近世日本の身分制社会(106/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか34/?? 2022/09/14

今回は、西洋の大航海時代以降の、新大陸(アメリカ)事業、アジア貿易などの様子に触れながら、スペイン一強時代に向かうまでの西洋の事情を紹介していきたい。

のちのスペイン一強時代に大きく関係してくる、リスボン(ポルトガルの首都)とイベリア方面(ポルトガル・スペイン全体)の歴史的背景から、まず説明していきたい。

イベリア半島の西岸側は、14世紀前半ではハンザ都市同盟による交易が盛んだったが、ジェノヴァ人たち(イタリア人。リグリア州の資本家たち)がイベリア半島に進出し、先駆けで遠隔地間商業網を構築し始めると、14世紀後半にはイベリア半島の商業網も勢力圏的に発達しながら変容するようになった。

イベリア半島は14世紀後半になると、ジェノヴァ人たちによる

 

 スイス - フランス南部 - カタロニア(カタルーニャ) - アラゴン - カスティリャ

 

間の陸路側の商業網の繁栄が顕著になるが、まずはカタロニア州(スペイン・旧アラゴン)の要港都市であったバレンシアバルセロナから、縁が築かれていったようである。

14世紀前半までのリスボン(ポルトガル)は、バルト海側からのハンザ都市同盟の縁が強かったといわれ、ポーランド北部の海岸都市グダニスク(ドイツ人も馴染みある都市でダンツィヒと読んでいた)と、ドイツ騎士団領(のちプロイセン)との縁が特に強かったようである。

西洋でのヨーロッパとアジア間の東西交易の市場は、大航海時代以降の16世紀初頭にはリスボンアントウェルペン(アントワープ。ネーデルラント南部。今のベルギー)がすっかり独占するようになるが、それまではヴェネツィアが独占していた。

14世紀の時点の東西交易網は、ヴェネツィア商業レンベルク商業の2つの経路があった。

このレンベルク商業とは、ポーランドとウクライナの間にある有力都市リビフ(リボフ。当時はポーランド国扱い。現在はウクライナ国。ドイツ人がレンベルクと呼んでいた)を主体としていた交易路のことで、最初は都市キーウ(キエフ。ウクライナ)がその中心地だったが、のちにリビフが主導となる。

このレンベルク商業は、レヴァント方面(ヴェネツィアから東側の、バルカン半島以東のギリシャ正教圏)の力が強かった。

そのため東西交易は、ヴェネツィア主導か、レンベルク主導かで時折争ったといい、中世には強国化が著しかったヴェネツィア共和国の力を、レンベルク側が抑制することはできなかった。

さらに15世紀になって、オスマン帝国(イスラム教国家)がレヴァント方面(ギリシャ正教圏)の支配に乗り出し、リビフ(レンベルク商業の中心地)もオスマン帝国に抑えられるようになると、ヨーロッパにとっての東西貿易はヴェネツィアの地中海貿易1本となった。

ジェノヴァ共和国(イタリア・リグリア州)も、ヴェネツィア共和国(イタリア・ヴェネト州)と地中海貿易の主導を競うものの優位性を築くことができず、レンベルク商業に力を入れるようになったが、リビフがオスマン帝国の支配化となってしまって以降のジェノヴァ人たちは、イベリア商業に力を入れるようになる。


ジェノヴァ人たちは14世紀にはイベリア方面(ポルトガル・カスティリャ・アラゴン・バスク・カタロニア)に進出し、遠隔地間商業網の交流を築くようになったことで、ポルトガルとスペインでのちに顕著となる航海事業での重要な資本提携、技術提携に、ジェノヴァ人たちも深く関わることになる。

イベリア半島の西岸側の各地要港は、14世紀前半まではバルト海側からのハンザ都市同盟の力が強かったが、14世紀後半になるとポルトガルの航海力が高まり、その事情も変容していく。

ポルトガルは15世紀末以降の大航海時代が注目されるが、その準備段階の航海技術は14世紀後半から顕著で、その頃には大西洋側(アフリカ大陸の西部沿岸とその西側の島々)まで航海範囲を広げるようになっていた。

ポルトガルの大西洋進出では、モロッコから西側にあるマデイラ島の入植事業と、そこからさらに西側にあるアゾレス諸島の開拓事業が顕著となる。

アゾレス諸島は元から砂糖農園があったといわれ、ポルトガルが先駆けでアゾレス諸島までの航路を確立し、現地を開拓するようになり、その市場を掌握するようになる。

アフリカ西岸とアゾレス諸島の中間にあったマデイラ島は無人島だったが、中継の要港にされると共に、15世紀になると入植事業が始まり、ここでも砂糖農園が拓(ひら)かれるようになった。


アフリカ西部の都市ラゴス(今のナイジェリア)もこれら事業の要港として利用され、ポルトガルの貿易庁が管理する大倉庫が 1455 年には既にここで作られていたことも確認できる。

これら島々では砂糖の他にも、コルクガシ(かし科の木)、ワイン、乾燥果物なども量産されるようになり、これがポルトガルの主力輸出品となる。(どれも西洋の人気商品だった)


イベリア方面に進出していたジェノヴァ人の資本家たちは、14世紀から既にポルトガルとも交流するようになり、大西洋側まで進出するようになったポルトガル船のこうした殖産事業の資本提携に、ジェノヴァ人たちも早くから関わっていた。

航海技術を開発するにしても、航路開拓のための調査船を出すにしても、現地での農園の開拓にしても、それら準備やその体制の維持費も実に大変なものであったため、ポルトガルは国内の資本家たちだけでなく、ジェノヴァ人の資本家たちの出資援助も得る形で輸出産業を構築していき、大きな国益を挙げるようになった。

16世紀にはスペインでも、アジア方面の調査、新大陸(アメリカ)の調査・入植の大規模な航路事業が始まるが、そちらでも同じく、まずは人員構成から体制維持の費用も、初動から実に大変なものだった。

スペインでも同じように、国内の資本家たちの他、ジェノヴァ商人団、南ドイツ商人団、またアントウェルペン(ネーデルラント)側に集まる外来資本家たちと、色々な条件の契約による出資を得ながら、大規模な航海計画と入植事業が進められることになるが、14世紀後半のポルトガルとジェノヴァ人たちの関係が、まさにその前身の手本になっていた。

歴史上で取り沙汰される機会が少ないと思うが、スピノラ家、チェントーリオ家、ネグロ家、ロメリノ家といった当時のジェノヴァ人の資本家たちが、ポルトガルの先駆けの航海事業の資本提携に関わっていた。

