近世日本の身分制社会(097/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか25/? 2022/05/07

 

今回は、本能寺の変の起きる 1582 年までに、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉が、皆からどんな風に見られていたのかの、その敷居差の大変さに入っていきたい。

通説では「織田信長が無理難題を明智光秀に押し付け、恨みを買った」という印象ばかりが強調されがちな所になる。

しかし16世紀の裁判権(資本観念の議決性と道義性の敷居)の大転換期の、等族社会化(近世化=国際化の議会制の時代)の歴史的経緯(社会心理)の特徴・事情がまず見えてこないような、印象の所感をただ並べられているものは、全て除外しなければ何も見えてこない。

だからこそ筆者は、まずその歴史的経緯(社会心理)の基本前提についてどうやったら少しでも伝わるか、そこを重視しながら記述を続けてきた。

本能寺の変後に、事情を知っていた羽柴秀吉ら織田家の重臣筋たち、生き残ったその旗本吏僚筋たち、またその後の徳川家康も、

 緘口令(かんこうれい) = 旗本吏僚の候補生のように3、4年はみっちりと指導するのとは違う、戦国前期の巻き戻りをやめさせるための等族議会制(立法)の難しさを、気長に理解しようとする姿勢を急に保てるかどうかも怪しい下々に対し、威力標語的な正しさを軽々しく向けるな、いたずらに動揺・混乱させるな

を上から敷いていたのも間違いない所も、考慮できなければならない。

 世俗議会側(今後の等族義務と謄本登録的な裁判権のあり方)の代表の、室町政権の肩代わりをすることになった織田信長

 聖属議会側(今後の有徳・寺社の教義のあり方)の代表の、公的教義(延暦寺)の肩代わりをすることになった浄土真宗


の、日本の今後のあり方のために果たしたその役割の重要さがしっかり伝わらなくなってしまった所も、等族義務を認識できている上同士でないと、下々がそれをすぐには理解できない事情は現代でも同じ所になる。

 

この大事な部分もしっかり伝わらなくなってしまった当時の事情も、順番に後述していく。

先にあまりにも高次元すぎる敷居を見せ付けられてしまうと、それを引き継がなければならない後発がその敷居を下方修正しなければならなくなってくる。

 

その前例があまりにも偉大すぎると、後発も安直にもちあげる訳にもいかなくなってくるありがちな構図も、議会の主催の威厳としての傾向として、そこについてはもっと政治的な問題として後述したい。

戦国後期には、世俗側、聖属側の両者のそれぞれ中央議会としての、今一度の仕切り直しを誰かがしなければならない事態に迫られていたことは、地方議会の再建に積極的になっていた地方の上同士(地方ごとの上層の間)でも、そこは段々とはっきりしてきていた。

戦国後期には、中央の再統一(議会の再興・代表選挙戦)の見通しも一向に立たない、そのあてにならない中央に遠慮する必要などなくなっていたまま、地方や郡を各地の代表格らがまとめ始めるようになった。

 

地方でのその議会体制の敷居争い(裁判権争い・家長権の仕切り直し・その収容力の器量による総力戦体制)も顕著になってきていたからこそ、自分たちで旧態主義の派閥利害から抜け切れなかった(仕切り直せていなかった)中央の気まずさも際立つようになっていた。

 議決性(等族義務=社会的説明責任・国際的指導責任)など皆無な世の中の正しさ(ただの指標乞食共有=ただの劣情・失望共有)とやらで偉そうにケンカ腰になることしか能がない、今の日本の教育機関と大差ない旧中央関係者たち

には、そこを自分たちで仕切り直せる見込みはもはやなかった、当時のその事情も重視できていなければならない。

旧態慣習のままの力関係でいつまでも図々しく地位(議席)に立ち続けようとしているだけの、国際議会化の弊害にしかなっていない閉鎖的な不都合(ただの劣情)を押し付け合っているだけの時代遅れの富国強兵主義と大差ないような

 「今までは、そこではそれで通用していた」に過ぎない仮定権威(過去の道義)の通りでなければ、ただ面倒がりながら偉そうにケンカ腰に思考停止(気絶憎悪・失望共有)し合うことしか能がなくなっている

