近世日本の身分制社会(101/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか29/? 2022/07/02

 

1569 年に織田氏に中央に乗り込まれて以来、その監視下の保護監察扱いに置かれるようになっていた廷臣たち(聖属議会側・朝廷側)は、1582 年まで聖属議会側としての議決権の再構築にモタモタやっていた。

反織田派の実質の支柱であった本願寺(浄土真宗)も、1580 年にはとうとう織田氏に降参・和解に動くようになるが、これは戦国前期から長らく100年近く解決されないで来ていた、世俗議会側聖属議会側の仕切り直しの線引きが、とうとう織田氏の等族議会制によって具体的に再整備されることを意味した。

本願寺(浄土真宗)に織田氏への降参・和解に動かれ、高次元な仕切り直しが具体的にされてしまうこと自体が、格下げも必至になっていた有力諸氏たちにとってはこの上ない不都合だったのである。

足利義昭を庇護して反抗した毛利氏も、中央近隣の反織田派たちも、織田氏との敵対関係が続いた武田氏も、途中で反抗に回った荒木村重松永久秀も、織田氏と本願寺(浄土真宗)の和解、すなわち世俗議会と聖属議会の中央議会的な再整理を遅らせる時間稼ぎの妨害に動いた。

同じくそこに気まずい廷臣たちは、本来は織田氏(世俗議会の肩代わり)と本願寺(浄土真宗。聖属議会の肩代わり)の和解工作を後押しして良い所を見せておかなければならない立場だったはずも、それができるだけの聖属側としての議会体制(自力信仰と他力信仰の収拾)などできていなかった。

旧中央関係者らの中には、潔く織田氏に臣従して協力的に動いた者たちや、反抗はせず中立に立った者たちは良しとし、時間稼ぎの反抗を始めた連中の往生際の悪さには、その情勢をよく理解できていた明智光秀、羽柴秀吉の2人も、内心は少しあきれていたと見てよい。

1569 年から 1582 年は中央近隣から

 

 寡頭主義任せ(時代遅れの旧態慣習任せ・外圧任せ)にケンカ腰に調子に乗ることしかしてこなかった低次元側

 

と、

 

 自分たちで敷居確認していく等族主義(今後の議席序列と譲り合いのあり方)に観念できていた高次元側

 

との、その身分再統制(等族議会制)の形が、織田信長によってはっきりさせられていく、日本の歴史記念的な年間だったといえる。

表向きの世俗全体の代表格(武家の棟梁=世俗全体の代表家長の家系)だった室町将軍家の足利氏には、もはや世俗議会を再構築できるだけの力など残っていないほど、劣化衰退し切っていたのは明らかだった。

だからこそ織田氏が、その国事を肩代わりすることになった意味も、特に明智光秀と羽柴秀吉の2人はそこをよく理解していたと見てよい。

聖属側も同じ、だらしない公的教義(延暦寺・天台宗の総本山)は中世(寡頭主義)のまま自力信仰(聖道門・しょうどうもん)一辺倒(落ち度狩りのみの低次元な敷居維持)を自分たちで改められずに、劣化衰退し切っていた。

言葉・用語・聖典の悪用独占支配特権(寡頭主義)にただしがみつき続け低次元なその手口でただねじ伏せ合うのみ(全て外圧任せに気絶・思考停止し合うのみ。失望・劣情共有し合うのみ)しか能がない、今の日本の教育機関と大差ない知覚障害者(偽善者)どもが、議決性(国際性ある等族義務=法治国家の手本牽引)など皆無なのもはっきりしていた。

世(国際人道観)のため人(次代たち)のための時代に合った敷居確認などできたことがない時点で、自分たちの国事(世界情勢への国威格式の対応)を自分たちで何も大事にしてこれなかったのと同じである。

織田氏の高次元な等族議会制(身分再統制=時代遅れの旧態資本観念の仕切り直し)による、世(国際人道観=国際文化技術交流観)のため人(次代たち)のためといえる謄本登録的な、織田氏と同列といえる公正な公文書・誓願書の議事録管理(敷居確認文書=裁判資料の整理)など、他はできていなかった。

聖属議会(朝廷体制)もこれからは、近世(等族主義)に対応できるものにしなければならない、日本全体の自力教義体制(寺社・有徳のあり方)も今後は時代に合った等族指導ができる更新を、しなければならなかった。

それを、何かあればうやむやに騒ぎ合うことしかしてこれなかった、その管理責任(等族義務)を今までしてこれなかった旧中央関係者ら、特に廷臣たちが、それを自分たちで再構築・維持していけるのかも怪しかった。

日本の自力教義の実質の主導を、他力信仰の本願寺(浄土真宗)に完全にもって行かれて以降、何ら巻き返すことなどできなかった、中世(寡頭主義任せ)のまま無神経・無関心・無計画に居座り続けてきた公的教義(比叡山延暦寺・天台宗の総本山)に、重要な役割など何も任せられないことも、もはや明白だった。

廷臣たちはこれまで、朝廷(聖属議会側)の管理指導責任(等族義務)に向き合わなければならなくなる事態に直面するたびに、世俗議会側(旧室町政権側)にまとまりのなかったことをいいことに騒ぎ合い、旧態派閥利害で内外を巻き込み合い、永らくうやむやにし続けてきた。

今までその手口でうやむやを続けてきた中央関係者ら、特に廷臣たちは、中央に乗り込んで来て等族議会制を敷き始めた織田氏によって、とうとうその社会病的な劣悪性癖の取り締りを受ける日が訪れたのである。

日本の政体の世俗社会化が13世紀から顕著になったといっても、有力諸氏同士の騒乱はたびたび続き、15世紀あたりから半農半士問題(閉鎖有徳問題)も深刻化し始めた中、聖属議会側(朝廷と公的教義)はその事態の収拾と和解(健全化のための敷居確認)の後押ししなければならなかった、その本来の国事(等族義務)をしてこれなかったのもはっきりしていた。

自力信仰(聖道門主義)一辺倒(低次元な外圧任せの寡頭主義)のままの公的教義(延暦寺・天台宗)が、今まで散々格下扱いしてきた後発の他力信仰の本願寺(浄土真宗)に、とうとう日本の自力教義の主導をもっていかれて以降、日本国内の自力信仰(敷居維持=不都合完結)他力信仰(敷居向上=主体都合継続)についての融和的(身分再統制的)な再整備(聖属議会側の地位・議席の仕切り直し)もいい加減にしなければならない事態になってきていたのも、はっきりしていた。

