近世日本の身分制社会(091/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか19/? 2022/02/16
 

明智光秀の身辺について触れていきたい所だが、今回も戦国後期までの特徴を重視する説明をしていく。

まず明智光秀は、旧態の室町体制における美濃(みの。岐阜県)の、元々の代表格であった土岐源氏一族の出身だったことは、何度か触れてきた。

そうではなかったとする判然としない説も多いが、ここではそうだったとする前提で話を進めていく。

岐阜県東部の明知城の当主であった、明智光秀の叔父の明智光安(土岐一族の分家筋)は、斎藤道三派と斎藤義龍派とで二分した地方再統一戦が行われた際に、道三派として敗れ、明智一族は没落するが、この時点での明智光秀の動向も判然としない所になる。

いずれにしても家来筋のそのまた家来筋と続くような、地域ごとの血族の地位(議席)の序列(優先度)が大して高くない陪臣筋(ばいしん。家来筋の家来筋以降)というのは、戦国後期にはすっかり溢れるようになっていた。

 

名族の末端・末席たちだと、それこそ士分特権など皆無になっていた序列の低い家系の娘と結婚したに過ぎなくても、何らかの機会でちょっとした格上げの枠に入れた際には、さも伝統的な由来の系譜だったかのように、後で誇張することも珍しいことではなかった。

かつて、閉鎖的な地位(議席)の蹴落とし合いでちっぽけな生活権の奪い合をしていた、どの地方も荒れまくっていた戦国前期では、士分待遇(地縁特権)を維持し得ずにやっていけなくなった名族の末端の半農半士たちは、閉鎖有徳(地域ごとの寺社)と結託して、閉鎖的な上下権力を勝手に作りながら(正しさを乱立させ合いながら)、それぞれがさも当主筋直属の正規団であるかのような、地域ごとの血族(格式)の誇張合戦が繰り返されたのも、特徴的な時代になる。

戦国になる前の、足利義満(3代目室町将軍)時代の、物流経済面でも文化面でも大いに開花することになった大経済期にはその兆候は既にあった、だから同時にその大掛かりな身分再統制(議会制の仕切り直し)の必要に迫られていた、ともいえる。

豊かさの競い合いで便利な世の中に向かおうとしていく分だけ、今までの観念(議会・裁判権・家訓)では裁ききれないような新たな訴訟ごとも絶えなくなる、新たな法の整備の節目になっていた時代だったともいえたのが、室町の大経済景気である。

それに対応できるだけの議会制(裁判権)の仕切り直しが、その後には遅々として進まず、結果的には何の解決も見通しも結び付かなかった応仁の乱(議決性に結び付かない、だらしない家長権争い、くだらない栄達大会)が起き、戦国前期を迎えたのも、その実態が顕著になったに過ぎないともいえる。

戦国前期の愚かさが少しは反省され、地方では地方議会(分国法・家訓=育成理念の主体性)の見直し(家長権改め・裁判権改めによる強国化)にやっと向き合われるようになった戦国後期には、その血族(各家長)の見方も、だいぶ健全的な変化が見られるようになる。(ここが本能寺の変とも関係あることして順述)

中でも織田氏の身分再統制は特に別格だったが、何度か先述してきたように他の戦国大名(地方の代表格)たちでも、各家臣団ごとの家長と副長(家老)に属する家中(家来筋たち)から、序列こそ低いが見所のある人材は、縁組を駆使するなどで少しずつ優先権の格上げをしていく工夫は、顕著になっていた。

その家臣団の中では序列が低いが有望な者を、その本家筋の娘との縁組を斡旋したり、また強化したい他の家臣団の家系に連盟的に婿養子入りさせる斡旋や、また当主筋の娘と結婚させる特権で格上げしていく、などが他でもされていたが、それができるだけの敷居の議会制(分国法・家訓改め・家長指名権)の整備(身分再統制)の力量が問われる所になる。

いよいよ政体など成していなかった、何のあてにもならない旧態慣習(室町権力の機構)の深刻な事態に、地方ごとで自主的に家訓・家長権の敷居整備(議会制の仕切り直し)を始め、地方近隣をいかにまとめられるかが代表格としての力量・格式として問われるようになったのが、戦国後期(総力戦時代)の特徴である。

禅の思想の再確認による、茶道や式典といった社交作法や、またそれに関する工芸品や正装衣類の重視といった、文化面の見直しも強くされた戦国後期の姿は、西洋でいうまさに風紀改革(ルネサンス)時代、社交観(手本家長・代表格としての品性規律の指導のあり方)における原点回帰(リナシタ)時代だったといえる。

 

ただし茶道については、のちに低次元化(指標乞食化・栄達大会化)し始めたため、織田信長と豊臣秀吉はその規制に厳しくなった。

だらしない派閥利害(ただの閉鎖有徳運動・ただの栄達大会)でただ政敵をうちのめし合うのみ(姿勢狩りによる敷居向上など皆無な落ち度狩りのみ)しかしてこなかった、それしか能がない家長権争い(ただの正しさの擁立合戦・ただの指標乞食合戦)の繰り返しの

 地方議会制(品性規律の手本)のための公務公共的な再統一(選挙戦=課題の方向性の明確化=敷居向上)

 和解(敷居向上・姿勢狩り)を前提に競う・意見整理し合う議会的な姿(法治国家としての品性規律の見習い合いの手本姿勢)


という、荀子・韓非子が指摘する法治国家(品性規律ある自己等族統制)の原点に結び付くことなど何ひとつできたことがない今の公的教義と大差ないただ下品で汚らしいだけの

 外圧任せ(指標乞食主義=手遅れの共倒れ主義)が大前提の、そのだらしない低次元な劣情(ただの保身のためだけの口ほどにもない栄達合戦・ただの価値観争い)をただ向け合ってきただけの実態も、疑い見抜けたことがない

 ただの荒らし合いのただの奪い合いをやめさせられず、失望し合うことしか能がない、
議決性(法治国家としての品性規律の手本)などどこにも見られない、低次元な腹いせの怒り(ただの指標乞食主義の落ち度狩り)を、無神経・無計画に次代たちに延々と向け続けることしか能がない

 そこを
自覚(自己等族統制)できたこともない無能(偽善者)が、上(地位・議席)に居座り続けることがいつまでも許され続ける、だらしない低次元な集まり

は競争力を失っていく、その敷居(手本家長の姿勢=等族組織としての品性規律)の格上(高次元側)格下(低次元側)の力量差が顕著となる時代と化した。

自分たちの議決性(法治国家の品性規律のあり方=等族議会制としての手本姿勢)のあり方を、万事外圧任せに自分たちでうやむやに放棄し合ってきただけの、今の公的教義と大差ない低次元な劣情闘争(ただの指標乞食闘争)が繰り返されたのが、戦国前期である。

