近世日本の身分制社会(098/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか26/? 2022/05/22

 

今回は織田信長本人と、その賢臣であった明智光秀本人は、まずどんな立場だったのかかをおさらいしながら、その様子の説明をこれまで通り続けていく。

織田信長の抜擢人事としてまずは、当時でも今でも強く注目されたのが木下秀吉(羽柴秀吉・豊臣秀吉)だが、少し先述で触れたように明智光秀も当時は同じくらいとだったといえるほど、特異だったことが見落とされがちになる。

織田信長は旧態改めの一環として、上は旧態側も古参側に厳しくなる一方で、下は古参・新参に関係ないこうした抜擢人事が特徴だが、中でも木下秀吉と明智光秀の2名が目立った所になる。

のち羽柴秀吉が天下総無事に着手し、中央政権であることの強調として巨大かつ壮麗な大坂城を建造した時には、諸氏たちは「とても自分たちでは、ここまでの優れた巨城など造れなかった」その力量差を改めて思い知らされることになった。

西洋人たちも、日本人の土木建築技術は元々高かったことの認識はしていたものの、羽柴秀吉とその優れた家臣たちの指揮の下(もと)に建設されていったこの壮大な大坂城を見て、その技術力の高さに改めて驚くことになった。

豊臣秀吉と名乗りを変えて天下に君臨して以後も本人は「自身は半農半士の最下層の下っ端あがりであり、それらの味方である」を強調し続けたため、その印象を強く後世に残すことになった。

明智光秀も、羽柴秀吉ほどではないにしても出身は決して高かったとはいえず、地元の美濃(みの。岐阜県)の名族層(明智氏の本家筋である土岐氏や、その親類次席扱いの斉藤氏や長井氏ら上層)から認知されていたかどうかも怪しい、その陪臣(ばいしん。序列が低くなっていく家来筋の家来筋)出身になる。

明智光秀は、臣従を迫られるようになっていた有力諸氏らと、旧中央関係者らと、織田氏との交渉役の窓口になっていたことからも、部将格(師団長格)となった羽柴秀吉をさらに少し上回る幹部扱いだったといえるほどの、異例の抜擢だったといえる。

羽柴秀吉は上から下まで強く注目されていたのに対し、明智光秀の場合はどちらかというと、それまでどうにか士分待遇を維持していた、地位は大して高くはなかった下士官層から、まずは注目されていたと見てよい。

最初は協調路線だった足利義昭と織田信長が、中央のあり方を巡って対立するようになった際には、表向きは幕臣扱いであった明智光秀の扱いを巡る入札合戦のようなものが行われるが、これがどんな重要な意味があったのかが見落とされがちな所になる。

 

これは織田信長が、足利義昭に対してだけでない、近隣の有力諸氏たちの当てつけも含めた、他ではとてもできないような派手な抜擢の予定の宣告になる。

 

つまり、そのような人事改革(議会改革)の体制ができている高次元側と、そこまでできていない低次元側の敷居の違いを思い知らせる形で、今後の中央議会をまとめられるのかも怪しい足利義昭派(旧態派)どもの面目を、大いに潰したのである。

旧中央関係者たちが自分たちで人事改革(議会改革)が全くできておらず、揉めてばかりいたのを織田信長が止めさせる形で中央に乗り込み、その見事な旗本吏僚体制によってついに、中央議会が仕切り直される日が到来した。

 

それまで誰も立て直すことができなかった、かつての中央の都市経済と、それを維持するための治安(裁判権)もとうとう再建されてしまった。

 

ボロボロだった京の寺社も、朝廷や皇居も全て立派なものに立て直すこともされた、それを織田信長に見事にやられてしまった格好となった。

 

織田信長の旗本吏僚体制がもち込まれたことによって、ついに中央の仕切り直しが始まってしまったことは「自分たち(旧中央関係者たち)でそれをしなければならなかった所が、ろくにできていなかった」ことが動かぬ証拠として具体的に露呈してしまったことを意味する。


そこに危機感をもっていた少数の有志たちの足を引っ張り続けることしか能がない、今の日本の教育機関と大差ない低次元な中央関係者どもの大半は、

 

 ただ権威(面目・世間体)を失うことを気にすることしか能がない、その末期症状の猿知恵(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)通りでないことにケンカ腰にうちのめし合うことしかしてこなかった法賊(偽善者)ども

 

 自分たちのその低次元なだらしない旧態体質(時代遅れの資本観念)に、自分たちの議決性を以って自分たちの敷居を仕切り直していくという最低限の示し合いも、自分たちでできたことがない法賊(偽善者)ども

 

なのが、いつの時代もそれが実態なのであり、まさに中央の化けの皮がとうとう剥がされてしまった(だらしない急所の精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまった)歴史的瞬間だったのである。

 

織田氏のような高次元な存在が出現してしまい、化けの皮が一気に剥がれれば、それにただ反感をもち始める(劣情で結託し始める)ことしか能がなくなっている自分たちの愚かさも、自分たちでもはや認識もできなくなってしまっているものなのである。

 

この歴史的経緯(社会心理)の重要な構図は現代でも、個人間・組織間・国際間でもそれぞれの競合内容によって規模も変わるだけで、同じありがちな共通点である。

 

今の日本の教育機関と大差ないような、世の中の正しさとやらの低次元なただの寡頭主義の偶像権威(末期症状の猿知恵)でケンカ腰に調子に乗り合うことしか能がない、そこに議決性の敷居確認など皆無な実態を自分たちで疑い見抜く最低限もしてこれなかった低次元同士が、圧倒的な高次元がとうとう出現してしまった際に、すぐに順応できる訳がないのである。

 

 自分たちの敷居確認を自分たちで議決性を以って、自分たちの敷居の低さ(自分たちの愚かさとだらしなさ=自分たちの無神経さ・無関心さ・無計画さ)からくる自分たちの弊害を、自分たちで仕切り直す

 