 

新大陸(アメリカ)の探検航海で有名になるクリストファー・コロンブス(ジェノヴァ人)も、最初はマデイラ島の砂糖買い付けの事業に従事していたといわれ、チェントーリオ家との縁が強かったといわれる。


話が前後するが、この中でスピノラ商会が、のちスペインで銀行支店を、そしてアントウェルペンでも貿易・証券取引の支店を構え、16世紀には大手のひとつとして目立つようになるが、1570/12/09 に破産して大騒ぎになった。

破産、つまり債務能力が皆無となった大手のスピノラ商会が発行していた債権(証券)を、そんなことになるなど思わずに大金で購入してしまっていた者たちや、さらにはその証券(手形)を信用裏書的に期日条件付きの通貨代わりに取引していた者たち、またスピノラ銀行に預金したり信託していた者たちも一斉に大損害を受けることになり、現代でいう大規模な不渡り連鎖が起きてしまったのである。

これまでヴェネツィアで顕著だったこととして、誰かが貸し倒れを受けることによって、不渡り連鎖が起きてしまうこと自体は西洋人たちは体験済みではあったが、勢いよく巨大化していった16世紀後半の異様な市場規模での不渡り連鎖は、今までのものとは訳が違った。

16世紀後半のスペイン一強時代は、表向きの資本力の勢いだけを見ると恐るべき国力だったが、確かに扱われる利益は巨額だったが、一方でそれで穴埋めできるかどうかも怪しくなってくるほど負債もどんどん膨れ上がっていったのが内情だった。

そんな中で、大手の破産としては第1号だったといわれるこのスピノラ商会が破産した 1570 年末の様子は、既にスペインの暗雲を予兆していたものだったと見てよい。

スペイン王室が 1575 年に2度目の債務支払停止宣言(国家破産宣言)で根を上げるまでは、それまでスペイン王室が発行していた国債と大きく結び付いていた、貿易取引中心の先物(さきもの。物的面省略の想定的取引)や金融商品(証券)取引は、今まで見たことがない異様な経済景気の盛り上がりを見せていた。

しかしスペイン王室による債務支払停止宣告(国家破産宣告)で、実体経済とかけ離れていたことが明るみとなったアントウェルペン証券市場(スペイン王室主導の、西洋最大の証券取引の中心地だった)の信用失墜(国債の無効化。現代でいう強制デフォルト)と、その不渡り連鎖の影響は、各地の取引市場にも甚大に及んで、西洋全体の経済は大混乱となった。

大手のスピノラ商会の破産劇は、グリマルディ商会(グリマルディ家はジェノヴァで1位2位を競う資本家だった)との、アントウェルペン証券市場の主導を巡る出資主(債権)勧誘のための、両者間の派閥的な資本独占競争・歩合保証競争の過熱が引き金だったといわれる。

資本集め競争で競合潰しをし合いながら、市場資本(相場)をこれらが独占していったまでは良いが、無茶な設定の歩合保証(出資主たちへの利息保証や、手形の買い戻しの歩合分など)も最初はうまくいっていてもその内に苦しくなり、その支払いまでのつじつま合わせのための資本集めに奔走し始めるという、典型的な自転車操業の悪循環に陥っていったことがまずは原因になる。

間違えれば国家を揺るがす規模の証券の乱用問題を、むしろ国家も(スペインもフランスも)煽ってばかりいた、誰も止められない大規模な自転車操業化の悪循環を人類が始めて体験し、皆がそれに振り回された時代が、16世紀後半の西洋の特徴でもあったのである。

後述するが、証券市場と結び付いていた国家の歳入(税収)の扱い方もどんどん自転車操業化していくような、実体経済とかけ離れていく、見せかけの数物権威化(指標乞食化・劣情共有化)ばかり強まる威勢任せの債権取引は、ただの乱暴なマネーゲーム(ただの博打やただのネズミ講といった低次元商法)の商材になり下がっていくのは、いつの時代も同じである。

 

教義のことでも価値観念として同じことがいえるが、そのように低次元化(末期症状化)していくものに、解った気にケンカ腰に調子に乗りながら便乗し、価値を求め合い挑発し合うだらしなさと決別できなくなっていく悪循環に陥りがちな所は、当時でも時代でも同じである。

証券経済の規模でもスペイン王室と格式的に張り合ったフランス王室も、同じく債務支払停止宣告(国家破産宣告)で根を上げで結局共倒れすることになるが、一度そう進み出したら後が引けない、当時の勢い任せの恐ろしさが窺える。(後述)

互いに過剰な資金戦を派手に展開し過ぎて、盛大に国家破産で共倒れすることになった当時のスペインとフランス(規模的にスペインよりはいくらかマシだった)は、愚かだったというよりも、議会制のあり方が見直されて法が進化したからこそ招いた、避けて通れない災難だったともいえる仕方ない部分も多い。

災難だったという部分はまず、一時的なものであってもスペインのように国家権威が急激に増大しながら、新大陸事業の成功も手伝って今まで前例のない景気が加速していけば、思い上がりかどうかはともかく歯止めがかからなくなりがちであることは、きっかけは違うが日本の昭和後半から平成前半にかけての泡沫(バブル)経済でも同じことがいえる。

大規模な好景気と証券経済を人々が体験するようになって、資本や時間の価値・規範の観念も、数物威力的(寡頭主義的・指標乞食的・劣情共有的)な「見せかけの大きさ、見せかけの早さの結果や実績」ばかり要求し合う(頭を下げさせ合う)ことが過熱すれば、異文化間(異環境間)の国際交流(良い所の見習い合いと悪い所の教訓のし合い)はおろか、同じ文化圏内の議会整備すら、それが過熱し過ぎている側とそうでない側とで、大きな支障が出てきてしまうものである。

特にスペイン主導の、乱暴も目立った新大陸側のコンキスタドール(征服的探検者)たちの印象ばかりが取り沙汰され、当時のキリスト教徒たちはこの上なく凶暴で支配的だったことばかりが強調されてきたが、西洋での経済社会観念が激変してしまった時期だったことが、今まで一緒に説明されてこなかった。

確かにコンキスタドールたちが乱暴だったのは間違いないが、そうさせてしまったのはスペインでの今までの資本と時間の観念が社会病的に大きく変容し過ぎてしまい、その感覚が国家全体で狂い始めていたこともそれを助長していたのである。

