近世日本の身分制社会(100/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか28/? 2022/06/20

 

ここでの本能寺の変についての説明について、念押ししておきたいことを先に述べておく。

織田信長、羽柴秀吉、徳川家康が懸命に生きた、大幅な見直しの必要が迫られていた中世(寡頭主義一辺倒)から近世(等族主義による再構築)の移行期がどのようなものであったか、本能寺の変の件についても含めてそれにせっかく触れる以上は、

 文化的な議会史(教義史・裁判権史)の歴史経緯(社会心理)


 いかなる相手であろうが、和解(敷居確認)を大前提とする等族義務(社会的説明責任・国際的指導責任)の示し合いを常に忘れない手本礼儀・品性規律

の観点で、現代でも教訓にできるものになっていた方が、良いに決まっている。

本来の等族社会といえる

 法治国家の品性規律 = 民権言論的な議決性(等族義務)の敷居確認の姿勢 = 国会議事堂が立てられた元々の象徴目的

に向き合う姿勢があるといえて、それで世(国際人道観)の敷居確認を阻害し合わない配慮があるといえる、それで人(次代たち)に今まで通りの負担を押し付け続けることにならないための、最低限の配慮をしているといえる。

自分たちの情報統制力(議決性の敷居確認力)に普段から無神経・無関心・無計画な分だけ、自分たちの弊害負担(課題)の押し付け合いをそれだけしてきたことになる、その愚かさ・だらしなさの実態は、普段からの主張内容の特に「言葉の使い方」に現れてくる所になる。

自分たちの普段の言葉の使い方(聖典が元になっているものも多い)というのが、敷居確認(等族主義)の姿勢になっているのか、それとも威力的(寡頭主義的)にうちのめし合い従わせ合う姿勢しか能がないのか、そこを普段の言葉・用語の使い方から疑い見抜き合うことも重要になる。

「和解(敷居確認)を前提とする競い合い(示し合い・見習い合い)」が相手よりもできているといえる、自分たちの民権言論力・議事録力(判定力・裁定力)の重みによる情報統制力(情報判断力)が、自分たちの普段からの損益分岐力(貸方的な敷居維持の不都合完結と、借方的な敷居向上の主体都合継続)の調整力(等族義務があるといえる議決性)の差にも、段々とできていってしまう所になる。

どんな言い分(言葉)にしても、自分たちで普段から敷居確認(等族主義・議決性)しようとしている、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕ある整理(議決性)の見方を自分たちでできる分だけ、その言い分(言葉)を人・よそに向ける、という基本姿勢が、情報統制力(情報判断力)の力量差として出てきてしまうものなのである。

それが不足している威力的(寡頭的・外圧任せ的)な言い分(言葉)を無関心・無神経・無計画に向け合うことしかしてきた分だけ、その愚かさ・だらしなさの弊害負担(課題・低次元な敷居)を、人(次代たち)に押し付け合うことをしてきたのと、同じなのである。
 

言葉の使い方(言い分)が普段から、敷居確認的(等族的・議会的)ではない、威力的(寡頭的・外圧任せ的)でしかない時点で、自分たちの議決性(規律・判定力)などなければ、それだけの情報統制力などもないだらしなさの実態も、そこに普段から取り組めている高次元側からは、身だしなみ的に見抜かれてしまうものなのである。(孫子の兵法の情報戦の指摘)

自分たちの民権言論力・議事録力(判定力・裁定力)を重視した言論提出(公文書性=公共性=等族義務性)の準備力(計画力・構想力)を、普段から自分たちでどれたけ向き合えているのかの差にも、普段からの言葉・用語の使い方で民度的(品性規律的)にも現れてくるものなのである。

情報機器の発達と浸透も著しい2022年現在では、誰でも誰かに向けて簡単に主張発信できるようになっている中、その主張発信の仕方次第では、不当に損害を与えたり、人によっては自殺者が出たりする問題が、取り沙汰されるようになっている。

発信の仕方次第では侮辱罪等、今後はその規制と厳罰が強められていく方向になっているが、最初からそれを上回る前提の高次元な民権言論の姿勢があるなら、必ずしもそれに準拠する必要はない。

筆者の争点はそれを上回っている前提、つまり上から順番に制裁の姿勢(強者的立場イジメの姿勢)で、法廷侮辱罪(裁判妨害罪)の敷居を巡って、どちらが高次元側で低次元側なのかの白黒をはっきりさせる前提なのである。

 

今の低次元な日本の教育機関は、民権言論のあり方として国会議事堂が建てられた元々の象徴目的(法治国家の品性規律といえる言論的な順番)を守ろうとしない、それを妨害し合っている時点で既に法廷侮辱罪(裁判妨害罪)に抵触している、だからそれと一緒になっている下品で汚らしいだけの身の程知らずどもに対し、恫喝(身の程を知れ!)を繰り返しているのである。

 ただの威力的なねじ伏せ合い(外圧寡頭的な言葉の向け合い方)で、自分たち(当事者ごと)の議決性の敷居確認をうやむやに阻害(低次元な旧態維持を共有)し合うことしか能がない

 それができていない自分たちのその課題(弊害負担)を内外にただ押し付け合うことしか能がない、自分たちのその無神経・無関心・無計画な愚かさ・だらしなさを、自分たちで対処(自己等族統制)できたことがない

時点で

 自分たちの道義関係(契約主従・義理関係・同種的関心関係)の範囲を、自分たちではっきりさせられるだけの品性規律(手本礼儀といえる議事録や民権言論)

 

など、自分たちでできたことがないのと同じ、一億総偽善(一億指標乞食主義)の低次元同士どもが

 寡頭主義(議決性を放棄し合っているだけの低次元な敷居維持)から等族主義(議決性ある文化的な育成理念)への移行

 等族社会化(法治国家の議会制)のための独裁制(敷居向上の手本牽引の選出性=主体都合継続=啓蒙的・他力信仰的)と合議制(敷居維持=不都合完結=人文的・自力信仰的)の区別・使い分けの線引き


