近世日本の身分制社会(109/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか37/?? 2022/10/24
 

西洋の16世紀の、今まで人類が体験したことがないような大市による証券経済や、下々の当時の格差問題、またスペイン・オーストリア王室と威勢の張り合いをしていたフランス王室の当時の立場など、前回の年表まとめを補足してたいことが多い。

中でも、文化的(教義問題)でも経済的にも重要な役割となった、当時の事情が集約されているといえるアウクスブルク(バイエルン州の金融都市)とフッガー邸の存在について今回、先に触れることにし、それぞれ説明していくことにする。

アウクスブルクは、神聖ローマ帝国(西方教会圏全体の国家。帝国議会)の国家銀行を支える中心地となっただけでなく、教義問題(プロテスタント)の議決を巡る舞台にもなり、さらには当時の下々の格差問題を意識改革させるきっかけとなる、フッガーライ(貧民救済の福祉住宅)が建設された歴史文化的な場、つまり当時の社会心理が多く見られる場でもある。

 

それぞれの経緯も複雑だが、アウクスブルクの中心・象徴であった大資本家のフッガー家の存在は、16世紀のキリスト教社会を把握するにあたっての、恰好の題材ともいえる。

マクシミリアン1世(オーストリア大公。カール5世の祖父で前ドイツ皇帝=神聖ローマ帝国の世俗議会側の代表)が、アウクスブルクに目を付けた政治的な関係(教義文化面と経済面の両面)も非常に重要で、またヤーコプ・フッガー(アウクスブルクの資本家。今まで無かった国家銀行体制が作られるきっかけとなった人物)の才覚に、マクシミリアン1世が人事的に目をつけることになったことについても、その「なぜそんなことになったのか、どんな意図があったのか」の経緯も重要になる。

マクシミリアン1世の先代のフリードリヒ3世(前皇帝。前オーストリア大公)は、見た目はヨーロッパ版の足利義政(8代室町将軍。応仁の乱が起きて政権崩壊が決定的となった時代)だったといってよく、無策無能だったと表向き(道義的には)は何かと非難を受けることになった人物になる。

表向きの印象ばかりで当時がどんな様子だったのかが軽視され続けてきたが、何もしなかったというより、何もできなかったといった方が正確なのが、とりあえず足利義政と同じだったといえる。

フリードリヒ3世時代の15世紀は、キリスト教社会の価値観念が激しく変容し始めてきた時代で、中世までの、教義権力(破門と戴冠式)のいいなりになり合うのみの、大空位問題(世俗議会側の総裁が誰なのかはっきりしない=議会に等族選任力がない)の原因にもなった横並び王族同士の(旧態の権力均衡のままの)議会体制ではいよいよどうにもならなくなってきていた時代だった、だから何事も議会で急に対応できなくなっていたのも顕著な時代だった。

マクシミリアン1世の代になると帝国議会の懸命な建て直しが図られ、先代のフリードリヒ3世の時とはその見た目も大違いだった先見性と行動力を見せるようになったため、上の事情をよく理解できていなかった下々からは、マクシミリアン1世は「本当にあのフリードリヒ3世の子か?」と言われながら人気を得ることになった。

 

しかしその先見性についてはフリードリヒ3世からきていたものであった節が多く見られ、どちらかというと次代に向けて内々に準備を進めていたものを、次代マクシミリアン1世の代になって実行させていったというのが実際だったといえる。

 

先代の頃には上同士のまとまりも欠け、それによってマクシミリアン1世も若い頃に苦難を多く体験したことも、帝国議会の立て直しの教訓として活かされることになり、その次代皇帝カール5世(マクシミリアン1世の孫)の代に、その議会体制の流れが大きく活かされることになる。

15世紀末からのマクシミリアン1世の治世時代では、マクシミリアン1世は自身が皇帝(オーストリア王族。ドイツ王兼任)でありながら偉そうに威張り散らすようなことはなく

 「社会観念がすっかり変わってきている今の時代は、議会においてはキリスト教徒は上も下も関係なく、皆で協力し合いながら帝国全体を立て直していかなければならない」

という姿勢を、皇帝自身が積極的にそれを示しながら、庶民との今までの上下交流関係(身分関係)を仕切り直すことにも熱心だった。

そのため

 

 「今の皇帝(マクシミリアン1世)は以前とは全然違う、庶民の言い分にもできるだけ耳を傾けようとしてくださっている」

 

 「あの方こそが、キリスト教徒の王族の代表格(公務側としての貴族の手本家長)としての、本来のあるべき姿なのだ」

 

と、ドイツ中で一躍人気者となった。

公的教義体制も、いつまでも旧式のままの戒律で下々をただ押さえつけるばかりで時代に全く対応できなくなっていた。

 

だからいい加減に教会改革が期待されていた聖属議会側(教皇庁・ローマ)が、イタリア全体どころか自分の所の(教皇領内)の諸都市の揉め事もろくにまとめられなくなっていた、見苦しいことこの上ない錯乱気味のその姿に皆があきれていた、そんな中でのことだったため、マクシミリアン1世の姿勢は際立った。

マクシミリアン1世(オーストリアの代表)がマリー(ブルゴーニュ公。ネーデルラント公領の代表)と結婚し、その間にできた子のフィリップ(カール5世の父)がマリーの後釜に据えられるようになると、オーストリアとネーデルラントの国交関係の親密化が進む。

オーストリア西部ティロール州(チロル州)の産業都市インスブルックは、あの有名な「ロマンチック街道」で南ドイツ(バイエルン州)とヴェネツィアを結ぶ重要な中継都市でもあったことから、アウクスブルクとも以前から交友関係があった。

古代によく流行していた「全ての道はローマに通じる」の言い回しでもよく引き合いに出されたこのロマンチック街道は、行商人たちの往来としても、人々の巡礼旅行としても、古くから宿場が整備されていた文化的な快適な道路だった。

