近世日本の身分制社会(107/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか35/?? 2022/09/30

今回も、日本と西洋で政権的に交流するようになった織田政権時代の、西洋の経緯について引き続き触れていく。

 

織田信長とイエスズ会が交流することになった当時の、ドイツに代わるキリスト教国家の主導国となっていたスペイン一強当時の西洋は、どのような社会変容を経てきたのかの特徴について補強していく。

本能寺の変が起きた 1582 年頃本は、日本は世界線から見るとどんな立ち位置だったのかを知るために、西洋の事情も補足しながら日本とを改めて見比べるようにすれば

 中世(寡頭主義時代)から近世(等族主義時代)への移行期で、全く違うように見える日本と西洋は、共通する教訓点も意外と多いことを見逃さないことで、16世紀はどんな時代だったのかの理解も、より深められるようになる
 

 今まで見落とされてきた当時の国際観(議会制観)として、日本と西洋の相違点を整理していくことで、西洋(世界線)に関心を向けていた織田信長の国家構想と、本能寺の変に至った事情も見えてくる

という筆者の前提としての、まとめになる。

数字を意識した説明に入っていきたい所だったが、それに入るに当たっての背景説明がまだまだ不足しているように思い、何にしても伝わらなければ意味がないため、今回ももう少し西洋の歴史背景(社会心理)重視の説明を続ける。

 

まず15世紀末から16世紀初頭にかけてのヨーロッパは、先駆けの身分制議会(議会再統一)で強国化したフランスが、特に軍事体制の改革が目立ち、その力量は西洋中で一目置かれるようになっていた。

 

しかし、さらに大規模に強国化していくことになったスペインが、特に新大陸の入植事業の大成功によるその天井知らずの勢いも脅威になる一方になっていったため、その強国フランスを常にあせらせるほど目立った。

まずスペイン(カスティリャ・アラゴン連合)は、15世紀末のレコンキスタ(西方教会・カトリック再確認主義によるイベリア再統一運動)をきっかけに統合国家として、曖昧な所が多かった裁判権も、議会的に敷き直されていく形で強国化された。

さらに大手の王族同士の孫のカール5世(皇帝マクシミリアン1世の孫。次代皇帝)を国王に迎えたことで、スペインは今まで見たことがない王位継承者としての格式も身に付けるようになる。

スペインは際限がないほど強大化していく一方だったが、カール5世時代の経緯がなぜか注目されずに、その次代のフェリペ2世時代(スペイン王。カール5世の子)の様子をいきなり見ようとすることばかりがされてきた。

 

あらゆる事業規模が膨張していく一方だったスペイン王室は、その分だけ凄まじい膨大な書類の処理に追われるようになり、フェリペ2世は「書類王」と呼ばれたが、その基礎はカール5世時代に作られたものであったことが見落とされがちな所になる。

神聖ローマ帝国(西方教会圏のキリスト教国家)の帝国議会(世俗側の中央議会)の、表向きの中心地はドイツということになっていたが、その指導(主導)の実質はスペイン王室になっていたこと、そしてカール5世からフェリペ2世のへの移行を期に、方向転換されるようになった経緯(社会心理)も見落とされがちにな所になる。

カール5世が 1519 年の皇帝選挙で、次期皇帝(帝国議会の代表者)の座も決定的となったその8年後の 1527 年には、教皇庁(聖属議会の代表側)がこれまでの失態を何も反省せずに再び暴走を始めたため、帝国議会側(世俗中央議会側)にとうとう踏み潰される(ローマ劫略で制裁される)ことになるが、下々は上の間で何が起きていたのか理解するのに時間がかかったが、上の間ではかつての聖属側と世俗側の力関係(議会力)は逆転していたことが、もうはっきりしていた。

スペインは大手の王族同士による統合国家を実現することによって、その上ない王族の格式を確保しながら、国内議会の近世化(等族議会制)を進め、経済規範の裁判法(基準)も整備されていくようになった、この流れが、未開だった新大陸(アメリカ大陸)の入植事業(支配権の確立と資源開拓)でも大きく活かされる形となる。

スペインはイベリア全土の裁判権(議会力)を再構築・強化(身分再統制=人事・議席改革)後にしばらくして、資源豊富で広大な新大陸の支配権を、歴史的な時間で見るとあまりにも短期間な、たったの15年や20年そこらでそれを独り占めするように、急に掌握する方向になったことが、これは大幸運だった一方で、歴史経緯的(社会心理的)には避けて通れない大不運だったともいえる。

航海大事業の先行組だったポルトガルは、後発組だったスペインとは制海権・貿易権のことで当初は難色を示し合ったが、和平的に連携するようになった。(トルデシリャス条約)

 

新大陸の豊富な資源をスペインが独り占めしたといってよいほど、その富が船でスペインにどんどん運び込まれるようになり、さらにポルトガル主導で連携していたアジア貿易の、リスボンとアントウェルペンでの大市場化の経済景気も重なった。

 

元々強国であったスペインが、アジア貿易と新大陸(アメリカ)入植の航海事業を得てさらに昇り調子に、世界的にも異様な国益をもたらすようになってしまったことが、身分感覚も含めたあらゆる価値観念を急変させる要因となった。

現代でももし、実り豊かな広大な未開の大農地や、また大規模な鉱山や油田といった未開の地下資源地帯を、国家なり大手企業なりがある日突然それを急に独り占めする事態となれば、GDP(国際間の内需と外需の事情)の相場(価値観念)を一変させてしまう可能性が現代でもあるように、スペインは西洋全体の経済社会観を急変させてしまうことになったのである。

スペインは鉱山資源は元々豊富な方で、また土壌にしても「農地に向かない所が多かった」という訳でもなく、都市計画も農地計画もまだまだ余地のある有望な統合国家だったといえる中、新大陸の入植事業によって、経済資源の富が次々にもたらされるようになった効果はとにかく凄まじいものがあった。

例えばブリテン島(イギリス)のアイルランドのように、土壌が酸性が多かったりなどで農地に向かない地帯も多く、少し不作になるたびに食糧の自給自足問題に難儀してきた苦難を、中世までは歩んできた所もある。

