近世日本の身分制社会(096/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか24/? 2022/04/23

 

これまで、本能寺の変の起きる 1582 年までの織田氏の台頭による当時の転換期の様子と、それまでの歴史的経緯についてざっと説明してきた。

当時でも現代でも、当事者それぞれの議決性(目的構築・組織構想の品性規律)といえる等族義務(社会的説明責任・国際的指導責任)の敷居がまずどうなっているかについて、まずはそこが高次元なのか低次元なのかを疑い見抜いていくことをから始めることが重要になる。

そこが皆無なまま、無神経・無計画・無関心に出来事の良い悪いの所感をただ述べるだけの、公的教義と大差ないだらしない低次元な姿勢潰し(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)を繰り返すことしか能がないようでは、あらゆる物事を教訓的に活用(自己等族統制)できる訳がない。

 ただ頭が良いと思われたい止まり、ただ頭が良くなった気になりたい止まり

 世の中(人間性=人文性・社会性=啓蒙性)をただ知った気になりたいだけ止まり


でしかないような

 姿勢狩り(敷居向上)のための議決性(社会説明責任・国際的指導責任の見習い合い)

 規則や常識といった「そうでなければならない目的構築・組織構想の設定」の、当事者本人が突破(高次元化)しなければならない課題(敷居の仕切り直し)の要所(議決性といえる品性規律)はどこなのか

が何も見えてこない以上は、等族義務(敷居向上:社会的説明責任・国際的指導責任の手本の示し合い)道義関係(敷居維持:契約主従関係・義理関係・同業同種関係・研究的関心関係)の区別もつけられていないのと同じである。

その敷居確認(手本礼儀)など皆無な、公的教義と大差ない口ほどにもない怒り(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)を向け合うことしか能がないだらしない低次元同士を疑い見抜き、自分で決別していく最低限から始められないようでは

 よそができていない議決性(当事者性ある人文性と啓蒙性の敷居・目的構築・組織構想)の仕切り直し(社会的説明責任力・国際的指導責任力=等族義務)を、自分たちでできている高次元側

 議決性(育成理念の敷居の見習い合い=国際人道観)など皆無な、低次元なただの劣情共有(末期症状の猿知恵・ただの指標乞食主義)とは、自分たちで決別できている高次元側



 自分たちでそれができたことがない、視野の狭い(気の小さい)地方裁判権止まり(ただの閉鎖有徳=ただの指標乞食集団=ただの騒乱罪予備軍)の低次元な集まりども

 議決性(敷居の見習い合い)に無神経・無計画・無関心な、劣情共有のいいなりに調子に乗りながらケンカ腰になることしか能がない、公的教義と大差ないだらしない低次元ども


の違いを、普段から自分で疑い見抜くこともしてこれなかったのと同じ、それは等族義務(啓蒙的・社会責任的・手本牽引的)道義関係(人文的・自己責任的・合議的)の最低限の議決性(当事者性)の区別も、自分たちでしてこれなかったのと同じである。(荀子・韓非子の指摘)

中世から近世にかけてそこが顕著になっていた人類の重要な議会史(教義史・裁判権史=法と律の歴史)に、その基本中の基本の見方をしていくことが、教訓的・活用的な見方ができるようになるためにも、重要になってくる所になる。

そこに普段から気を抜かないあなどらない姿勢、軽率でない重みをもとうとする姿勢が人よりもあって、社会心理学的(歴史経緯的)な人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)への関心(当事者性・議決性の基本)に結び付く姿勢といえる。

それについての記述の最低限はできたように最近は思えてきたため、これまで通り「どんな状況だったのか?」の当事者性を重視しながら「なぜ起きたのか?」にもそろそろ移行していきたい。

織田政権、豊臣政権、徳川政権の流れをざっと見るだけでも、本能寺の変の原因の半分は、それまでの社会心理学的観点(歴史的経緯)からでも説明されているといえる。

しかし日本でも西洋でも議会史(教義史・裁判権史=法と律の歴史)として顕著になり始める、聖属社会から世俗社会への移行期の中世から近世にかけての

 12世紀末からの武家社会(世俗政権化)以後と、聖属側の鎌倉仏教の改革以後の人々の変容(資本観念の社会現象)はどのようなものであったのか

 14世紀から15世紀にかけての、建武(けんむ。聖属政権再興)の頓挫と、室町(世俗政権の仕切り直しと大経済社会化)となった変容(資本観念の社会現象)はどのようなものであったのか

