近世日本の身分制社会(093/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか21/? 2022/03/14


まず本能寺の変が起きる直前に織田信長が、これまで明智光秀に公認していた近江坂本と丹波の支配権を返上させる予定を告知したことが、それが何を意味していたのかが、これまでしっかり語られてこなかった所になる。

これまでの織田政権の、独裁制(上から順番の、敷居向上の姿勢狩りについていけない格下げ規定)による回収中心から、合議制(今後の敷居維持の落ち度狩り規定)に向けた確定作業が始まったことは、下々の間では中途半端にしか理解できなかった。

しかし上(地位が高かった者たち)の間では、今まで仮公認で大目に見られてきた新参たち、中央関係者たち、また遠方諸氏たちの意識としても、織田氏の等族議会制の敷居と見合わない者たちは格下げが必至になってきていた意味は、内々では理解しており、そこに相当あせるようになっていた。

織田政権の高次元な敷居になんとか入れてもらえていた組と入れてもらえなかった組、すなわち旧態基準(等族義務の欠落=劣悪性癖=ただの指標乞食主義=ただの劣情共有=低次元な敷居)で今まで地位(格式序列・議席)が高かったに過ぎない中には、この世の終わりが来たかのようにあせっていた者も、当然いた。(身分再統制)

羽柴秀吉と共にどんどん抜擢されていく明智光秀は、柴田勝家に次ぐ家中第二位といわれる管区長(大領の権限・部将・師団長)として信任され、目立っていた。

 

明智光秀も地方再統一(裁判権改め)の他、中央の旧高官たちの領地特権の管理を任され、まだ具体的な仕置き(裁判権改め)の介入を受けていない地方諸氏と織田氏との折衝役の外交も担当していたことで、この上なく多忙だったといわれている。

織田氏の家臣団の中では、格式こそ明智光秀と羽柴秀吉よりも、柴田勝家と丹羽長秀の方が少し上とされていたが、課されるようになった役割やこれまでの活躍は、明智光秀と羽柴秀吉の方が少し上だったといって良い。

これも織田信長らしい人事だったといえるが、明智光秀と羽柴秀吉はそれだけ見込まれ、前代未聞のありえない抜擢がされたからこそ「柴田勝家と丹羽長秀の2人以上の働きを目指して当然」が強調された。

組織(政権・議会)を低次元化させていかないために、こうした構図によって

 「我が家中で、羽柴秀吉と明智光秀のこの抜擢にひがむ以上は、ならばこの2人以上の手本家長(等族義務・社会的指導責任)の手本姿勢を示してみせよ」

 「この2人のようにどれだけ働きを示しても、同時に上同士の議席の譲り合いも、できなければならないのだ」


の強調役を、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉は請け負っていたといえる。

これまでの旧態主義を一斉に改めていかなければならないための、その重責の中心は、織田信長自身と、明智光秀と、羽柴秀吉の、この3名でなんとかするつもりでいたことも、織田信長らしい性分だったといえる。

重臣たちの人望を低下させてしまうかも知れない、この難しい「誰もやりたがらない嫌われ役」は、頼りにならない者には決して任せられず、家臣たちにその多くを負わせないようにしていたと見てよい。

人事改革の強調として急抜擢された明智光秀と羽柴秀吉だったからこそ、その役も請け負わせるやり方が、織田信長らしいといえる。

当初は佐久間信盛もこの「嫌われ世直し重責組」に計画に入っていていて、「嫌われ4人衆体制」でいく予定だったのが「嫌われ3人衆体制」になってしまったと、筆者は見ている。

しかしこの3名だけで、あまりにも多くを背負い込もうとし過ぎてしまったことが、結果的に本能寺の変のきっかけになってしまったといえるが、そこも織田信長らしかったといえる所になる。

明智光秀と羽柴秀吉は、織田信長の表向きの厳しさの意味も、今後の構想も、どのようなものだったのかは内々で参画していたのは間違いないため、そこはよく理解していたと見て良い。

本能寺の変の動機も、明智光秀の個人的な被害意識からのものなどではない、身分再統制と今後の日本の方針に関する、もっと高次元な政治的理由からだったと見た方が自然といえる。

 

中世から近世への等族議会制(敷居改め)の大きな転換期がどのようなものであったのか、それまでの日本の前後の様子や特徴を把握できなければ、何も見えてこない所になる。

筆者の見立てた明智光秀の本能寺の変の、動機というよりも起因は、この明智光秀(明智家)を、今風でいう外務省の最高長官にしようとしたことだったと見ている。(順述)

まず、織田氏に臣従を迫られるようになった諸氏(地方の代表格たち=戦国大名たち)との調停を任せられていた立場だった明智光秀は、もはや廷臣たちよりも格上の家格扱いだったといって良い。


明智光秀を、外務省の最高長官にしようとしていたことは、これまで織田氏に反感的だった中央の旧高官たちよりも、明智光秀の方が格上の上官となることを意味する。

室町末期の幕臣(中央関係者)筋の下っ端あがりのはずであった明智光秀の方が、今後の海外対策についての外交権や人事権は、これからは明智光秀(明智家)が権限となる、有力諸侯扱いの構想だったというのが、筆者の見立てになる。

とにかく明智光秀に対してのこうした「栄転」のさせ方が、明智光秀をかえって重責を感じさせてしまう結果となってしまったというのが、筆者の見方になる。

織田氏の敷居についていけてなかった廷臣ら、諸氏らを、これまでは便宜的に調停する役を務めていた明智光秀だったからこそ、その板ばさみとなって、かえって追い込むことになってしまったと見ている。(順述)

明智光秀の主要地だった近江坂本と丹波から、石見・周防(いわみ、すおう。山口県)への領地替えの予定の件は、表向きは懲罰左遷だったかのように見られがちだが、筆者はこの異動の実際は、明智家への格下げ所かさらなる格上げの布石だったと見ている。

この領地替え予定の告知は、これまで織田氏と中央関係者たちの折衝役、また諸氏たちの折衝役を担当していた明智光秀の異動を意味し、それは合議制の確定作業(身分再統制)が具体化されることの、もう交渉の余地無しの最後通達を意味していたと見てよい。