を普段から自分たちで整理(自己等族統制)できている訳がないのと同じ、それは

 和解(敷居確認)が大前提の議決性(等族義務)の競い合い(示し合い・見習い合い)

の組織理念(等族義務=社会的説明責任力・国際的指導責任力の敷居)の基本中の基本も、自分たちで普段から何も大事にしてこなかったのと同じなのである。

 

明智光秀についてはともかく、織田信長と豊臣秀吉の等族指導(武家の棟梁=日本全体の世俗側の代表家長の姿勢)は、それが大前提だった重要な所が、どういう訳がこれまで全く説明されてこなかった所になる。

それを全て外圧任せ(寡頭主義の威力任せ)にしてきた低次元ども(ただ失望・劣情を共有し合うことしか能がない指標乞食ども)が、自分たちの議決性(等族義務の手本礼儀)など皆無なはずの社会性(啓蒙性)のことで、身の程知らずにもケンカ腰(自身の方が格上だという姿勢)になろうとすること自体が、

 低次元化させる法廷侮辱罪(敷居確認のための議決性の妨害罪=劣化衰退の助長=騒乱罪)法賊(偽善者)扱いとして上から順番に制裁(格下げ)

されて当然なのが公務士分の本来でなければならないのが、劣化衰退させていかないための組織性(法治国家の品性規律)の姿なのである。(荀子・韓非子の指摘。孫子の兵法の国際軍事裁判権のあり方)

その最低限に向き合ったこともない、社会性(啓蒙性=衰退劣化させていかないための等族議会制)をただの印象操作(人の落ち度をただ踏み台にし合っているだけの劣情共有)の点数稼ぎくらいにしか思っていないのが、今の低次元な日本の教育機関の知覚障害者(偽善者)どもの実態なのである。

中世(寡頭主義時代)までは、議決性(等族義務)など皆無な威力的(寡頭的)な言い分(言葉)の向け合いしかできていなかった、だから時代に合った裁判権(議会制)の整備がいつまでも進まず荒れ続けた、だから経済にしても文化にしても、作られては壊し合うことが繰り返されてしまった。

そして中世末期の原点回帰運動期(西洋ではリナシタ時代。日本では戦国後期)で、今まで議会制ができていた気になっていただけで、そこが全くできてなかった愚かさがようやく反省・見直され始めた。

そんな中で、その自制(自己等族統制)を最もしなければならなかった聖属議会側(公的教義=日本は延暦寺、西洋は教皇庁)は、この後に及んで今まで通り(寡頭主義のまま)の言葉(聖典用語)の低次元な悪用支配をいつまでもやめようとしなかった、だからそこに深刻さをもたれた世俗議会側(日本は織田政権、西洋は帝国議会)に踏み潰されたのである。(16世紀の比叡山焼き討ちと、ローマ劫略)

中世(寡頭主義)近世(等族主義)の最低限の区別もできていないにも拘わらず、解った気にケンカ腰に軽々しく言葉・用語を威力的(寡頭的)に向け合おうとする時点で、もはや相手が公的教義であろうが法廷侮辱罪(議会制の妨害行為=法賊行為)として身分再統制的に裁かれる(格下げされる)人類の記念的な改革期となったのが、近世初頭(等族主義の時代)の16世紀なのである。

荀子・韓非子の政治思想(国家構想論)や、孫子の兵法(国際軍事裁判権のあり方の組織学)を参考にすれば、中世(寡頭主義)近世(等族主義)の違いくらい、人間性(人文性・自力信仰的な不都合完結の敷居維持)社会性(啓蒙性・他力信仰的な主体都合継続の敷居向上)に本当に向き合う気があるならそんなに難しい話でもないはずが、どういう訳かそこが全く説明されてこなかった所になる。

当時の転換期の身分制議会(等族議会制に向けての敷居の仕切り直し=身分再統制=文明技術的な法治国家化への国威・格式のための更新)の意味もまず説明もされない内から、絶対王政(臣下たちが代表格への、いったんの地位・議席の返上=議会選任性の仕切り直し)の言葉・用語を使っても、ただ誤解を招くばかりだから筆者はそれは避けてきた。

それは、荀子・韓非子のこと、孫子のことを紹介することでも同じく、現代では別の言葉・用語や、多くの他の事例も入れながらの説明も十分に可能であるため、当時の未発達な伝達力の中の文言にただ固執するだけでなく、現代語訳もできなければならないとすらいえる。

印刷・出版技術が顕著な中世末期になって禁書騒動が顕著になる以前は、もっと言葉が不自由な時代だった、現代のような形容語や造語も今よりも著しく乏しい時代だったからこそ、聖典が整理されていく中で発明的に形成されていった言葉や、また思想学の中で形成されていった言葉が、重視されていた。

それはいつの時代も「この意味は、こういった見方をしていくとより適切な育成理念になる」という説明(等族義務)も自分たちで整理(自己等族統制)できるような議決性が重視されていかなければ、

 

 ただ偉そうなだけの寡頭用語にただひれ伏し合うことしか能がない、教育機関やオブジェクト指向主義者どものようなだらしない低次元な手口

 

に、まんまと乗せられている自分たちの愚かさ・だらしなさを、自分たちで疑い見抜いくこともできなくなっていくのである。

全て外圧任せのただ偉そうなだけの言葉・用語をただ向け合うことしか能がない、その時点で精神的支柱の粉砕が既に完了してしまっているようなオブジェクト指向主義者どもや教育機関どものような、その愚かさ・だらしなさも自分たちで対処(議決性の敷居確認)できたことがない低次元同士が、世(国際人道観)のため人(次代)たちのための整理(等族義務=社会的説明責任・国際的指導責任)の見方など、もてている訳がないのである。

