近世日本の身分制社会(094/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか22/? 2022/03/27

廷臣ら中央の旧高官たちは、自分たちで議席(地位)の譲り合いなどできていなかった、すなわち時代に合った中央議会に仕切り直すことを、自分たちでできていなかった。

そこは今と全く同じ、猿知恵(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有・ただの思考停止気絶主義)しかもち合わせていない、今と同じ不必要な公的教義の低次元な存在で一目瞭然だったといえる。

国事としての主体性(当事者性・議決性)ある指導(育成理念の手本礼儀)など何ら示してこれなかった、傾国(劣悪性癖)の原因を助長してきただけの比叡山・延暦寺(公的教義。天台宗の総本山)の実態は、その等族義務(社会的指導責任力・議決性)の管理責任の廷臣たちの無さそのものであり、もはや言い逃れ無用だったといえる。

織田氏についに京に乗り込まれて以後の中央関係者たちは、その高次元な旗本吏僚体制の敷居になんとか合わせることができた有志たちと、それに全くついていけなかった、かつての旧態序列でその地位(議席)に居座っていただけのだらしない無能(偽善者)とで、はっきりするようになった。(身分再統制)

織田信長の啓蒙国家構想を実現するためには、今までの聖属側の議会(朝廷・国際社交体制)も、今後の等族国家(法治国家)に対応できるように改めなければならない。

中央が自分たちでそれをしてこれなかった中、中央出身筋の有志のひとりである細川藤孝は、機智に優れ、高い教養力ももち、旧態派閥の事情に中立の立場で仲介することもできた、貴重な人物だった。

しかし、中央の仕切り直しの織田氏の構想にせっかく協力的になってくれたこの細川藤孝に、その重責の全てをいきなり押し付ける訳にもいかなかった。

仲介者の立場が維持できていた細川藤孝を、優秀だからといって急な重用をしてしまうと、今までの仲介者としての立場を崩壊させてしまう恐れがあったのは、細川藤孝本人としてもその品性(議決性)は心得られていた所と見てよい。

だからこそ織田信長は、細川藤孝の部下でその役にもうってつけと、足利義昭からも有望視されていた明智光秀をどんどん昇格させていく形で、その重責の肩代わりもさせることになった。

 「この大事な改革期に、上が良い思いをする必要などない!

 

の荀子的独裁制(敷居向上の示し合い)の手本姿勢(議決性の品性規律)で、時代刷新の嫌われ役は織田信長、佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀の「この4人がそれを一身に被れば良い」とした。

旗本吏僚筋の筆頭であった林秀貞を、あからさまなわざとらしい言い訳で退任させたのも

 「政権の大臣になったことがある家系だからといって、以後河野一族(林一族と稲葉一族=貴族層出身の名族)が永遠に優遇されるかのような、議会制を低次元化させていくような古参主義一辺倒の体制(議席のあり方)の前例(血族派閥)を、勝手に作り合ってはならない」

という所への風紀改革の強調ももちろんあり、林秀貞においてはあれで済んだだけでも良かったといえる。

他に失脚した者たちにおいてはさらには

 「上が良い思いをする必要などないという、人としてのその最低限の手本姿勢(議決性ある敷居整理)の等族義務(社会的指導責任)ももてていない者は、格下げ(身分再統制)されて当然だ!

仮公認の者たちへの目立った処置として、水野信元(尾張衆)、安藤守就(美濃衆)、松永久秀(大和衆)、荒木村重(摂津衆)あたりだけで済んだだけでも、寛大な方だったといえる。

特に時代刷新の際には、今までの低次元(閉鎖有徳的)な旧態派閥慣習は通用しない時代に入ったことの、「上が良い思いをする必要などない!」が大前提の嫌われ役が覚悟できる者こそに、重役にさせていかなければならない前例作りを、自分たちの課題(議決性の敷居向上)として自分たちで整備(自己等族統制)できなければならない。

その時の出来高だけ良くても、議会的(育成理念の敷居向上の風紀=法治国家の品性規律)に旧態禍根(低次元化の劣悪性癖)旧態禍根(低次元化の劣悪性癖)を改めることをしていかなければ、いずれは鎌倉幕府や室町幕府と同じ、過去の名族高官主義(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有・ただの思考停止気絶主義)の低次元化(古参主義の居座り)を繰り返してしまうのである。

 等族義務ある士分家格 = 人の上に立つ資格(等族違反・敷居向上違反を否定をする資格) = 地位(議席)のあり方 = 公正な人文性(敷居確認)と啓蒙性(敷居向上)の議決性(内外の異種異文化の収容の品性規律の手本姿勢) = 公務公共性の敷居 = 上層(議席)の等族責任(国家構想の社会的指導責任) = 国威・格式 =奥の院の皇室の威厳

