近世日本の身分制社会(099/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか27/? 2022/06/05

 

織田氏の事績から本能寺の変の直前までの様子についての重点説明は、今回のおさらいで区切りとしたい。

 

今回で今一度、全体的な流れをざっと説明し、本能寺の変についての様子に迫っていきたい。

まず室町体制の仕切り直しをとうとう足利義輝(13代室町将軍)が始めたことで、中央の政治力もとうとう回復し始め、有力諸氏たちからも有望視されるようなった、その矢先に謀殺されてしまい、その死が惜しまれた。

 

反義輝派から中央を追われることになった足利義昭(足利義輝の弟)ら旧態たちは、越前の朝倉氏の下(もと)に逃れるが、しばらくして美濃攻略を成し、その人事改革ぶりも評判になっていた近隣の織田氏に、関心を向けることになった。

 

1568 年に足利義昭が織田信長に中央進出の協力を要請する形で、織田氏が山城(京・帝都)に乗り込むことになったが、これが戦国後期の敷居争い(裁判権争い・代表家長権争い)から、いよいよ終焉に向かう決定打となった。

1554 年に織田家を継承した織田信長が 1568 年には尾張再統一と美濃攻略(三河方面を除く愛知県と、飛騨方面を除く岐阜県)を果たした時には、もはや中央再建が可能なほどの、旧室町体制を肩代わりできるほどの旗本吏僚体制が整備できていたことが、その乗り込み後の対処力で明らかになった。

1569 年には織田氏による治安体制が中央で敷かれ、1571 年には中央の都市経済の再建に向かい、それまでボロボロに荒れ放題だった足利将軍の政局も、朝廷の建物も、寺社やそれぞれの住居なども一新されていった。

中央がまとまろうとするたびに、これまで病的な非同胞拒絶(合併アレルギー)がたびたび起きてうやむやにされてきた、今までの騒動の手口も、織田家が中央を肩代わりするようになってからは、それもとうとう克服される方向となった。

中央のあり方のを巡って、反織田派(時代遅れの寡頭主義が抜け切れていない旧態派)による一斉の噛み付きも顕著になった 1572年頃は、織田派(等族主義派・身分再統制派)たちも当初は手を焼くものの、しかし織田政権の強固な裁判権改め(等族議会制の整備)を切り崩すことは結局できなかった。

反織田派たちは確かに、織田一族や有力家臣ら重役たちを討ち取るなどの大小の損害を与えこそしたものの、その威勢も最初だけで、体制そのものを切り崩すことなど結局できなかった。

反織田側が反抗すればするほど、織田氏にはあって自分たちには全くできていなかった、高次元な国家構想(等族社会化の育成理念の品性規律)といえる議決性(手本家長の力量)の敷居差を、逆に見せ付けられてしまう結果となった。

反織田派(表向きま旧足利派)の「何を以(も)って旧室町の再建なのか」など最初から曖昧な、争えば争うほどむしろ反織田派たちの化けの皮が剥がれていく形で、「その時だけ」の威勢任せの一時的な不都合の団結など、実質3年ももたないことも露呈していく事態となった。

1572 年に顕著になった反織田派の勢いは、織田氏を切り崩すことなど結局できずに 1574 年 には大減退した時点で「中央を巡る騒動は以後二度と起こさせない」終止符が織田信長によって打たれたといってよい。

 

この時点で「今までの病的な中央騒動の繰り返しが、とうとう克服された」も同然だったといってよい。

今までそれを誰もできなかった、そこまでできる勢力も他にいなかった、織田氏だけが可能だったその敷居争い(裁判権争い・手本家長の示し合い)は、織田氏の反撃(裁判権改め)が始まる 1574 年の時点で、もう中央の覇権は決着していたも同然、後は時間の問題も同然だったといえる。

織田氏とはこれまで聖属裁判権(聖属側の議決権=有徳のあり方)を巡って、単独でも織田氏を何度も苦戦させることができていた浄土真宗のことを、「自分たちの議決性なと大して確立できていない」反織田派たちはだらしなくもそれに頼ってばかりだったことも、もはやはっきりしていた。