ことなど自分たちで何もしてこれず、万事外圧任せにケンカ腰にその足を延々と引っ張り合うことしか能がなくなっている、肝心な時に何のあてにもならないだらしない低次元な法賊(偽善者)どもがいつの時代も9割以上だと常に思っておくくらいが良い。

 

その歴史的経緯(社会心理)に、まずは誰しもが「明日は我が身」で向き合う姿勢が重要になる。


中央の最後の希望であった足利義輝が、不真面目な連中(劣情共有することしか能がない連中)によるうやむや騒動で暗殺され、中央を追われた弟の足利義昭を始めとする義輝派たちは、最初は越前の朝倉氏を頼ったが、尾張再統一に続いて美濃攻略を果たして評判になっていた織田氏に頼ることになった。

織田氏は、足利氏の中央再建を援護するという表向きの形式を採ったが

 「今まで中央で何かあればただ騒ぐばかり、ただ揉めるばかりで、実質自分たちで中央議会の再統一などしてこれなかった」

その繰り返しだった中央についに終止符を打つ前提で、織田信長が中央をとうとうまとめ始めてしまった。

 

それが実際にできるだけの高次元な等族議会制(身分再統制・裁判権改め=家長権改め=資本観念改め・国家構想)の整備ができていた織田氏の様子に、旧態のままの旧中央関係者らも、同じく近隣諸氏らも自分たちの立場(権威)が全くなくなった、その多くはだらしなくも保身(地位・議席の維持)に慌て始めた格好になる。

中央では親織田派の有志たちと、反織田派のいい加減な旧態の小心者(偽善者)どもの構図で遠回しに議会的(選挙的)に分かれ始め、明智光秀の扱いを巡って織田信長と足利義昭との間で揉めた際にその対立構図の人事が注目されると、織田信長によって

 「明智光秀のような、見所のある有志をこのように抜擢(人事改革)するだけの裁判権(等族議会制)の整備(地位・議席の仕切り直し)も自分たちでできない、その家長指名権(武家屋敷への強制収容や領地特権の再手配)もろくに確立(身分再統制)できない旧態の低次元な格下どもは、それができている高次元な格上側に対し、何を偉そうに人材の合格・失格の指図をしようと(手本家長ぶろうと)しておるのだ!」

とその一件を機に、公益信用(等族義務・敷居向上)利己信用(道義・敷居維持)の等族統制(その線引きや、その敷居の仕切り直し)も自分たちでできたこともない、今の日本の教育機関と大差ないような身の程知らずの低次元な反感派(偽善者)どもは、そこをガツンとやり返されてしまったのである。

今まで中央をまとめきれなかった旧中央関係者らを肩代わりするようになった織田政権から、見所のあった明智光秀はその時から

中央の人事改革の象徴として政治的(議会的)に善用されることになっていたことからも、かなり特異な存在だったといえる。

織田氏の高次元な敷居(身分再統制)がとうとう中央にもち込まれるようになったことで、今まで議決性が曖昧なままだった士分待遇を、今後維持できるか不安になっていた者たちや、それをきっかけに意欲的になっていた有志たちにとっても、この明智光秀の急抜擢は、それらにかなり見本的(基準的・敷居的)な注目が向けられるようになっていたと見てよい。

しかし一方で、今まで中央も地方もどこもまとまりも欠けていたことで、下々は今までそれに振り回され続け(失望し合うことを強要され続け)てきた中、織田氏の前期型兵農分離(閉鎖有徳禁止の身分再統制=士分待遇・公務武士団の仕切り直し)が敷かれるようになった地域だからといっても、下々が上の事情(敷居争い=裁判権争い)をすぐに理解しようとすることは、どうしても難しい所になる。


羽柴秀吉は半農半士の下っ端の最下層出身を強調し、代わって中央の代表格に立つようになって以後も「自身はそれらの味方である」を強調し続けたからこそ、当時の一変していった上からの身分再統制(議会制・等族義務)の様子がよく解らなかった下々も、元々の出身の低さの親近感で、全国的に注目され続けた。

しかし一方で官僚筋のように異例に昇進していく形になっていった、元の地位は低くても表向きは旧室町幕府の幕臣扱いからの見本だった明智光秀の立場は、下々には依然として解りにくかったと見てよい。

織田領内の身分再統制(前期型兵農分離)で、正規常備軍側の士分待遇枠に結局入れなかった、それまでは地域ごとで勝手な上下権力を維持してきた半農半士たちの多くは、今まで自分たちの生活権を維持する(蹴落とし合う)ために名族出身の一員であることを大げさに自負していただけで、その多くは等族義務(地方議会の公務公共の議席)の実質の実務者(等族諸侯)の実感などは皆無だったからこそ、明智光秀の立場をすぐに理解することも少し難しかった所になる。

改革期としての政治的(議会的)な地位(議席)の意味についていえば、羽柴秀吉の立場も下々は理解が難しかった所になるが、ただし半農半士の下っ端出身だった強調での同胞意識はもたれ、

 「今まで失望ばかり押し付けられ、意欲を奪われ続けてきた社会的弱者側の救済が始まり、今までただ威張り散らしてきただけの面倒見の悪い社会的強者側が監視される時代、うちのめされる時代となった」

そのお偉い様の象徴だった羽柴秀吉は、そこだけはなんとか理解されていた。

少しややこしい話だが明智光秀は、室町将軍家である足利家(室町時代までの武家の棟梁の家系)の奉公衆(ほうこうしゅう。側近衆・旗本護衛軍の重臣筋)のひとつである、三淵家の家来(三淵藤英の弟の細川藤孝の家来。みつぶち ふじひで)だった経緯から、この奉公衆の衰退も著しくても、明智光秀は表向きは旧幕臣筋扱いとされていた。

先述したが、明智光秀も羽柴秀吉も共に

 

 「これからの時代の国家再建(等族議会制)の敷居に関心をもって貢献しようとする有志なら、いくら出身が低い新参であっても個々に抜擢や、またその地域自体、その宗派自体も、古参・新参に関係なく優遇されるかも知れない機会も十分にある

 

