近世日本の身分制社会(104/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか32/?? 2022/08/14

 

今回は、戦国後期から戦国終焉にかけての西洋は、どのような事情になっていたのかのまずは概要から、説明していきたい。

 

それを説明していくことが、織田政権の特徴でもある、海外対策にも間違いなく関係していた本能寺の変の題材にもなることを、順番に説明していきたい。

日本が江戸幕府(徳川政権)の泰平の世に向かうまでの、西洋の事情(帝国議会の時代からスペイン一強の時代への移行と、その終焉の様子)が、これまで軽視され続けてきた。


西洋の事情にも触れ、当時の日本と西洋は互いにどんな立場として意識していたのかを整理すれることで、今まで見えていなかった所も見えてくることを伝えたい。

 

今回はまずその概要から入り、次に「なぜそうだといえるのか」の西洋中心の説明をしていきたい。

織田信長が、向こうの事情を大方把握していた前提で見渡していけば、その重臣であった豊臣秀吉と、その後の徳川政権の上層たちも、海外対策にどのような付け合せをしようとしていたかも、自然に見えてくる所になる。

明智光秀の日向守(ひゅうがのかみ。宮崎県の知事)の肩書きと、羽柴秀吉の筑前守(ちくぜんのかみ。福岡県の知事)の肩書きから窺える、今後の外相(国際文化技術交流のための、外交大臣と運輸大臣)の重役の予定も、自然に見えてくる。

織田信長の場合は、上の事情を下々がすぐに理解できるか難しいために「その内に皆も、どういうことなのか解るようになるだろう」と、順番に姿勢で示していく考えでいたが、豊臣秀吉についてはともかく、合議制に移行の徳川政権の場合は「このことは下々には知られない方がよいだろう」が強まるため、特に日本側の文献を見ているだけは、その様子も全く見えてこない所になる。

 

豊臣秀吉が亡くなって、豊臣体制の維持も急に怪しくなると、関ヶ原の戦い(日本の世俗全体の代表家長の総選挙戦)が行われる少し前には、徳川家の上層たちも西洋の事情もどんどん変わってきていたことに、当然気づいていた。

 

関ヶ原の戦いが起きる少し前には、後から来日してきたイギリス・オランダ人(プロテスタント派。新教派。教皇庁と決別の多様人文派)たちが、先駆けで日本と交流をしていたスペイン・ポルトガル人(カトリック派。伝統重視の公的教義派・西方教会派)たちととうとう日本でかち合う事態となり「あちらはキリスト教を詐称する、日本をダメにする悪魔崇拝者(反キリスト教徒)たちだから交流を断行するべきです」と互いに徳川家康に訴え合って、ややこしいことになっている。
 

来日した西洋のキリスト教徒たちは、文献だけ見ていると支配的な信仰が全てであるかのような表向きの様子ばかり目立つが、常に荒れ気味だった西洋の実態を見ずに、その表向きのただの印象に惑わさるばかりでは、何も見えてこない所になる。

 

参考にされる文献は、イエズス会を中心とする表向きの公文書からのものも多く、また日本人側の西洋人たちの目撃談話的な文献にしても、西洋の事情をどこまで把握できていたのか(国際視野の敷居確認ができていたのか)も怪しい上に、自分たちの今後を自分たちで議決できずに揺れていた旧中央関係者らによる見た目の印象ばかり書かれているため、まずそこに注意が必要になる。

 

織田政権時代(戦国後期から戦国終焉)の頃の、西洋の事情による補強説明がろくにされてこなかったために、今もってそこに大きな誤解がされ続けてきている。

 

まずイエズス会士たちは、実際はもっと技術経済的な考えもできていた者たちで、そして西洋ではそういう所に皆が振り回されてウンザリしていたことも、当時の西洋の事情をよく解っていないとそこが大きく見落とされてしまう所になる。

 

西洋では、信仰問題(深刻なプロテスタント運動の言い分を受けた帝国議会での、人文性と啓蒙性の仕切り直し)でかなり揉めていた一方で、文化技術的な派手な大経済景気社会(特に証券経済)が到来したことで、ただでさえ整備しなければならないことが多かった帝国議会は余計にややこしくなり、グダグダになり気味だった。

 

生真面目で気鋭な教義改革集団であったイエズス会士たちの本音とは、スペインとフランスの二大強国が始めたおかしな証券経済競争に皆が振り回されるようになっていたことにウンザリしていたが、これは良い面も悪い面も目立った。

 

議会ではキリスト教(西洋人にとっての社会性)のあり方(教会改革)についてようやく整備されていく一方で、立場ごとでその向き合いの温度差も激しかった。

 

西洋は日本とは逆の、今までの他力信仰一辺倒(個人尊重の多様性の敷居確認ができていない内から、できるかどうかも解らない敷居向上の啓蒙性の押し付け合いを始めようとする)の見直しのための人文主義(自力信仰不足=個人努力尊重不足=個々間の敷居確認不足 への訴え)の影響も、強く現れるようになった。(特にエラスムスとルターが助長した)

 

