近世日本の身分制社会(103/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか31/?? 2022/07/29

 

今回も、本能寺の変における明智光秀についてまとめていきたい。

天下静謐(国内和平)の議会の総代(議長)に明智光秀を据えた、織田信長のあてつけ人事の本能寺の変の直前までの明智光秀の立場というのは

 1.公的教義(比叡山)の寺社特権の預かり人(等族義務の再指導のための保護監察とその配分役)となっていた

 2.重臣筆頭であった佐久間信盛の失脚後に、その役目(特権の管理)の多くを引き継ぐことになり、大勢の有力寄騎を指揮していた柴田勝家(とそれまでの佐久間信盛)と同格の、家中1位2位の立場となっていた


その大身の立場から

 3.既に監視下に置かれていた聖属議会(朝廷)と、織田氏の仕置き(裁判権改め)がまだ及んでいなかった有力諸氏(地方の代表格)たちとの、新政権(織田氏)との、改めての天下静謐(国内和平)の議会を取り仕切る総代(議長)を肩代わり(本来は廷臣たちの務めだった)していた

という構図になっている時点で、聖属議(朝廷)側の廷臣たちも、地方の上層たちも、等族諸侯扱い(織田氏の重臣扱い)以前に、明智光秀の家臣扱い(織田氏の陪臣扱い)を迫られても耐えられるのか、そしていつでも織田氏の武家屋敷に強制収容(等族義務=公務公共の士分待遇の再指導)される新社会秩序を迫られることになったといってよい。

 

先に織田氏の敷居改め(身分再統制・前期型兵農分離)の影響力を受けていた摂津衆(高山重友、中川清秀ら)大和衆(筒井順慶)は、その意味(織田信長の意図)はよく解ったいた、だから明智光秀の寄騎扱いにされたという所には、あえて不満は出さなかった。

 

つまり織田信長に対してそうした議席の譲り合いの姿勢をいったん見せておいた方が、そちらの方がむしろ評価されて等族諸侯扱い(近世大名扱い。上院議員の議席扱い。管区長扱い)してもらえる心証となることを、心得ていた。

 

織田信長は総仕上げとして天下静謐(国内和平)における人事総長(管区総長代理)は明智光秀だから、皆がいったんその指揮下に入って等族指導を仰がなければ反逆(等族義務違反=偽善)と見なして踏み潰すぞ!」と、あてつけに試すように迫ったのである。

 

しかし地方でそれぞれ富国強兵の独立性を強めすぎていた、織田氏の敷居に追いついていなかった有力諸氏(まずは上杉氏、毛利氏、長宗我部氏ら)たちが、急に他家の陪臣扱いとされることに、表向きの形だけだったとしてもそれを受け入れる準備(その議席の譲り合いの意味の、部下たちへの等族指導=身分再統制)などできていなかった。

 

既に中央でも聖属議会改め(朝廷改め)を肩代わりしていた明智光秀のその構図こそが

 

 「それができるだけの国家構想(等族義務)に及んでいない地方が、それが実際にできている織田氏(明智光秀)になぜ従わない!」

 

 「残りの地方は、明智光秀の寄騎扱い(織田氏の陪臣扱い)として等族指導を受けるのが本来であり、優遇されたければその天下静謐の議会に対して(明智光秀に対して)良い所を見せてみよ!」


とあてつけに地方は、天下(日本全体)の人事権(家長指名権・議席権)はもはや織田信長が握っていること、そしてそれを肩代わりできる優れた家臣(明智光秀)も織田政権には顕在であることを、恫喝される日が来てしまった。

ついこないだまで士分待遇も曖昧な格下の下っ端扱いだった新参の明智光秀が、近江西部の重要商業地の大津(坂本城)を任され、聖属議会改め(朝廷改め)に参与し、丹波攻略を任され、摂津仕置き大和仕置きも任されて、多くの寄騎を従えるようになっていたその異例な姿自体が、まさに人事改革による議席の譲り合いができている高次元側が、それができていない時代遅れの低次元側に対し、あてつけにその力量差を思い知らせる象徴だったといえる。

 

その天下静謐(国内和平)の議会への参加を迫られることに地方が否定的ということは、その総代(議長)が明智光秀であることを否定するのと同じ、すなわち地方の代表格たちの方が明智光秀よりも格上だから従えないといっているのと同じになる。

 

すると、それならなぜ明智光秀よりも高次元(格上)な等族義務を果たせられるはずの地方の代表格たちは、

 

 だったらお前たちに聖属議会(朝廷と公的教義)を改めさせる(時代に合った議決権・議席の仕切り直しの提出を求める)だけの等族議会制を敷くことができるのか


という、そのためにも

 

 日本の自力教義の実質の主導権を握り続け、聖属裁判権の再興運動を続けていた本願寺(浄土真宗)を世俗裁判権に降す

 

こともできなければならず、しかしそれも実質は織田氏にしかできなかったのも明らかだったことも、大きく矛盾する話になる。

 

だからこそ「お前たちにその国事(国家構想の育成理念=等族議会制)を果たせないから、だからそれを明智光秀(織田氏)が肩代わりするんだろう!」と、廷臣たちも有力諸氏たちも迫られてしまった訳である。

上同士で何が起きていたのか、地位が低い大勢の下々はその意味がすぐには理解できなくても、戦国後期には地方議会の仕切り直しを争点に、上(当主や重臣たち)の等族義務(敷居確認の品性規律の手本姿勢)のあり方が問われるようになっていた地方の上層たちは、気まずいからとぼけていただけでそこは認識できていたのである。

 

そしてそれが迫られる日(浄土真宗が織田氏に降参・和解に動く日)が来てしまった 1580 年までに、その天下静謐(国内和平)の議会に参与する準備(等族指導)など、地方は結局できていなかった。

 

それができていなかったから、手本家長(織田氏)の敷居による身分再統制をこれから受け、上から順番に等族義務に見合わない者たちから大幅に格下げされてしまうことも目に見えていた、だから地方裁判権止まりの地方の上層たちはその進退をはっきりさせられずに動揺するようになっていた。

政務吏僚側の筆頭であった林秀貞の退任劇や、重臣筆頭の佐久間信盛の大失脚劇の他、大きめの領地特権をそれまで仮公認されていた安藤守就(もりなり。美濃衆のひとつ)、松永久秀(大和の支配代理)、荒木村重(摂津の支配代理)、水野信元(尾張衆のひとつ)らの失脚劇を見せられてしまっていた。

 

それらは地方の上層たちよりも格上の執政権や軍役を担っていた者たちばかりで、それら地位(議席)を退任させたり巻き上げたりしても組織全体は全く揺るがなかった織田氏との敷居差まで、見せつけられてしまっていた。

 