敷居確認(情報統制)の議会(示し合い・回収)の手本の場も自分たちで維持できたこともない、言葉(情報や聖典)の向け合い方の段階でいとも簡単に精神的支柱の粉砕が完了してしまうような、その最低限の等族指導もできたこともない知覚障害者(偽善者)の集まりの教育機関(法賊)どもが身の程知らずにも、何を偉そうに日本国内の言葉・用語を特権的に、いつまでも独占管理支配しようとしておるのだという話である。

戦国後期の情勢と織田信長の対処(荒治療)を説明することは、現代の浅ましい一億総偽善の法賊どものだらしない実態の天狗の鼻をへし折る説明をすることと同じなのである。

少し先述したこととして、中世(寡頭主義時代)でやたら蔓延していた「腐敗」「堕落」といった言葉も、議会的に未成熟な時代にその言葉が蔓延していた歴史経緯(社会心理)をよく理解せずに、解った気に安易に使った所で、人のためにも自分のためにもならない。

「下克上」にしても、戦国後期になると地方再統一(地方議会の仕切り直し=議席序列の手本家訓の見直し=時代に合った自分たちの代表家長の再選挙戦)の器量(等族義務)の意味に変化していったように、他にも「裏切り」「常識」といった形容的な言葉でもそういう所は重要になる。

「常識」とひと言にいっても、それが「時代に合わない旧常識=愚かさ・だらしなさ」「時代に合った新常識=目的構築・組織構想の育成理念があるといえる品性規律」の判別ができているのか、さらには個々の道義関係の敷居次第でまた違ってくる注意も、よりできていた方が良いに決まっている。

形容的な言葉であるほど、歴史経緯的(社会心理的)な変移差まで一致させられる分だけ、高次元化の敷居確認に向かわせる可能性も高まる、すなわち低次元な愚かさ・だらしなさへの釘刺しができる可能性も高まる。

そこを常に面倒がりながら、解った気にケンカ腰に偉そうに調子に乗りながら、全て外圧任せにしているだけの文言をただ並べたものを押し付け合い、それにひれ伏せ合っているだけの教育機関のいいなりどもやオブジェクト指向主義者どものような低次元な言葉の使い方しかできていない、そのだらしない実態も普段から自分たちで問題視できない時点で、低次元化させ合うことしか能がないのと同じないのである。

もっと高次元な観点で見なければならない明智光秀の場合も、安直に「裏切り」という言葉をただ当てはめるだけでは何も見えてこない所は同じになる。

現代でも「裏切り」とひと言でいっても、例えば品質管理が良くない安い輸入産を大量に混ぜる小細工を隠しながら、100%国産の高品質だと言い張るような、後で自分たちで対処し切れなくなるような「行き過ぎた不正」で今を凌ぐことばかり一生懸命な「社会的信用への背信行為の裏切り」として、最初と後でどうだったのかの債務信用面を普段から整理できる力量が、何にしても重要になってくる。

その100%偽装の話は、普段から自分たちで債務信用範囲等の内訳をはっきりさせられていないような言葉(用語)の使い方の、知能上(議決的な判断力上)のだらしなさの姿も、それと同じといえる。

旧態慣習(寡頭主義)の威力用語(パワーワード)の押し付け合いで、自分たちの議決性の敷居確認を面倒がりながらねじ伏せ合い、互いに利己的な心証を得るやり方ばかりで過ごそうとするからこそ、後になって互いに「こっちが合わせてやっていた側・やらされていた側・利用された側」態度同士で揉めることになるのである。

そこに議事録的な敷居確認(育成理念)など自分たちで何も大事にしてきていない組織(上下関係)というは、

 

 自身で制御(自己等族統制)しきれなくなっている機嫌・不機嫌(ただの劣情)が伝達手段(思考停止)の全てになってしまっている、自身のそのだらしない無神経さ・無関心さ・無計画さ

 

も認識(自己等族統制)できなくなっているのが常である。

ただの丸覚え(外圧任せ)の合言葉(情報や聖典の集約語)に頼り切ってケンカ腰にねじ伏せ合うことしかしてこなかった分だけ、自分たちで情報統制(議決性・等族義務の敷居確認)などしてこれなかったのと同じなのである。

 

ではどうすればいいのかについて、ここでISO9001の例の、仕様(ソフトウェア)開発などでよく用いられるV(バージョン。公開版)、R(レビジョン。修正・追加段階)、T(トライアル。試行)の考え方について、余談として少し触れておきたい。

 

携帯機よりもPC(パソコン)との付き合いが長い人や、その使用頻度が多い人はよく見かけることとして、パソコンで使用されている様々なソフトウェア(エクセルやワードや、OSに標準搭載されている単純な電卓なども)は、OSも含めてよく

 

  Ver 1.21 ( 2018/03版 )

 

といったように、最終修正更新を示す数字が割り当てられている。

 

この数字自体には明確な規格がある訳ではないが、ただしこれをどういった品質管理の仕方で活用しているのかは、ソフトウェア開発でのISO取得の合否の一環に、当然含まれている。

 

購入したソフトウェアに不便な欠陥があった場合に、製作社のサイトを見に行くと「Ver 1.43 修正版ダウンロード」といったように、今自分が使っている Ver と、最終公開版の Ver とで確認しやすくするために、よく使われている。

 

ソフトウェアの Ver はVとRの反映が大抵だが、その扱い方自体に厳密な規定がある訳ではない。

 

例えばVの部分を1から2に変わるのを以って、一新製品や新製品としたいという意図がある場合で、小数点側のRの扱いが工夫される場合もあるが、そこに特にこだわりがない場合はVが2以降になっても特に気にされない場合もある。

 

欠陥の修正だけでなく、要望の反映も目的にしていて更新が多くなることが予測される場合は、1度の更新で Ver の後ろを0.1ずつ増やす方法にすると、10回目に Ver が1増えてしまうため、それを避けたい場合はRを0.01ずつ増えるようにしている場合もある。