アウクスブルク信仰告白を受けた帝国議会の 1555 年の、その歴史的な裁定に至るまでの、それまでシュマルカルデン都市同盟などでプロテスタント問題も深刻化していた当初は、皆も少しは教義問題に向き合うようになっていた。

 

スペイン一強(フェリペ2世)時代の前身の、この 1555 年頃が節目だった帝国議会の時代(カール5世・ハプスブルク家の急激な台頭)までの西洋とは、新大陸支配(アメリカ大陸事業)とアジア貿易で、今までの文明的な遅れを取り戻そうとする勢いが大きかった一方では

 

 プロテスタント闘争の処理

 

 フランス王室が仕掛けてくる西洋の主導権争い(格式争い)

 

 陸路からも地中海からも迫ってくる、イスラム軍の猛威

 

 教会問題(教皇庁のあり方を含める、旧約のままの公的教義体質の改善問題)の処理

 

について、それをもはや何も対処できなくなっていた、むしろ足をひっぱることしか能がなくなっていた聖属議会側の教皇庁(ローマ。公的教義。カトリック=西方教会の総本山)に代わって、世俗議会側の帝国議会がそれらを全て処理していかなければならなくなっていた。

 

寡頭主義から等族主義へ移行させていくための山積みの問題を対処していかなければならなかった、大忙しの時代だった。

 

人文主義の影響も手伝って、各地で荒れ気味に旧態観念(時代遅れの寡頭主義)を打破し始めていた様子を、常に大忙しの帝国議会も少しずつ容認していくようになり、議会のあり方自体も改められていくと大経済景気も起き、これは良い面もあった反面、その分の法の整備も追いつかなくなったことで、事態をさらにややこしくすることにもなった。

 

急激な貨幣改革が起きたことで、それぞれの対立構図も、現金(貨幣)を最もかき集められた者が最も偉いかのような、それが真の勝者であるかのような、戦争にしても証券取引にしても取引網の確立にしても、なんでもかんでも打算換算的、資金戦的な数字に置き換えられるようになると、教義問題に真剣に向き合っているのかも怪しくなってくるようなその派手で荒い経済景気に皆が振り回されるようになっていた。

 

西洋では議会で整備が進んでいくと、西方教会派(カトリック。伝統的な他力信仰派)派か新教派(プロテスタント。自力信仰派。人文派)かで争い始める構図というのもまるで、ややこしい対立が起きてからその構図に後付けのように当てはめようとするような、本来の順番が逆さまになってしまっているような政治利用的な荒れ方も目立った。(他力信仰一辺倒の寡頭主義でキリスト教徒全体を今まで押さえつけてきた、旧約のままの公的教義体質はもう通用しない時代となった = 人文性・自力信仰による多様文化の独立運動的な見直し = その許容を求める等族主義化)

 

西洋の大経済時代の前には信仰問題(聖属教義問題)など、表向きの足並みだけであるかのように見えてしまう所も常に露呈しがちだった(だからエラスムス派とルター派に続くカルヴァン派が台頭した)所に、イエズス会士たちも参っていたのである。


スペイン一強時代になってもそういう所は相変わらずでウンザリしていたイエズス会がいざ来日してみると、織田政権では裁判権(手本家長による等族議会制への届出と公認による、謄本登録的な法的処置)に従うなら、どの宗派(古参)でも、どの外国教義(新参)でも、教義力(等族義務)に応じてそれぞれの待遇を公認保証するという、その政教整備がむしろ西洋よりも進んでいてそこに余裕を少しもてるようになっていた日本では、信仰について真剣に考えようとする者たちが思いのほか多かった。

 

日本人の中には特に、閉鎖有徳(自力信仰一辺倒)と切り離されるようになって、他力信仰のキリスト教に乗り換える者も増えていたからこそ、イエズス会たちとしても日本の事情はどうであれそこにやり甲斐を感じて、文献にあるような姿勢を強調していた。

少し先述したが、いざ来日したイエズス会士たちは、日本人の方が西洋人よりもよほど生真面目で、教理をすぐに理解できる頭脳明晰な者も多く、西洋人よりも日本人の方がよほど品性あるキリスト教徒らしかったと、本音では思っていたのではないかというのが筆者の見方になる。


西洋の近世移行時代(帝国議会時代)は、日本の近世移行時代(織田政権時代)を知る上での「貴重な付録」と位置付け、イエズス会士たちの本音を書き残せる訳がなかった事情についても、順番に説明していきたい。


織田信長がどんな海外対策を予定していたのか、そして方向転換することになった豊臣政権と徳川政権も、変容が著しかった西洋のややこしい事情をある程度把握できていたという前提で見ていけば、自然に見えてくる所になる。

日本ではまずは織田信長が、今後の次世代的な等族議会制(法治国家=国際間の敷居確認もできて当然の議会)の経済社会といえるような法的観念になるように、今までの旧態観念(寡頭主義)大幅に一新(手本牽引的な等族主義化に身分再統制)する形で中央再建(日本再建)に向かわせ、豊臣秀吉、徳川家康がその貴重な流れを壊さないように工夫していった。

その間の西洋は、日本よりひと足早い、少し乱暴で派手な経済社会の大激変を体験し、その隆盛ぶりが凄まじかった分だけ法の整備が追いつかなくなっていく、避けて通れない大変な大崩壊劇も体験することになる。