地方がもし、上層たちに対してこのような織田氏と同規模の家格裁定(家長指名権)に踏み切ろうものなら、簡単に総崩れを起こすのも目に見えていたのを、織田氏にはそれができるだけの上から順番の敷居確認(議席の譲り合い)の議会制ができている手本前例を、平然と見せつけられてしまっていたのである。

明智光秀が天下静謐の議会の総代(議長)を務めたというこの経緯作り(典礼)は、今後の中央政権における、外相側の人事総長を司る上位の等族諸侯の家柄がこの明智家だということにしておくための、織田政権体制の合議制の確定作業の布石だったと見てよい。

これはもはや、明智光秀自身がそういう立場を望んでいたうんぬんの話ではない、その立場で威張りらすことなど明智光秀本人も全くしていなかった、だからこそ明智光秀の心境もむしろ複雑だったといえる。

天下静謐(日本再統一のための国内和平)の議会という形を以って、まだ織田氏の仕置き(裁判権改め)を受けていない地方が、その敷居に見合っただけの議決性(等族義務の品性規律)を上から順番に厳しく迫ることで、それぞれがその議会に対してどんな姿勢に出てくるのか、まずはそこを試そうとした意図が重要になる。

寡頭主義が抜け切れていない、織田氏の中央改めの敷居に追いついていない地方裁判権止まり(時代に合った等族義務の議会的な品性規律になっていない閉鎖的な上下統制=閉鎖有徳扱い)の敷居など一切認めない(格下げされて当然)という、

 

 地方議会の再統一(人文性=多様分類化 と 啓蒙性=等族義務の敷居向上)の整備(見習い合い=議決権の制定)

 

を、

 

 自分たちでできていないにも拘わらず、調子に乗りながらケンカ腰にねじ伏せ合う(身の程知らずにも格上を気取ろうとする=国際文化技術交流といえるような議決性などない、地方裁判権止まりのだらしない正しさを押し付け合う)ことしか能がない

 

ような、制裁(格下げ)されて当然の、今の日本の身の程知らずの低次元な教育機関どもと大差ないような

 

 寡頭主義(できもしない性善説=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)を押し付け合うことしか能がない、議決性(人の上に立つ等族義務の手本など皆無な自分たちのその愚かさ・だらしなさを自分たちで自制(自己等族統制・情報統制)できたこともない、人の上に立つ(公務公共を語る)資格などない法賊(偽善者)が権力を握り続けようとする(議席に居座り続けようとする)

 

こと自体が、

 

 閉鎖有徳扱い(反等族主義行為=法賊行為=偽善)として許されない等族主義の時代

 

になったことを、地方の上層らに中央とのその関係(有志を立て合って議席の譲り合いをしていける同士か)をはっきりさせておくために試そうとした、あてつけの恫喝である。

中央の廷臣たちを保護監察していた織田信長の旗本吏僚たちを、目付け役(監査官)の調査団として順番に有力諸氏の所に送り込んで、半農半士体質と大差ない地域ごとの武士団は解体させながら、見込みのある者たちを中央の武家屋敷にまとめてぶちこむ(強制家臣化=等族義務の再指導=公務士分の仕切り直しの身分再統制)ことも可能だった。(その前提でいた)

 

それが前提の中央改めも地方改めもできない(そこまでの国家構想の育成理念などない=地方裁判権止まりの)格下の低次元側は、これができる(等族議会制を制定できる)格上の高次元側に臣従を迫られるのは当然なのである。

日本再統一の総仕上げとして、上から順番に手厳しいこの恫喝を先にしておいてくれた、その逆恨みを先に織田信長が受けておいてくれたからこそ、これがのち徳川政権の、諸大名同士の騒乱や内乱を未然に防いでいく監視体制の、目付制度、国替え制度、参勤交代制度の手本前例として活用されたのである。

誰もできなかった、聖属側の最大手であった本願寺(浄土真宗)をとうとう武力解体(聖属一揆の特権を解体)させ、和平交渉の形にもっていくことまで織田氏はできてしまった、すなわち聖属側に対する今後の保護保証や教義崩壊の監視は、これからは世俗議会側が主導的に法的管理していく時代となったことを、織田氏が示してしまった。(西洋の帝国議会でもその流れは同じ)

 

もうそうしなければならなくなってきていた、誰かがやらなければならなかったその近代化(中世・寡頭主義から近世化・等族主義化への切り替え)を今まで誰もできなかった、それ自体がもはや織田家しかできなかったこともはっきりしていた。

 

有力諸氏(地方の代表格たち)の上層らとしても、本当の意味で日本の今後を憂慮(=その等族義務を重視)しているというのであれば、それが実際にできる手本家長こそが、新たな武家の棟梁(世俗側の日本全体の代表家長・総裁)だと認めなければならない段階になっていた、その認識自体は上同士ではできていた。

だからこそ、まだ織田氏による仕置き(裁判権改め=敷居の仕切り直し議席の改革=身分再統制)が及んでいなかった地方は、本来はその敷居に地方が進んで等族指導し、天下静謐の議会参加に備えておかなければならなかった、しかしそこにだいぶ開きがあったからこそ、それができていない分だけの化けの皮が剥がされる日を迎えてしまう窮地に陥ったのである。

戦国終焉(等族議会制に向けての合議制の確定作業)に備えるための、和解(敷居の格式確認)を前提とする領域戦(富国強兵戦)になっていないと織田氏から見なされる日(ただ相手を踏み台にし合う格上げ運動でしかない、時代遅れの富国強兵をやめさせられる日)が 1580 年に来てしまった。

 

中央の大局(議会制の敷居)はもはや決してしまった今頃になって、その背中を慌てて追いかけて戦国後期(総力戦時代)を継続しようとしているだけのていたらくは、もはや認められない時間切れの時が来てしまった。

現代風にいえば、織田氏(中央)の公務士分の評価基準は、政務吏僚としての多くの等族義務(下々への多大な手本)を請け負ってそれで年俸400万や600万円の待遇に見直された中、その敷居改めがまだ及んでいない地方の公務士分は、その半分の等族義務も果たせていないにも拘わらず800万だの1200万だのと過分もいい所の評価基準を受けていた。

だから800万だの1200万だののその身の程知らずの過分(寡頭主義的)な評価基準は上から順番に200万や400万の待遇に改められる(格下げされる=人事改革の等族指導を受ける)のは当然で、今まで十分な等族指導など受けられないままそれらに付随していた半農半士体質のままの家臣の多くも、軍縮的に庶民扱いに仕切り直される運命だったのである。

織田氏から天下静謐の議会の参与を迫られたなら、まずは時代遅れの富国強兵(ただの格上げ運動=ただの閉鎖有徳運動)を停戦し合いながら、今からでも織田氏の敷居に合わせて身分再統制に着手するというのなら、多少の猶予も与えるとした。( 1580 年から 1582 年の間)