情けないことに反織田派の事実上の支柱は、世俗側の足利氏でも武田氏でも毛利氏もなく、聖属裁判権(聖属議会のあり方)を巡って織田氏と揉めていた、聖属側の浄土真宗たちがその主役だったことも、はっきりしてしまったのである。

長続きする訳がない(=議決性などない=敷居向上の和解のための競い合いの線引きなどできていない=不都合完結と主体都合継続の線引きなどできていない)反織田派のそのいい加減な団結(求心力・精神的支柱)が早くも崩れる形で、越前の朝倉氏、近江の浅井氏があっという間に制圧されてしまったことは、まさにその象徴だったといえる。

単独ではそれぞれ織田氏に対抗などできなかったこともいよいよ露呈した 1574 年には、若狭、越前、丹後、大和、摂津、河内、播磨、和泉、伊勢それぞれの、織田氏による支配権(等族議会制への移行)も顕著になる一方となっていく。

織田氏による中央の覇権(新政権体制)も決定的になってきていたからこそ、反織田派の世俗側の旗頭代行であった武田氏が、まだ余力がある内に慌てて織田徳川連合に決戦を挑んだのが 1575 年の長篠の戦いだが、戦国最強と評されていた武田軍はその不敗神話と一緒に、派手に粉砕される事態となる。

反織田連合の代表指揮権(議決性)など最初から曖昧だった武田氏の、威勢ばかりのそのいい加減ぶりを織田氏にとうとう粉砕されてしまった有様は「織田氏の敷居(等族諸侯の士分資格)に追いついておらず格下げも必至だったから、その時間稼ぎのために反抗していただけ」のだらしない実態そのものだったといえる。(織田信長からいわせれば)

劣勢になっていった浄土真宗たちが早期に降参してしまうことのないよう、後はそれを最後の砦に頼り切って反抗していただけの、往生際の悪いだらしない反織田派たちであったが、1580 年にとうとう浄土真宗たちが織田氏に降参・和解に動く事態を迎えてしまった、それ自体がもはや連中にとっての時間切れを意味したといってよい。

今までの聖属裁判権(聖属側の議決権)を浄土真宗にとうとう手放させた、室町崩壊以後の世俗と聖属の歴史的な対立以来から、その和解(境界確認)に向かったことは、これからは聖属側も、新政権側(世俗側)の最終決定によって戸籍謄本登録的に等族義務に見合った意見回収と身分再統制で整理・保証されていくという、近代的な法(議会制)に向かう治世の始まりが示されたことを意味する。

今まで曖昧にされ続けてきた、世俗(家長権のあり方)と聖属(教義と寺社特権のあり方)の議会的(公務公共的)な再整備・再統合によって、新政権としての等族議会制の体裁も整ったも同然だった、それは今までの荀子的独裁制(敷居向上の手本牽引)から孟子的合議制(敷居維持中心)に移行できる準備も整ったことも意味する。

上の間で何が起きていたのか理解することは難しかった当時の下々は、その意味も中途半端にしか解っていなかったが、どうにか地方再統一はできて存続できていた地方の上層たちは、とぼけていただけでその意味は当然理解していたのである。

そもそも聖属側の問題は、本来は聖属議会である朝廷(廷臣たち)がそれを議決性(等族義務)を以ってまとめ、世俗議会側と和解的に調停していかなければならなかった、それが本来はできていなければならなかったのである。

しかし朝廷(廷臣たち)は、どうにもならなくなっていた旧態の室町体制と同じく、旧態派閥利害(ただの指標乞食主義=ただの失望・劣情共有)の押し付け合いしかできなくなっていた、何かあればただ人を踏み台にし合いながら揉めることしか能がなくなっていた、何ら自分たちで議会的な敷居の仕切り直しなどしてこれなかった。

何かあれば気絶(思考停止)しながらただ騒ぎを拡散させることしか能がない、等族義務(人の上に立つ資格)など皆無な今までの中央の暴走を二度と繰り返させないよう、織田氏の旗本吏僚体制の下(もと)で保護監察扱いされる形で、その自粛まで肩代わりされてしまうことになったのである。