しかしアイルランドでの不利な土壌でも、新大陸南部から西洋に伝来したジャガイモなら、栽培も可能だった。

当初は花としての価値のみしか見なされなかったジャガイモも、重要な食料にもなることが17世紀から18世紀にかけて見直されながら(品種改良もされながら)、アイルランドの今までの食糧自給問題も、近世後半にはだいぶ改善されることになった。

スペインの殖産は元々貧弱などではなかった中、新大陸(アメリカ大陸)に乗り込んで近世的な支配権(裁判権)を敷いていった、入植(農地・鉱山の開発)事業の植民地体制の先取りが、あまりにも順調に好都合に運び過ぎてしまった。

ただでさえスペインは強国だった所に、資源が豊富だった未開の新大陸を先駆けでポルトガルと協約的に発見・探索できたこと、そしてその豊富な資源をスペイン主導の下(もと)で丸ごと独り占めできてしまったも同然になった、だからその恩恵は凄まじいものがあった。

さらにはポルトガルとの協約的なアジア貿易でも大きな経済景気も得ることになったスペインは、歴史的な時間で見ればたったの30年や40年そこらの成長期間で、国力を異様に増大させていく一方になってしまったのである。( 1510年代 ~ 1540 年代あたりの勢いが顕著)

天井知らずに思われた、ヨーロッパでスペインのひとり勝ちであるかのように一強化していく一方のその驚異的な姿は、今までの身分制的な権力均衡(バランスオブパワー。パワーバランス)の観念も激変させるほどの多大な影響も与え、良いことばかりではなかった。

まず、裁判権(議会体制)がやっと近世化したばかり(近代の前身になったばかり)の中で、近代以降(20世紀以降)の体制でないと管理・処理し切れなくなるほどの新大陸事業とアジア貿易の大きな富を、急速に得ることになってしまったことは、歴史的に見るとそれ自体が、様々な危うさと隣り合わせだったことを意味している。

 

20世紀前半に、乱暴な地政学的理由で資源領域権を奪い合った世界大戦的な争いも、だいぶ抑止されるようになって以後の日本の昭和後半から平成前半にかけてですら、不足時代の隆盛期(好景気)から充実時代の転換期(統計期)の処理は大変なのである。

 

単純な足並みの揃え方で勢いに頼ることができる隆盛期(好景気)は、最初の内は良いが、今までの法では新たな価値観念が対処できなくなっていき、その整備が間に合わない間には網目をくぐる慣習頼みの闇市場的(蹴落とし合い的)な不正の横行(今の日本の低次元な教育機関のような身の程知らずどもの、議決性など皆無な外圧任せの頭の下げさせ合いの強要の横行)も顕著になってくるのはいつの時代でも、規模が違うだけで個人間・組織間の歴史経緯(社会心理)もそこは同じになる。

 

何が起きているのかの認識もできなくなっていきながら、問題が大きくなってから後手後手に間に合わない対処がされがちで、実体経済の価値観念が狂い続けたしわよせの共倒れの泡沫債務を招きがちな所は、当時のスペインも、日本の江戸時代の経済期も、また昭和平成の経済期でも類似していえる所になる。

 

いつでも狂い始める(時代に合わなくなってくる)、大小を問わない個々間や組織間の価値観念に、規模(債務責任の大きさ)ごとに応じた改革・公正化(=だらしない自分たちの価値観を自分たちで改善・敷居確認するための議決性の確立)をしていく評議会(自己等族統制・自己情報統制)的な取り組み(品性規律)が遅れがちなのは、当時も現代も同じなのである。

 

やっと法が近世化(まずは上同士での等族主義化)したばかりの当時にスペインは、今まで体験したことがない、第一次・第二次世界大戦と同じくらいの規模の優位性を急に身に付けていってしまったのだから、その定番の、さらに狂気じみた数物権威的な勢い任せの価値観念による弊害もそれだけ招くことになったのも、当然なのである。


皇帝カール5世を国籍的にカスティリャ王(スペイン王)に向かえることになって、国威・格式もいよいよ不動のものとなったのも良いものの、良いことばかりではなかった。

 

西洋(キリスト教国家)の主導が今後はスペインだというのなら、世界的な国際意識の体裁の帝国議会(キリスト教社会全体)の等族指導も、今までドイツが肩代わりしてきたその役目は今後はスペインが負担しなければならなくなったことも、これが結果的にはそう簡単な話でもなく、これが大きく響くことになる。(江戸時代の徳川政権でも同じことがいえる特徴の、この近世と近代の大きな違いを後述)

教会改革が遅々として進まずにドイツで荒れ続けていた法整備も、スペインの力量による帝国議会の主導で等族指導しなければならなくなる、その甚大な負担もスペインが中心に背負わなければならなくなることの苦労も結果的にともなった、だから皇帝権(キリスト教社会全体の最終議決権)を振るうことは、結果的には良いことばかりではなかった。

フランスもその大変さをもちろん解っていた上で、今まで皇帝権(等族諸侯たちへの表向きの支配権の頂点)をフランスに移管させる前例作りをしようと国威・格式の張り合いをしてきた。(後述)

 

しかしそれも次第に、特権の基準(身分再統制的な価値観念)を一方的に独占しつつあったスペインに対し、フランスの国益のための条約を引き出すための総力戦的な消耗戦(近代的な力量の示し合い)のけしかけ方に変容していくようになる。

スペインだけが異様に強大化していく当時の勢いは、ヨーロッパ中から

 「このままでは、スペインの慣習文化(カトリック再確認絶対主義の伝統も含める身分制観念)こそがヨーロッパにおいての全ての格上という構図になってしまい、文化面でも全てそのいいなりに威力的に従わさせられる一方の力関係(身分基準)にさせられてしまう」

という、国家間の力関係が急に開き過ぎてしまったことの、異人種間・異環境間においての多大な脅威も当然のこととして危惧された。

新大陸の富を独り占めするように手に入れ、強大化していく一方のスペインのことは、キリスト教徒たちの目下の強敵であったオスマン帝国(イスラム教国家)としても

 