争うにせよ交鈔にせよ、まずは地方議会(分国法・家訓・手本家長のあり方)の敷居向上のための、上としての等族義務(育成理念の手本・社会的指導責任)の表明(名目・誓願)のための闘争(その見通しのための再統一戦・選挙戦)でなければならないという、本来の議会的(法治国家的)な向き合いがようやくされるようになったのが、中世から近世に向かい始めた戦国後期である。

そのための等族義務(社会的指導責任=家長格の勤め=器量)が強く求められるようになった戦国大名(地方の代表格)たちは、家中で序列が低かったりまだ若かったりでも、有志の人材を選別・奨励しなければならない、すなわち地位(議席)の譲り合いの公正さ(議会制の姿勢)という所も、ようやく少しは努力工夫するようになった。

その意味で戦国後期には、それぞれの家臣団ごとの家長や、その次席の副長(家老)らの座(議席)の序列についても、その自主的な譲り合いの交代も、ようやく少しは議会的(品性規律的)にするようになった。

新たな代表家長を巡るにしても、また組織の伸張に応じて家長(部署の新設の議席)を新設する必要が出てきた時などでも、その地位(議席)を巡ってどうにも賛否が分かれるようなら、闘争するしないに拘わらず再統一(議決的な選挙戦による家訓の更新=敷居の仕切り直し=身分再統制)という形を採るという、時代に合った人事改革ができているのかも、大きな力量差の時代となった。

組織(地方議会)を衰退させないためには、出身の序列が多少低い家来筋でも、見所のある有志であれば少しずつでも上層に組み込んでいく人事改革(家長指名権)の努力も、戦国後期になってようやく少しは自主的(主体的・育成理念的)にされるようになった。

そういう所を全て外圧任せに終始し、自分たちのあり方を自分たちで整備できずに、自滅的に求心力(主体性・育成理念)を崩していくだらしない格下側(低次元側)の地方は、それができている格上側(高次元側)の列強に切り崩されながら組み込まれていって当然、という総力戦時代に向かった。

時代に合った今後の手本(議決性・育成理念)に何も結び付かないような、時代遅れの機械的な良悪風紀(劣悪性癖)に皆がいつまでもしがみつくことのないよう、新たな風紀(等族義務)の入れ替えのための地位(議席)の譲り合い(議会的な品性規律の手本)も、闘争するしないに関係なく下克上的(選挙戦的)にさせていかなければならなくなってきていた。

そのためには、時には当主(家長)が手本となって早めに隠居し、男子の嫡子がいないなら親類からさっさと後継者を選出し、次代を若い内から新当主(新家長)として継承式典を行ってしまう傾向も、段々と見られるようになった。(ただし隠居が後見人という形で実権をしばらく握り続け、徐々に権力を譲っていくという場合も多かった)

その手本指導が別格だった織田信長の等族議会制(身分再統制・裁判権改め)による、特に羽柴秀吉と明智光秀の2名の、異例もいい所の二段跳び三段跳びの抜擢のされ方は、どこもできていない人事改革だったからこそ、世間に強烈な印象を与える注目がされた。(明智光秀の方は、中央関係者の間でかなり目立っていた)

古参主義(ただの名族高官主義・ただの指標乞食主義・ただの怠け癖)に延々としがみつき続け、その旧態の不都合(劣悪性癖)の折り合いを自分たちで仕切り直すこともできないだらしない中央関係者ら、また地方議会の整備(身分再統制・前期型兵農分離・家訓改め=裁判権改め)をモタモタやっていた諸氏らを青ざめさせるほど、織田氏の人事改革は次元がかけ離れていたのである。

織田家の本営を固める護衛役を務め、信任の高かった浅野長政が本来は、部将格(師団長)として抜擢されてもおかしくなかった所を、その浅野一族の家来筋の末端の、庶民政治側ですら何の肩書きもなかった半農半士あがりの木下秀吉に、その家臣団の代表家長権を「騒動も起こさずに」譲らせるという急抜擢自体、他ではとてもできなかった高次元な議会制の敷居(育成指導力)になる。

佐久間信盛に続く部将格(師団長格)の候補は、当初は連枝衆(れんき)の準親類扱いで優遇気味だった中川重政と、古くからの信用関係が強かった前田利家の2人だと目されていたのを、それが覆されるように柴田勝家や原田直政らが優先的に、その地位に抜擢されることになった。

それまで師団長候補として活躍が目立っていた中川重政は、その立場を退任させる形で旗本に収容されてしまい、前田利家も「柴田勝家を支援する有力寄騎(旅団長)の立場でなければならない」と、上の人事体制を徹底させた。

これは最終決定(家臣団ごとの各家長序列の公認権・議決権・謄本登録)は当主に拠るはずのことを、「皆がそう目しているのだから、そういう人事にならないとおかしい!」という、普段からその議決性(事情)を確認し合う枠(議席)に居る訳でもない、その外にいる世間にその決定権があるかのような、低次元化させていく外圧的(育成理念などないただの指標乞食論)な風評弁慶主義(敷居低化させる劣悪性癖)を作らせないための、織田信長らしいやり方だったといえる。

中川重政がこれまでの活躍の場を失ってしまった原因は「かつて争った、勘十郎様(信長の弟の信勝)の家老だった柴田勝家よりも、準親類扱いの中川重政の方が優先されるはずだ」と下々が勝手に擁護しようとした風潮も強まってしまったことの、その警告の意味も強かったと思われる。

議会(等族義務=社会的代表責任としての議決性・手本家長の姿勢)の敷居枠(議席)に居る訳でもない、意見を整理して提出する姿勢(事態を収拾する姿勢)もない世間下々が、まるで上を格付け(等族義務)する議決権があるかのように、思い込みの劣情風評(ただの不都合の付け合せのみ)だけで過剰にもて囃(はや)したり、けなすことに熱を上げるようなことをし合ってはならないことの警告である。

 「上(公務士分・等族義務)の存在は、下々の流行話題(ゴシップ)の安直な義理人情物語や栄達活劇であるかのような、芸能演劇のおもちゃではない!」

 「中川重政が人気があったからといって、そういういい加減な見方で擁護(指標乞食化)しようとする下々がいるから、あえて活躍の場を巻き上げたのだ!」

 「上のせいで下を不幸な目に苦しめてはならないように下も、議決性(育成理念)など皆無な無神経・無計画(風評弁慶的・指標乞食的・劣情共有的)な見方のみで上(家格・格式)の風紀・風格を狂わせるようなことを、し合ってはならん!」