中央も地方も一向にまとまりを見せなかった戦国前期に、長引いた閉鎖有徳闘争(惣国一揆・半農半士問題)に深刻に取り組むようになった本願寺(浄土真宗)が、あてにならない世俗裁判権側(武家側)と中央教義(延暦寺)をとうとう無視(=その公認力など無力だと遠回しに言い放ったも同然)する形で、聖属裁判権の再興運動を独自に始めてしまった。

戦国前期(室町体制の崩壊=三管四職体制の崩壊が決定的となった応仁の乱以降。さんかんししき)は中央も地方も上同士でただ揉めてばかりで、何の見通しもなく、ただ下々を振り回し続けるばかり、ただ閉鎖上下社会(反合理化・反多様化)を強める収奪合戦を繰り返すばかりだった。

世俗議会(家長権)のあり方に見切りをつけ始めた各地の武士団の中には、聖属裁判権の再興運動を始めた本願寺(浄土真宗)への鞍替えを以って、今までの主従関係の解消に動き始める地域も、戦国前期には顕著になっていった。

等族義務(裁判権の整備・身分再統制・敷居向上のための選挙的な議席の仕切り直し)を果たさない、過去の名族高官主義(寡頭主義任せ)にただ頼っているだけのだらしない地方の代表家長たちの求心力は、著しく低下(低次元化)していった。

応仁の乱で室町体制の崩壊が決定的になるその前から、上は下々をただ振り回し続けるばかりで、もはや上から下まで何を基準にしていいのかも誰もが解らなくなって、どこも迷走するようになった。

各地の武士団も、自分たちの生活権を守るために地域ごとの有徳(寺社)と結び付いてただ閉鎖社会化(反合理化・反多様化)を強めるばかりで事態は一向に好転していかない一方で、そこを憂慮し始める地域も出てきた、だから本願寺(浄土真宗)に鞍替えし始める武士団(自治体)も増えるようになった。

 

本願寺(浄土真宗)への鞍替えの意味は、これはただの宗派の鞍替えだけでない、今までの納税や労役(軍役)などの従事義務に関することは、これからは本願寺(浄土真宗)の聖属裁判権の再興運動に荷担することを意味していたのである。
 

誰も議決性(時代に合った等族義務=手本家長としての品性規律=議席の敷居)をはっきりさせられないうわべばかりの主従の中の派閥利害闘争(不都合のただの押し付け合い)をただ繰り返しているだけで、地方議会の仕切り直し(地方再統一)が進む訳がないことにいい加減に深刻に向き合うようになっていた。

世俗側にしても中央の聖属議会(朝廷と公的教義)にしても、どこもあてにならない低次元同士の今まで通り(寡頭主義任せ=指標乞食主義任せ=失望・劣情共有任せ)の足並みの揃え方を繰り返した所で「ただ共倒れするのみ」だった、自分たちのその愚かさ・だらしなさも少しは向き合われるようになった。

どこもあてにならない今までの世俗議会も聖属議会も無視の、聖属裁判権の再興運動を本願寺(浄土真宗)が独自にとうとう始めてしまったその煽りを受け、地方議会側(地方の代表家長を中心とする等族指導力・裁判力)はいよいよ求心力の低下も決定的になっていった。

 

先駆けで軍閥化(戦国仏教化・戦国組織化)し、独自の聖属裁判権の再興運動(等族義務の仕切り直し)の支持的領域戦(等族指導競争)を本願寺(浄土真宗)ついに始めてしまい、その煽りに世俗側(武家側)が脅威を受けるようになったからこそ、世俗側(武家側)やっとそこに危機感をもったのである。

 

その煽りを受けてやっと、地方の代表格(手本家長の姿勢=等族義務)として家臣団をまとめていかなければならないという、その基本が今までできていなかった自分たちのだらしなさに、世俗側(武家側)もようやく慌て始めたのである。(戦国後期)

地方ごとにまとまりを見せ始める地方再統一(地方議会の仕切り直し)が顕著になる、その健全化がようやく見られるようになる戦国後期(等族指導競争の総力戦時代=手本家長の示し合い)に向かい始めたのは、聖属側の保護保証も、閉鎖有徳の取り締まりも全く整備できなくなっていた、ただ下々を振り回すことしかできなくなっていた世俗裁判権側(室町体制=三管四職体制)と中央聖属議会側(朝廷と公的教義)についにあきれた本願寺(浄土真宗)が、「あなた方がそのつもりなら!」の独自の聖属裁判権の再興運動をとうとう始めてしまったことがきっかけだったのである。

日本全体の教義崩壊(等族義務崩壊)の深刻さを受けて、とうとう領域争い(裁判権争い)の軍閥化(戦国組織化)を始めた本願寺(浄土真宗)に、だらしないことに世俗側はその敷居に追いつけるような指導者(地方の代表格)など皆無だったこともはっきりさせられる形で、世俗議会側の求心力も低下する一方だった、だからこそ慌て始めたのである。

世俗社会化といっておきながら世俗側は、室町の高度成長経済期(室町将軍の3代目の足利義満時代)以後は政体(議会)らしい形がどんどん怪しくなっていった、そして中央教義(朝廷と公的教義)もそれをろく支えることもしてこれなかった、その化けの皮が本願寺(浄土真宗)にとうとう剥がされてしまったも同然だったといえる。

日本の自力教義の釘刺し(健全化)を本願寺(浄土真宗)が後押しできていて、公的教義(延暦寺・天台宗の総本山)が何ら後押しなどできなかった構図もはっきりさせられてしまった、それ自体が日本の自力教義の主導を本願寺(浄土真宗)が肩代わりすることになったのも同然だったのである。

戦国後期にとうとう世俗側が、その巻き返しに具体的に動いたのが織田氏である。

今までの深刻な半農半士問題(閉鎖有徳問題)を解決するべく、尾張再統一によって旧態の一掃(閉鎖有徳改め。武士団ごとの家長権改め=身分再統制)を示し、全国に終止符を打つための旗本吏僚体制(前期型兵農分離=公務士分の敷居の高次元化の仕切り直し)の、大幅な敷居向上体制を敷き始めたのが、織田信長だったのである。(そのきっかけを作っておいてくれたのが、先代の織田信秀だった)

もはや何を基準にしていいのか解らなくなっていたからこそ、原点回帰的(等族主義的)に禅の思想や礼法文化も見直されるようになった戦国後期は、今後の等族義務(法治国家的な議会)のあり方に、議決性(名目・誓願の公文書といえる敷居確認の議事録管理)も無しに迂闊なことを軽々しく無神経・無関心・無計画に押し付け合ってきた今までの愚かさ・だらしなさに、慎重になっていた。

本願寺(浄土真宗)が聖属議会が肩代わりを始めたことも、織田氏が世俗議会の肩代わりを始めたことも、もはや既成事実になっていた。

 