明智光秀をどんどん栄進させていった織田信長は、皆がひがまないように、その上のあるべき等族義務(社会的指導責任)として、表向きの厳しさを演出していただけで、実際はさらなる栄転の布石だったと筆者は見ている。

明智光秀のさらなる格上げのこの「栄転」がどういう意味なのか、本能寺の変が起きた 1582 年に49歳になっていた織田信長が、自身が生きている間にどのような体制を敷こうとしていたのかの考察から、順番に説明していきたい。

織田信長とケンカ別れする形で争い、敗れて中央から逃れた足利義昭を、中国地方の大手だった毛利氏が、織田氏への抵抗題材として擁立したため、羽柴秀吉の毛利攻め(中国地方攻略・裁判権改め)は、その部分も当然関係している。

1582 年頃になると羽柴勢(織田勢)は、毛利勢の妨害を押し返しながら、播磨(兵庫県)、備前(岡山県)、美作(みまさか。岡山県北部)、因幡(いなば)を優位に抑え始めると、いよいよ毛利氏を圧迫し始めるようになっていた。

苦戦しつつも優勢に戦況を進めていた羽柴勢の毛利攻略に、明智勢(近江坂本勢、丹州勢、大和勢、摂津勢)に加勢させることになり、中国地方の制圧も早まる見通しとなった。(本能寺の変が起きる直後の計画)

ただでさえ羽柴勢を防衛することに苦戦していた毛利勢に、部将(師団長)の明智勢が加勢するということになれば、毛利氏はいよいよ絶望的な状況となり、さっさと臣従するかどうかを迫られる事態となるはずだった。

羽柴勢の加勢に向かうはずだった明智光秀は、軍を山城(京)に向け、用入りで安土城から出て京に滞在していた織田信長を見計らうように深夜に取り囲み、討ち取るというあの本能寺の変が起きる。


織田信長、織田信忠親子を討った明智光秀は、織田氏の政局になっていた近江の攻略(再統一)に慌しく乗り出すが、それに手を焼いている間に、毛利氏と対峙中であった羽柴勢が、毛利氏と停戦和解して急いで中央に引き返し、明智勢を鎮圧することになる。

ここで、本来の指令のはずであった「明智光秀に、羽柴秀吉の毛利攻略を加勢させるはずだった」織田信長の予定は、どのようなものであったのかの考察について触れていく。

予定通りに明智勢が、大勢の寄騎を従えて羽柴勢に加勢することになった場合は、毛利氏は3年ももたなかったと思われ、早ければ明智光秀は1年後には、石見・周防の支配地に着任していた。

九州では、三大勢力になっていた竜造寺氏、大友氏、島津氏を中心に競い、阿蘇氏、伊東氏、相良氏らは衰退の中でも懸命に存続し、有馬氏もキリスト教徒たちとの縁を強めながら、自治権をしぶとく維持していた。

明智勢は石見・周防(山口県)を拠点に、そして羽柴勢は備前(岡山県)や備後(広島県東部)あたりを拠点に、この2人で九州勢に臣従(天下静謐)を迫る予定だったと筆者は見ている。

1584 年にはその状態になっていたと仮定し、その頃には織田信孝勢(丹羽勢、蜂屋勢、池田勢ら)の四国攻略も達成していてもいいほど、4ヶ国の武田氏を1年そこらで片付けてしまった織田氏と、遠方諸氏らの力量は歴然としていた。

織田氏が中国地方と四国から、九州勢に圧力をかける形で、格下げ覚悟で臣従する九州勢と、反抗する九州勢とが出てきて、どのみち行われる九州仕置き(裁判権改め)も、これも 1586 年くらいには上から順番に、織田氏の傘下になっていたと見てよい。

島津氏は前々から織田氏とは良好関係だったといわれ、この島津氏もいったんの格下げはされても、九州が今後の海外交流の重要地にされることが予定されていた中の、恐らくはその有力諸侯扱いに優遇される予定だったと思われる。

島津氏と同じく対馬の宗氏(そう)も、これまでの日本と朝鮮半島と琉球と中国大陸とのそれぞれの交流網や、前々から堺衆とも良好な縁をもっていたことの重視から、織田氏から優遇される予定だったと思われる。

1575 年の段階で、羽柴秀吉には筑前守(ちくぜんのかみ。福岡県の知事)を、明智光秀には日向守(ひゅうがのかみ。宮崎県)の肩書きを名乗らせていたことからも、九州を海外交流の要所にしようと早くから計画していたことが窺える。

1575 年の時点で、織田氏と諸氏との議会制(裁判権)の敷居の力量差は既に決していたといってよく、九州仕置きが早くも予定され、羽柴筑前と明智日向の2人を九州の管区長に据える計画だったと見てよい。

どのような体制を織田信長が敷くつもりでいたのかが、どういう訳かこれまで全く語られてこなかったため、ここで筆者のその見解を触れておきたい。

織田氏の功臣の家柄とする羽柴家は、海外との重要な物流や関税などの今風でいう運輸大臣に、そして同じく功臣の家柄としての明智家は、今風でいう外務大臣に就任させる計画だったと思われる。

羽柴秀吉の中国地方攻略では、瀬戸内海の事情に詳しく、海域ごとの情報網ももっていた堺衆の協力も大きかったと思われ、備前の宇喜多氏が毛利勢から羽柴勢に鞍替えした際に、その宇喜多氏の親類家臣扱いとして重視されていた小西行長(堺衆の有力資本家の一族)が、羽柴秀吉からも重用されるようになる流れも、それと当然関係していたのは間違いない。

織田氏が西進を始める前までは、西側の大手であった毛利氏の力関係に表向き従っていた備前の宇喜多氏は、小西行長の存在からも織田氏とは懇意だった堺衆たちとの交流が元々あったことは、少し先述した。

 