古参主義(低次元な劣情の怒りの向け合い=指標乞食主義化)を蔓延させないための親類家格(連枝衆制度)として、そもそもその厳しい規制枠だった準親類筋の中では中川重政は、これまで見所でかなり優先権が与えられていたが、何かあればすぐにでも、手厳しい地位の巻き上げがされてしまうのは仕方のない所だったといえる。

そういう立場だった中川重政のことはともかく、

 

 柴田勝家をあえて支える側に立たせた前田利家

 

 明智光秀をあえて支える側に立たせた細川藤孝

 

 羽柴秀吉をあえて支える側に立たせた浅野長政

 

のことは、織田信長は決してないがしろにしている訳ではなかった。

浅野長政においても、間違いなく有力諸侯(格上の等族諸侯=西洋でいう選帝侯のような、新政権における重事の投票議決権を有する、伯爵の格上である侯爵や公爵。マーキスとデューク)扱いに手配される予定だった、しかしその手配がされる前に本能寺の変が起きてしまったために、そこが解りにくくなってしまっている。

柴田勝家が北陸方面の地方攻略戦(裁判権改め)で、加賀・能登(石川県)の支配権の優位性を築き、越中(富山県)攻略を優位に進めるようになった頃には、前田利家はさっそく能登一国の優遇気味な有力諸侯扱いがされていることからも、時期が来ればその労に報いる予定がされていたことも明白な所になる。

同じように、明智光秀の丹州(丹波と丹後。京都府西部)攻略も大局が決すると、細川藤孝にも丹後一国の優遇気味な有力諸侯扱いにさっそく手配されている。

中国地方の攻略戦を優位に進めていた羽柴秀吉の方でも、浅野長政は因幡(いなば。岡山県北部)や但馬(たじま。兵庫県北部)あたりでの、優遇気味な有力諸侯扱いが予定されていたと思われる。(豊臣時代には政権の産業省長官扱いに加え、甲斐一ヶ国の支配代理も任されている)

前田利家、細川藤孝、浅野長政の3名は、織田信長が目指していた等族議会制(法治国家の品性規律)のあるべき敷居として

 「人の上に立つ側の等族国家の手本として、上同士で地位(議席)を譲り合うことも、これからはできなければならない」

所も、よく心得られていた、その象徴的な立場だったといえる。

細川藤孝の立場は少し特殊ではあったが、この3名は多少の不満はあったとしても、そこに気を乱すこともなくその意図に大いに貢献していた。

「上ならそれもできていて当たり前」「それこそが上同士のあるべき姿勢」だったからその評価も解りにくいだけで、織田信長はこれら3名のことも、内々では高く評価していたのである。

こうした、今後の日本の等族国家(法治国家)のあり方としてできなければならなかった、等族議会制の整備(育成指導の敷居向上・姿勢狩りによる見習い合い)が、室町機構では結局長続きしなかった。

公的教義も、聖属面(教義面)からその肝心な指導を支えなければならなかったのを果たし得なかったことは、日本の自力教義の主導を浄土真宗に完全にもっていかれた有様からも、そこは明白になってきていた。

等族社会(法治国家としての議会制の品性規律のあり方・社会的指導責任)の最低限として、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕ある整理の見方を以って、普段から内外のできている・できていないをまず疑い見抜く、すなわち公的教義のような低次元な敷居のただの罵り合い(戦国前期の姿)と決別し、高次元な敷居向上の見習い合いを目指す(戦国後期の姿)ことから始められないようでは

 万事外圧任せにしてきた(手遅れになるまで放任し合う劣情共有に正しさを求め続けてきた)だらしなさが招いた、ただの腹いせの怒り(それで共倒れし合うための正しさの押し付け合い)をただ向け合うことしか能がない

手本(敷居向上の見習い合い)無き低次元化(等族義務の放棄・衰退)に、一直線に向かってしまうのである。

織田時代、豊臣時代に顕著だった身分再統制とも関係ある、上記の血族の慣習についての、その歴史的な変容の話に戻る。

戦国後期になって、どのように地方議会(分国法、家訓、裁判権の仕切り直し、自分たちが選ぶ代表格のあり方)に向き合っていかなければならないのか、各地方の上から下まで、自分たちの等族義務(意見総代の選出=社会的代表責任)の敷居(分国法・家訓)というものを、少しは考えるようになった。

日本独特の家長権争いの観点と結び付いていた、その血族意識もだいぶ変化も見られるようになったのも、戦国後期の特徴になる。

ここが、この「近世日本の身分制社会」の本題として伝えておきたかったひとつの、重要な部分になる。

世紀が大きく錯綜(さくそう。ゴチャゴチャ)する説明の仕方になるが、第二次世界大戦時代に、日本の事実上の政権を一手に握るようになっていた陸軍大本営(身分制議会)によって、戦況が不利になればなるほど国民総動員のための天皇神聖論がやたら強調された際に

 「国民(日本人)は全て、陛下(皇室)の赤子(せきし)である」

 「だから徴用令を受けた国民は、陛下を中心とする皇(すめらぎ。皇国)の軍員として忠誠を尽くし、その指揮権をかたじけなくも代行している陸軍大本営(総帥部)の軍務に、一丸となって絶対服役しなければならない」


だと、見通しなどなくなって劣勢続きだった大戦末期では、悪用にしかなっていない大本営のその理屈で国民を苦しめてばかりだった、この謳い文句の意味とも、関係ある話になる。

元禄(江戸中盤)の高度経済成長を迎えて以後、迷走を続けるばかりだった江戸後半から、武家社会を旧態慣習だと一斉に撤廃される形で近代化が目指された明治新政府の初期にかけて(17世紀末~19世紀にかけて)、日本人としての血族的な歴史は、時の権力者の不都合で印象操作され続けてきた所になる。

まず「日本国民(日本人)は全て、陛下の赤子」自体は、言い方こそかなり安直で大雑把ではあるものの、まんざらでもない言い方となる。

聖属政権(朝廷社会)から世俗政権(武家社会)に切り替えられるようになった鎌倉時代(13世紀頃)は、社会問題化するほどの半農半士(名族の末端たち)の蔓延などは、まだ起きていなかった。

世俗社会化が顕著になった鎌倉時代の移行期への過程には、寺社の僧兵(聖属兵団)中心の武力闘争では済まなくなってきて、必要に応じて各地の庶民側も動員する、一時的な世俗兵団も重視されるようになっていた時代だった。