の、この等族議会制(法治国家の育成理念の品性規律としての示し合い・見習い合い)の基本中の基本の最低限を最初からはき違えているような、今の公的教義と大差ない法賊(偽善者)どもと一緒になっているようでは、それと同類の猿知恵(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)でいがみ合い失望し合うことしか能がない低次元どもの実態も、普段から疑い見抜くことも、それと決別していくこともできなくなっていく原因となる。

 等族違反 = 閉鎖有徳行為 = ただ侮辱・挑発(低次元な敷居を維持)し合うことしか能がない = ただ思考停止(劣情共有通りに気絶)し合い、ただ失望し合っているだけの猿知恵(ただの指標乞食論=手本姿勢の潰し合い)しかもち合わせていない

すなわち

 自分たちの課題(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有・低次元な古参主義)を自分たちで議決性(目的構想・組織構築の育成理念の品性規律)を以って地道に改善し(仕切り直し)ていく等族義務(法治国家の品性規律としての手本姿勢=上としての社会的指導責任)

 

その最低限に向き合うことができている高次元な格上側と、れをうやむやに続けるのみしか能がない今の公的教義どものような低次元な格下側とで、威厳的・格式的に大差が開いていく所が顕著になった、そこが競われるようになったのが、中世末期から近世初頭にかけての特徴なのである。

これからは等族議会制(高次元な法治国家の品性規律)によって、自分たちで課題(低次元な古参主義・旧態性癖)を克服(身分再統制)できる体制(風紀改革的な前例作り・議席の譲り合いもできる品性敷居の見直し)を、自分たちで上からしていかなければならない転換期(国際風紀)が、戦国後期には上の間で強まるようになったのである。

それが最もできていた織田信長の等族議会制(手本家長の姿勢の旗本吏僚体制)が、ついに中央に乗り込まれる運びとなって以後、中世のままの今までの中央の古参旧態観念もとうとう一掃される身分再統制(中央裁判権改め)が、ついに始まった。

旧態観念が抜け切れていなかった旧高官たちの多くは、自分たちができていなかった織田氏の高次元な旗本吏僚体制(手本姿勢)を見せ付けられながら、今までの中央体質の転換を議会的(等族統制的・身分再統制的)に迫られる事態を迎えた。

織田氏の高次元な敷居をよく理解できていた、中央関係者たちとの間に入って仲介していた明智光秀や細川藤孝ら有志たちの内心や、それについていけずに錯乱気味の者が多かった高官出身者たちの内心の危機感について、そこを社会心理学的(議会史的)な考察で触れていきたい。

そのためにまず、戦国後期から戦国終焉に向かい始めた織田政権時代までの、中央地方の逆転関係から、今一度整理したい。

戦国前期の室町権威機構の崩壊は、本家筋(古参)と分家筋(新参)というだけの、時代に噛み合わないような中世のままの家長権序列社会(武家社会)の慣習が完全崩壊したことを意味していた、ここがしっかり説明されてこなかった所になる。

今の公的教義のような、議決性(育成理念の手本礼儀)など皆無な時代逆行の低次元(閉鎖有徳)な上下観(たたの指標乞食主義・ただの劣情共有主義)を威力で押さえつけるのみの、だらしない猿知恵(愚民統制主義の末期症状)に頼り切る制度は、家父長的寡頭制(かふちょうてき かとうせい)という言い表し方が、史学的にはたまにされる。

 

独裁制は、議会的(等族義務的)な本来の意味がしっかり説明・理解されてこないまま、失敗次第に非難され続け、大いに誤解され続けてきたが、厳密には独裁制ではなく、それは寡頭制(偽善強者階級主義)だというのが正確である。

独裁制(敷居向上主義・リーダーシップ主義)であろうが合議制(敷居維持主義・保守主義)であろうが、議会的な国際敷居が意識されたものが等族主義であるのに対し、その真逆の、今の公的教義のような口ほどにもない手遅れのただの劣情統制主義(愚民統制主義)が、寡頭主義(偽善強者のいいなりに足並みを揃えればいいとしているだけの思考停止主義・閉鎖有徳主義)だといえる。

低次元な寡頭主義(ただの指標乞食主義=孟子悪用主義)から、高次元な等族主義(体現体礼=手本競争主義)に切り替えなければ等族社会化(法治国家化)にならないことを、政治文明としての用語や言葉がまだまだ確立されていなかった2000年以上前に、早くもそれを鋭く指摘したのが荀子なのである。(現代語訳が少し難しい理由)

戦国終焉(江戸時代に向かうまで)にせよ、幕末(近代化の明治新政府に向かうまで)にせよ、時代刷新期には、それまでの寡頭主義化にだらしなくしがみ続ける大勢の無能(偽善者)どもを、少数の等族主義ある有志が、どうやって目を醒まさせるかという、大変な構図の歴史ともいえる。