踏み潰された公的教義(延暦寺)のだらしなさから明らかだったように、自力信仰一辺倒(旧態のままの聖道門主義一辺倒=不都合完結一辺倒=つじつま合わせの落ち度狩り一辺倒)の課題(ただの劣情でしかない議決性など皆無な弊害)を、自分たちで克服(改善)していく最低限も自分たちでしてこれなかった、

 今まで通り(ただの指標乞食主義通り=失望・劣情共有通り)でないことに直面すれば、ただ気絶(思考停止=低次元な敷居維持)することしか能がなくなっていた、自分たちの愚かさと深刻さ

を、歴史経緯(社会心理)的に反省(自己等族統制)してこれなかった、ただ世の中(国際視野)を解った気にケンカ腰に調子に乗ることしか能がない、今の低次元な日本の教育機関と大差ない身の程知らずが、旧中央関係者らの多くの実態だった。

ただ上(自分たち・古参・今までのできごと)に甘く、ただ下(外・新参・新たなできごと)に厳しいだけ(ただ気絶・思考停止するだけ)の、そのあまりの他力信仰(=姿勢狩り=主体都合継続)不足に、深刻に抗議的に動くようになったのが、浄土教(浄土真宗の親鸞派)だったのである。

戦国前期の閉鎖有徳闘争(惣国一揆・半農半士闘争)を何ら等族指導できなかった、旧態通りの力関係の再確認(気絶・思考停止)をただ繰り返すことしか能がなかった公的教義(延暦寺)の権威失墜も決定的となり、今まで散々格下扱いしてきた他力信仰の浄土真宗に、日本の自力教義(聖属側の議決権)の主導をとうとうもっていかれてしまったのは、だらしないことこの上ない、あきれる他ない、猛反省するべき事態だったといえる。

その有様も自分たちで反省(自己等族統制)できずに、織田氏の旗本吏僚体制によって

 

 「意見総代(皆が納得するような名目・誓願の名義人)による整理提出(敷居確認)という、裁判権(議会)の基本中の基本の品性規律から始めない内から、世の中の正しさとやらのただの劣悪性癖(ただの閉鎖有徳運動)の押し付け合を始める法賊行為(偽善行為=閉鎖有徳行為)の禁止!」

 

の保護観察体制が中央で徹底されてから、やっと廷臣たちは聖属議会(朝廷)としてのその管理責任(等族義務)が自分たちにあることの深刻さに「後になって、今頃になって」気付かされたのである。

こういう歴史経緯(社会心理)は、誰しもが解った気に調子に乗る場合ではない「明日は我が身」として、そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕ある整理(議決性)の見方をしていくことがまずは大事であることは、常に忘れてはならない。

 

全て外圧任せに万事面倒がりながら、世の中(国際視野)を解った気に調子に乗りながらケンカ腰になることしか能がない、今の日本の低次元な教育機関と大差ないその愚かさ・そのだらしなさから生じる弊害の深刻さの実態を、それぞれ疑い見抜いていく姿勢こそが、まずは重要になる。(荀子・韓非子の指摘)

廷臣たちは今まで、国内の自力信仰派(旧約的な聖道門派=敷居維持)と他力信仰派(旧態への新約的な抗議=悪をただ偶像判定し機械的に制裁しておしまいではない悪人正機派=敷居向上)をまとめること(公正な意見回収=等族義務)もできていなかった。
 

今まで通りの自力信仰一辺倒をこれからも続けようとしていたその愚かさ、そのだらしなさに対し、他力信仰のキリスト教徒たちを遠回しに優遇することで、そこをあてつけに思い知らせる意味もあったのは、織田信長の性分から間違いないと観てよい。

曖昧な者も多かった旧中央関係者たちは、早い段階で明智光秀に(細川藤孝からも遠回しに)そこを早く自分たちで整理し、はっきりさせていかなければならない時期であることを催促されていても、いつまでもモタモタとそこにまとまりがない者も多かった。

どうにもならなくなった後になって、そこに気付いて慌てて自分たちで聖属議会側(朝廷)の人事改革(議席改革)をしようと思った時にはもう遅かった、その時には浄土真宗が降参・和解に動いてしまった時だったのである。