 16世紀の室町崩壊から織田政権への改革期、つまり戦国前期(特に半農半士問題)から戦国後期(特に地方議会・家訓の仕切り直しの再統一時代)にかけての、この時期の目まぐるしい社会認識の激しい変容はどのようなものであったのか


の、世俗・聖属それぞれの旧・新のせめぎ合いの社会心理(等族義務と道義の歴史的経緯)が、これまであまりにも補足されてこなかった。

戦国終焉に向かうことは、世俗議会(武家側)も聖属議会(朝廷側)も、今後に向けた日本の等族国家体制(法治国家といえる議会制)に対応しなければならなくなってきていた事態の、その敷居争い(裁判権争い・家長権争い)の決着を意味する。

その意味自体が、これまでの慣習(経済社会の資本観念・等族義務の代替保証=裁判権観念)も大きく改めなければならない刷新期(等族社会化=法治国家化のための大幅な敷居の仕切り直しの時期)だったことが、人類史的にようやく少しは自覚(自己等族統制=等族諸侯としての議席の資格意識)されたことを意味する。

16世紀は日本も西洋も、その文明化(議会改革)の部分においては全く同じだったこと、さらには今までの文化圏を大きく飛び越えた遠方との国際交流をきっかけに、近隣・遠方・内外に関係なくその敷居(国威・格式)が強く意識されるようになった、その社会心理がこれまであまりにも補足されてこなかった。

そもそもどのような経緯で戦国後期(室町末期)を迎えたのか、今後に対応できるだけの家長権(上としての等族義務)が求められるようになっていてもできていなかった、世俗議会(武家政治)聖属議会(朝廷政治)の経緯もどのようなものであったのか、その補足もあまりにも不足していると思い、西洋の例も挟みながら中世から近世にかけての全体像を重点的に紹介してきた。

まずそこを理解できていないと、本能寺の変がなぜ起きたのかも、日本が法治国家らしい形になってきたからこその江戸時代の悩み所の特徴についても、議会史(教義史・裁判権史)の全体像としての歴史的経緯(社会心理)も一向に理解ができない。

織田政権の荀子的独裁制(敷居向上・手本牽引)中心によって、いったん高次元な議会(旗本吏僚体制)の手本前例が示され、豊臣政権で工夫されながらその流れが受け継がれた。

織田政権を肩代わりした豊臣政権によって、天下総無事(天下統一・日本再統一)の流れがいったん作られ、しばらくして徳川政権によって、織田・豊臣時代までに引き上げられた敷居をあえて引き下げる調整がされながら孟子的合議制が整備されていくことになった。

 

室町崩壊期の敷居は2、織田時代の敷居は10、豊臣時代の敷居は8、徳川時代の敷居は5~6くらいと筆者は見ている。

その様子をざっと見渡すだけでも、身分再統制(議席のあり方の刷新)の発端となった織田政権時代に起きた、本能寺の変の特徴は、歴史的経緯(社会心理)の観点で、半分は説明されているといえる。

のちの関ヶ原の戦い(総選挙戦)に至るまでの諸大名(近世大名・等族諸侯)たちのとぼけた内心(道義的な人間関係)表向き(等族諸侯の上としての序列議席の義務)の敷居にしてもそこは同じ、歴史的経緯(社会心理)が把握できるようになれば、そこも段々と理解できるようになっていく。

戦国前期から戦国後期にかけての下克上の変容も、

 

 虚像的(ただの名族高官主義)な議席(権威)なままのただの不健全な奪い合い

 

から

 

 人事改革的(等族議会制の再統一)な仕切り直しに健全化

 

していった違いが十分に補足されて来ず、その違いも一向に認識されてこなかった。

その意味での織田氏(世俗側の台頭)と浄土真宗(聖属側の台頭)の台頭自体が、議会的に何を意味していたのかの歴史的経緯(社会心理)も、しっかり補足されてこなかった。

室町政権(世俗議会)と朝廷(聖属議会・公的教義)の間で、今一度の敷居の仕切り直しの整備(等族義務・再統一)をしなければならなかったのを、中央関係者たち両者がまず、自分たち側の再整備(再統一・再選挙)すら結局できないでいた、深刻な旧態主義に陥り続け、その見通しなど皆無だったことも明白になっていた。

だからその役目を肩代わりできた織田政権(室町に代わる世俗側の代表格)と浄土真宗(公的教義に代わる聖属側の代表格)が、今後の日本のためにやむなくそこも請け負うことになったことも、しっかり補足されてこなかった。