中央と地方との上層権力(または地方と地方の同族同士の遠隔地間)の関係を結び付けながら地方をまとめるために、皇族の上層出身が武家化(聖属支配者の世俗支配者化)するという形で、各地に下向(げこう。中央・中心部の権力者や文化人などの名士が、地方に出向くこと)するようになった源氏一族、平氏一族、また同じく貴族層(現役的な皇室の家来筋)の藤原一族らの下向の歴史が、のちの半農半士問題の遠因となる。

聖属政権時代に対立天皇闘争、またその太子(たいし。後継者)を巡る擁立合戦が繰り返され、それを聖属側の公的教義(比叡山・延暦寺)も、地方の有徳(寺社)も、次第に教義面(育成指導面)で支えきれなくなり皇室権威を衰退させていった、すなわち日本の国威そのものを衰退させた事情も、深刻化していった。(そうならないように管理しなければならないのが、廷臣たちの等族義務)

だからからこそ、対立天皇の闘争が紛糾するたびに、聖属側の僧兵を巻き込んで激しく繰り返してきた聖属闘争も、これからは世俗側が聖属側の乱暴を止めさせつつ保護していく側となる、その重要な意味も担う刷新的な鎌倉政権(世俗政権)への交代の方向に進んだ。

これは、世俗側が聖属側を逆転的にうちのめし始めたというよりも、聖属同士で不健全な闘争ばかり繰り返され、自分たちで自滅的に聖属権威を衰退させていった、その頼りない聖属側に世俗側が肩代わりせざるを得ない機会を増やすことになってしまった、といった方が正確な所になる。

聖属政権(朝廷社会)がついに世俗政権(武家社会)に切り替えられたことによって、これまでの神道・仏教(聖属教義)のあり方も、時代に合った大幅な見直しが行われるきっかけとなった。(鎌倉仏教時代)

今まで上下権力(生死観差別)のためだけに死後の世界(世の中の正しさとやら)を支配する(劣情共有し合う)ことしか能がなかった、今と大差ない歪みきった公的教義の古参主義者どもを遠回しに批判し始めた、源空(浄土教の他力信仰重視)、親鸞(源空に続く)、日蓮(法華経の自力信仰の今までの見直し)といった、弾圧に屈しなかったかなり優れた教義改革者たちを輩出したのが、いわゆる鎌倉仏教時代である。

平安末期(鎌倉直前)には、衰退し切っていたかつての朝廷政治体制は完全に形骸化(お飾り化)していた中、地方で実力をつけていた名族たちとの権威的な結束によって、中央をすっかり専横するようになった平氏の本家筋の平清盛派が、強大な権力を一手に握り始めるようになった。

それによる人事差別もあまりにも急激なものであったために、その専横組(平清盛派)を批判する反抗派の旗頭として擁立されることになった、源氏の本家筋の源頼朝派とで、どちらを今後の武家の棟梁(世俗側の日本全体の代表家長)と支持するかを巡って、世俗側で争われた。

何度か説明したが、関東平氏(伊豆北条氏、三浦氏、上総氏、千葉氏、畠山氏)たちのように平清盛のことを「あんな奴を平氏の本家筋だの、武家の棟梁だのとは、我々は断固認めない!」と反感的になっていた地方もあったように、平氏一族、源氏一族という単純な枠の足並みではなく、今後の武家全体(世俗全体)の代表家長の選挙戦としての、争いがされた。

この時の武家の棟梁(世俗側の代表家長)争いは、聖属政権にもはや日本を支えられるだけの政権力(聖属・朝廷の発令力)など皆無になっていた、それを世俗側が肩代わりしなければならないのは明白だった一方で、世俗側では平清盛派か源頼朝派のどちらの方が相応しいかの決着と結び付ける、国内再統一(選挙戦)のための契機にされた。

特に武家社会化(世俗政権化)以後の鎌倉から室町にかけて、地方(名族たちの遠隔支配地)の支配権の確立のために下向していった源氏(本家筋から分流した細川氏、斯波氏、今川氏らの他、佐々木源氏、小笠原源氏、武田源氏、村上源氏などの名族筋)、平氏(畠山平氏、千葉平氏、大掾平氏、関平氏など)、その他にも公家側(貴族側・廷臣側)の藤原一族などから武士団化していった名族出身ら(北畠氏、佐野氏、結城氏、伊達氏など)が、それぞれの血族の序列権威を根拠に、各地方の名士として土着するようになる。

鎌倉以降から顕著だった、それぞれ地方(遠隔地支配)にそのように土着して以来、室町までに200年も300年も経過すれば、その血族事情も当然のこととして大きく変わってくる。

鎌倉解体後の建武(聖属政権再興)発足がうまく行かずに大騒ぎになり、仕切り直される室町政権までの過程において、南朝派(聖属政権再燃の後醍醐天皇派)の武家の棟梁とする新田義貞派か、北朝派(武家政権に委託の光厳天皇派)の武家の棟梁とする足利尊氏派かで争われるが、ただでさえ半農半士社会ができ始めていた中だったことも、当時の混迷を助長していた原因になっていたと見てよい。

建武政権がもし、その時はどうにか政体らしい設立ができたとしても、のちに深刻化していくこの半農半士問題への身分再統制に対応できるだけの議会制(政権体制)が確立できなければ、どちらにしても長続きしなかったといえる。

江戸時代に向かう過程で、重要な政策として強調された身分再統制の歴史は、こうした長い歴史が省かれでばかりの、曖昧な印象ばかりの説明しか、これまでされてこなかった。

幕末の倒幕戦で、武家社会を旧態慣習だと一掃したまでは良いが、明治新政府の当初の題目だった四民平等と民力給養(庶民の産業力をまず養っていき、それで強国化を目指す)の話がさっそく覆されて、特に地租(不動産の権利と税制)を巡って、強引な上下格差政策を政府が敷き始めたために庶民側は大貧窮に陥り、大規模な民権運動(薩長藩閥どもが牛耳る太政官まかせではない、民権意見反映のための国会議事堂が設立されるきっかけ)が起きる事態となる。

明治新政府の発足の、最初のグダグダな10年間でもやはり、そこが大いに曖昧にされてきた所になる。

戦国末期(本能寺の変)から150年以上前の、室町政権がようやく政体らしくなってきた3代目の足利義満の時代に、日本の内乱もいくらか落ち着きを見せて、華やかな大経済時代を迎えるが、同時に半農半士問題に対する身分再統制にも対応しなければならない時期に迫られていたともいえる。