今まであまりにも乱暴すぎた言葉・用語・聖典・礼法の悪用(孟子悪用主義=全て外圧任せの指標乞食主義)しかしてこなかった、議決性(等族義務)など皆無な今まで通りの軽々しい正しさの言い合い(=全て外圧任せの寡頭主義の弊害負担の押し付け合いを繰り返してきた、自分たちの愚かさ・だらしなさ)も情報統制的(民権言論的)にやめさせていかなければならなかった。

戦国後期までのその部分は、前後の歴史経緯(社会心理)でその情勢を整理していかなければ、文献をただ追っているだけではそこが何も見えてこない所になる。

軍閥化(戦国仏教化)した本願寺(浄土真宗)の領域争い(敷居争い・裁判権争い)に、世俗側の地方の上層らは腰が引けていたように気まずいばかりになっていた。

 

そんな中で、織田信長がそれを巻き返すように世俗裁判権側(世俗議会側)としての大幅な敷居整備(前期型兵農分離・旗本吏僚体制=身分再統制)で先駆けで台頭したために、ますます高次元化した敷居競争に各地の有力諸氏らはさらに気まずくなった。

どこも中途半端な地方再統一しかできていなかった、どこも中途半端な地方議会(家長権と議席序列の仕切り直し)の整備しかできていなかった代表格同士で、中途半端な領域争いをモタモタやっている間に、織田氏に大幅な身分制議会(公務士分の敷居の仕切り直しの等族義務)の手本を見せ付けられてしまうことになった。

尾張の元々の代表家長であった、衰退し切った斯波氏(しば)の親類代理として、尾張介入を続けていた駿河の大手の今川氏は、織田信秀によるよそ者権力(今川権力)の追い出し運動の尾張再統一によって、今川氏によるそれまでの尾張の支配介入権は、大いに失うようになっていた。

そしてその次代の織田信長が、さらなる躍進の尾張再統一(身分再統制)によって台頭されてしまったことで、今川氏はもはや尾張の支配権の取り戻しにこだわっている場合ではない事態となった。

その敷居(前期型兵農分離と旗本吏僚体制=国家構想)で整備できている高次元側と、それができていない低次元側の力量差を見せ付けられてしまった、この時点でもはや今までの今川氏と織田氏の力関係も逆転したといっていいほどの脅威となった。

何を基準にしていいのか、その判別も簡単ではなくなってきたからこそ、世の中の正しさとやら(外圧任せの寡頭主義)の乱暴な押し付け合いもいくらか自粛するようになった戦国後期は、社会観念がめまぐるしく変容していった移行期になる。

めまぐるしく変容していく情勢を、下々が理解するのには時間はかかったが、等族義務(議決性ある選任的な議席序列)が求められるようになっていた地方の上層は、とぼけていただけでその認識自体はできていたのである。

ここも、ただ文献を追いかけているだけでは、議会的に変容していった戦国前期から戦国後期の移行期の歴史経緯(社会心理)の整理的な見方ができていないと、何が起きていたのかが一向に見えてこない所になる。

今まで延暦寺(天台宗の総本山・公的教義)から散々格下扱いされてきた本願寺(浄土真宗)が、その主導立場が逆転してしまったように、足利一族(室町将軍家の親類)として尾張で権威を振るっていた斯波氏、同じくその親類一族として遠江と駿河で権威を振るっていた今川氏と、方や斯波氏の有力家臣の中の家来筋の格下のはずであった弾丞家(織田信秀・織田信長の家系)との力関係が逆転してしまったも同然だったのである。

尾張における今川権力(斯波家の支配代理権力)の風潮など、いい加減に怪しくなっていた中で、今川氏は過去の尾張の代理支配権にこだわっている場合ではなかった、織田氏の敷居に対応するべくの今一度の、地元の駿河・遠江の再統一(身分再統制=議席の仕切り直し)をしなければならない時期に来ていた。

ところが今川氏の上層は、次世代的な敷居向上(尾張再統一)を果たした織田信長を潰しにかかることを優先し、時代遅れの旧態体質のまま尾張に乗り込み、織田氏に桶狭間の戦いを挑むことになった。

東海道筋の大手として永らく優位に立ち続け、今まで名族意識の権威任せ(寡頭主義)を強め過ぎてしまった今川氏の上層は、その挑み方自体がもはや自分たちの敷居を仕切り直すような気力など残っていなかったも同然の、すなわち時代遅れの威勢で権威を振るうことしか能がない、だらしない集まりに成り下がっていたも同然といえる。

今まで三河介入と尾張介入にこだわってきた、それで4ヶ国の実力者であるかのように大手を気取ってきた今川氏は、ここで織田信長の台頭に何も手を打てなかったという既成事実が成立してしまえば三河介入の今までの権威も怪しくなってくる、それに気まずくなる弊害負担を自分たちで作ってしまっていた。

何もしない訳にもいかない中、かといって駿河・遠江の再統一にも乗り出せないでいた、だから無理をして大軍を動員して織田信長に挑まざるを得なくなっていた。

典型的な仮想敵設定の手口ともいうべき、自分たちの課題(弊害負担)の注意をただ外部にそらしているだけの古臭いだらしないやり方に頼らなければ、自分たちの組織性(社会的信用)を維持するのも困難になっている今川氏の上層たちの方が、よほど窮地だったといえる。

旧態体質任せ(権威任せ・寡頭主義任せ)に大軍を動員できても、織田氏のような兵農分離(身分再統制・公務士分の仕切り直し=常備軍体制の品性規律の仕切り直し)などできていない、すなわち長期派兵(支配地先の取り締まり=閉鎖有徳改め=裁判権改め)の合理化・多様化体制(吏僚体制=議会体制)など、今川氏はできていなかったのである。

だからこそ今川氏も大手を自負するならなお本来は、それができるようになるための地元の駿河・遠江の再統一(地元議会=等族義務の敷居の仕切り直し)を、しなければならなくなっていたのである。

いくら大軍を動員しようがそれができていない、勢い任せ(ただの数任せ=ただの指標乞食任せ=ただの失望・劣情共有任せ)に頼っているだけの2ヶ月も維持できるかも怪しい遠征軍しか編成できないよそ者の今川氏が、5年以上かけて織田信長がさらなる再統一(等族議会制の制定=国際性ある議事録管理の等族主義による仕切り直し)を果たした尾張を、今までの旧態体質(寡頭主義。ただの威力任せ・外圧任せ)通りのままの安直な考えで、短期間で確固とした支配権(議会制)を確立できるのなら、戦国時代はとうに終焉しているのである。