 「今は我々(イスラム教社会)の方が国力も国際文化力も上回っているものの、しかし天井知らず(に見えた)のスペインを今の内になんとか抑えないと、モタモタとしてるとその内に手に負えなくなる」

 

と、当然のこととしてスペインをキリスト教国家の本体の強敵と見なし始め、危険視するようになった。

 

西洋は、教会改革も遅々として進まなかった15世紀末には、スペイン(アラゴン・カスティリャ)やフランスは危機感をもって、もはや何のあてにもならなくなっていた教皇庁(公的教義体質)など無視し始める形で、教義体制も含めた議会再統一(国内再統一)をするようなったが、それを先に越されてしまい、増強化が目立っていたオスマン帝国(イスラム教国家)に対する危機感も手伝っていた。

 

先駆けで議会再統一(国内再統一)を大幅に進め、支配下扱いの異教(ギリシャ正教圏)との国際交流の見直しまでするようになった、その国力・文明力をオスマン帝国が見せつける側、脅威を与える側だったのが、スペインの台頭によってそれもウカウカしていられなくなる権力均衡に、変えることになった。

 

当時はまだまだ条件は厳しかったものの、それでも異教(ギリシャ正教圏)を条件付きで公認する議会制に動いた、つまりイスラム教を頂点とする一方で異教の多様寛容政策をキリスト教徒たちよりも先取りする形でとうとうオスマン帝国が始めてしまったことに、そんな国際性(議決性)など構築できていなかった西方教会圏のキリスト教徒たちは危機感をもつようになっていたのである。

 

要するにキリスト教徒たちは、スペインが台頭するまではイスラム教徒たちから

 

 「我らイスラム教徒は、東方教会(ギリシャ正教のキリスト教徒)たちをも法的に支配下にまとめる器量(議会力)があることを立証したのだから、次はまとまりのない西方教会(カトリックのキリスト教徒)たちも吸収合併する番なのだ!」

 

といわれてしまっていたようなものだったのである。

 

自分たちができていなかったこと(主体性ある異教異文化対策)をイスラム教徒に先にやられてしまった中、キリスト教徒たちは教義面では何ら主体性(議決性)が見られなくなっていて、もはや何もかもが曖昧でうやむやな最悪の状況だったからこそ、教会改革に慌てるようになったのである。(のちプロテスタント運動を助長する)

 

カール5世が皇帝に、そしてカスティリャ王に就任してしばらくの頃は、オスマン帝国の軍事行動は、ポーランド・ハンガリー方面に多大な脅威を与えるようになり、とうとうオーストリアのウィーン(ハプスブルク家本領の中心地)まで乗り込む事態を招いた。( 1529 年。フッガーも防衛戦費の用立てをしている)

 

カール5世はこれをどうにか追い返すことができて(いったん和解して引き揚げさせ)オーストリアの支配権が奪われることはなかったものの、ハンガリー南部の支配権を取り戻すことはできなかった。

 

陸側では優勢に押していたオスマン帝国も、キリスト教国家の主導的立場を肩代わりするようになったスペインが年々強大化していく様子に少し慌て始め、スペインの国力・権威削減対策として、地中海方面における制海権とアフリカ北部の支配権争い(総力戦的な力量比べ)に注力するようになる。


広大な範囲を教義統一的に統治できていたオスマン帝国の方が、スペインよりもだいぶ表向きの格式は高かったとはいえるが、しかし新大陸を手に入れ、アジア貿易事業でも目立ち、当時は天井知らずのように見えたスペインの台頭は、オスマン帝国をすっかり危険視させるようになった。

 

同じく、今まで皇帝権を巡って国威・格式を張り合い続けてきたフランス王室も、強大化していくばかりのスペイン王室にあせり、まるでオスマン帝国と共闘するかのように(もちろん遠回しではあるが)、スペインに消耗戦をたびたび仕掛けるようになるという、今まで見られなかった近代戦のような流れができた。

 

今までは見られなかったそうした流れは、当時の身分価値観(人種文明観)的な権力均衡(パワーバランス・バランスオブパワー)をスペインが激変させ、多大な脅威を内外諸国に与えるようになった現れなのである。
 

視点を少し変えると、日本の戦国後期の突入期(織田信秀時代)に、他よりも議会再統一(総力戦体制)ができている列強同士で、今度はその権力均衡を破って日本全体の再統一を立証しようとどこも目論んだものの、織田信長が台頭するまではその権力均衡をどこも結局破ることはできなかった、上杉氏、武田氏、北条氏のような当時の権力均衡が、規模こそ違うが当時のスペイン、フランス、オスマン帝国の権力均衡と少し類似しているといえる。

 

仙台の伊達氏、常陸(ひたち)の佐竹氏、土佐の長宗我部(ちょうそかべ)のように、戦国終焉期の時間切れに慌てた遠方諸氏たちが広域統一(地方議会改革・地方人事改革・身分再統制)を進めることができるようになったのも、1570 年代に入って中央をとうとうまとめるようになった織田信長と、その肩代わりを始めた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の、戦国終焉の裁判権争い(議会再統一)の敷居(身分再統制の基準)が見習われる形で、ようやくそれぞれがその近隣の権力均衡を破り始めたような有様だったのである。

話は戻り、消耗戦(総力戦)をたびたび仕掛けられることになったスペインは、表向きの隆盛は全く揺らぐことなくそれらを全て跳ね返すことができたものの、これは互いに均衡を大きく破ることができないまま無理が繰り返されたことで、互いに国政に大きな負担がのしかかることになり、互いに痛み分けに終わる形となった。

 

17世紀以降も、時代の変容に連れて内戦や外征は行われるものの、少し異様だった16世紀の、権力均衡を大きく打破できるだけの議会力(身分再統制力・議会改革力=人文性と啓蒙性の整備力)の差がある訳でもない、「できるから」のただの規模の張り合いばかりの、国政に甚大な負担をかけることになる総力戦体制任せ(消耗戦任せ)の教訓は、17世紀以降に活かされることになる。