その意欲奨励の見本にされていた。

どちらかというと古参組(織田氏の尾張再統一から美濃攻略の期間)の中での特異な出世頭だった羽柴秀吉と、一方で新参組(織田氏の近江・山城進出以後)のしかも旧態筋からの特異な出世頭とされた明智光秀とで、それぞれ際立たせる見本の意味も、この2人は任されていたといえる。

そしてこれも少し先述したが、旧態筋からは本来なら「将器にも機知に富んでいたが控えめで、文化交流の品性にも優れ、皆から一目置かれていた」細川藤孝がその立場となってもおかしくはなかったが、ただし織田信長の構想の負担をいきなり全て負わせるには、あまりにも重かった。

そのため、見所があったが地位が低かったこの明智光秀がうってつけの人材として、ありえない急抜擢をさせる形で、中央の仕切り直しのことで何かあったときに細川藤孝に非難が集中しないように、その負担がかからないように工夫された計画的な人事だったことは、まず間違いないと見てよい。

それまでの中央の事情を知り、織田氏に協力的だった細川藤孝は、自身の家来のはずであった明智光秀を自身の上官に仰(あお)ぐ形を採らされるという、その家長権の逆転の構図は、今までの低次元な旧態主義のままのだらしない連中であれば、ここでただ屈辱的にくやしがる所になる。

しかしこれは、品性があって情勢もよく理解できていた細川藤孝のことを織田信長も見込んでの、旗本吏僚たちも加わった内々で打ち合わせされた上での、当時の中央の事情に配慮した計画的な人事だったことは間違いない。

その構図で遠回しに細川藤孝も、織田政権の重臣並みの優遇がされていくが、そこもできるだけ目立たせないよう、織田氏による中央裁判権改め(中央議会改め)についていけない連中による、中央内のだらしないひがみと錯乱の全責任が細川藤孝に殺到しないように、何事も明智光秀を前面に出して強調するやり方がされた。

その分だけ、明智光秀にのしかかった負担は相当なものだったと容易に予測できる所になるが、人物的にも優れていた明智光秀はそこを重々に覚悟していた上で、まさにその苦労人として不満のひとつも漏らさずに、皆のためになるように、今後の日本のためになるように、まずはその手本としてとにかく奔走した。

本能寺の変の起きる 1582 年の少し前には、細川藤孝も丹後(たんご。京都府北西部。今の宮津市方面)を丸ごと一ヶ国の支配代理、つまり上席の等族諸侯扱い(近世大名扱い)にさっそくされていることからも、それまでの信任と貢献の大きさが窺える所になる。

その本家筋であった、旧室町体制でかつて最も力を有していた執権の京兆家(けいちょうけ。細川氏の本家筋。三淵氏はこの細川家と近い親類関係だった)である細川昭元(あきもと)は、衰退も著しかった中、中央進出した織田氏に早めに帰参したために遠回しに優遇的な保護を受けることになったが、人物として優れていた細川藤孝はその本家筋よりも厚遇されたことは明らかだった。

この構図は他にも、廷臣の上層の山科言継(やましな ときつぐ。情勢をよく理解できていた公正な優れた人物だったが 1578 年に亡くなった)、近衛前久(このえ さきひさ)、また敵意を控えめに廷臣たちをなんとかまとめるようになった観修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)らその他に対しても、それと同じ配慮があったとすらいえる。

今後に対応できる中央議会に切り替えていく上で、今まで自分たちで再統一(再選挙戦・議席の仕切り直し)できていなかったのを、ただ一方的に迫るばかりでは大変だろうということで、廷臣(朝廷=聖属議会)の間でもそれぞれのその上層に全責任が一気に向いて錯乱することがないよう、それら折衝役の明智光秀を前面に出していく配慮されていた所が、どういう訳か見落とされてきた所になる。

織田信長は確かに、頼りない廷臣たちに上から順番に厳しさは向けてはいたものの、一方でそうした配慮(等族義務)も十分にした上で保護監察の厳しさを強めた所が、議会的(等族社会的)に優れていたといえるのである。

織田氏に支配下扱い(身分再統制)され始めた近隣から、閉鎖有徳(半農半士たちの勝手な格上げ結託運動)禁止(前期型兵農分離=士分待遇と常備軍資格の敷居の仕切り直しと武家屋敷の強制収容)を手始めとする旧態改めの、目まぐるしい上の敷居の変容の事情など、普段は上のことなどなかなか理解する機会も乏しかった下々から見ると、羽柴秀吉はともかく明智光秀が抜擢されていった意味は下々にはすぐには理解できずに、異様に見えていたのは間違いない。

旧中央関係者らでも特に、上層の事情をよく理解できていなかったそれぞれの部下たち(家来筋たち)の内々の不満は、織田信長と明智光秀の2人に強く向くことになったのも間違いないが、これはそうでもしないとまとまるのもまとまらないから、むしろそう仕向けた織田信長の親心(器量)ある配慮(等族義務)だったともいえる。

 

そこがまさに、それだけの余裕ある親心(日本全体の手本家長の姿勢)で取り組める圧倒的な高次元側が、そんな余裕などない、ただ自分(古参・上)たちに甘くただ人(外・下)に厳しいだけのだらしない低次元側を上から矯正していかなければならない構図の、大きすぎた深刻な力量差なのである。

 

その深刻な力量差も自分たちで判断できなくなっている、ただ世の中を解った気にケンカ腰に調子に乗ることしか能がなかった、中央としての最低限の等族義務(手本牽引=社会的説明責任・国際的指導責任)を自分たちで何ひとつ果たしてこれなかった、今の日本の教育機関と大差ないだらしない低次元どもというのは、

 圧倒的な高次元の敷居を向けられてしまってから、それに何ら対応できなくなっていき総崩れになってから

 自分たちが手遅れ寸前なのか、完全に手遅れなのかの区別(線引き)も自分たちでできなくなってしまってから


という、どうにもならない事態になっても、今までの自分たちの無神経・無関心・無計画な愚かさ(時代に合わない過去の資本観念の押し付け合い)を延々と繰り返そうとする、自分たちが抱える弊害の恐ろしさと深刻さに、そう簡単に自分たちで向き合おうとする訳がないのである。

