近世日本の身分制社会(108/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか36/?? 2022/10/12
 

今回はまず、カール5世時代のスペイン王室に深く関わることになった、アウクスブルク(南ドイツ・バイエルン州の金融都市)の資本家フッガー家の視点からだと、同時のキリスト教社会がどう見えていたのかについて、伝えていきたい。

筆者のフッガー家に関する出典は、諸田實(もろた みのる)氏の力作の名著「フッガー家の時代」「フッガー家の遺産」が基本となっている。

当著では決算などの資産変移や、王室との主な契約や鉱山事業といったフッガー会社の数字の様子は年表でまとめられているが、事績は特徴ごとの説明が多く、時系列で把握しようとする場合には解りにくい。

ヤーコプ・フッガー(皇帝マクシミリアン1世時代)の次代の、アントーン・フッガー(皇帝カール5世時代)の様子はどのようなものであったのか、他のいくつかの書籍からの全体像で筆者が要約・補足しながら時系列化(年表化)したものを、まず羅列する。

まずは、キリスト教社会全体をまとるのも簡単ではない16世紀の様子を、時系列で眺めることを優先してもらいたい。

なお貨幣単位の部分は、はグルデン(ドイツ単位のライングルデン)はドゥカード(ヴェネツィア単位。ダッカート。ヴェネツィア黄金時代は16世紀に終焉したがその国際的な価値比較は以後も重宝され続けた)という意味になる。

スペイン王室は無借金経営などしておらず、新大陸入植事業とアジア貿易も含める国力(国債と特権)任せの、資本家たちの前借りで常に切り盛りしている。

現代の、返済計画で銀行から前借りする形で個人的な住宅や自家用車が準備されたり、また経済活動の運転資金が準備されることも多い感覚が、金融が急成長するようになった16世紀も、その感覚と少し類似している。

アジア貿易事業と新大陸事業の出資でも複雑に大金が動いているが、それも入れるとややこしくなるため除外した全体像を、フッガー家の視点で列挙していく。

 

-- 時系列 --

1525優れた大銀行体制を築き上げ、銅市場の王者にもなったヤーコプ・フッガーが亡くなる。当初はライムント・フッガーが支配人(フッガー会社の全権当主)の立場を継承する予定だったがすっかり意欲を失っていたため、その弟であるアントーン・フッガーが次代で話で進んでいた。(ライムントとアントーンはヤーコプの甥)以後アントーンが帝国の銀行を懸命に支える。

1525スペイン王室(カール5世)とフランス王室(フランソワ1世)の間で行われたパヴィーアの戦い(イタリアの主導権争い)の戦費として、フッガーがスペイン王室に資金援助。この戦いでは皇帝軍(カール5世)側がフランソワ1世を捕獲するという大勝利。またこの年のドイツ農民戦争(プロテスタント闘争の前身)の鎮圧のための資金援助も要請される。

1526スペインの対オスマン帝国との戦争のためにフッガーが資金援助。また捕虜となっていたフランソワ1世はこの年、その王子2人を人質に寄越すということでフランソワ1世の身柄はフランスに返されることになった。

1527フェルディナンド(カール5世の弟。オーストリア大公)をハンガリー領の境界とボェーメン(ボヘミア)の王領の正式な国王にするにあたって、その運動資金をフッガーが援助。先代ヤーコプ時代からのこの年までにフッガーを頼った各諸侯の債務(貸付残高)の総額165万G、内スペイン王室のフッガーに対する返済義務は50万7000Gまで累積。

1527今の日本の低次元な教育機関と大差ない、何の等族指導力(主体性・議決性・当事者性・身分整備力=議会力)もない問題児の集まりの格下の教皇庁(枢機卿団)の問題行動が、格上の強国スペインをとうとう本気で怒らせる。教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ。トスカーナ政権の有力者)の指令で渋々戦わされたフィレンツェ軍(トスカーナ勢)が皇帝勢(スペイン・オーストリア勢=ハプスブルク家)に簡単に撃退されて教皇領に乗り込まれ、悪徳都市ローマ(ただ下品で汚らしいだけの公的教義の巣窟)が丸ごと破壊されるという素晴らしい年となる。(ローマ劫略)イタリア(教皇領)は国防軍(十字軍)体制などろくに整っていなかった中で教皇軍を肩代わりさせられたフィレンツェ共和国は、これを機に見直されることになる。(マキアベリが散々指摘していた)これを機にあからさまにスペイン(ハプスブルク家)がローマ(教皇庁)の首根っこを掴みながら、教会改革を肩代わりするようになる。カトリック(西方教会)存続の危機感を強めた各地の有志たちがイエズス会(西方教会の再生委員会)を結成する。

1528ドーリア(ジェノヴァ共和国の海軍提督。地中海から押し寄せてくるオスマン海軍への備え。ヴェネツィア共和国による地中海の制海権が衰退したため肩代わりしていた)にフッガーは資金援助。

1529皇帝カール5世のイタリア遠征の戦費をフッガーは資金援助。オスマン帝国の陸側からに備えるウィーン(オーストリアの首都)の防衛も資金援助。この年スペインとフランスの「カンブレの和」で、フランソワ1世の王子2人の人質も返されることになったが、この時に多額の身代金を出さなければならなくなったフランスは財政に大打撃となった。

1530フェルディナンドが、フッガーからの35万Gの資金援助を得て正式にドイツ国王(オーストリアとボヘミア西側を含めるゲルマン全体の代表格)に選ばれる。大手の王族として振舞うための式典費用が高額にのぼったと見られる。

1530領邦君主、帝国都市のドイツ宗教改革(シュマルカルデン同盟。プロテスタント運動。これまでの公的教義権力との決別)が始まり、それを認めない皇帝側(帝国議会側)と新教側(反抗的だったプロテスタント派)の対立構図の緊張が強まる。

1532オスマン帝国(イスラム教国家。スレイマン1世)との戦争のために、フッガーがスペインに資金援助。

1534にはフッガーの地元アウクスブルクでも宗教改革(プロテスタント運動)が強まる。ビュルテンベルク(ドイツ・バーデンビュルテンベルク州の都市)のプロテスタント一揆を鎮圧するための、オーストリア軍(フェルディナンド)の軍費をフッガーが資金援助

1535のカール5世のチュニス遠征(アフリカ北部チュニジアを巡るオスマン帝国との領域戦)でガレー300隻軍艦100隻と大規模化。1529 以前は3万以上の動員国はなかった中、1536 - 1537 には6万が動員された。この時に総額84万Gも費され、内訳は不明だがフッガーも当然のこととして多額援助している。