 

一時的にオスマン帝国と同じくらいの国力を得ることになったスペインは、フェリペ2世時代になるとプロテスタントが議決権をもとうしていたことも、オスマン帝国もフランスも、全てスペインの威光でねじ伏せることができるかのような勢いを得たものの、全て痛み分けで終わってしまい、プロテスタント対策においては最初はねじ伏せることができていたが、のちにスペインと肩を並べる台頭を許してしまう結果となる。

 

孫子の兵法の基本概要でも、主体性(議決性・当事者性)をうやむやにし合うような、自分たちにも競争相手にも何の敷居向上(和解の線引きを前提とする競い合い)にもならない、行き当たりばったりのケンカの売り方(議会的な計画といえる作戦になっていない、ただの挑発誘導のし合い=だらしないだけの劣情共有)を繰り返そうとすることこそが、自分たちに甚大な負担をかける傾国・崩壊の原因になると、特に強調されている所になる。

 

日本では、競争相手との権力均衡(身分再統制を含める価値観念)を破る(等族指導する=より格上側としての手本家長を示す)ことができなかった上杉氏、武田氏、北条氏と、それをとうとうやってしまった織田氏(とそれを引き継いだ羽柴氏と、その流れをなんとか継承できた徳川氏)が顕著だか、西洋では異人種・異環境間の文化的な問題が日本よりも大変だった分、解っていてもそこがより難しかった所といえる。

スペインは、ただでさえオスマン帝国とフランスの対策が厄介だった所に、さらにドイツでたびたび大規模なプロテスタント一揆が起きて、この負担も重なったことが、のちにスペインの国政に大きな支障をきたす原因となった。

フランスは、オスマン帝国(イスラム教国家)と連携していた訳ではないが、その2つは互いに「敵の敵は味方」という、スペインを困らせようとする利害が遠回しには一致していたのは間違いない。

ただしスペインがオスマン帝国にあまりにも勢いよく押されすぎて、追い返せなくなるくらいにオスマン帝国側が有利になられてると、そうなるとそれはキリスト教徒全体の問題としてフランスも、それはそれで困る。

そのためフランスとしては、スペインがオスマン帝国と争うことになった際に、スペインがあまりにも劣勢になり過ぎることが危惧された場合には、フランスはスペインへの阻害運動は控えた。

 

当時のフランス王室としてはあくまで、急に異様な権力均衡観にしてしまったスペイン一強に対し、その価値基準(身分制)にフランスは全てのいいなりになる気などない姿勢を見せながら、自国の国益の条件を引き出すことが主目的になる。

 

フランスとしても、せっかく自覚されるようになった等族議会制(近代化の前身である、近世の法の議席人事観)から外れるやり方でキリスト教社会全体を崩壊させてしまわないよう、その総合判断(品性規律)で動いていたのか特徴になる。

 

等族議会制の自覚がまずは上同士で敷居確認されるようになった近世には、こうした近代的な国際感覚が16世紀にはさっそく見え始めていたことは、スペイン王室とフランス王室で派手な資金戦的な格式争いをするようになった一方で、カール5世の姉であるエレオノーレ(レオノール)をフランソワ1世(フランス王。在位 1515 - 1547 )の妻として迎えている様子からも窺える。

 

断続的に争ったスペインとフランスが、和議(条約)に進まずに2年近く険悪関係が長引いた際の 1544 年9月の「クレビィの和」の事例からも、度々こじれがちだったスペインとフランスの国交関係が厄介なことになる時に、フランス王室の王妃となった姉のエレオノーレが、妹のマリア(ネーデルラント総督。支配代理)と共に和解工作に動いた様子からも、表向きと内実は使い分けられる、互いの国益を巡る近代的な基準の敷き合いも考慮されていた様子が、そこかも窺えるのである。

 

その格式争いを、キリスト教徒同士では禁止されていた人種憎悪闘争(ジェノサイド)に過熱させていかないためにも、和平の切り札役を姉のエレオノーレが担う形で、カール5世を助けていたのは間違いない所になる。

 

大手の王族同士の婚姻政策で、大継承者として望まれて生まれてきた

 

 カール5世 皇帝。国籍上はカスティリャ王。スペイン系ハプスブルク家の祖となる

 

とその兄弟たち、

 

 姉エレオノーレ 最初ポルトガル王室の王妃。のちフランス王室の王妃として、こじれがちだったスペインとフランスの和平の切り札となる

 

 弟フェルディナンド マクシミリアン1世のオーストリア大公を継承。オーストリア系ハプスブルク家の祖となる。皇帝代理として中小の裁量のものはドイツの帝国議会を代行する

 

 妹マリア ネーデルラントのカール5世の代表代理。喧騒で荒れがちだったアントウェルペン証券市場のまとめ役も務める

 

も、このように当時の大変な時代を、それぞれの立場でカール5世を支えることになるが、その家庭事情も当然のこととして複雑になる。
 

姉のエレオノーレは若年期から、かなりのしっかり者の才女だったようである。

 

これら父であるフィリップ(マクシミリアン1世の子。母マリーのブルゴーニュ公国権=ネーデルラント公領を継承)が 1506 年に28才で若くして亡くなってしまった中、これら母であるフアナも、その母であるイサベル女王(カスティリャ王)が 1504 年に亡くなったことで、その代理を務めることになる。

 

両親が不在となったカール5世のネーデルラント時代の若年期には、王宮関係者たちと一緒に叔母マルガレーテ、姉エレオノーレも、幼年時代のカール5世の面倒見役を懸命に務めていた。

 

ルヴェン(ネーデルラント。ブラバント州の都市)の神学校長だったアードリアン(人文主義者。のちのネーデルラント人教皇ハドリアヌス6世)が、そんな環境だった若年時代のカール5世の教育係に招かれる形で王宮入りし、カール5世のスペイン入りにはアードリアンも同行した。

 