武家社会以降の、この日本の独特な血族意識の家長権を巡る政治の特徴も、そこから弾かれてすっかり溢れるようになっていた半農半士問題(閉鎖有徳問題・惣国一揆問題)の特徴も、その基本的な歴史的背景の認識を不都合とするGHQも含めた時の権力者たちが、そこを認識させないように意図的にうやむやにし続けてきた所になる。

まず元禄(江戸中盤)時代がきっかけの、室町前期以来の文化的な大経済の再来で、身分制議会(政権を脅かし始めるような、庶民同士の閉鎖上下有徳社会や、またはその強力な民政権は作らせない)が半壊し、そこに手に負えなくなるようになった江戸時代後半が、それに当たる。

そして次に倒幕後に、積極的に協力させた人々への四民平等その他の行政改革の約束手形の多くは結局果たされずに、そこ(新たな身分制議会=資本観念の仕切り直し)の失策続きでさっそく手に負えなくなっていた明治政府発足の、最初の10年間の下への圧政(大規模な自由民権運動のきっかけ=国会議事堂ができたきっかけ)も、まさにそれだったといえる。

日本人は室町時代までにはもう、上級武士から各地の半農半士崩れの地元民の下っ端までの皆が、皇室(日本の奥の院の本家筋。聖属側扱い)を主筋とする家来筋(外戚・遠戚)のはずだったという歴史的経緯(社会心理)を、時の権力の不都合によってそこが散々にうやむやに印象操作(民政権の自立意識をそらして下同士でいがみ合わせる)されてきた。

それが繰り返されながら近代には、第一次世界大戦、第二次世界大戦で大変なことになってくると、そのうやむやな天皇神聖論の皇国主義をいきなり国民に軍階級制的に強引に押し付け始めるという、民政権(国会議事堂の本来の目的=等族議会制)軽視のチグハグなことばかりされてきた。

戦後のGHQ政策でも同じく、日本がそれによる本来の健全的(本来の忠君忠友=本来の民政権的)な自覚(品性規律の等族統制=文化改革)がされないように、そこを意図的にうやむやにするための隷属体制(公的教義体制)による虚像身分制を敷いて印象操作(下同士で健全な民権力をもたせないようにいがみ合わせる=姿勢潰し=劣情共有)され続けてきた所になる。

日本人としての日本の歴史的経緯(社会心理)の民権言論(議決性の手本の示し合い・国会議事堂の本来の目的)の大前提の有無について、そこを普段から自分たちで疑い見抜く最低限の関心ももてたこともない、その議決性(等族義務・社会的説明責任・国際的手本指導責任)など皆無にも拘わらず

 自分たちで最低限の整理もできない、だらしない怒り(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有=末期症状の猿知恵)の甚大な負担を延々と人に押し付け合うことしか能がない、自分たちの議決性(育成理念の品性規律・見習い合いの手本牽引)を自分たちで何ら確立(再統一・自己等族統制・身分再統制)してこれなかった

 その最低限もできたこともないにも拘わらず、やたらと偉そうに人にケンカ腰になることしか能がない、公的教義と大差ない身の程知らずの迷惑千万な知覚障害者ども(=騒乱罪予備軍ども=法賊ども=偽善者ども)


のような、そこを完全に丸投げし合い、その負担(ただの劣情)を押し付け合い、下同士で民権言論(育成理念があるといえる議決性)をもたせないようにいがみ合わせ続けるのみ(失望し合い続けるのみ)の徹底機関でしかない公的教義と大差ない、口ほどにもない人生観しかもち合わせていない低次元同士とは、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕ある整理(議決性)の見方を以って、そこを自分たちで疑い見抜いていき、早々に決別した方が身のためである。

この「近世日本の身分制社会」を題材に

 民権言論的(見習い合いの姿勢の提示の国会議事堂の本来の姿)な最低限の等族義務(議会史・教義史・裁判権史)

とは何かも含めた歴史的経緯(社会心理)についての記述(議決性の整理)を集中的に、今回で3年続けている筆者に、競争分量的に半分も、期間的に1年も続けることもできたこともない公的教義と大差ない身の程知らずどもの低次元な歩調に、なぜこちらが合わせなければならないのか、織田信長の議会制の整備の姿勢もそれと全く同じである。

世(国際人道観)のため人(次代たち)のための議決性(等族社会化のための国際的な議会の仕切り直し=上としての等族義務)を自分たちで散々放置してきた、それができたことがない旧室町体質のままの旧態権力者(ただの保身偽善者)どもに対し