どういう意味かというと、室町時代にもなるといい加減に日本人は、日本列島全域の上から下まで、源氏や平氏などを始めとする名族の血族と完全に無縁な者などは、逆に皆無となっていった。

地方に土着した各名族の上層(本家筋)らが、代を経てその家来筋(分家筋)もどんどん派生し「家来筋の家来筋の家来筋の・・・」の序列の末端の下っ端たちもどんどん増えていくにつれ、枠に限りがある特権がその全てにあてがわれる訳がなかった。

ちっぽけな小特権で身が縮まっていく一方の名族の末端の下っ端たちは、権力闘争の騒乱をきっかけに目立った活躍などで勝ち名乗りを挙げなければ、士分特権を失い没落していく一方だった。

その地方にとっての、名族の本家筋との継承権など程遠くなっていく序列の低い者ほど、一度失った士分特権の再起もどんどん難しくなっていく中、本家筋から認知すらされなくなっていくまま、庶民化(帰農)せざるを得ない者たちもすっかり溢れていく。

しかし名族の血縁など元々なかった庶民から見れば、それら没落した家来筋たちのことは当然のこととして重宝され、名主層(庄屋。庶民のまとめ役)や村役(地域ごとの庶民政治側の責任者たち)から順に縁組の交配がされていき「これで我が家は、かつての名族の側近の家系と縁組した」と誇張する風潮も、武家社会観(世俗社会観)の血族価値として、当然のこととして構成されていく。

没落した家来筋たちと縁組することで、庶民側の間で少しでも家格を身に付けようした名主や村役たちも同じく、代を重ねればその本家筋・分家筋とやがて序列的に派生していき、そうやって農村(食品・原料生産者)や都市(手工業者・物流業者ら)の庶民ごとの上下関係の中でも順番に、それらしい血族由来をもつ庶民同士の交配が、自然に広がっていくことになる。

その意味でもはや血族出身の誇張は、誰もがなんとでも名乗れてしまえる表向きの肩書きでしかなく、その権威的な根拠も、その地域ごとの序列の問題だけでしかなくなっていた。

この血族意識の変容の経緯を順番に説明していくが、今これを読んでいる日本人は誰しもが、源氏、平氏その他、どこかの名族の祖先に行き着かない者などいない。

あくまで遺伝学的な話だけでいえば、どの日本人も先祖をたどれば、古い皇室(桓武天皇や清和天皇や村上天皇などから輩出された子孫)の末裔でない人などいないのが、今の我々日本人なのである。

第二次世界大戦の劣勢末期には、現場の苦痛の無視を強める大本営の

 

 「日本国民(日本人)は全て陛下の赤子」

 

の言い方は

 

 「日本人は全て陛下(家長)の家来筋の下っ端どもだから、その名義借りをしている陸軍大本営への全てのいいなりになって当然」

 

という、間違いではないがあまりにも単純すぎる、安直もいい所の言い分だといえる。

大本営が、報道の規制も民権運動の規制も強め、どんな情勢になっているのかも国民に正直に知らせずに、ひたすら指令を強制され続けた当時の日本国民としても「お国が大変なことになっているから、とにかく頑張るしかない」で、その謳い文句もそのための合言葉の意味ばかりとして、強調されてきた。

戦国前期の話に戻り、世俗社会化以降は特に「上がそうなら下もそう」という、血族的な序列社会が庶民側(非士分側)でも、それまでにすっかりできあがっていった。

室町崩壊後(戦国前期)に、地方の上層間(室町機関)は一向にまとまり(地方議会の仕切り直し)を見せられない派閥闘争ばかり繰り返されたために、下も巻き込まれる形の下同士の生活権の荒し合いと奪い合いばかり繰り返された。

解決(敷居向上・議会制の確立)に一向に進まないまま、上から徴税と労役を一方的に要求されるばかりで、甚大な負担になるばかりだった庶民側(非士分側)も、自分たちの地域を守るために有徳(寺社)と結託し始め、血族理由を用いながら逆に攻勢的に上の派閥利害につけこみ、不都合の囲い込みの縁組を強める自治権闘争(地侍闘争)が顕著になったのが、半農半士問題(惣国一揆)である。

名乗ろうと思えば誰でも名族の末裔を自称的に名乗ることができてしまう、それこそ追剥行為などやまた戦場での遺体の遺留品など、どこかでかっさらってきた刀や槍や鎧を装着して士分(その地域の名士・地侍)を気取りながら、各地域の有徳と結託しながらの利害次第の半農半士たちは、自分たちの身内地域(閉鎖的な血族意識)さえ良ければいいかのような、正しさの乱立(不都合のうちのめし合い)の閉鎖自治権闘争(閉鎖有徳運動・地侍紛争)をするようになった。

まさに悪い意味の「上がそうだから下もそう」に向かってしまう、法(議会制)としての歴史はまだまだ浅かった中世の特徴の、典型的な社会現象だったといえる。

ただでさえ上の事情が普段から下には知らされずに、だらしない上から高圧的に「下っ端どもは黙ってただ上のいいなりになっておればいいのだ!」一辺倒でどこも規制されがちだった下々は、そうならなおのこと上(手本家長としての等族義務=社会的指導責任)がしっかりしていないほど、あっという間に低次元化に向かってしまうのである。

どこも上層の間では、一向に地方をまとめられなくなっていた、だからこそ

 

 自分たちの代表家長が誰なのかを明確化しながら、家臣(家来筋)たちの身分の公認保証制を敷き直す

 

という、15世紀末の西洋の身分再統制の先駆けとなったフランスでいう、日本でもやらなければならない時期になっていた「身分制議会」が、日本でも迫られていたのである。

戦国後期にも、武家社会(家長権争い=敷居向上のための御成敗式目の仕切り直し競争=裁判権争い)という意味で一応は、血族出身の根拠は表向きの肩書きとしては重視されたが、ようやく少しは目が醒めたように、そこを少し現代感覚のように見るようになった者も増えたのが、特徴的になる。(順述)

織田信長が家督を継承して間もなく尾張再統一に乗り出した政策として顕著だったのが、これまでまとまりもなく曖昧な態度を続けながら各地域に散らばり続けていた国衆(土着武士団)たちの、政局城下の武家屋敷に強制収容する(地縁特権を当主に返上させる)、身分再統制(前期型兵農分離)のための大幅な閉鎖有徳狩り(半農半士対策)だったのである。

議決性(まとまり)などない、待遇(家格)の引き出し合いのためだけの低次元(閉鎖的・劣悪慣習)な自治権闘争(正しさの乱立)をやめさせるための、その大幅な人事改革が織田信長によってついに尾張で始まったからこそ、それができていなかった近隣に、多大な脅威を与えることになった。