 

Vを2にする時は、大幅な追加更新があった場合などが契機にされる場合も多く、例えば Ver 1.63 の状態で大幅な追加更新が加えられたのを以って、Ver 2.00 にされ、そこから Ver 2.03 Ver 2.12 と、そしてまた大幅な更新で Ver 3.00 といった使い方もよくされる。

 

そんなに更新予定もない、不具合対応くらいしかしない対応が前提だったり、小規模のソフトウェアなどは、更新の数だけでRを0.1ずつ増やし、もし10回の更新があってVが2になっても大して気にされないものもある。(更新日付のみの場合もある)

 

Rに重みをもたせる場合は、 Ver 1.41 Ver 1.42 と続いて、ちょっとした大きさの更新があった時に Ver 1.50 にする、という考え方で利用されるなど、その後ろは Ver 1.401 Ver 1.402 でもよく、使い方は色々になる。 

 

T(トライアル)は試行版などの意味があり、例えば「この部分に関してはまだ途中段階で、後で不要と判断されて削除される部分があったり、また他の仕様と統合される可能性もある」という使われ方がされるが、Rで集約される場合も多い。

 

利用者からすればその Ver の数字によって最新版かどうか、その更新内容の様子が確認できればよい一方で、製作側としてはそれぞれの提供開発計画の議事録(企画書・仕様書・設計書)の敷居によるその数字の使い方の問題を、そこが皆無なただの怒り任せ(ただの劣情)の「常識」のひと言で片付け合おうとすることは、ISOの観点の社会的な品質信用管理に反する行為となる。

 

ISOはあくまで品質信用管理の業務指導で、それを人事育成にも活かそうとするかどうかについては、それぞれ次第の話になる。

 

ISO取得維持と関係している現場は、それを体験したことがない現場と比べれば嫌でもその規律は身につくが、ただしISO取得維持と関係ない範囲になった途端に、許される限り寡頭用語で社則を埋め尽くそうとする所が大半であり、そんなものである。

 

VRTは仕様書と設計書でも用いられ、仕様書のVは開発が大幅に進んだ場合に次の数字に繰り上げられる場合が多いが、そうなるまでのRの扱いの方がどちらかというと、ISO取得維持の審査が慎重にされる所になる。

 

設計書の元になる仕様書が更新されていく際のRは、議事録履歴(議決記録)の重要付録と共に審査されるため、その段階での前回Rと今回Rと議事録履歴との明らかな不一致が見つかると、それに関する全資料の総見直しをしなければならなくなる場合もある。

 

誰かがそのおかしさを見つけることもあり、それが発覚した際にそこに欠陥がないように全て直さなければならない担当責任者が、それを面倒がって悪い意味の「現段階の最終版のつじつまさえ合っていればいい」ような直し方しかしなかったことが後で発覚すると、大問題になる。

 

それは内容によっては始末書だけでは済まない、最悪は業務提携違反の賠償問題になる場合もある。

 

解りやすい例でいうと、仕様書に「常識」という文字を使って、もしその意味に明らかな不一致が見つかり、その意味が整備されずに見過ごされながら仕様書と設計書が作られて(終わらせられて)いったら、それに関する部分は全て曖昧に設計されていくことになり、後々の信用事故の原因となる。

 

どの問題がどこから始まっているのかの追跡もできていないような、議事録履歴の重要付録と仕様書のRの前後関係がいい加減な反映の仕方しかできていない理由が、ISO取得審査に失格扱いされ、ISO基準による製品の出荷が許されなくなるのである。

 

自分たちで使った言葉や用語に自分たちでその意味を管理・整備する責任ももてていない仕様書と設計書からできる製品を、ISOの品質管理指導の合格にする訳がないのである。

 

新たな仕様分の仕様書を受けてそこから設計書を起こして設計していく担当者たちも、意味があきらかに曖昧になっている仕様書の部分を見つけたら、そこをよくよく確認し合わなければならないし、混乱を招くようなあまりにも曖昧すぎる、浪費の原因となる言葉などは迂闊に入れ込まない配慮も当然される。

 

しかし「こんな仕様書を作った仕様担当が悪い」「仕様書の意味を理解せずそう設計した設計担当が悪い」をケンカ腰に言い合いしている場合ではないはずを、ISOの審査基準(敷居確認)の意味を普段から重視できていない低次元な開発現場は、そこで支障を出している所も少なくない。

 

そういう所でだらしなく派閥利害的にモタモタやっている所と、そこに常に議決性(敷居確認)ある付録資料(品性規律)で面倒がらずに整備(自己等族統制)していける所とで、企画総責任者としての開発環境向上の力量差も出てくる所になる。

 

こうした担当間の問題はソフトウェア開発に限らず、大きめな商社で例えば企画部・資材部・製造部・営業販売部といったようにひと通り販路や営業所まで一手に運営しているような所では、それと似たような「何々部がこうだから」の弊害負担はどこも抱えたりしているものである。

 

昭和後半から平成後半にかけて、今までは機械化されていなかった部分を人海戦術で穴埋めしていれば良かった所も、情報機器や工業機器の発達にともない、そういう所の切り替えに社会的に段々と注目され始めた、までは良かった。

 

その期間にはやたらと偉そうな「合理化(効率化)」という言葉が流行したが、そういう所の自分たちの弊害負担(課題)を本当に議決的(等族主義的)に対処してこれた所と、全くできていなかった所で当然、差が出てくる。

 

「合理化(効率化)」の言葉の使い方も「常識」と同じで、議決性(等族義務=社会的説明責任・国際的指導責任の手本牽引)も無しに「そんなこともワカランノカ」とその言葉をただ連呼しながらケンカ腰に向け合っているだけで、本当に合理化するならどこも苦労はしないことが、2012年あたりくらいからかようやく世の中も少しは解ったのか、それをだらしなく連呼している所も、あまり見られなくなった。