ただ騒ぎ合い、ただ蹴落とし合い、ただ奪い合い、ただ失望し合ってきただけの、議決性(目的構築・組織構想の敷居向上の手本)と何も結び付かないだらしない寡頭主義(劣悪性癖)から脱却できないでいたのが、戦国前期である。

鎌倉の武家社会(世俗政権)が始まってから室町までに、200年も300年も経過すれば、元は皇室の外戚である名族たちの分家筋もどんどん派生していき、士分特権を維持し得ずに半農半士化していった家系もすっかり増えていった。

半農半士たちは、庶民側の上から順番に縁組されていった一方で、室町権威の序列崩壊でどこもまとまりがなくなると、地方ごとの半農半士の地縁を中心に、閉鎖有徳化(地侍闘争化・惣国一揆化)も顕著になる。

 

その頃の日本列島では、もはや庶民側の誰しもが、没落していった名族の家来筋である半農半士たちと血縁者でない者などすっかり居なくなっている環境になっていた。

見方を変えれば、今までの武家社会(世俗政権)の士分家格(家訓・家長権・裁判権)の仕切り直しを迫られていた、その象徴だといえたのが、閉鎖有徳問題(下剋上運動・惣国一揆時代)だったともいえる。

中央再建(足利家を武家の棟梁とする中央議会制)の見込みもない中、地方でも閉鎖有徳問題を一向にまとめることができないでいた世俗裁判権側(武家側)を、浄土真宗がついに聖属裁判権の再興運動の形でそれを否定し、地方のその収容を始めたために、世俗側もその動きに慌て始める。

公的教義は古参旧態主義(寡頭主義)の自力信仰だけでそれまで、新参(改革)の他力信仰の浄土真宗を散々格下扱いしてきた。

 

ただ権威(ただの旧態古参主義・ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)に頼りきって調子に乗ることしか能がない今と大差ない公的教義のその実態も、ついに「権威の崩壊次第で何ら指導などできない」化けの皮が剥がれる形で、日本での自力教義の主導の座をとうとう浄土真宗にもっていかれたのも、戦国前期の特徴になる。

朝廷権威に一切頼らずの聖属裁判権の再興という、異例の形で戦国組織化していった浄土真宗は、一向にまとまりを見せない世俗裁判権側(地方の代表格のあり方)に失望していた者たちを収容するようになった。

良い意味でそれに煽られようになった各地方も、地方議会のあり方(世俗裁判権側の家訓・代表格の家長権のあり方)の整備(再統一・支持選挙戦)に慌てるようになった。

地方が、格式(敷居)の地方議会(家訓改め・分国法)のための地方再統一戦(代表選挙戦・身分再統制の方針戦)に慌てるようになったのは、だらしない世俗裁判権側(武家側)を浄土真宗が聖属裁判権の再興運動(原点回帰)で煽ったおかげだったとすらいえる。


これは本来は、公的教義(比叡山・延暦寺・天台宗の総本山)がそれをしなけばならなかった、ひいては廷臣たちの聖属側の議会(朝廷)としてのその管理責任も重大だったにも拘わらず、それを全くしてこれなかった、それが完全にできなくなっていたから浄土真宗が聖属側として日本の自力教義を肩代わりするようになったのである。

その古参新参の対義構図は世俗側でも同じ、つまり織田信長の時代の旧態の室町体制派新興の織田政権派との折り合いの構図でもそこは全く同じだという所が、これまで社会心理学的にしっかり説明されてこなかった所になる。

これも、古参(室町体制派)が万事うやむやに騒ぎ合いながら今まで通りの旧態慣習のままの地位(議席)にただ居座り続け、その弊害の負担をただ押し付け合うことしかして来ず、時代(等族社会化)に全く対応できなくなっていた。

 

だから新参(織田家による旗本吏僚体制派)が日本の今後のための世俗側(武家側)としての役目を織田家が肩代わりするようになったというのが、正確なのである。

戦国後期になって、地方側では代表格の格式(器量・社会的指導責任力・手本家長の選任のあり方=裁判権争い)を競い始めた一方で中央側としても、世俗議会側(室町政権)も聖属議会側(朝廷)も地方のように、自分たちで仕切り直さなければならない時期に来ていたことは、はっきりしていたのである。

中央も有志たちも居たが、世俗中央議会(室町機関)も聖属中央議会(朝廷)も、寡頭主義(古参一辺倒主義)に完全に陥り、中央関係者たちが自分たちでそれを改革できずにモタモタやっている間に、地方議会側の織田家(世俗議会)と浄土真宗(聖属議会)が台頭し、中央地方とで主導性が完全に逆転する形となった。