 自分たちで敷居確認できていない、その低次元な愚かさとだらしなさの自覚(自己等族統制)も完全にできなくなっている、そこを疑い見抜き合うこともできなくなっている、今の日本の教育機関と大差ない低次元な法賊(偽善者)ども

のように、誰しもがいつもそれと隣り合わせであることが、歴史的傾向(組織学・社会心理)の要所だという所を、決して忘れてはならない。

現代でもよそのそういう所が目立った時こそ、解った気に調子に乗るべきではない、その危うさに当事者性(議決性)を以ってまずは「明日は我が身」に自身に深刻に置き換えてみることが、なにより先決である。(荀子・韓非子の指摘)

議決性など皆無な「頭が良いかバカか」などという、世の中を解った気に調子に乗ることしか能がない今の日本の教育機関(法賊)どものように、弱みの急所の植え付け合いしかしていない、低次元なだらしない二極論などとは、決別できていて当然でなければならない。
 

何の役にも立たない偶像二極論(偽善)のいいなりを続けさせるためだけの猿知恵(ただ指標乞食論・ただの劣情共有論)とは、自分たちで決別(改革)できている高次元側と、できていない低次元側との差は、その敷居の違いを普段からはっきりさせられる側と、それができない側の認識差(自己等族統制差=議決性差)になる。

織田信長が中央に乗り込んで以後の中央議会改め(中央裁判権改め)の、織田政権側と旧中央関係者側の様子はまさに、その高次元側(等族義務を指導できる側)低次元側(自分たちの自己等族統制・議会再統一ができない側)の構図だったのである。

しかし、たとえ上がしっかりしていたとしても、また上が人事改革(旧態刷新の身分再統制)についに動いてくれたとしても、上(主体性・議決性の手本牽引に務める側=等族義務側)下(今まで低次元な押さえつけでうやむやにされ続け、主体性・議決性を奪われ続けてきた側)との意識の開きはどうしても生じてくる。

戦国後期に上(等族義務)の敷居も激変していった一方で、下々の皆が「政務吏僚の候補生として指導」を受ける訳でもない以上は、社会全体(新たな議席=新たな裁判権・家長義務=新たな資本観念)としての風紀改革(等族社会化)に20~30年かかる場合も決して珍しいことではなく、また簡単なことでもない。

現代でも、価格観念は同じまま、新常識(競合の立証)への対応能力の衰退(劣化・低次元化)を防ぐための、提供の準備要領の強化(企画・生産・製造・納品の体制の強化)を続けていく対処も適切にされていかなければ、それができていない分だけ下から苦めながら、やがて上も苦しくなるからこその、上からの社則の全体像(組織の議決性の敷居)の見直し(仕切り直し=身分再統制)についても、そこは同じである。

何にしても、荀子主義者である筆者も大前提としている

 「守れ!(敷居確認の国際人道観を踏み外すな!)」

の言い分(人の上に立つ手本姿勢のあり方)をよそに向けて強調する以上は

 「その言い分に見合っただけの議決性(等族義務=社会的説明責任・国際的指導責任)の発言権(議席)のあるべき人事(議会体制)といえるような、その敷居確認の提供(国際性ある準備要領といえるだけの議事録履歴や解説等)を求める!」

 

 「その言い分に見合う社会的説明責任・国際的指導責任を受け取る等族責任をこちらも前提とするからそれを示せ!」

の等族社会(身分統制的・等族諸的・国家的な総代議席の品性規律)の手本牽引(等族義務)の示し合いの、互いのその議会的な順応が前提だということを、互いに口出しや手出しを始める当事者間では、少なくともそうなっていなければならない。(国会議事堂の象徴の本来の目的=法治国家の基本中の基本の原則)

本来のその等族社会(国際社会)の姿勢に互いに向き合えていない内から(自己等族統制できていない低次元同士から)、よそのことや道義外の範囲のことにとやかくケンカ腰になった所で、敷居向上する訳がない所か低次元な敷居(ただの劣情・失望共有)の押し付け合いがただ繰り返されるのみで、まず敷居確認すら一向にされていかない。