 

本能寺の変が起きた 1582 年のスペインは、それまでの国威を表向きは維持できていたが、いつその大崩壊(国家破産)が起きてもおかしくない状態で、内々ではそこに常に揺れていたのが実態だった。(後述)

日本では、まずは織田信長による時代刷新(議席改革の等族議会制)の異例(手本前例)が次々と示されながら、今までの教義問題(閉鎖有徳問題=それにいつまでもしがみつき続ける土俗的な半農半士運動に対する身分再統制=等族義務を請け負う公務士分の敷居の仕切り直しの官民分離)が大幅に収拾されるようになり、そのあまりの時代刷新ぶりが日本国内で大いに驚かれた。

西洋でも、今までの王権(世俗議会・等族議会)とその序列(議席)のあり方を仕切り直す(身分再統制する)ために、かつてない強力な王族(代表格)の存在が、上級貴族、高位聖職者の間で求められるようになっていた。

 

その盟主的な一大王族連合としていよいよ台頭することになるハプスブルク家の強力な王権を中心とする帝国議会(キリスト教徒たちの世俗側の全代表格。いつまでも旧約のままでだらしない教皇庁に上級貴族たちも危機感をもつようになり、そうなるように仕向けていった)によって、寡頭主義から等族主義に改められる次世代的な刷新に向かい、こちらもヨーロッパ中で驚かれた。

日本も西洋もまずは、今まであまりにも劣悪過ぎた中世(寡頭主義時代)までの最下層たちの救済と生活保証についてようやく向き合われ、近世化(等族主義の議会制)の刷新によって互いにそこがだいぶ改善されるようになった部分は、共通している。

日本では、劣悪性癖(寡頭主義)でしかなかった名族高官主義(旧三管四職体質と旧聖属議会体質=室町までの旧中央体質。さんかんししき)を、織田信長が徹底否定しながら身分再統制(官民分離)を進めた影響で

 

 「半農半士が全国にすっかり溢れかえっている今の日本人は、誰しもがもう皇室の家来筋の末裔なのであり、あとは地位(議席)の序列を巡る品性規律(国際的な等族義務)だけの問題」

 

の風紀を助長していた。

 

閉鎖有徳社会(旧約体質)のしがらみからとうとう切り離される身分再統制を受けることになった各地の半農半士たちが、日本にとっては新興的だった他力信仰(啓蒙交流的)のキリスト教への帰依者が増加したことは、寡頭主義でしかなかった自力信仰一辺倒(愚民統制でしかなかった交流規制)と決別したがっていた者たちも多かった事情とも、大きく関係している。

 

国内の他力信仰としては浄土宗(源空派)と浄土真宗(親鸞葉)が健在ではあったが、これまで公的教義(延暦寺)から散々格下扱いされ続けてきたしがらみがあった上に、大手であった浄土真宗は武力解体後の方針の整備について時間もかかっていた中、今までの自国の教義問題にしがらみがない新風のキリスト教が支持されることは、自然だったといえる。

今まで聖属議会(朝廷。公的教義。延暦寺・天台宗の総本山)も、室町の世俗議会(三管四職体制)も、延々とごまかし続けながら、ただの寡頭主義(自分たちの愚かさ・だらしなさへの自分たちの対処不足が招いている、自分たちの弊害負担の押し付け合い)でしかない時代遅れの名族高官主義を図々しく維持し続けようとしてきたのを、織田信長による議会改革(等族議会制・旗本吏僚体制・身分再統制)によってその化けの皮がとうとう剥がれる日が来てしまったのである。


そこが結局こじれる形で本能寺の変が起きてしまうが、当時としては少し先進的過ぎた部分も確かにあった。

織田政権時代に大幅な敷居向上の手本前例(等族議会制)が示されたからこそ、徳川政権の時代にはそれを元に今後、どこまで整備していけるのかも懸念されながら、高次元過ぎた先例を下方修正していくことになったというのが正確となる。

豊臣秀吉については少しややこしいため後述するが、これまでの「本能寺の変の陰謀説・黒幕説(仮説)」は、戦国後期から戦国終焉にかけての次世代的な等族議会制(国家構想)の特徴を完全無視しているものが多いことに加え、さらには西洋の事情も完全無視しているため、そこを補強していけばそれら仮説がいかにあてにならない説なのかも、自然と見えてくるようになる。


日本と違い、西洋では陸続きの異人種・異文化間で民族憎悪闘争(ジェノサイド)に発展しがちだった、揉めた後には国際和平的に収拾していかなければならなかった、だからこそ一神教的なキリスト教に頼らざるを得なかった。

 

一方でそこにはそう苦労する必要はなかった日本は、いくら荒れようが日本人同士の問題で済ませられる分だけ、西洋と比べればだがだいぶ妥当で順調な改善が、日本はできた方だったといえる。

それに比べて西洋は、陸続きの異人種・異文化にも常に向き合っていかなければならなかったからこそ、強引な牽引の仕方でどうしても極端になりがちだった所は避けて通れず、崩壊の荒れ様もさらに激しかった所になる。