南北で隣同志のオーストリアとバイエルン州の文化圏は、領域慣習の違いこそあっても同じゲルマン系として、オーストリアの王族(ハプスブルク家)がドイツ王(ゲルマン全体の代表)を兼任するようになったことあり、異文化的な壁などは大してなかった。

南ドイツ商業圏(地中海の影響寄り)のバイエルン州から見ると、北ドイツ商業圏(バルト海の影響寄り)よりもむしろオーストリアの方が親近感があったほどだったと見てよい。

まだハプスブルク家が台頭する前の古代では、オーストリアはドイツ南部の山地の田舎(いなか)扱いで、スイスなどはその田舎(オーストリア)の西部のさらにド田舎扱いだった。

しかし中世までにオーストリアは、ウィーン、インスブルック、フィラハなどを始めとする諸都市の文化もあなどれなくなり、地元の大きめの王族としてハプスブルク家が台頭すると、オーストリアはもはやドイツ南部の田舎の州扱いではなく、れっきとした公国の格式扱いがされるようになる。(皇帝ルドルフ4世の金印勅書時代も、その格上げが顕著だった)

同じくスイスにしても15世紀までにはすっかり国家議会的な自治力と産業力を身につけるようになっていて、オーストリアの田舎どころか、ベルンやバーゼルには優れた神学校や著名な修道院が作られるほどの力量まで見せ、フランス、ドイツ、イタリアからの多くの神学者たちも交流に訪れるほど、一目置かれるようになった。

ちなみにイタリア、フランスを結ぶスイスの有名な山岳が、フランス読みだとサン・ベルナール、イギリス読みだとセント・バーナード、ドイツ読みだとセイント・ベルナルドになる。(セントバーナード犬の発祥地としても有名)

イギリス読みとドイツ読みとで違いが解りやすいが、ドイツ読みの場合は間に入るRは「ル」と読む傾向が強く、頭がSから始まる場合は強めに発音することから「シュ」と読もうとする傾向が強い。

西ドイツとの国境にあったフランスのストラスブールは、付近のドイツ人たちも商業交流によく訪れていた文化的な都市で、ドイツは慣習を加えてここをシュトラースブルク(ブルクは城、砦、都市などの意味。ハプスは鷲という意味)と読んでいた。

イギリスでアルベルトが、ドイツでは間にHが入っていたりしてHも強めに読むことからアルブレヒト、イギリスでジョージがドイツではGはギの発音が強めになるためゲオルグ。

ドイツはイギリスよりも伸ばし読みせずに、アルファベットを1文字ずつ順番に発音しようとする傾向がある。

ドイツ読みだと間に入るWの場合は強めに読むことから、イギリスだとシュワルツがドイツではシュヴァルツといったカタカナ表記になる。

読みも意味も共通している語もあるが、例えばフランスの場合だと黒がノワル、白がブラン(ブロン)といったようにだいぶ違うものの方がやはり多い。

暴君だったとか強力な権力者だったとかで、現代でもたまに引き合いにだされる古代の皇帝シーザーもドイツ読みだとカエサル、マイケルがミカエルだったりと、読み方が違うだけで同じという人物名も多い。

聖典に出てくる使徒や、地域ごとの守護聖人たちの名に倣(なら)って、ミカエルをミハエルやミカエラといったように、アントーン・フッガーのアントーンも同じで、大元は解らないがアントニオ、アントニー、アンソニーといったように、慣習的に名づけられるのが特徴的になる。

日本で古来からある「太郎」の元々の意味は、強い人、頼りになる人、人々を良い方向へ導く手本となる人という意味で、源氏の祖先で注目されていた源義家(みなもとのよしいえ)の通称の八幡太郎(はちまんたろう)は、八幡の神(八幡はやおろずの神。多くの神のまとめ役のような存在)の加護・使命を得ている偉大な責任者、といった意味になる。

高太郎だと「太郎に倣(なら)って高みを目指す人」、次郎なら「太郎に続く立派な人になるよう」というような意味になり、信次郎なども同じく縁起の良い意味となるが、その慣習に似ている。

現代のアメリカは、クリスが日本の鈴木といわれているくらい多く、よくよく考えればクリスティアン(敬虔なキリスト教徒。キリシタン)から来ているんだから多くて納得になる。

それにちなんだクリストファーやクリストバルといった名も、筆者は実際の数は把握していないが、多かったとしても何ら不思議ではない。

近世でも西洋は、自身と全く同じ名をそのまま子につけることや、生前中の自身の親の名をそのまま子につけることも多いため、だから少し裕福な家系なら1世、2世が多用されたり、大(老)ヤーコプ、小ヤーコプといったような区分けの呼び方がされていた。

戦国後期に剣豪の家系としても有名だった柳生氏(やぎゅう)も、柳生宗厳(むねよし)、柳生宗矩(むねのり。読心術的な軍学や政略に優れていたため、徳川家の参謀役に招かれる)、柳生三厳(みつよし。特に剣術に優れていたといわれる)は3代とも通称は柳生十兵衛を名乗っている。

この場合も、十兵衛どのといえば基本は現当主のことを指し、次期十兵衛どの、先代どのといった呼び方がされ、さらには但馬どの(柳生宗矩のこと。たじまのかみ。兵庫県北部の旧名)などの官名で呼ぶこともあったため、ほとんど混乱はない。

スペインは、例えばヌエバ・エスパニョーラが「あけぼの(新たな幕開け)のエスパーニャ(スペイン)の新地」、エスポワールが「ゆく先の希望」というように、いかにも「神が我らに与えし・導き」がつきそうな、カトリック再確認主義の伝統が感じられるような詩的な語も多い。

