近世日本の身分制社会(092/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか20/? 2022/02/28

中世(旧態慣習に頼り切った時代)から近世(議会制の向き合いがようやく始まる時代)への移行期となった16世紀は、国際社会観の大変容の時代であることを、これまで重点的に触れてきた。

従来の歴史観は、その前提への説明不足があまりにも目立つため、とにかくそこを補うことを優先してきた。

日本の裁判権(議会・家訓)にも関係していた、独特の血族序列と家長権争いと、同じく聖属面(教義面)の向き合いも、世俗社会化(武家社会化)以降はどのように社会観が変容していったのか、歴史的背景から全体像をまずは面倒がらずにひとつひとつ確認していくほど、何が起きていたのも段々と見えてくる所になる。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が懸命に生きた戦国後期とは、中世の旧態体制(議会の認識不足=身の程の認識不足の時代)から脱却する、等族議会制(社会的指導責任の品性規律といえる裁判権・家長権のあり方 = 議席のあり方 = 仕切り直しの身分再統制)の時代だったのである。

こうした前後関係の把握力は、現代における各物事の課題点の的確な要所を整理しながら、改善(敷居向上)していくための見通しと計画遂行の力量でも共通していえる。

経営の基本手順にしても、モノ作りの基本手順にしても、よそが気付いていない、よそがなかなかできない所まで、状況回収と工程整理に熱心であるほど、他よりもより的確な構築、より的確な指摘も段々とできるようになっていくのも当然の話になる。(その注意点を後述予定)

最初は理解や評価がされないことだったとしても、そういう所の普段からの姿勢狩り(見習い合いの敷居向上=低次元な敷居維持との決別)の差から次第に、後々になって有利に参入障壁(競合との差)を作れるようになっていくのは、当然の話になる。

万人に理解・評価されなければならないかどうかも含めた、議題に対する都合不都合主体都合的継続不都合的完結)は、その道義関係(介入権・主従契約・同業同胞関係)の敷かれ方にそもそも無神経・無関心な部外者的な姿勢(それだけの等族義務を有しているといえるほどの説明責任の手本姿勢もない側)のはずの者に、その議決権(議決性=育成理念の品性規律)が生じる訳がない。

その議決性(主体都合的継続と不都合的完結の敷居整理による企画性)の品性規律(育成理念・目的構想の手本礼儀)に問題がない以上は、誰が何を議題とするのか自体は、民権言論の自由の原則となる。

 

最終的には当事者性(主体性)ある整理力(公正な人文性と啓蒙性があるといえる国際社会的な議決性)があるかどうかが、有力(敷居向上=品性規律)か無力(低次元な敷居維持=ただの劣情共有=偽善)かの差となる。


 まず自身が確認(敷居向上)したいことが何なのかの、その基本中の基本の手本姿勢(議会的な姿勢=法治国家の品性規律の姿勢)から始められない


知覚障害者ともいうべき公的教義と大差ない猿知恵(ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)で調子に乗りながら、やたらと偉そうにいきなりケンカ腰になろうとすること自体が、裁かれるべき(格下げされるべき)身の程知らずの法賊(偽善)行為なのである。

上(手本家長)としての等族義務(社会的指導責任・家訓・議会制の確立)が問われるようになった戦国後期は

 自分たちの課題(敷居改善)は、自分たちで議決性(法治国家としての議会の品性規律)を以って、そのための手本礼儀(敷居向上の見習い合い)で示し返し合う基本

 冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、まずは自分たちの課題(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有=ただの旧態性癖)に自分たちで向き合い、それと卒業・決別していくための整備(姿勢狩り)をしていく


という、その基本中の基本ができる高次元側と、それができない低次元側との力量差が競われた時代なのである。

その手本で示し返せたことがない、自分たちの課題を自分たちでろくに解決もできたこともないだらしない集まりが、よそのことにやたらと偉そうにとやかくいっている場合ではない本来の原則は、当時も今も同じである。

 

その自制(自己等族統制)もまずできていない時点で

 そもそも恫喝・和解(姿勢狩りの見習い合いによる敷居向上)侮辱・挑発(落ち度狩り一辺倒の低次元な劣情維持)の区別もできたこともない

のと同じ、

 議決性(主体性・育成理念・目的構築・組織構想)の敷居(等族議会制としての品性規律)低次元化させ続けることしか能がない

 

 ただ上(自分たち・古参)に甘いだけ、ただ下(外・新参)に厳しいだけの猿知恵(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)の押し付け合いで、ただ失望し合うことしか能がない、自分たちの課題を万事うやむやにし合うことしか能がない

 すなわち公的教義と大差ない、法賊(偽善者)扱いされて当然の迷惑千万な身の程知らずども

 

であり、再統一的(選挙戦的)に地位(議席)から引きづり降ろされて当然、法的(身分制議会的・組織規律的)に裁かれ(格下げされ)て当然となったのが、16世紀の特徴なのである。
 

等族諸侯としてのその最低限の身だしなみも自分たちで守れないような集まりは法賊(偽善者)として、上から順番に一掃(身分再統制)されて当然なのである。(荀子・韓非子の指摘)

 それができていない側 = 格下げされる側(減価償却される側・仕切り直される側) = 時代遅れの低次元な猿知恵(ただの古参主義、ただの指標乞食主義、ただの劣情共有)で従わせ合うことしか能がなかった側

 それができている側 = 格下げする側(減価償却する・仕切り直す側) = 高次元な等族議会制(法治国家の品性規律)の敷居(最低限の育成理念)を確立できる側

その構図の力量差がはっきり出てくるようになったそこが、戦国終焉(和解・敷居向上)に向わせることができた原点、すなわち等族社会化(法治国家化)の原点なのである。

織田氏に中央に乗り込まれ、その高次元な旗本吏僚体制の裁判権改め(議会制の仕切り直し)がとうとう敷かれる事態となると、今までの古参主義(指標乞食主義の劣情共有の手口)がついに通用しなくなる時代を、中央も迎えた。