 

そんな連中がいつの時代も9割以上であり、上(中央)がその旧態のままの弊害を鬱積させていくばかりだった当時の日本を、何がなんでも等族社会化(法治国家化)させていくために、誰かが等族義務を以ってそこを矯正しなければならなかった。

 

西洋人たちが九州に上陸し始め、今までの中国大陸側の表向きの権威も、日本の中央権威も介す必要もなくなったまま、上から下まで世界的な文化交流が始まりつつあった中だったからこそ、中央(日本全体の世俗議会と聖属議会)のあり方もいい加減に、早急に立て直さなければならない、日本全体の深刻な国事の問題に来ていたのである。

 

旧中央関係者の中には、その深刻さに気づいている者がいても、自分たちでどうすることもできないから結局とぼけるばかり(等族責任を追及されるのを恐れるばかり)の小心者も多かった、そこがむしろタチが悪くなっていく所も、いつの時代も実態はそんなものなのである。

 

その敷居の底上げが実際にできた織田信長のことも、それを支えられる理解者だった明智光秀と羽柴秀吉のことも、それに向き合う親心(手本家長としての器量)の余裕など皆がないからこその以後の緘口令(かんこうれい・風評弁慶対策)の歴史的経緯(社会心理)の都合もあって、その難しさもしっかり伝わらなくなってしまった所になる。(後述)

議決性(法治国家の品性規律)といえる手本礼儀を示し合う(見習い合う)ことなど一切してきていない、その旧態権力(時代に合わない過去の資本観念の低次元な敷居)が一掃されれば(巻き上げられれば、仕切り直されれば)

 それがなければ自分たちで何もできない、自分たちに何ら力量(議決性・等族義務=社会的説明責任力・国際的指導責任力)などないこともはっきりしてしまう、最後の砦の急所になってしまっている深刻さの自覚(自己等族統制)もできなくなっている

ような今の日本の教育機関のような、議決性など皆無なだらしない劣情(末期症状の猿知恵の負担=弱みの急所)で世の中を解った気にケンカ腰になることしか能がない法賊(偽善者)どもも疑い見抜けない時点で、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉らの立場など理解しようとする訳もなければ、自分たちで等族社会(国際人道観といえる議決性)の敷居確認に向き合おうとする訳もないのである。

中央改革は、織田信長と明智光秀の2人がまずは手本的に、その逆恨みの鬱積もこの2人で全て背負おうとし、そして旗本吏僚たちもそこを懸命に支えることになったのが、まずは実態なのである。

その構図自体がもはや

 それをただ逆恨みすることしか能がない、手がかかるばかりのどうしようもない老けたダメ息子(旧態のままの中央関係者)たちの面倒も看なければならない家長側の親心

というほどの敷居差の実態だったとすらいえる。

 

中央改革においてはまずは織田信長が、さらには「皆のために」とその折衝役に懸命に動いてくれた明智光秀のおかげで、やっと旧中央関係者らも手遅れになってから、自分たちの今までの愚かさに「取返しがつかない後になって、今頃になって」少しは気付かされていったのである。


しかしそうなったからこそ、だからこその土壇場になって起きてしまったのが本能寺の変であったことの、その少しややこしい歴史的経緯(社会心理)も順番に説明していきたい。

この構図は19世紀の幕末でも、旧態権力(鎖国規制政策)を無視し始めて世界情勢に深刻に向き合うようになっていた維新の有志たちと、今まで通りの武家社会のままの地位(議席)で居座り続けようとしていた連中とで分かれ、倒幕という形で高次元側の前者低次元側の後者を降参させていった、その敷居の構図が類似している所になる。

上から順番の制裁判決なら問答無用で良くても、ただし情勢を掴む機会がいつの時代も常に奪われ続けがちな多くの下々にまで、ただ勢い任せに、ただ力任せに全て粛清すればいいというものではない所が、人事改革(議席改革)の難しい所になる。

上から下まで「もうそんな時代は終わったのだ!」という所を等族社会的(国際品性的)に強調する議会改め(裁判権改め)で認識(自己等族統制)させていくやり方も、観念的に浸透させていかなければ、人事改革(議席改革・身分再統制・敷居の仕切り直し・姿勢狩り)した内に入らない所が、難しい所なのである。

自分たちの議決性(等族義務)の敷居を自分たちで仕切り直すことと、ケンカ腰に調子に乗る方法(世の中を解った気になる方法)をただかき集めることしか能がないことの区別も自分たちでできていない、その深刻さを対処できたことがない今の日本の教育機関と大差ない低次元側は、そこに深刻さをもてている高次元側から見れば「ただただ手がかかる連中」なのである。

手のかかる敷居差の構図がどんどんできあがってしまう、そのありがちな歴史的経緯(敷居構図の社会心理)は、いつの時代の個人間・組織間・国際間でも同じである。

ここに関しては「余計なお世話だ!」などと調子に乗り合っている場合ではない「明日はわが身」「自分や周りは大丈夫だろうか?」の姿勢は常に怠ってはならないことは、国民は忘れてはならない部分である。(荀子・韓非子の指摘)
 

 親心(代表家長の姿勢=上としての等族義務の姿勢=器量)を以って、それができている高次元側が、それができていない当事者(自分たち)の愚かさと深刻さを、気付かせ(社会的説明責任・国際的指導責任で見習い合わせ)矯正していく

 

という、その基本中の基本もできたことがない中央議会(聖属側の公的教義と廷臣たち、世俗側の室町の旧態者ら)、また地方再統一をできた気になっていただけ(世の中を解った気になっていただけ)のただの領邦君主気取り(ただの家長気取り)どもに、高次元に仕切り直される地位(等族諸侯の議席)の重責が務まる訳がないことは、高次元側だからこそその深刻さも、それを指導していくことの難しさも、理解できるようになるのである。