戦国後期まで、つまり惣国一揆時代から地方再統一時代(地方議会の議席の仕切り直し)への切り替えの中で、地方では依然として立場が曖昧なままだった半農半士たちが多かった中、織田氏の領内では既に公務士分の常備雇用側と、大勢が必要な時だけ労役(軍役)に参加する賦役人員と、もうそれに振り回される必要もなく謄本登録的に農・工・商の保証がされるようになった労働従事者という、品性規律的(国際社会的)な身分再統制(前期型兵農分離)が進んでいた。

しかし地方はそこまで進んでいなかった、半農半士時代のままの家格基準が抜け切れていない地域ごとの家長気取りたちがいつまでも小武士団長のまま、ようやく自分たちの地方の代表格の選出して支え合う段階で、精一杯だった。

 

地方裁判権止まりのだらしない利害で足並みを揃えることで精一杯の寄せ集めに過ぎない、国家構想(等族議会制といえる議決性の敷居確認)に至っている訳がないと、織田氏からは当然見なされていた。

地方を挙げて自分たちの主君(代表格)を支えるようになったのは良いものの「何でもみんなで一丸になってそれに向かえばよい」かのような閉鎖的な運命共同体(家父長的寡頭主義)の足並みの揃え方ばかりで、技術文明社会化(等族社会化)といえる兵農分離(多様社会化と合理社会化=人文性と啓蒙性の仕切り直しの等族指導ができるようになる公務士分改め)がどこも中途半端にしか進んでいなかったのである。

織田信長は尾張再統一の時点でこの「今まで議決性(上としての等族義務)を曖昧にし合いながら、各地域の有徳の旧態慣習(旧態地縁特権)にいつまでもしがみ続けてきた小武士団たち」をなんとかしなければ、いつまでも地方全体の行政改革(人事改革・議席改革=議会制の制定)などできなかった、その深刻さに先駆けで対処していた。

 

だからいったん、尾張中の半農半士たちの土着的な旧態特権を一斉に織田家に返上させ(閉鎖有徳狩りで巻き上げ)、大勢は平民扱いしながら見込みある有志は武家屋敷へ強制収容(身分再統制・前期型兵農分離)するという近世(等族社会化の時代)の動きは、西洋でも顕著になった身分制議会(絶対王政=王権・家長権の仕切り直し=議席序列の仕切り直し=議会制・等族諸侯の敷居の仕切り直し)も根底は同じである。

 

織田氏(豊臣氏も)の兵農分離「兵」「農」の部分は、政務吏僚の家格裁定(士分待遇の議席的な序列)の見直し(身分再統制)の意味も強く含むため、公庶分離官民分離といったほうが正確になる。

戦国前期のような

 不都合次第で勝手な武力自治権運動(半農半士根性の格上げ運動)を始め、威力的(寡頭的・暴力的)な上下権力の押し付け合いを始めようとする、中央議会の議決性(和解・敷居確認を前提とする競い合い。見習い合い)に何も貢献しない閉鎖有徳闘争(地方裁判家止まりの低次元な家長気取り同士の揉め事)

 

を取り締まる、その等族義務(品性規律)ある公安側(役人軍団)としての正規軍側と、そうでない側の境界(身分再統制=等族義務の仕切り直し)が今まで曖昧だったから、騒乱も長引いたのである。

 

いつまでも旧態慣習(寡頭主義)のままだから、地域間の基準(等族義務)もいつまでも一貫しない、だからその内に地域間で揉め合う半農半士社会を、国家統一的に一斉に改めさせていく時代であったことが、戦国後期から戦国終焉にかけての重要な流れになる。

のち天下総無事令(後期型兵農分離)に動いた羽柴秀吉が「いったんの身分の固定化」を強調するが、織田信長の前期型兵農分離と別物のように見えるだけで、基準や手法が少し変わっただけで根底(等族議会制を全国に敷くための士分待遇の見直し)は同じである。

先の織田氏の仕置き(身分再統制)がまだ及んでいなかった、これから行われる予定だった地方の巡回を、羽柴秀吉が代行することになった天下総無事戦(小牧長久手の戦い、紀伊の有徳一揆の鎮圧戦、四国仕置き、九州仕置き、関東仕置き、奥羽仕置き)の主目的もまずはそこになる。

中央の代表権を選挙戦(清洲会議と賤ヶ岳の戦い)的に獲得した羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって、天下総無事戦が始まった 1585 年になっても、旧織田領の等族指導に全く追いついていなかった地方もそれだけ多かった、だからその分だけその強調(身分のいったんの固定化の布令)をしなければならなかった現れだったと見てよい。

まだ織田氏の仕置き(裁判権改め・前期型兵農分離)を体験していなかった地方は、今後の主流となる等族議会制の意味を、下々がすぐに理解することは難しかった。

だから下々に解りやすいように羽柴秀吉が

 「今後は中央政権(武家の棟梁=世俗側の日本全体の代表家長)の公認のない勝手な武力闘争は厳しく禁止・処罰する議会制(謄本登録制)の経済社会(まずは国内の技術文化交流社会)に変えていくための、いったんの公・庶の明確化・固定化をしていく」

 「その等族指導などできていない、半農半士慣習のままの各地域の下々をただ巻き込んでいるだけの、時代遅れの富国強兵戦(勝手な格上げ運動=閉鎖有徳闘争)をいつまでも続けようとする地方裁判権止まりどもは、たいがいにせよ!」


という

 「右大臣様(信長公)が亡くなっても、全国へのその取り締り(裁判権改め・身分再統制)は続行だ!」

 「ワシは右大臣様(信長公)のように寛大ではないぞ!」


という意味の、身分のいったんの固定化を強調したに過ぎない。(寛大でないぞといいつつ、地位の低い者たちと若い当主たちには、かなり寛大だった)

産業改革によって織田領内では、庶民側でこれから築かれていくそれぞれの生活権を、閉鎖有徳闘争(半農半士社会のままの、議決性など皆無な不都合次第のただの収奪合戦に過ぎない勝手な格上げ運動・勝手な人格否定運動)で奪い合い壊し合うことをさせないための、労働従事者の法的(身分再統制的=等族社会的=国際文化技術交流的)な謄本登録保証の議決権(意見整理提出の示し合いの敷居確認)の整備(納税・労役の代替保証=裁判権改め=等族議会制)がどんどん進んでいた。

織田氏の領内では、身分再統制(家格裁定の基準・等族義務の仕切り直し)によって多くの半農半士たちがとうに庶民側の枠に入れられていた中、それにまだ及んでいなかった地方ではその整備がろくに進んでおらず、半農半士社会のままの地域が依然として多かったのである。

1582 年に本能寺の変が起きてしまったことで、織田時代に予定されていたその日本再統一(全国への身分再統制=等族諸侯の資格の仕切り直し=中央と地方との行政体制の明確化)の事業はいったん停滞するが、1584 年には羽柴秀吉がその続行を肩代わりすることを明確化し始める。