自分たちの旧態利害(低次元化させ続ける劣悪性癖)を自分たちで仕切り直せない(再統一できない=議会制の再構築ができない)たびに、等族義務そらし(社会的指導責任そらし)のために騒ぎを大きくすることしか能がない、中央のあり方を延々とうやむやに続けることしか能がないだらしない手口も、織田信長の指導する旗本吏僚体制(国家構想)の監視によって、ついに許されない時代が到来した。

戦国後期には、地方議会(地方再統一・旧態改めのための選挙戦)では、それがいい加減に許されなくなっていても、中央は遅れていた。

かつて聖属政権が、時代に合った議会を仕切り直せずに衰退させ続け、逆転的に世俗側が仕切り直すようになったあの鎌倉への移行の流れと同じように、それができている地方(織田氏)と、それができていない中央の立場の逆転が始まった構図も、まさに時代の流れだったといえる。(天台宗と浄土真宗の関係も同じ)

それが中世末期から近世初期にかけて議決性が意識がされるようになった、等族社会化(法治国家の品性規律としての分国法・家訓・序列の議席の仕切り直し=身分再統制)の特徴だと、これまで説明してきた通りになる。

どのような手本姿勢(法治国家の品性規律=議会制の姿)を以って、時代に合った武家の棟梁の姿(日本全体の世俗側の代表家長の立場)だといえるのか、荀子的独裁制(姿勢狩り・敷居向上)でそこが大幅に仕切り直され始め、孟子的合議制(落ち度狩り・敷居維持)の確定作業に入り始めていた時に、本能寺の変が起きた。

足利義輝の謀殺(武家の棟梁の姿勢潰し)に続く、この「社会病的な懲りない劣悪性癖」ともいうべき「武家社会としての最後のうやむや(姿勢潰し)騒動」が、この本能寺の変であったことも、特徴的な所になる。

 

そのままで良しとしてはならない、それを繰り返させてはならない、だから羽柴秀吉も徳川家康も、賤ヶ岳の戦いや関ヶ原の戦いといった、上同士の等族義務(社会的指導責任)としての代表選挙戦を、しっかりやるようになったのである。

本能寺の変は、その表向きの発起人であった明智光秀が、織田政権を否定するだけの御成敗式目(名目・誓願)を敷く準備まで、結局できていないまま起こしたことがただ露呈していくのみだった。

下々にはその意味が中途半端にしか理解できなくても、敷居が高まっていた上層の有力者たちの間ではこれが、織田氏の敷居についていけなかった連中のための、時間稼ぎするためのうやむや(姿勢潰し)騒動でしかなかった意味は、よく理解できていた。

明智光秀がなぜ、それをしなければならなかったのかについて、これまで語られてきたものは、織田信長や明智光秀らが生きた短い前後年間だけで結論付けようとしてきた説ばかりが目立つ。

戦国後期から戦国終焉への裁判権改め(等族議会制への仕切り直し)の期間だけでなく、世俗(武家)政治化以来の全体像の特徴も、戦国前期と戦国後期とで変移していった下克上(旧態改めの選挙戦)の観念も、昭和前半まではかなり誤認されてきたことで、それまでは本能寺の変の原因も、安直な我欲野心説が強めだった。

しかし昭和後半から平成にかけて史学研究も少しずつ進むと、戦国後期だけでないそれまでの武家社会自体の見直しも進み、今の公的教義体質のような口ほどにもない低次元な劣情欲望論で全て片付けることだけしていても何も見えてこない認識も強まり、変の原因も怨恨説などが仮定されるようになった。

しかし明智光秀の動機は、その怨恨説でもないと筆者は見ている。

世俗化(武家社会化)以後の諸問題を把握できていないと、とても想像もできない「それまでの時代遅れの古参主義を一斉に片づけるべく、大幅に日本を高次元化」させようとしていた織田信長の性分も踏まえた、上の間でのもっと混んだ事情のものだったと、筆者は見ている。

これから本能寺の変についての筆者の見解に触れていきたいが、この部分だけは、今までと少し違う説明の仕方になる。

どういう意味かというと、まず今までは、実際に織田信長が行ったことについて、それをどのように解釈するのが適正なのかという説明が中心だった。

本能寺の変についての筆者の説明は「織田信長はその後、こうしようとしていた」社会心理学的な想定を中心に、その後の豊臣秀吉の軌道修正、その後の徳川家の首脳たちの軌道修正を当てはめていく手法が中心であることを、最初に断っておく。

逆にいえば、豊臣時代への移行、徳川時代への移行で軌道修正されていった経緯からでも、織田信長がやろうとしていたことを推察すること自体は、それほど難しいことでもない。(順述)

織田信長がその後、どういった政策を実施しようとしていたのかの一次的文献が、当時の意図的なものも含めて多くが紛失してしまっている、あるいはその正式な公文書の作成中の段階で本能寺の変が起きて、その清書も妨害されてしまった背景から、その手法をせざるを得ない所になる。

織田家中でも一部の上層しか知らなかった中で、のちに中央の主導を掌握した羽柴秀吉が、どうする予定だったのかを知っていた者たちに緘口令(かんこうれい。確定ではなく変更も有り得たり、違っている場合もあるから混乱を避けるために口外してはならない、ここだけの内々の話に留めよという意味。オフレコ)を敷いたのは間違いないと見てよく、伝わらなくなってしまった所になる。(後述)

佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興、滝川一益、堀秀政、蜂屋頼隆、河尻秀隆(織田信忠の相談役・顧問官)、金森長近(ながちか)、斎藤利治、稲葉良通(よしみち)といったこの辺りは、内々で知っていたと思われる。

またその他、林秀貞をはじめとする旗本吏僚側の上層らと、それと信用関係で連携していた織田派の中央関係者たちの何人かも知っていたと思われる。

立場が少し特殊だった、有力諸侯扱いの予定であった前田利家、細川藤孝、浅野長政あたりも黙っていただけで、これら3名もその後の織田信長の構想を知っていたと筆者は見ている。

現代でいうこの緘口令の風紀は、それ自体が敷居向上のための取り組みとして、特に上層の間でそれが家訓化されていった所も、戦国後期の特徴である。

 

むしろこの表裏をうまく運用できていなかった所は古参旧態主義に陥っていき、組織全体を低次元化させ、どんどん衰退していったのも特徴的な所になる。(後述)

新参組として仮待遇であるものの少し優遇気味だった、三好派から織田派に鞍替えした松永久秀荒木村重が、何か思い出したかのように突如として織田派から離反することになったことも、これと関係していたのではないかと筆者は疑っている。

織田氏に乗り込まれた中央では、今までの朝廷体質(形ばかりだった聖属側の廷臣たちの議会)も改められるのも時間の問題になってきていて、内々では織田氏に反感的に、そこに危機感を強めていた廷臣たち・中央関係者たちも少なくなかった。

織田政権の今後の予定(順述する)を内々に聞きつけた不真面目な中央関係者たちが、織田氏と浄土真宗との和解終結を早める斡旋をする所か、少しでも時間稼ぎをしようとその足を引っ張りながら、新参の仮待遇の松永久秀と荒木村重の足元を見ながら裏で煽ったのではないかと、筆者は疑っている。

そして、各地の小口の新参たちの多くを育成収容する立場だった佐久間信盛も、その足元を見られてしまう形で、それについ乗せられてしまったのではないかと見ている。(順述)

とにかく本能寺の変は、日本の主導を制したも同然となっていた、それだけの議会制(身分制議会)を敷くことができていた織田信長が、それまで独裁制(姿勢狩りの敷居向上)による意見回収中心から、合議制(落ち度狩りの規則)への確定(具体化)作業に入り始めた、今後の予定(身分再統制)の正式発表が行われようとした時に起きた、異変なのである。

だからこそ、それが何だったのかについて考察していくことが、重要な手がかりとなる。

その発表の中には、高次元な敷居にとてもついていけずに格下げも必至だった、今まで旧態根拠でその序列(議席)を維持することも、これからは完全にできなくなる者たちにとって、政治生命にトドメが刺される公式発表であったのと同時に、それらから見れば天地がひっくり返るような仰天のものだったと見て良い。

もちろん高次元側から見れば「いずれ(19世紀や20世紀には)そうなっていくことに、ひと足早めに着手しようとしただけ」「たかがその程度のこと」に過ぎない。

本能寺の変という歴史的な事件は、その敷居についていけない者たちにとってはそれほどのものだったからこそ、もうなり振り構っていらなれない、なんとしても妨害したかった連中にとっての「他にどうにも手がない」と慌しく突発的に起こしたその様子からも、まず間違いない所になる。

表向きは中立で、遠回しに織田派だった者たちについてはともかく、内々では反感的だった者たちにとっては、絶対的に妨害しなければならないという所は良い意味では、一時的でも自分たちでようやく少しは議決性をもって深刻に、少しは自覚(自己等族統制)するようになったともいえる。

その意味で本能寺の変は、織田信長が討たれてしまった(襲撃を受けて本人が自害・切腹した説や、手勢による刀や槍で討たれた等の諸説あり)のは残念である一方で、だらしない中央関係者たちもやっと少しは、自分たちの本来の立場に珍しく危機感をもった瞬間だった、そこは少なくとも評価できる所と筆者は見ている。

だらしないにも程がある連中でも、少しは危機感を以って明智光秀を実際に動かすことができた、そこは評価できる所になる。

しかし、誰のせいにもできなくなる環境(議会)を織田氏に作られ、その敷居(等族議会)の中で自分たちで何ら整理・提出の規定もできずに自分たちの面目を失っていく、それで自分たちの存在価値の無さを思い知らされるという

 その本来の環境(議会)に立たされないと危機感をもてない

というのは、国事を背負わなければならないはずの中央関係者としてなんとも頼りない、地位(議席)から除名され当然の、だらしない話といえる。

ようやく自分たちで、一時的でも裏で積極性(議決性)らしい形をもち、明智光秀を動かして織田信長を討つことができたのも、皮肉な話だが結局は織田信長と明智光秀のおかげなのである。

それは廷臣ら中央関係者だけの話ではない、

 高次元(育成理念・国家構想)の織田氏の敷居(法治国家としての品性規律の手本)

に追いついていない、今の公的教義と大差ないような

 低次元(ただの指標乞食主義=ただの劣情共有)な敷居(旧態性癖)を、自分たちで議決性を以って決別してこれなかった

その敷居差で格下げも必至になり、悪あがきの反抗を続けていた、低次元な存在価値(社会観念)が否定(格下げ)される側となった、地方裁判権止まりの諸氏たちも同じである。

織田氏による全国への仕置き(旧態慣習への一斉の格下げ・裁判権改め)が始まるのも時間の問題となっていた、中央近隣では織田氏(もはや武家の棟梁)による戦国終焉の裁判権改めが始まっていた中、遠方諸氏たちはその前段階の背中を追いかけていた、慌てて戦国後期の総力戦競争を始めていた有様だったのである。