 

その合理化とやらのケンカ腰用語にやけにうるさかった2005年くらいまでは、同じく「多様化」とやらのやたらと偉そうなケンカ腰用語も流行したが、これも「常識」と同じでただそれを連呼することに意味がないことが少しは解ったのか、以前のようなただ偉そうなその連呼も、今は見られなくなった。

 

ネットの普及の影響も明らかな2016年あたりから、議決性(等族主義)などどこにも見られない、上下権力任せの無神経・無関心・無計画で威力的(寡頭主義的・恐怖政治的)な人格否定(パワハラ)による落ち度狩り(減点方式)一辺倒の足並みの揃え方しかできていないことが不祥事によって露呈すると、そこが問題視され始めてきている。

 

ネット上での影響力がブログよりも強い動画配信などは、民権言論性(考察出典等)がある側に対し、そこが劣っている側のいい加減な共有認識による足並みの反感論にしかなっていないものは、配信だけでなくその意見・感想記述(コメント)においても2022年現在では削除規制が強まり、民権言論の健全自由化の意味を勘違いして妨害し合っているだけの後者が不利になる仕様変更も、顕著になってきている。

 

多様化(トレンド)もそうだが、必要に応じて器用に対応できるようになっていればいいかのように、そこに物凄く軽々しい見方ばかりされた。

 

所詮は権力に頼ったそのつじつま合わせを規定することしか能がないにも拘わらず、さも自分はそれができている柔軟な人間であるかのように偉そうにケンカ腰になることしか能がない、実際は何の等族指導(議決力)も再構成できたこともない口ほどにもない法賊(偽善者)が多いのが常なのである。

 

多様化の実際は、今までは分業とされてきた異種異業種の文化的観念ごとも、これからは順応していく視野を広げる工夫もしていかなければならない、つまりその違いを積極的に相互理解していくことによって、色々な分野に対応する提供開拓もしていかなければならない、というのが本来の意味である。


それを

 

 「今まで通りでない」遭遇に気絶(思考停止)し合ってきただけの、それに寸分の足並みのズレでも見せようものなら徹底的にうちのめし合ってきた

 

 その寡頭権力に対する御恩と奉公が絶対のはずだった石頭もいい所の、今の日本の低次元な教育機関と大差ないだらしない集まり

 

が、急に多様化(異種異文化の許容)に向き合える訳がない、だから織田信長が中央に乗り込んだ際に、廷臣ら旧中央関係者たちを保護監察扱いにした所も、まさにそこなのである。

 

後になって「合わせてやっていた、やらされていた、こっちが利用された側だった」と言い出し始めるような、自分たちの議決性などなかった無神経・無関心・無計画な自分たちのだらしなさの押し付け合いも、自分たちで解決(自己等族統制)してこれなかった、自分たちの議事録履歴と前回Rと今回Rの公正なつけ合わせの最低限も自分たちで敷居確認してこれなかった低次元同士が、何が合理化だの多様化だの常識だのという話である。

 

ネットの発達で、それぞれの社会環境の違いも少しは自己確認されるようになった2017年頃あたりからは、合理化や多様化の言葉が使われる場合は、それが実際にできている所の出典で当社比的に「こういう取り組みによる再配分、再配属化がされることによって、合理化・多様化が進むようになっている」と、そこをもっと健全的に観るようになっている。

 

そのネットの現象と同じように、戦国後期でもとうとう西洋人のキリスト教徒たちが直接来日してくるようになり、日本の国事としての世界情勢規模の情報交換の多様化が求められるようになっていた。

 

そんな中で中央は、時代に合った自分たちの国家としての、外来の領事館のあり方も自分たちで敷くこともできなくなっていた、その等族責任をただ押しつけ合うことしかできなくなっていた、その深刻さを自分たちで対処できなくなっていた、だから織田信長が肩代わりすることになったのである。

 

「地政学」という言葉も第二次世界大戦までは、領域戦の威力支配利用のために、相手を自分たちの勢力圏の傘下にねじ伏せるための使い方をしていたものも、その愚かさが国際的に反省されるようになって以降は「人種だけでなく地域ごとの小文化圏も、これからは文化遺産的に尊重していかなければならない」健全な意味の使われ方に変容している。

 

そのように言葉の使い方というのは、それができたことがないただ下品で汚らしいだけの今の日本の教育機関のように、時代遅れの低次元な威力支配的(寡頭主義的)な使い方しかできていない側と、国際文化交流的な高次元な敷居確認の使い方ができているのかの、普段のそういう所から等族指導的(議決性の敷居確認的)な債務信用力の差にも現れてくる所になる。

 

オブジェクト指向主義者どものような、合理化や多様化を万事面倒がりながら解った気にケンカ腰になるための思いつきの思考停止型のただの威力任せの「アジャイル」とやらも、2000年以上前の荀子の警告に全て反している、人の道(等族主義=国際人道観)を踏み外し合わせるための孟子悪用主義(寡頭主義)の愚かな再燃に過ぎない。

 

「常識」にしても「裏切り」にしてもその形容語はいわば、合理化、多様化、地政学、版印( Ver 管理 )といったそれぞれの国際社会観や道義関係の、高次元側か低次元側かの敷居確認までされる目的の重みまであって、初めて活きる言葉なのである。

 

普段からそれができていない自分たちのそのだらしない実態をごまかす穴埋め(孟子悪用主義の許し合い)をするために、解った気にケンカ腰になりながら、その敷居確認(民権言論性)をうやむやに妨害し合うために、それで相手を押さえつけるためにその言葉があるのではない。

 