 「お前たちがしてこれなかったその整備が、どこよりもできている織田氏の議会制の公認(有力家臣の地位・議席としての正式な典礼)も無しに、何を軽々しく等族諸侯扱い(人の上に立つ地位・議席資格=公務公共を裁決しようとする資格)を得ようと、図々しく偉そうに駆け引きしようとしておるのだ!」

 「それができていない上から順番に制裁(それで不健全に隷属させられ続けてきた下から順番に救済)されて当然だ!」


なのである。

中世から近世への歴史的経緯(社会心理=当事者性)の全体像を見ていけば、織田氏の尾張再統一と美濃攻略の間でも行われていたその人事改革(議会制の仕切り直し・身分再統制)がいかに大きなものであったのか、その時点で他とは大差があった所が、重視されてこなかった。

だから織田信長がその敷居が大前提で中央に乗り込んだ以後の意味自体も、これまでの中央の世俗議会と聖属議会の慣習(等族義務の欠落)のままでは、今後の等族国家に全く対応できないというその歴史観(近世史観・議会史観)も無視され続けてきた。

末期症状の中央議会に、織田氏がとうとうその仕切り直しに着手し始めた 1570 年以後の時期の見方も、戦国前期(惣国一揆時代・閉鎖有徳闘争時代のままの不健全な下克上思想)の感覚のままの、等族義務(議会制)とかけ離れたただの欲望論中心の安直な陰謀論や野心論で何でも当てはめようとする風潮も、いまだに強い。

 

だから、それと決別して新たな裁判権(資本観念)についていけた親織田派と、それについていけない旧態主義のままの反織田派の敷居差の違いもろくに認識されてこなかった。

織田氏の敷居(旗本吏僚体制)による仕置き(裁判権改め)がまだ全国的に着手されていなかった、しかしそれがとうとう全国に具体的に向けられる段階になっていた 1582 年の本能寺の変とは、これまでの荀子的独裁制(敷居向上)の整理から、孟子的合議制(道義的社会)の確定作業にいよいよ入り始めた時に起きた異変なのである。

織田氏になんとか等族諸侯扱い(重役の議席扱い)される側と、格下げで本部(旗本。織田家の武家屋敷)に強制収容される側、または失格(士分待遇剥奪)とされる側の、その身分再統制(士庶分離)の動きは、下々はその意味が中途半端にしか理解できていなくても、上の等族義務のあり方(議決性=身分再統制=地方議会の再統一)が求められるようになっていた戦国後期には、地方の上層たちはとぼけていただけでそこは解りきっていたのである。

本能寺の変以後、日本の後事を一体誰が肩代わりするのかという所についても、織田信長のおかけで日本はせっかく等族国家化(中央再統一・法治国家化)の流れになったのを、それを崩壊させずに日本をまとめていかなければならない意味も、政治的(議会的)に見られてこなかった所になる。

人類史上の法治国家(啓蒙議会の余地)の幕開けだったといえる16世紀の歴史的経緯(社会心理)の

 等族義務(社会的説明責任・国際的指導責任のあり方)の見直し =、公務士分(公務公共性)の敷居改め = 資本観念改め(今までの低次元な指標乞食主義的な時間観念・金銭観念・労働社則観念などが改められる) = 身分再統制

という、自分たちの議決性(国会議事堂の本来の姿=議事録履歴的な民権言論による敷居の見習い合いの姿勢)など皆無なほど、普段から何が高次元な等族義務なのか、何が低次元な劣情共有でしかないのかの違いも、自分たちで区別できないままなのである。

だから織田信長(次いで豊臣秀吉)ハドリアヌス6世(次いで帝国議会)のように、どれだけ批判されてもこれまでの旧態悪習(末期症状の猿知恵=ただの指標乞食主義=劣悪性癖)を一斉にやめさせる特殊監査官(旧態改めの代表格)を誰かが肩代わりしなければ、とても敷居改めなどできる訳がないことも、社会心理的(歴史経緯的)に一向に認識されない所になる。

今後の日本のために、心を鬼にしてその嫌われ役を肩代わりしたのが、織田信長と羽柴秀吉だったのは間違いない。

当ブログではさらに、明智光秀と、また家臣筆頭が強調されていた佐久間信盛も恐らく当初はその一員だったという前提で、順番に説明していく。

今後の対応力(目的構築・組織構想の企画・計画)のための、敷居向上(荀子的手本・借方的)敷居維持(孟子的共有・貸方的)の議決性(当事者ごとの敷居確認の品性規律)の再構築(再統一)の難しさは、現代でも個人間・組織間・国家間で規模が違うだけで、今でも教訓にできる難しさといえる。