今の日本の低次元な教育機関の法賊(偽善者)どものように議決性(等族主義の手本=裁判権の敷居)の示し合いなど皆無な、旧態観念(全て外圧任せ=全て寡頭主義任せ=ただの共倒れの指標乞食主義任せ=ただの失望・劣情共有任せ)の押し付け合いが原因の自分たちの弊害負担(課題)の押し付け合いの愚かさも、自分たちで見直す最低限もできたこともない低次元同士が、組織全体(社会全体・世界全体の啓蒙性)を再構築(等族規律化・国際人道化・合理化と多様化の健全化)できる訳がない。

 

寡頭主義から等族主義への切り替え(人事・議会の敷居改革)にどう向き合われてきたのか、それがどのような歴史経緯(社会心理)だったのかのを、議事録整理的に計れる高次元側と、計れない低次元側とで差が出てくるのは、いつの時代も同じである。

尾張に大軍で押し寄せてきた今川軍を桶狭間で派手に撃破し、美濃攻略でのさらなる組織改革・裁判権改めで、他との敷居差の明らかな違いを見せて評判になっていた織田氏は、中央進出後には聖属軍事権(有徳による武力自治)の規制を巡って本願寺(浄土真宗)と争うようになる。

敷居競争の担い手となった世俗側(織田氏)と聖属側(浄土真宗)との高次元同士の頂上決戦が始まると、それになんとか順応しようとした有志たちと、それに全くついていけずに格下げも必至だった、人の上に立つ資格(人にケンカ腰になる資格)などないにも拘わらず旧態の議席にしがみついて、旧態敷居のままの人格否定(合格・失格)を繰り返そうとするの法賊(偽善者)どもとの、議会改革の選別(等族諸侯・公務士分としての身分再統制。その地位・議席の敷居整備)もいよいよ加速した。

この、世俗議会の肩代わりを始めた織田氏と、聖属議会の肩代わりを今までしていた本願寺(浄土真宗)の、高次元同士の頂上決戦ともいうべき敷居争いに、旧中央関係者も、中央近隣の旧態的な有力諸氏たちもいよいよついていけない事態を迎えることになった。

人の上に立つ側(等族義務を指導する側)として、次世代的な議会制(=等族議会制)といえる、世界規模の国際交流にもこれからは対応していけるだけの、敷居確認の議事録を整備・更新していく等族国家体制に、これからは向き合っていかなければならない、世界全体がその転換期に来ていた。

織田信長がそのための中央改めについに動くと、今までの旧態観念(反等族主義=寡頭主義)のままの地位(議席)にしがみ続けようとする法賊(偽善者)どもは、その化けの皮が剥がれていくように足利義昭派(旧態派・反刷新派)に荷担し始めるが、連中は織田氏と本願寺(浄土真宗)が対立したことをきっかけに、身分再統制への時間稼ぎに便乗したに過ぎないのが実態だったと見てよい。

中央関係者や近隣の有力諸氏の中には、中央に乗り込んできた織田氏の敷居に観念し、格下げ覚悟で臣従して協力的な姿勢を採った者たちも少なからずおり、それらは今後の国事の憂慮は少なくともできていたといえる。

しかしそこをとぼけて反織田派(旧室町派の表向きの足利義昭派)に荷担した有力諸氏らは、単独では織田氏に反抗などどこもできなかった、だから今までの聖属裁判権を巡って織田氏と折り合いが採れなかった本願寺(浄土真宗)に頼り切って、その対立に便乗して織田氏の中央再統一を遅らせる時間稼ぎに荷担していたに過ぎないのが、実態だったといえる。

本願寺(浄土真宗)と織田氏が早々に和解されてしまうことが、反織田派にとって気まずいことこの上ない重要事項だったのである。

織田氏に、世俗議会と聖属議会の政教整理を具体的に進められてしまうことが、新たな中央政権(等族議会体制=これからは世俗議会が中心の公正な議事録整理による、謄本登録的な法治国家体制)の既成事実も、いよいよ決定的になってしまうことを意味した、だからそれを少しでも遅らせようと妨害を始めたのである。

その重要な意味を、旧態なままの反織田派らの上層は、今まで下々にそこを等族指導(裁判権改め)し切れずにとぼけていただけで、そこは解りきっていたのである。

今まで誰もできなかった、しかし今後の日本のために誰かがやらなければならなかった世俗議会側と聖属議会側の政教整理(等族議会制の確立)は、もう織田氏しかできなかったことも明らかだった。

逆にいえばそれができる者がせっかく出現しても、人をただ踏み台にし合ってきただけの今まで通りの旧態慣習(時代遅れの寡頭主義=だらしない偽善権威)に延々としがみついて妨害を始める迷惑千万な連中が多数出てくるのは、地方再統一(地方議会の仕切り直し)にしても、現代の組織性に関してもそこは同じである。

いつの時代も再構築(矯正健全化の敷居向上)をあまりにも簡単に考え過ぎている者が多い、だからこそその1億総偽善的なだらしない精神的支柱(反等族主義=反議決性主義=寡頭主義)全て粉砕・再起不能にしてやるほどの圧倒的な力量差(国際的な品性規律といえる社会的説明責任・国際的指導責任の手本牽引)で示し返すことが必要なのである。

 

議決性など皆無な争いを何度も再発させないという、最低限の基本前提ももてていない低次元同士が、そう簡単に再構築(矯正健全化の敷居向上・議会改革)できる訳がない所は、ここは現代の個人間・組織間・国家間の敷居確認の姿勢についても同じである。(韓非子が強調している部分)

 寡頭主義(時代遅れの外圧任せの旧態権力=ただの指標乞食主義=ただの失望・劣情共有)と等族主義(次世代型議会制=育成理念の品性規律といえる議事録整理=敷居確認の議決性)の区別(自己等族統制)

 荀子的独裁制(目的の借方的な負担裁量の整備・他力信仰的=社会責任的・啓蒙的・合理的な手本牽引・リーダーシップの敷居向上)と孟子的合議制(目的の貸方的な達成のつじつま・自力信仰的=自己責任的・人文的・多様的な敷居維持)の線引き・使い分け


できている高次元側できていない低次元側、の力量差の推移も自分たちではっきりさせられない、すなわち自分たちのその情報統制(自分たちに合った必要な観念と不要な観念の整理=議決性)の再構成も自分たちでできていない自分たちの深刻さに自分たちで向き合ったこともない、ただ上(自分たち・古参)に甘く、下(外・新参)にただ厳しいだけ(ただの寡頭主義)の今の日本の教育機関と大差ない低次元同士が、よそのことで解った気に偉そうにケンカ腰に調子に乗っている場合ではないのである。

 等族義務(国際社会的といえる社会的説明責任・国際的指導責任)の示し合い(民権言論的な敷居確認による見習い合い)