そこにだらしないうちのめし合いしかしてこなかった低次元同士を、自分たちでどれだけ疑い見抜いてこれたのか、自分たちでそこを確認し合う等族責任(法治国家の品性規律)は、上から下まで関係なく日本国民全員にある前提も、忘れてはならない。

ケンカ腰に乗り出す以上は、

 

 和解(敷居向上)のために競う(敷居争い=国際人道観争い=社則・家訓・裁判権争い)大前提の等族義務(社会的説明責任・国際的指導責任)の示し返し

 

が、相手よりも上回っていて(自己等族統制できていて)当然という、そこをまず認識し合う(示し合う・見習い合う)ことができていて、人として(法治国家として)の最低限の国際的(議会的)な品性規律といえる。
 

相手よりもこちらの方が人の上に立つ姿勢(等族義務といえる議決性・民権言論の手本礼儀の示し合い)をもてている側だという大前提で、そうまでしてこちらのことを否定したがっている相手なら

 こちらが圧倒的に高次元な格上側 = 天狗の鼻をへし折る側 = 相手のだらしない精神的支柱(議決性など皆無な急所)を全て粉砕してやる側 = 裁く側(格下げする側)

 相手が圧倒的に低次元な格下側 = 天狗の鼻をへし折られる側 = 自分たちのだらしない精神的支柱(議決性など皆無な急所)が全て粉砕される側 = 裁かれる側(格下げされる側)

の互いのそこの白黒(力量)を遠慮無用に徹底し、

 その最低限の自覚(自己等族統制)も自分たちでできない、公的教義(日本の教育機関)と大差ない低次元な身の程知らず(偽善者)どもはまとめて否定

 

し、相手がその等族義務(社会的説明責任・国際的指導責任)を何ら示し返せない最低限の手本(議決性)をこちらが果たす、それが等族国家(法治国家)の品性規律(手本礼儀)の基本中の基本の本来の姿勢といえる。

筆者としては、その最低限もできたこともないにも拘わらず、やたらと偉そうに人に厳しくなりたがる低次元な公的教義(教育機関)と大差ない身の程知らずどもに対し、ケンカ腰(こちらが格下げする側だと思い知らせる議決性・等族義務の態度)になっているのである。

今までそこが自分たちであまりにもできていなかった、自分たちのその愚かさやだらしなさが、議会制という形でようやく少しは配慮されるようになった、その人類史(議会史・裁判権史・教義史)の文化的(政治文明的)な歴史傾向(社会心理)の走りとなったのが、16世紀(近世初頭)の改革期の特徴なのである。

その特徴は現代の国家・組織・個人でも原則の根本は同じで、現代でも大いに教訓にできる貴重な歴史(組織学・社会心理)なのである。

議決性といえる手本牽引の示し合いの基本が、現代にはあまりにも指導不足・説明不足し過ぎ、なぜそうなのかの歴史観(社会心理観)についても、どれだけ伝わるかは不明だが筆者は3年かけて、これまでそこを説明してきた通りになる。

荀子的独裁制(敷居向上の育成理念ある手本牽引)を強めた織田信長と豊臣秀吉は、50年100年かかったとしても、下々にもできるだけ、上からの本来の手本姿勢とは何なのかを認識させていく議会(政権)を敷く前提だったと見てよい。

しかし敷居次第では

 「まず上同士(議席・身分)の刷新(身分再統制・議会再統一)がされ、後は下々に、以前よりも底上げされた新たな秩序(裁判権・議会制の風紀)に従わせる形にとりあえずなっていれば、それで良い」

 「下々は、あまり文明的に賢くさせ過ぎない方が良い(上が調整し切れなくなるかも知れないから、下は活かさず殺さずが良い)」

のフタ閉め思考(出る杭は打つ)も強まる場合も十分あり得る所になる。

そこから即座に古参主義(ただ上・自分たちに甘く、ただ下・外に厳しくなるばかりの、低次元な敷居共有のしがみつき)に陥るかどうかはともかく、現代でも大手になるほどそこも社則的に強まりがちな所になる。