本能寺の変が起きた 1582 年というのは、天下(等族議会制の敷居=武家の棟梁としての手本家長の姿勢)の大局はもはや決していたも同然になっていた。

遠方諸氏と織田氏との関係はもはや、有力諸侯扱いの格式を公認してもらおうとする側と、上としての高次元な厳しい条件を突きつけて従わせる側の構図になっていた、その等族議会制(旗本吏僚体制・家訓改め・裁判権改め)の力量差(議席の仕切り直し=身分再統制)もはっきりしていた。

織田信長からいわせれば、のち羽柴秀吉からいわせればまさに

 「遠方諸氏どもは、織田家の敷居の背中を慌てて追いかけ始め、戦国後期の総力戦競争(格式の広域統一戦)に今頃になってはりきりおって! もう遅いわ!」

なのであり、地位(議席)に見合うだけの議決性(敷居向上)を整理・立案・提出することが結局できないでいて、立場を悪くしていた廷臣ら中央関係者たちも、そこは同じなのである。

織田氏に中央に乗り込まれ、高次元な等族議会制(法治国家体制・旗本吏僚体制)を敷かれ、足利義昭も追放されることになると、低次元な旧態性癖はいよいよ通用しなくなっていった。

自分たちで主体性(当事者性=人文性と啓蒙性の積極性=議決性=国際性)を以って自分たちで整備(再統一・敷居の仕切り直し)してこれなかった、そこに存在感(主体性・議決性)のない中央関係者たちの立場も、遠方諸氏の立場も「今頃になって」時代の節目の危機感を覚えたような有様だったのである。

「皆が正しいと認識していることと違う!」と、ただの旧態古参性癖(劣情共有)の押し付け合いの侮辱・挑発(気絶・思考停止)をだらしなく繰り返している間に

 時代に合った本来の姿形(身分制議会) = 等族国家(等族義務=社会的指導責任ある議席整備)の品性規律(法治国家としての育成理念) = 高次元な等族議会制

をすっかり織田氏に確立されてしまった「その後になって」慌てて、場凌ぎ的にその認識で足並みを揃え始めているようでは、もう遅いのである。

大差ができ始めている段階に気付かずに、高次元側低次元側の力量(格式)差がはっきりしてしまった手遅れの段階になってから、その差の認識を始めているようでは遅い、そんなことでは競合と競争をしてきた内に入らないのである。

戦国後期は、分国法(地方議会・武家法典・家訓・家長権)の見直しにおいて、社交品性の礼式の見直しのための禅の思想の再確認も強くされた他、西洋のキリスト教徒たちが来日したことの異文化交流についても、感慨深く考えるようになった時代である。

順番に説明していきたいが、織田信長はまるで「全て天才的なひらめきによって今までの旧態慣習(古参主義)をひっくり返した」かのように誤解されがちだが、それまでの武家社会が抱えていた諸問題の経緯との、十分な照合がされてこなかったことが、その大きな誤認の原因になっている。

そうではなく、時代の転換期に迫られていた中で、今後に対応できるだけの法(議会制)の整備として、どこも旧態から脱却できないでモタモタやっていたのを、織田信長が手本を以ってこれまでの大幅な解決(敷居向上)に向かうよう務めてくれた、というのが正確といえる。

織田氏で顕著だった楽市楽座(旧態規制を撤廃の流通促進)も、早い段階で先駆けでやり始めたのは、近江商人たちと協力関係を再構築するようになった六角氏(ろっかく。佐々木源氏)だったといわれ、諸氏同士でそういう所を注目し合っていた結果である。

 

城の中心部により高台を築き、そこからより防御的かつ権威的な要塞(本丸)を建設するという「天守閣」の様式も、大和で実力をつけた松永久秀が先だったといわれ、織田信長がもそれを参考に、安土城の建設の際に、皆が驚くような壮大な天守閣(天主)が作られたといわれている。

戦国後期になると、よそで評判になったことは「それは良い考えだ。よし、我々もそうしよう」となることは、すぐにできそうなものほど、よくあることだった。

松永久秀も、どこかでやっていたことを着想にし、織田信長もさらに着想にした、というのが正確になる。

分家筋(家来筋)のはずであった織田信秀が機を見て、尾張の権力者たちの居城であった旧名古屋城に、20名そこらの取り巻きだけ連れて城に乗り込み、城に居た主筋(織田家の権力者、斯波家の権力者、斯波家の親類の今川権威)たちを外交的・政治的に恫喝して追い出し、城を乗っ取ったといわれる。

これも、出雲・伯耆(ほうき。島根県)近隣で台頭した、同じような方法で乗っ取ったといわれる尼子経久(あまご つねひさ。佐々木源氏)の前例が参考にされたのではないかと、いわれている。

尼子経久と織田信秀のこれら話は、器量人としての箔をつけるために少し大げさに伝えようとする意図も働いているために、実際の所は判然としない所も多いが、このようによその前例が波及していくことは、よくあることだった。

地方再統一(地方議会の仕切り直しのための代表選挙戦)が重視されるようになった戦国後期では特に、人事(地位・議席・身分)に関する見直しが顕著になってきた時代になる。

織田家ほどではなくても他家でも、いったん横並びに仕切り直され、新たな敷居による貢献次第で格式(議席)を競い合うことも、ようやく意識されるようになった。

相変わらず、ひがみ合いの風潮も強かった一方で、家臣同士の社交的な信用関係も作られながら、それで自分たちの立場を有利にしていこうとする信用姿勢も、目立つようになった。

中には「俺たちは互いに盟友関係として、先に出世できた側(当主から格上げの公認を受けた側)を素直に尊重し合い、それで主従の信用関係を結ぶことを、今の内に約束(誓願)しておこう」と、あとでそのことでひがみ合ってケンカ別れすることのないよう、事前にそこを確認し合っておく関係も、出始めるようになった。