織田政権時代に積極的に交流していた、イエズス会を中心とする西洋人たちは、当時の西洋の中心的な立場となっていた強国スペインの傘下扱いで日本に来ていた立場だった。

イエズス会の成立経緯とはまず

 

 自分たちでろくに立て直す(自分たちで寡頭主義から等族主義に脱却する)ことができなくなっていた、今の日本の低次元な教育機関と大差ない、あまりにもだらしない枢機卿団(教皇庁)たち

 

には、もはや西方教会(カトリック)の教義回復(等族義務)の命運を任せておけなくなっただらしなく失望させることしか能がなくなっていた当時の教皇庁(ローマ)に何の信用も期待もできなくなっていた、そこに深刻に危機感をもつようになった各地の修道士たちが自発的にそれを肩代わりするべく立ち上がった気鋭の有志集団であったことは、少し先述してきた。

帝国議会の公認の下(もと)、このイエズス会の懸命な働きのおかげで公会議制(公的教義による聖属問題の意見回収・改革委員会)も復活し、ようやく西方教会(カトリック)の教義力回復も見えてきた、つまり非難したい放題の新教派(プロテスタント。旧約のままの公的教義体質への抗議・脱却派)への巻き返しらしい姿が見えるようになった。

新大陸事業を中心に、航路開発でどんどん強化拡大されていったスペイン・ポルトガルの制海権を、公的教義(カトリック・教皇庁)の役目をすっかり肩代わりするようになっていたイエズス会も利用させてもらう形で、アジア方面への布教活動もできていたため、その部分でもイエズス会は、スペイン・ポルトガルに対しては弱い立場だったといえる。

イエズス会の日本での布教活動は、力関係でスペイン・ポルトガルの名義権威を代弁せざるを得ない立場だったことが、その印象ばかりで誤解されがちな所になる。

 

イエズス会はそもそも、国土回復運動(レコンキスタ)の西方教会(カトリック)再認識主義の権威、つまりイベリア方面(カスティリャとアラゴン=スペイン)の教義権威主導から構成されたという訳でも、なんでもない。

ローマの公的教義(教皇庁・カトリック)体制の改善委員会であることと、その肩代わりの布教運動(勢いをつけ続けるプロテスタントたちへの巻き返し運動=西方教会の教義力回復)がイエズス会の主目的なのであり、スペイン・ポルトガルの国威を支えるための集団であるかのように見える表向きの立場が、イエズス会の本意などではない。

つまりイエズス会の当時の、スペイン・ポルトガルに宛てた書簡(文献)はほぼ「ごますり」で、教皇庁向けに宛てたものも、西方教会(カトリック)を何ら支えきれていない今の日本の低次元な教育機関と大差ないだらしない公的教義(キリスト教の公的聖属議会。今の日本の低次元な教育機関と大差ない口ほどにもない教皇庁=枢機卿団ども)に、さも教義権威があるかのような内容にせざるを得なかった体裁ばかりで、そこからイエズス会たちの本音などが窺える訳がないのである。

スペイン・ポルトガルの名義権威を肩代わりする形で、その外交大使役として来日していたイエズス会士たちは、織田政権の「仏教・神道だろうがキリスト教だろうが」の議会的な事態収容を始めた現場に実際に居合わせ、一方で何事も派手で荒いやり方をせざるを得なかった西洋とのその極端な違いを見て、考えさせられる所がかなり多かったことは間違いない。

人間というのはどんな人種だろうが基本的に、今の日本の低次元な知覚障害者の集まりの教育機関のように、低次元同士の低次元なうちのめし合いと従わせしかできていないことも疑い見抜けなくなっている内は、

 自分たちの方が優れていて正しいことにしておく曲解(頭が良いなどという思考停止的偽善の中の善意)と、相手の方が劣っていて悪いことにしておく曲解(頭が悪いなどという思考停止的偽善の中の悪意)を、無神経・無関心・無計画に押しつけ合うのみに終始(指標乞食主義通りに劣情統制)することしか能がない

 その自分たちの愚かさ・だらしなさを、自分たちの議決性(等族義務)によって認識・改善(自己等族統制・情報統制)できなくなっている自分たちの課題(弊害負担)を、延々と押し付け合い続けるのみ

 

の、そこに自分たちで何ら対処できたこともないまま衰退・自滅していくものなのである。

 

しかしその寡頭主義(全て外圧任せ=指標乞食主義=ただの劣情統制)と決別するための、高次元な見習い合いの等族主義を強調していく基本的な関係性(上としての等族義務=手本牽引)に立ち返って上(自分たち)から順番に矯正していけば、逆に

 相手の優れた部分を賞賛するようになる、すなわちそれができていない自分たちの悪い部分に「向こうはできている(育成理念の品性規律といえる議決性・組織構想が確立できている)のに我々はできていないぞ!(我々もできないはずはない!)」と憤り始める

健全な解釈(見習い合い)に自然と向かい始めるようになるのはいつの時代も、国家間・組織間・個人間でもそこは同じである。


当時の日本人と西洋人の関係は、まさにその後者の国際的な敷居確認の関係(等族主義的な関係)だった、そしてそういう形にできたのもまずは織田信長のおかげだったといえる。