織田政権によって大幅に底上げされた、良い意味で16世紀にいきなり19世紀の人文性・啓蒙性の風紀に人々を連れて行こうとしていた敷居に対し

 「下々がついていけるかどうか以前に、それを前提に上が今後調整していけるかどうかも解らないから、ここの部分(武家諸法度=世俗側の新法・公家諸法度=聖属側の新法)は今はここまでで良い」

と、あえて下方修正しながら孟子的合議制を敷くことになった徳川政権は、「低次元化していった」のではなく、結果的に高次元化が少し急がれすぎた織田政権時代の貴重な前例を元に、慎重に下方修正されていった流れも、本能寺の変の政治的な性質としても考慮できなければならない。

コンピュータのビット(性能)進化の経緯例として少し先述したが、16世紀はいってみれば 32 Bit 仕様対応の議会(資本観念の整備)が求められた中で 16 Bit 時代の過去(中世)の産物(観念)のしがらみからなかなか決別できずにいた、その旧・新の風紀改革(人事改革・議席改革・資本観念改め=身分再統制)を巡るせめぎ合いが特徴的だった時代になる。

いつまでも 16 Bit のままの資本観念の産物(旧態の価値観のままの社則と地位)にしがみつき続け、32 Bit 化への進化の足を延々と引っ張り続けてきた旧態体質(劣悪性癖)の深刻さに、そこにガサ入れを始める特殊監査官(それを検察できる公正委員会的な議会)の存在(上としての等族義務=手本家長の仕切り直し=議会再統一)が急がれるようになった。

それで旧態(中世のままの資本観念)との大幅な減価償却(脱却=資本観念改め=身分再統制)が、歴史的(議会史的・教義史的・裁判権史的)についにされる形で 32 Bit 対応の議会制ができ始めた。

そのきっかけとなったのが日本では織田政権(織田信長)が、西洋では帝国議会(王族の代表格カール5世を中心とする貴族連合)が、人類史の転換期として、文化記念的な重要な役目を16世紀にようやく果たすようになった時代なのである。

西洋はともかく日本の織田政権の方では、早くもその次段階の 64 Bit 対応まで前提としていたといって良い部分は、よくよく考えればここは現代でも同じでそう大げさな話でもない、それ自体はいつの時代のどの分野でもよくある文化的な所として、そこも冷静に把握できていなければならない。

16 Bit(中世)から 32 Bit 対応化(近世化)に改める段階で皆が大いに動揺していた所を、織田信長はその次の 64 Bit 化(近代化)の社交文化の構想までいいだしていた。

その意味をよくよく理解できた、賢臣だった明智光秀だったからこそ

 「その素晴らしい構想が実現できれば、確かに今後の日本のためになるのも間違いはないが・・・」

 「しかし今の時点で、織田政権が敷こうとしている議会制の意味が、皆がすぐに理解できずに大いに動揺している現状で、果たしてそれにどこまで皆がついていけるのか・・・」


と内心はさぞ複雑な思いだったことは、16 BIt (中世)から 32 Bit (近世)の議会の発想に切り替える段階で難儀していた中央関係者や有力諸氏たちの様子を、織田政権の窓口の仲介役を明智光秀が請け負う立場だったことも、見落としてはならない。

同じく少し特殊な立場だった羽柴秀吉も、どうやってその敷居を部下たちや再統一先の地方を議会的(身分再統制的)に指導していくのか、羽柴秀吉も織田信長の賢臣だったからこそ、まずそれを伝えることの難しさや大変さもよくよく理解できていた。(だからこその、のちの緘口令。風評弁慶対策)

以前も同じ観点の説明を何度か挟んでいるが、こういう重要(当事者それぞれで身の程の自己等族統制ができているかの敷居確認)な所(社会心理)が常に見落とされがちだからこそ、その指摘をしつこく繰り返しておきたい。

順番に説明していきたいが、織田信長のようなその次段階の構想までまずあって、その手前からまず反映させていくこと自体は、そこは現代での電子精密機器(機器不都合側のハードウェア計画、利用主体仕様都合側のソフトウェア計画の両工学面を含む)に関する企画や設計、またその製品販売を例とした場合などが、冷静に考えてみればよくある、力量差となってくる顕著な所になる。(他の商戦でももちろん類似はあり)