このアードリアンがスペインの国際裁判長を歴任するが、当時の教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ。初のメディチ教皇)時代に遅々として教会改革が進まなかったため、とうとうスペインに強制指名される形でこのアードリアンが、ネーデルラント人教皇ハドリアヌス6世として成立してしまったという、異例事態を招く。

 

表向き教皇選挙(コンクラーヴェ)は、枢機卿(つまり司教)の立場の人物が対象ということになっていたが、実質はイタリア内の枢機卿から選出される場合がほとんど慣例になっていた。

 

まれにイタリア外の枢機卿(司教)から教皇が選出される例もあったが、それはイタリアで内でその対象として十分に認知され納得されていたような交流網をもっている者でなければ、それまではあり得なかった。

 

アードリアンはネーデルラントの人文主義の神学教授出身で、スペインの国家裁判長(大司教の格式に等しい)を歴任し、枢機卿としての格式自体はあったとはいっていても、イタリアの枢機卿団の交流網としては完全に枠外の人物だった。

 

これはスペインやネーデルラントだけでなく、イギリス、フランス、ドイツの各地の司教(その地方の司教座聖堂参事会の元締め=表向きの公的教義体制の教区長)でも同じことがいえるが、司教に選任したことがある家系は、枢機卿としての表向きの格式は得ること自体はできたが、教皇選挙の対象となること、その投票権(特権)を得ることはまた別の話になる。

 

アードリアンが、実質のスペインの強制指名でいきなり教皇になってしまう時代になってしまったことは、ローマには教皇選挙ができるような議決性(主体性)など皆無だったことが露呈していたのも同然だったといえるのである。

 

今の日本の低次元な文科省とやらのような、今までの数々の悪習(等族指導など皆無な寡頭主義の権力任せのままの教義体質)を繰り返すことしか能がない教皇庁(公的教義)を改める(教会改革する)べく、とうとうそのガサ入れに踏み込む特殊監査官のごとく、教皇ハドリアヌス6世(アードリアン)がローマに乗り込む事態を迎えたのである。

 

その前教皇レオ10世が、中世社会最後の晩餐とばかりに、教義改革のためではなく今まで通りの権威のためだけに贅沢に教会財産を散財・枯渇させることばかりしたため、キリスト教社会全体をむしろ挑発する(絶望させる)ように大いに逆なでし、上から下まで内心は怒り心頭だった(教皇庁に大いに失望した)者たちもいよいよ増えるようになった。

 

この教皇レオ10世時代が、ルターが教会体制に堂々と抗議するようになった時期にあたる。

 

ルターの影響で、人文主義の枠を超えた過激的な抗議派(プロテスト派)たちがドイツで増え、教義問題は揺れる一方であったため、キリスト教社会を乱すという理由でアウクスブルクで異端審問が開催されることになるが、その名義的な指示者もこの教皇レオ10世である。

 

その異端審問で教皇庁の特派員がルターを責め立てるも、聖書に精通し、独自に新約してしまった著書をドイツで勝手に出版し、多大な評価を受けたていただけあったルターは、全て聖書を根幹とする新約的な言い分で言い返したことで、この異端審問はかえってルターが聖書博士として優れていたことをお膳立てすることになってしまう結果となった。

 

フィレンツェ共和国のメディチ政権の財力と、スペイン・オーストリア王室の後押しの2つで、にわかに教皇になったようなものだったジョヴァンニ(レオ10世)が、教会改革のために枢機卿団たちを急にまとめることなどできる訳もないまま、その旧態慣習のいいなりにならざるを得なかった実態が、その事績から全てはっきりしている。(教会改革しなければならないことは解っていたが、できなかった)

 

ドイツでは教会問題に対する大規模な一揆(抗議運動=プロテスト)が起きかねないほど怒りが充満していたが、その次期教皇ハドリアヌス6世(アードリアン)が就任すると、早々にキリスト教全体に向けて

 

 「どんな聖職者であっても所詮は人間のやることだから、間違いもする」

 

 「遅々として進んでいなかった教会改革を、今度こそ約束する」

 

今まではありえなかった、今まで下々に高圧的に「神に選ばれし教父に従わなければ地獄に堕ちる」などと偉そうに押さえつける発言しかされなかった教義体質が続いていたのが、教皇直々によるこのような、人文主義らしい前向きな異例な発信が急にされたため世間に大いに驚かれ、教皇庁に対する人々の怒りも鈍るようになった。

 

とうとう人文主義者(他力信仰一辺倒の自力信仰不足に対する改革主義=個々の努力工夫も尊重し合う多様寛容主義)が教皇になる前例ができてしまい、悪習でしかなかった献納制度(セルヴィーティウム)をとうとう止めさせる動きに出たことで、教皇庁の今までの寡頭体質にトドメが刺される事態を迎えたかに上同士では思われた。(下々は上の間で何が起きていたのか解らず困惑していた)

 

しかし、産業廃棄物の老廃物の猿知恵(末期症状のできもしない性善説=だらしない劣情)しかもち合わせていない今の日本の文科省とやらの身の程知らずの法賊(偽善者)どもと全く同じで、世(国際人道観)のため人(次代たち)のための議決性(等族指導の手本=国際裁判権の敷居確認の手本)など皆無な教皇庁(公的教義の偽善者ども)は本当に凝りもせずに、これをただ屈辱に受けて時代逆行に動き出す始末だった。
 

ハドリアヌス6世が不自然に2年も経たない内に急死(暗殺が極めて疑わしい)すると、教皇庁(枢機卿団)は急ぐように教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ。2人目のフィレンツェのメディチ政権的な教皇)を擁立し、教皇ハドリアヌス6世をスペイン王室に押し付けられた腹いせのごとく、スペインと決別してフランスと手を組む方針に切り替えた。

 

かつてフランスのイタリア介入を許し、まとまりがなかったイタリアが親フランス派と反フランス派で全土で分裂し、乱れに乱れたから、教皇ユリウス2世がアラゴン王の加勢を得てイタリア中のフランス派の追い出しに動いた、あの苦しんだ教訓が全く活かされることもなく、弱小国化していたイタリアが操れる訳がなかった強国フランスの力に頼って、スペインに反抗しようとする動きに出たのである。