播磨・但馬(はりま。たじま。今の兵庫県南部と北部)攻略を優位に進めていた羽柴秀吉と、備前を再統一した宇喜多直家は、前々から裏では交渉をしていたと見て間違いない。

少し先述したが、いったん没落した、備前の国衆のひとつであった宇喜多家を影で支え、親類関係となった備前の豪商の阿部一族に養子入りした、堺衆の大手の小西屋の次男・小西行長は、当主の宇喜多直家とは義理の親類関係だった縁と、それまで宇喜多家を支援してきた貢献からも、小西行長は宇喜多軍団の中では、特別扱いされていた。

備前の元々の代表格であった浦上氏(これも元は播磨の代表格の赤松氏の有力家臣だった)が没落し、その最有力家臣として信望を集めるようになっていた宇喜多氏が、代わって備前の代表格としてまとめるようになった。

 

堺衆との縁もあって備前の商業網を整備したことは、小西屋(堺衆)の影響力も大きかった。

羽柴秀吉が優位に西進するようになると、これまで毛利氏の寄騎として渋々従ってきた宇喜多直家が、羽柴派(織田派)の寄騎として鞍替えするが、宇喜多直家の親類家臣だった小西行長は、羽柴秀吉からさっそく重視されるようになっていた。

堺衆は、まず織田信長が中央に乗り込んだ際に、帝都としての都市経済の再建を果たす上でそれに協力的だったこと、また堺衆が早めにキリスト教徒たちとの交流をしていたことで、織田氏が中央(京)でも寛大にキリスト教を公認したこともあって、1571 年の時点で両者は既に良好な関係になっていた。

播磨も堺衆との取引網の縁は強く、播磨攻略に少し苦戦した羽柴秀吉は、それまで手ごわくその妨害に動いた村上水軍(毛利水軍)を撃退するために、九鬼水軍(くき。織田水軍)が支援したように、堺衆もその頃から羽柴秀吉の西進を裏で支えていたと見てよい。

羽柴秀吉が、今後の重要な海外対策としての、今風の運輸大臣を任される予定だったことは、播磨再攻略が果たされて毛利氏をいよいよ圧迫し始めた 1578 年頃には、堺衆の上層たちにも内々では既に周知だったと見てよい。

羽柴秀吉の経緯と同じように、明智光秀の経緯も見ていくと、明智光秀は丹波・丹後方面を任され、順調にその攻略(裁判権改め・地方再統一)は進んでいった。

反乱を起こした大和(やまと。奈良県)の松永久秀と摂津(大阪府北部)の荒木村重が制圧されると、大和衆と摂津衆を最初は佐久間信盛がそれらを寄騎として従えることになったが、佐久間信盛が失脚すると、明智光秀が代わって従えるようになる。

この時点で明智光秀は、重臣の筆頭だった佐久間信盛とほとんど同格の規模となるが、中央関係者たちの折衝役と、諸氏との折衝役の中心人物にもなり、格式こそ柴田勝家と丹羽長秀の方が格上とされたが、実務的には重臣筆頭といってもいいほどになる。

天下の趨勢はもはや決していた 1582 年には、これまで盟友関係が続いていた徳川家康を親交目的で招聘するが、その接待役も明智光秀に任せられている。

こうした明智光秀の役目からも、まず国内交流の取り仕切りの中心的立場を明智光秀(明智家)に据え始めたことは、より視野の広い今後の海外交流の取り仕切りを任せる、典礼的な布石だったと見てよい。

織田信長が明智光秀に怒鳴り始めたという、表向きの厳しさの茶番を抜きにすると

 「明智光秀は、まず地方再統一ができるだけの器量があり、国内交流の折衝役としての品性規律(手本礼儀)ある取り仕切りもできていた」


 「だから今後の海外交流の人事総長の立場を、この明智家に任せることした」

という、のちの外務大臣への典礼の流れが作られていたことが窺え、羽柴秀吉の運輸大臣への流れもそうした傾向が窺えると、筆者は見ている。

最初は嫌われ4人衆の佐久間信盛の佐久間家を、外務大臣と運輸大臣の兼任の総長格にしようとし、それを羽柴家と明智家に補佐させようとしていたかも知れない。

しかしそれにむしろ困惑してしまった佐久間信盛は、廷臣たちの保護監察役だった現場の廷臣たちの言い分に揺れるようになり、浄土真宗対策に消極的になるばかりだったために、織田信長から手厳しい大失脚劇を受けることになってしまった。

これで嫌われ4人衆(織田信長、佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀)が3人衆(織田信長、羽柴秀吉、明智光秀)になってしまい、佐久間信盛の後釜に明智光秀をとりあえず据える形で、進めようとした。

しかし明智光秀も、結果的には佐久間信盛と似たような状態になってしまった。

こうした今後の予定が知らされていたのは、織田家中の重臣たち数人、旗本吏僚の中の重役の数人、また織田家とは良好だった中央関係者の一部だけで、まだ正式発表はされていなかった。

地位がそんなに高い訳でもない従者(下士官たちや兵員たち)や下々は、それを察知したり、その意味を理解することはいつの時代も難しく、理解させるにしても時間もかかる所になるが、諸氏の上層の間ではそうではなかったと筆者は見ている。

織田氏のその敷居に足並みを揃えようと、なんとか頑張っていた徳川家康あたりも、その様子からある程度は察知できていたと思われ、織田氏に圧迫されて時間の問題になってあせっていた諸氏にしても、上層の間ではある程度は察知できていたと筆者は見ている。

織田氏ともキリスト教徒とも良好な関係を続けていた、その後の運輸業にも関係してくる堺衆などは、羽柴秀吉の緘口令(かんこうれい)によって、混乱を避けるための健全な意味で口外しなかっただけで、織田信長のやろうとしていたことの全貌はほぼ知っていたと思われる。

正親町天皇(おおぎまち)の次代の誠仁親王(さねひとしんのう)と、織田信長の次代の織田信忠の継承式典が行われるはずだった 1582 年に、その発表もされる予定だったのを、結果的に明智光秀がそれをうやむやにするために本能寺の変を起こすことになった。

織田信長が、羽柴秀吉(羽柴家)と明智光秀(明智家)を、柴田勝家(柴田家)や丹羽長秀(丹羽家)と並ぶ最有力諸侯として、どのような体制を敷こうとしていたのか、そこに触れていきたい。

