するなどといった様子などは全く見られない。

思い上がって調子に乗っているような暇などなかった、前例がない膨大な債務書類の、異様な規模の帳簿管理の大変な対応に追われる日々だった、その重責はフッガーでなければとても無理だったといってよかったのが実際の所である。

現代のように電話やインターネットを使ったコンピュータ処理などできなかった当時に、前例のない等族諸侯たちの多くの口座管理と複雑な広域間の送金業務(為替、両替え)を見事にこなし、また次々にくる無理難題の借り入れ要求に何とか対応しなければならないという、その使命感に苦労している様子が、その優れた帳簿の整理力・情報処理能力から窺える。

マクシミリアン1世が次代たちのため(キリスト教徒全体のため)にどんな議会体制を敷こうとしていたのか、才覚を見込まれたヤーコプ・フッガーがその大変な計画に理解を示し、今後の帝国議会を支えるための前例のない資本管理の体制を、使命感をもって請け負うことになったというのが真相だったと見てよい。

この事情は、まだ法が近代化していなかった、やっとその入口に到達した16世紀初頭だったからこその、この部分は日本の江戸時代の徳川政権でも同じ苦労をするようになる「賦役・普請問題(ふえき。ふしん)」の事情と共通している話のため、そこも順番に説明していきたい。

そういう所も議会的に管理できなければならなくなってきていた、今までなかった国家銀行、国債発行、証券市場の構築もしていかなければならない時代に入っていた。

16世紀前半のマクシミリアン1世の優れた先見性は申し分なかったが、この流れで16世紀中盤にいったん金融・証券市場が大規模化するものの、これは結果的には長続きせずに16世紀後半に崩壊に向かってしまうことになる。

証券(資本)市場が、スペイン、ネーデルラント、ドイツ間で大規模に結び付けられて大盛況したまでは良かったが、これが16世紀末までに大きく破綻・崩壊して以後、この資本市場の再びの外国為替規模の成長は19世紀まで待たれることになる。

つまり、法(社会観念・議会体制)がやっと近世化したばかり(近代の前身になったばかり)の当時に、実際の対応は19世紀にならないと難しいような近代的な金融観念が持ち込まれてしまったために結局対応し切れなかった、ここも避けて通れなかった歴史経緯(社会心理)だったといえる。

キリスト教徒たちから西洋の事情を積極的に聞き入っていた織田信長は、こういう所も把握していたのではないかと筆者は見ている。

 

まだ前例がない中で大規模な証券市場を作ったものの、維持できそうにもなく終焉に向かいつつあった 1570 年代当時の西洋の様子に織田信長は「それは極めて貴重な事例だ!」と国威・格式の競い合いの観点で、スペインでの教訓と一緒に日本にもちこみ、日本における世界証券市場まで織田信長は計画していたのではないかと、筆者は見ている。

 

キリスト教を今後日本を公認していく以上は、向こうの事情も当然のこととして国際的に把握できなければならない、それが政権としての等族義務(次代たちのためになる手本家長の務め)だと織田信長は、そこに熱心だったのは間違いない。
 

プロテスタントたちでも、イスラム教でもロシア正教でも、もし全て受け入れる形で敷居の高い国際社会交流(世界文化的な取引と情報の交流社会)を目指すのなら、すなわちそこまでできる日本を見せつけることで格式の高さを示していくのなら、まずは手始めに

 「これからの国際社会(世界情報・技術交流の社会)時代は、キリスト教徒を受け入れることくらいできていて当然、その最低限の人文性(多様性)啓蒙性(合理性)の処理能力くらい政権(議会)が示せて当然」

だと、それこそが上の等族指導責任だと、織田信長は中央で恫喝(敷居向上の手本の示し合いを)していた。

開かれた国際社会観(向こうの大航海時代)になってきていたからこそ、それにどう国策的に対処していくのかを、本来は聖属議会側(朝廷側・国内教義の管理人・外交大使の選出役)がまとめなければならなかったのを、ろくにまとめることもできなくなっていた。

ここは、日本でも西洋でも、当時でも現代でも「所詮は人のやること」として同じである。

 

たかが日本の神道・仏教社会と西洋のキリスト教社会のさや取り(互いの良い所を導入し合い、互いの悪い所を捨て合う敷居確認)もできない、その人のとしての最低限の議決性(自己等族統制)ももてていなければ、その自分たちの愚かさ・だらしなさの深刻さも自分たちで解決できたこともない、旧態権力(寡頭主義=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)にいつまでもしがみつき続ける身の程知らずの国家のお荷物の法賊(偽善者)どもほど、国際的な議会改革(身分再統制)に迫られる事態に直面した時に、