 国会議事堂(国際的な世俗議会)の元々の象徴目的の品性規律といえる、民権言論的な意見整理の敷居確認(示し合い・見習い合い)


から始められない、その敷居差をはっきりさせ合うための自分たちの最低限の議決性(等族義務の品性規律)も自分たちで構成できたこともない、今の日本の教育機関と大差ない低次元な知覚障害者(偽善者)どもが、世(国際人道観・今後の国際文化技術交流も視野に入れた人文性=多様化と啓蒙性・合理化)のこと、すなわち人(次代たち)のことを憂慮できるだけの知能などある訳がない。

それができている高次元な織田信長が、等族議会制(等族主義化の敷居向上のための裁判権改め)の手本を以って、それができていない低次元な旧態たちに、そこにとうとう身分再統制(議席改革)を突きつけ始めたのである。

その足を引っ張ることしか能がない、人の上に立つ資格(合格・失格を裁量できるだけの等族義務=社会的説明責任・国際的指導責任といえる議事録整理力)など皆無にも拘わらず、身の程知らずにもそのことで図々しく軽々しくケンカ腰になる(格上を気取ろうとする・手本家長を気取ろうとする)ことしか能がない、議席の譲り合い(自分たちの等族統制)も自分たちでできたこともない法賊(偽善者)どもが、

 

 高次元な身分再統制(議席・公務士分の敷居の仕切り直しの人事改革=法治国家としての文化力・国威改め)による等族諸侯扱い(国際性ある手本牽引の上院議員の議席扱い・公務士分扱い)

 

上から順番に除名(戦力外通告)されて当然なのである。

自分たちの旧態風紀(反等族主義=寡頭主義)も自分たちで一掃できない、ただ上(自分たち・古参)に甘くただ下(よそ・新参)に厳しいだけの自分たちの愚かさ(弊害負担)の押し付け合いを自分たちで対処できたことがない、その議決性など皆無なだらしない低次元同士が、

 

 啓蒙的な人事改革(議席改革の敷居向上=健全社会化=身分再統制)への手助け(見習い合い)

 

などできる訳がない。

 

その最低限もできたこともない法賊(偽善者)が地位(議席)に偉そうに居座り続けようとする時点でつまみ出されて当然でなけけばならない、それに身の程知らずにも反抗しようとすること事態が、民権言論の自由原則(社会的説明責任・国際的指導責任があるといえる議決性の敷居確認の姿勢)をただ妨害(劣情共有=低次元化)し合う迷惑千万な騒乱罪(偽善闘争=閉鎖有徳運動=反逆)として、裁かれて(格下げされて=言論規制されて)当然なのが本来であることは、現代の組織性(啓蒙性)の本来もそこは同じである。(荀子・韓非子の組織構築論)

今まで何ら議会的なまとまりなど見せられなかった中央の化けの皮も、織田信長によってとうとう剥がされながら中世(寡頭主義)から近世(等族主義)に移行される日が、ついにやってきた。

今までの旧世俗議会(室町体制=三管四職体制)も、旧聖属議会(朝廷と公的教義)も、中央議会(中央政権)としての本来の等族指導(等族社会化=国際文化技術交流ができる啓蒙国家=その合理化と多様化といえる育成理念の示し合い)など、結局してこれなかったのも明らかだった。

 

公的教義(延暦寺)は、いきなり織田氏に踏み潰されたのではない。

 

公的な聖属武力闘争は建武の失敗で教訓にされて禁じ手となったはずを、反織田派に偏っていった旧中央関係者らが錯乱して、聖属武力を再燃させる形で反織田派らへの加担を始めたことが、踏み潰しの決定打となったことは、少し先述した。

 

各地で地方再統一(地方議会の仕切り直し=議席序列改革)にようやく少しは向き合うようになっていた戦国後期には、どの地方の上層たちも、織田氏ほどはできていなくても各地の閉鎖有徳運動(地域ごとの勝手な格上げ運動のための、寺社の結束に頼った外戚闘争・閉鎖武力闘争=惣国一揆)を規制していく方向にやっと健全化し始めた矢先に、本来は聖属(有徳・寺社)としての等族義務の手本を最も示さなければならないはずの公的教義が、末期症状ともいうべき時代逆行の閉鎖有徳運動を始めたのである。

 

建武政権(朝廷政治の復興運動)の失策がどのようなものであったかについて少し先述したが、議決性も怪しいような公的な聖属武力再興運動は、終わり無き皇室(当時の神道眷属としての格式)間の対立天皇問題(擁立天皇合戦)の再燃による、日本全体の急激な衰退劣化の引き金となりかねないことが、大いに反省されたから禁じ手とされた。

 

西洋で実際に起きた対立教皇問題(教会大分裂時代)の構図と全く同じで、キリスト教徒の教義上の代表である教皇が一体誰なのか、その擁立合戦が長引くばかり、すなわち公的教義(教皇庁)が議会的に教皇選挙(コンクラーヴェ)もできなくなっている状況が長引くほど

 

 もう誰が教皇でも同じ、何も変わらない

 

が長引くことがすなわち

 

 西洋人たちにとって大事なはずの社会性(キリスト教)を、肯定(善用)しているのか否定(悪用)しているのかの区別も自分たちでできなくなっていく

 

ことによって

 

 自分たちで何も大事にしてこれない低次元な迷走(ただの収奪合戦)が延々と続いていく

 

深刻な社会問題(一向に敷居確認が進まない=裁判権整備が進まない)の原因になる。

 

それは世俗側の帝国議会の代表(皇帝=王族の代表)のあり方、日本では将軍家(武家の棟梁=世俗側の日本全体の代表家長)のあり方も同じだが、だからこそせめて世俗間だけの問題にしておかなければならない深刻さが、反省された所になる。

 

日本では「武力闘争はあくまで世俗間のみの形にしておかなければならない、特に公的な聖属による武力介入は皇室を巻き込むことになって致命的な衰退となる」所が、建武の失策の反省点だったはずなのである。

 

本願寺(浄土真宗)もそこをよく心得ていたからこそ、中央聖属(ひいては皇室)は一切巻き込まない形の、戦国前期の世俗裁判権と聖道門一辺倒(自力信仰一辺倒の低次元な敷居維持)への反抗をあくまで目的とした、ただの閉鎖有徳運動などではなかった特殊な聖属裁判権運動(聖属一揆運動)であったことが、しっかり説明されてこなかった所になる。

 

今までの言葉・用語・聖典・肩書きの低次元な悪用支配の手口など一切通用しない織田氏から等族議会制の敷居(議決権の名義的な公文書の意見整理提出の示し合い)を突き付けられた途端に、禁じ手のはずの公的聖属による武力運動再燃を起こした公的教義(延暦寺)は、威力(寡頭主義)でうやむやにうちのめし合う(だらしない失望・劣情をただ共有し合う)ことしか能がない「バカ丸出し」もいい所の化けの皮が剥がれた歴史的瞬間だったといえる。