その歴史的経緯(社会心理)の認識力(自己等族統制)など皆無にも拘わらず

 「お前には人の気持ちがワカランノカ!」

などと軽々しく偉そうに、公的教義と大差ないだらしない低次元同士の口ほどにもない寝言と泣き言の再確認(ただの指標乞食論・ただの劣情共有・ただの失望共有)を繰り返すことしかしてこれなかった者こそ

 今までのままの日本(組織)で居続けさせてはならない、皆に国際的な誇りと意欲をもたせる法治国家(議会体制)の品性規律(育成理念)の、上としての最低限の等族義務(社会的指導責任・国際的説明責任)を徹底させる大目標(原動力)

のために、その代表格(指揮権)に立とうとすることがもはや小目標(体裁)の織田信長と羽柴秀吉の気持ち(高次元な社会心理の工夫)に少しくらい向き合い、そこを見習ったらどうか。

羽柴秀吉が中央選挙戦(清洲会議・賤ヶ岳の戦い)を制し、新政権的に天下総無事を強めても、遠方諸氏たちはまだ地方間での広域支配戦をやめようとしなかったのは、もはや天下の敷居を巡るのではなく、豊臣氏(中央議会)に地方大手の近世大名扱い(等族諸侯扱い)として認めてもらうための、身分再統制(格下げ)に備えた家格・格式争いが実態だったことは少し先述した。

本能寺の変から2年後、中央の実質の主導は誰なのかが明確化し始めた 1584 年頃の羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、地方のその慌てぶりに内心はあきれながら見ていたのは間違いない。

織田信長の構想もよくよく理解していた、信任のあったその賢臣の羽柴秀吉からいわせれば

 「遠方諸氏どもは、織田氏の敷居の地方再統一(地方議会の再構築=資本観念の仕切り直し・身分再統制)の背中(立証)を、今頃になって慌てて追いかけ始めおって・・・ 10年遅いわ!!

なのである。

話は前後するが、織田信長が中央に乗り込んで近隣から順番にその敷居の低さを恫喝するようになっていた、その頃から遠方諸氏のその風潮は始まっており、しかし浄土真宗がしぶとく抵抗することになったことが、その時間稼ぎになっていた。

まだ自分たちの所には、織田氏による具体的な裁判権改めに及んでいなかった遠方諸氏たちは、だから浄土真宗に荷担しなかっただけで、それが及ぶようになってから慌てて浄土真宗に荷担し始めた毛利氏など、まさにそこが顕著だったといえる。

中央近隣で親織田派と、足利義昭を擁立し始めた反織田派たちで分かれ、途中で反織田派に組した松永久秀や荒木村重ら、のち毛利氏らのように、後になって慌てて浄土真宗に荷担し始めた連中は、織田氏に対抗できるだけの議決性を以って結束できていた訳がなく、そのほとんどが格下げに備えた時間稼ぎが実態だったと見てよい。

本能寺の変も、明智光秀本人の思惑を別にすれば、政治的な便宜の本質としてはそこだったといえる。

賢臣であった明智光秀は、織田氏の敷居で臣従を迫られるようになっていた諸氏たちと、また中央で動揺していた廷臣たちの折衝役を務めていたことで、内外のそうした様子を把握しており、結果的にそれらの時間稼ぎ派側に味方する形で 1582 年に本能寺の変を起こしたことが、政治的な性質になる。

時間稼ぎ派たちは、表向きは世俗側の旗頭として足利義昭を強調していたが、その時間稼ぎ派の実質の立役者は、世俗裁判権と聖属裁判権の高次元な境界を巡って織田氏と激闘していた、聖属側の浄土真宗たちなのである。

何度か説明してきたが、織田氏と直接対決して本体を一度でも粉砕されれば、どこもその団結は長続きせずに総崩れを起こした中、そう簡単に総崩れを起こさずに規律を以って、単独で織田氏を何度も苦戦させることができていたのは、この浄土真宗たちなのである。

この浄土真宗は織田氏の裁判権改めの敷居には及ばなかったものの、戦国前期に中央も地方も何らまとまりをみせることができなかった世俗裁判権と決別する形で、朝廷(中央権威)に頼らずの異例の聖属裁判権運動(聖属一揆=一向一揆)を独自に起こし、先駆けで戦国仏教化(軍閥化)しただけのことはあったといえる。