 

この教皇クレメンス7世時代に、強国スペインの上級貴族たち、高位聖職者たちをいよいよ本気で怒らせることになり、その議決を受けたカール5世が皇帝軍を率いて 1527 年ローマ劫略(悪徳都市ローマの丸ごとの踏み潰し)が決行されることになる。

 

この時のスペイン・オーストリアと教皇庁・フランスの対立構図では、頼みのフランス軍は早期撤退することになり、イタリアでは軍事体制(総力戦体制)など育っていなかった中での、頼みのフィレンツェ軍もろくに抵抗もできずに降参することなり、ローマにあっけなく制裁に乗り込まれる形で、戦いは終結した。


 「十字軍(クルセーダー)編成を号令するだけの教皇庁(ローマ)の主体性(議決性・教義性・国際性・当事者性)など皆無な、教会改革などできたことがない格下の貴様ら(枢機卿団ども)が、カトリック再確認主義で再構築・強国化できている我がスペインに対し、身の程知らずにも何をケンカを売ろとしておるのだ!」

 

 「自分たちの国家(イタリア)の防衛も、議会的にも軍事的にもできないことがはっきりしている、我がスペインにあっけなく踏み潰されるようなだらしないローマ(教皇庁)が、どうやってキリスト教社会を牽引していくというのだ!」

 

と、とうとう思い知らされることになる、世俗と聖属の力関係が完全に逆転した、破門(失格)と戴冠式(合格)の権力を握り続けてキリスト教社会を愚民統制し続ける手口はもう許されなくなった新たな局面を、キリスト教社会は迎えることになったのである。

 

この和解後には、教皇庁が二度と暴走しないようにスペイン王室が首根っこをあからさまに掴むようになるが、同時にローマの再建や、有望だったフィレンツェ共和国がイタリア全体の防衛を担えるようになるための強国化の支援も、スペインが手助けしている。

 

イタリアが見直されるきっかけになったが、西方教会(カトリック)の伝統にいよいよ危機感を強めた各地の生真面目な有志たちが「もう人任せにしている場合ではない」と立ち上がり、その再生委員会として結成されたイエスズ会が、以後活躍するきっかけにもなった。


以後、スペインがキリスト教国家の主導となって 1570 年代までには、スペインの表向きの優位性は顕在でも内実では傾き始めるが、これはスペインだけでなくフランス、オスマン帝国の威勢も同じだった。

互いに総力戦体制(議会体制)で強国化した同士が、今まで少し無理をして国力任せに境界争い(格式争い)をしてきたそのしわよせの支障が、その頃には互いに出始めるようになった。

フェリペ2世時代( 1560 年頃から)のスペインは、つまりイベリアの伝統的なカトリック再確認絶対主義で、当時まとまりがなかった西洋の統一教義の方針を、まずは等族諸侯(ドイツとネーデルラント)の中でプロテスタント主義を強めていた所から格下扱いしながら高圧的に抑え込むようになる。(事情を後述)

西洋全体では経済面、情報面、技術面は発達しても、教義面ではプロテスタント運動(カトリック体質=公的教義体質からの脱却)の影響で統一教義的なまとまりがむしろ見られなくなっていた。

これは愚かだったかどうかはともかく、教義面ではスペインはカトリック再確認主義で統一して実際に強大化し、西方教会圏の主導国になった、それが当たり前の感覚だったからこそその絶対主義による威嚇がフェリペ2世の時代に強められた流れになる。

帝国議会(スペイン王室)は今までは

 「プロテスタントというその存在など公認・認知しない」

を一貫してきたが、カール5世が間もなく引退する手前の 1555 年アウクスブルク信仰告白のプロテスタント側の提出に対する議決を巡って、

 「条件付きならプロテスタントの存在を認めても良い」

にとうとうそれ折れることになった、までは良かった。

しかしこの時点ではまだ、公認・認知するしないの話に留まり、格式的な扱いも、条件もこの段階でははっきりした訳ではない。

 

帝国議会の主催地はドイツであっても、その実質の主導であった、カトリック再確認主義の意識が強かった当時のスペイン王室としては、内々では渋々譲歩させられることになった。

1555 年プロテスタント(公的教義体質との決別=統一的教義権威との決別)の立場をとうとう議会的に公認させただけでも大きな前身だったといえるが、プロスタントたちはここまでも大変だったが、ここからもさらに苦難は続くことになる。

フェリペ2世の代になるとスペインはまるで、オスマン帝国が領域内でギリシャ正教圏を条件付きで公認するようになったその様子を、あてつけに参考にするかのようなやり方を露骨に始めた。(後述)

つまり議決権をもとうとするプロテスタントはもはやキリスト教徒扱いしない前提の、まるでキリスト教に改宗しようとしない隷属下のユダヤ人たちに厳しい態度を採っていたのと同等の、異教の格下扱いを前提に、スペインのカトリック再確認絶対主義による統一(身分再統制)が始められてしまうことになった。

西洋は、経済面、情報面、技術面の発達は顕著だった一方で、教義面においてはむしろカトリックとプロテスタントで二分し始め、キリスト教徒というくくりの国際面の体裁では一向にまとまりを見られなくなり、そこに危機感はもたれていたが、その見通しも一向に見えなかった。

教皇庁(ローマ・カトリック・西方教会の中央的な聖属議会)などは、実質はイエズス会士たちの懸命な立て直し運動の後押しがなければ、もはや何のあてにもならなくなっていた。

独自のカトリック再統一でまとまっていたスペインから見れば、人文主義の過激派のプロテスタントたちがドイツとネーデルラントで増え始めた様子に

 

 「プロテスタントたちがキリスト教社会を乱している!」

 

と見なすようになり、フェリペ2世の代となると、プロテスタントたちに議決権など与えない身分上下統制を強気に威嚇し、監視・摘発するようになった。

 