スペインとポルトガルは同じイベリア圏として、現代では地方間での方言の違いくらいしかなくほとんど同じといわれていて、今のイギリスとアメリカもそのくらいの違いしかなくほとんど同じということだが、当時のスペインとポルトガルもそのくらいの違いしかなかったかも知れない。

16世紀当時の西洋人たちは、日本の呼び方に特に統一もなくジポン、ジパングや、イギリスも19世紀まではヤパンなどで呼んでいたようである。

新大陸がアメリカという名称となったきっかけは、コロンブスの調査船団に加わっていた有力者のひとりのアメリゴ・ヴェスプッチが由来になる。

スペインとポルトガルの航海事業に出資していた南ドイツ筋の資本家たちが、帳簿の管理や報告書のやりとりの書類に「ウェスプッチ氏が調査している大陸」「アメリゴ船団の報告の」と書いていたその書式が波及していき、段々と「アメリゴの大陸」「アメリカ大陸」と慣習化されていったといわれる。

「ゴ」が「カ」になったのは、アメリゴの名を語源的にラテン語にアメリクスと戻し読みし、そこから区切り読みでカにしたようだが、そのように記念的にラテン語に当て直す原点回帰の慣習は、近世以降も続くのが特徴的になる。

ラテン語は、中世の頃のラテン語の事情が書かれた書籍がどれだったのか筆者が解らなくなったためちゃんと説明できないが、ローマ字のアルファベットが4文字か5文字ほど少なく、確かKを使わない代わりにCで統一したり、Oを積極的に使わない代わりにAUで「オー」の発音を表現、といった特徴になる。

現代では例えば音楽は MUSIC だが、国によっては MUSIQ としてる場合もあったり、DISK と DISC とで、前者は動的記録媒体を、後者は静的記録媒体というように、たまに使い分けられることがある感覚と似ている。

元々はギリシャ圏の名残りの強い、このラテン語がローマ字圏の共用語とされていたが、東方教会圏から西方教会圏まで広く陸続きの西洋では、ラテン語とはどんどん遠ざかっていく方言的な慣習がそれぞれの地元で自然に重視されていった。

聖書はラテン語でなければ禁書扱いされた中世末までの当時は、聖書を教えたり研究をするにはラテン語が必須なはずだった。

ラテン語がまず解っていないと、つづりも慣習読みも違う上に専門用語も多いため、自国語だけでは全体の半分も理解できるかどうかで、そもそもラテン語をよく理解している者、教えられる者が、中世末になっても非常に少なかったといわれる。

それまでのラテン文学の扱い方自体が、等族指導力(議決性)など何ひとつ身につけていない、今の日本の低次元な知能障害者(偽善者)の集まりの文科省とやらと同じだった。

根底のラテン文学のことなど何も理解できていない、ただ丸覚えしただけで解った気に偉そうにアリストテレス主義やプラトン主義(要するに偉人主義)を切り抜いてたらい回しているだけの、キリスト教徒失格(=国際人道観失格)の聖職者(教諭)気取りの迷惑千万な勘違いどもが当時も多く、こういう所はどの国も、いつの時代も同じである。

頭が良くなる訳がない猿知恵(ただの指標乞食主義=思考停止)のたらし回しを繰り返すことしか能がない、自分たちで何も大事に(自己等族統制)してこれなかった、それを放棄(劣情共有)し合ってきただけの自分たちの愚かさ・だらしなさも自分たちで改めること(教会改革・議会改革・身の程の再統制)もできたことがない公的教義体質(総偽善体質)を、ついに堂々と批判(プロテスト)し始めたのがマルティン・ルターなのである。

ラテン語のことにも詳しかったルターは、とうとうドイツ語訳で、しかも時代遅れの部分をルターが無断で新約を加えた聖書を、禁書規制を無視する形で出版してしまったのである。

今の日本の低次元な教育機関と何ら変わらない教皇庁は、時代遅れの禁書規制を理由にルターを異教徒扱い(=キリスト教徒ではない=悪魔崇拝者だからどのように厳罰扱いしてもよい)しながら噛み付いたが、誰も守ろうとせずに皆がルター訳の聖書を買い求めたため、あちこちの都市でジャンジャン印刷された近世的(等族主義的)聖書は、ドイツ中に広まってしまう事態となった。

今と同じ、もったいぶりながら偉そうに小難しくこねくり回してきただけの今までの公的教義体質(で下々を愚民統制し続けようとする裁判権体質=低次元な社会観を守らせ続ける)の愚かさ・だらしなさに、人文主義の気鋭の神学教授だったルターは心底あきれていたのである。

そんなことがいつまでも繰り返され続けていた(教会改革が進まなかった)、だからこそ聖書の本当の姿に人々に少しでも関心をもってもらおうとルターは、ただ下品で汚らしいだけの教義権力(議決性など皆無=敷居確認など皆無=それを放棄し合わせるただの愚民統制=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)に逆らう形(プロテスト=抗議)でドイツ語訳をやってのけたのである。

順述するが、アウクスブルクにあったフッガー邸は市庁舎のように大きくて立派な屋敷で、帝国議会での会場として重用され、また皇帝がドイツに滞在する間の王宮代わりに利用され、さらにはルターの最初の異端審問の宗教裁判もこのフッガー邸で行われたといったように、政治的な邸宅扱いがされた歴史的な場だった。

説明が交錯してしまったが、アウクスブルクの話に戻す。

南ドイツとの関係強化の交流に積極的になっていた皇帝マクシミリアン1世(オーストリア大公)は、産業面でも文化面でも将来性の見込みがかなり見えていたアウクスブルクに積極的に訪れるようになり、今風でいう所の、インスブルックとの姉妹都市提携のような交流運動に、熱心だった。