戦国前期にはまずこの浄土真宗による聖属議会側の仕切り直し(自力教義の敷居の底上げ)によって、世俗裁判権側も(中央議会も地方議会も)聖属裁判権側(公的教義・天台宗の総本山の延暦寺も、他宗も)求心力を大いに低下させ、その危機意識を大いに促進させたことが、ろくに評価されてこなかった所になる。

室町の三管四職(さんかんししき・行政権力機関)体制の崩壊と共に、日本の自力教義(仏教界の等族義務)もそれを支えきれずに化けの皮が剥がれる形で完全崩壊していたのも明白だった、だから浄土真宗がそこに危機感を以って今までの旧態主義(名族高官主義・古参主義)と決別し、そこを支え始めたのである。

 

旧態の家長権(血族意識)も崩壊し、不遇を受けるばかりだった半農半士たちの収容を肩代わりしていた各地の閉鎖有徳(惣国一揆)が、統制不能に陥っていた地方議会の実態を機に、勝手な上下権力と派閥利害を作りながら幅を利かせていた中、そこに危機感を以って聖属議会側の敷居(教義のあり方)を大幅に引き上げたのは、できもしない公的教義(=聖属議会・朝廷の本来の指導責任だった)ではなく、その手本牽引がだいぶできた浄土真宗たちなのである。

本来それをしなければならなかった公的教義(それを中央の特に、朝廷の廷臣たちが管理指導できなけばならなかった)が完全にできなくなっていた、だからそれを浄土真宗が肩代わりすることになったのである。(下剋上の変容=議席によるただの押さえつけ合いと奪い合いから、品性規律ある選挙的な人事改革への変容)

 

等族議会制(法治国家としての品性規律)の敷居に見合わない、利害次第の蹴落とし合いで領地特権の奪い合いを繰り返していただけの、長続きしない(地方議会を整備できない)だらしないただの家長気取りども(ただの領邦君主気取りども)にあきれ、そこに釘を刺し始めたのが浄土真宗たちだったのである。

世俗裁判権側(家長権側・地方の代表格たち)がそれにあせり始め、教義競争的(裁判権争い的)に危機感を以ってのちに巻き返すように台頭したのが、織田氏なのである。

他のだらしない軍閥(戦国大名・地方の代表格)どもは、その織田氏と浄土真宗の競争のような、目まぐるしい高次元な敷居の仕切り直し(身分再統制)の資本観念の変容(裁判権争い)の激しさに、いよいよついていけなくなっていたのである。

浄土真宗よりもさらに高度な議会制の敷居を、今度は世俗裁判権側として先駆けで織田氏に確立されてしまった諸氏は、自分たちの敷居の仕切り直すための時間稼ぎすら、それぞれ単独で自分たちでできるだけの規律(求心力)はもはや無かった。

 

だからその手前の敷居である浄土真宗に連中は頼り切る形で、織田信長と足利義昭の対立や、織田氏と浄土真宗の対立が表面化するごとに、ついていけなかった(著しい格下げは間違いなかった)連中は勢い任せに反織田派に便乗したのである。

しかし 1580 年に浄土真宗(聖属裁判権派)もとうとう織田氏(世俗裁判権派)の言い分に折れて降参したことは、格下げに備えて広域の地方再統一を急いでいた遠方諸氏たちにとって、今まで時間稼ぎをしてくれていたその頼みをいよいよ失ったことを意味した。

廷臣ら中央関係者たちの間で、織田氏に有志扱い(等族諸侯の議席扱い)に公認(合格)された者たちはともかく、その枠に入れてもらえなかった、今後の議決性(中央としての等族義務)と今までの地位の格式(議席)に見合っていないと見なされた者たちの方が大多数だったのは間違いない。

旧態慣習(過去の資本観念)で今まで中央の高官(議席)の立場を維持していたに過ぎない連中らの内心は、そこにいよいよあせっていたのも間違いなく、苦し紛れに武家の棟梁(日本全体の世俗側の代表家長)を気取り続けていた足利義昭の存在などはまさに、その典型だったといえる。

 

浄土真宗が降参する前から明智光秀も、地方再統一に出向いたり、織田政権内の立案で多忙な合間にも、細川藤孝と共に中央関係者たちとの調停に当たっていたため、廷臣たちの内心もよくよく把握できていた。