羽柴秀吉が中央の肩代わりの代表格の座を選挙戦(清洲会議と賤ヶ岳の戦い)で獲得した 1584 年までのこの期間は、前織田時代で解体させられる危機的な状況になっていた毛利氏、上杉氏、長宗我部氏らも、中央の廷臣たちも、それに備える貴重な猶予時間ができた期間だったといえ、天下総無事(日本再統一)に「以前よりは」少しは順応できるようになっていたと見てよい。

 

これらは結果的には、本能寺の変を起こした明智光秀と、その後の羽柴秀吉の寛大な処置によって救われたといえ、格下げはされたとしてもそれぞれ家名存続の体裁をなんとか整えることができた。

廷臣たちについては後述とし、まず毛利氏は、当時の中国地方平定軍(織田軍)の総代(総司令・議長)であった羽柴秀吉といったん和解して以降は、良好な相互理解の関係が続いていた。

今までは毛利家は、吉川家(きっかわ)と小早川家を従える連合の、中国地方の大手としての家格を誇っていたが、今後は三家それぞれを別枠とする横並びの等族諸侯扱い(近世大名扱い)という条件で、表向きの格下げのみで実質は今までの大手扱いのまま寛大に存続が許されることになった。

上杉氏も、越後再統一での反対派の内乱に手を焼いていた中でも、羽柴秀吉が柴田勝家と対立したの賤ヶ岳の戦いの際には、羽柴氏の支援要請に応じたことに加え、中央の敷居に合わせようとする上杉景勝の越後再統一(身分再統制)の内容も羽柴秀吉から公認評価され、1587 年には内乱(身分再統制の反抗派の新発田重家の一味)を終結させることに成功した上杉家は、優遇的に存続が許されることになった。

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)も、四国統一の家格を言い張るその身分再統制の敷居が、羽柴秀吉から認められなかったことに反抗し、羽柴氏から四国攻めを受けて降参後には、土佐1ヶ国の等族諸侯(近世大名)扱いしてもらえるという、寛大もいい所の処置が受けられた。

のち伊達政宗(陸奥中部の大手。むつ。岩手県)も佐竹義宣(よしのぶ。常陸の大手。ひたち。茨城県)も、豊臣氏から優遇的な家格裁定が受けられたのは、これらは戦国終焉に向かうギリギリの所で地方再統一の敷居をどうにか中央に合わせることができたことを、豊臣秀吉に大目に寛大に評価してもらえた所が大きい。

大領の存続が公認された上杉氏は、その代わりに国替え(領地替え)の大変な引越しを手本的にさせられることになるが、毛利氏も長宗我部氏も本来なら、上杉氏のように国替えを命じられても文句をいえなかった所を免除されていただけでも、それだけでも寛大な処置だったといえる。

織田時代から豊臣時代に移行すると、消滅されられる予定だった上杉氏は一転して確かに優遇ばかりされている所があった、だから豊臣秀吉は

 「このように国替え(領地替え)に耐えられるだけの等族義務が整備できている(身分再統制=兵農分離ができている)というのなら、お前らも優遇してやってもいいぞ!(地縁体質の半農半士社会を十分に改めることができていない、そこに苦しんでいる連中に上杉家のことをひがむ資格などない!)」

という、それに耐えられない諸氏たちへ、それが実際にできるだけの越後再統一(等族議会制に備えた敷居の仕切り直し)を自主的になんとか果たせた上杉氏が、命じられた国替えに実際に耐えられていたことを引き合いに、遠回しに恫喝していた。

のちに徳川政権が、元禄の大経済期に向かっていく地盤固めも整えられていくと、諸大名に何かと理由をつけて国替えを強制執行(従わなければ改易)していくようになるが、この統治の原点も織田信長がきっかけで、それをよく理解できていた羽柴秀吉が全国的に叩き込むことになった手本前例が活用されていったものになる。

織田信長に、内外問わずに等族諸侯(近世大名)失格と見なされて解体させられるようになった対象というのは、地縁の半農半士たちを公庶分離(議席改革)できない、だから今後の国替え体制(領地替え=今後の管区整備体制)に耐えられないと見なされた、そこが上の基準(等族諸侯扱いの家格裁定)にされていたといえる。

本能寺の変が起きて以後に長引いた天正壬午(てんしょうじんご)の乱の、上杉氏と徳川氏と北条氏の間で争いが長引いた信濃(長野県)甲斐(山梨県)上野(こうづけ。群馬県)の争奪戦では、信濃の元々の代表格だったことを理由に再興運動を起こした小笠原貞慶が争点となっていたことで、この小笠原貞慶を豊臣秀吉が調略的に直臣扱いすることで、ようやくその乱を止めさせる形となった。

信濃問題(天正壬午の乱)がいったん片付くと、深志城(ふかし。長野県の松本城。当時の信濃の中心地で、筑摩郡と安曇郡の政局だった)の奪還を果たしてそれにしがみついている感が強かった小笠原貞慶に国替えを命じているのも、その一環だったといえる。

奇跡的な深志城奪還(本領の信濃を失った小笠原源氏一族たちの再興運動)を果たした小笠原貞慶は、先祖伝来の信濃の地縁を強調しながらその再興運動を果たした所が、豊臣秀吉からは当然のこととして厳しく見られ、試される形で讃岐(香川県)への移封(国替え)を命じられてしまったのである。

小笠原貞慶は徳川家康の後押しを受け、苦戦の末に奇跡的に信濃の旧領回復を果たした際に、その一族を自負していた半農半士の旧臣たちの大勢が集まるようになっていたため、大いに遅れていた小笠原一族の身分再統制を急いで進めていた、その矢先のことだった。

小笠原一族出身者は、全国的に広く点在していたからこそ、小笠原貞慶もその当主筋の自負も強く、本家筋の権威回復(信濃復帰)ということで盛り上がっていた所に、水を差すように豊臣秀吉から国替えを命じられてしまったため、その処置に小笠原貞慶がかなり不満げな様子だったことも伝わっている。

ただし、当時の松本城(深志城。筑摩郡と安曇郡の政局。ふかし。ちくま。あずみ)は6~7万石ほどの検地評価から、讃岐半国10万石の移封ということで一応は格上げになることもあって、小笠原貞慶は渋々に讃岐への国替えに応じることになった。


これも豊臣秀吉の、有力諸氏たちに対する

 「お前たちも移封(国替え)を命じられたいのか!(=化けの皮を剥がされたいのか! =その管区整備体制にすぐに順応できずに錯乱したり騒動を起こすような、いつまでも地縁に頼り切ってだらしなくしがみつき続ける地方裁判権止まりの家長気取りどもは踏み潰すぞ!)」

