近世日本の身分制社会(105/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか33/?? 2022/08/30


今回は、織田政権時代(戦国後期から戦国終焉に向かった時代)では、西洋はどうなっていたのか、スペイン一強時代の前身の、帝国議会時代の様子からまずは、まとめていきたい。

「それまで何がどうだったから、そうなったのか」の、その前後観の歴史経緯(社会心理)の視野もある程度なければ、文献が信用できるできない以前に、そこが不足している分だけ重要な部分も見落とされる所になる。

科学(物理学・天体観測力)や交流経済(異文化間交換)も近代の前身を見せるようになった、その時代に入り始めた織田信長、羽柴秀吉、徳川家康が生きた時代も含める近世史(教義史・裁判権史・議会史)に向き合うということは

 自分たちの今までの愚かさ・だらしなさが招いている自分たちの弊害負担(旧約のままの寡頭主義)を、自分たちの議決性(等族義務の手本の示し合い=和解が前提の敷居確認)を以って対処・改善

 

できていない深刻さが、ようやく上の間でもたれるようになった時代(等族主義)に向き合うことなのである。

 

自分たちの

 

 議決性 = 和解を前提とする敷居確認・等族義務の示し合い = 社会的説明責任・国際的指導責任の手本の示し合い

 

に、

 

 無関心・無神経・無計画にうやむやに低次元(衰退)し合うことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関どもと、そのただのいいなりの知能障害者(偽善者)の集まりども

 

が向き合う訳がない。

 

その時点で、自国の歴史(教義史・裁判権史・議会史の社会心理)に向き合うことなどしてこれた訳がないのと同じ、公務公共側に立って教えるような等族資格などないのと同じ、日本を、日本人を語る資格もないのと同じである。

 

当時のことでも現代のことでも、事件にしても社会現象にしてもそれら事例は、議決性(等族主義)など皆無な、それをうやむやにし合う見方しかできたことがない、日本の低次元な教育機関と一緒になっている法賊(偽善者)どもが解った気に調子に乗るための気分(劣情=指標乞食主義=低次元化=衰退)の踏み台にするために、その事例が起きたのではない。
 

そういう、思い上がった自分たちの愚かさ・だらしなさに陥りがちなのは、当時でも現代でも、どの国でも、個人間でも組織間でも大体同じだからこそ

 違う時代のこと、違う国家間のこと、違う環境間のことでも、現代の自分たちにも共通する教訓にできる当事者性(議決性・等族義務)

 

を見逃さない社会心理(歴史経緯)の見方をしていかなければ、当時の事例にしても、現代の事例にしても、何も見えてくる訳がない。


そこを最初に念押ししておいた上で、今回の本題である、西洋での帝国議会時代からスペイン一強時代への経緯に触れていきたい。

台頭したハプスブルク家(オーストリア王室・スペイン王室)の、その金庫番であったフッガー家の視点から当時を見渡すだけでも、その表向きと実態の多く様子を窺える。

金融都市アウクスブルク(バイエルン州)の代表的な資産家であったフッガー家・ヴェルザー家や、西洋最大の資産家集団だったといわれるジェノヴァ人(イタリア人・リグリア州)らといった、西洋全体の事情に第三者的に大きく関わっていた者たちの視点も用いながら、事情を説明していきたい。

スペイン一強時代に向かう事情を知るためには、その前時代の西洋の事情と、マクシミリアン1世(オーストリア大公。ハプスブルク家の当主。カール5世の祖父)とカール5世の経緯と、フランスとの格式争いや、対オスマン帝国、また教会改革問題の事情もざっと知っておく必要がある。

ちなみにカール5世は 1500 年丁度の生まれであるため、皇帝選挙があった 1519 年は19歳の時、ローマ劫略(ただ下品で汚らしいだけの今の日本の低次元な文科省とやらと大差ない教皇庁と、悪徳都市ローマまるごとの徹底的な打ち壊し)が議決された1527 年は27歳の時になる。

まず15世紀末までの西洋のキリスト教社会は、教会大分裂(対立教皇時代)、大空位時代(帝国議会の代表=王族の代表=皇帝 が誰なのかはっきりしない時代)、大黒死病時代などを経て次々と教義崩壊を起こしていき、中世(旧約のままの寡頭主義=他力信仰一辺倒の押さえつけ)のままだった姿に、人々もいい加減に疑問をもつようになっていた。

中世(旧約の寡頭主義)のままの聖属議会側(教皇庁)が、世俗側に対して破門(異端狩り)と戴冠式(階級公認)のいいなりに従わせ操ろうとする、今の日本の低次元な教育機関と大差ない時代遅れもいい所の手口もいい加減にあきれられ始め、それらは完全に形ばかりになりつつあった。

何のあてにならなくなっていた、失望(衰退・教義崩壊)させ合うことしか能がない今まで通りの公的教義体質にただ従っているだけでは何の進展もないことに、人々もいい加減に疑問をもつようになっていたのが、15世紀末である。(エラスムス、ルターや、マキアベリが生きた時代)

人々も一体何を信じていいのか、何を規律にすればいいのか解らなくなっていたからこそ、キリスト教社会の今までの他力信仰一辺倒のやり方に人々も問題視し始める形で、人文主義(自力信仰による個々の多様尊重)が芽生えるようになり、キリスト教社会のこれからのあり方は、世俗・聖属に関係なく議論できる人文主義会が各地で設立されるようになった。(この人文主義の、穏健派を牽引したエラスムスと、抗議派を牽引したルターが顕著)

表向き教義の中心地だった、ローマ(教皇庁)を構えるイタリアでもそれに似た原点回帰運動(リナシタ)が起き、今までは教皇庁はそんな動きが各地で起きれば「勝手な会を作るな!」と強気に異端狩りをしていたのも、司教座(高位司祭たちによる公的教義体制で、各地の聖堂参事会の裁判権の基準を押し付ける体質)に触れない(あからさまに反抗的にならない)のであれば、とうとう黙認するようになった。

一方で15世紀末は、今までアラブ方面・アジア方面から西洋にもたらされるヴェネツィアでの地中海交易頼みだった取引・情報の文化交流も、ポルトガルの画期的な航海技術開発によって、世界の未知の品々や情報がヨーロッパに持ち帰られるようになると、世界線の敷居確認の意識・視野がヨーロッパ中で一気に高まった。(大航海時代)