この歴史的経緯の重要な構図が、下剋上という言葉だけで曖昧に片付けられるばかりで、しっかり説明されてこなかった所になる。

まず、聖属中央議会(朝廷)も世俗中央議会(室町政権)も、仕切り直しの人事改革(今までの閉鎖的な旧態序列改め)を互いに自分たちで進めなければならなかったという、本来のその等族義務の認識自体はできていた。

それは、互いの議会内同士で再統一戦(選挙戦)後には、聖属中央議会(朝廷)側と世俗中央議会(室町政権)側とで今一度の、再統一戦(選挙戦)もしなければならないことも意味し、しかしそれが完全にできない末期症状(劣悪古参主義・寡頭主義)に、中央は陥っていた。

 

議決性(育成理念の手本礼儀があるといえる等族義務=社会的指導責任)などない、もはや人(議席)である必要がない権威(ただの寡頭偶像体質)の威力(旧態風紀・劣悪性癖)にただしがみついているだけの世にも下品で汚らしい今の公的教義も、それと全く同じなのである。
 

筆者のこれまでの公的教義に対する批判もそれと同じ、独裁制か合議制か以前の等族主義寡頭主義の違いも区別できたこともない今の日本の低次元な公的教義体質に、時代に合った旧態改め(自己等族統制・身分再統制)など自分たちでできる訳がないから、国民はそれもできたこともない低次元な法賊(偽善者)どもとは早々に決別せよと、このブログで繰り返しているのである。

 

筆者は自分から表立つつもりはないが、今の公的教義の法賊(偽善者)ども上から順番に制裁(格下げ)するための公正委員会(特殊監査官)の代表が望まれるのなら、誰もできないのなら筆者が、その役(等族義務)を請け負っても良いとここで、等族責任として恫喝(宣言)しておく。

 

話は戻り、世俗体質の建て直しにせよ、聖属体質の建て直しにせよ、かも、聖属主導世俗主導かも、後々でそこを問題にしないようにしておくための議会化(明確化)も、中央が急いでしなければならない段階に、戦国後期にはなってきていたのである。

中央(室町体制も公的教義体制も)の上としての等族義務が完全に果たせなくなっていたから、聖属側では浄土真宗がそれを肩代わりする形で台頭し、世俗側(武家側)では織田家がそれを肩代わりする形で台頭した。

今一度の国事(中央)として、何までが世俗主導で何までが聖属主導かの、どの議席がどの役割を分担するのかの範囲の仕切り直し(身分再統制)の裁判権争い(国内再統一戦・選挙戦)を、本来は中央しなければならなかったのである。

 

それができないでいた中央を、織田氏がその再建を肩代わりする形で乗り込むことになり、織田氏の敷居による中央の仕切り直しに結局合わせることができずに不都合に感じ始めた旧態派が反抗し始めるようになったのが、織田信長派足利義昭派の対立だったのである。

戦国前期の惣国一揆的(地縁の半農半士たちの閉鎖有徳運動的)な転覆的下克上と、戦国後期の議会再統一的(手本家長の姿勢=家訓の分国法の仕切り直し)な人事(議席)改革的な下克上では意味が違ってきた、ここもしっかり説明されて来ずに、誤解され続けてきた所になる。

地方ごとの地縁に頼った閉鎖的な旧領争いの家格・格式でしかない時代は、本能寺の変の起きた 1582 年にはとうに終焉していたのは、織田信長から見た若狭出身の粟屋勝久(あわや かつひさ)、出雲・伯耆出身の尼子勝久(あまご かつひさ)、越中出身の神保長住(じんぼう ながずみ)、信濃出身の小笠原貞慶(さだよし)らの扱いからでもよく窺える所になる。

 

毛利氏に排撃された尼子氏の残党たちが織田氏に頼った際の酷使的な扱いは目立つ所だが、他に織田軍の越中攻略の名目の傘下に組み込まれ、政局の富山城にいったん復帰させてもらった神保長住も、その後の越中再統一に貢献できずに失脚、小笠原貞慶も織田氏の信濃攻略後に、希望していた深志城(ふかし。今の松本城)復帰は結局認められなかった。

 

急場凌ぎ的に織田氏を頼った、日の浅かった筋もいた新参たちの旧領回復の名目は、あくまで織田氏による天下静謐のため、国内全体の等族議会制(身分再統制)の確立(仕切り直し)を進める、家長(織田家)が求める等族義務(人の上に立つ手本)に対する立証姿勢だったのかが、重要な所になる。