前期型兵農分離(半農半士問題の解決のための公務士分待遇の敷居の仕切り直し=等族義務・公務公共の再育成のための武家屋敷・旗本への強制収容=身分再統制)の時代になってきていた意味もよく理解せずに、ただ格下げされることの保身(ただの劣情)の一致で、その国事をうやむやに織田氏に反感的になっていただけの低次元な連中とは皆、そんなものなのである。

自分たちの「手遅れ寸前」「完全に手遅れ」線引きも自分たちでしようとしてこなかった、万事外圧任せの今の日本の教育機関と大差ない低次元な連中とは、遭遇次第の無関心・無神経・無計画な情報操作(ただの指標乞食主義=ただの失望・劣情共有)にまんまと乗せられ、それに向き合った気に錯覚しながらケンカ腰に調子に乗り合うことしか能がない、等族義務(手本牽引)の足を引っ張ることしか能がないだらしない騒乱罪予備軍(偽善者)どもなのである。

1580 年に浄土真宗が降参・和解に動いた時点で織田信長は、すぐにでも合議制の確定(すなわち織田政権の品性規律を中心に和平条約に務められない者は全て朝敵扱い)に動いても良かったが、まだ織田氏の裁判権改めの敷居に追いついていないが一定の評価はできた地方のことも考慮して 1582 年まで様子見しているだけでも、それだけでも寛大な処置だったといえる。

織田信長は、どうにか地方再統一はできていても織田氏の敷居に追いついていなかった連中のために、その和平条約の姿勢(=等族諸侯の姿勢)に向き合えるかどうかを試すために、明智光秀をその折衝役の総代(議長)に立てたのである。

1580 年には、中央を(世俗議会も聖属議会)もまとめつつあった織田氏以上の議決性(等族義務)を示すことなど、他はどこもできていないこともはっきりしていた。

 

地方の代表格たちはそれをとぼけながら、織田氏の敷居の背中を「今頃になって」慌てて追いかけながら、自分たちの格上げのための領域戦を継続しようとしたが、地方同士で敷居競争する必要などもはや失効していたも同然となっていた。

 

だからこそ、これからの議会的な和平(天下静謐)のために、織田氏が立てた折衝役の総代(議長)の明智光秀を仲介させる形で


 これからは「和解(敷居確認)を大前提に競う・やむなく争う」等族義務に順応できる

 

 これからは「今までの序列(旧態慣習)通りばかりに囚われない、自分たちで有志を積極的に発掘・育成していく人事改革(議席改革)で地位(議席)を譲り合う等族義務に順応できる

 これからは「等族諸侯(近世大名)の地位(議席)は原則、中央(織田政権)の公認制とし、士分品性資格次第の人事異動(家長指名権や移封や旗本への収容)に応じる」等族義務に順応できる


といえる、これからの時代に合った議会的(法治国家的)なその姿勢がもてるのか、地方の生き残りたちはそれを前提に今まで下々を引率してきたのか、その敷居確認ができるのかどうかが試されたのである。

 

のちの徳川政権の、江戸の旗本体制と武家屋敷制度、国替制度や改易制度といった武家諸法度(世俗側の士分制度)の大元は、織田信長がまずその大きな前身を示しておいてくれたものが、のちに工夫されながら活用された所が、これまで説明されてこなかった所になる。

 

これら制度は、武家社会の走りとなった源頼朝の武家法典(世俗側の士分家訓・御成敗式目=裁定基準)でそもそも目指されていたものだった所も、これまで説明されてこなかった所になる。

 

「こうなっていると良い」が武家法典に書かれてから、それを実現するのに結局300年かかってしまった形で、それが織田信長によってとうとう実現された、というのが正確な所になる。

その法治国家の品性規律の最低限(自己等族統制)ができていて、これからの等族諸侯(近世大名)の地位(議席)に相応なのだという所を、それぞれにそこを解らせるために試した、織田信長の性分らしいやり方といえる。