これまで、ロシア正教圏、イスラム教圏、中国大陸のアジアの宗主国(モンゴル帝国と、その後の明国)に文化的に遅れをとっていたヨーロッパ人たち(神聖ローマ帝国圏=西方教会圏のキリスト教徒たち)は、その遅れを航海技術で取り戻そうと、活気に溢れるようになった。

当時の日本も、まさに西洋と同じような立場で、今までは中国大陸側との取引・情報の交流頼みだったために、世界線の文化交流(敷居確認)に大いに遅れをとっていた。

しかし航海範囲をどんどん広げるようになった西洋人たち(ポルトガル船)がとうとう来日するようになったおかげで、日本でもその遅れが大いに取り戻されることになったのである。(織田政権時代)

大航海時代をきっかけに西洋で世界情報交流の国際意識(敷居確認)が高まったことは、自分たちが進んでいる部分と遅れている部分を改めて確認できる重要なきっかけとなった。(現代における異業種異文化間で敷居尊重をし合う重要性も同じ)

 

だからこそ、今まで自分たちの中だけ(外部と隔絶していたキリスト教社会の中だけ)で通用していた、中世のまま(旧約のままの寡頭主義)の聖属議会側(教皇庁・ローマ)の、その旧態慣習の体裁ですら、もはや議会改革の弊害となると地方ごとの上級貴族や高位聖職者らの間で、その改革意識を助長させることになった。

地方ごとの世俗議会側(ネーデルラント・フランス・ドイツ・ハンガリー・カスティリャ・アラゴン各地)は、もはや何のあてにもならない(何の議決性もない=国際裁判権といえる等族義務の手本など何も果たしていない)教皇庁など遠回しに無視し始める形で、身分制議会(地方議会の仕切り直し=身分再統制=国内再統一=国威・格式競争)をそれぞれ敷き始めるようになる。

これまでドイツの王族(オーストリアやボヘミヤ西部なども含まれるゲルマン系)と格式を永らく競ってきたフランスが、ドイツよりも先に身分再統制(国内議会再統一)を確立すると、イタリア王族からドイツ王族に移管するようになった皇帝権の事例を、今度はフランスの王族に移管させる事例を作ろうと、イタリア介入に躍起になった。

身分再統制などできていなかったイタリアは、いつまでも教皇庁(ローマ)の議決性(主体性)にまとまりがなく、イタリア全体どころか教皇領内ですらまとまりがなくなっていた。

身分再統制で遠征軍体制も再整備できていたフランス軍が、そこにつけこむようにイタリアで問題が起きるたびに乗り込み、イタリアにおけるフランス派を増やすための攻略・介入戦が盛んに行われた。

一向にまとまりを見せられなかったイタリアは何の主体性(議決性)も整備されないまま、フランス軍のイタリアでの軍事行動を止めさせることもできず、イタリアはただただ親フランス派と反フランス派で二分して荒れるばかりになった。(イタリア・フィレンツェ共和国のマキアベリが、イタリア全体のそのあまりの主体性のなさを嘆いていた)

イタリアは今まではヨーロッパ文化の手本のはずだった関係から、一時的ではあるが強国フランスのさじ加減次第の、フランスのいいなり国家になり下がってしまう異例事態を迎えたのである。

教皇庁(枢機卿団)の間でもその構図で二分し始めていよいよ深刻化すると、時の教皇ユリウス2世がついにこの対策として「イタリア内における親フランス派の総追い出し」に動き出す。

イタリアをフランスのいいなりにさせることで、ヨーロッパの主導権(格式)を一手に握ろうとしていたフランスに、ナポリ王国とシチリア王国の王権をガッチリと握っていたアラゴン王(スペイン東部の強国の国王)もフランスに反抗する動きを見せるようになり、フランス派追放の準備に着手したユリウス2世の教皇軍体制に加勢する形となった。

イタリアが親フランス派一色に染められてしまった後になってから(イタリア全体の議会がフランス派で一致するようになってしまってから)では、アラゴン王の管区扱いだったナポリとシチリアの王権も、フランスに横取りされてしまうかも知れなかったことが、当然のこととして危惧されたのである。

教皇ユリウス2世がまずは教皇領内の親フランス派の追い出し(教皇領再統一=親フランス派の筆頭だったボルジア家の追い出しが顕著だった)に成功するが、教皇庁(ローマ・公的教義)とは普段からあまり仲が良くなかったヴェネツィア共和国は親フランス派を表明して、依然としてイタリア全体の親フランス派を煽っていたことから、教皇ユリウス2世はヴェネツィア軍とも戦うことになった。

イタリアをいいなりにさせることで、ヨーロッパの主導権をフランスが独占しようとしていたことに同じく危惧していたマクシミリアン1世(ドイツ皇帝。ハプスブルク家の当主。オーストリア大公)は、教皇ユリウス2世の要請に応じてヴェネツィア軍を挟み撃ちすることにした。

モタモタしていれば挟み撃ちに慌てたヴェネツィア軍は、先制でまず皇帝軍(オーストリア軍)と戦うことにし、ヴェネツィア軍は皇帝軍をいったん撃退することに成功したものの、ユリウス2世率いる教皇軍(アラゴン王によるナポリ軍の加勢を得ていた)に派手に撃破される結果となった。

ヴェネツィア共和国はこの敗戦を受けて、反フランス派への鞍替えを条件に教皇ユリウス2世と和解することになった。

ちなみにヴェネツィア軍がこの時に、先に皇帝軍(オーストリア軍)と戦うためにオーストリア領に乗り込んだ際に、オーストリア南部の都市フッゲラウにあった、フッガー家の管轄の精錬所で製造・保管されていた長銃(ライフル)が、ヴェネツィア軍に押収されてしまったことが確認できる。(この出来事は 1511 年頃)

この時に何丁押収されたかは不明だが、フッゲラウのこの精錬所は、まだ国交は安定していた頃の 1507 年の時点で、イタリア式の銃2000丁もの注文をイタリアから受け、それをここで製造し、イタリアに納入していたことも確認できるため、500丁くらいの押収はあったかも知れない

ヴェネツィア共和国がフランスと手切れすることを迫られて和解した際に、押収分は恐らく返還されたと思うが、のちオーストリア・スペイン王室とフランス王室との間で3万以上もの大軍を互いに平気で動員するようになり、時には8万以上もあった大規模な軍事行動がたびたびの様子では、軍の銃保有はその内の200~300ほどだったようである。