 ただケンカ腰に調子に乗ることしか能がない自分たちのだらしなさの弊害を、全て外圧のせいに(劣情・失望共有し合うために)期待し合い(うちのめし合い)続けることしか能がない

 

議決性など皆無な「手のかかる中央の劣情」の受け皿役を、まずは織田信長と明智光秀の2人で肩代わりすることになったのである。

 

その愚かさと深刻さを認識(自己等族統制)できる側/できない側の違いが、親心(議決性・手本家長の等族義務)の敷居差(器量差・育成指導力差・組織構想差)なのである。

無関心・無神経・無計画なはずの事象に遭遇した「そうなってから」「手遅れになってから」「その時だけ」それに向き合った気に、世の中を解った気にケンカ腰に調子に乗ることしか能がない、その愚かさの実態も自分たちで疑い見抜くこともしてこれずに、それを何度も繰り返す時点で「とにかく手がかかる、しょうもない集まり」なのである。

中央はもはや自分たちで完全に対処できなくなっていた、何かあればただ錯乱・ただ暴走するのみのだらしないその低次元側を、高次元側がとうとう保護監察に置いて中央の仕切り直しを肩代わりするようになった、その構図の中で本能寺の変が起きたという歴史的経緯(社会心理)がこれまでしっかり説明されてこなかったここも、かなり重要になる。


だからこそ、その愚かさの繰り返しを止めさせることができるだけの、圧倒的な高次元側の敷居差を以って、それは自分たちの国際的(等族社会的)な国威・格式の深刻な問題であることを再認識させながら、低次元な内部闘争は二度と繰り返させないための本来の中央の議決性(代表家長)の姿に立ち返らせるよう、上から順番にガツンとやらなければならないのである。

戦国前期のように、一時的な支持のかき集め(ただの指標乞食主義=ただの失望・劣情共有)に過ぎない、長続きしないその時の勢い任せでただ押さえつけるのみでは、今まで通りの寡頭主義(力関係任せの外圧に頼り切っているだけの、その一方的なうちのめし合い)と何も変わらない。

その繰り返しを止めさせ「かつての時代は終わった」ことの手本(更新)を示し合っていくための等族議会制(法治国家としての高次元な公文書・誓願書の、ISO9001姿勢のような議事録履歴・裁判記録のやりとりの品性規律)による敷居確認の強調に、織田信長は重きを置く改革手法を採っていたからこそ、偉大だったのである。

それを議会選任的(等族主義的)に自分たちの敷居を自分たちで見直していくという、その基本がされていかなければ、いつまで経ってもそれを自分たちでできない弊害(低次元化)が延々と繰り返され、よそに遅れを取るばかり、敷居差が開いていくばかりなのである。

 

16世紀になって人類が、とうとうそこを上が少しは反省(自己等族統制)するようになった、その重要な歴史的経緯(社会心理)が、これまでどういう訳か全く説明されてこなかった所になる。

下々にもそこを認識(自己等族統制)させようにも、上がそこに遅れをとってモタモタとやっている分だけかなり時間がかかってしまう歴史経緯的(社会心理的)も、しっかり説明されてこなかった所になる。

京の都市経済の再興後には、その後の自由産業改革に向けての訴訟ごとも対応できるよう、その法整備を担当していた政務吏僚側の林秀貞、村井貞勝(こちらが京の奉行所の現場をまとめていた)らのこれら懸命な取り組みの前例が、のち徳川政権における大役のひとつである京都所司代の体制の元になったのである。(徳川家康の参謀役のひとり板倉勝重が、のちに村井貞勝の務めを肩代わりし、名奉行と称賛された)

本能寺の変が起きる直前には、観修寺晴豊と織田信長の間で急に険悪になったかのように伝わっているが、筆者はこれは逆だったのではないかと見ている。

観修寺晴豊は織田信長が、明智光秀と共に今までの中央のだらしない劣情を全て受け止めようとしていたからこそ

 

 「貴殿がやろうとしていることは私は重々理解しているが、しかしそれに耐え切れない者も今はまだまだ多いことで危険水域に来ているから、そこも考慮してもらわないと貴殿が(織田家自体が=結果的に日本全体が)危うい」

 

と、むしろ底なしの親心(器量)を織田信長が、控えめのつもりでいたがそれを結果的に示し過ぎてしまった、この上同士の事情に遠回しに助言したではないかと、筆者は見ている。

これに対し織田信長は手厳しく言い返しているが、これも

 

 「それはこちらも重々承知しているが、しかしその連中のためにいつまでもその妥協路線のせめぎ合いで足踏みをしているようでは、いつまで経っても日本は高次元な等族議会制が敷けないではないか!(世界に誇れるような国際的な等族社会化=法治国家化が実現できないではないか!)」

 

という、互いにその内々の理解があった上での言い合いだったと、見ている。

本能寺の変は、まずそうした当時の敷居差からくる、表向きだと解りにくい、皆で一致していた所と一致していなかった交錯(こうさく)の中で、新たな局面を余儀なくされるようになった、認識上の激しいぶつかり合いが内部的には起きていた難しい中で、ついにそれが破裂する形で起きてしまった事変だったという所を、まず押さえておくことが重要になる。

 

中央でも地方でも、ただでさえ今まで議会制の仕切り直しを中途半端にしかしてこれず、高次元な敷居に切り替えることに迫られて難儀していたような連中が、次から次へと高次元な敷居を織田信長から、日々恫喝されるようになったのである。

 

なんとも情けない話だが、それになんとかつけていけた1割の有志たちはともかく、それについていくのに常に息を切らしているような錯乱気味の9割の小心者(偽善者)どもに対し、織田信長は

 

 「そいつらを追い込むのもやむなしだ!(今まで中央としての等族指導などできていなかった分だけ下々を苦しめてきた、今こそその身の程を思い知れ!)」

 

 「そんなやつらがこれからの中央の上院議員の議席(等族諸侯の一員)として、人の上に立とうとすることなどは許されない時代になったことを、今ここでその白黒をはっきりさせておかなければならん!」

 