その最低限の議決性ももてていないことの自分たちの深刻さを、自分たちで仕切り直し(議会の再構築・自己等族統制)してこれなかった低次元側が、それが大前提になっている高次元側にケンカ腰になろうとすること自体が、釈迦に説法ともいうべき身の程知らずの、化けの皮が剥がされながら制裁(格下げ)されて当然の愚行なのである。

のち中央選挙戦(清洲会議と賤ヶ岳の戦い)を果たした羽柴秀吉もまず、この等族社会化(法治国家化)の原則をよく理解できていたからこそ、それを天下総無事令の基本概要として世に向けながら、全国の仕置き(裁判権改め)の巡回を始めている所も、かなり重要な要点となる。

その敷居は中央の廷臣たち(現役的な皇室の外戚たち)にも、当然のこととして向けられていた。

 

浄土真宗が織田氏に降参・和解に動いた 1580 年から、しばらくの 1582 年までのこの期間が、これからの時代に合った等族議会制の地位(議席)に見合うだけの議決性(等族義務の器量・人の上に立つ品性規律)がもてているのか、「これから」についてはともかく「今まで」のそこがそれぞれ試された、最後の機会だったといってよい。

 

こういう状況になると、この世の終わりが来たかのようにいとも簡単に錯乱・気絶(思考停止)するような今の日本の教育機関と大差ない気の小さい低次元どもというのは、全て外圧任せにケンカ腰に調子に乗ることしか能がない「今まで」の過ごし方しかしてこなかった法賊(偽善者)どもだった証拠なのである。

 

世俗と聖属の境界も曖昧で弊害ばかりだった旧態(寡頭主義)通りは、これからはもう許されない、そこが仕切り直されたも同然になっていた織田氏の等族議会制(国際文化技術交流を前提とする国家構想)を上回る目標(名目・誓願)など、どこも掲げられていなかったことは、上同士でははっきりしていた。

まさに

 「お前らは、時代遅れの富国強兵の国内戦(ただのイス取り合戦)を、いつまでやっとるんだ!」

恫喝する高次元側(等族諸侯の品性規律に相応か裁定する家長側=指導する側)と、それを恫喝される低次元側(裁定される分際側=再指導が必要な側=武家屋敷に強制収容されなければならないだらしない側)の差である。

 

ここは西洋の帝国議会でも同じ、16世紀では等族議会制の品性規律による典礼(家格裁定)を得られるような議決性の貢献(敷居確認を前提に競う議事録)も無しに、ただ騒動に便乗して手柄さえ立てれば領邦君主(地方・地域の代表家長)になれるかのような時代は、もはや許されない転換期になっていたのである。

下々(次代たち)のためにも中世(寡頭主義)から近世(等族主義)に移行しなければならない、それを巡る進退もいい加減に上同士ではっきりさせていかなけばならない時期だと織田信長が導いてくれた 1582 年に、あの本能寺の変が起きたのである。

19世紀の幕末は、そもそも織田信長の時代の、この等族社会化(法治国家化)の16世紀の大転換期を人類が一度体験していた上でのことだったという重要な指摘が、これまでろくにされてこなかった。

19世紀までの江戸時代は、規制ばかり厳しくてもその産業文化の成長もあなどれなかった、法治国家らしい経済社会問題の体験も経た上での幕末の転換期だった所で、16世紀の時とはだいぶ違いがある。

それと比べ16世紀は、やっとそこに向かい始める(室町の大経済社会崩壊後と惣国一揆=閉鎖有徳闘争が反省された)議会制(等族義務など皆無な上下権力闘争を止めさせるための議決性=手本家長のあり方)の敷居が競われた時代である。

19世紀までに人類が体験してきたことに比べて16世紀では、まだその前段階の「世俗全体も聖属全体もこれからは世俗側の裁判権(戸籍謄本登録=身分制議会)を最終議決として統治していく」という、近代的な法治国家の前身にようやく向かった時代だったという、19世紀どころではない大変さがこれまでろくに指摘されてこなかった所になる。(大幅な政教再整備)