西洋では銃を用いた戦いも重視はされるようになったが日本ほどではなく、火気兵器としては大砲も用いられるようになり、そちらも重視された。

日本でも、織田信長が亡くなった 1582 年から18年後になる 1600 年の関ヶ原の戦いでは、大砲(大筒・おおづつ)も使用されるようになった。

これは明国(中国)でも同じ傾向があるが、長銃は治安に使われたり貴族のたしなみ(狩りや大会など)として重視される傾向が強かった。

その意味で、銃をどんどん強力に改良して作戦で多用するようになった日本の方が、少し特殊だったといえる。(後述予定)

フッゲラウ(オーストリア南部の都市)だけで、1507 年の時点で2000丁も作られて納入されていた例がありながら、しかし 1550 年代までにたびたび行われた大軍戦では軍の銃保有数はそれほどでもなかったことは、以後製造されても貴族たちや保安官たち優先に、古いものが回収されながらそちらに回されていたと見てよい。

話は戻り、ヴェネツィア共和国を抑えた教皇ユリウス2世は次は、フランス派一色に染まりつつあったフィレンツェ共和国(イタリア・トスカーナ州)に対しても、フランスと手切れを迫る戦いを挑むことになる。

それまでまとまりがなかったフィレンツェ共和国は、フランスのイタリア介入をきっかけに親フランス派でまとまり始め、民意政治の意識も強まったことで今まで貴族支配政治を強めていたメディチ派たちによる政権体制の追い出し運動も起き、貴族委員会の力も弱まることになった。(マキアベリが抜擢されて活躍するきっかけ)

フィレンツェ共和国がそれで盛り上がりを見せていた矢先に、教皇ユリウス2世がそれに水を差すようにフランスとの手切れを迫ったため、どうにも反フランスで一致できなかったフィレンツェ(トスカーナ州)は、反フランス連合(教皇ユリウス2世、皇帝マクシミリアン1世、アラゴン王フェルナンドの連合)を前に、進退に揺れながら戦うことになってしまった。

 

教皇ユリウス2世は、フランスと手切れする条件でフィレンツェのメディチ派たちのかつての政権復活を後押しする名目でフィレンツェ共和国にも戦いを挑むと、フランス軍もフィレンツェの親フランス派たちの支援を名目に、その防衛に動いた。

フランス・フィレンツェ連合はその戦いに敗れ、フィレンツェ共和国(トスカーナ州)もヴェネツィア共和国(ベネト州)と同様に、フランスとの手切れを迫られることになった。

これによって、反メディチ政権の旗頭であったソデリーニが失脚すると、同じく親フランス派の急先鋒だと見なされたマキアベリも失脚(これをきっかけに君主論が書かれることになる)し、フィレンツェ共和国のメディチ派(貴族委員会)たちは、これら反フランス連合の後押しのおかげでかつてのメディチ政権体制を復活させることができた。

マキアベリが熱心に進めようとしていた民意政治も国防改革も中途半端に終わってしまったフィレンツェの下々は、かつての貴族支配政治に逆戻りすることにがっかりする者も多かったが、ただしこれをきっかけに、そういう所ものちに議会的に見直されるようになった。

このフィレンツェ共和国のフランス派の排撃を以って、イタリア全土で親フランス派と反フランス派で荒れていた様子もいったんは落ち着きを見せるようになった。

 

すなわちまとまりがなかったイタリアを、フランスに代わってオーストリア(ネーデルラントとの連合)とアラゴン(カスティリャとの連合)がそれをかっさらうように制するようになったことを意味する。

このややこしいイタリア戦争の流れは、下々の間では上の間で何が起きていたのかを理解するのに時間がかったが、各地の上級貴族たち、高位聖職者たちの間ではこれが何を意味していたのかが、もうはっきりしていた。

 

つまりイタリアの首根っこ(すなわちローマの首根っこ)をがっちり掴む形でイタリアを制するだけの議会制(世俗・聖属両面の法の肩代わり)を確立できている王族が、ヨーロッパの主導権を制する覇者だという風潮が、いよいよあからさまになる時代に突入していたのである。

フランスが先行してイタリアの首根っこを掴み始めたことに、オーストリア大公(マクシミリアン1世)とアラゴン王(フェルナンド)が、その阻止に動いたというよりも、これらが提携的にフランスからそれをかっさらったといった方が正確になる。

当時のヨーロッパは、教義崩壊を起こし続けてキリスト教社会全体が常に迷走気味だったからこそ、今までのような横並び王族たちの「弱みの足元をつけ込み合うばかりの、のらりくらり議会」などいい加減にしている場合ではないことに、上同士では深刻に危惧されるようになっていた。(強力な王族の代表格がいないことの、大空位時代の原因となった今までの権力均衡の採り方に対する議会的な見直し)

 

だからこそ、かつてないほどの強力な(絶対的な)王族の代表格の存在が、これからの等族議会制の名義人(総裁)として必要だという危機感が、上級貴族たちや高位聖職者らの間で深刻に考慮されるようになっていた。

 

オスマン帝国(イスラム教国家)では、セリム1世からスレイマン1世にかけて、強力なスルタン(イスラム教徒の全代表の総裁)による等族指導の流れで、イスラム教社会全体を次世代的な議会で整備するようになっていたのに、キリスト教社会側は遅々としてそれができていなかったことに、かなりあせっていたのである。(フランスもそれにあせって、急いで国内の身分制議会を整備した)

それが迫られるようになったことで、フィリップ(ネーデルラント公領全体の最有力者。カール5世の父)の父であるマクシミリアン1世(オーストリアの王族の代表)と、フアナ(カール5世の母)の父であるフェルナンド(アラゴンの王族の代表)の間での、大手の王族同士の国際的な婚姻協議提携が始まっていた。

見方を変えると、まずイタリア貴族たちを肩代わりする形でこれまで皇帝権(帝国議会の代表権)を有してきたドイツ側と、これまで延々と格式争いをしてきたフランス(その皇帝権を今度はフランスに移管させようとしてきた)が、その動き(オーストリアとアラゴンの連携による王権強化=ネーデルラントの公領権とカスティリャの王権もこれに加わる)にあせって先駆けでイタリア支配に乗り出したものの、結局その連合に阻止されてしまったという構図になる。

一方でイタリアでは、急場しのぎのように擁立されて、「教皇領のただの領邦君主(あんな奴はもう教父などではない、ただの世俗王)」と陰口を叩かれた、派手な軍事政策を展開した教皇ユリウス2世もそうだったが、教皇庁(西方教会・カトリックの中央聖属議会=枢機卿団)はもはや教義(教会改革)のための教皇選挙(コンクラーヴェ・選任体制)などできていなかったのもあきらかだったことが、その次期教皇の擁立でそこもいよいよあからさまになる。