ブルゴーニュ公国との交流によって、先に人文主義運動が顕著だったネーデルラントを見習う形でドイツ側にも波及させようと、マクシミリアン1世はアウクスブルクでの人文主義会の設立と、さらには当時、あまりにも不足し過ぎていたラテン語学校についての強化も、かなり早い段階で熱心に支援・奨励している。

次期皇帝カール5世の時代に、バイエルン州で大規模なプロテスタント闘争に発展してしまうことになった原因を、結果的に助長することをしたのは前皇帝のマクシミリアン1世だったといえなくもなく、カール5世とその重臣たち、スペインの上層たちも当然その経緯は解っていたと見てよい。

ルヴァン(現ベルギーの都市)の人文主義者の神学教授・学長のアードリアン・フローレンス・ディダル(のち教皇ハドリアヌス6世)にそもそも目をつけ、ネーデルラントで養育されていたカール5世の教育係りにしたのも、まだ若かったその父のフィリップによるものではなく、祖父マクシミリアン1世によるものだったのも間違いない。

教会改革が遅々として進まなかった、だから見込まれたアードリアンがまずカール5世の教育係に、そしてスペイン入りにも重臣として同行してスペインの国家裁判長に、そしてとうとう教皇ハドリアヌス6世として、良い意味で懲罰のごとく教皇庁(ローマ・公的教義の本部)に押し付けるというスペイン王室(カール5世の重臣たち)の流れ自体が、マクシミリアン1世の人文主義奨励がきっかけだったのは間違いない。

話の視点が錯誤するが、フランスの介入で荒れる一方だったイタリア問題に、教皇ユリウス2世がイタリアでのフランス派の一斉の追い出しに動いた際、アラゴン王フェルナンド(カール5世の母方の祖父。ナポリとシチリアの王権を得ていた)と皇帝マクシミリアン1世がそれに加勢する形で、この3者で共同でイタリアにおける対フランスにあたることになった。

その際、トスカーナ州のフランス派の追い出し対策と絡んで、次期教皇のレオ10世(ジュリオ・デ・メディチ。フィレンツェ政権関係者)が擁立されることになるが、これはフランス派の結束で便乗してメディチ政権(貴族的政権)の追い出しに動いたトスカーナ(フィレンツェ共和国)のソデリーニ政権(民意改革政権)を解体して、メディチ政権を復活させる条件として

 「文化交流力・資金力はあるフィレンツェ共和国の支えで(イタリア人たちで)教会改革ができないのなら、だったら次の教皇は、神学教授出身のウチ(スペイン・オーストリア・ネーデルラント連合)の有望の重臣アードリアン(教皇ハドリアヌス6世)が、次期教皇ということでいいな!」

と計画的に約束させた上で、要するに

 

 「議会改革も自分たち(イタリア人たち)でできないのなら、それができている我ら格上側に従っておれ!」

 

での、釘刺し入りでの教皇レオ10世(ジュリオ・デ・メディチ)の擁立だったのも間違いないと見てよい。

この時点(教皇ユリウス2世時代)でローマ(公的教義)は、オーストリア(ブルゴーニュ公マリーを妻としたマクシミリアン1世)とスペイン(カスティリャ女王イサベルを妻としたアラゴン王フェルナンド)に首根っこを掴まれ始めていたといえる。

イタリアは、内紛にしてもフランスの介入にしても、結局は外の有力王族の支援に頼らなければ解決できなくなっていたことが露呈してしまったことは、教義の中心であるはずのローマ(イタリア)が自分たちで教義面(教会改革面=国際的な品性規律面)で外圧をはね返すこともできなくなっていたことが露呈していたのも、同じなのである。

それは、時代変容が激しくなってきていたキリスト教社会全体を今後、どういう方向に進めていかなければならないのかの、そのための議会力を教皇選挙(コンクラーヴェ)で示すことなどできていなかったのと同じ、全キリスト教徒の等族指導の議会(社会観)の手本など皆無(=国際裁判権を語る資格などない=身分上下を語る資格などない)なのと同じなのである。

自分たちが今置かれている立場(身の程)も、この後どうなるのかも教皇庁(枢機卿団)は渋々には解っていた、だから「中世最後の晩餐」といわんばかりのレオ10世時代のヤケクソ気味の、ただ教会財産を枯渇させただけのろくでもなかった教会政策の様子(化けの皮)に、自分たちで何ら教会改革(人事改革・議会再統一)できないだらしない実態がそのまま現れていたといえる。

話は戻り、人文主義のドイツの波及にあたっての、大きな橋渡しとなったネーデルラント人神学教授エラスムスも、神学教授アードリアン(のち教皇ハドリアヌス6世)が所属していた人文主義会の関連の出身になる。

そもそも、マクシミリアン1世とマリーの婚姻政策を進めていたのが、表向き(道義的に)散々非難された前皇帝の父フリードリヒ3世であり、このフリードリヒ3世がそもそもアウクスブルク(バイエルン州)の将来性に、早い段階で着目していた。

マクシミリアン1世の代になって目立ち始めた、オーストリア大公(ハプスブルク家)としての先見性は、実はフリードリヒ3世からの、内々の計画が継承されたものだったと見てよい。

豪胆公シャルル(ブルゴーニュ公マリーの父)と、皇帝フリードリヒ3世(オーストリア大公マクシミリアン1世の父)との間で国際交流(我が子間の政略結婚)の話が始まっていた時から、ネーデルラントで先に始まっていた人文主義学を、ドイツ側に持ち込もうとする計画が上同士で進んでいたと見てよいほどである。(教会改革の気運作りのために)

エラスムスは「人文主義を広めにドイツに訪れるようになった」ということになっているが、実際はマクシミリアン1世に人事的に見込まれて要請に応じる形だった、最初からそれが計画されていた前提で、上の後押しもあってドイツに招聘されるようになったのが正確ではないかというのが、筆者の見方になる。