1536皇帝軍(スペイン王室中心)のプロヴァンス出兵(フランス領マルセイユ進軍)にフッガーも資金援助。この時点での各諸侯たちがフッガーに借りた返済義務総額234万7000G、その内のスペイン王室は106万6000G。

1536アウクスブルクもシュマルカルデン同盟(プロテスタント同盟)に加盟。その間皇帝はフランス、オスマン帝国との戦いに多忙で新教徒(プロテスタント運動)対策に着手できず。

1537ハンガリーに侵攻の動きを見せるオスマン帝国との戦争に備えて、フッガーはハンガリー王に資金援助。

1538スペインのフランス出兵にフッガーが資金援助。この時に内情は既に借金漬けだったカール5世は、ネーデルラントに向かうための旅費の捻出も困難になっていたといわれ、フッガーら資本家たちがそうした旅費も援助していた。

1539チュニス出兵(オスマン帝国との領域戦)に援助。前年のフランス出兵と合わせてどうしても動いておきたかったスペインは、この時フッガーの資金援助なしではもはや何もできなかったといわれる。スペインのフッガーへの返済義務の総額125万G

1539プファルツ伯フリードリッヒをデンマーク王候補者として擁立する動きが出て、要請を受けたフッガーはそれを資金援助。

1539シュヴァーベン(ドイツ・ザクセン州の都市)近隣のバーベンハウゼン村の購入などの、フッガー領の拡大が進められる。2年越しの交渉が実り6万8000Gでバーベンハウゼン村を購入。ハプスブルク家(カール5世)がフッガーに対して膨らむ一方の借金のめどが立たないことの代替処置だった。この地域は現代も「フッガー家の市場町バーベンハウゼン」という名で続いている。 

 

※フッガー家は先代のヤーコプ・フッガーの代に伯爵(土地所有貴族)の資格の典礼を受けている(公認されている)

1540ハンガリーとの戦争で国王を援助(恐らく対オスマン帝国で、ハンガリー王やオーストリア大公に資金援助という意味)

1541/10カール5世のアルジェ遠征(アフリカ北部アルジェリアの都市。オスマン帝国との領域戦)にフッガーが資金援助。この戦いはオスマン海軍側の勝利となり、スペイン側は8000の将兵に200の大艦隊を大損害を受けることになってしまった。この年には、以前にフッガー領として譲渡されることになったバーベンハウゼンのフッガー領の築城が開始される。( 1543 に完成する)アントーンの墓はここの教区教会にある。

1541/12カール5世がスペイン帰国。マドリッドでアントーン・フッガーの代理クリストフ・フッガーと、先の海軍の損害を修復するための借入交渉がさっそく行われる。

1541皇帝軍(カール5世)のフランス戦争。この戦いと先の 1535 アフリカ・チュニス遠征 / 1536 プロヴァンス出兵 / 1541 アフリカ・アルジェ遠征 とまとめて巨額支援していたフッガーは、ドーナウヴェルト(バイエルン州。アウクスブルクの北近隣)とバーベンハウゼンの新領を獲得。ドーナウヴェルトに3年かけて建てられたフッガー邸は現在、郡役所として使われている。このドーナウヴェルトのフッガー邸は、30年戦争中のスウェーデン王グスタフ・アードルフの宿舎としても使用された。

1541夏レーゲンスブルク(バイエルン州の都市)で行われた帝国議会でカール5世が新旧両派(カトリック派とプロテスタント派)の調停をするも、折り合いが合わず。

1542/01/02カール5世とクリストフ・フッガーは、フランドル州(ネーデルラント)で5万Dを、ドイツ、イタリアで10万エスクード(スペインの通貨単位。約12万G)を半々で支払うというアシエント(国営・特権事業の契約取引)。

1542/04カール5世は、トルデシリャス(カステリャレオン州中部の都市)に居る、容態が良くなかった母フアナを見舞った後ヴァリャドリッド(トルデシリャスとは近隣)に向かい、ここでクリストフ・フッガーと新規の10万エスクード(12万G)のアシエント。半額を30日以内、50日以内に残り半額をイタリア(ナポリ、ジェノヴァ、ミラノ)で支払う約束のその時の証書と、その時の王室役人の受領書も残っている。報酬と手数料9000D。返済は1年後と2年後のカスティリャの特別上納金(セルビシオ)の譲渡。

1542/05/04スペイン王室(カール5世)は、フランス、オスマン帝国の両方からの対立の緊張の高まったため、フッガーからさらに8万Dの追資を受けた。

1542/07フランソワ1世がカール5世に宣戦布告。戦争は2年にわたりフランス東部国境にあたるルクセンブルク、南部国境にあたるペルピニャン、ブルゴーニュ南部デューレン、サヴォイ公国ニース、シャンパーニュ地方サン・ディジェと各地他方に大規模な戦争が展開され、スペイン王室側もフランス王室側もその戦費は大変なものとなった。

1542対フランスにおけるイギリスからのドイツ・スペイン側への援助金をフッガーが仲介。オスマン帝国とも対峙しなければならなくなったスペインはフッガーに46万Gの資金援助を受ける。1535~42年間はフッガーのスペイン王室への貸付の全盛期で、それを含めるフッガーの各諸侯たちに貸し付けた分の滞納総額が320万Gに膨れ上がる。

1542/10マエストラスゴ(徴税請負の期間特権)がフッガーの手から離れ、皇帝はドイツでの砲弾、火薬の調達が困難になることが危惧される。

1543フッガーもスペイン・オーストリア(ハプスブルク)の対フランス戦、対オスマン帝国戦に可能なだけ資金援助。皇帝の対フランスの戦費をフッガー、ヴェルザーの共同で30万D調達。この年のスペイン側の戦費は100万D(140万G)を超え、他に未公開の予算も70万D分の赤字が累積した。

1544カール5世のマールネ遠征(フランス領パドカレー付近の布陣)にフッガーが資金援助した。これはイギリス側のフランスへの領有権の主張を皇帝がとりつくろうものだった。

1544/09カール5世の姉エレオノーレ(フランス王妃)と妹マリア(ネーデルラント支配代理)も仲介に入った「クレビィの和」によって、1542/07 から2年続いたスペインとフランスの大規模な領域戦はいったん和解。一時的ではあるがドイツ新教徒(プロテスタント)、オスマン帝国との共同対応をフランスも約束。この年フッガーは総額110万Gの貸付予定をスペイン王室に約束する。