 ただ自分(古参・上)たちに甘く、ただ外(新参・下)に厳しいだけ

 

 議決性(和解を前提とする敷居確認の示し合い = 時代に合った人文性と啓蒙性の整備力)の手本など皆無

 

 上から順番に厳しく懲罰処分(格下げ)されて当然の、ただ旧態教義権力(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)にしがみつくことしか能がない、身の程知らずのだらしない法賊(偽善者)ども

の、その自分たちの愚かさ・だらしなさの実態の化けの皮が、ただ剥がれ落ちていくのみなのである。


教義権力が通用しなくなれば(巻き上げられたら)何ら対応できない寝言(ただの指標乞食主義)と泣き言(ただの劣情共有・失望し合い思考停止し合うための従わせ合い)をただ見苦しくほざき合うことしか能がない法賊(偽善者)どもが、いつの時代も足をひっぱろうとするのが、社会心理的(歴史経緯的)の教訓のである。(韓非子や孫子の組織論として、優劣差・勝敗差になってしまう指摘)
 

その化けの皮がとうとう一斉に剥がれていったのが、開かれた国際社会観(異環境間の敷居確認)の受け入れを始めてしまった織田政権の存在だった、すなわち

 それができるだけの公務吏僚体制(議会体制)まで改革構築(身分再統制)できる、格上の高次元側(本物の手本家長)



 自分たちで敷居確認(議決性の構築=等族指導の手本の示し合い)できたことがない、低次元な頭の下げさせ合いしかできたことがない自分たちの愚かさ・だらしなさも、まず自分たちで解決(改革・再統一)できたこともない

 

 その基本中の基本の最低限(国際人道観)も自分たちで構築できない、その時点で公務公共(人文性・多様性と啓蒙性・合理性)を裁定する資格(身の程を巡る品性規律の手本)などない、そのことで人に怒り(格下げ)を向ける資格などないはずの身の程知らずの格下(偽善者)ども

との器量差(等族議会制の整備力差)を織田信長によって、少なくとも上同士ではそこをもはやいい訳無用に明らかにされてしまったのである。

こうした意識差が、世俗議会側(織田政権側)と聖属議会側(朝廷側)とであまりにもかけ離れるようになったことが、本能寺の変に特に結び付いたというのが、筆者の意見となる。(この件も後述)


歴史研究は近年になっても、日本の事情(それまでの神道・仏教の自力信仰一辺倒社会)と西洋の事情(それまでのキリスト教の他力信仰一辺倒社会)とで相関的に近世化(等族主義)の様子を把握していくという大事なことが、どういう訳かこれまで全くされてこなかった。

双方を相関的に整理し、当時がどんな時代だったのかをより把握することで、今まで見えていなかったことが何だったのかに気づかされる手がかりにもなると、筆者が強調していきたい所になる。

近代の前身を見せるようになった近世の資本市場の視点に戻し、こうした流れは日本の江戸時代でも共通している部分になる。

農・工・商の法(社会観念)の発達は、物理学的(精度の高い重力や測量方法などの数学・科学・天文観測など)な近代学術的な発達とも比例しながら形成されていくことになる。

近世(社会観の敷居確認の等族社会化)からは特にそこが目立つようになり、今まで思っていた社会観念とその実態とで、だいぶ違っていたことを知るという、その文化的な体験で人々も動揺することも多くなった。

そして、その多くは法の次世代化(議会改革・自己等族統制)ですぐに対応できず、その分だけその啓蒙性(合理性)をうやむやに潰し合ってしまうことも近世には目立つようになるが、この傾向は現代での個人間・組織間・国家間でもありがちな社会心理になる。

西洋での食糧事情を大幅に改善する助けとなった、最初は花としての価値しか見なされなかったジャガイモの扱いが17世紀になってやっと向き合われて、18世紀に賛否で揉めながらもようやく国策として実質され始めたことなどはまさに象徴的といえる。

法が近世化(等族社会化)したからこそ、せっかく啓蒙的(合理的)な学術が出現するようになっても、いつまでも有効活用されるに至らないチグハグさも現代以上に顕著だったのが17世紀から19世紀前半までの特徴といえ、16世紀に大ナタが振るわれた近世初頭も、現代でも大いに教訓にできる期間といえる。
 