のその神経的な部分で上から順番に遠慮無用だったことが結果的には「窮鼠猫を噛む」状態に追い込んでしまうことになったのが、本能寺の変だったと見てよい。

 

その間に立って「皆のために」と両者の仲裁役を務めていた明智光秀(それを補佐していた細川藤孝も)は、あまりにもかけ離れていた現場の実態に、色々な意味で冷や汗をかいたり、時にあきれたりしていたのも容易に予測できる所になる。

 

本能寺の変に迫る直前までのその歴史的経緯(社会心理)の前提が何も説明されずに、織田信長と明智光秀が急に険悪になったことの強調ばかりがそれまで続けられてきたが、そうではない。

 

これは「明智光秀は、ついていけなかった旧態者らのことを懸命に擁護していた(ただのいいなり体制ではなかった)」という議会(政権)の形をわざわざ織田信長が、作り話に等しい大げさな茶番劇で伝えていたに過ぎない。

 

 「折衝役としてこちらが立てた明智光秀に、皆がどのような接し方ができているのか、その品性規律(等族議席の見所)がもはやお前たちの今後の待遇にかかっているのだぞ!」

 

 「皆のためにと明智光秀が苦労している立場に、まとまりもなく自分たちの不都合(地方裁判権止まりの閉鎖的な正しさ)をただ言い合って困らせるばかりで、忠君忠友の姿勢を以って明智光秀を支えることも、お前たちはできていないではないか!」

 

のち混乱を避けるための緘口令で、下々には何が起きていたのか、当時のこうした上の事情も結果的に伝わりにくくなってしまった所になる。

 

遠方諸氏たちは後になって、10年も15年も遅れて慌てて織田氏の敷居の背中を追いかけ始め、しかし時間切れで進退を迫られるようになっていた。

 

四国の長宗我部氏(ちょうそかべ)ら有力諸氏の上層たちは、織田信長の茶番劇を理解していたのは間違いなく、その敷居で家臣たちを指導できていなかったことにただただ気まずいから、とぼけていただけだと見てよい。

 

なぜそこが毎度のようにこんなに遠回しの回りくどい伝え方が多くされたのかは、これは地位が大して高くなかった多くの下への寛大な配慮だったこととして、のちの羽柴秀吉もここは見習っている当時の、この難しい事情についても順番に説明していきたい。

 

まず、織田信長の高次元な言い分は要するに

 

 「格下げに動揺するばかりの気の小さいお前たちのために、こちらも旧態筋出身でその理解者のはずである明智光秀を、その身分再統制の折衝役の総代(議長)として立てても、お前たちはそれを機に自分たちで戦乱終焉の条約(和解・敷居向上)のための議決性でまとまることなど、できていないではないか!」

 

 「その最低限もできない、自分たちの格上げのためによそを格下げし合う(うちのめし合う・踏み台にし合う)ことを止めようとしない、議席の譲り合いもできない地方裁判権止まりのだらしない連中が、何が等族諸侯(法治国家の国際議席資格)だ!」

 

になる。


そこは上同士のやりとりとしては、上から順番に徹底的にそこを解らせ合うことは当然のことになる。

 

ただし一方で上同士で何が起きていたのか、その事情を下々はすぐに理解できなかった中で、その態度を急に公表的にあからさまに向けてしまうと、それ自体が強者的立場が弱者的立場をただ弱い者イジメしているだけの、下々の救済とは真逆の構図になりかねない所が、難しい所なのである。

 

織田信長、明智光秀、そしてその後を肩代わりすることになった羽柴秀吉の敷居から見れば、当時進退を迫られて錯乱気味になっていた遠方諸氏たちというのは、自分たちが抱えていた家臣団への指導力差(議決性の敷居差)で、織田氏とは大きく開きすぎてしまっていた。

 

織田氏がとうに前期型兵農分離(身分再統制・閉鎖有徳運動の禁止=勝手な半農半士格上げ運動の禁止=家長権改め=資本観念の仕切り直し)していたことを各地方は、それができていなかった自分たちの深刻さに10年も15年も遅れて「今頃になって」気付いて、慌てていたようなだらしない連中なのである。

 

ここは現代でも同じ非常に残酷な話として、いってみれば県大会規模では自分たちは常に頂点になれても、全国大会(国際)に視野を広げれば、自分たちと同格がいくつもいたり、手も足も出ない格上も居ることに気づくというのは、よくある話になる。

 

つまり地方の代表格たちは、県大会制覇の次段階である全国大会(国際)視野の指導など、どこもできていなかった。

 

それを始めた瞬間に、今までどうにか地方をまとめるようになった自分たちの団結も、いとも簡単に崩壊してしまうことも解っていた。

 

当時は今のようにネットもなければ、テレビ電話も写真技術なければ、健全かどうかはともかく第二次世界大戦以後の報道機関の整備なども全く育っていなかったから、そこが余計に顕著な時代だったのである。

 

現代でもネットがあって、図書館や出版社やその他、健全かどうかはともかく多様な情報産業も造られるようになり、人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)の敷居確認の環境(連絡力)自体は既にできていても、現代ですらそれに取り組もうとする意識がすぐに芽生える訳でもないのに、中世(寡頭主義)と近世(等族主義)のはざまにようやく到達した当時の人々は、そこがもっと顕著なのである。

 

地方の上層たちはそれ自体は解っていたが、部下たちを全国大会(国際)の広い視野に向けさせないことばかりしたため、県大会の狭い視野の敷居がさも世界視野(国際品性)であるかのように、部下たちを悪循環に錯覚させがちだったのである。

 

これは現代でも同じ、今の日本の教育機関と大差ないような低次元な集まりと同じ、世の中を解った気にケンカ腰に調子に乗り合うことしか能がない、ありがちな上下社会構図が実態だったりするものなのである。

 

県大会規模でどの地域が最も優れているかも競うこともできなかった県(地方)に、そこまではとりあえずできている所が、そこができていない所を指導すること自体は確かに可能になる。

 