1545トリエント公会議、つまりカトリック派たちのプロテスタント派たちに対する巻き返しの対抗宗教改革(公的教義・カトリック体制の見直しの再生委員会。イエズス会が支えた)が始まり、議会での皇帝カール5世(スペイン主導の帝国議会側)の強い支援となる。フッガー会社の事業確保のためにも、オスマン帝国の進出阻止と共に、宗教改革による闘争拡大の阻止も努めなければならなかったアントーンは、この公会議をきっかけにカトリック派とプロテスタント派との和平条約(敷居確認の示し合い)に進むことを期待し、これを積極的に後押しする。

1545ヘンリー8世(イギリス王室)にフッガーが多額援助。またカール5世がシュマルカルデン戦争(ドイツでの大規模なプロテスタント闘争)に備えてフッガーに資金援助を要求。

1545フッガーがアントウェルペン支店からイギリス王室に多額貸付を行う。この頃のアントウェルペン(ネーデルラントの貿易・証券都市。現ベルギー)のフッガー支店は、イギリスへの貸付が首位を占めていた。

1546/01この年スペインの国庫が極めて苦しい事が、フランシスコ・デ・ロス・コボス(スペイン王室の議会書記官)の手紙に残っている。

1546/02宗教改革者マルティン・ルターが死去。

1546/04ドーナウヴェルトのフッガー邸でカール5世とアントーンが密会。「オスマン帝国やフランスでなく、新教徒(プロテスタント同盟)と戦う」本心を聞かされ驚く。フッガーは戦火が予想されるアウクスブルクから安全なティロール州シュヴァーツ(オーストリアのチロル州の都市)に本社を移動。新旧双方(帝国議会側にもプロテスタント同盟側にも)から資金援助を要請されたアントーンは、戦争回避策として双方に出資しないことに決めるも、スペイン王室(カール5世)からの強い要求に断り切れず。

1546/07フッガーはドイツ、スペイン、ネーデルラント、イタリア各地で要請された戦費調達に全力を尽くし、53万Gの資金調達で皇帝に貸付。(全体1/3はヴェルザー)

1546-1550代替として、スペインの王族領のマエストラスゴ(徴税特権)の期間譲渡予定はフッガーに有利な条件で落札。

1546レーゲンスブルク(バイエルン州の都市)での帝国議会で、皇帝カール5世はシュマルカルデン同盟の2人の指導者ザクセン選帝侯ヨーハン・フリードリッヒ、ヘッセン方伯フィリップに追放令布告。この年は帝国議会側と新教側(プロテスタント)の対立が強まる一方だったため、アントーンも和解の仲介に入るが改善されなかった。

1546アウクスブルク市政(市参事会。市庁。小国家的な等族諸侯扱い)はシュマルカルデン同盟に18万Gの運動資金を献金。市は地元の同胞意識を頼りにフッガーら有力資本家たちにもそれに協力するよう求め、アントーンは板ばさみに苦しむ。

1546秋これまでの帝国議会でこじれた皇帝側(スペイン・オーストリア王室側)とドイツの新教徒(反抗的なプロテスタント派たち)とで、これまでよりも大規模な本格的な開戦がとうとう始まってしまう。緒戦で皇帝軍が勝利。

1546/05-1547/05の1年間のフッガーは皇帝に8回分け合計80万D(112万G)、皇弟(フェルディナンド。オーストリア大公)にも3回分け計15万G貸付。

1546のフッガー会社のこの年の決算での、アントウェルペンのフッガー支店への大口債務(支店資産)は、フランドルポンドでアントウェルペン市2万1000、ガスパル・ドゥッチ4万4000、イギリス政府8万4000、ネーデルラント政府3万、ポルトガル王室6000の、総額約18万7000フランドルポンド(計79万グルデン分)の資産算出。ガスパル・ドゥッチはフィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)の銀行家でネーデルラント政府(ハプスブルク宮廷)の財務を担当していたひとり。アントウェルペン経済にも関わっていたためフッガーの帳簿にその名義がよく出てくる。

1547/01イギリス国王ヘンリー8世が死去。

1547/02/27この2日後皇帝カール5世とフッガーは計15万Gのアシエントを締結。

1547/03フランス国王フランソワ1世が死去。この年にヴェルザーもカール5世に10万G貸付の約束をする。

1547/03皇帝軍はニュルンベルクを発って北上。新教(プロテスタント)派運動が顕著だったザクセン州に軍を向ける。

1547シュマルカルデン戦争が小規模化に向かう年となる。ミュールベルク(ザクセン州)の会戦で、ザクセン選帝侯を旗頭としていたザクセン新教徒軍に皇帝軍が大勝。資金面での勝因が大きく響いた。この戦いにアントーンの代理人が軍費の相談役として同行しており、プロテスタント同盟都市の鎮圧の次の標的がバイエルン州で、まずはアウクスブルクであることをアントーンはいち早く知る。アウクスブルク市参事会(市政。市庁)はこの危機を知らなかった中、アントーンが早急に和解するように市政にもちかけるが、どうにもできなかった。

1547/02/25南ドイツのプロテスタント一揆(バイエルン州も規模が大きかった)は、皇帝軍にほぼ制圧される。皇帝はシュマルカルデン同盟に荷担したウルム、アウクスブルクら帝国都市に懲罰を課すが、アントーンが皇帝とアウクスブルク市の和解を仲介。市の代表たちは降伏文書を携えウルムで皇帝に会い、皇帝に許しを願う跪(ひざまず)く儀礼を採る。アウクスブルク市の帝国議会への賠償は12万グルデンと大砲12門の納入に、バイエルン公に2万G(5万Gだったのを2万Gにまけてもらった)、それに上級貴族たちへの多額の贈り物を届けることを義務付けられる。(アルバ公に3000クローネはする黄金の酒杯を贈与している)アウクスブルク市政は急には用意できなかったためフッガーら地元資本家たちが立て替えた。

1547シュマルカルデン戦争は小規模化に向かうが、それまでにドイツ中が荒れた上に、その制圧戦のための多額要求に無理をして応じ続けたフッガー会社は、経営に重荷を残した。アントーンはこれを境に元気を無くす。皇帝がフッガー邸に滞在していたこの年には、アントーンは皇帝と面会することはなくシュヴァーツで養生しアウクスブルクに戻らず、会社の事業中止・総解散を検討していた。

1547/04/24エルベ河畔ミュールベルク(マイセン北約20キロ)で、教義問題(プロテスタント運動)を巡って皇帝軍(帝国議会側)とザクセン選帝侯軍が再度戦うことになり、これを皇帝軍側が破り、これでザクセン州における皇帝側(帝国議会側)有利の戦況が決定的となる。