16世紀前前半にカトリックとプロテスタントでの二分が始まると、16世紀後半には、穏健派同士の両者間ではともかく、過激派同士の両者間では険悪になっていく一方だった、それでは国際的な体裁として問題だから、スペインがキリスト教社会全体が、カトリック再統一でまとまっていることにするために、威力任せにプロテスタントたちを抑え込む形で、その体裁を維持するようになった。

スペインの、カトリック再確認絶対主義としての盟主の力が強まった 1560 年代からは、つまりカール5世時代からフェリペ2世時代に移行してからは、スペインはどの国もプロテスタントに議会に参与させないよう(参政権など与えないよう)、国威任せに各地に威嚇を続けた。

当時はスペインに抵抗できるだけの国力も、議会の再構築も、どこもスペインほどはできていなかった等族諸国たちは、スペインに口実を与えないよう、参政権(議席)を得ていた者たちの中に、プロテスタントに鞍替えしようとしていた者たちを摘発しているかのように、スペインにごますりの報告をするという力関係が、しばらく続くようになる。

イタリアはともかく、特にドイツ、ネーデルラント、イングランドに対し、スペインのカトリック再確認絶対主義の身分制的な威力に反するような異論が少しでも出ようものなら、それ自体をプロテスタント扱い(異教)に弾圧的に口封じする体制(事情を順述)は、国際間(異人種間・異環境間)の人文多様整理に結び付く訳がなく、当然それは長続きしなかった。

異人種・異環境間の中で、他力信仰で今まで強引にまとめてきたキリスト教社会はたたでさえまとめるのが難しかった中で、その体制は実質30年も続かなかった所か、第二次プロテスタント運動(教義の統一権威化との決別運動=カトリック絶対主義のスペインをキリスト教国家の盟主などと認めない運動)ともいうべき流れを招く結果となる。

 

結局ネーデルラント北部(オランダ)とイギリスに、逆転的な独立運動(プロテスタント国家)で離脱され、この影響はフランスにも大きく波及することになる。

イエズス会としても、キリスト教国家の主導国となっていたスペインの公認無しでは、公会議制によるカトリック再興運動も難しかった、だからスペインの絶対主義の足並みに、仕方なく合わせていただけである。

1570 年代にスペインの国力が崩れ始め、その体制も長続きしない陰りが見えてくると、今までスペインの絶対体制で威力任せに押さえつけられてきた所ほど、スペイン離脱運動のためのプロテスタント運動(反カトリック運動=スペイン主導のキリスト教社会とは決別)が強まり、それをスペインも抑え込むこともできなくなっていく形で、離脱的(独立的)な動きを許してしまうことになる。

スペインの大経済社会は 1550 年代の時点で、時間に振り回されてばかりの泡沫的な荒い債務処理の仕方も目立ち、利益は莫大だったが負債も莫大に抱え始め、内情はかなりの危うさが見えるようになっていた。(スペイン王室の枢密院や、それに関わっていた大手の資本家たちしか知らなかった)

その内情は、それに結局付き合わされることになったフッガー家の、現存している当時の貴重な帳簿記録から窺うことができる。

フェリペ2世の時代ではなくカール5世の時代が実際は隆盛期だった、経済大国化が著しかったスペインだけの異様な一強化は、今までの西洋の社会観念(身分価値観念)を激変させたことは、競争国だけでなく内外問わずに、身分価値面でも多大な影響と危機感を与えた。

フランス(キリスト教徒)とオスマン帝国(イスラム教徒)の、これまでのあり得ないような遠回しの対スペインの共闘が見られるようになったのもそうだが、のちスペインがプロテスタントに威力任せに弾圧に動くようになり(事情を順述)、かえってその抵抗の根強さを招くことになった、二転三転するような社会変容も当時の特徴として窺える所になる。

エラスムス(結果的に融和改善・穏健派の人文主義)とルター(結果的に決別・抗議派の人文主義)をきっかけに進展していったプロテスト(教義問題に対する抗議)運動というのは、

 統一権威の公的教義体制(上下権力)を敷いてきた中世までの寡頭体質(議決性をうやむやにし合うために指標乞食主義・劣情共有を押し付け合う体質)に、反面教師的に否定・決別(人文多様重視=個々の努力工夫ごとの敷居確認重視=品性ある信仰の自由尊重)

するようになった根幹が、まずは特徴的になる。

教義における統一権威と決別したがるプロテスタント同士は、細かい所では地域ごとの利害もバラバラな異人種間・異環境間から、連携するために意思統一していくことも簡単ではなかったはずだった。

しかし、公的教義(教皇庁・ローマ)の首根っこを完全に掴みながらカトリック再確認主義の主導国の自負を強める一方だったスペインが、フェリペ2世時代になると勢い余るように威力任せにプロテスタントたちを格下扱いしながら追い込みすぎたことが、よりに社会観念を変容させるようになった。(事情を順述)

スペインのカトリック再確認絶対主義に従わない(そうでないのに議決権を得ようとする)時点で、キリスト教徒として否定(異教徒扱い)する傾向ばかり強められ、プロテスタントたちに危機感を与え続けたことが、逆転を許す反カトリック(プロテスト運動=中央的な教義権威との決別運動)の結束力を強めるきっかけとなった。

当時は表立ってはどこも逆らえなかったスペインの威嚇(カトリック再確認主義による身分統制)が向けられたため、各地もそのいいなりのままに議会内におけるプロテスタントの弾圧に積極的になった反プロテスタントの過激派たちの政党が、どこも顕著になっていった。(どこもそれが顕著になり、イギリスもその傾向が強まったが 1570 年代からは疑問視されるようになる )

議会(意見提出と回収整理の場)からすっかり爪弾き(つまはじき)されるようになったプロテスタントたちが、その過激派たちに対して

 「お前たちの方こそ、よそ(スペイン)の権威(カトリック再確認絶対主義による身分統制)のいいなりのままに、自分たちの国家文化のあり方(議会)を自分たちで放棄し合っている売国奴(偽善者)どもではないか!」

 「お前らの方こそキリスト教徒ではない!」


と言い返さんばかりに、スペイン(カトリック再確認絶対主義)を目のかたきにする構図(反カトリックの整備的な利害一致)ができていった。(この対立構図はフランスでも波及=サン・バルテルミの弾圧事件とのちのブルボン朝・ナバラ公による教義整備)