日本では13世紀に、今までの聖属政権主導(皇室・朝廷政治)からとうとう世俗政権主導(武家の棟梁による代行政治)への切り替えが始まったが、それを受けた聖属側の改革としても、今までの自力信仰一辺倒(聖道門主義=公的教義一辺倒)と決別の、他力信仰重視の浄土教(源空と親鸞)がついに登場した様子だけでも、確かに大きな変容はあったといえる。(キリスト教側は真逆で、今までの他力信仰一辺倒に自力信仰主義が芽生えて16世紀に抗議されるようになった)

しかし近代的議会(法治国家)の前身といえる等族議会制への切り替え(厳密には、今までそれをやった気・できた気に調子に乗るばかりで、全くできていなかったことがようやく上から反省された)まで、つまり中世(寡頭主義)から近世(等族主義)に移行するまでに、日本も西洋も結局300年かかったのである。

戦国後期には、とうとう西洋人たちが中国大陸側の権威を介すこともないまま日本列島まで直接渡海してきて、無政府的に(日本の政体としての明確な領事館も無しに)世界的な文化交流が始まってしまったことは、これは良い面も大きかったが、後でどうにもならなくなる悪い方向に進む危険性もあった。

その深刻さも含めた議会制の敷居競争(裁判権争い=手本家長の示し合い)を16世紀にやっとするようになった、その転換期だったことを考慮すると、13世紀の転換期はその序章だったに過ぎない。

本能寺の変は、織田信長が今までの禍根を全て償却するために、何もかもを強制的に意識改革的(人事改革的)に大幅に改める動きにとうとう出た、それがあまりにも偉大過ぎた、それをされてしまっては皆がますます気まずくなることも上の間では理解できていたからこそ、起きてしまった事変だったといってよい。

織田信長は最終的には、上としての等族義務はいずれは、そこは上から下まで関係なく全て浸透させ、公務士分においては最終的には出身序列に関係ない、国際文化的な人選議会制にしていかなければならないという

 公務士分(等族義務・手本牽引)のあり方においては「知る必要のある支配する側と、知る必要がない支配される側」の構図などという、寡頭主義(中世・閉鎖有徳)の原因となる時代遅れの境界など、以後作らせてはならない

という、下々にあまりにも寛大すぎた、そこがまるで19世紀に芽生え始めたような民権国家的すぎた合議制(最低限の敷居維持)の敷き方を、16世紀にいきなり始めようとした。

そもそも織田信長の施政自体が、どれも人類史を大いにひっくり返すも同然なやり方だったといえた、今までのその意味を、この後に及んで世界(国際)に視野を向けようともしない者も多数だった廷臣たちは、明智光秀、細川藤孝、旗本吏僚たちの仲介や保護観察のおかげで、どうにもならなくなった後になって、やっとそこに気付き始めたのである。

 

来たるべき新時代の合議制も、気付いた時にはそこに進んでいたことに「後になって、今頃になって」慌てた結果が、事変に進んでしまった原因だったといってよい。

その意味で本能寺の変は、その議会制の意味を、少しは中央に解らせることまでしたからこそ起きてしまったという点で、今までの中央のただのうやむや騒動とは少し違う、少し特殊な社会現象だったといえる。

これからの上の地位(議席)の敷居は、議決性の示し合いが徹底される前提で

 

 「必要に応じて総解散・総辞任を前提に、議会を仕切り直す(譲り合う)基本中の基本を、まず上からできなければならない」

 

の合議制が前提になっていないような、今までのようにただ世の中(国際性)を解った気にケンカ腰に地位(議席)に居座り続ける体質は、もう許されない新時代の前例の合議制の姿に、仕切り直されようとしていた。

そこに全くついていけていなかった中央は、その合議制の確定作業の直前の土壇場に、その意味にようやく気付いたような有様だったことは、本能寺の変における曖昧さからも窺える所になる。

そもそも織田信長がなぜ、現代から観ればこうした近代先進的な、どれも議会制の理に適切な発想がもてていたのかについては、その性分と当時までの歴史経緯(社会心理)に関心さえ向ければ、そのカラクリ自体は別に異常でもなんでもないこととして、そこは改めて後述したい。