 

もはや教皇庁(教皇領内)の力だけでは、まとまりのないイタリア全体からまず改善することもままならなくなっていたローマが、急がれたキリスト教社会全体の教会改革などできる訳がなかったことは、王族同士ではもうそこははっきりしていた。(等族議会制が整備されていったスペインやフランスの司教、修道院長、神学教授たちの方が教義力は上回っていた)

 

当時は「軍事的には文弱国家ではあったが、文化力・政治力・資本力は一級品だったフィレンツェ共和国に、ローマも頼り切るようにな流れになっていたために、教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ。初のメディチ教皇)が擁立されることになった。(教皇選挙など形ばかりで、ほとんど権力的な指名制と化していた)

 

ハプスブルク家(オーストリア・ネーデルラント・カスティリャ・アラゴン連合)はただイタリアの首根っこを掴むだけでなく、等族指導的にローマの教義力回復の後押しと催促をしていたが、今までの旧態(旧約)のままの権力にいつまでも居座り続けようとするローマ(教皇庁・枢機卿団)は、逆恨みばかりしていた。

 

ローマ(教皇庁・枢機卿団)は、そもそも自分たちの主体性のなさからその世俗議会側(帝国議会やフランスの身分制議会)のいいなりにならざるを得なくなっていった、つまり世俗議会(帝国議会)と聖属議会(教皇庁)の立場が完全に逆転してしまった原因が、自分たちで等族義務(議会改革の手本)など何も示してこれなかったことが原因であることを、全く反省できないでいた。

 

世界情勢に目を向けずに、今まで通りの旧態のままのローマ文化が通用しなくなった劣情を、それを全て帝国議会(その中心のハプスブルク家=オーストリア・スペイン王室)のせいに反感を強めるばかりの、だらしないことこの上ない有様だった。

 

貴族的な社交と利害を嗅ぎ分ける外交力には長けていたが、肝心の教義力(聖典の整理力やその等族指導力)など皆無だった、俗物もいい所だった教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)は、オーストリア・スペイン王室から教会改革の議決性を迫られて

 

 「それを経済国家フィレンツェに後押しさせるためにお前を教皇にしてやったのに、できないのなら次はアードリアン(神学教授出身の人文主義者。スペインの国家裁判長。次期教皇。前代未聞のネーデルラント人教皇ハドリアヌス6世)を指名するぞ!」

 

と釘刺しされていたとみて、間違いない。

 

求められていた教会改革のまとまりなど何ひとつ確立できなかったレオ10世時代の教皇庁は、今まで通りでない枢機卿団たち(それ繋がりのイタリアの貴族と聖職者たち)の不満をそらすために、教義のため(等族主義・人々の救済のための改革)など皆無な、権威(寡頭主義)のためだけの贅沢で派手な教会の行幸ばかり行い、レオ10世がヤケクソ気味に教会財産を枯渇させることばかりしたために、これがいよいよ教会問題として深刻化することになった。

 

人文主義者たちの内から加熱していった、ドイツ中の抗議派(物申す主義=プロテスト主義)たちがそのことで各地で武力一揆が起きかねないほどの、教会問題がいよいよ取り沙汰されるプロテスタント運動(カトリック体質=他力信仰一辺倒の公的教義体質との決別運動)を助長したのが、このレオ10世の時である。

 

聖書研究に精通していた、エルフルト(テューリンゲン州)出身の神学教授であったマルティン・ルターが、人文主義者たちの抗議派(プロテスト派)の筆頭として「(教会の)贅沢は敵」と、今までの公的教義体質の批判と、急に始まった訳の判らない免罪符販売のあり方も含めた偶像批判を加熱させ、その同調者を急増させるきっかけになる。

 

このレオ10世時代( 1521 年まで)は、1519 年に皇帝マクシミリアン1世が亡くなったことも重って、そのややこしさを助長することになった。

 

その孫のカール5世が次代皇帝となるにあたって、またしてもフランス王室が次期皇帝を立候補してきたために、皇帝選挙が行われた。

 

その時の、急な選挙資金とその式典費用の巨額が必要となったことで、その用立てを要請されたフッガー家も、あまりにも巨額だったために苦労している。

 

その際に、フッガー銀行がらみの教会財産のおかしな流動が起きて、上同士で何が起きていたのか全く理解できていなかった下々から非難の的となり、フッガー叩きを介した遠回しの司教特権叩きが始まり、騒然となった。

 

当時は公的教義体制(司教体制)を直接批判すると異教徒扱いされることが懸念されたため、帝国全体の財政や教会財産を牛耳っている「ように見えた」資本家の最大手のフッガーを叩くことで、それを拝金主義的な堕落や腐敗と結びつけるという、遠回しの教会非難の手口が盛んだった。

 

この時期にルターは、ヤーコプ・フッガーをやたら非難しているが、教会非難をするためにうってつけだったフッガー家の胸を借りていたというのが正確で、内心ではそこまでフッガー家のことを憎んでいたのかは怪しい所になる。

 

ヨーロッパ中の全ての上級貴族たち、高位聖職者たちが、このフッガー銀行の資本力のいいなりであるかのような風聞が下々の間で蔓延するほど、今まで見たこともない遠隔地間の支店銀行との巨大銀行仕様(口座管理・為替・両替・送金代替)を作り上げてしまった(実際に、現代の手本といってよい優れた複式帳簿の原型を独自で作って、高度に管理できていたことに驚かれている)フッガー家の存在感は凄まじく、何かあれば全てフッガー(とそれに次ぐヴェルザー)のせいにすればよいかのような風潮ができあがっていた。

 

のちにその次期後継者となる甥のアントーン・フッガーはアウクスブルクの人文主義会に所属し、キリスト教社会の今後のあり方に真剣に憂慮していたひとりだった。

 

ちなみにこの教皇レオ10世時代に、ルターが教会問題を提訴した有名な「95箇条の論題」が書かれた 1517 年は、ルターは34歳、アントーン・フッガーは24歳、カール5世は17歳、またそれらとは面識はなかっただろうが大予言で有名なノストラダムスも同時代人でこの時14歳頃になる。

 

人文主義で著名だったエラスムスがアウクスブルクに遊説に訪れた際に、アントーンは熱心に「住まいも活動費用も全てこちらで用意するので」とアウクスブルクへの永住を勧めていたことはルターも当然知っていたと見てよく、アントーンに対する敵意はもっとなかったと見てよい。