議事録履歴の段階ごとの前回Rと今回Rに、言葉の使い方からおかしい所がないか、等族指導できるものとして確認し合えるような議会的(裁判権的・等族指導的)な資料(誓願書・公文書)の敷居(名目=育成理念・組織構想)になるよう、自分たちで普段からそこを重視できている高次元側は、それを自分たちで全くしてきていない低次元側の、普段からの威力的で雑な言葉の向け方しかできていない所から、簡単に見抜けてしまえるものなのである。

 

裁判権(議会=法治国家の本来の品性規律=地位・議席の敷居)のその基本中の基本の最低限の、日本全体のそこが今まであまりにもいい加減だった、だから高次元な等族議会制を敷き始めた織田信長が上から順番に、それら旧態風紀の巻き上げに動いたのである。

 

上が今まで低次元な言葉(誓願)の使い方しかできていなかった、だから今まで下々に悪影響を与え続けてきた、旧態の風評弁慶(時代遅れのままの資本観念)の風紀も改めなければならない時期に来ていた16世紀は、西洋でもそこは共通している所になる。

 

そんな中で、次世代的な議決性の仕切り直しも自分たちでできなくなっていた、すなわち今までの外圧任せの威力支配的(寡頭主義的)な言葉・用語の使い方(議事録の作り方)通りで過ごそうとした往生際の悪い、低次元な敷居のままの地位(議席)にいつまでもしがみつこうとする法賊(偽善者)どもが、あきれるほど多かった。

 

そこに軽々しい低次元な連中が、織田信長から等族諸侯扱い(上院の地位・議席扱い)の典礼(身分再統制)が受けられる訳がなかったのである。

 

その基準(国際文化交流の敷居)を等族主義(法治国家の品性規律の手本牽引)的にではなく、全て外圧任せの寡頭的主義(威力支配的)なアメとムチのようなだらしない見方で渋々にしか取り組めないような騒乱罪予備軍(偽善者)どもが、何を公務士分(等族指導側)の地位(議席)にいつまでも図々しく居座り続けようとしておるのだという話である。

 

のち豊臣秀吉も、織田信長の前例手本で言葉・用語の使い方に上から慎重にさせ、議会への意見整理書の提出を重視させていくようになるが、現代よりも形容語が少なかった、仏教用語からの世俗化(政教整理)も今ほどされていなかった不自由な言葉の中で、色々な時代刷新に向かい始めていた意図をどう言い表してよいのかが、難しい時代だった。

 

だからとりあえずは、下々には今までの通りで良いかのような誤解を与えないために、低次元化させ合う迂闊な言葉の使い方に対する緘口令の姿勢が上の間で採られるようになった、だから文献をただ追うだけではその事情も伝わりにくい所になる。

 

西洋人たち(海外)との再交流に関心がもたれた19世紀の幕末でも似たような現象が16世紀にも起きているが、文化交流とは、言葉の交流をすることも非常に大事なことなのである。

 

幕末で「ディプロマシー」という言葉を知って

 

 「こちらでいう『外交調停』という意味で、向こうではこの範囲まで本来はできていることが品性規律、という意味になっている」

 

と聞いて

 

 「なるほど、その範囲まで指す方がより国際的といえるな」

 

と、言葉の使い方の交流からでも、互いに含んでいなかった部分を敷居確認し合うことも、非常に大事なことなのである。

 

その姿勢は現代の国内でも同じ、国会議事堂がそもそも建てられた目的の、議決性(等族主義)の敷居確認の基本であり、国際間(国家間)だけでない、個人間・組織間でも同じなのである。

 

自国言語のその最低限の等族統制もできたこともない知覚障害者(偽善者)の集まりの今の日本の低次元な教育機関が、身の程知らずにも

 

 言葉の威力支配(寡頭主義・愚民統制主義)で今まで通り押さえつけようとしているその愚かさ・だらしなさ

 

に、国民はもっと深刻に自覚(自己等族統制)しなければならない。

 

力関係の外資頼り(外圧任せ・指標乞食任せ・寡頭主義)の偉そうなカタカナ用語をケンカ腰に並べ合ってひれ伏せあっているだけの、向こうの言葉の方が全てにおいて数段格上であるかのように自国語を自分たちでただ格下げし合っているだけの法賊(偽善者)どもが、そういう低次元な言葉(用語)の向け合いしかしてきていない自分たちのだらしなさに、普段から向き合えている訳がないのである。

 

合理化・多様化を集約統合した気に勘違いしているに過ぎない身の程知らずの日本の教育機関、オブジェクト指向主義者どもというのは、自分たちの議決性(等族主義)を自分たちで低次元化(否定・放棄)させ合うための寡頭用語にただひれ伏せ合っている自分たちのその愚かさ・だらしなさも、自分たちで疑い見抜くこともできなくなっている法賊(偽善者)どもなのである。

 

いつの時代も同じ、こうした歴史経緯(社会心理)の共通点を現代と当時とで、また当時の日本と西洋とで比較していければ、本能寺の変の性質を理解することもそんなに難しいことでもない。


しかし国会議事堂の創設の体験もまだなかった16世紀に、そうした先々の見通しまであった織田信長の特異な存在は、今よりももっと理解されなかった時代なのである。

 

筆者の大前提の話が今回も長引いてしまったが、明智光秀の本能寺の変の本題に触れたい。

 

明智光秀は、織田信長の高次元な構想を理解できていた、その一方でその等族指導に全くついてこれていなかった廷臣たち、有力諸氏たちとの、重要な折衝役も請け負うようになっていた。

 

全くついていけなかった連中のために、明智光秀も彼らがその意味がどこまで理解できるかはともかくとして、


 「朝廷の今までの『我々が織田氏を従二位・右大臣に昇進させてやったのだ』の、肩書きだけで武家側(世俗側)を手なづける権力の維持の仕方は、いい加減に通用しない、等族義務が問われる身分制議会の時代になってきています」

 

 「ここはいったんの格下げ(地位・議席の敷居の仕切り直し)を受け入れて、聖属議会側も、まだ織田氏の裁判権改めが入っていない地方議会側も、とにかく織田政権の敷居に合わせる努力をこれからしていく恭順の提出をすることが、先決です」