織田家中では、堀秀政と堀直政(奥田直政)の関係がそうだったといわれ、これに少し似た風潮が織田家中全体にあり、他家でもその傾向はあった。

これも、最初に誰か言い出したのかは不明ではあるが、誰かがやり出した評判が波及していった例になる。

組織がうまくいっているほど、そういう良い所も次第に出てくるが、逆に部下たちの間でそういう流れがせっかく起き始めているのに、それをきっかけに組織を奨励していこうとせずに、公的教義のように今までの低次元な姿勢潰しを延々と続けることしか能がない組織は、それ以上の見込みなど当然出てくる訳もないのは、現代でも同じことがいえる。

上同士の地位(議席)の譲り合いの一環として、家臣同士で出世(当主の公認による格上げ)をひがみ合うのではなく、それを認め合いながら良好な社交性も維持していかなければならない所も、織田氏が最もできていた所になる。

西洋から伝来した鉄砲が日本で注目され、国内で改良が加えられながら増産されるようになると、鉄砲の特性を活かした戦略・戦術も早々に重視されるようになるが、これも「織田信長の天才的なひらめきが、戦場に導入された」かのような誤解がされがちな所になる。

鉄砲の数を揃えることによる火力集中砲火の作戦立案にしても、どこよりもその導入体制を整備できていた織田氏が目立っただけでそれも同じ、他でも取り組むこと自体はされていた。


つまり

 「大量の鉄砲で効果的な砲列を敷けるよう、士気が高い団結と規律ある軍員を揃えられると良い」

 「そのための生産・技術体制や軍員を維持できるだけの、意欲ある産業政治の不正の少ない財政も、うまくいっていると良い」

 「なんでもかんでも軍を差し向けて弾圧するのではなく、その力量差の威厳(議会制)で小口を和解外交的に従えさせていくことも、できていると良い」


というあるべき構想像としての

 「こういう状態になっていると良い」

結果の認識だけはできていても、結局はそれを実現・維持するための敷居の、等族議会制(身分再統制・自己等族統制)の整備力(器量・教義指導力)にかかってくるのである。

それぞれ強みの特技は個々にもっていたとして、さらには

 「よその良い所はどんどん取り入れる」

構想結果への関心は向いても、ただしその分だけの

 「よそも自分たちもできていない、またはよそができているのに自分たちはできていない、自分たちの改善点の課題を自分たちでどんどん整備していく」

という、低次元な旧態性癖(古参主義)との決別も、その分だけ自分たちでできなければ、実際にそこに至る訳もない所になる。

これは現代でも同じ、猿知恵(ただの古参主義・ただの指標乞食主義・ただの劣情共有)で調子に乗りながら、その通りでなければ侮辱・挑発(気絶・思考停止)することしか能がない、公的教義と大差ない低次元な姿勢(偽善)も普段から疑い見抜くこともできないようでは、その実態もそれだけ認識できる訳もない所になる。

その主体性(育成理念)ある等族議会制(議席の敷居の仕切り直し・家訓改め・自己等族統制)がどこも織田氏ほどできなかった、そこに結局は大差ができてしまった所になる。

全体像としての等族義務(社会的指導責任の手本礼儀)の敷居(品性規律)が向上していかなければ、強みの切り札をもっていても、その内にそれも最後の砦の急所の弱点にだらしなく低次元化(劣悪性癖化)させていく原因になり、手遅れになってからそれに気付いているようではもう遅いのである。

「こうなっていると良い」が散らばっていた中で、それらを収容できるだけの、古参主義同士の閉鎖的な非同胞拒絶(合併アレルギー)など起こさせないほどの器の等族議会制(旧態改めの自己等族統制=公正な裁判権改め)が確立できていなければ、消化不良(整理不足)のままの「結局できなかった」で終わってしまうのである。

織田氏が新たな時代に向けた今後の日本のための手本ある収容が最もできていたから、当時のそれら健全風紀の全てが「織田信長の天才的なひらめきによるものであった」かのように錯覚して見えてしまいがちだが、実際は

 それらを収容して体制に組み込むことができるだけの等族議会制(法治国家としての品性規律)を確立できている高次元側

と、

 旧態古参主義から脱却できずに、その上下通りでないことに閉鎖的に侮辱・挑発(気絶・思考停止)をただ繰り返し、ただ失望し合うことしか能がない

 

 外(異種異文化)の良い所を何も収容できず、外圧(ただの指標乞食主義)の悪い所を収容(劣情共有)することしか能がない、だらしない低次元側

とで大差があったから、そう見えてしまっただけに過ぎない。

自力信仰の法華宗でも、他力信仰の浄土教でも、さらには西洋のキリスト教徒まで、教義力次第の待遇で公正に収容し、何かあればまずは裁判権(議会・旗本吏僚体制)を通させる形で、許可もなく勝手な格式争いを始めることを禁じる(その品性規律を守らなければ格下げされる)ことも、織田氏はできていた。

 

顕密体制だという以上は、それを廷臣たちも公的教義もできなければならないのが、国内教義(閉鎖有徳問題)からまず、まとめることもできなかった、だからそれができるだけの議会制を確立できていた織田氏が、その役目を肩代わりするようになったのである。

 

室町体制の崩壊後の戦国前期に蔓延した、閉鎖有徳問題(惣国一揆・地侍闘争)を、先駆けの収容(再統一)に乗り出し、日本の自力教義のまとまりのなさの危機を主導性(手本的)に喚起し、その健全化に貢献してきたのは浄土真宗たちなのである。

地元の足並みを揃えるのに精一杯だった諸氏たちも同じ、室町崩壊後の事態を全国的に収容できるほどの等族議会制(法治国家としての品性規律・国際裁判権)などどこも、織田氏ほど確立できていない。

 