 

皇帝選挙にハプスブルク家(オーストリア・スペイン王室)は莫大な借金をせざるを得なかった中、帝国を代表する国家銀行と化していたフッガー家にそれを用立てさせたこの時の債務が、のちのスペインの国債発行と世界交易の証券経済と結びつく、大経済期の隆盛と、その大崩壊の序章となる。

 

オーストリア・スペイン王室と、フランス王室とで、何かあれば互いに盛大な巨額を投じて相手を抑え込もうと資金政治戦、資金軍事戦を挑み合った、その凄まじい繰り返し(のちにその無理が互いに限界を迎えて、双方盛大に国家破産で共倒れした)は、この皇帝選挙の時から始まっていた。

 

この時の皇帝選挙の巨額の資金戦の用立てを要請されたヤーコプ・フッガーは、これに応じたら様々な問題が生じることも解り切っていたから、最初はこれをかなり消極的に渋っていた。

 

しかしヤーコプ・フッガーの優れた才覚を今まで見込んで後押ししてくれて、結果的にフッガー家に伯爵(土地所有貴族)の資格まで斡旋してくれた、亡くなったマクシミリアン1世への義理で渋々応じることになった。

 

これによって資金的にカール5世(オーストリア・スペイン)が圧倒的に有利となり、選帝侯による議決と皇位式典も無事に行うことができた。

 

一方で上同士で何が起きていたのか下々はすぐには意味が理解できずに、

 

 これまで見たこともない国家銀行が出現し、それを請け負うようになったフッガー家の台頭

 

 今まで見たこともない規模の王権の大継承者のカール5世の出現

 

に加え

 

 大航海時代効果でリスボン(ポルトガル)、アントウェルペン(ネーデルラント)主導の香辛料その他の取引の、今までにない経済景気の盛り上がり

 

 その一方の、遅々として教会改革が進まないイライラ

 

とで、世間は常に困惑するようになっていた。

 

貴族たち、聖職者たちの間でも疑問視されるようになっていた、司教の任期ごとの交代就任時などの、教皇庁の公認を得るための毎度の高額な献納金(セルヴィーティウム)の支払いの、今までの公的教義体質の悪習もいい加減に見直される予定だったが、皇帝選挙が起きたことでそれも少し先延ばしとなってしまった。

 

司教の経歴(肩書)を欲しがった上級貴族たちのように、その取り巻きの高位司祭たちも借金をして地位(経歴の肩書き)を維持しようとする者も多かった、だから司教は借金を取り戻そうと教会財産を利用して利益を上げた分で自身の借金を補填しようとし、高位司祭たちも旧式のままの教会税その他の特権で、いつまでも古い法のまま下々を押さえつけながら吸い上げようとする公的教義(司教特権)体質も、いつまでも改善されなかった。(プロテスタント運動の特に争点になる)

 

その皇帝選挙の時の借り入れは54万グルデンといわれ、のちにも30万グルデンだの50万グルデンだのの巨額が当たり前のようにフッガーの帳簿記録に出てくるが、銀の貨幣改革のインフレが起きる前の 1519 年の時点での54万グルデンは、それ以後のものよりも大変な額だったと見てよい。

 

この額の筆者の大まかな算定としては、両軍総勢で20万といわれた関ヶ原の戦い規模の、自軍10万分の武具の準備も含める兵站(へいたん。行軍を支える食料輸送と道路確保の工兵たちを含める)を2ヵ月分は維持できるほどと見ており、国家予算に支障が出る額なのは間違いない。

 

ハプスブルク家のオーストリア領、ドイツ公領、ネーデルラント公領側から、その内の34万グルデンはなんとか返済契約ができたが、これ以上はそちらに負担させる訳にいかなかった残りの20万グルデンはどうにもできず、スペインの王族領で返済することになった。

 

カール5世がスペイン(国籍上はカスティリャ王。祖母イサベル女王の継承)を、弟のフェルディナントがオーストリア(祖父マクシミリアン1世の継承)を、妹のマリアがネーデルラントの総督(祖母ブルゴーニュ公マリーの代行)としてそれぞれ統括することになり、この体制でどうにか帝国議会時代をまとめることになるが、いずれにしてもカール5世(新皇帝)がスペインの代表でなければ、ヨーロッパの最大手の格上を自負していたスペインの上級貴族と高位聖職者たちは絶対に納得しなかったのが、当時の状況だった。

 

当時、ドイツの司教たちの資金繰り目的の「思い付き」の免罪符販売を、帝国議会(オーストリア・スペイン王室)と教皇庁(レオ10世)が認可し、スペイン王室としてはその特権を認可する代わりにフッガーに利益供与をさせる形で少しでも借金を減らそうとしたが、これは賛否両論の騒ぎになった(いい加減な特権を一時的に作っているだけのただの売官制に等しい、と抗議派たちをかなり逆なでした)上に、利息も大変になるその借金の前には、焼石に水だった。

 

当時のフッガー家の総資産は200万グルデンはあったといわれていたが、54万グルデンの急な用立てはそもそも潤沢ではなく、現金は事業拡大と維持に期限契約的に次々と投資されていったため、事前に予定が組まれていた訳でもないその全額を急に自前で揃えることは簡単ではなかった。

 

そのためフッガーの、国家銀行としての信用による呼びかけによって、現金(金貨・銀貨)の蓄えがあった貴族や資本家たちの多くから、高利を約束して出資を募って集めた資金であることも多かった。

 

フッガーとしてもそれらへの返済期限が延びてしまえば、さらに高利を便宜しなければならなくなったりと苦しくなる立場だった、だから相手がスペイン王室だろうが、期日を守らずにモタモタと返済を先延ばしさせる訳にもいかなかった。

 

同じようにスペイン王室も期日を先延ばしにした分だけ、フッガーに付与の便宜をしなければならなくなり、早く返済しなければ苦しくなっていく一方だった。(借用に関する裁判法自体は既にあり、王族ならなおその等族義務の手本を示さなければならなかった)

 

54万グルデンもの巨額を、今までは急には誰も用立てできなかったのを、それをついに可能にしたフッガーの優れた国家銀行体制があったからこそ、今度はそうした問題を国債発行(証券)で処理していくという近代的な発想(だが危険な橋でもあった)も、この時代にとうとう導入されるきっかけとなった。

 