来日してきたイエズス会たちも、そんな世界になってしまったヨーロッパの(特にスペインの)中で、本当に真剣に自分たちの教義(キリスト教徒としてのあり方)のことに向き合っている者がどれだけいるのか、その温度差も激しかった有様に内心はウンザリしていたのである。

個人間・組織間・国家間の、本来の両者間の発展のための見習い合いよりも、あまりにも資本と時間の観念が違いすぎる格上と格下の、国力任せの押さえつけの傾向が強まったスペインの態度が、そのままコンキスタドールたちの態度に現れてたといえ、スペイン一強時代には、格下と見なしたプロテスタントたちに対する弾圧的な態度にも現れるようになる。(後述)

スペインは、法(議会制)を先駆けで近世化させた一方で、独り歩きするように経済観念だけが急に近代化してしまい、国家全体の資本・時間の観念を激変させてしまった体験をしながら、世界最強の自負を強めるほどの国力を急激につけ過ぎてしまった所が、むしろ不幸だったともいえる。

戦国前期に目立ったような、議会的な典礼(公認)など受けていない(自己等族統制・自己情報統制といえる敷居確認などできていない)ような「にわか強者」というのは当時でも現代でも、異文化間・異環境間の交流(良い所の見習い合いと、悪い所の教訓のし合い=和解を前提とする敷居確認)をうやむやにしていくばかり、周囲を低次元化(衰退化)させていくばかりであることは、「明日は我が身」として忘れてはならない。

人は、変に強者的立場側を体験できてしまうような、つまり身の程知らずが不当に強者的立場に立とうとすることが許されるような、今の日本の低次元な教育機関のようなだらしない旧態風紀(寡頭主義)が続いたりする場合でも同じことがいえるが


 弱者的立場側の救済と敷居向上を、強者的立場側が等族指導するから、等族議会制ひいては国家全体(組織全体・人間関係の構築)を低次元化・衰退させずに維持させられる

 すなわち、議会(組織体制=人文性・敷居維持と啓蒙性・敷居向上の線引きの当事者的整理力)を低次元化・衰退化させないため、身分立場に見合った厳正さを上から順番に再統制していく等族議会制(本来の身分制議会)の敷居維持(組織構想の議決力=国際裁判力)
 

を、自分たちで議会改革的・人事改革的に更新(等族主義化)しなくなる所か、

 

 その議決性をうやむやにし合う寡頭主義通り(今までの指標乞食通り=今まで劣情共有通り)でないことに、目を吊り上げることしか能がなくなっていく

 

 すなわちその頭の下げさせ合い(押し付け合い・うちのめし合い)の繰り返しで低次元化・衰退化させ合うことしか能がなかった、自分たちのその愚かさ・だらしなさを自分たちで認識(自己等族統制・自己情報統制・身分再統制)もできなくなっていく

 

所は、現代でも同じになる。

強者的立場としての力関係を勢い任せに付けようとする(その立場を得ようとすることばかり、その立場を維持することばかりに一生懸命になろうとする)と、

 ① 敷居確認をし合う相手(異文化間・異環境間の良い所の見習い合いと、悪い所を教訓にし合う対象)がいないかのように錯覚し始める(それもできていない身の程知らずが増長して人格否定し始める)

 ② すなわち自分たちが崇拝する成功体験しか尊重し合わなくなる(=それと違う不都合に目を吊り上げることしかしなくなる=自分たちが知っている事例と違うことは全て否定し合うことしかしなくなる)

 ③ すなわち視野の狭い低次元な情報寡頭主義的・指標乞食的な劣情等族主義的な議決の違いも区別できていない情報)しか見てこなかったにも拘わらず、その全貌(歴史経緯・社会心理)を解った気に勘違い(低次元化・衰退化)したがる


まさに、公務側に立つ資格(議決性)など皆無なただ下品で汚らしいだけの、今の日本の文科省とやらの低次元な法賊(偽善者)どもとただ共倒れすることしか能がない、口ほどにもない人生観で終わる原因となる。

まず ① ができていない自分たちの深刻さ(自分たちの人文性と啓蒙性の整備力の無さ=自分たちの議決性の無さ)を確認し合うことから始められない時点で、それが皆無な低次元同士の挑発のし合い(頭の下げさせ合い)にまんまと乗せられている自覚(自己等族統制・自己情報統制・自己文面統制)もできなくなっていく原因となる。

ただ威勢よく強者側を振舞いたがる(手本家長を気取りたがる=世の中を知ったかぶる)ばかりのだらしない連中(偽善者ども)であるほど、そこに驕りがちであることを忘れるなと、韓非子や孫子が強調して指摘している所になる。

その相手の急所を攻める(商戦などで競合が整備できていないその隙間に食い込む)側に常に立てるように、だらしない強者気取りども(口ほどにもない家長気取りども)のそうした無神経・無関心・無計画な所を、常に反面教師的に自分たちで改善していくようにすれば、相手がいくら強大に見えてもいくらでもやりようがあると、韓非子や孫子が指摘している大事な部分になる。

話は戻り、スペインも結果的にはそうだとはいえるが、ただしむしろ災難だったといえるのは、国家観念(議会体制)がやっと近世化し始めた中で、経済観念ばかりがあまりにも急激に近代化してしまった、その恐ろしさに尽きる。

今まで体験したことがない国威と、急激な経済景気まで体験し、現金貨幣を最もかき集められる者こそが全てにおいて正しいかのような、おかしな力関係が勢い任せにできていってしまい、かえって処理できなくなってしまうその大変さの経緯(社会心理)を説明していきたい。

のちにスペインがますます強国化する手本にもなった、15世紀末の大航海時代に至るまでのポルトガルの航海技術・航路開発の発達と、それと関係する外来のジェノヴァ人たちとの提携の基礎は、14世紀後半から始まっていた。

ポルトガルが大西洋側(アフリカ大陸の西岸側)をさらに南下するようになり、船を何度も改良しながら(エンリケが著名)15世紀後半からはその喜望峰(きぼうほう。アフリカ大陸の南端部)を回ってアジア方面に向かう航路をとうとう確立するようになると、ヨーロッパ中でこの朗報が話題となった。

アジア方面と直接、取引交流を始めるようになったポルトガル船が、次第にリスボンに交易品を多くもち返るようになると、今までエジプト方面やアラブ方面の仲介人たちを挟んで取引されていたヴェネツィアの東西貿易は、一気に減退することになった。