その意味で、織田家の家臣化の具体的な典礼(主従の明確化)らしいものを受けていたといえない者とは、旧領回復を果たせたとしても新たな時代の家格・格式とは別の問題で、その後には国替えを命じたりまた旗本に強制収容されても、文句を一切いわずに織田氏の等族議会制(身分再統制)の家格・格式の敷き直しの裁定に従う気でいるのかどうか、格下げも覚悟した上で臣従できているのかどうかが、その議会的な地位(議席)の譲り合いの姿勢の有無次第で、失格の烙印を押されてしまう時代に、なり始めていたのである。

 

若狭衆など良い例だが、織田氏とは良好な関係だった粟屋勝久(あわや かつひさ。粟屋氏は武田源氏一族の伝統的な有力家臣の家系だった)は、それまで朝倉氏のたびたびの若狭介入に毎度のように国吉城(くによし。若狭東部。粟屋勝久の拠点だった)で反朝倉運動を続け、織田氏の中央進出後は、その対朝倉作戦や越前攻略(朝倉氏攻略)にも協力的だった。

 

この粟屋勝久は、それまでの旧国衆としての永らくの地縁の国吉城主の領地権はいったん没収される形で、丹羽長秀の家臣扱いに組み込まれるが、内心は悔しがっただろうがそれにごねずに従ったために、丹羽長秀の重臣扱いとしてむしろ厚遇されている。

 

この若狭粟屋氏の一族は、小大名的な資格こそ失ってしまったものの、その品性家格は豊臣秀吉からも優遇され、のち近世大名の格式で江戸時代を迎えた藤堂氏稲葉氏など(前田氏も?)からも優遇的な家老格として迎えられている。

 

この国吉の粟屋勝久と同じく、織田氏に臣従した若狭衆でも、高浜の逸見昌経(へんみ まさつね。武田源氏)のその後の不遇な扱いと比べると、だいぶ違いがあったことが窺える。

 

越中(富山県)でも顕著だったこととして、織田氏から見放されること自体か、織田氏に頼った神保長住(神保氏はかつての大手だった能登畠山氏の有力家臣で、越中の支配代理の家系だった)のようにかつての越中の支配者としての家格を完全に失う決定打になってしまうほど、1570 年代の後半からは特に、そういう新時代(家長指名権の議会制)に変容してきていたのである。

 

ただし神保氏は、その家系自体が完全にほったらかされたという訳ではなく、その地位・序列が大して高い訳でもなかった家来筋の神保氏張(じんぼう うじはる)は見込まれる形で、織田氏の家臣化の具体的な典礼を受けている。

 

この神保氏張は、越中再統一を任された、柴田勝家の有力寄騎の佐々成政の補佐役の地位が与えられているが、のち豊臣秀吉によって佐々成政が失脚して家禄を失うも、やはり徳川家康から、それまでの神保氏張の品性家格が再評価される形で、優遇的に旗本に収容されている。

 

織田信長の裁定によって、対毛利のための尼子勝久の置き去り作戦をやむなく強行せざるを得なかった羽柴秀吉としても、厳しい作戦だったと内心は思っただろうが、上月城(こうづき)の防衛を任されたまだ若かった尼子勝久は、神西元通(じんざい もとみち)や山中幸盛(ゆきもり)ら勇将に支えられながら、戦死覚悟を以ってその重務を果たした。

 

播磨で優勢になっていた羽柴勢に、毛利軍が阻害するために大軍で上月城に迫るが、それを逃げ出さずに、また毛利氏の降伏勧告も突っぱねる形で、羽柴勢を少しでも有利にするための時間稼ぎの役目を、尼子勝久は見事に果たした。

 

少勢で最初から劣勢だった上月城の尼子勢は、応援軍も期待できない中でも織田派(反毛利派)としてしぶとく抵抗し、落城寸前になった最後に部下たちの助命を条件に、尼子勝久ら上層たちの切腹を以って降伏となった。

 

毛利氏に呼応して播磨衆の中で反旗し、羽柴勢にしぶとく反抗した三木城の別所長治(べっしょ ながはる。赤松一族)の再攻略に加え、浄土真宗派たちの反撃対策にも忙しかった羽柴秀吉のための時間稼ぎと、播磨での織田派の新参たちの結束を助けることになったこの時の尼子勝久の決死の防衛戦の活躍はかなり目立ち、当然のこととしてのちにこれも報われている。

 

羽柴氏と毛利氏の和解後は、毛利氏の寄騎扱いになっていた亀井茲矩(これのり。尼子一族。佐々木源氏。山中幸盛と義理の兄弟)は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)からその才覚が高く評価され、また上月城の尼子勢のかつての労にも報いる形で、直々に豊臣氏の重臣扱いの格上げを受けている。

 

亀井氏は近世大名としての典礼を豊臣秀吉から特別に受けたのちも、徳川政権からもその格式は厚遇気味で、この亀井氏がかつての主筋であった尼子一族とその旧臣たちを収容している。