まず柴田家と丹羽家は内需側の担当として国内の人事や政治を取り仕切る側、そして羽柴家と明智家は外需側の担当として海外との文化交流と取引網の人事や政治を取り仕切る側とし、その最終議決は織田家、という体制を敷こうとしていたと筆者は見ている。

この体制に向かい始めていた中、織田氏の等族議会制の敷居の枠に入れずに失脚が見えていた、旧態権威(古い基準)の格式で今まで地位(議席)を維持してきた廷臣や中央関係者の上層たちにとっては、二度と復帰などできなくなるほどの脅威だったと見てよい。

織田信長は、武家の棟梁(世俗側としての日本全体の代表家長)としての新政権を、陛下に正式に公表してもらった後には、世界から見た日本の国威・格式として重要だった、中国大陸側の明(みん)とのこれまでの力関係の仕切り直しも、当然のこととして視野に入れていたと見てよい。

 

中世までは

 

 格上の中国大陸側 = 日本の代表格を公認してやっていた側

 

 格下の日本列島側 = 日本の代表格を公認してもらっていた側

 

だったのは、それは実権を握られることはなかった表向きの外交関係だけだが、やむを得なかった。

 

しかし戦国後期( 1540 年代頃)から戦国終焉( 1580 年代 )にかけて、再統一(家長権・議会制の仕切り直し)の人事改革(身分再統制)が顕著になり、さらには中国大陸側の足元的な権威を介す必要などなくなった海外遠方(西洋人たち)との直接の異種異文化の技術・文化交流が始まったことの、日本の等族社会化(国際社会といえる法治国家化)は、中国大陸側とのかつての格上格下の関係などではなくなっていた。

 

ただし織田信長の場合は、明に直接ケンカを売るのではなく、まず外交体制の準備をしてから、これまでの力関係を否定しようとしていたと思われる。

九州の要港を整備しながら、海外間の外相と運輸の体制(明智家と羽柴家)を設置・整備していき、キリスト教徒たちだけでなく、アラブ方面のイスラム教国に使者を派遣し、日本に呼び寄せる交流をしようとしていたのではないかと、筆者は見ている。

「あれだけ険悪な関係が続いたキリスト教徒とイスラム教徒が、日本に交流しに互いに往来するという関係が、穏便に遂行できる訳がない」と思う人もいるかも知れないが、それだけの等族議会制(法治国家の品性規律)が整備されれば、決して不可能な話ではない。

かつて中世では、聖地エルサレムを巡ってキリスト教徒とイスラム教徒の間で激しい闘争も繰り返しているため、表向きのその印象ばかりが強いが、キリスト教徒とイスラム教徒は、全く交流してこなかった訳ではない。

実際に中世では、ヴェネツィア海軍が地中海の制海権を完全に掌握するようになり、教皇庁(ローマ・カトリック=西方教会)がうるさいからヴェネツィア共和国としても表向きはイスラム教徒とは険悪な仲を装っていただけで、多人種交流国家と化していたヴェネツィアでは、イスラム教徒たちの商館と、彼らの長旅の休息のための居住保証区も用意していた。

大航海時代の前の中世では、地中海の制海権を握ることは 西洋 - アラブ方面 - アフリカ大陸北部 での交易航路の覇権を握るのと同じだったため、それを制していた中世のヴェネツィア共和国は、少し乱暴ともいえるほどの強国化がされた時代だった。

中世では教皇庁(キリスト教の聖属側の代表格。公的教義)が、その権威に諸侯(世俗側)が刃向かうことができなくなるよう、そのいいなりになるよう、何かあるたびに問題そらしのための仮想敵政策として、十字軍遠征(エルサレム奪還・防衛・支配権確立)に従わせるやり方に頼ってばかりいた時代である。

力をつけすぎた王族が出てきたら、人事差別(叙任権闘争)で王族間の力を削ぎながら教皇庁(公的教義)に逆らえないように、破門(キリスト教徒失格)という偉そうな剣と、戴冠式(キリスト教徒合格)という歯向かってこないようにする偉そうな盾を小ざかしく使い分けるという今の日本の公的教義と大差ない低次元な手口が繰り返されてきた。

 聖書(手本)の整備(目的の等族統制・身分再統制)から、時代に合った法(等族義務=社会的指導責任としての品性規律ある議会)の敷居を示していく

という本分を怠け続け、今の日本の公的教義と同じように低次元な旧態権威(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)でただ押さえ続けることしか能がないのみは、衰退していって当然なのである。

ここは現代の、国家、会社などの団体組織、個人においても、根本的には共通していえる所になる。

中世前期ではまだそのごまかしの手口は通用しても、ただし飛び抜けて強国化してしまったヴェネツィアだけはそんなものは通用せず、従わせることが簡単ではなかったために、教皇庁(ローマ。枢機卿団)も手を焼くようになっていた。

教皇領側(エミリアロマーニャ州他)とヴェネト州側(ヴェネツィア共和国)とで険悪な仲になることも常々で、そういう時ほど面子からもいいなりにさせたくなる教皇庁は、ヴェネツィアに異教徒(イスラム教徒)たちの商館と居住区があることを理由に、度々難癖をつけていた。

アジア方面の香辛料を始めとし、アジアやアラブ方面での珍しい輸出品は、エジプトを介して多くの人手とラクダなどが使われ、アレクサンドリア(エジプト北部。地中海の東側の要港)まで運ばれた。

そこで荷積みされ、船で次々とヴェネツィアまで交易品が運ばれてくるようになっていたため、ヴェネツィア共和国と、アラブ方面やエジプト方面のイスラム教徒たちとの関係は、国家間の戦争状態でない通常は、すっかり貿易関係が作られるようになった。

キリスト教徒というよりも教皇庁が「キリスト教に改宗しようとしない、悪魔に魂を売り渡した異教徒などと、交流などあってはならん」だのうるさいだけで、ヴェネツィアの取引に参加していたキリスト教徒たちも、表向き合わせていただけに過ぎない。