 「それが嫌なら、だったらしばらくは大人しくしておれ!(天下総無事令に従っておれ!)」


と、織田政権時代までに旗本吏僚(武家屋敷)に収容された経験もなければ、その公認の典礼(家格裁定)も受けていなかったままの地方を「許容してやっただけでもありがたく思え!」と、一方で釘刺しもしてたのである。

 

小笠原貞慶が讃岐移封になんとか対応できたのは、織田氏の家臣時代の経験がやはり大きく活きたのだと思われ、豊臣秀吉としてもそれを見越してのことだったと筆者は見ている。

 

信濃を追われて諸氏間を渡り歩いた経緯をもつ小笠原貞慶は当初、中央を一時的に支配するようになって勢いがあった三好氏を頼ったが、しばらくして織田氏が中央進出に動くと三好氏が崩れ始めたため、織田氏に鞍替えする形で帰参するようになった。

 

三好氏と織田氏とで、その組織体制に雲泥の差があった違いを体験した小笠原貞慶は、先代時代に追われてしまった信濃をどうやってまとめていかなければならなかったのか、それを見習う機会が多かったと見てよい。

 

小笠原貞慶が深志城奪還を果たした際に、それに集まってきた信濃中の旧縁の小笠原一族たちの身分再統制を急いだこと、そしてその後に豊臣秀吉に指示された讃岐移封にもなんとか不祥事を起こさずに対応できたのは、織田氏の家臣時代での体験が大きかったと筆者は見ている。
 

豊臣秀吉が命じた、上杉景勝への国替え(伊達氏を立ち退かせた旧芦名領の会津と、出羽方面への移封。会津は先に蒲生氏が入封し、後任的に上杉氏が入封した)も、徳川家康への国替え(関東移封)も、当時は皆ができる訳ではなかった、簡単ではなかったその代替義務の手本前例を、優遇される条件として請け負わせたその重要な意味が、これまで説明されてこなかった所になる。

 

中央(織田氏)の公庶分離に、地方は大きく後れをとっていた、旧態慣習の半農半士社会のまま地域間で一貫していなかったことへの整備が進んでいない小武士団の家長感覚(議席感覚)を改めなければ、その内にまたそれぞれが議決性など皆無な自分の所の地元ひいき優先の不都合の押し付け合いで揉め始める原因、議会を退化(低次元化)させていく原因となり、戦国前期の閉鎖有徳社会(惣国一揆時代)を再発させる原因となる。

 

だからこそ、公庶(兵農分離)が曖昧なままの旧態的な半農半士社会のままの家長慣習が、地域の代弁者のままであり続けることを、身分再統制(議席序列の見直し)で改めなければならなかった。

 

今後の近世化(等族社会化)では、庶民政治側のことは奉行所(公認管理)と寺社(庶民側の言い分の整理)との連携が採れる、庶民側としての選民的な意見総代になるように改めていかなければならない。

 

戦国前期のように、

 

議決性などない(和解・敷居確認の等族義務を示し合わない=組織構想の育成理念などない)目先の見返り(勝手な格上げ運動や保身のためのだらしない劣情で知遇を得ようとする)のために地域を便宜し始めようとする、だらしない癒着(寡頭主義)が許された旧態風紀

 

はやめさせ、これからの等族社会(法治国家の品性規律)の、上からの公務士分の等族義務のあり方は

 

 どの地域を担当する(配置換え=国替え)ことになっても、地域間の公正さ(議決性など皆無な寡頭主義任せ・指標乞食任せ・劣情共有任せの低次元なねじ伏せ合いをやめさせるための議会=和解を前提に競う敷居確認の品性規律)を考慮しながら、下々の言い分を受理する側(意見回収と等族指導をしていく側)

 

に改め、今までの議席(領地特権と権力)の乱用(私物化)を繰り返させないための、品性規律ある家格裁定(公務士分資格と待遇)も整備していかなければならなくなってきていた時代、国家間でその文明的な議会制の力量が問われる時代になってきたことが、ようやく認識されるようになったのが近世(等族主義の時代)なのである。

 

ここが簡単に考えられがちだが、500年1000年の古代から中世(寡頭主義時代)までの自分たちの人類史的な愚かさ・だらしなさを自分たちで改善(等族主義化)しなければならない、しかしその体験もまだまだ乏しくその気風もなかなか育たなかった時代、それでも誰かがやらなければならない時代だった。

 

だからこそ日本も西洋も、そのための等族議会制に16世紀にようやく到達するまでに、かなり時間がかかった。

 

思い起こせば織田信長が、清洲城から小牧山城へ、そして美濃攻略後には美濃の稲葉山城(岐阜城)へ、そして近江攻略が落ち着くと安土城へと早々に本拠地を移転できたこと自体が、今までの旧態慣習とは決別しなければならないという、これからの武家の棟梁(世俗側の日本全体の代表家長)らしい身分再統制(前期型兵農分離)の手本牽引の姿勢を示していたといえる。

この移転自体が簡単ではなかった各地方の代表格たちに対して、織田信長が「やって当たり前、できて当たり前の本拠地の移転もできない、地方裁判権止まりの格下どもめが!」と恫喝していた、その国家構想(等族議会制の確立目的)から既に大差になっていた所なのである。

今後は中央の家長(世俗側の日本全体の代表家長・総裁)の最終的な公認を中心とする議決次第で、加増だろうが減封だろうが、国替えや改易を命じられた地方はそれに従わなければならないという、その等族議会体制(その指導体制のための身分再統制)に順応できるかどうか、それに合わせようとするかどうかを 1580 年の段階で織田氏が、全国の有力諸氏らにそこを問うようになっていた。

のちの徳川政権が 1630 年頃にその体制を固め出したのを、本能寺の変の起きた 1582 年の時点で織田信長が「上同士で何をモタモタとやっておるのだ!」といわんばかりにその家長指名権(家格裁定の行政権化=管区整備体制)をさっさと全国に一斉に実現しようとしていた、それが少し性急だった所も確かにあった所が、良いか悪いかはともかくとして本能寺の変を助長してしまったひとつだと見てよい。

当時の有力諸氏たち、廷臣たちには織田氏は高次元すぎた、16世紀末に早くもここ100年くらいには19世紀の民権運動の敷居までもっていこうとするような体制の、今よければ良いではない、その次まで見越した前提の議席改革を求めてきた織田信長に、順応できるだけの準備(等族指導)などどこもできていなかった、ただただ気まずいばかりだったと見てよい。

明智光秀も羽柴秀吉も、織田信長が今後の外交対策も含めたどのような国家体制(議会制)を敷く計画をしていたのかを、全て把握していたのは間違いない。

動揺するばかりの廷臣たちも有力諸氏たちも、それについていけるか怪しいと2人は見ていた、しかし国替え(管区整備体制)の議会体制化(国家体制化)も確かに浸透させていかなければならないのも急務だと、理解もしていた。