1547/07/23ザクセン州(のプロテスタント派たち)とこれまで同調的だったヘッセン州のフィリップ方伯は、帝国議会(カール5世)に降参・和解に動く。カール5世はアウクスブルクに戻りフッガー邸入りする。シュマルカルデン戦争勝利後の 1547/07 から1年余、皇帝はアウクスブルクのフッガー邸に逗留した。この間アントーンはアウクスブルクには戻らず、シュヴァーツで事業解散計画を始めていた。

 ① 任せられる後継者もおらず、放っておく訳にもいかなかった、膨張し泥沼化する王室とのこれまでの契約関係から離脱する予定
 ② 1546末までの事業全体の詳細の決算作成。ハンガリー事業を解散する予定
 ③ 1548までには当期利益金70%社員配分を清算予定。ティロール・ケルンテン事業を同族会社と分離する予定
 ④ 1549までには自身が手を引き、以後のスペイン事業は今までの会社運営と別枠扱いとして甥クリストフに委任する予定
 ⑤ 1550末までに全資産を処分する予定
 ⑥ 遺産分与予定の遺言状を作成

1547/08スペイン王室とフッガーは22万4000Dのアシエント(国営事業の契約取引)締結。

1547/09/01「甲冑に鎧(よろ)われた国会」という題名の帝国議会で、新旧両派(カトリック派とプロテスタント派)の言い分の暫定措置(インテリム)が裁定される。(正式発表は 1548/06/30 )

1547/09皇帝とフッガーは20万8000エスクード(スペインの通貨単位。25万G)のアシエント(貸付)締結。8月と9月のこれをヴァレンシア議会(大市の証券関連と思われる。旧アラゴンのヴァレンシア州)がその返済の一部として特別上納金(セルビシオ)に当てることで承認。

1547/08-1547/09フッガーはネーデルラント総督マリア(カール5世の妹。ハプスブルク領とネーデルラント全体の支配代理)への30万Dへの貸付に参加。

1547/01-1548/12のスペイン王室は前年に国内収入、新大陸収入の全てを先付けで使い果たしてしまっていた中で、なお巨額借入を繰り返したことがいよいよ響き始める。新たな収入が全く見込めず。もしフランスからの攻撃があれば城砦、港の防衛費、陸軍費、ドーリア提督(オスマン海軍に備えるジェノヴァ海軍)の艦隊維持などの費用は1レアル(スペイン南部の通貨単位)もなかった。

1547秋以降皇帝カール5世とアントーンとの関係は冷却し始めていた。皇帝がフッガー邸滞在の時は顔を合わせるのも避けた。スペイン王室の財務関係者たちのフッガーへの借金依頼は、強請(ゆすり)に等しかった。

1548/06/30新旧両派の暫定措置(インテリム)布告によって、アウクスブルクでも実に180年も黙認され続けてきたツンフト市政(都市部の市民権、または農村部の自由保有地権の社会保障から弾き続けられていた貧民層たちが、勝手に作って維持してきた労働組合)がとうとう解体されられる。ギルド(公式な労働組合)に抵抗的に勝手に作られて維持され続けてきた、議会に非公認のままだったツンフトは、プロテスタント運動の温床になっていた所が多かった。

1548/08/03帝国議会による身分再統制が進められ、アウクスブルクでも都市貴族(パトリシア。正式な貴族ではなく庶民側の有権者層。貴族層と結び付きをもつ貴族風紀委員会。地域の聖堂参事会の裁判権を支配している場合が多かった)支配中心の体制が復活。

1548この年アントーンの妻レギーナが死去。

1548秋から20ヶ月皇帝はブリュッセル(ネーデルラントのハプスブルク王宮)で過ごす。

1548これまでアントーンが尽力してきたアウクスブルクのフッガーライ(フッゲライ。貧民救済の福祉住宅)の拡張事業がこの頃に落ち着く。手入れは以後も続けられる。先代ヤーコプ・フッガーの頃の 1498 年には計画は始まっていて、1514 年に開発が本格化。ヤーコプが 1523 年までに52軒の合計108人収容可能としたのを、次代アントーンが 1548 年あたりまでに1軒あたりの広さを増やした2階建て60棟以上に改築、拡張整備を続け360人以上を収容可能とした。市壁で囲い、門と病院と礼拝堂まで設置され、ギュン詰めでない余裕ある歩道まで確保された都市部内での、都市設計型の指導体制の貧民救済の福祉住宅としては世界初の偉業。アウクスブルクのフッガーライ(貧民救済の福祉住宅)の良例は以後ドイツ中で見習われることになり、今までの各都市の郊外の粗末な福祉住宅のあり方も、意欲喪失の貧民たちを再起させていかなければならない市政側の等族指導(品性規律)のあり方も、これを手本に見直されるようになっていく。現代でいうと、地価が高騰している都市部のど真ん中に巨額私財を投げうって大病院や福祉団地を整地・設立したようなもので、類を見ない社会貢献運動だった。

1548には領邦君主ら等族諸侯たちがフッガーに借りた返済義務の総額390万G。内スペインは200万Gに累積。その累積は 1546 が特に著しかったが、この年にはイギリス王室(エドワード6世)がいったんフッガーへの借金を返済することになった。この年もネーデルラント政府に貸付やアントウェルペン市防衛のための資金援助と、フッガーは多忙だった。

1549エドワード6世(イギリス王室)にフッガーが貸付。皇帝への貸付は控えられる。この頃イエズス会(公的教義の教義面を肩代わりするカトリックの、実質の代表団体だった)がポルトガル船(スペインが主導的だった)で正式に日本を訪れ、まずは九州の諸大名たちや堺衆たちとの間での表立った国際交流が、とうとう始まる。

1550/07カール5世一向はフッガー邸入りし、16ヶ月間アウクスブルクに滞在(この間もやはりアントーンは面会を避けるように不在)

1550/09カール5世(の重臣たち)と、フェルディナンド(の重臣たち)との間で帝位継承と領土分割の交渉、つまりスペイン側とドイツ・オーストリア側との身分制議会的な調停がされるが、難航する。

1550冬カール5世(の重臣たち。ドイツ筋、ネーデルラント筋、スペイン筋、イタリア筋と混在していた)と、その次代フェリペ2世(の重臣たち。スペイン筋で固められていた)との間での、イタリア(ナポリとシチリアの王権その他)、ネーデルラント(旧ブルゴーニュ公国の公領権)、を含める全体的な継承の交渉。