カール5世が引退して、スペイン一強時代が強まる(事情を後述)と、ローマ(教皇庁)の改善委員会であったイエズス会も共に、スペインにその首根っこをイタリア政治(ローマの肩代わりのフィレンツェ共和国=メディチ教皇の時代に顕著=レオ10世とクレメンス7世の時代)と一緒に掴まれるような力関係になっていった、それほどイエズス会の立場も実際は弱かった。

 

イエズス会士たちの、当時のスペイン王室へのただのごますり資料に過ぎない文献や、だらしない教皇庁(枢機卿団たち)の教義失墜の回復のための「我々はこれだけ努力しているんだから、あなた方(枢機卿団)も少しは教義回復の努力をしたらどうですか!」と遠回しにその尻を叩いているような公文書などからでは、彼らの本音は到底窺い知ることなどできない。

西洋では、帝国議会による時代刷新からスペイン一強の猛威の時代に移行するが、しかしそれも長続きせずに崩れ始める予兆も既に、イエズス会士たちも見えていた。
 

今回はまずその概要を中心とし、この次に「なぜそうだといえるのか」の様子を順番に説明していきたい。


日本はまだ西洋の規模ほどの経済・技術大国にはなっていなかったものの、織田氏が日本国内をまとめ始めたために、これからそれに向かっていく流れも見え始めていた。(豊臣秀吉もそう意識していた)

 

西洋は、王族間のこともあるが何よりも文化圏ごとの他人種間も常に考えなければならなかった、そのためにも少し強引に牽引せざるを得なかったのとの比べ、日本にもそうした強引さはあった一方で、工夫次第では西洋よりはなんとかできた。


日本ではまずは日本人の中で他宗(古参)も異教(新参)もこれからは認め合い(中央政権への意見提出と公認も無しの勝手な格式争いの禁止=地方裁判権止まりの閉鎖有徳闘争は禁止し)、まず日本人の間でそれ(議席の譲り合い)ができてから他人種の異教ともこれから向き合っていくというという基本的な順番を、実際に織田政権がしていた所は、イエズス会にとっては羨ましい所になる。(西洋でもその問題に、公的教義が弊害だととうとう見なされ始めたから、プロテスタント運動すなわち自力信仰的な人文主義が強まった)

 

中央の特に聖属議会(朝廷)は、国内の自力信仰(人間性・人文性の敷居確認)と他力信仰(社会性・啓蒙性の敷居向上)の見直しのための議席の仕切り直し(人事改革・等族社会化)をいい加減にしなければならない時期になってきた中で、公的教義(延暦寺)がそれが全くできなくなっていた(廷臣たちが等族指導できなくなっていた=教義力・議決力など皆無になっていた)から、とうとう織田氏に上から順番にそこを恫喝されるようになってしまったのである。

 

織田氏が、旧約のままの公的教義体質を何ら等族指導できていなかった廷臣たちを保護観察するようになった構図は、スペインが公的教義(ローマ)の首根っこをつかむようになった世俗と聖属の構図は、日本と西洋で全く類似している所になる。

 

旧約のままの聖属教義(ただの寡頭主義=ただの外圧任せの指標乞食主義=ただの劣情統制)で、これからも人(世俗)を押さえつけ続けようとする時代はとうとう終焉した近世化の構図は、当時の等族議会制的(国際社会化的)な共通点なのである。

 

一方で、少し先述したこととして日本の公的教義(閉鎖有徳的な支配による押さえつけ)の影響など実質及んでいなかった対馬(つしま)は、その支配者の宗氏(そう)の認可の下(もと)で取引をしながら経済活動(生活権維持)をしていた日本人・朝鮮人・明人(みん。中国人)・琉球人(沖縄方面)らは、閉鎖的ではあったがそれぞれの海域ごとの神道的な掟と、宗氏の便宜によってその治安維持は保たれていた。

 

対馬交易の制海権を巡って、たびたび明政府(中国大陸側)や李氏政府(朝鮮半島側)から横槍を受けるものの、その海域のこの混成人種たちがそれぞれの海域権(生活権)を守るために、その妨害に動く形でこの対馬の宗氏を支持したため、どうにも宗氏を屈服させることはできなかった。

 

全盛期時代のスペインよりも強国だった、軍事力もその倍はあった明でも、対馬交易に打撃を与えることはできても支配権を抑えることはどうにもできなかったのに、遠方のスペインが仮に海軍力任せにこれをまず抑えられるのかどうかが怪しい所になる。

 

キリスト教を多様的に受け入れることまでは対馬交易はしても、例えば琉球方面の島々や福江島あたりをスペインが占拠したとして、そこに修道会領体制(司教座・聖堂参事会体制)を敷いて、教会税や十字軍税を払えだの、トルデシリャス条約(アジア貿易の航路通行権)や賦役に従えだのと、海域ごとの掟(政治)と何の関係もない、明政府や李氏政府と何も変わらないやり方がいきなり始まったら、対馬交易の事情に詳しい宗氏の下に結集してそれに反抗するに決まっているのである。

 