本能寺の変に至った明智光秀の引き金とはまた別に、変が起きることになってしまった原因は1つや2つではない、理由はもっと複合的だったと見ておいて方がよい。

 

本能寺の変の起きた 1582 年の日本は、今までの寡頭主義が大幅に等族主義に改められようとしていた(合議制の確定作業に入ろうとしていた)中で、それをどこまでやるのかの大詰めの段階の最中だった。

 

戦国後期には、戦いに鉄砲が多用されるようになったり、城もただ防衛するためだけでなく政局の意味を強めるようになったり、交流のあり方も大きく見直されながら、織田氏ほどではなくても地位の低い家来筋でも、才覚を見込まれて上席に格上げされていく例も見られるようになるなど、今まで前例がないことが次々と起こるようになっていた。

 

常に議会の外にいる多くの下々は、ただでさえ普段から敷居確認できる機会などなかった中で上同士ではもはや敷居競争の決着(戦国終焉=合議制の確定作業)を迎えていた 1582 年に、上同士で何が起きていたのかを下々が把握することも、特に難しかった時期になる。

 

天下(日本再統一・国家構想)のための敷居競争は、1580 年には本願寺(浄土真宗)をとうとう降すことまでできた織田氏の政教整理(等族議会制)の手本前例によってもはやその大局は決していたにも拘わらず、有力諸氏たちはとぼけ続けながらそれぞれの格上げ運動のためだけの富国強兵(戦国後期)を、いつまでも続行しようとしていた。

 

だから本能寺の変以後に豊臣秀吉が中央選挙戦(清須会議と賤ヶ岳の戦い)を急いで制し、いつまでもそれを続けようとする地方に対して「もうよさんか!」天下総無事戦(地方への仕置きの巡回)で、日本全体をとうとうまとめる(身分再統制・家格裁定)ようになった。

 

一時的に支持を得るだけの勝ち名乗りや手柄次第で家格(領地特権)が得られるかのような時代はとうに終わった。

 

これからは議会制(国家構想)を制定できる手本家長による典礼(品性規律の公認=等族義務に見合った家格裁定)を受けた上でないような、議会の敷居を低次元化させていく者同士(議決性など皆無な者同士=和解・敷居確認を前提に競うことができない偽善者同士)による勝手な家格争いを始める(人の上に立とうとする・ケンカ腰に格上を気取ろうとする)ような、

 

 言葉や用語をただ悪用支配しているだけの寡頭主義(反等族主義)でうちのめし合い従わせ合い、低次元化し合うことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関と大差ない勘違いの身の程知らずども

 

 自分たちの議決構築・情報統制も自分たちでできたことがない、自分たちの愚かさ・だらしなさの弊害負担(課題)の不都合を、ただ押し付け合うことしか能がない迷惑千万な法賊(偽善者)ども

 

は厳しく制裁(格下げ)される時代に、日本も西洋も16世紀には向かったのである。

 

中世(寡頭主義)から近世(等族主義)への切り替えを、最もしなければならなかったはずの公的教義(日本は延暦寺・天台宗の総本山。西洋は教皇庁・西方教会の総本山)が、改善どころか今まで通りの旧約のままの旧態権威(寡頭主義)でただ従わせようとするのみで、もはや足を引っ張ることしかしていなかった、だから双方ともに踏み潰されたのである。

 

比叡山焼き討ちとローマ劫略は、議決性など皆無な旧約教義(寡頭主義)で図々しく人をうちのめし合い従わせ合おうとする、今の日本の低次元な教育機関と大差ない身の程知らずの指標乞食時代は終焉したことを思い知らせる象徴なのである。

 

1580 年からはそのための合議制の確定作業に入り始めていた、そんな情勢に向かっていたことをよくよく把握しておいた上で、明智光秀の立場について触れる。

 

まず本能寺の変の従来の仮説はどれも、1580 年に至ったまでの戦国前期-戦国後期-戦国終焉の流れにおける基本である、等族議会制(国家構想のための身分再統制=寡頭主義から等族主義への切り替え)に向かう全体像の歴史経緯(社会心理)の整理ができていないまま、明智光秀の表向きの立場だけを見て不都合的な利害を強調しようとする見方ばかりが、これまでされ続けてきた。

 

中央の廷臣たちと、地方の有力諸氏たちとのための、1580 年からの天下静謐(議席の譲り合いの国内和平交渉)の議会1582 年までまとまりをみせなかったために、その総代(議長)を任せていた明智光秀を解任する予定と、領地替えする予定が発表された。

 

その議会で等族統制の足並みを揃えようとしない、それができないなら等族諸侯の議席など公認しないと織田信長に見切りをつけられてしまったことを、まずは意味する。

 

この解任予定は、後で今一度のその後任者を、近衛前久(このえ さきひさ)や勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)など、廷臣の中から指名する予定もあったかも知れないが、どちらにしても聖属議会側(朝廷側)の議決(人事選出)によるものではなく、世俗議会側からの指名になってしまっているその実態が、廷臣たちの多くが大幅な格下げの家格裁定がされても文句などいう筋合いなどない深刻な問題なのである。

 

合議制の確定作業に入る、この大事な時期のその総代(議長)の歴任がある格上の明智光秀と、その歴任をもたない格下の廷臣たちと有力諸氏たちという、このあてつけな典礼構図で織田信長が身の程を思い知らせていたこと自体が、特に廷臣たちに相当の苦痛を与えていたと見てよい。

 

織田信長のあてつけの

 

 「この人事に(織田氏が指名した明智光秀がその議長だということに)不満があるというなら、だったら廷臣たちにしても有力諸氏たちにしても、なぜ自分たちで名乗り出るなり選出するなりで、進んでその総代(議長)になって天下静謐(国内和平交渉=議席の譲り合い)の議会を採り仕切ろうとしないのだ!」

 

 「そもそもそれを自分たちで選出が(議席の譲り合い)ができるだけの議会制などお前たちは確立できていない、誰かを立てれば派閥利害で揉め合い、蹴落とし合うことしかできないお前たち(有力諸氏たち、廷臣たち)があまりにもだらしないから、こういうこと(手本的に明智光秀が議長)になっているんだろうが!」

 

 「その総代(議長)に進んで立とうとすることなどできてなければ、天下静謐(国内和平交渉)に自分たちから進んで取り組もうともしない、その等族義務に至っていないお前たちが何を等族諸侯(国家の重役=上院議員の議席)の格式を認めてもらおうとしておるのだ!」

 

と、上であるほど等族義務(議会制の手本姿勢)を厳しく求める織田信長のやり方に、有力諸氏たちもそうだが特に廷臣たちがやっとこの「どうにもならなくなってから」議決性など皆無だった今までのただ偉そうなだけの旧態上下慣習にこだわっている場合ではない、自分たちの置かれている立場にやっと少しは深刻に気づいたと見てよい。