 

豊臣氏からも徳川氏からも少し優遇気味だった亀井氏が、諸氏からひがまれることが全く無かったのは、亀井茲矩自身が政治や外交の品性に優れていたこともあるが、劣勢での上月城での、尼子勢の決死の防衛という厳しい等族義務を果たしたことが、誰にも文句をいわせない尼子一族(亀井氏)としての武勲にしっかりなっていた、だから上月城の尼子勝久の奮戦は、全くの無駄死になどではなかったといえる。

 

特に織田氏の高次元な敷居では、単にかつての旧式(閉鎖有徳的)な旧領や地位(議席)の回復のためだけに織田派を表明するだけでは、一時的に仮公認を受けるだけで、ただの利害だけでは、織田家から優待的な家臣化(士分家格)の典礼を受けることなどは、難しかったのである。

 

先述した美濃衆の降将で、以前通りの地位を仮公認してもらった、つまり旗本収容(いったんの格下げ)を免除してもらっていた稲葉良通(よしみち)と氏家直元(うじいえ なおもと)は、皆を納得させるだけの働き(等族義務)を見せることがなんとかできたため、どうにか再公認を得ることができたが、それと同列でそこを結局見せられなかった安藤守就(もりなり)の場合は、仮公認が取り消される形で失脚してしまうことになったのも、そういう所なのである。

 

織田派を表明したからといって一時的に仮公認を受けたに過ぎない連中は、その内に等族議会制(等族義務に見合った身分再統制)による仕切り直しが行われる際に、いずれは領主(管区吏僚・地方議会の議席)失格の裁定(家長指名権)が下されてしまう連中だったということが、しっかり説明されてこなかった所になる。

 

望んだ士分家格(待遇)に見合うだけの等族義務(人の上に立つ社会的指導責任の手本)を見せられなかった者、すなわち当主(代表家長・織田家)の旗本(武家屋敷)に強制収容(権限回収)されることに後でごね始めるような、旧態地縁が抜け切れていない、議席(地位)の譲り合いができたことがない低次元な地方の士分気取り(地方裁判権止まりの家長気取り)たちが、織田家の高次元な敷居の等族諸侯扱い(近世大名扱い・地方の管区吏僚扱い)として公認される訳がなかったのである。

 

江戸時代における旗本制度も、国替制度も、目付制度も、その前身は織田信長が作ったといっても過言ではないが、織田信長が等族諸侯(近世大名)として失格(閉鎖有徳)と見なした時点で「再育成が必要だ!」といわんばかりに地方の領地特権(管区吏僚の権限)を巻き上げながら全て旗本(武家屋敷)に問答無用で収容しようとした。

 

そういう時代になってきていたことを、地位の低い下々は中途半端にしか理解できていなかったが、その敷居で進退を迫られるようになっていた諸氏の間では地位が高かった者ほどその認識自体はできていて、しかしそれについていけていないことの部下たちの手前の気まずさから、大半はとぼけていただけである。

 

しかし

 

 「我が等族議会制(裁判権)の敷居の家長指名権(家格裁定・旗本収容)に潔く降参しようとしない以上は、中央だろうが地方だろうが、世俗だろうが聖属だろうが閉鎖有徳と見なして遠慮無用に踏み潰していく」

 

という所を織田信長が徹底しすぎたことが、心の整理ができていなかった、それに少し時間が必要だった多くの諸氏の心情を錯乱させていったのも間違いなく、そこが少々急進的な所があったことが、本能寺の変を助長することになったともいえる。

 

足並みがなかなか揃わない廷臣たちをどうにかまとめていた勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)は、それまでは織田信長とは良好な仲だったのが、本能寺の変の直前には急に険悪な仲になったのも、こういう所だったと見て良い。

 

勧修寺晴豊がそこを遠回しに織田信長に警告してくれていたのを、織田信長はその意味を理解した上で怒鳴り返す形で突っぱねているが、これは勧修寺晴豊に対してというよりも、反省が足りない廷臣たちも多かった全体に対してだったと見てよい。

 

ここは状況としては難しい所として後述するが、筆者としては、言い出しにくい立場だったこの勧修寺卿が勇気をもって、織田信長に対して当時の状況を遠回しに助言したことについては、高く評価している。

 

結果として織田氏の敷居が少し高すぎたことは整理されていきながら、合議制を改めて確定していった徳川政権では、近世大名の資格は大目に見る代わりに、目付制度に参勤交代制度で補強する形で、諸氏を監視していく体制を整えた。

 