その観点に関心を向けさせないための姿勢潰し(当事者にとっての適正な主体都合的継続の放棄のさせ合い)を延々と続けさせるためにケンカ腰にさせ合うことしか能がない、低次元な公的教義と大差ない法賊(偽善者)どもに、下々は常に付き合わされがちな所は、当時でも現代でも同じである。

10代の内にその最低限の育成指導を受ける場を奪われ続け、等族主義(議会的な品性規律の構築)と寡頭主義(ただの力関係・ただの劣情関係)の最低限の区別もできずに、そこに疑問をもつ方法も解らないまま20代や30代になってしまう多くは当然として、どの世界の歴史的経緯(社会心理)にしても、そう簡単に実感・把握(自己等族統制)できるものでもない。

だからこそ、その深刻な姿勢潰し(当事者性潰し・議決性潰し)をやめさせる歴史観(社会心理)からの認識(自己等族統制)を推進するために、等族義務(社会的説明責任・国際的指導責任の手本)の示し返しが大前提の準備要領(民権言論=国会議事堂の本来の目的)の姿勢で

 相手を上回る高次元な自身の議決性(等族義務といえる民権言論)を以って、口ほどにもない一億総偽善の天狗の鼻を、上から順番に遠慮無用にまとめてへし折っておく

 議決性(等族義務)など
皆無な公的教義と大差ない、強み(育成理念ある等族統制・品性規律)などどこにもない、ただの急所(ただの劣情)でしかないそのだらしない精神的支柱全て粉砕しておく

必要も出てくる。

 

建武の失策の話でも、これまでの戦国後期の地方再統一(地方議会の構築)の敷居差で、裁く側裁かれる側の等族社会化(法治国家化)の姿が顕著になっていった説明で何度か挟んできた話として、繰り返す。

 

どんな実現結果でも(事故原因でも、成功事業でも、本能寺の変でも)、やっていることが優れているように見えようが、劣っているように見えようが、その先の構想まであった上でのその手前の実現結果だったのか、それとも他の敷居に合わせることに精一杯になっているのか、そこを見据える力量が、当事者(自分たち)の議決性的(目的構築や組織構想の企画力・計画力の育成理念といえる品性規律)の敷居(力量)にそのまま現れてくる。

 

よその結果に関心が向いた時に「そういうことか。これだとウチもあの体制を工夫にすれば十分できたな。先にやられてしまった」と、自分たちの主体的(議会的)な展望の整理の見方を、そのように余裕をもちながらできるか、それともそこが全く整理できずにただ慌てるばかりの違いも、それを見据える力量にかかってくる。

 

ここは難しい話だからこそしつこく指摘しておきたいが、よその敷居(世の中の価値観)と自分たちとの整理(敷居確認・自己等族統制)などしていないような、ただ解った気に結果の良し悪しにケンカ腰に調子に乗る(ただ人に厳しくなる)ばかりのいい加減なだらしない姿勢では、自分たちにとっての強みなど育っていく訳もない所になる。

 

自分たちで何をどう対処していくのかの、自分たちの主体性(議決性)は自分たちで整理していかなければ、自分たちの見通しをどんどん見失いながら無神経化・無関心化・無計画化・無為欲化させ、自分たちを劣化・衰退させていく原因となる。

 

でなければ、よその結果も「どうやってそういう形になったのか、なぜそうでなければならないのか」もどんどん見えなくなりながら、退廃的な思考停止(劣情・失望共有)のまま、ただそれを延々と追いかけなければならなくなっていくことになる。

 

「強引な穴埋めの仕方」を「強引な穴埋めの仕方」だと自覚できなくなっていき、社会的信用を失うような大事故や破綻を招くかも知れないような、できもしない外圧(世の中の正しさとやら)の虚像(見栄)ばかり背伸びして立て合っている自覚もなくなっていく原因となる。

 

その難しさをよく理解し、そこを荀子主義的に指導(敷居向上)できていた織田信長、明智光秀、羽柴秀吉のこの首脳組と、その敷居についていけずに格下げも必至だった旧中央関係者らや、また織田氏に臣従を迫られるようになった、部下たちをその敷居で指導できておらずに悩んでいた地方の代表格たちも、その高次元側と低次元側との力量差が、歴然としていたのである。