 

武力蜂起で錯乱した延暦寺に対し織田信長は「権威回復の言い分はとりあえず解ったから、立て直したいならこちらも協力するから、世俗間闘争は織田氏が全て処理する問題であるため、とにかく武力介入から手を引くよう」交渉もしている。

 

しかし延暦寺(公的教義)は、自分たちのしているその公的な聖属武力運動が、日本全体を低次元化させていくという深刻さを何も反省せずに、無神経・無関心・無計画にそれを突っぱねた、だから踏み潰されて当然だったのである。

 

ここは織田信長だけでなく、明智光秀、細川藤孝、その他にも旧中央関係者の有志たちも、そこを何ら等族管理指導などできていなかった廷臣たち(時代遅れのままの朝廷体質)に、内心はかなりあきれていたと見て良い。

 

三管四職体制の再建なのかも曖昧なあきれる他ない、旧態派(反織田派=偽善者)ども長続きする訳がない織田氏への一斉の噛みつきが 1572 年に顕著になってから、早くも 1574 年には下火になると、近隣から順番に織田氏から裁判権改め(敷居改め・身分再統制)の圧迫を受ける形で進退を迫られていった有力諸氏らはどこも、時間の問題となっていた。

 

1580 年までに本願寺(浄土真宗)が織田氏に降参・和解に動くまで、廷臣たちはキリスト教徒たちも含めた国内の自力信仰他力信仰の仕切り直しの議決権の整備などできる訳がなく、また有力諸氏同士の闘争の際の、本来できていなければならない外交和解(敷居確認)の斡旋も、とてもできていたとはいえなかった。

 

それが完全にできなくなっていたから織田信長は、議会手本的に明智光秀にそれを取りまとめさせる総代(議長)として、肩代わりさせたのである。

 

廷臣たちは、織田氏の保護監察扱いの監視体制を受けた後には、これまでの罪を大々的に吊るし上げられながら討ち入りされる処置に動かれてもおかしくない立場だったが、その今まで通りの「恐怖と利益」のような威力的なやり方は逆に、低次元な連中たちにとって逆効果の思う壺になりかねなかった。

 

だから安易にその手法には乗り出さず、とにかく独裁制(敷居向上)から合議制(敷居維持)の移行に備えた、聖属議会側としての今後の議決権の整理意見(公文書・議事録)の提出を求めた。

 

相手が低次元な認識(ただの指標乞食主義・ただの失望・劣情教諭)しかできていない時こそ、議会的な姿勢を示した方が「どうせ、逆らったら容赦しない恐怖政治が始まるに違いない」旧態風紀への肩透かしとなり、そんな考えしかしてこれなかった自分たちが、いかにだらしない低次元な集まりだったのかも、少しは思い知らせられるものである。

 

1582 年に織田氏に催促されて渋々提出した廷臣たちの、今後の議席の敷居も含めた聖属議会側(朝廷・聖属側の品性規律の管理人たち)の議決権の公文書は、そもそも廷臣たちで議決性を以って、急に自分たちで意見整理できる訳などなかったことも解り切っていた。

 

それを明智光秀、細川藤孝、また織田氏の旗本吏僚たちや公認された出身の高低に関係ない旧中央関係者の有志らに手伝ってもらわなければ、その作成はとても無理だったと見てよい。

 

その構図自体が、聖属議会(朝廷)はとうとう具体的に織田氏から、閉鎖有徳狩り(裁判権改め)を受けたのも同然なのである。

 

事実上の聖属側の最大手であった本願寺(浄土真宗)を降し、和平交渉の形までもっていくことまでできた織田氏と、そこに何ら貢献などしてこれなかった聖道門一辺倒の聖属議会(朝廷・廷臣たち)の関係は、その構図自体がもはや織田氏からどのような介入を受けても文句などいう筋合いなどない、言い逃れ無用の状況なのである。

 

等族議会制(これからは世俗議会側が聖属側の待遇も、品性規律に応じた謄本登録の保護・管理を身分制議会的に制定していく)によって、そこを具体的に突き付けられる日がとうとうやってきてしまった。

 

今まで聖属議会側の身分再統制においては曖昧にされ続けてきたのも、とうとう具体的に受けることになったその歴史的な体験がまだなかった廷臣たちは、織田信長のお家芸ともいえる、優れた旗本吏僚体制を駆使した「閉鎖有徳狩り」によってついに完全に化けの皮を剥がされる形で、身の程を思い知らされてしまったことが、それが連中にとって屈辱でしかなかったその記念的背景が、本能寺の変においてまず重要になる。

 

旧中央聖属議会の伝統を維持してきた南都(大和仏教・奈良県)も、難色を少し示していた一方で「公正な格式の公認をしてもらえるなら、寺社特権の謄本登録はこれからは世俗側が管理保証するという、その国際情勢になってきたことに大和衆も観念して、従いたいと思っている」という和平的な姿勢も見せていたため、北嶺(ほくれい・京の寺社、特に比叡山・延暦寺)とのそうした意識差も目立っていたと見てよい。

 

議決権を自分たちで整理できずに、朝廷(聖属議会)が今置かれている状況もそれぞれの部下たちに等族指導もできていなかった中、有志たちに手伝ってもらって作った公文書を織田氏に渋々に提出させられること自体が、廷臣たちにとっては織田氏に無条件降伏するようなものだったといってよい。

 

「従二位・右大臣に我々が織田氏を公認してやった、だから朝廷(聖属側)織田氏(世俗側)を従わせている構図なのだ」今までの慣習権威(ただそれ頼りの、国際品性の典礼など皆無な騒乱の原因の寡頭主義)はもう議決的に通用しないことを、織田氏の等族議会制の姿勢ではっきりさせられてしまった。

 

だから公文書の提出を催促された直前になって慌てた廷臣たちは、自分たちもさも今まで中央再建に、そして天下静謐(日本再統一)に、聖属側の管理者の立場として自分たちも今まで大いに貢献してきたかのような言い分を、明智光秀に代弁させようとした。

 

明智光秀を困らせるようにそれを代弁させ、それを押し通そうとする図々しさを問題視した織田信長は、まだ合議制が制定される前だったこともあり、あてつけに明智光秀を叱責する茶番を通して、廷臣たちにそんな言い分は通用しないことを釘刺ししている。

 

本能寺の変の引き金は説明するのが難しいが、いってみれば織田信長の「これまでの事績(償却処分事項)のことはもう諦めろ」の重要な意味を、廷臣たちの間でとても等族指導(敷居確認)し切れなかった、そのための猶予時間が結局与えられなかったことが特に原因だと、筆者は見ている。