それができるだけの、自分たちの課題(旧態利害)の仕切り直し(身分再統制)もできていない、だから地位(議席)の譲り合いにも支障が出始め、家臣たちの組織的(育成理念的)な向き合いの団結も怪しくなっていき、やれることの限界を自分たちで作ってしまうのである。

現代でも、自分たちの主体性(当事者性)の議決性(育成理念・目的構想)で、計画的に道義関係(合議制)が整理されていったといえるものであればもちろん問題はないが、そうではない場合の方が圧倒的に多い。

 自分たちで自分たちの主体都合的継続(姿勢狩り・敷居向上・目的構想に対する組織的指導責任=等族義務)を計画的に整備(等族統制)していく

ことをろくに自分たちでしてこれなかった時点で

 自分たちの不都合的完結の限界(低次元な敷居維持)を、いい加減な自分たちの姿勢で作ってきた自覚・反省(自己等族統制)もできたこともない

 自分たちでいい加減に決め合ってきた不都合次第の怒り(劣情・偽善)の押し付け合いを延々と繰り返そうとする、公的教義と大差ない低次元な実態


と同じである。

そこを疑い見抜いて決別(自己等族統制)してこれた高次元側と、それと一緒になって調子に乗ることしかしてこなかった低次元側との差の、中世末期から近世初頭にかけての姿は、現代でも同じことがいえる部分である。

目的に見合った維持の仕方や拡張(格上げ)の整備(身分再統制)ができていなければ、拡張(格上げ)できる機会があっても、その立場や足並みを維持するのに精一杯になっていくばかりなのである。

国内の閉鎖慣習にモタモタと手間取っている諸氏と、海外の異種異文化も軽く収容できてしまう織田氏とでざっと見比べるだけでも、その等族議会制(国家構想)に歴然とした力量差ができてしまっていた。

諸氏の上層らも中央関係者らも、それぞれ配下の下々たちがその状況も常に中途半端にしか理解できていなかった、その手前でとぼけていただけで、上の間ではそこはもう解り切っていたのである。

これらを踏まえて、本能寺の変にも関係あることとして、この織田信長の際限のない性分も手伝った意向がどのようなものであったのかを把握しておく必要がある。

まずその優れた性分の特異点として、織田信長はとにかく際限もなく「この改革期のついでとして、よその良い所は今の内に、問答無用でできる限り導入していく」所を信条にしていたのも、間違いない。

国内の旧態観念の仕切り直しなど軽くやってしまった織田信長は、さらには西洋人たちからにも、向こうでの帝国議会の様子や、王族間の様子を確認できるだけの余裕もあったのも、間違いない所になる。

日本でキリスト教を収容する以上は、帝国議会の様子や、かつての司教特権体質(公的教義権威・今までの西方教会主義)に反感的になっていたプロテスタント(キリスト教の今までの公的教義体質への抗議派・新教派)運動に対抗する形で、その建て直しの公正化委員会として熱心だったイエズス会たちの経緯も、理解しておかなければならない所になる。

来日したイエズス会たちは、対抗馬であるプロテスタントたちなど絶対に認めない姿勢だったが、ただし織田信長には全て正直に公正に説明しないと逆に信用を失い、心証を大いに損ねることも解っていたため、正直に説明していたと思われる。

まだプロテスタントたち(イギリス・オランダ組)が競うように来日していた訳ではなかった中、イエズス会としてもとにかく、日本での西方教会主義(カトリック。正統派)としてのキリスト教の教区(聖堂の設立やその維持特権)の保証を得るために、まずは織田信長の心証を良くすることが大事だった。

そもそもキリスト教徒に改宗しようともしていない、彼らから見れば異教徒(名義的には法華信徒・日蓮派)の織田信長に、日本におけるキリスト教の公認保証を得ようとしてる時点で、同じくキリスト教国でもない明(みん。中国)との交渉を試みていた西洋人たちにとっては、そこは遠国の議会(政権)の事情なのである。

西洋人たちの当面の目的としてはまず、日本の代表政府(議会)に、キリスト教徒たちのための教区が日本で公認保証されているという事実と、その教区の代表者(司教や高位司祭)の体制もできているという事実こそが、今後の日本との交流の体裁として急務だった。

 

日本から見て新参である、外国教義のキリスト教に織田信長が寛大に接していたが、不受不施(ふじゅふせ)の同胞意識を重視する法華宗たちが「安土のお屋形さま(織田信長のこと)は、キリスト教に改宗してしまうのではないか」と心配している様子が見られない。

織田信長は、法華宗の上層たちに対して「それはないから安心せよ」と内々で確約していたのではないかと、筆者は見ている。

 

織田信長の性分としてもむしろ「法華信徒という形式のこの俺から、日本でのキリスト教の公認を得ようとしているというその事実をお前たち(西洋人たち)が受け入れられるというのなら、国際社会性の証として厚遇しても良い」なのである。
 

織田政権によるキリスト教徒たちの仮公認は京で既に始まっていたが、教義上(聖属)の決定は本来は、朝廷(廷臣たちの議会)の議決性のはずであり、それを支えるのが公的教義の本来の役目のはずだったのである。

 

しかし廷臣ら中央関係者らは、自分たちの課題(旧態利害)を自分たちで整理できず、聖属面(教義面)で中央再建に貢献することなど、大してしてこれなかった。

 

中央に乗り込まれた織田氏に新たに敷かれた、高次元な等族議会制(法治国家としての旗本吏僚体制・身分制議会)にその主導権をすっかり握られるようになったことは、これまで説明してきた通りである。

 

織田氏が敷く等族議会制によって外国教義を日本で公認を始めてしまったという事態に直面し、自分たちの議決性でその可否を選ぶことなどできていないことを思い知らされ、そうなってから廷臣たちもようやくあせっていた有様なのである。