それを、格下とやらの織田氏に具体的にやられてしまった、そしてそれができていなかった格上とやらの今川義元「今まで通りのことを続けていては面目(格式)が保てなくなってしまう」気まずさからそれを潰しにかかろうとした、その時代逆行的な噛み付き方は、足利義昭も全く同じだったといってよい。

当然のこととしてこれによって、今までの血族意識の見直しの風潮も、助長することになった。

豊臣秀吉の時代には「太閤検地」と「刀狩り」の、政権の仕置き(新基準を敷きに地方に巡回)が行われ、この行幸(手続き)によって正式な士分公認を受けられなかった者たちはこれからは

 「政権の裁定が下りる前から、士分公認も受けていない者が政権の許可も得ずに勝手に武具を手にとって、閉鎖的な武力闘争(自治権闘争)を勝手に始めてはならん!」

 「そもそも、意見を整理(自分たちの意見総代を議会的・連署的に立てる・選出する)して政権に提出するという、議会制(法治国家的な敷居の確認のし合い)の最低限(品性規律)の取り組みから始められずに、いきなり自治権闘争(閉鎖有徳運動・正しさの乱立合戦・ただの劣情栄達合戦)を始めようとする、低次元化(劣情共有)し合うことしか能がないだらしない無能(偽善者)どもは、士分待遇(人の上に立つ資格)を剥奪(刀狩り)されて当然だ!」


と、そこが身分制議会的(天下総無事的)に、より選別・区別されることになった。(後期型兵農分離)

織田信長の謄本登録的な家長指名権の整備(身分再統制)によって、深刻化していた半農半士たちの今までの閉鎖自治権運動(ただの正しさの乱立=議決性など皆無なただの劣情共有)をやめさせるための、正規軍(常備公務軍側・旗本側)か非正規軍(人手不足の際の場合だけの一時雇用の、普段は農商業従事者ら)かの高次元な選別(公正な議会公認保証制・謄本登録制)の貴重な前例が、ついに示されたのである。

織田信長の旗本吏僚体制の貴重な前例がのちに、将軍(武家の棟梁)の居城の城下に敷かれる武家屋敷に、地方と国許(くにもと)を往来させる参勤交代制度、家格整備のための強制退去の国替制度、騒動を未然に防ぐ目付け(監査官)制度など、豊臣時代から徳川時代にかけて、見習われながら整備されていった所になる。

この過程が大いに誤解・錯覚されてきた所だと思うが、織田時代(前期型兵農分離)と豊臣時代(後期型兵農分離)がとうとう始まったこの身分再統制では血族序列そのものが具体的に否定された訳ではない、という所が要注意である。

公務士分側(それとの主従雇用関係が永代的に続いていた者たちも含める)か庶民側(軍務はあくまで人手不足の時だけ動員される、普段は農商業労働者)かを、あくまでその序列(道義的権力)が謄本登録的(法的な家長・家格公認権)に仕切り直された、という話なのである。

血族と議会の歴史がろくに網羅されされない表向きの印象ばかりで、江戸時代の実態がろくに認識されないまま「武士と農民の絶対的な身分制が強調された時代」のそこばかりで大いに誤認され続けてきた、だから田畑永売買禁止令を巡って騒ぎになったことが、何を意味していたのかも、今まで大して注目されてこなかった所になる。

 

織田時代と豊臣時代の荀子的独裁制(主体都合的継続)の重視にフタをするように、孟子的合議制(不都合的完結)の重視を強める方向に進んでいった徳川政権は、厳密(帰結的)には武士と庶民の区分けが大事だったのではない。

 

これは現代でもありがちな、上少下多(ピラミッド)構造の維持、つまり絶対的な権威の少数の上級武士が、その他大勢の下級武士と庶民に力をつけさせないために、いいなりになるよう規制して従わせる、そうした構造(武士道観)の維持こそが最重要なのである。

 

そのための正しさの植え付けの、水際の防波堤として「武士と庶民の区分けの絶対」が表向きが強調(指標乞食化)されたというのが、その実態なのである。(下同士の農地権の移管を黙認せざるを得なくなった江戸後半だからこそ、ここもより顕著になっていっていった)

 

少し先述してきたが江戸時代では、家格の血族序列が意識された縁組も、地位の高い上級武士ほどその意識を強めたが、下級武士たちは常にその縁から弾かれがちだった。

 

50石~100石が大多数だった、序列的に下っ端だった大勢の下級武士は、もちろんできることなら自分たちより格上の家系との縁組は望んだが、簡単な話ではなく、庶民側の娘との間にできた子でも、継承は認められていた。

 

元禄の経済景気後は特に下級武士たちは、上級武士たちの仲間入りなど簡単ではなかったからこそ、貧乏武士同士の縁組などよりも、商売などで成功している金持ち庶民や、また名字や帯刀の資格を得ているような、庶民の中では生活が少し裕福だった家系と縁組した方が遥かに有利、という考えですらいた。

 

農地側の名主層や村役たちは、士分側ではないが庶民側として、かつての格式に応じて名字や帯刀の資格が公認される、庶民側における格式の特権を得ていた家系は多かったことは、彼らの血族感覚としても「士分側か庶民側かが政治的(議会的)に区分けされるようになっただけで、血族的にはどうせ皆が、元は名族の末裔」なのである。


織田信長と豊臣秀吉のおかげで、庶民側にも等族議会制(敷居)をある程度教えることができていたために、田畑永代売買禁止令が振るわずに、庶民同士で力のない者を力をある者が傘下に加えていくという、庶民同士のあからさまな上下権威的な大地主(資本家)が再燃(一地一作人体制が崩壊)するようになっても、ただちに戦国前期の自治権運動(閉鎖有徳運動)の騒乱に向かうことはなかった。

 

庶民の中で台頭した大地主たちは、庶民の中で威張り散らすことが重要なのではなく、むしろ庶民を貧窮に向かわせるばかりで、農地を収容せざるを得なくなった、農家を立ち行かせなくするばかりの武士側の幕藩体制を、深刻に問題視していた。

 

大地主たちは、自分たちの地域を守らなければならない等族義務から、貧窮に陥るようになっていた下級武士(士分家格)から順番に囲い込むような縁組で、いわば政治資金を回す形で地元の名士としての政治力(交渉権)を身に付け、それで議会的に言い分を通そうとする、大地主単位での政治組織化に向かうような、その遠回しの格上げ運動が始まってしまった、ここが幕府にとって深刻だったのである。