統一権威など頼らない異人種間・異環境間で、議会的に連携・結束できてしまう要因となった第二次プロテスタント運動ともいうべきイギリスとオランダの、スペイン離脱(カトリック再確認絶対主義との離脱)の歴史経緯(社会心理)は、キリスト教社会を知る上で非常に重要な部分になる。(第一次はドイツのシュマルカルデン都市同盟)

とうとうキリスト教徒は、16世紀前半にはまず

 世俗議会側が教皇庁(ローマ・聖属議会)の首根っこを掴むようになった構図の、その主役のスペインが、カトリック再確認絶対主義で西洋全体を教義再統一しようとした姿

がまず大きな進展だったといえるが、そこからさらに16世紀後半には、その動きに独立運動的に

 統一権威(カトリック再確認絶対主義)に頼らないプロテスタント主義で、同志的な教義統一(和平連携)ができる議会体制を構築するようになった構図の、その主役のイギリス・オランダの姿

のこの一連の流れは、人類史(教義史・裁判権史・議会史)の大きな進化だったといえる。

のち立場を逆転させていった、つまりスペインの態度


 「カトリック再確認主義に従わずに議決権を得ようとするプロテスタントたちが、キリスト教社会を乱そうとしている!」

 

からイギリス・オランダの態度の

 「自分たちの議決性を放棄し合っているだけの、よそ(スペイン)の権威(カトリック再確認絶対主義による身分上下)のいいなりの過激派ら売国奴どもの方こそが、キリスト教社会を乱そうとしている!」


で優位性を築くようになったプロテスタントたち(まずはイギリスとオランダが顕著になった)とは、単にカトリックに仕返しの報復人事のために運動したのではないことは、今の日本の低次元な教育機関どもとそのただのいいなりどものように

 

 今までの寡頭主義(ただの指標乞食主義)通りでなければケンカ腰に憎悪増幅(ただの劣情共有)しながら錯乱(気絶・思考停止)することを繰り返すことしか能がない、口ほどにもない人生観しかもち合わせていない法賊(偽善者)ども

には、その意味(教義史・裁判権史・議会史)を理解できるだけの知能などない所になる。

そもそも、キリスト教社会の歴史経緯(社会心理)のことなど今まで何ひとつ理解できたことがない、その異環境間の比較(国際人道観の手本の示し合い)もできたこともない文科省とやらの知能障害者の集まりの法賊(偽善者)どもが、何を偉そうに公務公共側に立って世界史だの、非暴力だの非核だのという話なのである。

のちのプロテスタントたちは、確かにスペインの威嚇的な身分感覚の影響を受けすぎていた反プロテスタントの過激派たち(カトリック再確認絶対主義たち)に対しては遠慮なく排撃に動いたが、カトリック派の全てを排撃しようとした訳ではない。

その対立構図ではなかった、穏健的・中立的・社交的だったカトリック派とプロテスタント派たちもいたため、そちらに対しては、特にかつての教皇庁のやり方のような強要的すぎる摘発や規制の行き過ぎがないよう、反面教師的な気配りもされている。

この上ない国力と格式を身につけたスペインが、レコンキスタ(イベリア再統一)以降から昇り調子が続いてしまったカトリック再確認絶対主義によって、まとまりがなかった西方教会全体の教義再統一が試みられ、それで表向きはとりあえず足並みを揃えられているように見えていた。

しかしそのスペイン主導は、結局は時間がなかった(事情を順述)から、それを威力任せにが性急に強行されていったことも災いし、国際的な異人種・異環境間の敷居確認などできる訳もないまま、その表向きの体制は実質30年も続かなかった。(大体 1555 ~ 1585 年あたり)

それまでに甚大な負担も抱え続けてきたスペインが耐え切れなくなって 1580 年代、1590 年代とかつての権威が崩れていく所は顕著になっても、スペインはカトリック宗主国としての表向きの権威は誇張され続けた。

そのスペイン王室をそれまで仕方なくもち上げごますりしながら連携していた、スペイン王室のことをよく知っていたイエズス会たちは、スペインの実態が 1570 年代の時点で既に危うくなっていた内情は、当然のこととして知っていたと見てよい。

西洋の経緯を見渡さずに、文献を部分的にしか見ていないと、さもイエズス会がカトリック再確認絶対主義を妄信的に強行しようとしていたかのように見えるが、時間も限られていて(事情を順述)そうせざるを得なくなっていたから、イエズス会も仕方なくスペインの権威的な歩調に合わせていただけである。

生真面目だったイエズス会たちは、失墜し続けていたカトリックの教義力を再興するために、公会議制(聖属問題の健全化委員会)を熱心に手助けしていたが、スペインの身分統制的なカトリック再確認絶対主義の性急なやり方に対しては、本心から同調できていたのかについては極めて怪しい。

キリスト教社会の様子を知ろうと、イエズス会士たちから西洋の様子に熱心に耳を傾けていた織田信長は(織田信長の方針を熟知していた明智光秀と羽柴秀吉も)、向こうの流れを大方理解していたのではないかと、筆者は見ている。

織田信長が新参にはかなり寛大で、公正さを大事にしながらの「自分たちがどうしていきたいのか」を正直に話し合う交流重視の姿勢さえ大事にしていれば、どんどん便宜してくれた。

西洋では、いくら経済面や技術面や情報面が発達しても、教義面では力関係に頼ってばかりのような、威力任せにやらないとまとまりがなかった所に、イエズス会は内心はウンザリしていたのは間違いない。

 

どうせ先方(日本)でのことだからこそ、内々では言い分に耳を傾けてくれた織田信長には、内々でそういう所も正直に、健全化を巡る良い意味で、少し愚痴りながら話していたのではないかと筆者は見ている。

 

これから、帝国議会の開催とも大きく関係してくることになる証券市場の事情や、まずドイツで始まったプロテスタント運動を当時のスペイン側がどう見ていたのかなどについて、触れていきたい。