 

今と大差ない公的教義(比叡山・延暦寺)を見れば一目瞭然だったこととして、教義(等族義務=上としての国際社会的指導責任)に真剣に向き合ったことなど一度もない、自分たちの課題(旧態利害)の仕切り直し(中央議会の再統一)を自分たちで手本(議決性)を示すことができたことがない低次元側と、それができる高次元側との差を、見せつけられてしまった。

 

議会(朝廷)の再統一(仕切り直し)を自分たちでして来れずに、廷臣の上層たちの立場が気まずくなれば、人のせいにし合って騒ぎ合い、失望し合い、うやむやにするために騒動を起こすいつもの手口で、自分たちの問題の先送りを延々と続けてきた、その迷惑千万な手口(劣悪性癖=偽善)もとうとう通用しない時代が、織田氏にもたらされてしまった。

 

国内教義の再統一の契機として、織田氏が浄土真宗を降すと、これまでの独裁制(姿勢狩り規定・敷居向上)による回収中心から、合議制(落ち度狩り規定・敷居維持)の確定作業にとうとう入り始めた。

 

だからこそ、今まで廷臣たちが自分たちで議決性を以って中央再建に貢献などしてこれなかった、今までの廷臣たち(貴族側)の序列の存在価値(上としての等族義務=国際的指導責任力)など無かったことも具体的に確定されてしまう、その時間切れの状況にあせっていた。

 

これだけでも本能寺の変の引き金だといえるが、廷臣たちにとって他にも、もっと深刻ないくつかの理由もあったと筆者は見ている。

1580 年に浄土真宗を降すことで、国内教義の大幅な解決に向かったと位置付けられた、それができる高次元側の織田氏と、それができない低次元側の諸氏との大差は、いよいよはっきりするようになっていた。

 

その2年後の 1582 年には、織田氏の敷居の力量差を離され続ける形で年々衰退を続ける一方だった、対抗馬の大手であった武田氏(信濃・甲斐・駿河・上野西部)も1年足らずであっさりと制圧される事態となり、それと同列でその北東部にいた上杉氏と、関東方面の北条氏の制圧・臣従も時間の問題となった。

 

もはや誰がどう見ても、織田氏から具体的な仕置き(裁判権改め)をまだ受けていなかった遠方諸氏たちにしても、それぞれ地方の家臣たちとその下々の手前でごまかしていただけで、織田氏の中央裁判権(中央議会)の敷居の前には、地方裁判権(地方議会)止まりの連中の敷居の価値など、一瞬で消し飛ぶような状況だったのである。

 

武田氏を制圧した 1582 年には、明智光秀のこれまでの、近江坂本と丹波の管区長の立場からの異動予定が通達されることになったが、これが事実上の、織田氏による廷臣たちの人事選別(身分再統制)の確定作業に入る、その最後通告を意味していたと見てよい。

 

この異動も、本能寺の変の原因説で語られることが多いが、その従説はこの見落としが多いと筆者が見ている。

 

従説ではこれが、明智光秀が今まで多大な貢献をしてきたにも拘わらず、織田信長と仲たがいするようなり、今までの領地を一方的に没収されてしまったことに加え、羽柴秀吉の中国方面軍の部下(寄騎)扱いに降格され、それを恨んだと説明されがちな所になる。

 

明智光秀のこの異動は、予定が通達されただけで近江坂本と丹州の他、摂津衆や大和衆を率いる兵権(裁判権)はまだ明智光秀の管轄下で、中国方面を担当していた羽柴勢に、他の部将(師団長)が加勢するにしても、これまでもよくあったため、大げさな解釈といえる。

 

この予定の告知は、今までは廷臣たちの特権(それと関係する聖属側の寺社特権)の保護監察を、最初は佐久間信盛が、のちにそれを引き継いだ明智光秀が管理していたのが、その体制もとうとう改められることを意味した、そこがまず要点になる。

 

これまでどちらかというと、廷臣たちの言い分をやや擁護する形で調停的に代弁していた、彼らにとっての頼みであった明智光秀が、とうとう異動させられてしまうことを、意味していた。

 

筆者の見立てた織田信長のその後の構想は、先駆けでキリスト教との交流が広まり、中央よりも国際交流に先に慣れ親しんでいた九州に着目し、そこに外来を招聘するための領事館(大使館)を設置するつもりでいたのではないかと、考えている。(詳細は後述)

 

追放された足利義昭を擁護した、中国地方の大手であった毛利氏は、織田氏と浄土真宗(本願寺)の和解を少しでも遅らせようと浄土真宗に味方したが、浄土真宗は 1580 年にとうとう織田氏に臣従・和解に動いてしまったため、毛利氏(主導は吉川元春と小早川隆景)と足利義昭の立場もいよいよ気まずくなった。

 

いよいよ格下げも必至になってきていた、備前の宇喜多氏にも毛利派から羽柴勢(織田派)に鞍替えされてしまい立場を悪くする一方だった毛利氏は、中国方面の攻略(裁判権改め・身分再統制)の総司令を任されていた羽柴秀吉を、必死に追い返そうとしていた。

 

四国についても、織田信孝に丹羽長秀、池田恒興、蜂屋頼隆ら重臣たちが支援する形で、外交が破断した長宗我部氏(ちょうそかべ)の攻略の準備が進められ、その制圧・臣従も時間の問題になってきていた。

 

これも「長宗我部氏との和平交渉を任され、今までそれに尽力した明智光秀が、後になって織田信長に全て強引に覆されてしまい、大いに面目を失ったことが、本能寺の変の引き金となった」と語られがちだが、筆者も関係はしているとは思うが、これは正確ではないと見ている。

 