旧中央関係者らは、織田政権に保護監察を受ける形で今までのうやむや騒動を規制してもらわなければ、自分たちで中央議会の再整備など何ひとつしてこれなかったこと、そして今まではそれが許される言い訳(指標乞食主義=失望・劣情共有)の温床にしかなっていない公的教義(比叡山・延暦寺)のまやかしの存在も、とうとう巻き上げられ(踏み潰され)てみて、やっとそこに気付かされたような有様だったのである。

 

よそのそういう所が見えた時こそ「明日は我が身」として気を抜いてはならない、そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕ある整理(議決性)の見方で、自分たちで常に疑い見抜いていかなければならない所になる。

 

織田信長の親心(上としての等族義務=手本家長としての器量)でそこまで面倒を看てもらわなければ、自分たちの愚かさだらしなさを思い知ることもできなかったことも、既成事実的に明確にされてしまったも同然だった。

織田氏の中央対策は「少しでも反感的な態度を見せようものなら、なんでもかんでも粛清的に討ち入りする」というような「恐怖の植え付けと利己のチラつかせ方」に頼ったような、今の日本の教育機関と大差ない戦国前期(寡頭主義)のようなだらしない低次元なやり方などはしなかった。

織田氏による保護観察の対応によって、中央の今までの暴走をすっかり抑え込むようになった中、やろうと思えばいつでも粛清できても、今まで通りのただの劣情の挑発にまんまと乗せられることになるのと同然のような、その今まで通りの手口に乗せられることなど一切なく、議会制の重視が強調され続けた所に、中央は思い知らされてしまった。

 

そこに大きな違いを見せ付けられてしまった所こそが、今まで低次元な考えしかできていなかっただらしない廷臣たちは、後になってそこに屈辱的に堪(こた)えることになったと観てよい。

織田信長の旗本吏僚たちへの指導は

 

 「旧中央関係者どもの低次元な劣情の挑発・甘言・妄言は、絶対に乗せられるな! 惑わされるな!」

 

 「そこを常に疑い見抜く等族義務がこちらにはあり、それがない向こうとの違いを見せ付けてやることを、絶対に忘れるな!」

 

 

 「言い分があるならまずは和解(敷居確認)が大前提の意見総代(その名目・誓願の代表名義人の議長)を立て、その言い分の整理提出から始めるという、本来の国際的な議会(等族義務があるといえる議事録確認)の順番を守れ。話はそれからだ!

 

の基本中の基本が徹底されていた。
 

織田氏のこうした体制は、これは孫子の兵法でいう所の諜報機関(情報統制)を操る側の姿としても、本来の組織の規律としてまず身内で上からこうした取り組みができていなければならない、それが最低限の基本であることとして、重々指摘されている所になる。

 

「情報」の元々の意味はその字にある通りに、その「報(知らせ・周知)」がもたらされれば、どの現場だとどのような「情(反応)」として現れるかを確認するための、諜報的な言葉だったことが解る。

 

 「今までと違う! もしそれが正しいというなら、今まで我々が信じてきた正しさはどうなるんだ! どうしてくれるんだ!」

 

のみの、自分たちの議決性など何ひとつ大事にしてこれなかった今の低次元な教育機関と大差ない、末期症状の猿知恵(失望・劣情)通りでなければただ腹いせに気絶(思考停止)し合うことしか能がない、だらしない情(反応)しか見られない低次元側

 

 「その件については我々では、以前から議会的によく敷居確認し合うことができており(等族義務の品性規律でその経緯も確認できる議事録=公文書・誓願書も存在しており)、その指導による規律も我々の間では浸透済みだから、どの場合だとどうなのか(本当か嘘か誤報か、相応か不相応か)も皆も、大体は認識できている」

 

と冷静さを以って、普段からそれを確認し合う現場ごとに合った指導体制が相手よりもできているその敷居差で、どんどん開いていってしまう所になる。

 

そうなる前段階として、自分たちにしても相手にしてもどの程度の対応力(組織構想力・目的構築力)があるのか、まずは「報」が向けられたことによるその情(反応)によって、その敷居・水位を窺い知ることができている側、つまりその段階からの状況回収・対策・整備をしていける高次元側と、自分たちでそれを全くしてこれなかった万事外圧任せの低次元側との差となる。