アラブ方面やエジプト方面から、ヴェネツィアまで往来してくるようになったイスラム教徒の業者たちとしても、ヴェネツィアは重要な貿易取引相手だったのである。

イスラム教徒たち(中近東での大手は、アラブ人、トルコ人、ペルシャ人、アルメニア人。ペルシャ人は今のイラン人)は、表向きの体裁上としてキリスト教徒の王族とは直接取引できなかった中で、大手の王族並みの資本力があったヴェネツィア共和国が高く買い取ってくれたため、交易品を熱心にもってくるようになっていた。

ヨーロッパ中のキリスト教徒たちも、交易品で常に盛況だったヴェネツィア市場に参加しようと、ドイツ、フランスといった国籍を問わずに各地から訪れ、またヴェネツィアのその優れた商業学校に学びに訪れる人々も、大勢いた。

ヴェネツィアに来た以上はヴェネツィア共和国の商業法の手続きに従わなければならず、裁判所で管理される取引権に従わずに勝手な争いをすれば、信用を失い追い出されてしまうため、異種異文化の居住地にわざわざ争うために出向くようなことは、互いに控えられていた。

ヴェネツィアの都市政治の手続きによって市民権や取引権を公認されていた得意先たちは、取引に関する投票権をもっていて、自分たちの利益にも関係していたため皆がそこにも熱心だった。

国家的な方針については、ヴェネツィアの貴族委員会や地元の資本家たちがその議決権を握っていたが、取引先同士の道義的(契約的)な規則については、市民権や取引権をもつ者たちにも投票権が認められていた。

他国籍間の取引も盛んだったことで、相場にしても関税にしても手数料にしても、それぞれ慣習が違うため「こういう場合はどうなるんだ?」が浮上する取引例も常々で、そこは共和国家の意見回収として、毎月のように熱心に投票による議決が行われていた。

取引に関することが中心ではあるが、ヴェネツィアでは、異種異文化をそのように収容しなければならない立場だった。

近世の等族議会制ほどではないにしても、それでも中世の中ではそれが先駆けでできていた方だったから、よそのイタリア貴族たちや枢機卿団らの介入を許さないような、強国としての自治力がヴェネツィア共和国では維持できていたといえる。

教皇庁は、常にいいなりにさせることができなかったヴェネツィア共和国とは、険悪関係になるのも常々で、だからこそ当時のその慣習破り(イスラム教徒との交流)の部分を引き合いに、ヴェネツィアに難癖を常々つけていた。

中世にはヨーロッパ中の都市が、民権運動的に司教権威(公的教義権威)から自由都市(皇帝都市=帝国議会で等族諸侯扱い)に脱却(都市法の見直し)し始めることが顕著になったことは、ヴェネツィアの共和国家的(民権的)な影響力も当然のこととしてあったため、教皇庁はそういう所にも難癖をつけていたと思われる。

それに対してヴェネツィア側も、地元の神学を奨励しながらより優れた修道院長を選出し、市参事会(商工組合側の都市政治)と聖堂参事会(都市の裁判権側)による、国際裁判権の体裁に隙がない準備をしながら、遠回しにそれに反論することにも余念がなかった。

 

何かあると人事差別(破門と戴冠式の悪用)と十字軍遠征(エルサレム攻防戦)を煽るばかりの、イスラム教徒たちとの交易に支障を作ることばかりする教皇庁のことなど、ヴェネツィアからすれば内心では良く思っている訳がなく、その市場に各地から駆けつけていたキリスト教徒たちの内心も、そこは同じである。

 

あまりにもうるさい教皇庁にヴェネツィアとしても、キリスト教徒とイスラム教徒の間に体裁的にユダヤ人商人団を挟みながら、テキトーに言い訳していたと思われるが、ヴェネツィアはそのような異種異文化交流の先駆けだったといえる。

15世紀末の大航海時代以後、地中海貿易の事情も大きく変化し、16世紀には強国ヴェネツィアの時代も終焉を向かえ、かつてほどの交流は見られなくなるものの、キリスト教徒とイスラム教徒はおおっぴらでなかっただけで、まずは交易からの交流は体験済みだった。

 

話は戻り、日本でキリスト教もイスラム教も許容する裁判権(議会制)の体制は、仏教徒もキリスト教徒も実際に許容できていた織田信長だったら、十分できたのは間違いない所になる。

 

 「キリスト教徒もイスラム教徒も、日本との交流に向かう目的の航路上で遭遇し合うたびに争ってばかりなら、日本との交流は拒否する」

 

という規定をむしろ日本に敷いてもらった方が

 

 「日本が交流してくれなくなるから、少なくとも日本との交流では我々としてもやむなく、異教徒たちと道中に遭遇しても、争わないようにするのだ」

 

という良い意味での言い訳が、キリスト教徒たちもイスラム教徒たちもしやすくなり、むしろ都合が良いといえる。

 

日本でのこうした交流体制が実現すれば、キリスト教徒としてもイスラム教徒としても、利点ばかりだったと思われる。

 

「等族社会化(国際的な法治国家化)の議会制が進んでいる、極東の文明国である日本」と文化交流できている国と、文化交流できていない国とで、そういう所から国威・格式の差が開いてしまう時代の移行期だったことも、近世の特徴なのである。

 

キリスト教徒とイスラム教徒は、今までの表向きの険悪な体裁から直接交流することは難しかったのも、日本でのキリスト教徒とイスラム教徒の国際的な交流が行われるようになれば、互いに日本との交流事情を言い訳に間接的に交流が始められるようになり、互いに良い所を見習い合うきっかけにもなる。

 

織田信長は最終的にはユダヤ人たちでも、ギリシャ正教でもロシア正教でも、またアフリカ大陸の海岸側で小国家化していた所もあったラゴス(今のナイジェリア)などの有力都市でも、対馬の宗氏との縁が元々あった明人(中国人)や琉球人(沖縄方面)や朝鮮人たちも、インド方面のイスラム教徒や仏教徒でも、なんでも受け入れるつもりでいたと思われる。

 

それを帝都(京)に全て異国の居住区を設置するのも大変になってくるだろうから、だから国際交流に先に慣れていた九州をそのための居住区を整備していき、そこから堺、帝都と行き来させる構想を織田信長はしていたと、筆者は見ている。