 

 「我ら(明智家)も悪いようにはしないように手伝いますから、とにかくその提出をする方向にすれば、きっと右大臣様(うだいじん。織田信長のこと)も様子見の仮公認くらいは、して下さるはずです」

 

という献策を、細川藤孝も遠回しに当然していた、そしてそこにいつまでも渋り続け、その折衝の総代(議長)の明智光秀を困らせる平行線が続いていたと、見てよい。

 

織田信長のやり方が優れていたのは、明智光秀の扱いを、織田信長のいいなりの悪い意味の寵臣(ちょうしん。ひいき部下。悪い意味で、権力のいいなりのご機嫌取りのおべっか使い等に使われることも多い)に思われることのないよう、むしろ彼らの言い分も擁護させる役目の、議会的な体制を採らせていた所が、これまで注目されてこなかった所になる。

 

ただし結果的には、出身は中間(ちゅうげん。戦国後期では、正式な公務士分かどうか曖昧な従者の意味で使われていた)あがりに等しかった明智光秀に、そこをあなどるように

 

 「皆が困っている我々の不都合を、なぜ貴殿(明智光秀)が右大臣(織田信長)どのに、それを説得してくれないのだ」

 

という、自分がそれをしなくていい立場を良いことに、そういうだらしない態度ばかり出していたことも、明らかと見てよい。

 

寡頭主義で押さえつけ合うこと通りでないと、気絶(思考停止)することしか能がない低次元な連中というのは

 

 「お前(明智氏)は織田氏に寵愛を受けてそういう地位に昇進できて、自分は良い思いができて安泰だから、我々の気持ちなどどうでもいいと思ってるんだろう!」

 

程度の、地方議会の仕切り直しができる高次元な格上に対して、それができない低次元な格下側の分際が無礼千万にも、そういうだらしない劣情(挑発)の向け方を平気で出してしまう、まさに人の上に立つ側(議席側・公務士分側)に居てはいけない、今の日本の教育機関と大差ない法賊(偽善者)の集まりなのである。

 

議決性など皆無な低次元どもというのは、ただ「人を踏み台にズルをして良い思いをしているに違いない」程度の、力関係で押さえつけ合うことしか能がない、普段からの言葉・用語の向け合いしかできていないから、全て低次元な見方しかできなくなっているものなのである。

 

そこを試す形で、今後の議会制の前例のためにもわざわざ明智光秀を、擁護的な折衝役の総代(議長)に立てて、自分たちで議決性をもって和平条約的に、自分たちの議席の譲り合いをしていく最後の機会を、織田信長は寛大に与えたのである。

 

しかし総代(議長)の明智光秀に対し、そういうだらしない態度でしか向き合うことしかしなかったこともはっきりしてしまった、そこに織田信長があてつけに茶番の怒りを遠回しに向けるようになったと見てよい。

 

残された、身分再統制を受ける側が、後になって

 

 「知らない間に勝手にそう決められたことを、何の説明もなしに一方的に強要された我々は被害者。こう決めた奴が全て悪い」

 

などと後でそこをうやむやにし始める寝言を言わせないためにも、自分たちで真剣にそこに向き合って議決していくことができるかどうかの場が与えられ、それが試されたのである。

 

上述したISOの例における、裁判権(議決権)を管理する側としての、基本的な伝達文書管理のそのできて無さの実態を、織田信長に問題視されてしまったのである。

 

そのための総代(議長)として明智光秀をせっかく立ててやっても、それができない実態が明らかにされてしまった、それがもう「言い訳無用」なのである。

 

しばらく様子見はしていた織田信長は、1582 年にとうとう明智光秀の異動の予定を公表してしまった、それ自体が

 

 「お前らは、国内の和解(敷居確認)の議決性を自分たちで構築できない、そのだらしない態度が等族諸侯(上院議席)失格の証拠」

 

だと、廷臣ら、有力諸氏らに見切りをつけ始めたと見てよい。

 

判然としない部分も多いが、当時、九州で大手になり始めていた島津氏は、九州方面に関心を向けていた織田氏とは融和的な様子が見られるが、これは九州にはキリスト教徒への改宗者が多かったことも関係していたと思われる。

 

本能寺の変の起きる直前の時点で、織田氏と敵対が強まっていた大手は、消滅させられて間もなかった武田氏、消滅させられるのも時間の問題になっていた上杉氏(越後・新潟県)、長宗我部氏(ちょうそかべ。四国)、毛利氏(中国地方)になる。

 

島津氏ほどは領域戦の整備は進んでいなかった四国の長宗我部氏は、織田氏から天下静謐(日本再統一)の勧告を受けている意味を、部下たちに等族指導できずに退くに退けない状態になっていた。

 

越後(新潟県)の上杉氏は、上杉謙信の死去を機に上杉景勝が 1578 年から、組織の時代遅れの刷新の地方再統一に慌て、1582 年の時点でそれに手間取っていた。

 

とても織田氏に恭順できる準備などできていなかった、武田氏もそうだったが大幅な格下げは免れなかった上杉氏と長宗我部氏は、同じような境遇だったと思われる。


広さとしては3ヵ国分はあった武田領を、織田氏があっという間に制圧してしまった 1582 年は、関東のすぐ西隣までいよいよ迫ってきたその織田氏の様子に、関東から東北方面にかけての大小の生き残りの諸氏は、織田氏の心証を気にして腰が引けていたような状態だった。

 

もはやどの地方も、織田氏に抵抗などできないことも決定的になり、織田氏の等族議会制による日本再統一も目に見えていた中、旧中央関係者らの特に廷臣たちは、今後の聖属議会(朝廷)のまとまりにモタモタとしていた。

 