国籍としてはカスティリャ王となるカール5世が借金をしたのだから、その債務はスペイン王室ということで、カール5世が相続する予定だった祖母(イサベル女王)の広大な王族領(サンティアゴ修道会領、カラトラバ修道会領、アルカンタラ修道会領)の税収から返済されることになったが、カール5世もフッガーも初動から前途多難だった。

 

これまでドイツ(帝国議会)を中心に取引してきたフッガーは、以後スペイン王室の徴税請負(マエストラスゴ)と出資取引(アシエント・貿易に関するものが多かった)の、無理難題の債権処理にも多大に関与させられることになる。

 

同胞意識などないスペイン貴族から見た、外商のフッガーの代理商たちに対する態度もあからさまで、遠慮無用に無理難題の国債を次々と押し付けてくるのを、のちの次代のアントーン・フッガーも懸命に支えるが、カール5世が 1558 年に、アントーン 1560 年に亡くなると、フッガー家が取り仕切っていた国家銀行と証券取引市場の時代も完全に終焉する。

 

以後はジェノヴァ人たちが、フッガーが特にこれまで支配(というより構築)していた証券市場を独占していく形で、スペイン王室の主導を強めていたヨーロッパ中の証券市場を牛耳るようになる。

 

カール5世はカスティリャ王の就任式のために 1520 年に王都ヴァリャドリッド(バリャドリード・カスティリャレオン州)に向かうが、ドイツ人(オーストリア人も含むゲルマン系)やネーデルラント人の要人ら取り巻きたちをドカドカ引き連れてやってきたカール5世の様子に、現地は錯乱した。(コムネーロスの反乱事件、ヘルマニーアの反乱事件)

 

スペインの上級貴族たち、高位聖職者たちの間では話はついていたが、上の事情を理解できていなかった多くの中級貴族、下級貴族たち、都市の名士たち、また上級貴族の間でも難色を示していた連中が「誇り高き我がスペインを、格下のよそ者どもが国政を乗っ盗ろうとしている!」と、許容派と否定派での合併アレルギーの大混乱を起こす事態となってしまった。

 

皇帝選挙の借金返済のために、よそ者(ドイツがらみの代理商たち)がさっそくスペインの王族領で回収しようとしていた動きに、上の事情など把握していなかった大勢の中下級の貴族たちは、よそ者がスペインの王族領の差し押さえに来たように見えたり、スペインの特権の専横に来たように見えたのも、無理もなかった。

 

よそ者感ばかり強かったカール5世を迎えるにあたって、そんな中で今後のスペインの都市法の改定を巡って都市闘争にまで発展してしまい、就任式どころではなくなってしまったカール5世は出直すことになった。

 

1517 年にカール5世が母フアナ(先代のカスティリャ女王イサベルの娘。王権を代理していた)に会いに王都に訪れた際にも、カール5世がそれら取り巻きの大臣たちと、その従者や侍女たち総勢200名をゾロゾロと引き連れてきた姿に、その時から現地ではかなりイライラしていたようである。

 

これまでフッガーは、ハンガリーやポーランドにはちょっとした友好関係を築けていた現地の代理商がいたが、スペインとはその縁が育っておらず、その模索からまず苦労したといわれる。

 

スペインは先にジェノヴァ人(イタリア人・リグリア州の資産家集団)たちが14世紀からイベリア半島(アラゴン・カスティリャ)に進出し、遠隔地間の取引網を先駆けで築いて優位に立っていた。

 

ジェノヴァ人たちは12~14世紀の間に、地中海貿易(アラブ・アジア方面の交易)のその制海権も含める優先権をヴェネツィア共和国(ヴェネト州)とたびたび競ったが、ジェノヴァ共和国(リグリア州)が一時的に有利になる時もあったが、そちらはうまくいかなかった。

 

その一方でジェノヴァは、イベリア方面(アラゴン・カスティリャ)での遠隔地間商業を先駆けで始め、そちらに注力するようになる。

 

イベリア半島は、アラゴンとカスティリャの統合国家スペインとして強国化を見せたことで、以前から縁を作っていた外商のジェノヴァ人たちも、ますますスペインでの優位性を築くことになった。

 

特に15世紀末から強国化が顕著になったスペインは、国全体が貴族的な風格の誇りを重視するようになり、そのため都市の経済成長もジェノヴァ人のような外来に特権を貸与して任せる傾向も強かったといわれ、ドイツやイタリアほどは自発的に都市の資本家は成長しなかったといわれている。


ただそんな中でもカスティリャでは、ブルゴス(カステリャレオン州北部の商業都市)は優れた商人団が集まっていたことで知られていた。

 

新大陸(アメリカ大陸)からのちに膨大な銀(今のメキシコ。今のボリビア。ポトシ銀山)やその他にも様々な貿易品がもちこまれると、スペインでのその取引中継地の巨大商業都市に発展するようになるセビーリャ(セビリア。アンダルシア州)が台頭するが、その後もブルゴスは目立っていて重宝されていた。

 

何かあれば上から下まで、フッガーとヴェルザー(バイエルン州の金融都市アウクスブルクの代表的な資産家)の2つのこの巨大資本家の仕業だと叩いておけばいいのかのようなドイツでの強烈な印象は、スペインの貴族たちや有力商人たちの間でも、当然のこととしてそう見なされて警戒される風潮も強かった。

 

スペインでのフッガーがらみの代理商は、先行で現地を席巻していたジェノヴァ商人たちか牽制を受けがちだったが、ただし皆が必ずしもフッガー(ドイツがらみ)を敵視していた訳でもなかった。

 

これはドイツでも同じことがいえるが、ジェノヴァ人の中にも派閥は当然あり、例えばスペイン王室に取り入って有利な優先権で利益供与できていた商人団と、いつもそれに乗れずに不満だった商人団とが当然いた。

 

ジェノヴァ人の中にも、スペインとの縁を模索していたフッガーと友好関係を築こうとする者たちも中にはおり、ブルゴスの資本家たちもそこは同じだった。

 

ブルゴスで著名だったアロ家(ディエゴ・デ・アロ)が、利益協約でフッガーに協力してくれることになったのは、フッガーにとって心強い味方だった。

 

このアロ家は、スペイン王室の財務監査官の要人との交流もあったことで、その縁でカール5世が相続した王族領のサンティアゴ修道会領からの徴税請負(マエストラスゴ)による、皇帝選挙の残りの20万グルデンの返済の話もようやく取り付けることができた。(これだけでは足りず間に合わないため、他にも順次、契約が結ばれていった)

 