1582 年に本能寺の変が起き、仕置き(裁判権改め)も間もなかったことで特に大混乱が起きた旧武田領(信濃・甲斐・上野)では、羽柴氏による中央の代表選(清須会議と賤ヶ岳の戦い)以後の 1585 年頃までにそれが落ち着くまで、その近隣の上杉氏、北条氏、徳川氏ら列強たちによる旧武田領の支配介入戦(天正壬午の乱・てんしょうじんご)がしばらく続くが、上杉景勝北条氏直徳川家康も、かつて織田氏に突き付けられた高次元な敷居(等族義務)にとぼけながら格式争いをしていたに過ぎない。

 

中央の代表格の座を制するようになり、天下総無事令の強調を始めた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、連携は採れていた上杉氏を除く、北条氏と徳川氏の二者に対して地方裁判権止まりの格下どもがとぼけおって! よさんか!」と恫喝した。

 

支配介入戦の言い訳として擁立された、徳川家康を頼って奇跡的な深志城奪還を果たしていた小笠原貞慶を、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が調略(中央政権の直臣化)したことを以って、表向きの旧武田領の支配介入戦をやめさせる方向に至った。

 

信濃(長野県)の元々の代表格の自負が強く、その政局の中心地であった深志城(松本城)に強くこだわっていた小笠原貞慶に対し羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、讃岐(香川県)への国替え(領地替え)の強制を命じることで、地縁意識を強める姿勢への警告として試すと、小笠原貞慶は不満を表したものの、渋々それに従った。

 

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が中央の代表格の座を制するまでは、織田氏の敷居で進退を迫られ、存分に思い知らされたはずの諸氏は、本能寺の変をきっかけにそれをとぼけながら、もはや天下(中央)の敷居争いではなく格式争いの広域戦を続行しようとした。

 

だから豊臣秀吉が、織田信長の高次元すぎた敷居を肩代わりする形で調整していきながら、しかし引き続き、上へのそういう所に厳しさを強めるようになった。

 

話は戻り、本能寺の変が起きようが起きまいが、何でもいいから中央のあり方に進展があるような議会制の仕切り直しを、誰かが進めていかなければならなかったことは、今までのままの中央体質ではもはや、再起不能になっていたのも同時にはっきりしていた。

 

日本の今後が憂慮できた織田家と浄土真宗が、後々で禍根を残さないためにも、世俗中央議会と聖属中央議会の互いの等族義務の範囲の仕切り直しを、やむなく肩代わりすることになったというのが正確なのである。

戦国後期は、その議会的(法治国家の品性規律)な敷居(育成理念の手本)の白黒をはっきりさせていきながら、従わせる側(それを自分たちでできる側)従う側(それを自分たちでできない側)とで家格的・格式的・敷居前例的に決めていかなければならないことが、顕著になった時代である。

聖属側の浄土真宗にもし、中央に乗り込まれる形で公的教義が具体的に踏み潰されることになるよりは、世俗側の織田氏に中央に乗り込まれる形で公的教義が具体的に踏み潰された方が、そちらの方がだいぶ救いはあったといえる。

織田氏による公的教義の踏み潰しは、表向きは法華宗に属する織田家が天台宗をうちのめしたという構図にはなるものの、世俗裁判権を介した間接的な話であるため、その構図はそれほど強調されなかった所になる。

しかし浄土真宗が公的教義を直接踏み潰す、つまり聖属が聖属を踏み潰すということになると、報復人事しか能がないこれまでの公的教義の低次元な手口と何も変わらない構図になりかねず、どの宗派が国教を肩代わりすることになっても、いずれは公的教義体質(ただの寡頭体質)に逆戻りしてしまう危険性も十分にあったといえる。

それは、日本の国教がもし仮にキリスト教になったとしても、そこは同じことがいえる所になる。

西洋側の帝国議会でも同じことがいえる所として近世は、聖属側(公的教義体質)が聖属全体も世俗全体も従わせる時代遅れの上下統制(寡頭主義)とは、いったん大幅に決別された、そこが顕著な時代だったといえる。

今までの

 

 議決性(等族義務)などない旧態閉鎖慣習(寡頭主義)だけで社会全体(聖属教義全体も世俗全体も)をまやかしの同朋意識(偽善・劣情共有)だけで従わせてきた

 

閉鎖的な時代では、今後の経済社会や国際交流(格上同士の見習い合い)にいい加減に対応できなくなっていたから、これからは

 

 議会制・議決性(目的構築・組織構想の等族義務=社会的指導責任)を確立(敷居向上)できている側(その議席の上層側)が社会全体(聖属教義全体も世俗全体も)を等族国家的(法治国家の謄本登録的な身分資格の品性規律)に従わせる時代

 

の明確化(進化)がされたのが、中世末期から近世初頭にかけての特徴である意味が、これまであまりにも説明されてこなかった所になる。

 

独裁制であろうが合議制であろうが、この寡頭主義等族主義の違いによる近代的な社会観念(議決性)の構図に向き合うことができていないということは、これを現代風に例えると、