元禄~宝暦(ほうれき。ほうりゃく)あたりの江戸時代の中盤から後半にかけて、幕府も藩も財政難に陥る迷走を続けるようになった中、身分制議会の支えであったはずの、現場の事情と噛み合わない田畑永代売買禁止令が振るわずに、とうとうそれが崩壊し、そういう流れになってしまったからこそ、この時も血族意識を一生懸命にそらす場凌ぎ政策がされている。

田畑永代売買禁止令が結局失効し、下同士の格差間での、農地の保有地権の売買(庶民同士の農地権の移管。力のあるものが囲い込むエンクロージャ)を事実上黙認する他なかった幕藩体制の状況はすなわち、豊臣秀吉がせっかく敷いてくれた、下同士の勝手なうちのめし合いの閉鎖上下統制を上がやめさせ、庶民同士でも助け合いながら経済発展していけるための議会的な一地一作人体制(庶民への保有地権の保証体制)を、幕府は結局活かし切れずにとうとう壊してしまったことを意味したのである。

今まで近世史を、教義史・裁判権史・議会制史・血族史という観点でろくに説明されてこなかったために、豊臣秀吉の身分再統制はまるで「ただ上のいいなりにさせるために、ただ下に権力を向けた」程度の、今の公的教義のような口ほどにもない低次元な見方しかされてこなかった。

西洋のプロテスタント運動の方でも顕著になっていた社会問題と同じく、庶民側の生活保証権(市民権=商工業組合での保証と投票参与権、または農地権=自由保有地権)を一度失ったら最後の、財産所有権も相続権も永久的に失われてしまうことになるような、上の不当のせいでそれを維持できた側とできなかった側との対立(荒らし合いと奪い合い)を延々と繰り返さなければならなくなる、長らく放置され続けてきたその格差問題を大幅に改善するための、その民権的な保証制度(雇用問題)のための身分再統制であったのが実際なのである。

それは士分特権側(家臣たち)の家長保証権でも同じ話で、そのただの荒らし合いと奪い合いの繰り返しをやめさせるための、等族社会化(法治国家の議会制の確立)を誰かがやらなければならなくなってきていた中、中央にしても地方にしても、それを議会的に公正に保証するという基本中の基本が、どこも織田氏ほどできていなかったのである。

足利義昭と織田信長の対立が決定的になった時に、義昭派(旧室町体制支持派)として織田氏に反抗した連中のその化けの皮はまさに、深刻化していたその半農半士対策など何も考えずに

 自分たちに優位な保身(待遇)のためなら、下々は今まで通りいくらでも苦しみ続けていればいい

 自分たちに優位な保身(待遇)のためなら、今まで通りの低次元ないがみ合いを続ける、だらしない組織(国家)のままで、これからもあり続ければいい

 自分たちのせいにさせられそうになったら、今まで通りうやむやに仮想敵(共倒れの劣情共有をし合おうとしない対象)のせいにし合えばいいだけのこと


といっているのと同じ、上としての等族義務(議会制の確立・組織理念・国家構想)を放棄・否定し合ってきた、いつの時代でもありがちなその実態は現代でも、そういう所が目立った際の、よその国やよその商社などを笑いものにしている場合ではない所になる。

織田信長からいわせれば

 「たとえ本家筋から認知もされなくなった元名族の末端の、大勢の下っ端の半農半士たちだろうが、上の務め(等族義務)としてそれらをまず救済的に奨励・収容(生活権保証)もろくにできない内から、何を偉そうに血族の代表家長(家臣団)の首座や次席だというのだ!」

 「何の議決性ももち合わせておらん、人の上に立つ資格(品性規律の手本・育成理念の見習い合い)など一切ない、ただ下品で汚らしいだけの身の程知らずの古参主義者(指標乞食)どもは、たいがいにせよ!

なのである。

織田信長の、羽柴秀吉と明智光秀の抜擢という人事改革は、それもできていない上層気取り(家長気取り)の中央関係者どもを、まさにあてつけで思い知らせた象徴でもある。

上ならそれをまず反省(自己等族統制)しなければならないにも拘わらず、こうしたあてつけ人事に口ほどにもなく逆上(気絶・思考停止)を始めるような、ただ古参主義(劣情)にしがみついているだけの格下げ(戦力外通告・国家構想外扱い)されるべきだらしない無能(偽善者)どもへの、痛烈な宣告の象徴でもあったとも、いえるのである。

足利義昭と織田信長の対立で上同士で揉めても、なんだかんだで下々の恩恵はまた別で、尾張-美濃-近江-山城-摂津と街道整備が進められた、織田氏が敷いた旗本吏僚体制による公正な産業政治は簡単には崩壊しなかった大きな理由も、そういう所なのである。

戦国前期の権力闘争に敗れて、士分(等族義務の議席)から弾かれる形となった末端の半農半士たちは、愚かだったから争ったというよりも、だらしない上の利害闘争の繰り返しのせいでろくな生活権が保証されず、貧窮するばかりだったから閉鎖有徳と結託せざるを得ず、それで自治権闘争をしなければならなかった、上のせいでそう低次元化(劣悪性癖化)してしまったというのが、正確なのである。

熱田神宮と津島神社との協力信用関係の、産業改革のきっかけとなっていた織田氏では、閉鎖有徳撤廃の謄本的な楽市楽座などの物流奨励政策や、不要な城や関所(有徳運動の根城)の破却、政局の築城工事、街道整備のための工事の働き口などによる、地域ごとの賃金保証(代替保証の債権=裁判権)も公文書(寺社奉納の誓願書)でしっかり管理されるようになったから、士分の正規と非正規の選別分離もできるようになった。

豊臣秀吉が上から順番に恫喝(敷居向上の姿勢狩り)しながら下々を奨励するために

 

 「自身は最下層出身(半農半士の中のさらに下っ端出身)であり、それらの味方である」

 

のあてつけの強調ばかりしたことの印象が強すぎるために、現代人はかなり誤解しがちな所になるが、どうにか時代を乗り越えて士分待遇を維持できていた者たちからは、「どうせ皆が名族の末裔」というあてつけの意味は、よく理解していた。

 

織田氏の旗本吏僚体制による、公正な優れた前期型兵農分離(閉鎖有徳狩り・身分再統制・公務側と庶民側の選別区別の先駆け)が示されるまでは、各地域で閉鎖有徳と結託して勝手な上下権力を閉鎖的に構成し続け、その閉鎖社会の中の権力構造こそが全宇宙であるかのように視野が狭ばるばかりだった半農半士たちは、士分と非士分の認識もできなくなっていた所も多かった。