 

そのように力量差が顕著になってくる時というのは、16 Bit 社会から 32 Bit 社会に変えていかなければならないという所で精一杯になっている所と「どうせやるなら、その次段階の 64 Bit 社会の構想まで見据えておきたい」という大前提の積極性(主体性・当事者性・議決性)まである所との、敷居の違いになる。

 

これは現代の商戦などの競合意識でも同じことがいえるが、その次の 64 Bit 対応の構想までまずあって、それで機器的だったり人員育成的だったり時間的だったりの都合でやむなく 32 Bit 対応として「今回はその形で落ち着いたに過ぎない」になっている所と、よその 32 Bit 主流化を受けてその足並みに精一杯になっている側とで、差の開きになっていってしまう重要な所になる。

 

段階として言い換えると、現状が「1」、反映結果が「2」、そして「本当はここまでやっておきたい」主導的な展望が「3」、という意味でのこの「1・3・2」が他よりも少しでも多くできている側と、自分たちの3が弱いまま、よその3の敷居で2の足並みをどうにか揃えている「1・2」しかできていない側とでは、当然のこととして大きな違いになってくる。

 

万事「12」で穴埋めする発想止まりで、自分たちの「3」を自分たちで議決的に整理(自己等族統制)していく前提が欠けていれば、自分たちの結果にしてもよその結果にしても、それが「132、132、132」をしているのものなのか、それとも「3」を外圧任せに「12、12、12」で凌いでいるだけなのかの違いも区別できなくなっていく原因になり、競争面でも致命的で深刻な部分になる。

 

鎌倉解体後に、後醍醐天皇(ごだいご)の名義による、聖属政治の再興運動という形で建武(けんむ)政府が発足されるが、廷臣たちの失策続きで立ち行かなくなり、その事態を憂慮した光厳天皇(こうごん)が足利尊氏に後事を委託する形で、今一度の世俗政治(武家政権)を仕切り直すことになった、その経緯を先述した際にも触れたが

 

 大目標としての自分たちの「3」のことも、議決性を以って自分たちで取り組めている側

 

と、

 

 現状の敷居の形として表れているに過ぎない場合も多い「2」優劣のことばかりに、一生懸命になり過ぎている側

 

 本来の自分たちの見通しである「3」を、自分たちで整理していく取り組みができておらずそこを見失っている側

 

とで、高次元側と低次元側との大差になっていってしまう所になる。

 

営利にしても体制作りにしても国家構想でも「132」の基本が普段からできている高次元側のように「今回で反映しておきたい所がもっとあった」がたくさんあるほど「今回の内にやむなく反映できなかった部分は、次の企画で反映できるようさっそく検討しよう」と、次の積極的な見通しの、主体性(議決性・計画性)があるといえる強みもつくようになっていくのである。

 

「132」側である織田信長、明智光秀、羽柴秀吉に対し、それに追いついていない大勢の「12」との間の、深刻な敷居の開きがあったことが、これまでろくに見られてこなかった。

 

「132」(中央議会の構想)の視点から見た、そこに至っていない大勢の「12」止まり(地方裁判権止まり)をどうやって手本牽引していくかのその事情の難しさが、大いに見落とされてきた。

 

本能寺の変が起きた 1582 年は、あまりにも開き過ぎていたその敷居差に、織田政権のおかげで、それができていなかった愚かさと恐ろしさをようやく皆が少しは、そこを思い知るようになった時に起きた事変なのである。

 

当事者本人にとって大して重要でもないことであれば、用意された環境の「12、12、12」の対処の繰り返しでもいいと思うが、当事者本人にとって重要なことだというのなら「132、132、132」の姿勢になっていなければならない。

 

それができていない自分たちの愚かさと恐ろしさを、自分たちで理解できるからこそ「132」ができるようになるのであり、それができていない実態も見抜けるようになり、それを伝える難しさも把握できるようになるのである。

 