西洋人(ポルトガル船)がアジア貿易の航路開発で盛んにインドネシア方面まで往来するようになると、台湾方面まで交流網があったと思われる琉球人たちと西洋人との交流も始まり、西洋人たちはこの対馬交易の水先案内を得て、まだ見ぬ極東の日本列島への交流もついに始まる。

 

フランシスコ・ザビエルの一向が公式的に 1548 年頃についに日本(九州)に初上陸するが、その前から対馬交易と連携していた堺衆たちは早い段階で、その動きを把握していたと見てよい。

 

当時の対馬交易は巨大市場といえるものではなかったものの、前々から堺衆も関与していて、明や李氏王朝がたびたび抑え込もうと動いたことからも、あなどれない規模のものだったと見てよい。

 

それぞれの海域の掟さえ守られれば、相手がアジア圏外のキリスト教徒だろうが交流することに大した壁などはなかった対馬交易の感覚は、先駆けでキリスト教に改宗していた者もさっそくいた堺衆たちの様子からも窺える。

 

ポルトガル船でやってきた西洋人たちも、この良い意味で国家間の政治的な都合とは分離していたような、少し特殊だった対馬交易の関係者(その海域の日本人・琉球人・中国人・朝鮮人)たちと接触するようになった時に、新鮮さを感じていたかも知れない。

 

織田信長は、対馬交易とも前々から連携していた堺衆のそういう国際交流的な所に関心を示していて、中央再建にも協力的だった堺衆たちとは良好な関係だったといって良かった。

 

それもあって、織田政権におけるキリスト教徒の寛大な受け入れも関係していた部分が、これまで注視されてこなかった所になる。

 

西洋の、特に

 

 特に新大陸(アメリカ大陸)への支配進出で目立った、コンキスタドール(征服的探検者)たちの印象

 

と、モルッカ貿易(インドネシア方面)の

 

 スペイン・ポルトガル(カトリック派)からイギリス・オランダ(プロテスタント派)主導となった以後での、インドネシア方面での圧政の印象

 

に加えて、

 

 イエズス会士たちのスペイン王室へのゴマスリ報告や教皇庁の公文書で、さも西洋はアジア全土を支配できるだけの力(教義力・裁判力・議会力)があったかのような記述による印象

 

で、まるで日本は簡単にキリスト教社会の支配下に置くことができるかのような印象ばかり助長されがちだが、それら実態を歴史経緯(社会心理)的に整理していけば、日本支配など口ほどにもないまやかしでしかないことを、説明していきたい。

 

日本が戦国終焉に向かい始めていた織田政権時代は、西洋では、プロテスタント国家やプロテスタント都市に鞍替え(旧約のままのカトリックの公的教義体質と決別)する所も顕著になって、カトリックが主導なのかプロテスタントが主導なのかもはっきりしなくなっていた。

 

キリスト教徒全体としては、これからカトリック派とプロテスタント派との折り合いを調整しながら和解していかなければならなかったのが実態だった西洋が、国内の教義問題を議会的に収拾し始めていた日本を、そう簡単に支配できる訳がない所になる。

 

カール5世の引退を機に、帝国議会の時代からスペイン一強主義の時代に移行(その事情を後述)していった時に、カトリック主義側(古参側)が格上で、プロテスタント主義側(新参側)を格下だと押さえつけようとして結局果たせずに、時間切れが来たかのようにその「沈まぬ太陽スペイン」は国家破産とともに撃沈してしまった。

 

カトリック派の一強主義(スペイン)の、当時の身分制議会的(絶対王政的)な威力によって、プロテスタント派を格下扱いに従わせようとしても、結局それを実現できなかったことがスペインの衰退を以(も)ってはっきりしてしまった。

 

すなわちカトリック派はプロテスタント派と同格であることを遠回しにでも認めながら、和解していくしかないこともはっきりしてしまったのが、西洋の一強主義的な代表格としての力を失っていったスペインの姿が、それを象徴していたといえる。

 

本能寺の変が起きた 1582 年の時点ではまだスペインの一強主義は健在ではあったが、内部的には崩壊が既に見え始めていたからこそ、文献上ではただ強がっているだけに過ぎない。

 

それももう時間の問題だった事情(後述)をイエズス会は公表する訳がないが、織田信長もその事情は内々で把握していたと筆者は見ている。(後述)

 

織田信長は、内々にそういう所も全て正直に話すのなら、特に新参なら足元を見る所か、とにかく日本では品性規律的に国際交流ができている所を評価して、ますます寛大な処置を考えてくれる性分だった。

 

イエズス会が日本との関係にこだわっていたのは、織田信長が日本にとっては新参の異教に寛大だったことがまずは大きいが、この少し特殊な国柄だった日本にカトリック派が先行して良好な国際関係を築いてきたという既成事実が、プロテスタント派の時代刷新の言い分の勢いに押されっぱなしだった対抗題材としても、非常に重要だったのである。

 

その頃の西洋では、それぞれ国内や地域内で分派(カトリック派主導かプロテスタント派主導か)が顕著になっても、荒れながらでも議会的なまとまりも見せるようにはなったものの、ヨーロッパ全体(等族諸侯間・国家間)ではそこにまとまりがあったとはいえなかった実態に、イエズス会としても内心は参っていたと見てよい。