 

高次元側「これまで」「これから」の議事録履歴的な整備に議会的(等族主義的)に向き合うことが、普段から他よりもできているから「そうなってからでは遅い」事態に備えることも、他よりも段々としていけるようになる。

 

要するに低次元側「これから」の当事者的な計画面(議決性・敷居確認)に向き合った気に錯覚しているだけで、「これから」との整合(議決性)など何も整備せずに全て「これまで理論」に置き換えることしか能がない。

 

それしかしてこなかった愚かさをいつまでも自分たちで認識(自己等族統制)しようとしないから、「これから」を全て「これまで」のケンカ腰(思考停止)に調子に乗りながらただ置き換えることしか能がない、だからそこをいつまでも区別・使い分けできない低次元なままなのである。

 

「これまで(敷居維持的)」の過去の価値観のつじつま合わせのみに熱心だから、「これから(敷居向上的)」との構想整合(当事者的な議決性)を自分たちで整理(敷居確認)してこなかった分だけ生じる、自分たちの弊害負担(課題)をただ押し付け合うことしかしてこなかった自分の愚かさを、自分たちで解決しなくなっていく低次元化体質の原因になる。

 

そんなものは自分たちでとうに解決できている高次元側の敷居で、そこを直撃(撤廃・償却処分・身分再統制)されれば、最後の砦の自分たちの弱みの急所でしかなくなっている低次元側の足並みの精神的支柱はいとも簡単に総崩れを起こしてしまうのである。(孫子の兵法の、情報戦のための規律の指摘)


今の日本の低次元な教育機関のように「これまで」にただしがみつくことしか能がない、それで「これから」に向き合った気に錯覚しているだけで、「それまで」「これから」の相互の議決性の整合など自分たちでできたことがない集まりというのは、その「これまで(寡頭主義・反等族主義)」が一切通用しなくなればこの世の終わりが来たかのようにだらしなく騒ぎ合い、だらしなく共倒れし合うことしか能がない自分たちの今までの愚かさも、自分たちで改められないものなのである。

 

だからこその自分たちの最低限の情報統制(品性規律の敷居)の構成というものを、自分たちで普段からできている集まりなのかどうか、このありがちな典型的な歴史経緯(社会心理)で何が起きていたのか見ていけば、本能寺の変もそんなに難しい話でもない。

 

今までの聖属議会(朝廷)の、そういう所の課題を暴いて改めさせるためのガサ入れも、自分たちの国家の問題として誰かがしなければならなかったのを、これまで誰もできなかった、廷臣たちとしてもそれを自分たちの課題(弊害負担)としてとして再統一(議席の敷居の仕切り直し)しなければならなかったはずも、してこれなかった。

 

常に皇威や官位やうやむや騒動などの手口を武器に、廷臣たちの等族義務が追求されないように、そこが永らくごまかし続けられてきた。

 

足利義輝がそれに乗り出そうとして果たせなかった無念を、弟の足利義昭が肩代わりできるだけの力量などはなかった、その肩代わりも織田信長しかできないこともはっきりしてしていた、足利義昭もとぼけていただけでそこに内心の気まずさがあったのは間違いないと見てよい。

 

今までのまやかしの手口は一切通用しない織田信長にとうとう中央に乗り込まれる事態となると、廷臣たちもとうとう保護監察扱い(等族指導)に動かれるようになるが、これはもはや武家屋敷(旗本)への強制収容(再指導)に近い、廷臣たち用の体制だったと見てよい。

 

「これまで」にただしがみつばかりで「これから」の議決性を大事にしてこれなかった聖属議会側(廷臣たち)に「これから」の前向きな議決権の公文書の整理提出などできる訳がなかった、それを有志たちに手伝ってもらわなければ自分たちで作ることもできなかったのも明らかだった。

 

それはその議決権の計画通りに廷臣たちが今後、自分たちでその議席の敷居で聖属議会(朝廷と公的教義体制)で本当に維持していけるのかも怪しかったことを意味し、そこも有志たちにしばらく手伝ってもらわなければとても無理だったと見てよい。

 

1582 年に織田信長に最後通達を受ける形で、公文書の提出を求められた時の聖属議会側(朝廷と今後の公的教義のあり方)は、内部的に等族統制できていたのか極めて怪しいことから、その時点でほぼ内部崩壊寸前だったのも間違いない。

 

「今までの騒ぎ合い」の手口を完全に織田氏に巻き上げられてしまった廷臣たちは、今までのようにここで廷臣同士で誰かのせいのだらしない低次元なうちのめし合いでしかない、議決性の示し合い無き無関心・無神経・無計画な内部分裂騒動でも起こそうものなら、織田氏の高次元な敷居から、それを等族指導できていない上から順番に騒乱罪(反等族議会運動=天下静謐違反=偽善=議席失格)扱いされ、ますます不利な身分再統制(格下げ)の人事介入を受けるのも目に見えていた。

 

ここは廷臣たちだけでない、有力諸氏らの臣従もそこは同じ、まさにのちの徳川政権の武家諸法度(世俗側の身分規定)と公家諸法度(聖属側の身分規定)の貴重な参考にされた手本前例になるが、しかしだからといってそれを廷臣の上層らがそれを抑えきれるだけの等族指導など、朝廷内では急にはできないことも解り切っていた。

 

細川藤孝の後ろ盾もあって後からその調停役(織田氏と朝廷の間の調整)に共に参加することになった明智光秀もいざ現場(朝廷)を見渡すと、たかが織田氏から保護監察扱いを受けたくらいで「この世の終わり」が来たかのようにいつでも破裂寸前の、落ち着きのない気の小さい連中が大半だった、思った以上に低次元だったことに「聖属議会の、等族国家としての議席改革もしなければならないが、彼らに本当にできるのだろうか?」と内心は驚いていたと見てよい。

 

公的教義(延暦寺)を盾の言い訳を巻き上げられたくらいで、皇位継承の段取りを巻き上げられたくらいで、貴族高官主義を巻き上げられたくらいで精神的支柱の粉砕がいとも簡単に完了してしまうような、仮想敵の共有憎悪(低次元な常識)のような寡頭主義統制に頼らなければ常に足並みを揃えるのも困難になっているような、今の日本の低次元な教育機関と大差ないだらしない集まりが、自分たちで等族国家らしい品性規律(議決権)を制定することなど、有志たちに手伝ってもらわなければとてもできる訳がないのである。

 