まず、今までのヴェネツィアの東西交易では、運ばれてくるまでの仲介料が重なって高くつく上に、品々に価値をつけるためのもったいぶった数量規制もされていたものも、ポルトガルが直接取引するようになったことで、ポルトガルが市場を独占するようになったとしてもそこがだいぶ好条件となった。

ポルトガル主導による、リスボン(ポルトガル)とアントウェルペン(ネーデルラント南部。今のベルギー)の東西市場が、神聖ローマ帝国圏(西方教会圏のキリスト教徒たち)におけるヴェネツィアに代わるその中心地となると、今までヴェネツィアに出向いていた資本家たちや行商人たちは一斉に、特にアントウェルペンに向かうようになった。

その後もしばらくはアラブ方面の仲介業者たちは、地中海からヴェネツィアに交易品を運ぶことはされたが、ヴェネツィアでの東西市場の規模もその仲介業者たちも、1510 年代には激減することになった。

今まで強国だったといえたヴェネツィア共和国はこれを機に、大不況に陥る形で衰退の一途に向かい、地中海におけるこれまでの制海権(海軍力)の維持も困難となった。

15世紀末から16世紀初頭にかけては、地中海側だけでなくバルト海側でも、今まで交易権・制海権を独占し続けてきたハンザ都市同盟(ドイツ北部の商業都市ハンブルクやリューベクなどがかなり力をもっていた)の情勢も変化していた。

近世化(等族主義化・議会改革)が自覚されるようになったスウェーデン国やデンマーク国、またドイツ北部の有力諸侯たちによって、中世まではバルト海側で権勢を誇っていたハンザ都市同盟の力も、議会的に抑え込まれ始める流れになってきていた。(15世紀前半には、それまで強力だったハンザ都市同盟の力も弱まり始めていた)

ポルトガルによるアジア貿易の成功は、まだ未確認の宝の島(植物資源や鉱山資源など)があるかも知れないことや、まだ未交流の異国文化との接触においても「それらをよそに先取りされる前に、我らキリスト教徒が先取りしなければ」という、新地探検の気運に拍車がかかるきっかけとなった。

当時の神聖ローマ帝国圏(西方教会圏。ハンガリー、ポーランドから以西)の西洋人たちは、ロシア正教圏、イスラム教圏、そしてアジアの宗主国(モンゴル帝国とその後の明。みん)らに、国際異文化交流面、世界情報面で大いに遅れをとっていたことを深刻に自覚できていたからこそ、その気運も高まった。

アジア貿易においては、西洋側からの交換品として、特に重宝されるようになったのが、西洋で豊富だった鉱山資源の銀と銅である。

東西交易で大きな利益を上げられるようになったことで、どこも勢いよく鉱山を掘るようになり、よく採れたはずの銅も産出量が早々に目減りしていったため、鉱物資源が豊富な新天地を早くも求め始めるようになった。

アジアに向けて銅塊や銀塊ももちこまれたが、西洋式で製造される刃物、鍋などの容器、装飾品といった、少し贅沢に良質に作られた西洋製の生活用品が向こうで人気があったため、それらが作られてどんどん運び込まれた。

 

スペイン・ポルトガルによるアジア貿易の隆盛期には、その出資事業(アシエント)にフッガーも参加していて、その記録によると、ひげそりと銅製の洗面器、また銅製の腕輪などの装飾品が現地(インドネシア方面)で人気があり、良質なものが量産されて運ばれていたことが確認できる。(フッガーは銅市場の王者でもあった)

 

西洋人たちは最初からアジア人を格下扱いしていたかのような印象が強いが、それは17世紀になってスペイン・ポルトガル(カトリック国家)に代わって、国力をどんどんつけていったオランダ・イギリス(プロテスタント国家)がアジア貿易をすっかり独占するようになり、現地市場に威力支配的になっていった以後の印象が強すぎることの誤解になる。(明の今までのアジア方面における権威を失っていた都合もあった)

 

まずポルトガル船がインドネシア方面に訪れるようになった当初は、明(中国)の交易船やイスラム教徒たちも現地に取引にやってきていて、当時は明の強力な国威が優先で、その後にその他が交易品を取引しているような力関係だった。

 

マゼランが海流を発見して、新大陸側の太平洋から物凄い距離でアジア方面に向かい、セブ島(フィリピン)に到達した際に現地人と争っているが、これは現地の王族同士の派閥闘争をしていた最中にマゼランの船団がたまたまやってきたことで、その闘争の加勢を要請され、便宜を受けるために参加することになったというのが正確になる。

 

現地での派閥闘争に加勢したまではよいものの、再統一のまとまりがないことで約束通りの便宜がされなかったり、また物々交換での要求を渋られてばかりなどで、今度はそれを巡って現地人たちと揉めることは確かにあった。

 

アジア方面進出は西洋人たちから見ると大遠方で、当時はまだ慣れなかったことも手伝い、それを往復するだけでも命がけの中、西洋人にとっての未知のアジアの島々や海流を調査することもひと苦労な、大変な航海だった。

 

16世紀に入ると、ポルトガルに東西貿易を独占されっぱなしになりつつあった状況にスペインも、航海事業の競争意識を強め、ポルトガルとアジア貿易の優先権確保のための中継地点の拠点構築を競うようになる。

 

そのことで両者は険悪になることもあったが、のちに共同路線に切り替えられる。(トルデシリャス条約で何度も交渉し合った)

 

当時はポルトガルもスペインも、優位な航海権を築くためのインドネシアまでの中継地を、全て武力制圧して回るような余裕などはなかった。

 

だから基本は現地での派閥闘争に食い込む形で、つまり現地ごとの王権から利益供与の関係を作っていくことで、先にインドネシアと取引関係を築いていたアラブ方面のイスラム教徒たちや明人(中国人)たちから、優先権を横取りしていく形が採られていったのが、実際だったと見てよい。

 

インドネシアから以東は特に、当時は強力な国力と権威を誇っていた明と交流していた国々をいたずらに荒らすような、つまり明に直接ケンカを売るようなやり方をすれば西洋人たちが不利になる一方だった、だから明の制海権が強くなる東ほど、西洋人側は下手にならざるを得なかったのが実際である。

 

一方でスペイン主導が顕著になっていく新大陸(アメリカ)進出でも、こちらも探検することも往復することも命懸けではあるが、あまりにも遠いアジアに行くよりは多少の余裕もあり、この距離の都合からも鉱山資源確保や農園開拓のための入植事業は、こちらはかなり威力支配的なやり方がされた。

 