旧態慣習を克服することは、皆が思っている以上に時間がかかる深刻なものであることが、近世を基軸とする教義史・裁判権史・議会史から窺える、大事な部分なのである。

話は戻り、マクシミリアン1世は、才覚は申し分なかったアウクスブルクの有力市民ヤーコプ・フッガーに目をつけ、人事的に抜擢し、後押ししながら急いで帝国議会を支えさせるための大銀行の形を整えさせた、というのが実際の計画の筋書きだったと見てよい。

マクシミリアン1世とヤーコプ・フッガーの関係に触れていく上で、まず王族と有力市民の当時の背景的な関係についてから触れていきたい。

商業交流で賑っていたインスブルック(オーストリア西部。ティロール州)の、その近くの都市シュヴァーツ(ティロール州)では、鉱山開発(ハプスブルク領)で栄えていた。

ティロール州(チロル州)は鉱山資源が豊富で、同州のハル塩鉱や、また当時はオーストリア南部の扱いだったイドゥリア鉱山( 1497 年に豊富な水銀鉱脈が発見される。オーストリアとクロアチアの間の都市イドリア。現代はスロベニア国)なども、オーストリア大公(ハプスブルク家)にとっての貴重な財源となっていた。

このシュヴァーツ銀山(厳密には銀以外にも、銅など他の鉱物の大小も採れた)では、ドイツ・オーストリアの資本家たちとの間での採掘権の期限契約や、その先買い権の契約によって、まとまった資金を資本家たちから前借りすることが慣例になっていた。

1480 年頃にアウクスブルク(ドイツ・バイエルン州の都市)の経済景気も目立つようになり、この都市で資本力を身に付けていた有力市民(メーラー。貴族ではない富裕層たち)が商人団(コンパーニュ)を形成してまとまった資本を用意し、オーストリアの鉱山業に参加するようになる。

アウクスブルクは遠隔地間の取引網を少しずつ伸ばし、資本力を身につける有力市民も増えていったため、その富裕層たちからの多額の課税を得られるようになったことで都市財政も余裕ができるようになった。

資本力を身に付けるようになったアウクスブルクのその有力市民たちが、オーストリアの鉱山業に参加するようになると、その利益の大きさの課税分で、アウクスブルク市政の政治力もさらに身に付くようになる。

 

鉱山業は、王族の国政を切り盛りする国庫にも関係してくるような何百グルデン、何千グルデン、多ければ何万グルデンという巨額の取引となる。

 

だからまとまった資本力を、有力市民同士で内輪揉めせずに商人団として協約的に準備していくという、誰がその交渉の代表になるのかまでの小議会的な統制力もなければ、それに参加すること自体がそもそも難しかった。

 

さらには、他にも商人団を作って王族と取引している競合もいたため、その資本提携の相場を巡る、今風でいう入札合戦になりやすく、さらに今風でいう不当廉価取引(ダンピング)の取り締まり法などなかった当時は大手の資本力次第で、小口の利益がかっさらわれてしまうこともあった。

 

例えば小口の商人団が、規定の重さあたり5グルデンの銀(または銅など)を購入後に、そのすぐ後に大手がやってきて他の件と複合的に組まれた条件交渉で重さあたり4グルデン10シリング(4.5グルデン)で大量買いされてしまう事態になると、小口側は売るのに時間がかかることになる分の在庫管理費や人件費もかかってしまったりと、当初に計画していた利益に原価割れ的な損に遭うかも知れない問題もあった。

 

15世紀末に、遠隔地間で取引網を築くようになった資本家の台頭が顕著になったことは、不当廉価取引(ダンピング)が社会問題化し始めるという、今までなかった問題を人々も体験するようになり、実際に16世紀初頭には、議会でこの問題が取り沙汰されるようになった。

 

現代では独占禁止法の一環のようにお馴染になっているこの不当廉価取引(ダンピング)の取り締まりが、これが何が問題なのかをここで整理しておきたい。

 

かなり極端な例として現代で例えると、近所に小さめのスーパーがあったとして、ある日そのすぐ近くによその大きめのスーパーができたとし、そのよそのスーパーが、小さめのスーパーよりも大きい分だけの品揃えが良い上に、全ての品を1円で販売するということをもし半年も続けられてしまうような事態となったら、どうなるか。

 

近所の人はみんな、全て1円のスーパーの方に入り浸るに決まっており、それをされてしまった間の小さなスーパー側は、利益が上がらなくなってしまい、閉店するかその遠くに移転するかしかなく、移転するにしても費用もかかってしまう。

 