 コンピュータ側(小目標・部品資源側・ハードウェア側)人間側(大目標・設計展望側・ソフトウェア側)を手助けするために作られたはずの本分(小目標と大目標の等族関係)

が、いつの間にか

 コンピュータ側(小目標・部品資源側・ハードウェア)の不都合的仕様(環境の限界的完結)人間側(大目標・設計展望側・ソフトウェア側)が対策・調整しようとしなくなる

 

 すなわちその不都合的完結一辺倒(ただの指標乞食主義)永続的ないいなり(寡頭主義)になり合うために、うちのめし合い従わせ合うこと「しか」しなくなっていく

それを繰り返すことしか能がなくなっていく原因、そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった整理の見方ができなくなっていく、そこを疑い見抜くこともできなくなっていく原因になる。

現代の商社の、競合間の新規開拓(敷居向上)競争における主体性(育成理念の敷居の議決性)についても、もちろん個人努力、国家努力でもここは同じことがいえる。

 自分たちの課題(敷居向上)に自分たちで積極的(議決的・自己等族統制的)に地道(冷静さ慎重さ丁寧さ)に取り組むことで、自分たちの強み(議会的な育成理念の品性規律)を、自分たちで作っていける側

 

 

 よその立証の環境基準(不都合的完結)にただ頼り切り、ただ誇らしげに調子に乗りながらうちのめし合い従わせ合うことしかしてこなかった、公的教義と大差ないだらしない低次元側

 

とで、初動の主体的(自己等族統制的)な意欲の有無から、敷居差が出てきてしまう所になる。

 

人(国際人道観)としてのその最低限に向き合うこともできていない、公的教義と大差ないだらしない低次元(育成理念に無計画・無神経)な法賊(偽善者)どもが、議会的(目的構築・組織構想の育成理念といえる品性規律)な人間性(人文性)や社会性(啓蒙性)に向き合ってこれた訳がないのである。

筆者が続編予定している、オブジェクト指向(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)の批判についての根幹も、だらしないにもほどがあるそういう低次元な劣悪姿勢(寡頭主義)に対してなのである

中央(上・本家筋)は、地方(下・家来筋)の不健全を鎮めるためのまずは自分たちの課題(旧態派閥の不都合=指標乞食主義=閉鎖有徳主義=合併アレルギー)の仕切り直しをしなければならなかったのを、自分たちでろくに議決性(法治国家の品性規律のあり方)を示してこれなかった。

同じくそこを指導できたことがない、今までの慣習(地位・議席)を維持するために教義崩壊させ続けることしか能がなかった公的教義(中央教義)も、その等族義務(上としての社会的指導責任)としての廷臣たちの管理責任(国教の顕蜜体制としての立場)も重大なのである。

信用(育成理念の等族義務)ある公文書(誓願書)の作成も、その名義人の選出もできたことがない、名義人にただ全責任を押し付けることしか能がない、その自分たちの議決性のまとまりのなさに気まずくなれば騒ぎを大きくして万事うやむやにすることしかしてこなかった、にも拘わらず中央(上)の立場(議席)を譲り合おうともせずに、いつまでもしがみ続けようとした。

今までのその中央体質がついに許されない時代が示されたのが、織田信長による上から順番の制裁(下から順番に救済)の、荀子的独裁制(敷居向上の姿勢狩り)の身分再統制(等族議会制・人の上に立つ士分資格の仕切り直し)だったのである。

何度も指摘してきたこととして、いつの時代も上の立場でない多くの下々は、その意味を即座に理解することは難しかった一方で、上であるほどその認識自体はできている者も多く、気まずいからとぼけ続けていたのが実態なのである。(この件は最後に後述予定)

繰り返すが、誰かがやらなければならなかった中央の再整備を誰もできない状態が続いた、だからそれを深刻に考えるようになった地方側の浄土真宗が、のち織田家が、本来の等族義務が完全にできなくなっていた中央を肩代わりすることになったというのが、正確である。

 ただ自分たち(上・古参)に甘く、ただ外(下・新参)に厳しいだけの、国内慣習(国内の異種異文化)の収容(見習い合い)もできない、地方裁判権止まりのだらしない低次元な閉鎖議会しか作れない格下側



 海外の異種異文化の収容(見習い合い)までできる議会が作れる格上側

との等族議会制(身分再統制)の敷居差が顕著になったのが、近世前半の改革期なのである。


今回も明智光秀と中央関係者たちの具体的な内心に触れるには、当時がどのような状況だったのかを、ひとつひとつあなどらずに確認(尊重)していくことが、まずは重要になる。

 

次も引き続き、本能寺の変とは何だったのかについて、記述を続けていく。