大陸北部のマサチューセット族たち(アメリカ大陸北部の元々の原住民たち。トウモロコシやタバコなどを栽培していた)との接触や、中部のメキシコへの入植や、ボリビアのポトシ銀山確保(銀貨による貨幣改革のきっかけとなる)のための現地支配、南部のインカ帝国の制圧戦(のちに重要視されることになるジャガイモの持ち帰り)などはいずれも圧政的なやり方がされ、アジア方面との接触の仕方とはだいぶ違っていたといえる。

 

どうあっても新大陸資源を確保しようと支配的に乗り込んでくる西洋人たちに対し、現地人も抵抗してかなり苦戦させているものの、スペインにどんどん浸食されていく結果となった。

 

今まで新大陸側の原住民たちは、海外遠方との文化的な交流が乏しく、その面でまず近世化していたスペイン側が有利だったことは間違いない所だが、西洋人たちに有利な、全面的な支配を受ける方向に進んでいってしまった原因は、新大陸側の不運も大きく重なっていたといわれている。

 

新大陸の調査が始まった15世紀末(ジェノヴァ人航海士コロンブスが著名)から、資源確保に乗り出した16世紀前半にかけての新大陸では、今まで体験がなかった大規模な疫病が各地で蔓延するようになっていて、どう対処してよいか解らずにどこも混乱気味で弱っていた所に、西洋人たちに乗り込まれてしまった状況だった。

 

当時の新大陸の疫病は、西洋人たちによる媒介が原因だった説や、そうではなく新大陸が発祥の新種のものだった説などで判然としないが、これまで疫病や食料飢餓などで何度も苦しんできた西洋人たちは、新大陸の現地人たちと比べるとだが、いくらかの免疫力や対処力があった。

 

新大陸では各地で、今まで経験したことがないような疫病が蔓延し、その対処にどこも混乱して弱っていた中、スペイン側もその足元を見る形で信仰のせいなどにしながらどんどん支配していく流れとなり、不運も大きく重なったといわれている。

 

北部では、西洋人たちが資源確保のために段々と内陸の支配に動き始めたために、マサチューセット族(北部の現地人。大手の部族だった)がそれを追い返そうと闘争が始まるが、西洋人たちがもってきていた長銃よりも、マサチューセット族が操る熟練した長弓(ちょうきゅう。ロングボウ)の方が遥かに強力で、その飛距離も命中力も抜群だったといわれている。

 

しかもマサチューセット族は眼も非常に良く、見晴らしの良い場所からなら2、3キロ先の人間や動物も軽く目視できたといい、どこからか判らない場所から強力な弓矢で西洋人たちをバタバタと倒したため、まるで勝負にならずに西洋人の船団員たちは驚愕しながら港の砦に逃げ帰ったといわれる。

 

疫病がなかったら北部の支配も難しかったといえ、西洋人たちに乗り込まれて以後もマサチューセット族はしばらくは自治力を維持していたが、17世紀にもまた大疫病で苦み、自治力を維持できなくなりながら滅亡寸前になったといわれる。

 

ここで、ポルトガル人航海技師のフェルディナンド・マゼランが、スペインにおける航海事業の重要人物となるため、当時の様子と共に紹介しておきたい。

 

マゼランはポルトガルのアジア貿易に長期に従事し、その経験と技術研究力が高く評価される熟練の航海士に成長する。

 

マゼランは次第に、アジア方面での意欲的な探検計画を企画するようになるが、ポルトガル王室と折り合わなかったことで内心の不満をもつようになっていたようである。

 

マゼランが企画した、報酬の条件も含めたアジア方面の探検計画は、ポルトガルの当時の国力から見ても規模が大きく、危険も大きい試みであったため、ポルトガル王室も決めかねていたようである。

 

当時、リスボンの支店に出向していたクリストバル・デ・アロ(スペイン人。商業都市ブルゴスの資本家。先に紹介した、フッガーと協力提携を結んだディエゴ・デ・アロの弟)がマゼランのその様子を見て、スペイン王室に紹介することになった。

 

スペイン王室としても優れた航海士が欲しかったことで、これをきっかけにマゼランは 1511 年にスペイン王室に人材引き抜きされる形となるが、この件でクリストバルはポルトガル王室から「余計なことをしおって!」とリスボンから追い出されることになってしまった。

 

規模が大きかったマゼランの企画は、ポルトガルよりもさらに国力をもっていたスペインが実践する形になり、マゼランの陣頭指揮をきっかけにスペインも勢いよく航海事業を進めることになる。

 

ポルトガルがジェノヴァ人たちからも航海士(コロンブスが顕著)や資本者を積極的に募集して航海体制を固めていった前例を、スペインもそれに倣(なら)うように外来からの航海士や出資者を募っていた。

 

アウクスブルク(バイエルン州の金融都市)で、フッガー家に次ぐ資本家であったヴェルザー家が 1503/02/22 にポルトガルとの資本提携を交流をもつことになったのをきっかけに、南ドイツの資本家たちもポルトガルに関心を向けるようになり、以後ヴェルザーの縁を頼る形で積極的にリスボンと資本契約するようになった。

 

ポルトガル王室とヴェルザー家の最初の契約はマデイラ島の砂糖農園に関するもので、それがきっかけとなって、同じくマデイラ島の砂糖農園の経営に関与していたクリストバル(スペイン筋)とヴェルザー(ドイツ筋)が、スペインの航海事業が大規模化する前から、外来同士の友好関係が築かれるようになった。

 

フッガーやヴェルザーもよく知っていた、アウクスブルクの印刷出版業者オェルグリンも、クリストバルと交流をもつようになった。

 

オェルグリンは、クリストバルやヴェルザー(の現地代理人)からマデイラ島の様子を聞いたり、手続きに使われていた書簡を見せてもらいながら、現地の様子をまとめた書籍をドイツで出版している。

 

マデイラ島はポルトガルのアジア貿易や、のち新大陸事業のための要港にもなったため、当時の貿易の様子がオェルグリンの出版によってドイツでも紹介されることになり、ドイツ中で評判になって関心がもたれることになった。


マゼランが今度はスペイン王室のために、ポルトガルに先を越されてしまったアジア貿易の航路(トリデシリャス条約)とは別の、新大陸側、太平洋側からの調査の大冒険が始まった中、1519 年にマクシミリアン1世が亡くなり、皇帝選挙が行われた。

 

カール5世がその時にフッガーから借りた、巨額の選挙資金54万グルデンの内の34万グルデンは、オーストリアとネーデルランドで返済契約することになったが、20万グルデンはスペインで返済することになったため、スペインやそのイベリア商業圏(ジェノヴァ人たち)ともそれまで大した交流網をもっていなかったフッガーは、少しあせった。