つまり、そんなことができてしまうほどの圧倒的な資本力を身に付けてしまう資本家が台頭すると、資本力任せの手口で自分の所よりも小口の同業者潰しで競合を順番に排撃できてしまい、それで改めて値段をつけるようにすれば、次の競合が現れる間は、その相場をいくらでも操作できてしまうことになる。

 

不当廉価は、極端だが解りやすい例でいうと100億円使って、諸費用を差し引いて100億500万円になって戻ってこれば良いという発想を続けられてしまうと、よそが1億円使って1億500万円にすることも困難になってくるというように、それに対抗できる元手など用意できない同業者を潰していく市場支配社会が構成されていってしまうことになる。

 

現代では、他の違いの強みの提供内容や、多くの人がもっている訳ではない分の特別感を売りするといったように、ある程度は企業努力できる所もあるが、例えば産地が同じ、つまり純度などの質が同じ銀や銅、また綿花や亜麻糸(あまいと)、染料の茜や藍などの原料的な売買になると、何らかの代替条件の多少の工夫もできても、やはり限界ができてしまう。

 

他に「買占め」「抱き合わせ商法」といった不当手口もこれと似たような問題になりがちで、買占めは例えば香辛料などの人気商品を、値段がいくらだろうが資本力任せに全て買占めしてしまい、品不足に陥らせて自分の所でしか売っていない状況を作ってしまえば、自分たちだけ得できれば良いという考えだけの値段の相場を、いくらでも支配できてしまうことになる。

 

代替条件もやり過ぎると、ただの抱き合わせ商法のような乱暴な押し売りになりがちで、買いたい品を買うために、別に必要でもない品を一緒に買わなければ売ってもらえない条件(相場観念)にされてしまっても、欲しい品がそこでしか売っていなければ、遠距離で他の所まで買いにいく労力などを考えると、その条件(相場観念)に合わせるしかなくなることになる。

 

あからさまに1円とかではなく「企業努力でこの安価で、大量生産・出荷できるようになった」といっても、競争ではなく市場支配のための乱暴な競合潰しが目的だと、公正取引委員会などの公的な評議会にそう見なされてしまえば是正勧告になることもある。

 

筆者は現代の商業法に大して詳しい訳ではないが、近年で記憶にあるのが2017年頃だったかに、当時ガソリンの高騰が止まらずに1リッター120円台から130円台に向かおうとしていた(くらいだったと曖昧に記憶)時に、コストコで1リッター78円(くらいだったと思う)のガソリン販売を始めたため、車の行列ができたということがあり、是正勧告を受けたことを覚えている。

 

特に16世紀に入ると、西洋全体の市場独占は無理だったとしても、各地の中継的な卸売問屋を資本力任せに支配できてしまう資本家が台頭し始め、それでもし一時的にでも、荷止め(物流を意図的に妨害)して品不足に陥れると、その近隣の物価を簡単に高騰させることもできてしまうという、それができてしまう資本家も現れたため、実際に議会で取り沙汰されるようになるほど社会問題化するようになった。(この問題は江戸時代の経済成長期でも浮上している)

 

ポルトガル船によって、今までのヴェネツィアよりも安く大量に輸入できるようになった、人気商品だった香辛料を、買占めに動く資本家も顕著になったといわれ「それで品不足に陥らせて値段を吊り上げようとする、疑わしいけしからん資本家」は、独占に怒っていた同業者たちだけでなく世間全般からも「胡椒袋」と揶揄されながら、非難も殺到したといわれる。

 

フッガーも香辛料の買占めが疑われたことがあったが、フッガーはスペイン・ポルトガルとの航海事業出資と銅取引(ハンガリーの鉱山権で採掘した銅をポルトガル王室に売っていた)はしていたが、香辛料の販売業には関わっていなかった。

 

実際に香辛料の買占めをしたことがあるのは、ロンバルディア州(イタリア)の都市クレモナを本拠とする資本家アファイタディ家だったといわれ、この筋がトスカーナ州(イタリア)の資本家マルチョニ家ジラルディ家らと結託してポルトガルの香辛料取引に参入していた時期があったようである。

 

このクレモナは貨幣鋳造権(造幣局権)を得ていた都市でも知られ、帝国議会(カール5世)から帝国の金庫番、政商としてひいきされていたフッガーが(そのローマ銀行支店が)一時期、貨幣鋳造権を得る事態となった際に、このクレモナの貨幣鋳造権に関与していたトスカーナの資本家たちの反発に遭ったといわれている。

 

教皇庁(ローマ)など格下扱いし始めていた帝国議会(カール5世の重臣たち)が、教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ。トスカーナのメディチ政権関係者)時代に、反発するのを解っていてあてつけのようにフッガーに貨幣鋳造権の期間特権を与えた様子が窺える。