1550年これまで等族諸侯の中で、プロテスタント派の急先鋒として何度も皇帝軍に反抗してきたザクセン選帝侯(上級貴族)の家系がモーリッツの代となると、皇帝派への鞍替えの和解を始める。プロテスタント一揆は下火になっていた中でしぶとく反抗運動を続けていた、その最後の砦になっていたマクデブルク(ザクセン州北部の都市。現在はザクセンハルト州)の攻囲戦にザクセン選帝侯モーリッツも鎮圧側に回る。フッガーもそれを資金援助。

1551/02皇帝がインスブルック入り(オーストリア西部の中心都市。鉱山事業や、オーストリア西部の商業網の中継地として栄えていた)

1551/03カール5世(の重臣たち)とフェリペ2世(の重臣たち)のイタリア、ブルゴーニュ、ネーデルラント、スペイン継承交渉成立。

1551春カール5世(の重臣たち)とフェルディナンド(の重臣たち)との間で、帝位継承と領土分割の交渉成立。

1551オーストリア領、ネーデルラント領、イタリア領(ナポリとシチリア)の国営のことで、カール5世とフェルディナンドにそれぞれフッガーが資金援助。マクデブルク攻略の皇帝軍を援助。メディチ大公(フィレツンェ共和国)とエドワード6世(イギリス王室)にも貸付。

1551/11新教徒(プロテスタント)たちの武力反抗運動は下火。その最後の砦になっていたマクデブルクへの攻撃を、ザクセン侯モーリッツ(選帝侯位の格式の継続を条件に皇帝側に立っていた)に任せられる形で、皇帝はインスブルック入りする。スペイン王室はこの頃までに、行き過ぎた巨額捻出をアウクスブルクにさせ続けたことで金融都市としてのアウクスブルクの機能をすっかり衰退させてしまい、今までのその金融都市の役目もフランクフルト・アム・マイン(ヘッセン州の商業都市で、格式が高めだった)が肩代わりする事態となっていた。しかしこの年の春にフランクフルトの大市(証券・金融取引)が中止になったことで、皇帝カール5世一向のドイツでの資金調達も困難になる。フッガーもどうにもならずスペイン王室も苦しむ。

1552この年からジェノヴァ商人団のスペインへの貸付額とアシエント(国営的な事業契約)の額が、南ドイツ商人団(フッガーたち)を大きく上回りだした。

1552/01( 1551/10 説と 1552/02 説もある)フランス国王アンリ2世とザクセン選帝侯モーリッツが密約し「メッツ他、帝国領の4都市のフランス王室への割譲をモーリッツが便宜する代わりに、フランス王室がモーリッツに反皇帝運動(プロテスタント運動)の援助金支援」の結託の動きを見せる。

1552/03/30完全に資金難に陥っていた皇帝カール5世(スペイン王室)は万策尽きる。距離をとることが増えていたアントーンに自筆書簡「余の最後の願い(俺を見捨てないでくれ・・・)」を送り、大至急インスブルックに来て欲しいと懇願。

1552/04/07アントーンは「仕方なく」インスブルックに駆けつけ、侍従エラッソと多額借入交渉が開始されるが時間がかかった。カール5世(スペイン王室)の重臣たちはこの時「フランスから資金援助を受けて軍を編成し、ザクセン州のプロテスタント派を再び擁護し始めたザクセン選帝侯モーリッツ」の動きにあせっていた。

1552/04/19フェルディナンド(オーストリア大公。上級デューク)とモーリッツ(ザクセン選帝侯。上級マーキス)がリンツ(オーストリア北部の都市)で会談。

1552/05/01この日までリンツでフェルディナンドとモーリッツが和睦交渉するも、折り合いに至らず。

1552/05/18モーリッツは、1552/05/26 にパッサウ(バイエルン州南東の都市)でカール5世と会談予定だったのを反故(ほご)して不意に進軍。フュッセン(バイエルン州南部。オーストリアのインスブルックから近い)を占領し、すぐさまオーストリアに攻め入った。

1552/05/19深夜、皇帝はわずかの従者と供にインスブルックを脱出。交渉中だったアントーンもこれに同行。

1552/05/23ザクセン勢(モーリッツ)はエーレンベルク峠の要塞を突破しインスブルックを占拠入城。帝国議会で上級貴族間の身分再統制(等族義務の格式の見直し)も進められていた当時のモーリッツのこの動きはもちろん領土争いなどではなく、プロテスタント派の言い分を有利に認めさせる議会的な名目の軍事行動になる。それが成ればモーリッツは占領を解(と)いてさっさとザクセン州に引き揚げるつもりだった。他の等族諸侯たちもそこをよく解っていたから、カール5世(スペイン王室)とモーリッツ(ザクセン侯)の間での教義問題を巡るケンカだと皆が少し緊張しながら傍観し、大きな戦乱に発展することはなかった。

1552/05/27ザクセン勢(モーリッツ)に追われ続けたカール5世の一向は、ブリクセン(ティロール州)、リエンツ(ティロール州)、ケルンテン州フィラハのノイマン邸へと屈辱の逃避行が続く。これにアントーンも同行していた。証券経済の事情に詳しかったフランスは、カール5世側が資金難に陥っていてすぐに軍を編成できないでいた足元を完全に見て、ドイツでプロテスタント問題のことで揺れていたモーリッツを政治的に利用したのは明らか。しばらくして和解するがこの時のモーリッツの行動が、とうとうプロテスタントという存在を公認せざるを得なくなるアウクスブルク宗教和議の決議の大きな要因となる。この時のモーリッツのプロテスタント運動はスペイン王室の威厳を大いに損なわせることになり、スペインの伝統のカトリック再確認主義で固まっていたフェリペ2世の重臣たちの内心は怒り心頭だったのはいうまでもない。のちフェリペ2世時代に西方教会圏全体のプロテスタント派たちを大いに格下扱いする身分再統制(プロテスタント派に議席権・議決権などもたせない)に強気に出ることになる要因として、これが全てではなくてもそれを助長したのは間違いない。