そこを解った気になって調子に乗るばかりで、そこができていない自分たちに、深刻に真剣に自分たちで向き合うことをしてきていない「12」側が、「132」側のことを把握できる訳がないのである。

 

先述したISO9001の取り組みと裁判権(国際的な品性規律の敷居確認)の向き合い方の話でもここは共通として、自分たち(当事者)の「3」とどう結びついているのかの議決性(当事者性=国際性ある人文性と啓蒙性)の整理(自己等族統制)も自分たちでできていない「2」のかき集めを、道義範囲もうやむやで曖昧ないい加減な(低次元な)向き合い方で共有認識し合った所で、その内にその解釈のズレ(ただの劣情の押し付け合い)を起こす原因となる。

 

「3」への敷居確認(議決性)に無関心・無神経・無計画なまま「12」の繰り返しのみで、世の中を解った気に調子に乗り合りながら(だらしない劣情共有のいいなりのままに取り乱しながら)ケンカ腰にうちのめし合う(できもしない期待をし合って失望し合う)ことは、自分たちに不利になる地雷や時限爆弾を自分たちに仕掛ける自爆体質を作っているのと同じなのである。

 

そこがまさに「そうなってから、手遅れになってから騒いだり怒りを向け合っているようでは遅い」の愚かさを繰り返そうとする、その恐ろしさを自分たちで自覚(自己等族統制)しようとしない実態なのである。

 

「3」に無関心・無神経・無計画に過ごしてきたはずの不都合に遭遇した「その時だけ」ただ向き合った気に調子に乗りながらケンカ腰になることしか能がない、そのだらしなさも普段から疑い見抜くこともできていない時点で、手遅れの境界の線引き(主体都合的継続と不都合的完結の線引き=敷居向上と敷居維持の線引き=議決性)など自分たちでできている訳がないのである。

 

「132」ができている側「12」しかできていない側の敷居差も自分たちで区別もできていない時点で、ケンカ腰に調子に乗る方法をかき集めることしか能がないのと同じ、末期症状の猿知恵(ただの指標乞食主義。ただの劣情・失望共有)のだらしなさを疑い見抜く(自己等族統制)ことも自分たちでできたこともないのと同じなのである。

 

戦国前期に、そのための地方再統一(地方議会の構築。議席の仕切り直し。手本家長の選別)ができていなかった愚かさが、戦国後期に反省されたのである。

 

そういう所の最低限を下々に指導できていないだらしない連中を、等族義務を以って上から順番に矯正するための「132」の議決性の敷居(手本家長の姿勢)などない中央の旧高官らや地方の上層どもは、

 

 今までの地位(時代遅れの価値観)を自分たちで総解散・総辞任する譲り合いを、自分たちで進んでしなければならないのが、上としての筋(等族義務)

 

であるにも拘わらず、等族諸侯扱い(法治国家の議席扱い)してもらう時間稼ぎのために反抗しようとは何事だという話でなのである。(織田信長と羽柴秀吉からいわせれば)

 

「人の気持ちを考えろ!」などと大それたことをいう以上は、その歴史的経緯(社会心理)の最低限の認識(敷居確認)も自分たちでできていない者同士でうちのめし合うこと(失望し合うために期待し合おうとする愚かさ)を自分たちで自制(自己等族統制)できない「12」側を、上から順番に人事改革(裁判権改め・等族議会制の地位・議席・家長権の敷居構築)しようとしてる「132」側の気持ちを少しは考えてみたらどうか。

 

それも自分たちでできていない「12」側が、それができている「132」側の織田信長、明智光秀、羽柴秀吉のこと、またそれができていない世俗裁判権側(世俗議会側・武家政治側)に釘を刺すようになった浄土真宗のことを見ても、何も見えてこないのは当然なのである。


「132」「12」の違いを区別する(見抜く)最低限の知能(議決性)もないにも拘わらず、世の中の正しさとやらを教えようとする社会不適合者の集まりもいい所の今の日本の教育機関の低次元な法賊(偽善者)どもが、身の程知らずにも何を偉そうに次代たちに合格・失格の格付け(身分統制)をしようとしておるのだという話なのである。

 