織田信長もそれを解り切っていて、今まで聖属面(教義指導面)で日本を支えることなどしてこれなかった、ただ権威(等族義務)のたらい回しを繰り返してきただけの朝廷体質(聖属議会体質)を反省(自己等族統制)させるために、そういう所の精神的苦痛に遠慮無用に「身の程を知れ!」といわんばかりに、そこに荒治療的に廷臣たちに、有志たちを大事に扱えるようになるため(議席の譲り合いができるようになるため)に議決権を迫っていたのも間違いない。

 

廷臣たちは歴史的には、聖属政権(朝廷政治)から世俗政権(武家政治)主導への移行となった鎌倉時代にも、今までの権威の規制を受けるようになる屈辱的な処置は受けた体験こそしていたが、聖属側としての高次元な等族義務をここまで具体的に迫られたのは、この時が史上初だったと見て良い。

 

誰かがやらなければならなかった、しかし今まで誰もできなかった、そこが今まで「あまりにも手ぬる過ぎた」、だからこそ織田信長が、中央体質を低次元化させていくその禍根への荒治療にとうとう踏み込んでくれたのである。

 

これを織田信長が先にやっておいてくれたからこそ、その貴重な前例を豊臣秀吉が、のち徳川家康が工夫しながら、日本は内乱を収拾する経済社会的な法治国家体制を、やっと整備していくことができたのである。

 

織田氏に公文書の提出の最後通達を迫られ、廷臣たちはそれを朝廷(聖属議会)内部で等族統制などできていないまま、有志たちに手伝ってもらった内容で提出してしまうことになる事態を迎えた。

 

すなわち「提出させられた」という今までの低次元な旧態風紀の手口は、これからの等族議会制ではもう許されない時代となっていることを、そこを自分たちで改めることもできないままに提出を迫られる窮地となった。

 

自分たちで提出した議決権の敷居の品性規律を自分たちで守れずに、議決性の示し合いから始めずに内部分裂でただ騒ぎ合うだらしなさを見せれば、最終決定権(等族議会=政権)に人事介入されて当然の時代となった。

 

その意味を、朝廷内で等族指導ができずに揉めてばかりいれば、人の上に立つ資格(人にケンカ腰に善悪を語る議席資格)などない騒乱罪予備軍(迷惑千万な偽善集団)扱いとされ、上から順番に裁かれる等族主義の時代となった。

 

廷臣たちの上層の、議決性(裁判権の敷居に貢献しているといえるような議事録資料)など皆無な、ただの言葉・用語・聖典の悪用支配でごまかし続けられながら、その手口でうちのめし合い従わせ合ってきた今までのだらしない旧態風紀は、これからは通用しなくなる時代が議会制という形によってとうとう訪れてしまった。(世俗側もそこは結局同じ)

 

廷臣たちは「もうどうしようもなくなった、この時になってから」初めて自分たちの置かれている立場に、今までいかに自分たちが何も社会貢献などできていなかったことに、この時になってやっと真剣に向き合ったのも間違いない。

 

そこは筆者は評価したい、そして、どんな強引なやり方だろうが結果的には廷臣たちが明智光秀を動かすことができたことについても、そこは高く評価したい。

 

本能寺の変は、廷臣たちが自分たちで等族義務を整備し切れていないまま、議決権の提出をせざるを得ない事態になった、廷臣たちがやっとそこに少しは深刻に反省することなったからこそ、その提出を取り戻すため、そこを白紙にして、やっと自分たちで聖属議会側の整備をする気になった、だからその時間稼ぎするためだったというのが、本能寺の変の真相だったというのが、筆者の考察意見となる。

 

そうなってしまってから廷臣たちが、皮肉にも織田信長のおかげでやっと本当の意味で少しは自分たちでそこを反省するようになった様子を明智光秀も確認できた。

 

やっとそこに向き合ってくれるようになった廷臣たちに最後の最後になってかなり泣きつかれてしまった明智光秀も、今まで廷臣たちの面倒を看てきた立場だったことからも、だから迷いに迷った上でやむを得ず、放っておく訳にもいかない廷臣たち(もはや弱者的立場)を代弁することになってしまった。

 

細川藤孝もまさか本能寺の変のような事件を起こすかどうかまでは解らなかったまでも、ある程度の察知もしていて、明智光秀に忠告したり、織田信長にも不穏な様子を伝えている様子も窺える。

 

明智光秀が本能寺の変を起こしてしまったことに細川藤孝は残念がっていて、今までの盟友関係を頼りに明智光秀に協力要請されても「そうなってしまった以上は、こちらは何も手助けできないゆえ、ご自身で何とかしなされ」と断りの返事をしている。

 

信任の厚かった明智光秀から、廷臣たちがやっと織田政権が望むような議会制の敷居に向き合うことで意見がまとまった(本当はまとまっていなかった)と聞いて、織田信長もそれを信じて安土城から出て京に向かってしまった。

 

廷臣たちとの改めての和解の挨拶として、京(本能寺)に誘い出された所を、京の事情に詳しかった旗本吏僚たちと一緒に、明智勢に襲われる形でまとめて粛清されてしまった。

 

本能寺の変を起こした明智光秀を制圧することになった羽柴秀吉は、それまでの事情も、なぜ明智光秀がそんなことをしたのかの意味も、しっかり理解できていたのも間違いないと見てよい。

 

しかし急激な高次元化を織田信長が進めていたことを、今よりも言葉や用語が不自由だった当時に、それを説明すること自体がそもそも非常に難しかった中、その説明の仕方を間違えれば大混乱を起こす危険性もあった。

 

だから織田政権の肩代わりを名乗り出た羽柴秀吉が、織田政権の事情を知っていた有力家臣たちに対して緘口令を守らせて、安易に混乱させないように、上からそこを気遣わせた。

 

のち徳川家康も、織田氏の旗本吏僚の生き残りたちを面倒見良く徳川家の旗本に収容していることからも、関ヶ原の戦い(政権交代の総選挙戦)に乗り出すまでには、朝廷と今後向き合っていくための事情聴取もできていたと見てよい。

 

羽柴秀吉は朝廷を大目に寛大に支える動きに出たから解りにくく、それが豊臣秀吉の狙いだったともいえるが、徳川政権の場合は、徳川家康が死去して間もなくから、朝廷対策としてかなりの厳しさを公家諸法度で向けるようになる。

 

かなり特殊な立場だった明智光秀の複雑な思惑は、その経歴からも窺えるが、今回もその事情まで書き切りたかったが文字数の都合で書ききれなかったため、その件を次に説明したい。

 

これから、明智光秀の特殊な立場や、織田信長がどうして的確な議会制の指導に動くことができていたのか、またその貴重な前例を工夫していった豊臣秀吉、徳川家康の推移から、本能寺の変(織田政権時代)の特徴を補足する説明をしていきたい。