そんな中で、旧中央関係者らと、生き残りの有力諸氏らとの折衝役の総代(議長)を務めていた明智光秀がとうとう解任・異動される予定を知って、廷臣たちもいよいよ慌てたのは間違いないが、これは織田氏との交渉をもう打ち切ることを意味していたと見てよい。

 

織田氏との関係を、明智光秀を通して修繕できなかったと見なされた上杉氏、長宗我部氏、毛利氏は、消滅させられることは確定していたと見てよいが、同時に中央の廷臣たちの身分再統制(選別)にも本格的に乗り出すことを意味していたと見て良い。

 

建武の失策以降の廷臣たちは、公的教義(延暦寺)の権威に頼り切ってそれにしがみついているだけで、これまで健全に聖属議会を整備してきたとはとてもいいがたいことは、閉鎖有徳の取り締まりもろくにできずに、本願寺(浄土真宗)に日本の自力教義の主導の実質を完全にもっていかれただらしなさからも、明らかだった。

 

自分たちの議決性(等族義務)の明確化を自分たちでできていなかったことを、権力任せ(外圧任せ)の弊害負担(課題)をうやむやに押し付け合ってしてきた連中ほど「そうなってから、手遅れになってから」ようやく慌て始めるものなのである。

 

「そうなってから」やっと慌てた廷臣たちの様子に明智光秀も内心は

 

 「あれほど散々献策してきたことを、あなた方は無視してきて、今頃になってなんとかしようと思っても、もうどうにもなりませんよ・・・」

 

 「それなのに今になって、慌てて聖属議会(朝廷)の再構築なんて、できないでしょうに・・・」

 

と、それまで明智光秀、細川藤孝が申告していたことに「今頃になって」その意味を少しは理解した有様に、内心はかなりあきれていたことも容易に想像できる所になる。

 

明智光秀の、近江坂本と丹波の支配代理を中心とする、丹後勢、大和勢、摂津勢らを寄騎(よりき。副将たち。与力)に置いていた今までの構成の、その異動の事前告知はされたものの、どんな組織構想の異動だったのかは残されている文献上では判然としていない。

 

本能寺の変が起きる直前の時点までは、まだ明智光秀の異動が正式に実行されていた訳ではなく、この時点では「今後そうなる」という予定告知になる。

 

明智光秀の異動の予定公表は、反抗を続ける上杉氏、長宗我部氏、毛利氏においては、交渉の余地無しとして等族諸侯扱い(近世大名扱い。上院議席扱い)しないことはほぼ決定していたと見てよい。

 

同時に、モタモタやっていたうやむやな廷臣たちへの

 

 「もう締め切るぞ(聖属議会側の身分再統制も本格化するぞ)、だから議決権らしい聖属側の公文書を、いい加減にさっさと提出しろ!」

 

の最後の催促だったと見てよい。

 

廷臣たちの言い訳の公的教義(延暦寺)が踏み潰されて言い訳無用にされ、「皇位継承の段取り」の最後の砦まで織田政権に巻き上げられてしまっていた廷臣たちは、今までそれに頼り切って国事をうやむやにしてきた聖属議会側の旧態風紀も、これからは完全に許されない等族議会制の時代になったことを、とうとう突きつけられる日が来てしまった。

 

今までのだらしない肩書きも、だらしない権力も、政治的に織田信長に説教される形で全て巻き上げられていたも同然だった、外交大使(領事館)の体制も、閉鎖有徳の取り締まりも、有力諸氏たちへの和平調停も、中央経済の再建も、何もかも織田氏に肩代わりされないと中央は何もできなかったことも、高次元な旗本吏僚体制と前期型兵農分離の敷居ではっきりさせられてしまった。

 

織田信長から、格下げ覚悟で廷臣たちの地位(議席)をしばらく様子見してもらえるような納得させるような公文書など、今の低次元な日本の教育機関やオブジェクト指向主義者どものように、産業廃棄物の燃えカスのかき集めしかできていないのが大半の廷臣たちが、自分たちで作れるかも怪しかった。

 

もはやそれも、織田信長のことをよく理解できている明智光秀、細川藤孝らが廷臣たちを後押ししてそこを指導してやらないととても無理だった、そこが織田信長らしいあてつけなやり方だったと見てよい。

 

解った気にケンカ腰に言葉(用語)を威力的(寡頭的)に独占支配することしか能がない、時代遅れのその旧態特権にいつまでもしがみついているだけの等族義務(議決性)など皆無な法賊(偽善者)どもというのは、そういう環境(議会の場)を自分たちで用意できないからわざわざ用意し、そこで何もできない実態を突き付けても、大半はそう簡単に反省(自己等族統制)する訳がない、屈辱だのと逆恨みすることしか能がないものである。

 

権力任せ(外圧任せ)に「何を世の中の正しさ(世の中の劣情=総偽善)に逆らっとるんだ!」などと下品に汚らしくうちのめすことしか能がないただの劣情(寡頭主義)と、等族義務の寛大さ(等族主義)の区別もできたこともない、前者でいがみ合うことしかしてきていないだらしない低次元どもというのは、後者で反撃されるとそれが自分たちにできていない屈辱の苦痛を余計に感じ、余計に逆恨みし、それしか能がないからこそ余計に前者の社会観に戻そうとするものなのである。

 

前者で無茶をやり、華々しく散ることこそが男の美学であるかのような、そういうただ偉そうなだけの迷惑千万な勘違いを徹底的に嫌った、そういう所がかなり女脳的だった織田信長は、後者をされると苦痛に顔を歪ませることも全て解っていて「身の程を知れ!」のあてつけを繰り返していたのである。

 

明智光秀も、遠回しに仲介に入っていた細川藤孝も、織田信長のそういう性分をよく理解できていて、廷臣たちがそこに参っている様子に「やれやれ・・・」と冷静に見ていたのである。

 

明智光秀が本能寺の変に至った所まで今回で書き切りたかったが、分量制限の問題で次に続く。