人文主義の気鋭な神学者として知られていたエラスムスが、一躍大人気となったきっかけとなったのが、有名な「痴愚神礼拝(ちぐしん らいさん)」の出版になる。

これは内容的に、ボッカッチョ(イタリアの文学者。人文主義の大元の走りといわれたペトラルカと親交があった)の有名な風刺叙事集「デカメロン」などが参考にされたのは間違いない。

そもそもラテン語を学ぶ機会が無かった下々の多くは、ラテン文学を口頭で語訳的に説明を受けても、仏教の経典と同じで社会心理的な深すぎる専門用語が多すぎて、皆がすぐにはとても理解できなかった。

聖書の供与どころではない中で仕方なく、標語的に丸覚えさせることばかりがそれまではされてきた、だからそれをいいことに公的教義体質の他力信仰一辺倒の寡頭主義(等族主義の否定のし合い=低次元化)の道具に悪用され続けてきた。(日本の自力信仰一辺倒体質も同じ)

人文主義の台頭でそういう所も見直されるようになると、庶民想いでもあったエラスムスが、ラテン語どころではなかった庶民たちにもできるだけ解りやすく翻訳する形で、庶民の身近なできごとに例えた物語風の小話集のように仕上げたのが、エラスムスの痴愚神礼拝になる。

エラスムスの場合は、ラテン文学や聖書の今までの扱い方とは真逆の解釈の手法で

 

 「今までただ人々をねじ伏せることしかしていなかった教会権力が描く神の解釈通りであるなら、神はこんなに頼りない、だらしないことになってしまう、だからこんな解釈が本当の神な訳がない」

 

というあてつけのやり方で揶揄するものだったが、こちらは遠回しに物語風の小話集に仕上げたことと、一応はラテン語が用いられたため、禁書騒動にはならなかった。

庶民にもできるだけ解りやすくと考慮された、この痴愚神礼拝は大ウケして、全ヨーロッパに大量に出版されたため、それに便乗した自国語訳の亜流本も大量に出回ったのも間違いない。

遠回しでも教会権力を批判していてたのが明らかだったはずが、これが禁書騒動にならなかったのは、マクシミリアン1世による人文主義の文学保護の影響もあったと思われる。

教義権力のねじ伏せる側の視点をこき下ろしながら、世俗側の視点に立って見直させる方法でエラスムスが

 

 「こういうダメな教義の向き合い方しかできていなかった、今までの聖職者気取りども(今の日本の低次元な教育機関と同じ、身の程知らずの、人生の先輩ヅラ気取りの偽善者ども)は、我々を見守ってくださっている神さまは全てお見通しなのだ」

 

という所を風刺的に置き換えて伝えたのが、痴愚神礼拝である。

その手法によって、これまでのできもしない正しさ(敷居向上させられる訳がない性善説)の振りかざし合いと、その今までの頭の下げさせ合いへの釘刺しをしたことで

 「皆が強靭な精神(等族指導力)を急にもてる訳でもないのに、立場(こちらが善で相手が悪のはず)に固執(ただの指標乞食化=ただの劣情共有化)するばかりの、人を育てる(尊重の置き所を確認し合う=自己等族統制させる)ことにならない、威力(寡頭主義)でただ屈服させ合っているだけの強がる責め立て合いばかりしてはならない」

 「皆が精神的(等族議会的・身分再統制的)に急に強くなれる訳ではない、だからこそまずその強弱から正直に協力し合う、という所から始めようとせずに、威力任せ(寡頭主義任せ)にただ頭を下げさせ合うことしかしなければ人々の心は歪んでいく一方になる」


を改革的に強調し、人文主義(キリスト教社会の今までの他力信仰一辺倒に対する、自力信仰不足の喚起)の初歩を人々に伝えることになった。
 

まさに当時の人文主義学(自力信仰不足への喚起 = 異環境的範囲の個人努力の敷居をまずは確認・尊重し合うことから始める主義)がどのようなものであったのかが窺える題材といえる。

この出版が一躍大人気になって皆が買い求めるようになったこの流れが、のちのルターの聖書の新解釈付きのドイツ語訳に乗り出す原動力になったのはいうまでもない。

 議決性など皆無 = 社会心理的な国際的指導責任といえる民権言論の手本など皆無 = 等族指導力の主体性・当事者性の手本など皆無 = 品性規律の手本など皆無 = ただ下品で汚らしいだけ

今の日本の文科省とやらとその手下の身の程知らずどもは、偉そうに人に頭を下げさせる前に、本物の人文主義(自己責任主義)であるエラスムスの痴愚神礼拝に向かって

 「我々は500年前のキリスト教徒たちよりも遥かに低次元で格下の人生観しかもちあわせていない、等族統制(議決性の構築の手本の示し合い)などできたことがない、身の程知らずの猿知恵しかもち合わせていない法賊(偽善者)の集まりで申し訳ございませんでした」

と毎日100回くらい土下座する手本をまず見せた上で、とやかくいえというのである。

ちなみに教義論争ではないが、江戸時代の経済成長期に流行した、井原西鶴(いはら さいかく)が出版した「好色一代男」という当時の現代モノの風刺小話集も、デカメロン的手法、痴愚神礼拝的手法がこちらでも用いられている。

好色一代男も

 「カネやオンナやくだらない興(きょう)じ事に翻弄されている、愚かな我々(ダメ男やダメ亭主たち)の姿を、お天道さま(その表裏を知っている者)には全てお見通しなのだ」的手法

で類似している。(教義色がある訳ではない洞察的な手法。その女版である好色一代女ものちに作られる)

井原西鶴のこの好色一代男が大ウケしたのは、当時の経済成長期に、商売や文芸・芸能などで一躍有名人となった成金や成り上がり者たちが、注目(支持)を集めようと誇らしげに社会性(啓蒙性)を気取りになりたがる者があちこちで増えた、その便乗のし合いとひがみ合いが蔓延し始めていたのを、注意喚起する風刺物語構成だったためである。