 

「報」次第で

 

 いとも簡単に総崩れを起こすような情(反応)しか観られないだらしない集まり

 

 

 「それは本当なのだろうか。よし、我々の中にもそこに詳しい者や、それを整理しながら交渉もできる優れた者もいるから、とりあえず確認させてみよう」

 

 

 「おいおい、向こうはあんなに進んでいるのに、我々のやっていること(結論付けの仕方=敷居確認の仕方=議決性のあり方)は遅れているぞ!」

 

といったように、競争相手をただ敵視するのみではなく、敷居に危機感(見習い合い)を以って自分たちでも順応していこうとする気概を、自分たちで少しでも大事にしようとしているのか、それだけでも大きな違いになってくる。

 

競争相手を切り崩すにせよ、自分たちを矯正(敷居向上)するにせよ、報の情(反応)による敷居・水位の探(さぐ)り合いからまず始められているかどうかが情報戦の基本中の基本であり、それが普段からの自分たちの基本的な組織構想(裁判権・議会制・等族義務の敷居)の競争差として大きく開いていってしまうことを、孫子が強調している大事な部分になる。

 

旧態古参的(寡頭主義的)な低次元な情報統制のままであることを、次世代的(等族主義的)な情報統制を自分たちでしようとしている高次元側はその愚かさ、そのだらしなさを疑い見抜くことができるようになるからこそ

 

 弱みの急所(それがなければ自分たちの議決性・品性規律など皆無な最後の砦)を攻める高次元側攻められる低次元側 = そのだらしない精神的支柱を粉砕する側粉砕される側 = 天狗の鼻をへし折る側へし折られる側 = 格下げする側格下げされる側

 

の優劣差になってくるその深刻さも、理解できるようになっていくのである。


その政治精神的な情(敷居)を牽引していくための等族議会制(国家理念・組織構想のための議席人事改革)に務めることができる高次元側と、それが皆無な低次元側との、その力量差が織田氏によってはっきりされてしまう日を、日本は迎えてしまった。

 

だからこそ今までの旧態慣習も大幅に償却処分(減価償却・撤廃・身分再統制)されて当然というその意味を、それができていなかった連中が「後になって、今頃になって」自分たちに議決性(等族義務)など皆無だった自分たちの深刻さに「どうにもならなくなってから」ようやく気付かされるのが、低次元側の実態なのである。

 

「自分たちに議決性など皆無だった既成事実」がはっきりしてしまってから「それがあったことにする既成事実作り」のための時間稼ぎに、明智光秀に事変を起こさせたのは間違いないと観てよい。
 

これまで 1582 年までの日本の転換期の様子を長々と説明してきたが、その歴史経緯(社会心理)さえ大体把握できていれば、本能寺の変の性質を知ることも、そんなに難しい話でもない。

 

1582 年は織田信長も「今まで」についてはいよいよ見切りをつける、つまり合議制の確定作業を始める意向を明らかにしたのが、事変が起きる直前にされた、明智光秀の人事異動についてになる。

 

旧中央関係者たちも、地方の諸氏たちも、日本静謐(日本再統一)のための和平条約の機会として、明智光秀という折衝役の総代(議長)が立てられる形で試されたものの、それぞれがそれに向かって議決などできなかったと、織田信長に裁定されてしまったことを意味する。

 

それまでの歴史経緯(社会心理)を重点的に紹介しておかないと、筆者が説明したい「織田信長はどんな予定をしていたのか」の話をしても全く伝わらないと思い、その最低限の説明が必要と思い、今までその紹介を重点的に続けてきた。

 

しかしそろそろ、その説明も最低限はできているように思えてきたため、次はいよいよ、本能寺の変に関する織田信長や明智光秀の動きがどのようなものであったのかの話に、移行していきたい。

 

ただし、織田信長や明智光秀の動きがどうであれ、それよりもまずはその歴史経緯(当事者性の社会心理)について把握できるようになることの方が、遥かに大事であることをここで強調しておきたい。

 

その基本を地道に詰めていくことが、今まで見えていなかった所が段々と見えてくる近道だということを、とにかく強調しておきたい所になる。