 

フッガーが、ブルゴスの有力資本家のディエゴ・デ・アロと協約提携を結ぶ形でなんとか味方が作れたのは、その弟であるクリストバル・デ・アロとヴェルザーとの交流関係による後押しがあったと見てよい。

 

フッガーとヴェルザーは常に協約的に動いていた訳ではないが、地元のアウクスブルクでの同胞意識が強く、たまに揉めることもあったと思うが基本的には良好な関係で、この2人が肩を組めば「鬼に金棒」だったといえるほど強力な存在だった。
 

フッガーはハンガリー、北ドイツ、ポーランドなどでの交流網を、ヴェルザーは早い段階でポルトガルと交流を、というように、互いに役割分担的に出資協力し合っていた仲だった。(だからこそ、帝国議会をこの2つが裏で牛耳っているなどと、あることないことが噂になった)


スペインの新大陸進出による資源確保事業と、スペインとポルトガルで協約的に進められることになったアジア貿易の出資取引に、外来としてはジェノヴァ商人団だけでなく南ドイツ商人団(フッガー、ヴェルザーたち)も深く関わるようになる。

 

イタリア・ドイツ間で手広く郵便事業を展開していたことで著名だった、タクシス家(イタリア・ロンバルディア州の都市ベルガモ出身といわれる)も、フッガーやヴェルザーたちと共に、スペイン王室の出資取引(アシエント)や徴税請負(マエストラスゴ)に参加している。

 

このタクシス家は、現代の「タクシー」の語源となった資本家で、1480 年代から、今までなかった現代の郵政局のような画期的な郵便馬車事業(ポストと呼ばれた)の構築を始めたことで著名な事業家である。

 

タクシスによる郵便事業が構築される前までの西洋の郵便は、都市間で郵便物が溜まり次第出発するという、定期便という仕様などない、あまりにものんびりとしたものしか、それまではなかった。

 

都市間でそれが当たり前になっていたため、都市をいくつも挟むような宛先にその郵便物が届く間には、その待ち時間でさらに待たされることになったため、タクシスが郵便事業に乗り出す前までは、速達などはとてもできない世界だった。

 

社会観念も15世紀末には急変してきていて、それに対応するためにタクシスが始めた定期便の郵便体制が作られると、今までの手紙のやりとりの情報交換の速さも劇的に変化し、タクシスの郵便事業は経済社会にも大きく貢献するようになった。

 

15世紀末の時点で、ネーデルラント、南ドイツ、イタリア(ローマ)までを結ぶ郵便網が既にできていたといわれ、その体制がどんどん強化されていったのちの 1515 年の時点で、その体制が非常に優れていたことが確認できる事例も残っている。

 

1515 年にアントウェルペンに出向いていたルーカス・レム(ヴェルザーとの協力関係の縁が強かった南ドイツ商人)が、ブリュッセルにあったタクシスの郵便局に向かい、ここから手紙をアウクスブルクに向けて発送しているが、ブリュッセルから普通に旅路でアウクスブルクに向かったら2週間はかかる所を、タクシスの郵便なら6日間で到着した。

 

ブリュッセル(ベルギーの中心地。ブラバント州。当時はブルゴーニュ領扱いのつまりハプスブルク領扱い)からアウクスブルク(ドイツ・バイエルン州)の間に、タクシスは郵便配達のための宿駅を合計で28箇所設置していて、1日あたりおよそ4~5駅間の郵便物が運ばれた。

 

今までは、大手ではないがちょっとした資産家や小貴族が、連絡や届け物のために独自で急いで使用人を向かわせることがされていたが、よほどの貴重品や機密的なものでなければ、タクシスが構築した郵便に任せた方が費用も安くなる上に手間もかからず、届くのも早くなった。

 

1509 年には既にタクシスによる船便の体制も作られていたことが窺え、海が荒れていると出航を延期しなければならなくなる場合も多かったものの、フリシンゲン(今のオランダ。ゼーラント州の都市)-リスボン(ポルトガル)-南方諸島(マデイラ島、アゾレス島、カナリア島)間での手紙や郵便物の郵送も可能になっていて、それぞれが独自で使用人を向かわせるよりもタクシスに委託した方が、何かと話も早くなった。

 

今までなかったタクシスの郵便体制を体験するようになった人々は、これだけでも時代は大きく変容してきていたことを実感するようになっていた。

 

今までの旧態慣習(今までの上下権力構造)と違うといって否定(思考停止)し合っていた中世(寡頭主義)のままだった部分も、タクシスのように、遠隔地間(異人種・異文化間)の風穴を開け始める存在も顕著になったのが、西洋の16世紀の大きな特徴のひとつだったのである。

 

スペインの経済景気が好調だった頃の 1533 ~ 1537 年に、スペイン王室(カール5世)の書記官フォスメディアーノの名義による、王室領の徴税請負権(マエストラスゴ)の競売が行われた際、ドイツ筋のヴェルザーとフッガーの他にも、ロンバルディア筋だとフェオ・デ・タクシスの名が、ジェノヴァ筋ではジアン・バチスタ・デ・グリマルディといった、当時の大物資本家たちの名が見られる。

 

15世紀末から、特に16世紀初頭は、ポルトガルの航海事業も西洋全体の経済に大きな影響を与えたが、

 

 フッガーによるドイツ、ポーランド、ハンガリーでの遠隔地間商業網と、国家銀行体制(各地の司教の教会財産との関わりも含む)

 

 ジェノヴァ人によるイベリア方面での遠隔地間商業網

 

 タクシスによる西洋全体の遠隔地間の郵便事業

 

の影響で、中世(寡頭主義時代)までの閉鎖的な交流感覚(経済観念)に風穴を開ける形で変容させていったことは、当時の人々の特に時間に対する社会感覚を大きく変容させることになった。

 

人文主義の影響も重なった最下層救済の福祉活動も、それができる余裕も出てきた資本家たちの、交流先の地域貢献の一環として、結果的にその流れも資本家たちが作ったとすらいえるのである。(そこまでできてしまう資本家が出現し始めた)

 

帝国議会による法の見直しは、どちらかというと各都市の資産家たちが中世までの閉鎖的(非国際的)な旧態観念を壊し始めて、今まで無かった新たな経済観念をどんどん作り始めていった所も、特に大きかったといえる。

 