浄土真宗の降参後、織田家中筆頭のまとめ役であった佐久間信盛が失脚し、明智光秀が朝廷との折衝のまとめ役に加え、諸氏たちとの調停も代行するようになるが、その時に廷臣らも諸氏らも相当あせって、明智光秀にかなり泣き付いたり、あるいは腹いせの怒りを明智光秀にぶつけていたのも間違いなく、本人も改めて思う所が多々あったのも間違いない。

廷臣たちは建武(けんむ。聖属政権の再興運動)の失策以来、歴史的なその教訓が朝廷(聖属議会)に活かされていたとは、とてもいえなかったのは、相変わらず自力信仰一辺倒(ただの指標乞食主義=ただの古参主義=ただの劣情共有=末期症状の猿知恵)で偉そうに居座り続けるのみの公的教義(比叡山・延暦寺)のだらしなさ(等族義務の無さ=議決性の無さ)から明白だった。

朝廷(聖属側の中央議会)は、他力信仰重視を新興的に始めた浄土教のことを、今まで通りの聖道門主義(今まで通りの自力信仰一辺倒・ただの古参主義)に従わないという理由でこれまで散々格下扱いしてきたのを、日本の自力教義の主導の座を逆転されて以降は、皮肉なことにその浄土真宗のおかけで、朝廷(廷臣たち)の議決性を見直す時間稼ぎになっていた有様だったのである。

廷臣たちのそのあせりとは、織田氏の敷居による中央の仕切り直しによって、今までの名族高官主義は改められ、具体的に格下げされることももちろんだが、なにより

 「今後の等族国家に対応できるだけの敷居の議会(裁判権)の仕切り直しを自分たちでしてこれなかったことが、織田信長のせいでそれが既成事実にされてしまう

ことの、制裁する高次元側制裁される低次元側議会の敷居差(回収・整理・提出・裁量の公文書・誓願書の手続きの力量=等族義務)を見せつけられ、そこがはっきりしてしまったことの方が、より深刻で気まずかったと見てよい。

 

それは、まだ具体的な仕置き(裁判権改め)を受けていなかった地方の上層たちも、そこは同じである。

 

織田氏の敷居に十分に対応できていないことの降格だけでは済まない、今まで地方の当主(代表家長)を信じて頑張って足並みをどうにか揃えてきた部下たちの、その多くの士分待遇(地方吏僚の資格)剥奪も必至だった、そこにあせっていたのも同じである。

その整理もできていなかった中、等族国家としての朝廷(聖属議会)の今後のあり方の議決性について、結果的にたったの10年そこらで織田氏から整理・提出を求められ、身分再統制の格下げに備えなければならなかったその時間の猶予も、浄土真宗の降参によっていよいよ無くなることを意味していた。

 

この高次元な手本牽引(織田信長)のせいでそれが既成事実にされてしまうというだらしない低次元な見方しかできなくなっている、自分たちの主体性(目的構築・組織構想の育成理念といえる議決性の見習い合い)など皆無だった、その人類史的な愚かさと恐ろしさに永遠に無自覚(無関心・無神経・無計画)で居座り続けようとするこの根深い社会心理の意味が、GHQと大差ない今の公的教義体質(低次元化)に今まで屈し続けてきた多くの日本国民が果たしてここをしっかり理解できるか解らない、それを伝えるのも簡単でないと筆者は思ったから、それを補足する「本能寺の変とは何だったのか」の副題部分だけで、ここまで24頁分(1頁あたり平均1万4000字)を書いてきたのである。

 

人は、本来の裁判法の敷居向上の基本である、その社会心理(歴史的経緯・当事者的経緯)に無関心・無神経なまま、よその落ち度の大小が目についた「その時だけ」ただ劣情(末期症状の猿知恵=ただの指標乞食主義)を膨らませ、調子に乗って勢い任せに「その時だけ」熱心にうちのめし合うことしか繰り返してこなかっただらしない実態に、普段から疑い見抜くことなど大半はできいないのである。

 

そこに普段から用心できていない、すなわち道義性議決性の範囲の最低限の区別も自分でできずに、よその偉そうな偽善威力に過ぎない世の中の正しさとやらで、世の中(社会心理)を解った気に錯覚したがっているだけの公的教義と大差ない低次元な手口に、いつの時代も多くはそれにまんまと乗せられ続けるものなのである。

 