カール5世としても、今後も何かと用入りになってくる多額の借り入れをこれからもフッガーにも頼みたい所だった、だから今の借金を早く返済したい所だったが、当初はそれ自体が簡単ではなかった。

 

最初からよそ者感が強かった、ネーデルラント人かオーストリア人のように見なされていたカール5世の初動は、そのひと声でスペインの王族領のことで、フッガーと徴税請負契約を簡単に結べるような状況ではなかったことが、これら流れから窺える。

 

この請負(うけおい)は日本と西洋とでだいぶ感覚が違い、日本でも江戸時代にそれはアリにするかナシにするか議論されている。


元禄を迎える少し前に、信濃5万石の内藤家(徳川譜代の一族)がどうにも返済のめどがつかなくなるほどの借金漬けで財政破綻し、徴税権の貸与を商人にしてよいかを幕府に問い合わせることになった。

 

大老たち(たいろう。徳川政権の政務最高顧問・大臣たち)で議論され、日本では庶民側である商人(資本家)には、大名の徴税権には直接の介入は絶対にさせないことがご政道だとする前提を固めている。(議決後に、借金漬けに陥った内藤家の返済を、その時は幕府がとりあえず肩代わりすることになった)

 

西洋では中世から、土地所有貴族と、都市の有力商人との間の、徴税請負契約は当たり前になっていた。

 

例えば、その領地のその範囲では半年で100クルザード(ポルトガルの単位だがスペインでも対比的によく使われていた)分の税収が見込める部分を、請負の管理費と利息分を含めて、半年後に入る分を先に80クルザードで立替(前借り)という形で、徴税権を返済と合わせて請け負わせる契約が、西洋ではよく結ばれていた。

 

徴税請負は、土地所有貴族によく認知してもらっているような、経営力に強い有力商人でなければ任せられることはなく、精度の高い帳簿を提出させることで、貴族側も自領を把握することも大事なことだった。

 

例えば100クルザード分の農牧の評価の予定地でも、出来高次第では110クルザード分の税収を上げることができる場合もあり、余剰分は徴税請負人が得ることができる契約のものが多かったため、その余剰利益を目指して経営管理を頑張る有力商人も多かった。

 

余剰にできた作物を換金したり、または他に運んで商売しても良いことが契約の特権で認められていたことが多かった。

 

農牧の保有地農民や小作人たちをろくに奨励もせずに、余剰利益欲しさに暴力的に働かせていた徴税請負人もいたとはと思うが、そうではなく例えば余剰利益分の半分を労働者たちにも還元するような、余剰分を多く納入できた分だけ労働者たちの利益にもなる方法で頑張らせるやり方も、されていたと思われる。

 

日本の江戸時代の場合だと、税収のことで有力商人が関与することはあっても、それを取り仕切るのは基本は武士側の代官と、庄屋とのやりとりになる。

 

農地ごとでそれぞれ任されている各代官たちがまずはどっしり構えながら、代官所が公認している従者たちと一緒に有力商人たちも蔵の管理や会計の手伝いをすることや、また大名の増収目的の要請で、有力商人たちに領地の事業出資(町請)をさせるなどならあった。

 

日本では、庶民側の徴税業務がそもそも、武士と庶民との中間的な立場の管理責任者であった庄屋(名主)が請け負う制度になっていたこともあって、武士側の徴税権と庄屋側の徴税業務をそっくり有力商人たちに委託するような話は、身分制度的にも色々とおかしなことになってくるため簡単ではなかった。

 

経済社会面での契約に関する法は西洋の方が進んでいて、のちに日本でも江戸時代になると工夫されていくようになるが、西洋では鉱山事業でもそういう所は中世から顕著だった。

 

西洋での鉱山事業では、どこからどこまでの坑道の採掘権が、いつの期限までが誰がその出資主で、さらには鉱物の先買い権は誰々で、それを国外に持ち出してもよい許可を得ている者は、王族とどういった条件の特権の契約が結ばれているのか、といった事こまかな割り当てが常にされていた。

 

大小の土地所有貴族の、領地ごとの通行権や、大量の物資が運ばれる際の関税なども、国王や大公の特権と連携されながら、有力商人らと期間ごとの細かい条約がよく結ばれ、その様子は特権がまるで証券と化すように、その付加(オプション)条件まで契約対象にされることも、西洋では当たり前になっていた。

 

西洋ほどではないが日本でも江戸中期の大経済期を迎えると、今まで体験したことがなかった経済観念が次々に出てきたため、そうした整備をしていかなけばならなくなっていき、その対処に苦労するようになった。(幕府は常に迅速に対応できずにいて、それに振り回されるようになる)

 

西洋では、荒ながらでも16世紀には帝国議会で法が整備されていったことをきっかけに、17世以降には、今までバラバラな基準で取引されていたことが多かったそれぞれの特権も、領主同士や都市間との慣習の不一致で騒動に発展させないためにも、国家ごとに特権の基準を統一的に整備されていくようになる。

 

16世紀での証券大経済期と、その整備が間に合わずの大崩壊の教訓も当然活かされてのことだが、西洋ではそれまで期限契約の、際限のないような特権貸しもそれまでは当たり前のように行われていて、そこが少し荒い部分もあったからこそ、17世紀からは身分制議会的にそういう所も整備されるようになった。

 

16世紀は議会による法・規律の見直しの意識が高まったからこそ、今まで見たことも聞いたこともない新たな局面を人々も次々と体験し、世のあまりの変容の速さに、人々も常に困惑しがちな時代だった。

 

特に経済の勢いばかり加速し、その法の整備が追いつかなくなって崩れていく所は、日本も江戸時代にそれが顕著になるが、西洋は一度そう動き出すと日本以上に歯止めがかからなかった、カール5世とアントーン・フッガーが生きた時代はそれが凄まじい時代だった。

 

フッガー家の台頭もそうだが、カール5世の存在からしてまず異例もいい所だった。

 

カール5世は国籍的にどうにかカステリャ王(スペインの代表格)に就任したかと思えば、死期を意識して引退するまでのその全体の半分もの期間、カール5世は本拠のカステリャを不在にしていた時間があまりにも長かったことも、それがもう異常事態といってよかった。

 

のちのスペイン一強時代への移行とも大きく関係しているが、どこかで何か大きな動きがあるごとに、皇帝でもあるカール5世は、神聖ローマ帝国(西方教会圏)の中心であるドイツに出向いて、帝国議会を主催しなければならなかった。

 