しかしこの構図は所詮は、県大会を整備できている側による、県大会を整備できていない側の指導までであり、そこに全国大会(国際)の視野が芽生えない限りは、それも程遠いままになる。

 

所詮はどこも県大会視野の力量止まり(地方裁判権止まり)の、その格下狩りに頼っているのが実態だったからこそ、どうにか地方再統一ができているというだけでは、せいぜい3ヵ国か4ヵ国の支配力(議会力・家長権の執行力)までしか、どこも確立できなかったのである。

 

仮に周囲が弱小ばかりで、10ヵ国の支配力を得たとしても、圧倒的な高次元側に「ウチはできているのにお前らは、これもできていない、あれもできてない」と化けの皮を剥がされるごとくの恫喝を受けるようになれば、その支配力(求心力・精神的支柱=議決性)もあっという間に半壊してしまうものなのである。

 

いつの時代も下士官層からの以下の下々は、その視野こそが世の中の全てであるかのように叩き込まれがちで、それで今まで当主(代表格)を信じて自分たちが頑張ってきたから、自分たちの今がある(自分たちは良識人としての規律ある、正しい生き方をしてきたはず)ということに意識を向けさせ続けられてしまう構図が、残酷な部分なのである。

 

ここは高次元な改革側の織田信長、明智光秀、羽柴秀吉の立場(当事者性・社会心理)に関心がもてなければ全く理解できない所になるが、これらからいわせれば、その地方の下士官ら下々に向かって、その全責任をその個々に向かっていきなり追求などしていい訳がない、彼らの親心(器量・等族義務)からすれば、それこそがただの弱い者イジメなのである。

 

それを、具体的に面と向かってその当主を否定することを、急に公表的に徹底的にやり過ぎてしまうと、その当主を今まで信じて頑張ってきたその下々たちが、意欲的に完全に立ち直れなくなってしまうほどの、精神的支柱の急所の強烈な崩壊をさせかねなかった。

 

結局は地方の代表格ら上層にまずはその等族責任があった一方で、ただしその当主(家長)たちを急に徹底的に否定してしまえば、今までそれを信じて頑張ってきた下々があまりにも残酷だから、彼らにその罪はないそこが救済的に配慮されたから「まずは遠回し」のやり方がやむなくされていたのである。

 

ここがのち、豊臣秀吉の天下総無事の四国仕置き、九州仕置き、関東仕置き、奥州仕置きが行われた際でも顕著な所になる。

 

上同士ではいくらでも厳しさを強めてもよくても、それを急に下に影響させるやり方をすると、そこがすぐには理解できない下は、二度と立ち直れなくなってしまうほど徹底的にうちのめすことになりかねなかった、この上と下の関係の難しい歴史的経緯(社会心理・等族義務)の事情が、文献だけ見ていても解りにくい重要な所になる。

 

武田領のように織田氏と敵対を重ねた上に、過去の実績像に頼ってばかりのだらしなさが目立っていた所や、越中のように地方再統一もろくにしてこれなかったにも拘わらず、この後に及んで進退の態度を曖昧に続けた所は「身の程を知れ!」の見せしめの強烈な仕置き(裁判権改め)が行われた。

 

しかし、これまで織田氏とはそれほど対立していた訳ではない、どうにか地方ではまとまりをみせていた所は、急にそれと同じ厳しい処置に動く訳にもいかないことが、配慮されたのである。


織田領内では旗本吏僚体制を中心に、閉鎖有徳の取り締まりを手始めに、意見回収の奉行所の設置、地位の低い人材の候補生選びと格上げ処置、前期型兵農分離(身分再統制)による治安と自由産業奨励を次々と浸透させていたから、下々に多少厳しいことをガツンといっても、政治精神的な耐久性もいくらか身に付いていたが、その敷居改めなど受けていなかった地方では、そういう訳にはいかなかったのである。

 

中央改めでもそこは配慮はされたが、それまで敵対していた訳ではない地方よりも中央では上に厳しめだったのは、織田氏が中央の都市経済を再生させたことである程度は下々も耐えられたこと、そして公的教義(比叡山・延暦寺)が今頃になって慌てて織田氏に反抗の武力介入を始めたことを、廷臣たちが治めることができなかった罰もあって、厳しさを強めていた。

 

本能寺の変が起きた時の日本は、そこまで配慮して折衝役の議長(明智光秀)まで用意していた高次元側と、その救済処置に順応することも結局できなかった低次元側の、深刻な敷居差が開いていたのである。(高次元側から見れば)


ここで、その折衝役の総代(議長)を任されることになった明智光秀が結局、中央からも地方からも、どのように見られていたのかも歴史経緯的(社会心理的)に容易に窺うことができる。

 

順番に説明していきたいが、織田信長の性分がよく現れている所といえるがまず、少し先述したキリスト教徒たちに対する、釘刺しのあてつけなやり方と類似していたといえる。

 

つまり

 

 「お前たち西洋人は、法華宗(仏教)を檀那寺(だんなでら)としているこの織田家の世俗議会側の公認によって、その布教活動が認可・保証されるというその事実が受け入れられるというのなら、こちらもその和平的な姿勢を信用する証として、教義力次第で優遇することをこちらも約束しよう」

 

と似たやり方の

 

 「お前たちは、中間(ちゅうげん・武士と庶民の間の、半士分的な曖昧な従者)あがりの明智光秀のことを、お前たちの敷居よりも格上だと認めることができる、その議席の譲り合いというものができるのなら、こちらもお前たちの以後の待遇についても少しは考慮することにしよう」

 

で迫られたこのやり方が、連中にはさぞかし強烈な苦い良薬だったことがまず、容易に想像できる所になる。

 

 「地位の低い陪臣筋からでも、自分たちで議決性を以って積極的に有志を発掘・育成し、それで自分たちで議席の譲り合いをしていく、というその基本的なこともできていないことが人々の意欲を奪い合っていく愚かさだと、そこを深刻に考えたこともない法賊(偽善者)どもめが!」

 