ギリシャ正教圏(東方教会)まで支配下に置いていて先に再整備(身分再統制)し始めた、イスラム教の優れたスルタン(近世では、世俗・聖属共に国際的な保護保証を請け負う、全イスラム教徒の最高指導責任者という意味になる)として続いた、セリム1世からスレイマン1世時代にかけての躍動の時代に、キリスト教徒たちは散々の脅威を受けて危機感を強めていた。

レコンキスタ(カスティリャ王国とアラゴン王国の和解・統合による、イベリア全土のカトリック主義再興運動=イベリア南部のグラナダを占拠し続けていたイスラム教徒たちの追い出し運動)によって、統合議会国家として強国化を実現したスペインの西方教会再確認主義とは、キリスト教徒全体のための国際裁判権としての機能などもはや成していなかった何のあてにもならないだらしないローマ(教皇庁)の旧態権威(旧約のままの寡頭主義)を逆に従わせる議会制の整備まで進めるという、そこに危機感を強めた自立運動でもあったといえる。

遠回しだが

 「スペイン(アラゴン・カスティリャ連合)こそが、西方教会(カトリック)社会の教義の中心地であり、その大幅な議会制の整備ができているスペイン王室(アラゴン、カスティリャ、オーストリア、ブルゴーニュの上級貴族連合)に、何の手本にもなっていないイタリア貴族たち(それ繋がりの枢機卿団ども=ローマ教皇庁)は従って当然」

という力関係が、まずカール5世(国籍的にはカスティリャ王を本貫とする皇帝)の時代になると、帝国議会(ドイツ皇帝権威=世俗側の王族の代表格)とイタリア(かつてのキリスト教文明の中心=西方教会・公的教義・教皇庁)の、世俗議会と聖属議会の力関係の逆転が、まずははっきりしていった。

かつてのイタリア(ローマの教皇庁=中央聖属議会を中心としてきたキリスト教社会)とイベリア半島側(地方議会)との力関係は、中世(寡頭主義時代)から近世(等族主義時代)にかけて、国力面、教義面ともにすっかり逆転してしまった、それがはっきりしてしまった象徴になる。(その先駆けだったフランスも顕著)

人文主義(他力信仰一辺倒への抗議=多様尊重の否定一辺倒への抗議)の台頭以降、エラスムスとルターの影響のプロテスタント(旧約のままの公的教義体質の司教権威・教会財産問題に対する抗議派)たちの蔓延に、西方教会(カトリック)主義で巻き返そうとしていた利害では、スペイン(の上級貴族たちと高位聖職者たち)とイエズス会は一致していたといえる。

カール5世が引退して以降に、帝国議会の時代からスペイン一強時代がいよいよ強まる(事情は後述)と、イエズス会もこれまでは協力関係だったといえた帝国議会との関係から、いいなりにならざるを得ないスペインとの力関係が強まり、イエズス会としてもここは複雑な心境だったといえる。

旧約(時代遅れの寡頭主義)通りでなければ劣情で気絶・錯乱・思考停止することしか能がない、今の日本の低次元な教育機関と大差ないただ下品で汚らしいだけの教皇庁が二度と暴走しないよう、とうとうスペインがその首根っこを掴むようになった、それができるだけの議会(スペイン、または帝国議会)に手伝ってもらわければ、イエズス会だけで公会議制(公的教義による公式な改革議会)を復活させることは難しかった、だからイエズス会士たちは仕方なくスペイン王室のいいなりにならざるを得なかったのが、実際の所になる。

オスマン帝国(イスラム教国家)がキリスト教徒たちよりも先に、条件付きではあるが圏内の東方教会(ギリシャ正教のキリスト教)を、身分再統制的(議会的)に正式に公認し始めた、すなわちイスラム教社会では異教との見直しの交流政策を進め始めていた。

 

対して、その西隣のカトリック(西方教会圏)のキリスト教徒たちは、カトリック派とプロテスタント派とで二分し始めて、まずそれを収拾するのに手を焼いていたのである。

 

カトリックが主導なのか、プロテスタントが主導なのかもはっきりしなくなっていた、それではまずいからスペインが格上の古参のカトリック派が、新参の格下のプロテスタント派を従わせている」かのように、そこを文献で強調的に振舞っているだけで、結局その構図の狙い通りに収拾できないままスペインは失墜に向かったのである。

 

スペインの一強時代でも、長らく神聖ローマ帝国圏(ハプスブルク家を中心とする帝国議会・西方教会圏)の中で過ごしてきたユダヤ人たちへの寛容政策などできておらず、ユダヤ教からキリスト教にいつまでも改宗しようとしないユダヤ人狩りばかりして、国内の異教徒をいつまでも不寛容的(威力的)に差別していた有様だったのである。

 

それと比べてオスマン帝国(イスラム教国家)では、その傘下に置かれて以降、長らく押さえつけ続けられてきたギリシャ正教(クロアチア・セルビア・マケドニア・ルーマニア等)の扱いも、身分再統制的(議会改革的・法的)に寛容政策に動き始めたことは、神聖ローマ帝国側(西方教会側)よりも国際文化交流(異教異文化交流)が進んでいることを見せ付けられてしまっていたのである。