 

本能寺の変の直前に目立った、明智光秀の人事異動(領地替え)の予定は、特に廷臣たちにとって深刻な事態だったといってよい。

 

まず、今まで明智光秀が預かっていた近江坂本(大津の商業地の管区)から国替え(領地替え)の予定が公表されたということは、今まで廷臣たちの面倒を保護的に看てきた明智光秀がとうとう居なくなり、いい加減にモタモタとやり過ごす時間はもう打ち切られることを意味した。

 

それは、廷臣たちが頼り切ってきた比叡山の今後のあり方も、世俗側(織田氏)の合議制の確定作業に入りながら、廷臣たちへの家格裁定も世俗側(織田氏)によっていよいよ本格的に動かれることも意味したと見てよい。

 

これは、聖属議会側(朝廷側)も等族義務を示し合う対等な意見提出もされたという上で、世俗議会側(織田政権側)と和平交渉的にそう議決されていったということなら、後はただ世俗議会側が謄本登録制の議事録を整理していくということであるため、何の問題もない。

 

ここが、聖属議会側(朝廷側)が議決権(等族義務)らしい提出など自分たちで結局まとめることもできなかったから、世俗側(織田氏)に一方的に決められてしまうことになってしまったという、その既成事実が具体的に成立してしまうことが、末代にこの落ち度をどう説明していいかも解らない「今ばかりが大事な(=これからの自分たちの信用など自分たちでもてていない)」廷臣たちにとっては大問題なのである。

 

織田氏は、今後の海外との文化技術交流のために他力信仰のキリスト教を公認する体制まで敷こうとしていた、それも可否以前の問題として、そもそも廷臣たちがどうするのか決めなければならないのを、結局まとまりがなくそれも決めかねていたから、織田氏に議決されてしまっていたその既成事実も、廷臣たちにとっては深刻だったのである。

 

織田信長がどんな国家構想を敷こうとしていたのか、その意味も全て把握していた明智光秀が、廷臣の上層たちに全て話していたのは間違いない。

 

世界全体の国際情勢の敷居に目を向けようともせずに、旧約のままの神道と仏教をただ偶像崇拝してきただけ(指標乞食主義でうちのめし合ってきただけ)の廷臣たちの多くは、いわば 32 Bit 化の移行期に 64 Bit 化の構想まで聞かされることになり、8 Bit のままだった廷臣たちは頭の中で処理が追い付かずに青ざめて気絶(思考停止)していたと思われる。

 

他力信仰の浄土教(源空派の浄土宗と、親鸞派の浄土真宗)を、延々と拒絶するように格下扱いを続けてきた聖属議会(公的教義)にとってのそもそもの不都合は、特に戦国前期に、今までの世俗慣習聖属慣習全て決別して独自の聖属裁判権(第三世界=次世代的な等族義務)を構成するようになった所にその特徴がよく現れているが、それは他力信仰的な政権だった織田氏に対しても同じといえる部分になる。

 

浄土真宗は、公的教義による格式の恩恵など大して受けてこなかった、その教義権力(寡頭主義)のしがらみなどなかったからこそ、もはや身分再統制が必要になってきていた、どんどんあてにならなくなっていった三管四職体制(さんかんししき。室町の旧管区体制)のその旧態家長権の序列統制への否定を、先駆けで始めることができたといえる。

 

聖属議会(朝廷)がいつまでも他力信仰を受け入れられなかったのは、今までの家長権を否定するということは、名族高官主義の否定となり、あらゆる血族の頂点であるはずの皇室の否定となるという、その単純すぎる思考停止的な伝統ばかりで、国難に対する具体策(議決性)など皆無な無神経・無関心・無計画な寡頭体質なまま、延々と過ごしてきた結果なのである。

 

日本の世俗政権化(鎌倉の武家社会化)以降は、代につれてそれぞれの名族の本家筋から派生していく家来筋たちが、限りある特権のしがみつき合いで失脚していき、各地で半農半士たちがどんどん溢れるようになり、もはや日本には名族の血縁と無縁の者など、15世紀にもなるといい加減にすっかりいなくなっていた。

 

本家筋はともかく、家格(特権)を維持し得ていた家来筋たちは、それを維持していた者同士での婚姻や派閥闘争を繰り返しながら、自分たちが本家筋に最も近い正規軍団であるかのように誇張し合いながら、どうにか生き残っていた世界になっていたのである。

 

要するに浄土真宗も織田氏も

 

 「上から下まで、名族の血縁と無縁の者などすっかりいなくなって閉鎖有徳闘争(地域ごとの非公式な半農半士たちの勝手な格上げ運動=惣国一揆)の蹴落とし合いが蔓延している中、さっさと等族義務(次世代的な議会体制)に見合った身分制の仕切り直しをしなければならなくなってきているのに、上(室町体制も朝廷も)はそれをいつまでも始めずに、何が名族高官主義だ!

 

で特に台頭した筋であり、地方も浄土真宗のその戦国仏教化(今までと決別の聖属一揆・軍閥化・議会化)の煽りの脅威を受けて、戦国後期にやっと世俗側もそこに向き合う地方再統一(地方議会の仕切り直し・議席序列の見直し)をするようになったのである。

 

ここがしっかり説明されてこなかった所になるが、他力信仰の浄土真宗と、同じく他力信仰的な政権だった織田氏の、この互いの時代刷新の台頭者が、今後は聖属裁判権側が中央をまとめていくのか、それとも世俗裁判権側が中央をまとめていくのか、互いにその恭順をはっきりさせなければならなくなった、だからやむなくこの2つは、後で誰にも文句をいわせないための高次元な裁判権争い(政教整理)をすることになったのである。

 

廷臣たちは、他力信仰を許容したり身分再統制に取り組むことが、日本の血族の頂点のはずである皇室への不忠不遜だとただ憎悪することしか能がなくなっていた、その単純すぎる旧約(寡頭主義=偶像崇拝)をただ言い張り続けるのみで、それで聖属議会(朝廷)は正しさ(議席)をたらい回してきただけだった、だから何もできなくなってしまったのである。

 

今の日本の低次元な教育機関(旧約のままの寡頭主義)もそこは同じ、旧約通り(指標乞食通り=反等族主義)であることが「頭が良い善意」、そうでなければ「頭が悪い悪意」だと自分たちがうちのめし合い従わせ合ってきたから、次代たちもそうでないとおかしいと、議決性など皆無なその法賊行為(反等族主義=偽善)を次代たちに延々と押し付け続けようとする、自分たちのその愚かさ・だらしなさを自分たちで改善できたことがない深刻さも自分たちで認識(自己等族統制・情報統制)できなくなっていく、ありきたりの歴史経緯(社会心理)は、今でも当時でも、家訓だろうが社訓だろうが全く同じである。