1552/05/28戦費のめどが全く立たなかった中、フィラハで皇帝(スペイン王室)とアントーンの交渉がまとまり、古い未払い債権も含める40万D(56万G)の巨額アシエント。実質カール5世に泣き付かれて放っておく訳にもいかなくなったアントーンは、フッガー会社の親族たちと有権者たちの強い反対を押し切る形で、アントーンの個人資産から貸付することを仕方なく決断。この40万Dの内の25万Dは、モーリッツの問題と絡んでいたフランス・メッツを巡る攻防戦の戦費だった。( 1552/11 にアントウェルペンで支払われる)カール5世(帝国議会)とモーリッツ(ザクセン州のプロテスタント派たち)の対立で緊張していた様子を、オスマン帝国が好機とみて攻め入る動きに出たため、カール5世とモーリッツはすぐさま和解して共同でオスマン帝国軍の撃退に動いた。モーリッツとしても、プロテスタント派に有利な条件(決議)を引き出すことが目的であって、西方教会圏全体を危機に陥れることなどは本意ではなかった。法(議会制)の近世化(等族主義化)が進んだ16世紀には、こうした近代的な上同士の国際外交観も見られるようになるのが特徴になる。

1552秋これまでにアマルガム精錬法(水銀を使った銀の良質な精錬法)の研究が進み、新大陸のポトシ鉱山(今の中米のボリビア)から莫大な銀が採掘されるようになる。この技術改革でこれまでにない大量の銀が新大陸からスペインどんどん運ばれるようになる。崩壊寸前だったスペイン王室の財政の「今にもちぎれかけていた首の皮」が繋がる。フッガーも銀の持ち出し特権(サカ)を得ることができた。水銀はスペインの王族領(ハプスブルク領)のアルマデン鉱山と、オーストリア(ハプスブルク領)のイドゥリア鉱山の2つから豊富に得ることができた。この前後にフッガーはアントウェルペンの大手スヘッツ商会と組み、スペイン王室と60万Dのアシエントを結ぶ。またフッガーはイギリス王室(エドワード6世)と、フランスに対抗していたコジモ・フォン・メディチ(コジモ1世。フィレンツェ共和国の国家元首。強国化のきっかけとなる人物)にも多額援助。

1552/07-09アウクスブルクは無理をしてこれまでスペイン、イギリス、フィレンツェに多額貨幣貸付を続けたことで、南ドイツで慢性的な貨幣不足に陥っていた。アウクスブルクの有力20資本家からやっと7万G分の貨幣を調達できた程深刻化していた。新大陸からの膨大の銀の流入がなければ南ドイツとしても危機だった。

1552/11アントウェルペンでアントーンの資産25万D(フランス・メッツの戦いの戦費)が予定通り皇帝(スペイン王室)に支払われる。

1552/12カール5世がメッツ攻略(メッツはフランス北部ロレーヌ州の都市だが、フランス王室の管轄領扱いよりも、皇帝都市つまりハプスブルク家による帝国議会の公認権威が強かったため、フランスがモーリッツの協力名目を得てメッツを占領するようになった。その支配権をドイツ側が取り戻そうとした戦い)に乗り出すが、この戦いはフランス側がメッツ防衛成功となる。カール5世はブリュッセル入り。このメッツ攻防では「できるから」という軍の両軍総勢15万というメチャクチャな動員数による、まるで大名行列の派手さを競うかのような威勢の張り合いが行われ、これが両王室の甚大な負担のしわよせとなって跳ね返ったのはいうまでもない。

1553夏セゴビア(カスティリャレオン州の都市)で王室とフッガー代理人が交渉。アシエント合意。61万7400D。元金46万3000D。利子15万4400D。この時に「フィラハの危機(モーリッツ問題)」の時に約束していた残高21万2500D相当の、スペインからドイツへの貴金属(主に銀の)持出許可の代替特権をフッガーは得ることができた。

1553/07イギリスで国教の新教化(ブロテスタント奨励)を進めていたエドワード6世が死去。カトリックのメアリー1世が国王就任する。カトリック再確認主義のスペイン(フェリペ2世の重臣たち)をエドワード6世はだいぶ怒らせていた。スペインの表向きの異様な国力による圧力に、真っ向から対抗できるだけの力はどの国もまだなかったため、それを考慮したメアリーがカトリック派を強調していた。

 

1553アントウェルペンでスペイン王室にフッガーが多額の貸付。この貸付は前年からアントウェルペンの大手スへッツ商会との共同だったが、フッガーの担当分だけで100万Gにのぼった。新教徒(プロテスタント派の抗議運動)と対立していたブラウンシュヴァイク(ニーダーザクセン州の都市)を援助。この年フェリペ2世(カール5世の次代)と英女王メアリとの結婚計画にフッガーも資金援助。

1553秋フェリペ2世がメアリー1世と結婚するためにイギリスを訪れた。この頃アントウェルペンに駐在していたイギリス王室の財務官が枢密院に手紙で「フッガーはメアリー1世の借入要請に応じられぬ状態」と報告している。スペイン軍の兵士の給料のためにスペイン王室もフッガーに借入要求したが、フッガーは慢性的な貨幣不足に陥っていて十分に応じることができなかった。この頃スペイン王室の要人が、金が無くなるたびにアントウェルペンのフッガー支店に不良債権を押し付けにやってきて、横領に等しい支店のゆすりが始まる。マリア(カール5世の妹)がネーデルラント総督だった時代は擁護してもらえることもあったが、ネーデルラントの支配権がフェリペ2世に譲渡され始めていたため、どうにも止めようがなかった。

1555新教徒(プロテスタント)と対立していたフランケン地方(バイエルン州西部)の領邦君主をフッガーが援助。トスカーナ州(イタリア)ではメディチ大公(フィレンツェ政権)と州内の都市シエナとで折り合いが合わずに険悪となり、シエナがフランスと結託するようになっていた。それと戦うためのメディチ大公にフッガーが資金援助。

1555/09/25アウクスブルク帝国議会で、新旧両教徒(カトリック派とプロテスタント派)の同権を認めるかのような「住民はその地の領主の信仰に従う」という、歴史記念的な新旧の宗教和議(アウクスブルク信仰告白の裁定)が、カール5世の名義によって発表される。モーリッツとの対立・和解も大きく影響していたといわれる。教会改革の大幅な前進ではあったが、当然のこととしてこの解釈ものちに巡る形で、プロテスタント運動が再燃し大変なことになっていく。

1555カール5世が皇弟フェルディナンドにドイツの全権を託す。カール5世の引退予定を受けたフェルディナンドは帝位継承を望み、スペインとの関係が冷えていたアントーンにそのための資金援助を得ようと動く。皇帝権のあり方を巡ってフェリペ2世(スペイン系ハプスブルク)側とフェルディナンド(オーストリア系ハプスブルク)側は一時険悪になり、アントーンはこの対立には関わらないよう務めた。(1556-1564 の間、フェルディナンドが皇帝に就任する)