 

カトリック派は、よその国へ出かけておいて、キリスト教でない異教徒が悪魔崇拝者だから交流などしてはならないとなどという、いい加減に時代遅れもいい所だったその劣悪体裁を仕方なく続けなければならなかったこと自体が、そもそも国際交流面で気まずい所だったのである。

 

そういう所を「あくまで表向きだけなら」と織田信長に理解してもらい、そこを寛大に許容してもらっていたのが実態なのである。

 

法華宗を檀那寺(だんなでら)とする織田家と実際に交流しているイエズス会士(カトリック)たちも、そこを気まずそうにごまかしながら、スペインや教皇庁に当てた公文書につじつま合わせのいい訳を情けなく繰り返しながら、日本と交流していたのである。

 

いってれば、自分たちよりも格下だと見なした相手には強気に押さえつけ、同格や格上と交流しなければならなくなればその事情を相手に許容してもらいながら、公文書上は自教(キリスト教というよりもカトリック主義)を押し付けがましい内容にせざるを得なかった、そういう国際交流にせざるを得なかった、そのだらしない旧態体質をイエズス会も内心では問題視できていたのである。

 

ここはオスマン帝国でも、国教として表向きの体裁上ではイスラム教が頂点だと強調はしていたものの、国際交流のあり方の実際はそればかりではなかったことは、神聖ローマ帝国圏とアフリカ北部の主導権を巡って地中海の制海権を争った様子からでも、十分に窺える所になる。

 

世界的な文化交流(敷居確認)が意識されるようになった16世紀は、中世(寡頭主義)のままの時代遅れの富国強兵体質のまま、ただ自国主義を力任せに相手に押し付け、ただ力関係でねじ伏せ合えば良いというものではない、それで文化交流(敷居確認・互いに良い所を導入し合う尊重のし合い・見習い合い)などできる訳がないという等族主義的(国際文化技術交流国家的=議会制的)な発想が、とうとう見直され始めるようになった画期的な時代だったのである。

 

16世紀には、教義圏の枠を超えた世界線の敷居確認(等族義務)がとうとう意識されるようになったからこそ、それがきっかけとなって17世紀以降には、外に対してよりも内部整理に優先的に向き合われるようになり、それができているかどうかが国際間の力量差が出るようになった、そのきっかけが16世紀だったことが、見落とされがちになる。

 

キリスト教側の文献は、日本人のことを悪くいっていない部分や良くいっている部分については全て信用して良いが、日本人のことを悪くいっている部分については全て向こうの閉鎖的なだらしない事情でしかないこと(よその国の事情の、まさにどうでもいい部分のこと)を歴史経緯(社会心理)として見なければ、何も見えてこない所になる。


いったん強大な国威を身に付けてしまったスペイン主導のカトリック派のやっていることが段々と、家長(王族の代表)らしい等族義務(和解・敷居確認)といえないような、時代逆行の力任せのプロテスタント弾圧しかできなくなっていった、だから独立戦争的にプロテスタント側(反カトリック)に巻き返される形で、国際的な力関係の逆転を許してしまった所になる。

 

日本は、元々の神道に、事情はどうであれ仏教も受け入れる合祀ができた歴史は、外国でも多少はそういう所もあるが、その面で日本は少し特殊だったといえる。

 

織田信長のやろうとしていたことは、神道と仏教の合祀の続きとして、キリスト教まで合祀すればいいかのように、それどころか

 

 「日本では、神道と仏教を合祀できた歴史があるのだから、イスラム教でもロシア正教でもギリシャ正教でもヒンドゥー教でもなんでも合祀すれば(受け皿の体制を作れば)いいだけのことではないか」

 

 「それが陛下のため、ひいては日本のため、いずれは世界のため(どうせいつかはそういう時代になる)だというのに、それが上の等族義務(国際的指導責任の手本の示し合い)として当然(世俗側のこちらはそこまで対応できる等族議会制を前提)だというのに、聖属議会(朝廷)側のあいつら(廷臣たち)は何をモタモタとやっておるのだ」

 

という態度に、当時は皆がそれについていけずに青ざめていたというのが実態だったと見てよい。

 

来日していた西洋人たちも、それが当然であるかのような織田信長のそういう所に「我らの難敵だった、散々苦戦させられたあのスレイマン1世よりも格上ではないか」と内心は驚愕していたのではないかと、筆者は見ている。

 

今後どうしたいのか、正直に実態を話しながら相談を受け付けることができていた、姿勢さえ良ければ新参には足元を見る所か手助けを惜しまなかった性分の織田信長のことを、正直に実態を話し合うことなどできない気まずい側が、公文書に正直に実態を書こうとする訳がないのである。

 

織田信長は西洋の事情の大方を把握できていた、そしてその国家構想を把握していた賢臣の明智光秀と羽柴秀吉の2人も、向こうの事情を大方把握できていた、と見た方がむしろ自然に見えてくるというのが、筆者の意見になる。

 

次は、織田信長が大方把握していたと思われる西洋の事情についてまとめていきたい。