そこに普段から冷静さ慎重さ丁寧さの余裕ある整理の見方で疑い見抜くこともしてこれなかった、「そうなってから」「手遅れになってから」「その時だけ」ただ怒り(ただの劣情共有・ただの失望共有)を向け合うことしかしてこなかっただらしない法賊(偽善者 = 視野の狭い非国際的な閉鎖有徳 = 組織崩壊・傾国の原因の騒乱罪予備軍)

 

 和解(敷居向上の見習い合い)を大前提に競うという、等族国家(法治国家の議会制の品性規律に準じているといえる、その等族義務=社会的説明責任・国際的指導責任の手本牽引)の本来の姿勢

 

などもてている訳がなく高次元な手本牽引(織田信長)のせいでそれが既成事実にされてしまうの深刻な歴史的現象(社会心理)を、理解できる訳もない所になる。

 

そこが皆無な、世の中の正しさとやらの偉そうな虚像(=最後の砦の急所)の、その精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまうような、自身たちのその自助整理(人文性)できていない劣情(低次元な敷居)を軽々しく人に向け合おうとする、その愚かさの自制(自己等族統制)から始められない法賊(偽善者)どもが、何を偉そうによその他助整理(啓蒙性)「人の気持ち(=社会心理)」だというのである。

 

これを指導できる者(説明責任をもてている者)が今の日本に皆無な中、20代や30代が筆者のいっていることに難しさを感じるのも当然の話になる。

 

筆者層の今の40代が、60代や80代の時代遅れの劣情との決別もろくにできずに、それを10代、20代、30代に向けてうちのめし続ける悪循環を、40代あたりが最もやめさせなければならない。

 

20代や30代でそれができなくても当然で、ただし早い段階で40代に備えて自分からその観念的な準備に取り組むことは、何にしても重要になる。

 

これは20代や30代を筆者があなどっている訳ではなく、世の中の愚かさ(改善究明の統計)を確信的に認識(自己等族統制)できるようになるためには、40代くらいにならないとどうしても難しい所で、いずれにしても簡単ではない話になる。

 

20代や30代でこれを読んでいる人がいるかどうか解らないが、筆者の観念に今すぐについていけなかったとしても、そこに落ち込む必要など全くなく「こういうことをいっていた人がいた」だけでも十分である。

 

1万文字以上を今回で96頁分の、合計100万文字で歴史的考証(社会心理)に集中的に説明責任を筆者がしていても、この言い分に100万人中に1人が関心を向けるかどうかも、怪しいものなのである。

 

20代や30代は、人を踏み台にし合いながら、個人の敷居向上(見習い合い)の機会を奪い合うことばかりに皆が熱心でそれも難しい中、組織全体(社会全体)の敷居向上はさらに難しいというその実態を、まずは冷静に認識することが大事な所になる。

 

その中で筆者としても、それを伝える難しさを心得ているからこそ「これだけ説明したのに、なぜ解らないのだ!」などと偉そうな態度など採るつもりなどなく「この説明の仕方で、一体どれだけ伝わるだろうか?」の地道さを今も基本としている。

 

記述を開始した 2019 年の最初の方でも説明していたように、そもそも20代や30代はそう熱心に読み続けることもないだろうと、当初は見立てていた。

 

だから当初もいっていたように、筆者が手厳しく向けているのは20代や30代に対してでなく、40過ぎてもまだ60代や80代どもの低次元な劣情(末期症状の猿知恵)と決別できていない連中に対してなのである。

 

20代や30代に悪影響を与え続ける法賊(偽善者)どもの、その口ほどにもない精神的支柱(最後の砦の急所)上から順番に全て粉砕(敷居向上の議決性など皆無な世の中の正しさとやらの押し付け合いをやめさせる)になるよう、そこをできるだけ直撃しようとしているのである。

 

何かのきっかけ以後に「そのことに強く関心(当事者性・議決性)を向け続けるようになった」というほどのものでない、その時にたまたま遭遇的に意識が向いたに過ぎない、何の準備(体制)もできていない(大して向き合うことなどできていなかった)者は、自分が思っていたことと違うというだけのだらしない劣情をただ膨らませ、ただ失望し合うことしかできないことも、20代や30代にはその愚かさを認識(自己等族統制)することもどうしても少し、難しい所になる。

 

織田信長も当時の、大人ぶるばかり、家長ぶるばかりで万事行き当たりばったりの廷臣たちの、そういう頼りない所を問題視していたのである。


次は、織田信長の観点、明智光秀の観点、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の観点から、それぞれ当時をどのように見ていたのか、歴史的経緯(社会心理)を挟みながらその考察について、触れていきたい。