 

これら海外政策と、今後の日本の国威・格式に大きく関係してくる、今までの中国大陸側との避けて通れない、これまでの外交関係の仕切り直し対策も当然含んだものだったと見てよい。

 

もう日本列島側は、かつての中国大陸側との著しい格上と格下の力関係などではなくなっていることを、軍事を用いる用いないに関わらず、そこを国際外交的に大々的に表明しておかなければ

 

 「日本列島側は国際文明的に、今まで中国大陸側の著しい格下であり続け、そうでないことを一度も明らかにできたことがない歴史(議会史)しか、たどってこなかったではないか!」

 

という歴史的事実が延々と続いてしまい、海外が日本を見た場合の、今後の国威・格式にも影響してきてしまう所なのである。

 

中国大陸側の明は、国力の規模だけを見れば確かに当時も、日本の先輩といえる文明技術強国ではあった。

 

ただし近世になって、中国大陸側と日本列島側との国力差・文化力差・技術力差は大幅に縮まったことと、向こうも議会制の整備に苦労するようになり、キリスト教徒を受け入れる余裕はなかったことは、織田信長は当然のこととして着目していたと思われる。

 

だからこそ、まず海外との文化交流面で差をつけておき、それから日本列島側と中国大陸側の外交関係の仕切り直しを、織田信長は通達するつもりでいたのではないかと、筆者は見ている。

 

それで明側(中国大陸側)が、日本のことをまだ

 

 「なぜ日本は、政権の代表格を我が明帝国に公認してもらうための臣下としての朝貢使者を、今までの慣習通りによこさないのだ」

 

の、中世のままの著しい格下扱いの態度を崩さないようであれば織田信長は

 

 「遠方交流(国際交流に対応できるだけの議会制の整備)が日本よりも遅れている、モンゴル側との仲もうまくいっていない中国大陸側(明国)が、日本よりも格上だのアジアの宗主国だのと、いつまでも過去の寝言をほざきおって!」

 

とやり返すつもりでいた、もしくは自身が途中で亡くなっても、日本がそのように堂々と言い返せる国際国家に向かうための前列作りを、生前中に作っておこうとしていたと筆者は見ている。

 

16世紀にあって、もはや19世紀や20世紀の先駆けの発想過ぎた啓蒙国家構想の織田信長は、実際にできた場合はヘタをすればのちに世界的に神格化されてしまうかも知れないほどの、当時としては驚かれる目標だったといえる。

 

徳川家康を「戦乱終結に導いた武家の棟梁(世俗側の日本の代表家長)、神君家康公という形で、日本の偉大な代表家長の鎮護祖霊(武士道観の基礎)として、各地に東照宮の分社を建てて祭る体制を、徳川政権が国策として作ったのとは、同じ神格化でも訳が違う所といえる。

 

 「下を健全化させていくために上(手本家長)がいるのだ」

 

 「公的教義のように、無神経・無計画(議決性など皆無なただの劣悪性癖)な負担(低次元な権力)を下にただ押し付け続け、ただいがみ合わせ続けるために上(家長権・家訓・裁判権)があるのではない!」

 

 「上(手本家長)が良い思いをする必要などない、この改革期(荀子的独裁制の議会制時代)にそれくらいの最低限の気概も自覚(自己等族統制)できたことがない分際(偽善者)が、何を偉そうに上(手本家長)に立とうと(人を否定しようと)しておるのだ!」

 

が信念の織田信長が、いかにも小心者が思いつきそうな「自身の神格化」などというそんなどうでもいいことに、気を捕られる訳がない所になる。

 

そんなことよりも、日本が世界に誇れるような国際体制に向かうような形を作ろうとし、それこそがひいては日本の奥の院の代表である皇室の威厳であって当然という、そんな性分の人物だったからこそかえって、のちに神格化されてしまう可能性もむしろ大きくなってしまうのである。

 

その構想で何かと多忙だった明智光秀から、内々にその構想を聞かされた廷臣たちは、それに全くついていけない、その意味自体が理解できていたのかも怪しい者ほど、深刻という言葉ではもはや表現できないほどの色(存在感)の失いようだったのは、間違いない所になる。

 

国内の閉鎖有徳闘争(過去の指標乞食主義=ただの劣情共有)も自分たちで改めること(再統一・議会制の仕切り直し)もできなかった、旧態権威(ただの劣悪性癖)の答え合わせのみ(落ち度狩りのみ)でただ調子に乗ることしか能がない、上としての等族義務(国際的指導責任の議決性)の品性規律(手本)など皆無な今の公的教義と大差ない低次元な連中は、もはや地位(議席)から引きづり降ろされる所の話では済まなかったほどの、国際観念の大激変が迫られたといえる。(順述)

 

相手がアラブ方面だろうが、アフリカ方面だろうが、ユダヤ商人団だろうが、異種異文化のさらなる受け入れを進めていく上での、初動のさらなる非同胞拒絶(合併アレルギー)を収拾(閉鎖有徳改め)するための嫌われ役を、その啓蒙国家構想を実現する以上は誰かがやらなければならない。

 

それを一身に背負おうとした嫌われ3人衆の構成員が、織田信長(総裁)、明智光秀(外交人事管長)、羽柴秀吉(異種異文化の流通体制管長)だったと筆者は見ている。

 

織田信長はこれに対する甚大な負担を、荀子的独裁制(姿勢狩りの敷居向上の議決性の手本)の信念で、この3人だけで請け負おうとしたことが結果的に、本能寺の変という形でその構想も頓挫することになってしまったと、筆者は見ている。

 

早い段階で内々に、その構想(敷居)の準備に参画していた羽柴秀吉と明智光秀は、その大変さや重大さも理解できる優れた人物だったからこそ、実務上とは別に、それについていける者ついていけない者との様子も、中立の視点で見ることもできていた。


ヴェネツィアのように貿易国家としての自治権を構成した実績もあった堺衆は、キリスト教徒との交流は早い段階からできていたことからも、今後の日本の物流経済についての羽柴秀吉との運輸省体制の予定には、それほど動揺はしていなかったと見てよい。