1555/10カール5世がフェリペ2世にネーデルラントの統治権を正式に譲る。スペイン王位、ドイツ帝位と続けて辞退。

1556イタリアとネーデルラントで、フッガーがフェリペ2世に合計110万Gを貸付。

1556カール5世がスペインに帰国。ユステの修道院に隠退。フェリペ2世時代のスペイン一強主義の助走が始まる。つまり「我がスペインに国防面・議会面で多大に面倒を見て貰っておきならがら、ローマもたいがい(イエズス会に支えられなければ何もできない)だが特にプロテスタント派たちは今まで散々に手を焼かせやがって」感を強める。

1556この年から 1584 にかけて、特に経済隆盛期の 1540 年代には南ドイツ商人団として力をもっていたアウクスブルクの巨商たちがその頃から次々と破産していき、かつての金融都市アウクスブルクの栄光時代も終焉に向かう。フッガー家もアントーン・フッガーが亡くなって以降はかつての力を失う一方になるが、資産家としての命脈は 1580 年以降も保たれていく。

1557この頃に病気がちで事業指導にも支障が出始めていたアントーンも死期が迫っていた。スペイン王室(フェリペ2世)との関係は冷め切り、スペインがアントウェルペン市場のフッガー会社資産の差し押さえを始めたことも手伝って、アントーンはフッガー会社の全事業を総解散する準備を始める。それを惜しんだロシア皇帝イワン4世(在位1533-1584)が、魅力的だったフッガー事業に出資し供与したいと打診されるも実現はしなかった。フッガーはリガ(ラトビアの都市。ポーランドの北のリトアニアの北。かつてのバルト海商業圏で北ドイツとの交友関係があった)まで銀行支店を伸ばしていたため、規模は不明だがロシア正教圏との金融取引もあったと見てよい。

1557恐れていたスペイン王室の、第1回目の債務支払停止宣告(国家破産宣告。国債の無効化。市場相場の強制巻き戻し。デフォルト)となり、フランス王室も同じく債務支払停止宣告に踏み切って共に根を上げる。アントウェルペンでスペインの国債で支払われる予定だった銀80万G分が、慌てて差し押さえられる事態となる。金回りが悪化してヨーロッパ中が急に不景気となったため人々も動揺したが、1575 の第2回目と比べるとこの時のものは序の口もいい所だった。

1557秋フッガーが距離をとる一方だったため、スペイン王室(フェリペ2世の重臣たち)もフッガーをいよいよ敵視し始め、資産の差し押さえに本格化に動く姿勢を見せる。仕方なくフェリペ2世に多額貸付を行うはめとなってしまう。フッガーの事業の総解散は許されなかった。ただしこれによってスペイン王室の心証はある程度回復する。

1558フェリペ2世への多額貸付の代替としてフッガーは、トスカーナ鉱山事業の期間特権の斡旋を得ることになる。これによってアントウェルペンで流通していた下落を続けていたフッガーブリーフ(証券)の価値も急回復した。しかしこの時点でのスペイン王室のフッガーへの返済総額は170万Dと大して減っておらず、そのほとんどが具体的な返済の見込みなど立っていなかった。この頃、フッガーとイギリス王室(エリザベス1世)との関係強化が行われる。イギリス財政を懸命に立て直すことになる財務大臣トーマス・グレシャムの仲介で話は早かった。グレシャムはアントウェルペン市場に詳しく、フッガーのこともよく知っていた。

1558/09カール5世死去。前代未聞の王権の大継承者として生まれ、スペインは莫大な富を手にする流れとなるも、世界最凶の借金大魔王に終わるという訳の解らない金策の苦難続きの波乱の生涯を終える。カスティリャ王(スペイン王)在位40年間の間のカール5世は、その内の16年しかスペインに滞在しておらず、実に24年間もの間、ドイツやネーデルラントに滞在した。引退した時点で5年先までのあらゆるスペインの特権を質入してしまっていたため、フェリペ2世の重臣たちも前途多難で参っていたのが、異様なスペインの国力の、その裏側の実情だった。

1559アントーンが亡くなる1年前の年。アントウェルペンのフッガー支店で盛んに貸付が行われるようになり、エリザベス1世(イギリス王室)にも貸付。この年スイスがプロテスタントの気運で揺れるようになっていたため、再カトリック化のための資金援助の要請を受ける。

1559スペイン王室(フェリペ2世の重臣たち)からフッガー事業の総解体は認められずに、限度を知らない多額借入の要求に苦慮しながら、フッガー会社のこれまでの多拡事業も不景気続きで経営悪化が続いていたのを、アントーンは懸命に立て直しに務めていた。上の事情など知る由(よし)もなかった多くの下々は、フッガーがスペイン、イタリア、ドイツ・オーストリア、ネーデルラント、イギリスと領邦君主全体、等族諸侯全体に多額貸付していた姿にこの頃もまだ「フッガーがあらゆる権力者たちを、金の力で裏で操っている」という強烈な印象を受けていた。

1560/08/25アントーンの容態は悪化。病床につく。人文主義者であったアントーンは、ドイツ中で険悪になる一方のカトリック派とプロテスタント派を常に憂慮し、死の直後までその和解に尽力していた。

1560/09/14アウクスブルクでアントーン死去。聖モーリッツ教会で葬儀が行われた。騎乗した120人の貴族も加わった葬列はまずキルヒハイム城(フッガー領)に向かい、翌日バーベンハウゼン(フッガー領)に到着。

1560/09/19木曜、同地の教会で死者を送るミサが行われ、レギーナ夫人の眠る傍らに埋葬された。企業家の活力と才能は最後まで衰えなかった。「商人の王」「対抗宗教改革への有力経済的擁護者」「南ドイツ・シュヴァーベンの黄金経済時代を代表する最後の偉大な指導者が亡くなってしまった」とその死が惜しまれた。アントーンが亡くなって以降は、これまでフッガーを中心としてきた国家銀行も、証券市場の支配力も著しく衰退していき、資本市場はジェノヴァ筋が独占していくようになる。

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これが、時代変容が激しかった神聖ローマ帝国全体(西方教会圏・カトリックのキリスト教社会)を、議会(法整備・身分再統制・議会改革)で懸命に整備しながら、威厳のための派手な軍事行動を続けざるを得なくなっていたカール5世と、その無理難題を国家銀行の立場で懸命に支え続けたアントーン・フッガーの様子となる。

フェリペ2世(スペイン伝統筋で固められていた重臣たち)時代のスペイン一強主義(16世紀後半)の、その前時代の大変な様子に注釈をつけながら、時系列でざっと並べてみた。