織田政権における明智光秀と羽柴秀吉の存在はまさに、その人事改革(議席改革)の見本として、それもできていない有力諸氏たちにそこを思い知らせる立場を担っていたのを、地方の上層たちはとぼけていただけでそこは解り切っていたのである。

 

これはもちろん、諸氏を明智光秀の家臣扱い(陪臣扱い)にいきなりしようとしたという意味ではなく、そこまで反省・覚悟(自己等族統制)するつもりが以後あるのなら、様子見の仮公認の等族諸侯扱いをしても良い、というその意図がまずは重要になる。

 

ここについてはもはや、明智光秀がそういう立場を自身が望んでいたかどうかなど、もう問題ではない域だったといえる。

 

その織田氏の意図を迫られるようになった有力諸氏たちは、自分たちの部下にその状況を説明することは簡単ではなかった、その強烈な議決性の再育成(身分再統制)のやり方に、諸氏も相当参っていたのも間違いなく、能力的(等族義務的)に疑われていた廷臣たちもそこは全く同じである。

 

賢臣であった明智光秀も、どうにか廷臣たちをまとめるようになっていたそのひとりの勧修寺晴豊も、織田信長がそのまた次の段階の19世紀の敷居を向けていたことを、感覚的には認識していたと筆者は見ている。

 

戦国前期の惣国一揆(閉鎖有徳闘争)で露呈していた、身分再統制が追い付かずに半農半士が蔓延し、深刻に社会問題化していった、だから前期型兵農分離がようやく織田氏によって施された経緯からも明らかだったように

 

 「世俗政権に切り替わって200年も300年も経って、もう日本人の誰もが名族の血筋と無縁な者などすっかりいなくなり、これからは皆が皇室を、ひいては日本の国体を議会的(民権的)に支えなければならない臣下(家来筋)だという自覚(自己等族統制)を、皆にもたなければならない時期に来ているのもはっきりしてきているのに、何が名族高官主義だ!」

 

もはや19世紀の民権運動家に等しい、上からの締め付けの様子を、それが理解できるからこそいつも冷や汗で横目で見ていた羽柴秀吉は、廷臣たち、有力諸氏たちのことを少し逆なでしすぎていた所もずっと見ていた、だからこそのちに工夫した。

 

だからその後の羽柴秀吉による天下総無事では、その流れになっていたことは解っていてもまだ渋っていた有力諸氏(地方の代表格)たちを、できるだけ「陪臣」扱いではなく「直臣」扱いとする、その格式を強調するやり方に切り替えられたと見てよい。

 

自分たちの部下に天下総無事の流れを等族指導し切れていなかった、だから地方の代表格がそれに臣従してしまったら、いとも簡単に地方の秩序も破裂してしまう、だからそれに臣従しようにもできないでいた、そこに手を焼いていた有力諸氏たちの様子は明らかだった。(羽柴秀吉から見れば)


だからこそ、その等族指導を肩代わりするためにやむなく軍事力を以って降参させていった羽柴秀吉は、そこに非常に寛大に

 

 「先のような陪臣扱い(強烈な格下げ)の典礼を迫られなかっただけでも、豊臣政権の直臣扱いの救済処置を受けられただけでも、お前らはありがたく思え!」

 

と遠回しに地方の代表格たちに、そこを一喝したのである。

 

皆もようやく渋々折れる形で、なんとか日本を丸く治める天下総無事(天下統一・日本再統一)の流れができたのは、前身の織田信長がそれとは比べ物にならない強烈な敷居を先に向けておいてくれたから、どうにかその流れも作れたといえるのである。

 

四国統一を目前としていた長宗我部氏は、織田信長に続いて羽柴秀吉にも反抗的にならざるを得ず、最後は部下たちのために潔く降参し、同じく九州制覇を目前としていた島津氏も部下たちの面倒見のために潔く降参した、だから寛大な処置も受けられた。

 

しかし北条氏は、やむなく豊臣政権と開戦になってしまったまでは仕方がないにしても、餓死者が多発するまで部下の下々を散々苦しめ、どうにもならなくなってから降参した、その部下たちの面倒見の等族責任の線引き(和解・敷居向上が前提の国際的な競い合い=議決性)のあまりのできてなさに、豊臣秀吉は当然のこととして北条氏には寛大な処置など考慮しなかった。(小田原征伐)

 

本能寺の変が起きた時点での羽柴秀吉の意識はもはや、織田家の実権を握ること自体が目標だったのではなく、その次の目標まで前提としていたのである。

 

そんな状態だった有力諸氏たちをなんとかしなければならない、そうした流れを織田信長がせっかく作ってくれたからこそ、日本をまとめていかなければならない、その深刻さを誰よりも理解できていたからこその、少し強引でもやむなしの中央実権の掌握(清須会議と賤ヶ岳の戦いの中央選挙戦)に動いた所は、歴史経緯的(社会心理的)に間違いない。

 

独裁制から合議制に切り替えられようとしていた土壇場で、それを白紙にするためだったことが明らかだった本能寺の変が起き、後継者であった織田信忠まで討たれてしまった。

 

京の事情に詳しかった旗本吏僚たちの多くも討たれてしまい、織田信雄(のぶかつ)と織田信孝がいても、予定的な後釜の典礼などされておらず、それらは地方の等族諸侯の据え置き扱いのまま来ていたため、誰が中央の実質の代表者なのか曖昧になってしまった。

 

そんな中でテキトーに織田体制を支え続けながら、有力諸氏を従わせようと(地方同士の武力闘争をやめさせようと)した所で、強力な代表家長権でいったん直々の直臣扱いでもしてやらなければ、結局はそれらをただ陪臣扱いするのと同じになってしまい、破談の繰り返しになってしまう。

 

そういう所を見てきて、そこを誰よりも深刻に考えることができていた、まだ合議制にもっていくことなど無理だと的確に判断できていた賢臣の羽柴秀吉が、だからやむなく心を鬼にして、中央の実権を独裁制の形で掌握するようになったのである。

 

次も、当時の前後の経緯を挟みながら、本能寺の変の性質について引き続き、説明を続けていきたい。