 

しかし明智光秀の方の、廷臣ら中央関係者たちや、格下げ覚悟で織田氏に臣従を迫られるようになっていた諸氏たちの、その錯乱気味の様子を収拾すること自体は、こちらについては誰が担当してもかなり大変だったのは間違いない。

 

失脚してしまった佐久間信盛のことはともかくとし、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀あたりの最重要幹部が当たらなければ、難しかった所になる。

 

織田信長の啓蒙国家構想については、賢臣であった羽柴秀吉も明智光秀も、それが実現されれば今後の日本は世界的な文明国家に変わっていく優れた体制になること自体は、十分に理解できていた。

 

ただ、それを前提とする合議制の確定作業をし、今後はその国際視野の文化・技術交流の等族議会制の敷居を大前提に20年30年とかけて整えていくのもいいとしても、急進的な試みだった分では、羽柴秀吉も明智光秀も「皆がついていけるだろうか?」という内心の疑問自体ももちろん出てくる。

 

廷臣ら中央関係者たちとの、教義面(聖属面)での調停役としての責任を、細川藤孝に代わって請け負うことにもなった明智光秀の場合は、そこはより強かったと思われる。

 

織田信長のそもそもの、日本でのキリスト教の公認の仕方自体、これまでの名族の末裔(元をたどれば古くは皇室の外戚)を根拠とする家長権が前提の権威、つまり武家社会の主従権威そのものも、これから改められていくことを意味していたといってよい。

 

この大事な部分がこれまで、どういう訳か全く語られてこなかった所になるが、その意味を順番に説明していきたい。

 

本能寺の変後の経緯的にはまず、もうしばらく荀子的独裁制を続けることになった豊臣秀吉と、改めて孟子的合議制への移行を始めた徳川政権とで、織田時代の当初の海外交流の構想も、限定的なものにどんどん切り替えていった。

 

豊臣時代はともかく徳川時代には、武家社会の慣習の家長権(武士道観)に戻す方向で再重視されることになるが、廷臣たちへのあてつけももちろんあった東照宮の存在なども、まさにその象徴だったこといえる。


ここからも窺えることとして、織田信長は戦国終焉に向かわせるために、特に上の変容の事情をすぐには理解できない下々に対して、慣習的な家長権を強調していただけで、家長というこれまでの慣習に、議席などの言葉を政治的に挟んでいく予定だったと思われる。

 

つまり織田信長は、この日本で特別扱いされるのは皇室(奥の院の日本の本家筋)のみで、他は基本は全て

 

 家格(家系)の下に議席(地位・権威)があるかのような、戦国前期の巻き戻りとなる低次元な古参家格慣習

 

から

 

 高次元な議席(上としての等族義務)の品性資格の敷居の下に、その新興家格があるとする風紀改革

 

という近代的な支持選挙的観念に改め、その前提風紀で議席の譲り合いができるようになるという、時代をかなり先取りした合議制の確定作業をしようとしていたと、筆者は見ている。

 

単純比較で見ても、キリスト教に改宗以後に熱心だった高山重友は、武家社会の血族観念よりも、キリスト教の信仰を上にもってこようとしていたことに、織田信長はそこには大して問題視もせずに容認していた。

 

そして豊臣秀吉は、なんだかそこに釘を刺し始め、徳川政権では「そんなものは認めん!」といわんばかりにうるさくなるという移行が見られる。

 

徳川時代になると、高山重友のようなそうした態度を表向きに出そうとすること自体が、日本の世俗側の代表家長である神君家康公の否定、すなわち頂点である徳川家の敷く武士道観への否定(不忠)であり、不遜の異端行為として、そこに反することを言い始めるキリスト教の規制に、表向きどんどん厳しくなった。

 

しかし織田時代の公認で、キリスト教に改宗する者も増えた中では、高山重友のように熱心だった者もいれば、単に今までの仏教社会のしがらみとはいったん距離を置く機会と見て、新鮮味もあった他力信仰のキリスト教式の慣習(教区への通い方や冠婚葬祭など)を選んだに過ぎない、という者も多かった。

 

これはキリスト教国の西洋人たちであっても、そこに温度差はあった所は、似たようなものだったといえる。

 

イエズス会の体裁のように「イエス様が案内してくれた神の導きの教えこそを、正統な全知全能の頂点」を強調しなければならなかった、西方教会(カトリック)再建委員会として表向きうるさかっただけで、向こうでもそこに熱心な者もいれば、社会体裁的にその足並みを合わせていただけでそう熱心でもない者も、少なくなかった。

 

教皇庁(ローマ・カトリックの本拠・枢機卿団・公的教義)があまりにもだらしない、あまりにも頼りなさ過ぎて求心力が著しく低下し、それにイエズス会が危機感もつようになったから、そういう所に体裁上うるさくなったのであって、聖属側の聖堂参事会員や学僧(修道士)でもない庶民側の者なら、そこにそんなに熱心でなくてもキリスト教社会としての慣習に大体合わせておけば、異教徒扱いされることなどなかった。

 

その意味で、当時キリスト教に改宗した日本人でも、その皆が高山重友のように、今までの血族意識よりもキリスト教の信仰を上にもってこようとしていた、という訳ではない。

 

ただし高山重友のように熱心だった者も少なくなく、豊臣時代はともかく徳川時代になると今一度、徳川政権の敷く武家社会の家長的血族の重視(江戸の武士道観)の再確認をさせられることになってしまったため、それに相当の苦痛を受けるようになってしまった者たちも少なくなかったのは、やむを得ない所だがなんとも残酷な話だったといえる。

 

武家社会(世俗政権)が始まって以来の日本は、室町前期までに200年も300年も経つといい加減に、士分特権から弾かれる形で庶民側の中で上に立つようになった名族の分家筋たちが、半農半士としてすっかり大量発生し、元士分と庶民の区別など曖昧になっていった、すなわち名族(その大元は、武士団化していった皇室の分家筋たち)の末裔でない日本人などすっかり居なくなっていたことは、説明してきた。

 