かつての力を失っていたイタリア王族から、帝国議会(ローマ帝国)の責務をドイツ王族が肩代わりするようになって以来のドイツは、フランスやスペインやポルトガルなどのように、その地方の教義の再統一だけしていればいい訳ではなく、教義を整備できていないイタリア(ローマ)のしわよせの全てをドイツが背負わなければならない立場、その議会(キリスト教社会全体の基準)の手本にならなければならない立場だった、だから統治も物凄く大変だった。

 

議会だけでなく、オスマン海軍が地中海から押し寄せてくれば、ヴェネツィア海軍がそれを防げるだけのかつての力を失っていたために、スペイン、ドイツ、オーストリア、ネーデルラント、イタリアと連携を採りながら水軍(神聖同盟)を編成して、その追い返しに当たらなければならなかった。

 

「あの王族領は何々だからフランスに領有権がある」とあれこれと主張しながら、ドイツの権威を阻害しようとフランス軍が動こうとすれば、スペインに協力させながらドイツの王族領の領有権を防衛するために、ドイツに向かわなければならなかった。

 

ドイツでのプロテスタント問題が深刻化して、シュマルカルデン都市同盟と農民一揆が大規模化すると、その制圧のために皇帝軍を率いて制圧に向かわなければならなかった。

 

軍事も大規模化していくその資金戦化も大変で、たびたびのその莫大な戦費の処理も、王室はどんどん深刻化させていくことになった。

 

ただでさえ荒々しかった国債の処理の仕方も、スペイン一強時代にあまり工夫もされずにそのまま継承すると、歯止めがかからないまま債務処理はますます荒くなっていった。

 

1556 年にカール5世が引退した時からスペインは、なんとかしなければいつかは爆発する時限爆弾ともいうべき、雪だるま式の債務をその時から引き継ぐように抱え続け、それをどうにも処理しきれなくなったスペインはのちに国家破産で盛大に崩壊することになる。

 

アントーン・フッガーはカール5世の時代に、荒くなる一方の、もう処理の限界をとうに通り越していたスペイン王室とのこれ以上の取引を停止しようと、資産が少しでもある内にフッガー会社を早急に精算して畳む動きに何度も出た。

 

実際、スペイン王室の財務関係者に面会を求められる(不良債権の押し付けにやってくる)たびに、アントーンは居留守を使ったり支店に逃げ回ってたりしていた。(証券市場の中心地とになっていたアントウェルペンのフッガー支店も、スペイン王室の要人がたびたびやって来て横領していた)

 

しかし会社を畳む決断のたびに、内々で「俺を見捨てないでくれ」といわんばかりにカール5世に泣きつかれて結局、膨大な不良債権を押し付けられる形で会社資産を大幅に放出させられながら、そこまでスペインに義理などなかったはずのカール5世のまるで見届け人のように、その命運を共にすることになった。

 

しかし、アントーン・フッガーがカール5世時代に仕方なく律儀に付き合ったことで、上層の間だけで秘匿にされていた 1560 年までのスペイン王室の債務処理がいかに荒かったかの事情を知ることができる、当時の貴重な帳簿記録が伝えられることにもなった。(債務記録自体は 1580 年代以降も続いている)

 

大継承者のカール5世も、西洋最大の富豪といわれたアントーン・フッガーも、華やかそうに見えるのは表向きだけで、その実態は悲惨もいい所の苦労人といっていいほどだったことを、順番に説明していきたい。

 

世界最強を自負していた 1570 年代のスペインは、内部では財政は常に不安定でグラついていたことはスペイン王室の上層の間しか知らないことだったが、スペインのことにも詳しかったイエズス会もその実態は恐らく知っていたと見てよい。

 

スペインの統治だけしていればいい訳にいかない、神聖ローマ帝国の皇帝(西方教会圏の王族の代表)でもあるカール5世は、帝国議会の開催にたびたびドイツに出かけ、帰ってきたと思ったら「オスマン海軍が」「フランス軍が」「ドイツの大規模なプロテスタント一揆が」と、何か大きな動きがあるごとにまた出かけてしまうことを、繰り返した。

 

スペインの上級貴族たち、高位聖職者たちは了承済みだったが、カール5世が不在が長くなるほど

 

 「なぜ誇り高き格上のはずの我らのスペイン王(カール5世)が、玉座にどっしりとお座りになられず、まるで帝国の使い走りみたいなことに、なっているのだ!」

 

 「なぜ、格上のこのスペインからそれら格下ども全てに対し、指令する体制になっていないのだ!」

 

と、表向きはそういうことを安易にいう訳にもいかずの、しかしスペイン中のその本音に皆が常にイライラを募らせたため、王宮関係者たちもそれらをなだめるのも大変だった。

 

オーストリア・ドイツ、ネーデルラント、イタリアとの連携も採らなければならないための、それら要人のカール5世の取り巻きたちにしても、それを押し付けられたようにスペインは感じ、上の事情を解っていたとしても、そういう所にスペインは常にイライラしていた。

 

責務的にカール5世をスペインの代表としておかなければならないから、皆も表向きは不満をいう訳にはいかなかったが、スペインではカール5世が神聖ローマ帝国全体のためのことはしても、スペインのためのことをしているようには、全く見えなかった。

 

まるでよその国のためだけにスペインだけがその負担ばかりし、借金ばかり膨らませているように見えた、だからドイツではともかく、スペインではカール5世の人気などある訳がなく、その次代予定のフェリペ2世(カール5世の子)に、次の時代に向けての、つまりスペイン一強時代に向けての信望を皆が寄せるに決まっていた。(この問題も後述)

 

「帝国議会で法が整備されるまで」「だからこれはもう、現陛下(カール5世)の代ではあきらめてくれ」と国政の上院議員たちにいつも説き伏せられていたスペイン貴族たちは、鬱積する不満を長らく我慢させられていたのである。

 

だからフェリペ2世の代になってからは、スペイン一強主義を急激に強める動きに現れたことは、今まで我慢させられ続けてきた反動もそのまま現れることになり、それがのちにプロテスタント弾圧の加熱の原因にもなった。

 

また文字数制限になってしまったため、次はスペイン・ポルトガルが独占するようになった新大陸事業とアジア貿易事業の様子や、帝国議会と大市の関係の証券経済の様子について、この続きとして触れていきたい。

 

また日本の徳川政権でも同じことがいえる部分として、近代になるまでは、特に経済面の法の整備をすることがどうしても難しかった当時の理由などについても、うまく説明できるか解らないがそれも触れていきたい。