 

そのように、イタリアの資本市場にも帝国議会がフッガーを使って何かと介入するようになった中で教皇レオ10世が亡くなり、とうとうスペインから懲罰人事的に押し付けられてしまう形で教皇ハドリアヌス6世がめでたく就任すると、イタリアの資本市場はフッガーにかなりの介入を受けるようになったことも、その次期教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ。2人目のメディチ教皇)時代に帝国議会と対立することになった(ローマの踏み潰しのきっかけとなった)要因のひとつになっていたと見てよい。

 

そのように、世俗的な商業法を議会で整備しなければならなくなっていた、モタモタしている訳にいかなくなっていた経済社会になってきている中で、商業法と何の関係もない、もはや老害教義に等しい戒律とやらで

 

「従わなければ、逆らえば地獄に堕ちる。破門(異教徒扱い)されたくなければその経済活動をただちに停止し、そのカネ(時間)を捧げよ」

 

思いつきの寝言しか教皇庁(ローマ)はいえなくなっていた、そんなもので遠隔地間で結び付くようになった資本家たちを抑えられる(身分再統制できる)訳がないにも拘わらず、身の程知らずにも世俗議会側(帝国議会側)への逆恨みを始めた、だから踏み潰されて当然なのである。

 

時系列が錯誤してしまったが話は戻り、資本家たちにとっての王族との鉱山業の取引は、競合大手の動きによっては大損させられてしまう危険性もあったものの、王族から自分たちの存在を特別に得意先として認知してもらえるかも知れない、それで何か優先権が得られる縁になるかも知れないという交流も魅力的だった、だからその取引に参加できていた者は羨ましがられる社交的な世界でもあった。


アウクスブルクは地元産業では、織物業とその原料の亜麻糸(あまいと)の栽培事業も盛んで、多くの取引商品が常に運ばれていたヴェネツィアから綿花を買い付け、それと亜麻糸と組み合わせたバルヘント織りという人気商品の生地を作って出荷し、かなりの利益を得ていたことでも目立っていた。

資本力で目立ち始めた都市は他にもあったが、ヘタな特権貴族たちよりも資本力をもち始めるようになったアウクスブルクの様子にマクシミリアン1世は目をつけるようになるが、これはその先代のフリードリヒ3世の頃から目立っていた。

アウクスブルクの商人団の一員として、オーストリアの鉱山取引に参加するようになったヤーコプ・フッガーの才覚に、マクシミリアン1世はさっそく目をつけるようになる。

経済戦略眼に優れていたヤーコプ・フッガーなら、マクシミリアン1世が内々で計画していたことの実現も可能そうであることを人事的に見込むようになると、マクシミリアン1世はとにかくこのヤーコプのことをあからさまに優遇し始める。

マクシミリアン1世は、交流強化のためにアウクスブルクに頻繁に訪問するようになり、アウクスブルクの利益を便宜すると共に、大勢の貧困層たち(生活保証権を得られる見込みがなかった日雇いや小作人たち)の、生活苦改善の便宜も怠らなかった。

マクシミリアン1世が、財政に余裕ができたアウクスブルクに人文主義会とラテン語学校の設立をもちこむ(ネーデルラントで先に始まっていた)形で、ドイツで上から下まで教会改革に意識が向く手本となるよう、その奨励を始める。

ドイツ王の兼任者(ゲルマン全体の世俗側の代表格)でもある皇帝マクシミリアン1世が、アウクスブルクとの交流強化に何度も訪れ、文化・経済・救済の多面で優遇を続けたため、アウクスブルクは等族諸侯(皇帝公認都市)の間での等級の格上げ(優先権の特別扱い)を皇帝から直々に受けたも同然となり、アウクスブルクでは富裕市民から貧困層までの皆が、この扱いに喜んだ。

マクシミリアン1世がアウクスブルクに訪問する日程が知らされると、現地では富裕層から貧困層までの皆がそれを大歓迎するための準備を始め、盛大な送迎が毎度行われるようになるという、今まであまり見られなかった様子が見られるようになる。

ここから、アウクスブルクの有力市民の資本家のひとりのヤーコプ・フッガーの経済活動面での凄まじい快進撃が始まるが、これはヤーコプ・フッガーの経緯が、マクシミリアン1世との連携だったことはほぼ間違いないという、筆者の逆読みの「これが真相だろう」という見解で説明していきたい。

 

文字制限になってしまったため、次も引き続き16世紀の西洋の経済事情について説明を続けていく。