ここは次に筆者が予定しているオブジェクト指向批判の続編でも、重要な攻め立て所になる。

 

設計への向き合いの基本指導からまず重要になってくるはずのプログラムの世界も、この最低限の区別もできずにただ「12」を繰り返すことしか能がない、「132」の視点での整合(議決性)を自分たちでできたことがないにも拘わらず、ケンカ腰になることしか能がない法賊(偽善者)しかいないのが実態である。

 

いとも簡単に精神的支柱の粉砕が完了してしまう急所に過ぎない、そのオブジェクト指向(ただの指標乞食主義)のいいなりにケンカ腰にさえなれば「132」が生じるかのような、ありもしない、できもしない一億総偽善のその幻想に対し等族義務(言い分の全動作のオープンソースの手本提示の大前提)を以ってできるだけ粉砕してやることを、予定している。
 

自分たちの「3」があまりにも不足していることに気づかずに、自分たちの「3」がどうなっているかの最低限の見直しも自分たちでせずに、自分たち(当事者)の「3」の裏付け(議決性)などない「2」小ざかしい虚像(猿知恵)のことばかりに一生懸命にケンカ腰になろうとするから、自分たちの強みが整理されていかずに大事なことも見失っていくのである。

 

現代でも当時でも同じ、この「132」ができている高次元側と、「12」しかできていない低次元側の構図(社会心理)を前提に見ていけば、何が起きていたのか、どのような様子だったのありがちな推測も、容易にできる所になる。

 

議決性を構築してこれなかったまま、古参主義(虚像)に頼り切ってその地位(議席)に居続けていただけの今の日本の教育機関と大差ない低次元な連中というのは

 

 圧倒的な高次元側に恫喝されるようになってからでないと

 

 それに対し、自分たちで何も示し返すこともできないことが、形としてはっきり思い知らされてからでないと

 

「今から慌ててそれに対抗しようとしても、もうどうにもならない」ことに、ただ劣情・失望を共有することしか能がなくなっていた自分たちのそのだらしなさ、愚かさ、恐ろしさの実態など、そう簡単に自分たちで自覚(自己等族統制)しようとする訳がないのである。

 

その構図を作ることができる者がとうとう出現してしまった時というのが、「当時の現場における、本当の歴史の始まり」だという、その社会心理の見方ができれば、本能寺の変の意味も段々と見えてくるようになる。

 

ここは現代でも同じ、そこまでの議決性を以って恫喝してやらないと、本当の意味で皆が、自分たちのだらしなさからくる愚かさと恐ろしさを、そう簡単に自分たちで深刻に自覚(自己等族統制)しようとは、しないものなのである。

 

本能寺の変はおかしな話だが、織田信長のおかげで、今までの中央の深刻さを「後になって、今頃になって」ようやく少しは思い知る形で理解するようになったからこそ、起きてしまった皮肉な悲劇だったといえる。

 

中央(地位・議席の基準)が本来はどういう形でなけれぱならないのかも、偉大な織田信長のおかけで以後の日本は、そこにようやく少しは深刻に向き合われるようになった、その危うさが教訓にされることになった出来事だったともいえる。

 

明智光秀は恐らく、織田信長がいくら上への厳しさを強めても、それでもその「全救済」的なそのやり方があまりにも寛大すぎたことが結果的に悲劇を生んでしまったと見ていた、そして羽柴秀吉もそこは同じように見ていたのではないかと、筆者は見ている。

 

次でこの心理的なややこしさを順番に説明していきたい。

 

16世紀は、その身分再統制(資本観念改め)の激しい転換期を、人類が始めて本格的に、上から順番にそこを議会的(議決性の敷居的)に思い知らせ合う(見習い合う)等族社会化(国際社会化)を体験した時代だったといえる。

 

19世紀の江戸幕府解体でも、それと同じ激しい転換期を迎えるが、その前に16世紀にもその大きな転換期を人類は体験していることが、見落とされがちな所になる。

 

本能寺の変の、織田信長を討たなければならなかった理由と、それに乗り出されることになった決め手の動向も何だったのか、それぞれ当時の政治的(議会的)の重要な特徴から、次にそこを説明していきたい。