ヘタな上級貴族よりも資本力を身に付ける者が増え始めた各地の都市の有力者たち(資本家たち)が、むしろ貴族特権のあり方(等族義務のあり方も含む)を変容(時代的な対応の解釈を)させるようになった。

 

新たな経済観念が次々と出てきた中で、その基準が各地ごとでバラバラなままであることは、資本家たちに貴族特権を逆用支配されっぱなしな状態を放任するのと同じなのである。(日本でも江戸時代には、ここがどんどん厄介になっていった)

 

それだと支配者層側(貴族側・教区側=司教特権側)からすると非常にまずいことになるから、だから16世紀初頭には身分制議会的にそれに対応できるような法の整備が、貴族側(貴族たちの代表である各王族たち)も急がれる意識も強まったのである。

 

商工経済の中心地であった各都市は、13世紀あたりからどこも司教都市から自由都市(皇帝都市=等族諸侯として公認される都市=今まで聖属中心だった法の世俗化公認)に鞍替えし始めると、教区権威(それまで司教権威主導だった聖堂参事会)よりも、市参事会員(市政・市議)を構成する資本的なギルド(商工組合)が政治力をもつようになった、までは良かった。

 

庶民側の中間層が政治力を身に付け、旧態規制(司教権威・公的教義体質)に逆らいながら経済活動をするようになったまでは良かったが、最下層は今まで通りで何も変わらなかったため、最下層たちは次第に不満をもつようになった。

 

都市で市民権も得るにはほど遠く、農村でも自由保有地権を得る(取り戻す)にはほど遠かった大多数の最下層たち(都市の日雇い労働者たちや農村の小作人たち)から見れば、今まで司教権威が最下層に力をもたせずに横並べ的に支配していたのを、それをギルド(商工労働組合)や自由保有地農民の有力者らが代わって最下層たちを支配するようになっただけだったためである。

 

だから、ギルドが民権運動的に司教権威に反抗・脱却するようになった流れにあてつけのように、今度は最下層たちがギルドの権威に民権運動的に反抗・脱却する形で、最下層たちが生活保障や貯蓄の格上げができるきっかけになるための、ツンフト(特殊労働組合)が、あちこちで非公式に作られるようになった。

 

帝国議会も等族諸侯(土地所有貴族らや自由都市ら)も、最下層救済が本来の等族義務として含まれていたものの、中世までは議会も、都市同士も、貴族同士も特権の奪い合いと旧態規制(議決性など皆無な寡頭主義)の押し付け合いばかりで荒れ続けて、どこもそれに着手できる余裕などはなかった。

 

だから第三権力的に勝手にできていった各地のツンフトは、16世紀中盤に帝国議会で整備されるまで、今まで最下層救済など何にもできていなかったからこそ、実に150年もの間「餓死者が出るよりは良い」と非公認なまま黙認され続けてきた。

 

16世紀になって、今まで見たことがないフッガーの国家銀行ができて、今まで対応できなかった立替・両替(為替)・遠隔送金が、まず資本家や貴族たちの間で広く利用されながら経済も大きく回り始め、一方でタクシスの郵便事業で人々の情報伝達の事情も変わった。

 

アントウェルペンの東西貿易(とその証券市場まで作られ始めた)に皆が注目するようになり、資本家たちが遠隔地間商業網を発達させていったことで、上から下までの金回りも良くなっていき、仕事も増えて最下層たちが豊かになるきっかけも増えていく形で、特に16世紀に入ると経済社会観念は急変するようになった。

 

15世紀にグーテンベルクが印刷技術体制を手本研究的に整備するようになり、あちこちで印刷所が作られ始め、教義と無関係の小説や論文なども出版されるようになり、その反響も呼ぶほど人々もいくらか余裕ができるようになった。(こちらも情報伝達の事情を大きく変えるきっかけとなった)

 

16世紀にはいい加減に、時代に何ら対応などできていなかった公的教義体質(時代遅れの教会体質=教皇庁と司教権威)の、禁書規制の解釈にしても、徴利禁止の解釈にしても、貧清の解釈にしても、どれも時代遅れもいい所だったことを皆も実感するようになっていたことが、プロテスタント運動と連動するようになるのである。(ルターがそういう所をとうとう教会批判するようになった)

 

都市のギルド(商工組合)に所属できる人数枠、すなわち日雇いではない市民権をもつ正規の徒弟(現代でいう会社員)になれる枠が限られていたように、ツンフト(特殊組合。最下層たちが生活保障や政治力を身に付けるための、ギルドの規制権威に反抗する産業組合)の人数枠も限られていたため、最下層の皆がツンフトで救済を受けられる訳ではなかった。

 

自由保有地権をもつ農家に今まで支配的に臣従していた多くの小作人たちというのは、元は自由保有地権をもっていた連中だったのが、不作続きや不景気続きで土地所有貴族に納税できなくなってしまい、納税できなくなって滞納が重なる分が借金扱いされる形で、自由保有地権を大手の農家に売り渡す形で、その立場(小作人)を延々と強要され続けていた者たちだった。

 

その滞納扱いの金利つきの借金は、何百年経っても返済できない仕様になっていた、保有地権を一度失ったら取り戻すことができない、庶民同士の上下旧態体質(身分制社会)が中世まで、延々と続いていた。

 

だから自由保有地権を失ってしまい、何の希望も意欲もない小作人の身分のままで一生過ごすことを嫌う者たちの中には、借金の返納を放棄する形で農地を脱出し、都市に仕事を求めていつも集まっていた。

 

しかし同じ事情の最下層たちが常に都市で溢れながら、市民権の獲得も難しいまま日雇いで過ごすしかない者たちの旧態社会が、ずっと続いていた。

 

一度最下層に落ちた家系は二度と社会保障を受けられなくなる、奴隷制度のような慣習が続いていた最下層たちに対し、上同士でまとまりがなかった中世までは何ら救済処置など対策されなかった、だからルターがそういう所も教会体質の矛盾に挙げて批判するようになったのである。

 

キリスト教社会は、徴利禁止の戒律は、伝統だけ項目的に残り続けたものの、一向に見直されず、実質守られていなかったのが実態だった。

 

この徴利禁止の戒律は、資本家たちと貴族らの間で行われていた金融業に対して禁止することが目的ではなく、納税できなくなって滞納していく分が借金扱いされ、その利息を払わせ続けることで、何の意欲も希望もなくなりながら永遠に支配される側の最下層を増やし続けることへの、その救済のための禁止が本来の目的のはずだった。

 