この井原西鶴は資産家出身で、若い頃には資産家たちに後押しされていたにわかな著名人たちや成金たちの交流の表裏も人より見てきて、まだ社会観的に右も左も解らない若い頃に、それらについそそのかされたりしてしまったことのバカバカしさも、人よりも体験できていた経緯をもっていた。

井原西鶴は「今になって思うと、あれは本当に愚かでくだらないことだったんだな」と、元々は生真面目な所があった、そういう所を冷めた目で見ることもできた。

資産家だの著名人だのの、品性規律(等族指導力)など何も身につけていない成り上がりの大家気取り(人生の先輩ヅラ)どもの表裏のくだらない実態を、物語主人公「世之助(よのすけ)」と、それと出会う登場人物たちに、「あるある」の勘違いを集大的に担わせ、いわば空や天井からその生き様を映像撮影しているような描写の仕方で、その表裏の滑稽さや、また虚しさの情緒を書きつつ注意喚起・揶揄したのである。

この好色一代男の出版をきっかけに、あちこちの芝居小屋(小劇場)や講談師の間でも脚色されながら題材にされたことで

 「資産家の跡取りとして生まれて調子に乗っている連中や、金稼ぎの世渡り(頭の下げさせ合い)がただうまいだけの、人間学(人文学)など何も身につけてこなかった、世の中を解った気に神経質になっているだけの連中(偽善者)どもの実態など、そのほとんどはこんなだらしない低次元な考えしかできていないものなのだ」

が伝わり、それに振り回されて頭に血がのぼっていた者の中には懲りない者も多かったが、そのバカバカしさに気付かされてだいぶ冷静になれた者も、増えることになった。

議決性など皆無な(等族指導のあり方を放棄し合い失望し合うための頭の下げさせ合いしかしていない)肩書き・学歴を含める、ただの劣情物語の出自にさも価値があるかのように披露し合う手品(猿芝居)大会が、人文学(自己責任学・個人間尊重努力学・当事者学)なのではない。

話は戻り、人文主義学の本場がドイツを訪れるということでエラスムスの動向は注目され、そのあり方の質問が各地から殺到し、その手紙が実に1500通以上にのぼったといわれている。

 

アントーン・フッガーも若い頃にはアウクスブルクの人文主義会に所属し、キリスト教社会のこれからのあり方を真剣に考えていたひとりだった。

 

エラスムスがアウクスブルクに訪れた際にはアントーンも、エラスムスにこちらに永住してもらって、アウクスブルクの人文主義会をより盛り上げようと熱心だったことが窺える。

しかしこの人文主義の気運も、議会の枠を超えた過熱を見せるようになると、今まで人文主義学を指導的に代弁してくれたエラスムスが途端に沈黙を守るようになったため、逆に批判が殺到するようになってしまった。

筆者としては、このエラスムスの形跡は、マクシミリアン1世と連携していたものだったのではないかと見ている。

さも皆が自発的に、ドイツでも人文主義が芽生えたかのように見えたその実は、本当はマクシミリアン1世がそれを後押しする形で、良い意味で人事的に印象操作していた、しかし議会の枠を超えて過熱し始めたために、やむなくエラスムスに沈黙するよう要請したというのが真相だったのではないかと見ている。

質問状の殺到を受けたエラスムスは「この回答は本来はこうなるのですが、こう返信する形を採ってもよろしいですか?」とマクシミリアン1世に確認を取っていた、その連携があったのではないかと筆者は見ている。

マクシミリアン1世は文化保護全般に熱心で、画家のアルブレヒト・デューラーの才覚も見出し、年金100グルデンを手配していたことも知られている。

皇帝から直々に、画家として高い評価の公認を受けることになったこのアルブレヒト・デューラーは、同時代人のレオナルド・ダ・ビンチ(一流の文化力をもっていたフィレンツェ共和国で高く評価されていた)もかなり著名だったが、さらにそれを上回る著名人になる。

話は戻り、当時のエラスムスはまるで人文学の指導権威のような見なされ方がされてしまい、まだ帝国議会(人事改革・身分制議会)の裁定の話にも入っていない内から、まるで司教(地方ごとの教区最高長官。公的教義体制)よりも偉いかのようにもち上げようとする身分的な風潮ができてしまったため、エラスムスとしてもむしろ困っていた節すらある。(異端論争に発展しかねない)

ルターが業を煮やし始めたのも、せっかく人文主義で盛り上がっていたドイツで、エラスムスが急に沈黙を始めてしまったことに現れているが、ルターはその事情は薄々は気付いていたかも知れない。

しかしエラスムスのように、上との連携を採ることもなくその流れをきっかけに抗議運動をするようになったルターの存在は、マクシミリアン1世の計画の想定外(イレギュラー)だったといえる。(のちルターはザクセン侯に保護され、この時に今までの上の事情をルターは、具体的に聞かされることになったと見てよい)

1519 年にマクシミリアン1世が亡くなり、教義面でひと暴れ(徴利禁止の戒律や、清貧の戒律や、結婚に関する戒律などの、時代錯誤の偶像矛盾への批判)もふた暴れ(聖書やラテン文学の新約付きドイツ語翻訳の出版)もするようになったルターは、異端審問にかけられることになる。

ルターの異端審問は、表向きの体裁は教皇庁主導であるかのように扱われただけで、実質は帝国議会の主導だったといってよい。

1519/01 にマクシミリアン1世が亡くなる前からルターを異端審問にかける話は浮上していたが、それが本格化し始めるのが、ルターの異端審問の教義対決が行われる 1519/06 あたりからで、これはマクシミリアン1世が生前時に「待った」で抑止をしていた可能性もある。

 