土佐再統一を果たし、四国統一を目指していた長宗我部氏は、織田氏と和平交渉をするようになったと思われる 1578 年頃では、讃岐(さぬき・香川県)や阿波(あわ・徳島県)の支配権はまだ確立できておらず、伊予(いよ・愛媛県)も盤石ではない状態だった。

 

当初は交渉役の明智光秀を通して、織田信長から「その時は」四国では、攻略次第が了承されていた。

 

これは、後になって織田信長が話を覆したというよりも、織田氏からいわせれば「 1582 年の時点で四国統一は果たしていなかった長宗我部氏は、その力量不足を認めて諦めろ」という意味になる。

 

もう天下静謐(せいひつ。身分再統制)の段階になってしまい、それがこれから本格的に敷かれる時期になったその「時間切れ」として、織田政権の許可のない軍事行動はこれからは禁止となる、それが通告されるようになってしまったといった方が正確といえる。

 

これはのちに中央の覇権を制した羽柴秀吉も「伊予、阿波は羽柴氏(豊臣氏)の敷居で仕置き(裁判権改めで仕切り直し)をするから、その支配権を引き渡せ」と長宗我部氏に通告しても、四国統一を目前にしていた長宗我部元親がそれを突っぱねたために、羽柴氏(豊臣氏)よる四国攻略戦が始まった時も、理由は全く同じといえる。

 

四国統一の時間切れと見なされた 1582 年に、本能寺の変が起きたことで時間に猶予ができた長宗我部氏は、のち羽柴氏(豊臣氏)と対立することになった 1585 年の段階でも、中央議会の敷居に対応できるといえる四国統一は、できていなかった。

 

つまり長宗我部氏は、織田信長からも羽柴秀吉からも「その時間内に中央議会の敷居に対応できるような広域統一などできていなのなら、土佐の地方議会(再統一)とその他1ヶ国分くらいは(30~40万石くらいは)とりあえず認めてやるから、お前らはとりあえず土佐に引っ込め」と遠回しにいわれてしまったのである。

 

織田氏が 1568 年の時点でとうに果たしていたことを、1585 年の時点の四国で、阿波や讃岐の支配権(議会)の確立に4年も5年もモタモタやっている側に「引っ込んでおれ!」といわれてしまう、以前の約束がどうであろうが、上同士の力量・格式差(家長指名権の執行力差)が歴然となってしまってから反抗しようとしているようでは、もう遅いのである。

 

当初は長宗我部元親には寛大も、1582 年に織田信長が、四国のことで「時間切れ」と見なして厳しい措置を採り始めたのは、自分たちの地位(議席)の格下げで改められる寸前であせっていた廷臣たちが、何でもいいから織田氏の事業を遅らせようと、裏でおかしな動きをまた始めたことと関係していたと思われる。

 

四国統一(自分たちの格上げ)の団結で地元が盛り上がり、それにこだわっていた長宗我部元親の立場と、一方で自分たちの地位(議席)も危うくなっていた廷臣たちのこの、「敵の敵は味方」の場凌ぎの一時的な利害の結び付きは、戦国前期の低次元化(劣悪性癖=等族義務違反)の原因となる。

 

それが裏で始まってしまい、そのことで両者(長宗我部氏と廷臣たち)が明智光秀をまたしても困らせ、多忙な明智光秀にやつ当たりするように、無神経に甚大な負担をかけていたのは間違いないと見てよい。

 

織田信長が明智光秀に対して急に茶番劇を始めたのも、皆のことを考えて調停に苦労している明智光秀を困らせるばかりで、自分たちの代弁者のはずである明智光秀を自分たちで大事にできずに、自分たちの利害次第の道具のようにただ振り回すことしかしていないことに怒った、そのあてつけだったと見てよい。

 

 「お前たち(廷臣や四国勢ら)のしていることは、こういうこと(明智光秀にただ責任を押し付けているだけ)なのだぞ!」

 

と自分たちの代弁者のはずの明智光秀に対し、その程度の接し方しかできていない実態に対しての当てつけだったと見てよい。

 

諸氏との調停役も務めていた明智光秀をそういういい加減な、ただの保身の道具に利用しようとしていた、廷臣たちのその手口に乗ろうとしてた長宗我部氏だけでない諸氏の態度に、だから織田信長は厳しくなり始めたのではないかと筆者は見ている。

 

織田信長は長宗我部元親に対して「中央議会の敷居に合わせられるかどうかも怪しいお前たちは、四国統一はもう諦めろ!」といわんばかりに「織田氏の家長指名権(裁判権)によって、阿波の支配代理は三好康長(織田氏に臣従した三好一族)だと議決した」と通達することで、長宗我部氏がどう出るか試した。

 

四国の人事介入をとうとう具体的にされてしまった、四国全土の代表格の自負を強めていた長宗我部元親は、結局それを受け入れない形で織田氏と対立することになるが、四国の支配権を巡って織田氏との戦いが始まろうとしていた手前で本能寺の変が起きたため「やはり長宗我部氏の件も強く関係していたのではないか」と注目されることになった。

 

諸氏の間に立ち、廷臣たちの間に立つ重役にもなっていた明智光秀は、織田信長の敷居と、それについてこれていない者たちとの敷居があまりにもかけ離れていたことを、羽柴秀吉と共に当時の日本のそこを特に実感した人物だった、その内心の気苦労も相当のものだったことは間違いない所になる。

 

他には、とりあえずその感覚だけでも危機感をもってなんとかついていけたといえたのは、その盟友関係としてなんとか三河・遠江・駿河で台頭できた徳川氏くらいだったのではないかと、筆者は見ている。

 

文字数がまた一杯になってしまったため、当時がどのような様子だったのか、また織田信長がその後どうしようとしていたのかについて、次もその説明を続けていきたい。