しかしその戒律が永らく守られず、これまで最下層に何の救済処置もとられなかった、だからルターが旧態体質のままの裁判権(聖堂参事会に旧態身分制的な公的教義体質のそれを、延々と押し付け続けてきた所)も批判し始めたのである。

 

ちなみに日本での室町の大経済期後に、中央を支えていた伝統的な荘園公領制が崩壊した流れとして、これと似た不条理な借金証文体質を巡って一揆が起きるようになった(まず中央体制から崩壊していった)様子は、類似点が多い。(正長の土一揆。しょうちょう。つちいっき。どいっき)

 

こうした問題を、時代に合ったものとして一向に整備(身分再統制)されていかなかった、だから日本では閉鎖有徳(半農半士闘争)が蔓延した。(戦国前期)

 

教義崩壊も深刻化する一方だった戦国前期に、何のあてにもならない世俗権力側とも、今までの公的教義体質とも決別する形で、とうとう浄土真宗が収拾するべく聖属一揆を起こし、浄土真宗が救済のための議会(身分再統制)の手本になり始めてしまった、だから立場がなくなっていった地方の代表格たち(世俗側)も議会再統一(地方再統一)に慌てるようになったのである。

 

明確(強力=絶対王政的=議会統一的=等族義務の手本家長的)な武家の棟梁(世俗側の日本全体の代表家長)からの公認など受けていない、議決性(等族議会制=国家構想)など皆無な低次元同士の勝手な上下関係の旧態慣習(閉鎖有徳)とうとうやめさせたのが織田信長なのである。

 

だからのちに豊臣秀吉が、下々の生活権(市民権や保有地権)を勝手に奪い合ったり、納税の滞納を理由に利息で奴隷扱いに従わせるための生活権の奪い合いも一切禁止、すなわち政権の公認を受けていない、家臣同士・庶民同士の上下身分を勝手に作ろうとする旧態体質は一斉に禁止する、地域政治的(議会的)な連帯保証制の身分再統制の明確化(改革)を始めたのである。

 

ルターは、上が急に始めた免罪符販売のことも、フッガー銀行がらみのおかしな教会財産の流動が起きていたことも、最初は批判せずに様子を見ていた。

 

つまり金がない者たちから支配的に金を巻き上げるのではなく、金持ちたちから大金を集めているのなら、それならその大金が、教会改革の機運が高まっていた当時、そのために使われるのならと、ルターは当初は期待していた。

 

ところがその支度金のために大金がかき集められたのではなく、上のよく判らない事情のひとつに、司教を歴任した肩書き(貴族の家系の格上げ)欲しさのためだけの、その高額の献納金(セルヴィーティウム)集めが目的(その大金は教義のためでなく、権威のためだけの贅沢に使われる一方)だったことが知られてしまい、そこにルターが激怒して

 

 「教会改革を急がなければならないこの時期に、上はこの期(ご)に及んで何を教義を食い物にしようとしているのだ!」

 

と、今までの献納制度の悪習体質の批判を始めたのである。

 

教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)が結局、大した教会改革など進められなかった、だからスペイン王室があからさまに指名したも同然の次期教皇ハドリアヌス6世(アードリアン・フローレンス・ディダル)が、悪習でしかなかったその献納制度を、とうとう一斉にやめさせる動きに出たのである。

 

議会整備面でも、国際文化交流面でも、難敵であったオスマン帝国(イスラム教国家)に大いに遅れをとっていたことにキリスト教徒たちは、かなりあせっていた。

 

一方でポルトガルがきっかけの文化的な貿易事業や、資本家たちの遠隔地間商業網の構築や、フッガーの国家銀行体制などがきっかけで経済景気が訪れ、社会観念も急変するようになっていた。

 

今までは似たもの同士の横並びの貧清の教えの合言葉で、小作人や日雇いの身分に渋々甘んじていた者も多かったのも、経済景気が起きたことで、それに便乗できて豊かになった者と、今までの旧態慣習を強要され続けたことでまったくその恩恵が受けられなかった者とで、16世紀には顕著になっていた。

 

だから、いつまでも旧態の戒律の解釈のままのキリスト教社会に皆も疑問をもつようになり、教会改革に皆が関心を向けるようになり、大規模なプロテスタント運動に発展していくことになった。

 

後述するが、自分たちの愚かさ・だらしなさを自分たちで何も改革(問題提起して議決)できたことがないくせに権威だけは主張したがる(手本家長を気取りたがる=世の中を解った気に調子に乗りたがる)今の日本の低次元な教育機関と大差ない教皇庁(ローマ。聖属議会。今の日本の口ほどにもない文科省とやらと大差ない、寡頭権力にただブラ下がっているだけの枢機卿団ども)は、とうとう帝国議会(スペイン王室主導の世俗議会)を怒らせて「お前らが教会改革を一番邪魔しているんだ!」といわんばかりに踏み潰されることになる。(教皇クレメンス7世時代=ジュリオ・デ・メディチ)

 

今までろくに対処されてこなかった教会問題もとうとう、大継承者の強力な皇帝(王族の代表格)のカール5世の存在が仰がれる形で、激変していた社会観念と共に帝国議会で多忙に対応されるようになる。

 

来日していたイエズス会の表向きの文献しか見ていないと全く見えてこないが、西洋では経済や技術や情報文化などが発展するのはいいとしても、皆がそこに振り回させるばかりで教義上ではなかなかまとまりが見られなかった。

 

公会議制で西方教会(カトリック)体制の立て直しに懸命だったイエスズ会士たちは、その実情にウンザリしていたのは間違いない所になる。

 

教義のことで苦労していたイエズス会たちは、日本では教義面はまとまりを見せ、異教同士でも交流が可能になるほど、聖属問題を収拾(閉鎖有徳狩りを徹底)できていた織田政権のことを内心はうらやましく見ていたのは間違いない。


織田信長は、イエズス会からこうした西洋の事情を聞き出して、大方理解していたのではないかというのが筆者の意見になる。

 

そして、国家外務を担当する予定だった明智光秀(国際外交長官の予定)と羽柴秀吉(海外運輸長官の予定)も、西洋の事情を大方理解できていて、織田信長がやろうとしていたことを熟知していたと見た方が、その後の羽柴秀吉の手際の良さにしても、そう見た方が自然というのが、筆者の意見となる。

 

これからもう少し数字を使って、帝国議会時代からスペイン一強時代にかけて、どんな風に隆盛、崩壊していったのかの様子を、引き続き説明していきたい。