しかし事態が深刻化し始めていたために、マクシミリアン1世が亡くなるとやむなくルターを本格的に異端審問にかけることになった、というのが真相と思われる。

意見提出と裁定の議会的手順の枠を明らかに超えて、教会改革の促進運動を始めてしまったルターの影響力を規制するためのものであったのと同時に、何の説得力もなくなっていた時代錯誤の頼りない聖属議会側(公的教義体制・教皇庁側)にそれを裁く(まとめる)力量などなくなっていた(ルターがそこを痛烈に追求するのをやめなかった)、だから世俗議会側(帝国議会側)が肩代わりし始めるようになったという、上もそういう所を考えるようになっていた、良い意味で少しチグハグだった当時の流れが、この異端審問の様子で窺える。

中世までの時代遅れの異端審問のやり方は 1498 年サヴォナローラ(フェレンツェ共和国の神学者。議会の枠を超えて終末論の神の啓示と結び付けてフランス支持を煽りまくる手口でサヴォナローラ派の信者を集め、政治力をもち始めたため厳しく処罰された)裁きが最後だったのではないかと筆者は見ている。

人文主義を通して始まったルターの時の異端審問は、実質は世俗議会が肩代わりするようになっている時点でサヴォナローラ裁きの時とは性質が全く違い「火あぶりで処刑した遺灰が聖遺物化されないように危険物扱いとして処分」というような古臭いにもほどがあった風潮も、議決的には世俗裁判的(議会の手順を守れ的)な色ばかり濃かったルターの異端審問の方には、そんな時代錯誤的な様子が見られない。

聖属議会(公的教義体質)の教義権力(旧態体質・寡頭主義)のいいなりのままに一方的に裁くという、むしろ帝国議会(上からの身分再統制の等族主義)を時代逆行的に否定するようなやり方は、いい加減にもう終焉していた。(上の間では)

生前のマクシミリアン1世がそもそもそこを問題視するようになってアウクスブルクで人文主義を奨励(ネーデルラントの人文主義を持ち込み)し、その仕上がりの区切りであるかのように向かえたルターの最初の異端審問が、ラテン文学会・人文主義会で盛り上がっていたアウクスブルク(のフッガー邸)でわざわざ行われていることからも、もはやルター個人を裁くうんぬんなどどうでも良かったといって良い。

上の間で何が起きていたのか下々にはすぐに理解できなかったが、上の間でのこのルターの世俗議会的な異端審問というのが

 「もはや公的教義体制に今後の教義問題を裁ける力量などないから、これからは教会改革問題も世俗議会側(帝国議会側=等族主義的な強力な皇帝権=スペイン・オーストリア王室=ハプスブルク家)がその身分再統制(議会改革・人事刷新・教会改革)を肩代わりすることにする」

 「だから聖属側(教義側)は、公的教義体制側(教皇庁側・司教側)にしても人文主義会側(この中から抗議・反抗派に向かっていったのちのプロテスタントたち)にしても、帝国議会(等族主義の身分制議会)の手順の枠を超えた教義問題を巡る勝手ないい争いはするな!」


という、議決性(議事録性・等族主義)など皆無な教義権力で頭を下げさせ合う時代は終焉し、新時代(近世・上からの等族主義時代)に入っていることを強調することが最も大事なことだったのであり、だからルターに対して遠回しに

 「お前(ルター)の言い分はもう解ったから、ただでさえイタリアとドイツとフランスの間での教会改革問題もややこしくなってきている中、上の事情をよく理解できていない下々をお前(ルター)はこれ以上煽るな!」

ということを、第二第三のルターが出てこないようにするためにそこを釘刺しすることが主目的だった、そこがチグハグだったといってよい。

アウクスブルクでの最初のルターの異端審問が行われた際に、言い分の保留・撤回を求められたルターは

 

 「途中で沈黙してしまったエラスムス教授の役目(人文主義の牽引)を自分が肩代わりすることに決めたから、自分の身はどうなってもいいから今さら後に引けない

 

と、頑(かたく)なに突っぱねたため、ライプツィヒで公式な教義論争の場が設けられることになった。

ちなみに 1579 年に織田政権で行われた、法華宗(日蓮派)浄土宗(源空派)の教義対決も、この時のルターの異端審問での教義対決が参考にされたのではないかと筆者は見ている。

話は戻り、それでカトリックの伝統重視派の気鋭の神学者エック博士(ヨハン・エック)とルターが教義対決することになる。

神学に詳しいからこそのエック博士も人文主義に一定の理解があり

 

 「所詮は旧式の教義権力でルターを問い詰めることはできても、ラテン文学・聖書の解釈を巡ってルターを問い詰めることは無理ではないか」

 

と内心は思っていた節すらある。

ラテン文学に詳しく、聖書研究の世界もよく知っていたエック博士が、ルターに欠陥がないか試すべく色々問い詰めたが、ルターは全て見事に回答してしまい、完全理解していたことをむしろ公式に立証することになってしまった。

エック博士の鋭い質問に全て答えてしまった、今の裁判員制度のように各地から招かれていた著名な修道院長たち、神学校の教授たちも傍聴側でそれを見て

 「今までの伝統(足並み)を守ろうとしないのは確かに問題はあるかも知れないが、しかしこれほど聖書研究に熱心な、もはや聖書博士といってもよいルター氏を、果たして異端扱いして良いのだろうか・・・」

と、皆をざわつかせながら感心させたほどだった。

こうした結果でありながら帝国議会(カール5世の重臣たち)は結局、あてつけのように

 「これからは聖属問題も世俗議会の裁定(皇帝権による最終決議)によって公認・否認していくといっているのに、議会の枠を超えて勝手に新基準(身分価値)を波及させようとするな!(神学の向き合いに問題がなかったとしても、それは許さん!)」