 

各地にしがみつくように土着していた国衆(領邦君主気取り、諸侯気取りの小口の武士団)たちと、半農半士たちとの地縁をいったん切り離すために、貫高制で保証する形で武家屋敷(政局城下の旗本扱い)に強制収容(地縁特権を巻き上げ)し、今までそれらとの主従関係をもっていた半農半士たちも改めて、常備公務軍に入れてもらえる側と、入れてもらえない代わりに農商業改革による生活権の保証が充てられる選別も、公正にされるようになった。

 

戦国後期になっても血族系譜は、資産的な特権・地位・議席をどうにか維持できていた、各地の名族の上層たちの間では、本家筋としての家格・格式の縁組重視は続いたが、地位を維持し得ている上だけの話になりつつあった。

 

今までは地縁にしがみつく下の閉鎖有徳社会も、地方議会で改められる風紀(視野の見直し)が戦国後期に強まっていくと、どこも似たようなものだった家来筋たちや半農半士たちも、血族は立身の際の身だしなみのための出身紹介くらいに見るようになった者も、次第に増えるようになった。

 

現代の著名人だったり、例えば、有名ではなくても大企業と取引の縁が強いようなちょっとした裕福な社長や役員が、どの都道府県の市町の出身なのかの、そこの山や海で育った感覚のような挨拶みたいに、下の間の血族意識も変わっていった。

 

ちょっとした社会的地位があるような人が「ウチは実は、江戸時代から代々続いている、何々家(武家や大手商家や名字帯刀の庄屋)の末裔と言われていて、家伝書や家宝も伝わっている」と付与的な話になると「そうだったのか。やはりそういう由来ある名士の家系というのは、まず人脈から他とはちょっと違うのかな」といった感覚に、戦国後期もなり始めていた。

 

社会的地位といえるようなほどの立場でもない、家伝や家宝も大して伝わっていない大半の人が、自身で調べた先祖の系譜の話をしても、そこに元々興味がある訳でもない人がわざわざその真贋の言い合いなどしようともしないのも、同じである。

 

名族の中で、畠山氏諏訪氏などが顕著だったが、源氏や平氏の発祥としての格式よりも、その地方のための格式序列として、地位の高い者同士の縁組重視を強めていた所もある。

 

要するに地位の高い者同士の身分的な縁組でさえあればいいのだから、200年も300年も経過すれば、家系の発祥が源氏の名族だったとしても、その間には別の系譜の源氏や、また平氏筋や貴族筋の上層との縁組もいくらでも行われる、だからその分家筋たちが例えば本家筋とケンカ別れするようになった時に、それを根拠に別の源氏の系譜や平氏筋の家系として派閥対立的(外戚闘争的)に名乗ることも、分家筋ほどいくらでもあったのである。(身分再統制の歴史)

 

例えば徳川一族で顕著だったように、本家筋(江戸の将軍家)や御三家(尾張公、紀伊公、水戸公)は、かつての松平一族の上層間や、親類扱いされた譜代たちを中心に縁組をしていく形で、ただし近親婚過ぎないように配慮されながら、徳川一族のそれぞれの家系の血脈を強調していく形が採られたが、そんな血族統制は戦国後期までには、どこも大してできていた訳でもないのである。

 

その問題を再発させないように江戸時代の後半までに整理され、寛政重修諸家譜(かんせい時代のちょうしゅうしょかふ=家系登録)という戸籍謄本的な明記化がされることになるが、一地一作人体制が崩れて、下に力をもたせない防波堤のためばかりの等族義務の本分から外れた身分制議会など半壊していたからこそ、その諸家譜の記載がない側はさも、名族の末裔ではないかのような、差別されるべき人種であるかのような、大地主対策のための印象付けが強くされた。

 

のちの差別的な非人問題の原因となる、職業差別的な劣悪慣習をやたらと強調するようになったのも、行政が半壊していた江戸後半からだと筆者は疑っている。

 

初動からつまづいた明治政府などは、本来は四民平等で非人差別の意識などもたせないための身分再統制もしなければならない、その等族義務(社会的指導責任)があったはずが、失策の際の庶民の怒りをそらすために、それを逆に悪用(愚民統制のための道具)してその問題をわざわざ助長させ、わざわざ深刻化させたのは間違い所になる。

 

その低次元な手口は今の公的教義も同じ、何の議決性(法治国家としての育成理念ための品性規律)も結び付かない猿知恵(世の中の正しさとやらの指標乞食論・劣情共有)を植え付け続け、低次元な敷居の怒りの向け合いをさせ続ける古典的な構図も、まさにそれと全く同じなのである。

 

そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった整理の見方で、まずそれも疑い見抜くこともしてこれなかったにも拘わらず、外圧(指標乞食主義・劣情共有)任せにやたらと偉そうにケンカ腰にうちのめし合おうとすることしか能がない分際(偽善者)が、人間性(人文性・敷居維持の落ち度狩り)社会性(啓蒙性・敷居向上の姿勢狩り)の議会的な向き合い方など、してこれた訳がないのである。

 

半農半士の下っ端上がりを強調した羽柴秀吉と、名族土岐源氏を名乗った明智光秀が、そこに顕著に正反対だったことは、織田信長の内々の計画だったと筆者は見ている。

 

こうした形を採っておくことで、

 

 たとえ半農半士の下っ端出身の不利な者でも、これからは努力工夫次第では、立身の機会もある世の中に変えていく

 

という強調の一方で

 

 中途半端な分家筋出身の新参たちであったとしても、上としてのやること(等族義務)に積極的に務めれば、上層の候補生扱いがされる機会も十分にある世の中に変えていく

 

という意図の象徴だったと、筆者は見ている。

 

今までの旧態慣習的な血族意識にただしがみついてばかりの、中央関係者どものこざかしい牽制を織田信長は跳ね返しながら、それらも新たに仕切り直されようとしていた(合議制の確定作業に入り始めた)、その真っ只中に本能寺の変が起きたのである。

 

今までの血族意識も変化が出始めていた中、浄土真宗たちの喚起による見直し、織田氏と協力関係の法華宗たちによる見直し、そして外国教義のキリスト教の流入による、今までの聖属教義の見方も明らかに変化していた所も、まさに日本の大転換期だったといえる所になる。

 

これらの背景を踏まえながら、熱心なキリスト教徒となった明智光秀の娘の細川ガラシャ(明智たま。細川忠興の妻)の存在も、それがどんな意味があったのかなど、本能寺の変に向かうまでの様子について、これから説明していきたい。