 

1582 年に近隣の有力諸氏は見放され、廷臣たちへの最後通達となった明智光秀の移動人事に慌てた廷臣たちは、とうとう渋々に議決権の提出させられる事態に迫られ、「どうにもならなくなってから」明智光秀に相当泣きついたと見てよい。

 

明智光秀としては、ここで廷臣たちを「もう自分ではどうすることもできない」と断っても良い立場だった。

 

しかし出世の亡者などではなかった所を織田信長に見込まれて、日本のためにと思って今まで明智光秀も動いてきた。

 

異例な昇進を遂げて10年そこらしか経っていなかった、新興的な武士団長だったといえた明智光秀は、元の地縁である土岐一族の明知城の由来の譜代家臣がもし駆けつけたとしても、家格的にその規模など知れている。

 

明智光秀を信じて今まで頑張ってきた意欲的な家臣もいたと思うが、しかしそれぞれが5年や10年の縁しかなく、元々大領を支配していた経緯などなかった明智光秀の、新地の近江坂本の家臣たちも、明智氏による丹波再統一で家臣化された者たちとも、根強い旧縁をもっていた訳でもない。

 

こうした出身事情は羽柴秀吉がよく指摘される所になるが、羽柴秀吉の場合は本人がそうでなくても、親類扱いの木下氏ら浅野一族による、武士団としてのちょっとした由来の旧縁はあった。

 

美濃攻略時代に羽柴秀吉は、浅野一族との縁で格上げされていったその地盤を元手に自身の家臣団の形成を始めていることから、尾張再統一以後のことでも大幅な人事改革をしていた織田氏の中では古参だったといえる年期と比べると、明智光秀は自身の武士団を形成する時間は極めて短かったといえる。

 

明智氏の本家筋である土岐一族も、明智家としての本家も消滅し、美濃は織田氏の傘下になってしまっていた中での明智光秀は、武士団長としての旧縁の義理などは、羽柴秀吉以上になかったのではと、筆者は見ている。

 

羽柴秀吉は、器量によってその浅野一族の代表の軍団長の座に指名されたとはいっても、さすがに浅野家と木下家への義理は大きく、元々政務吏僚の才に優れていた浅野長政は豊臣政権下で優遇されて当然として、木下一族も遠回しに優遇扱いはされている。

 

明智光秀もそうした縁の者もいたとは思うが、細川家との武士団連合ではなく別枠扱いされていることからも、羽柴秀吉以上にそうした義理を果たさなければならなかった縁は少なかったのではと、筆者は見ている。

 

織田信長から特に公正さの品性規律が買われただけに、我欲的に派閥権力的に地位にしがみつくことなどなかった上に、自身の武士団を形成していく時間も短かったからこそ、どれだけ大身になってもいつでも誰かにその地位を譲ったり手放したりする姿勢ももてていた、だからこそ本能寺の変も結果的にできてしまったと、筆者は見ている

 

出世したくて天下静謐の総代(議長)になったのではなく、これも皆のために、日本の今後のために努めなければという生真面目な姿勢で、聖属議会(朝廷)の立て直しの支援にあたっていた。

 

 「名族(古くは皇室に由来)の血縁と無縁の者など、この日本にはもうすっかり居なくなって半農半士で溢れかえっているのに、やること(議会制の整備)もやらんと(議決できたこともない法賊どもが)、何が名族高官主義(旧約)に従えだ!」

 

とあてつけに、次世代型の官民分離(半農半士問題の解決)と等族議会制の姿を織田信長に見せ付けられてしまい、有徳(寺社)の整備について良い所を何ひとつ議決してこれなかった廷臣たち(聖属議会・朝廷)のていたらくぶりが既成事実になってしまう、合議制の確定作業も目前の時期を迎えてしまった。

 

明智光秀としても、織田信長の国家構想の通りになれば、日本は世界に誇れる文明技術大国に向かっていくと思っていた一方で、観念の大変更も少し性急すぎた所の心配もしていた、そして羽柴秀吉の内心もそこは同じだったと筆者は見ている。

 

特に織田政権が助長していた他力信仰的な言い分も、かつての浄土真宗の言い分にしても、さらには日本でのキリスト教の聖堂参事会の体制などまだ何も決まっていなかったからこそ、今までの慣習と決別しようとその支持者も急増していた様子からも、これらは今までの武家社会の根底も、皇室の今までの見方も、大きく覆し始める動きになっていたといえる。

 

それを、何も議決できないでいた聖属議会(朝廷)に代わって、織田政権が旧態慣習を根こそぎ一掃しようとしていた所は、確かに性急すぎた部分もあったといえる。

 

旧態的な家長序列の慣習は、新秩序に向かう時代に整備されていくまでに、まだ他の言葉や用語が発達していなかったから当面はそれを形式的に応用しようとしていただけで内心では

 

 「もう日本人の皆が皇室の家来筋にあたるんだから、後は地位の上下だけの問題だから、これからは等族義務次第で議席の譲り合いをする等族社会(国際的な法治国家)に改めていけばよく、それで我々の奥の院の代表である皇室の威厳を、皆で支えていけばよい」

 

と、もう特別扱いは皇室のみで良いと、血統さえ良ければ特別扱いがいつまでも続いていくかのような体質はいい加減に疑問視するようになっていた者も増えていた風潮は、16世紀に早くも民権運動的な19世紀の、廃藩置県体制のような管区整備の流れが芽生えていたとも見れる。

 

公正さを重んじた明智光秀は、確かにそういう世の中になればいいと本人も思うものの、しかしそれに全くついてこれない廷臣たちや有力諸氏の上層たちが多かった姿を見ていて、それについていけない者たちにとっての、上には容赦しないいきなりの地獄行き(だらしない精神的支柱の粉砕)に等しい格下げを急にするのではなく、観念させていく謹慎処分等の時間を与える救済も必要ではないかと見ていたのではと、筆者は見ている。

 

確かに、上でありながら(調子に乗りながらケンカ腰に格上を気取っておきながら)今まで、勢い任せの寡頭主義(指標乞食主義・劣情統制)に頼り切ってうちのめし合い従わせ合うことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関と大差ない大罪者(偽善者)たちは許しがたい一方で、それを自分たちで会心させる時間もある程度は与え、元通りとはいかなくてもいくらか挽回できる機会の救済も、少しは与えてもいい部分もある。

 

織田信長はそこも考えた上で、やむなく厳しい処置に動いたことは、明智光秀だけでなく、その後の豊臣秀吉も徳川家康も気づいていたと見てよいのは、その後の江戸幕府の成立に向かうまでの対処からも十分に窺える。

 

次も引き続き、その後の豊臣政権、徳川政権の動向の前後関係にに触れながら、織田政権の特徴でもある本能寺の変について、まとめていきたい。