の意味でルターを、世俗身分統制的な神学教授の資格剥奪の裁定をチグハグに下すことになるが、当然のこととしてドイツ中で賛否両論になり、いよいよもてあますようになっていた。

教義問題(教会改革)のことでドイツ中がますます困惑するようになってしまい、ルターはとぼけていただけでこの頃には、中途半端ながら自分のしていたことに帝国議会側が何がいいたかったのか、薄々気付いていたのではないかと筆者は見ている。

ルター問題も埒があかなくなってきていた時に、ザクセン選帝侯フリードリヒの手配でルターをザクセン州に連れ去ることになって、以後その手許(てもと)でルターを保護するようになる。

これを境にルターはまるで、以前にエラスムスが沈黙するようになった意味を理解したかのように次第に沈黙するようになり、そしてエラスムスの時と同じく、沈黙してしまったことにルター支持者たちから逆に非難を受けるようになる。

 

ザクセンで庇護を受けるようになり、いったん沈黙した途端に、ドイツ中の人文主義の中の加熱派たちやルター支持派たちが「ルターという支柱」を失った途端に錯乱し始め、内部分裂を始めるようになった。

 

ルターを支持して熱狂していた下々たちの実態は、自分たちでその域に置くことまではできていなかった者が多かった。

 

それを、沈黙してしまったルターのせいにし始め、自分たちでろくに議決性も整えることもしてこなかった中で足並みを揃えないうんぬんを言い始めて錯乱するようになった、その下々の残酷な様子を見たルターも、帝国議会側の言い分をだいぶ理解したのだと思われる。(上の間でのルターへの理解力と、下の間でのルターへの理解力には、思った以上に差が大きかった)

帝国議会は、ザクセン貴族たちにルターの身柄を引き渡せとはいっているものの表向きで、それを大して熱心に追求している様子でもなく、以後ルターも沈黙するようになったため「うやむやになってしまったが(沈黙してくれたから)とりあえず厄介払いになってよかった」くらいで見ていたかも知れない。

このルター問題を放っておく訳にもいかなかった帝国議会(カール5世の重臣たち=スペイン筋、ネーデルラント筋、オーストリア・ドイツ筋、イタリア筋の混成)の様子は、前皇帝マクシミリアン1世の等族義務的な意図も律儀に守ろうとしていた、だからルターを力任せに抑え付ける感も表向きだけだったと、筆者は見ている。

ルターは

 少なくとも自身は、政治力(議決権)はもとうとしなかった

 伝統とは外れていても、ラテン文学や聖書研究に向き合う姿勢は本物だった

 自身の格上げ、名声を得ようとしていることにはむしろ自身から否定的で、聖書に献身的な前提の解釈を守っていた


所が、少し前のイタリアでのサヴォナローラ裁きの異端審問とは、様子もだいぶ違った。

この時の帝国議会側(カール5世の重臣たち)は、いいがかりをつけて印象操作しながらルターを極刑にすることもできても、それに安易に乗り出そうとはしなかった所がむしろ賢明だったといえる。

議会体制を低次元化させるような、今までのそうしたやり方の、今の日本の知能障害者(偽善者)の集まりの教育機関と変わらないような教義権力(愚民統制)体質とは決別しなければならなくなっていたからこそ、これからの議会体制(等族主義)を重視し、安易にそうした手口に乗り出そうとはしなかったのである。

ルターがきっかけとなったこの時の、神学教授剥奪の議会側の処置

 「公的教義体制と脱却・決別するのだというのなら、まだその身分再統制の話にも入っていない(その意見整理と提出の受理にも至っていない。その具体的な名義人も誰なのかもはっきりしない)内からそれ言い張るのなら、お前(ルター)が神学教授であるということを肯定したり否定したりすること自体、もはやおかしな話ではないか」

というあてつけもあった、そこが世俗身分再統制的な裁定のキリスト教社会になり始めていたことを知らしめる役割となった。

それがどういう意味なのか、人文主義の中の過熱派たちも賛否両論を通してそこを少しは理解するようになった、だからこれを境にとりあえず意見書を整理するようになったのが「アウクスブルク信仰告白(都市信仰告白)」の帝国議会(皇帝カール5世)への、評議会的な要項が整理された議事録提出の流れなのである。

揉めながらも 1530 年までにいったん意見がまとめられて提出されるも、結局この内容が身分統制的にほとんど認められなかったために、シュマルカルデン同盟(プロテスタント同盟)の連名を始めて帝国議会とプロテスタント(抗議派・反抗派)たちの間で、教義問題を巡ってどんどん険悪になっていく。

何にしても、議決性(等族主義)ただの劣情(寡頭主義・ただの指標乞食論)の区別も自分でつけられていないようなだらしない怒り任せの言い分を、ただ発散的に見苦しく挙げればいいという問題ではないのは現代でも同じである。

どの言い分に所属するにしても、評議会的な名目(議事録・議会資料=社会的説明責任・国際的指導責任の手本の示し合い)を誰も用意せずにまとまりもなく揉めるのと、とりあえずそれを提示し合い確認・整理し合いながらの上で、揉めながらでも条件を出し合って調整いく議会的(品性規律的)な姿とでは、器量的(裁判権的・社会観念的)にも大違いになる。

16世紀になって人類がようやくそこに少しは向き合うようになっただけでも、教会改革的にも大きな進展だったといえる。

 

現代でも同じ、それを延々と妨害し合い、低次元なままであり続け合うことしか能がないのが、教義権力(寡頭主義のただのいいなりの指標乞食主義=議決性・等族主義など皆無なただの劣情共有)と決別もできない知能障害者(偽善者)どもの実態であることを、人類は決して忘れてはならない教訓なのである。

その流れに大いに関係していたアウクスブルクの、文化面(人文主義会とラテン語学会)の話だけで今回は文字制限になってしまっため、ここでいったん区切って、次は経済面の話などに入りたい。