鎌倉解体後に建武(聖属政権再興)の混乱を挟み、室町政権(世俗政権)で仕切り直されるが、それによる大経済期後は限界を迎える形で、中央議会も地方議会も崩壊が著しくなる戦国前期を迎えると、その半農半士問題は閉鎖有徳運動(惣国一揆・地侍闘争)の原因と化した。

 

名乗ろうと思えば誰でも名族の末裔を名乗れてしまい、それによるただの勢い任せの閉鎖有徳運動に歯止めもかからなくなった日本は、身分再統制(前期型兵農分離・等族議会制の敷き直し)が明らかに必要な状況になってきていたことも、説明してきた。

 

そのためこの

 

 「今までの血族意識(名族の分家筋の観念)よりも、キリスト教の信仰を上にもってこようとする」

 

ことは

 

 「それは日本の奥の院の代表格である、日本人の血族の全ての大元である皇室の臣下であることを否定することになる、不忠ではないか?」

 

という疑問は、少なくとも廷臣たちの間では当然のこととして議論されることになったと見てよい。

 

織田信長はこれについては何も問題視していなかった所が、ここにむしろ近代的であったといえる。

 

まず「今の日本人は、元を辿れば皆が皇室の分家筋」と化していた中、今までの聖属問題はこれからは世俗政権(世俗側の議会)が、士分家格も聖属格式(教義格式)も、等族義務(国際的指導責任の敷居)次第で公認保護・公認保証する側の裁判権として、改めて仕切り直される方向に織田信長が、手本家長の前例姿勢を以って導いた。

 

時代に合った高次元な等族議会制(法治国家の品性規律=選任的議会=姿勢狩り・敷居向上落ち度狩り・敷居維持の使い分け)の姿勢に忠実であることが、すなわち陛下を奉じる国威・格式ある等族国家の姿勢であり、それが忠君・忠友(助け合いの品性規律)の実質的な姿勢ということになる。

 

近代的な観点からよくよく見れば何の問題もないと、織田信長も考えていたと思われる。

 

血族意識よりも信仰を上にもっていくといっても、議会制の自覚(等族統制)がされるようになったからこその戦国後期にはそもそも、信仰の熱意さえあれば親子兄弟で助け合わなくても良いというような極論や、それさえあれば自分たちの課題を自分たちで解決していかなくても良いというような極論に、ただちに結び付く訳ではなかったのは、そこは戦国組織化していくことになった浄土真宗たちでも同じである。

 

代を経てどんどん疎遠になっていく古い本家筋と分家筋という、等族義務(議決性)など皆無な人事差別の原因となるただの古参主義でしかない、旧態権威の道義慣習のしがらみからも脱却させていかなければならないからこその、選挙選任的(再統一的・身分再統制的)な等族議会制として、自分たちでできるようにしていかなければならない、そのための良い前例作りもしていかなければならない時代に、なってきていたのである。

 

浄土真宗たちもそういう所を他力信仰的に問題視し、地方ごとの深刻な閉鎖有徳問題を解決できずに一向にまとまりを見せない、旧態の世俗裁判権側の当時の中央議会・地方議会に対して、聖属裁判権の新興運動を以って喚起していたのである。

 

織田信長が参内(さんだい。陛下と正式に面会すること)するごとに、廷臣たちが織田家のことを、源氏筋なのか平家筋なのか貴族筋なのか、そこを一生懸命に確認したがっていた時の反応も、まさにそういう所だったと見てよい。

 

そもそも公的教義(比叡山・延暦寺)のだらしない実態から明らかだったように、教義面(聖属面・育成理念)で時代に合った議会制の再統一(仕切り直し)をしてこれずに、古参旧態主義(低次元な敷居維持=ただの劣情統制)を自分たちで改めていく自信などなかった廷臣の上層たちは、だからこそそういう所を文化的にではなく、旧態主義的に強調したがっていたのである。

 

それに対し織田信長は国際社会化(異種異文化の新参技術収容・新参文化収容)の時代となるこれからは、そんな閉鎖古参慣習ばかりが議会の基準(等族義務)なのではない!」といわんばかりに、そこに無関心な姿勢を示していた。

 

現代でもし、DNA鑑定などで200年前の祖先を追って、その本家筋が判明次第に、疎遠で義理も皆無なはずの会ったこともない200年後の分家筋に、200年前の本家筋だという根拠だけでその資産を差し押さえたり服従命令できる主従権利に従わなければ、処罰される話になれば、誰しもが「そんなバカな!」と思うはずになる。

 

そういう中世のままの戦国前期の家長権(自分たちの代表のあり方)の課題が、戦国後期になって等族議会制(家訓の敷居改め・戸籍身分謄本の公認のあり方)で見直されるようになり、織田信長がさらにそこを強調するようになったのも、構図としてはそういう所なのである。

 

もはや19世紀や20世紀の近代的な議会制の姿勢でいた織田信長に、中央関係者たちの間ではその意味も理解できていなかった者も多かったと思われ、どうしていいのかも解らずに青ざめながら錯乱していた現場の様子を、特に明智光秀は見ていた。

 

この、さらなる異種異文化の受け入れの嫌われ役(合併アレルギー対策)を一緒に請け負うことになった羽柴秀吉もそうだったと思うが、明智光秀は高次元すぎた織田信長に全くついていけていなかった中央関係者たちや諸氏たちとの、あまりにもかけ離れていたその実態に、思う所も相当のものがあったと見てよい。

 

織田信長の荀子的独裁制(敷居向上)の信念によって、その立場(議席)に見合うだけの等族義務(社会的指導責任の手本姿勢)などない上から順番に法賊(偽善者)扱いに制裁(格下げ)し、下から順番に意欲奨励・救済していくことに余念がなかったため、余計である。

 

順番に説明していきたいが、その後の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が何事もやけに手際が良かったのは、織田信長がやろうとしていた高度な構想を、提携関係だった堺衆と共にしっかり理解できていて、そこから「皆の様子から、ここはこういう風にしていった方がいいな」も内々にでできていたからだったのは、間違いない所になる。

 

次も、明智光秀が本能寺の変に至ってしまった状況について、引き続き説明を続けていきたい。