貿易事情も入れるとこの倍になりそうだったため除外した。

 

説明しなければならないことが多すぎるが、残りの文字数を考慮しながら今回の補足をする。

都市の市民権を得ている中での、その下っ端たちの家族一家の年間の生活費はだいたい50グルデンだったといわれ、その枠から常に弾かれていた大勢の貧困層の年収は10グルデンも無かった。

 

貧困層の多くは、雇用が不安定な雑用や重労働の手伝いの日雇いの仕事を、貧民同士で取り合いながら路頭に迷っていたのが常だった。

年の生活費50グルデンを、現代日本の消費感覚で大体150万円から200万円くらいだった推定すると1グルデンは4万円くらいだったという見方ができるが、現代とは物価も住宅事情も資産観念もだいぶ違うため、現代との換算も少し難しい。

各地の教会財産(地域ごとの教義機関の予算。税収特権や献金で補填しながら、できるだけ減らさないように維持されていた)として司教座で扱われる額は1000単位で、ブレスラウ司教メッカウがフッガー銀行に預けた教会財産6000グルデンのことが知られると、人々からは「教会財産の横領ではないか?」「そんな巨額が一体何に使われるのだ」と驚かれた。

 

教会財産は7万グルデン以上保有していた所もあったようだが、3万グルデンもあればかなり多い方だった。

ドイツはクロイツァーが最小単位で、60クロイツァーで1シリング、20シリングで1グルデン(正式にはライングルデン。グルデンとだけ書かれている場合は大抵ドイツを指す)になるが、フッガーの鉱山業の銅取引で、重さあたりのシリングとクロイツァーの単位までの値段査定がされている。

売れ残りの傷んだ食品が2、3クロイツァーで叩き売りされるのを貧困層もあてにしていたといわれ、それで体調をおかしくする者も多かったといわれる。

「その貧困層たちの苦痛をよそに」という感じに見える、30万グルデンだの50万グルデンだのの凄まじい現金貨幣が、王室の国庫から威勢よく軍備にジャンジャン放出されるが、その大金は一体どこに消えていったのか。

 

それを整える武具製造の他、軍で使う馬の飼育や、陣営に使う荷車や陣幕資材、旗、衣類や毛布や、その染め物業者、靴やベルトやかばんなどの革製品、その金具製造などの産業の仕事が忙しくなり、仕事先も増えて下々の間で金回りがまず良くなった。

 

それにありつけなかったとしても、路頭に迷っていた貧困層の大勢が軍に徴用されるようになったため、貧困層にも食料と貨幣の配分が行き渡るようになり、社会復帰するための支度金を得るきっかけや、購買意欲を促進させ経済を活性化させる手助けとなった。

 

だからといって当時の貧困対策がこれで十分に対策されたという訳ではなく、その恩恵に便乗できなかった者たちもまだまだ多かったため、以後も貧民救済に取り組まれるようになる。

 

いずれにしても多くの貧困層の生活改善の助けになったのは間違いなく、実際にこれを元手に少額の貿易商や証券投機から始めて大成功した者もいた、にわかな成金も出現するようになった。

 

つまりスペイン王室(特にカール5世)もフランス王室(特にフランソワ1世)も、派手な軍事行幸の威勢の張り合いを繰り返して国庫をあっという間に枯渇させたことは、結果的に多くの下々への多大な救済処置となった、だからツンフトを解体する動きになっても、なんとかなったのである。

 

特権貴族たちだけでない、あちこちで破産し始めた資本家たちも含める上の富を、下にジャンジャン放出することになったことは、上の権力を弱め、中間から下層の民権的な力を身に付けさせる要因になる。

 

カール5世の帝国議会時代はそれが顕著な時代だった、だからフェリペ2世のスペイン一強主義時代には下々(貧困層の支持も顕著だったプロテスタント)にも少し強気にさせた原因だったともいえる。

 

近世の身分制議会では、騎士修道会に所属する小貴族たちは、中世のように馬に乗って重装備で槍で突進する「騎士」という姿をやめさせ、大将(大貴族)を補佐する各小隊の指令系統の吏僚化が進み、必要に応じて大勢の庶民を動員するという、それで大軍戦の体制を整えるという近代的な形に変えられていったのも特徴になる。

 

戦いで目立った手柄を立てる活躍をし、腕に覚えありで武力的に出世してのし上がるというような日本の戦国前期のような発想をやめさせ、「騎士」は織田氏でいう所の公務吏僚の品性規律を担当する立場だという、その身分再統制を急に始めたため、西洋では中世の騎士の慣習通りでないことに不満をもつ時代錯誤の反対運動も起きている。(ドン・キホーテの物語が顕著)

 

連隊1つ(兵力約6000)の1ヶ月の維持費は3万5000グルデン(2万5000ドゥカード)で、これは食費と賃金が主で、ここから武装費用が加わった。

 

そこに非戦闘員の軍属の、旗手、司祭(軍謀祭酒と思われる)、糧秣係(炊事係)、軍医、ラッパ手(軍の指揮の合図係)も手配し、軍に支障がでないように準備、訓練しなければならないためなかなか大変だが、法(社会観)の近世化が、軍の近代化にそのまま現れていたといえる。

 

兵6000の内の熟練兵が100名で、これが騎士側(吏僚)を補佐し、日本でいう所の、織田政権をきっかけに整備されるようになった公務正規雇用の足軽・中間層に相当すると見て良い。(熟練兵は一般兵の倍の給料だった)

 

15世紀末に遠隔地商業網の台頭、航海事業の発達、郵便や出版や銀行の台頭などで情報交流や時間観念の経済社会も一変するようになっていた中、16世紀になると王族の国庫の大放出による軍政の一変で、今までのキリスト教社会をますます激変させることになったのである。

 

スペイン王室のことに詳しかったイエズス会と、1568 年からの織田政権との交流は、西洋で起きていたこれら流れを織田信長は彼らから聞き、向こうのおおまかな様子を把握していたのではないかというのが、筆者の意見となる。

 

その8年前までは、スペイン王室も頼り切りだったアントーン・フッガーが健在で、アントーンがアウクスブルクの都市部に大きな福祉住宅を作って驚かれていたことも、織田信長はもしかしたら知っていたのではないかと筆者は見ている。

 

これから、そもそもフランスはどんな立場だったのか、また当時、王室が資本家たちの銀行をあてに国債を積極的に発行したことで、急に出現して急成長を始めた証券市場と、各都市の大市の関係などについて説明していきたい。