本能寺の変とはなんだったのか18/95 2022/02/04
明智光秀がどのような立場、どのような経緯だったのかに移行していきたいが、どのような状況だったのかも重視していく。
まず 1568 年に尾張・美濃併合を果たして評判になっていた織田氏は、中央から逃れた足利義昭ら中央関係者たち(細川氏に代わって中央を専横するようになった三好派に追われた)の要請を受け、京(山城)に乗り込むことになる。
織田氏のその中央進出に、妨害に動いた近江南部の六角氏と、山城に居座り続けていた三好氏の両氏は、織田氏によって排撃される。
中央進出の 1569 年以後、織田氏による中央再統一(裁判権改め・中央の等族議会制の再整理)によって目覚しい復興に向かい、1571 年には早くも都市経済が取り戻されるようになった。
織田氏の優れた敷居によって、中央のあり方も次の時代に向かう流れも明らかになると、足利義昭は実権は皆無でも、対抗意識的に武家の棟梁(日本全体の代表家長)の自負をますます強めるようになり、事実上の裁判力(教義指導力)の主体であった織田信長との間は、険悪な関係に向かっていく。
織田氏の旗本吏僚体制(等族議会制・身分再統制・前期型兵農分離)の敷居によって、これまでの旧態権威がどんどん改められていく様子が顕著になるたびに、両者の関係は悪化していった。
旧態の室町権威のやり方では再起不能だった、できないからこそ変えられていった、だからこそ中央の都市経済の姿も取り戻され、中央関係者たちの生活権も回復するようになったのである。
それは同時に中央近隣で、遠回しの親織田派と、不満をあらわにするようになった反織田派とで、二分していく結果にもなっていた。
高次元側である織田信長が、足利義昭のことをあなどっていたというよりも、足利義昭の方が低次元な解釈しかできずに、勝手に屈辱と受け取りながら段々とケンカ腰になった、だから織田信長が言い返すようになった、というのが実際と見てよい。
旧態権力者であっても織田氏に協力的な姿勢さえ見せてくれれば、ただの名族高官主義(指標乞食論=時代遅れのただの古参教義)でやたらと偉そうに威張り散らすことしか能がないような、公的教義と大差ないような劣悪姿勢さえ控えてくれれば、織田氏から見た新参たちにはいったんの格下げはあっても、遠回しの高待遇で扱う方針も見せている。
その好例として、織田氏のその様子に、格下げ覚悟で臣従した細川昭元(中央の最有力だった細川家の本家筋)も、協力的な姿勢さえ見せてくれれば、名族高官主義で威張り散らすようなことさえしなければ、織田氏から見た新参として少し優遇気味に扱われている。
近江の六角義賢(ろっかく よしかた。佐々木源氏)と同格で、しかしすっかり衰退してしまった京極高佳(きょうごく たかよし。佐々木源氏。六角氏と並ぶ近江のもうひとつの代表格の家系だった)も、協力的な織田氏への臣従であったため、少し待遇の良い保護を受けている。
尾張の実権など皆無になっていた、その元代表の家系であった斯波義銀(しば よしかね)に対してもそこは同じで、とりあえず協力的な姿勢であれば織田信長は、決して悪いようにはしない保護と、その後の待遇も配慮していた。(等族義務)
しかし斯波義銀は、尾張再統一(地方裁判権の確立)のための議決性を整備していくという、代表家長としての示し合いをしてこれなかったにも拘わらず、保護してもらっていた織田氏に背信行為を働いたことが発覚し、追放処分となった。(のち織田信長に謝罪し、再び保護されることになる)
足利義昭は、足利家(室町の代表家長)も細川家(足利一族。室町の執権)も室町体制を建て直すことができなかった結果として、斯波家(足利一族)の有力家臣で、越前、尾張の支配を交代するようになっていた朝倉家や織田家に頼ることになったのである。
その時点で遠回しに
「自分たち(室町旧縁の権力機構)では、中央再建(等族議会制の再構築・裁判権改め)ができませんでした」
といっているのと同じであり、それができないのだから織田氏に肩代わりを委託した以上は、家格・格式の見直しのことで多少の不満は出てきても、後事を託す形を採らざるを得ない所になる。
織田信長としても、今後の中央政権に向けた前例手本のための公文書(誓願書)の作成とその署名に、旧態者たちもそれに協力的な姿勢を見せてくれれば、特に織田氏から見た世俗側(武家側)の新参筋においては、いったんの身分再統制(総格下げ後の、家格・格式の見直し)の後は、決して悪いようにはしなかったのは間違いない。
織田氏に後事を委託したことによって、足利家を代表家長(武家の棟梁)とする室町政権は終焉することになったとしても、協力的な姿勢を続けてくれるのなら新政権後には、足利義昭は兄の足利義輝の無念も考慮して、有力諸侯扱いが予定されていたと見てよい。
ところが思った以上に高次元な敷居で、新政権を制定できることも実際に織田信長に見せ付けられてしまうと、後になってから足利義昭は急に慌てて、室町政権としての中央の実権を回復しようと、躍起になり始める。
足利義昭は、これまでの織田氏とは協調路線の連携(公文書の連署)を急に止め、中央(山城・京)近隣のことでさも自身に議決権(裁判力・議会力)があるかのように、織田氏に反感的な発給状(はっきゅうじょう。権力者による指令書や、公認書、誓願書などの公文書のこと)を乱発するようになった。
これによって、中央関係者の下士官たちや、都市の勧進(商工業組合の庶民側の親方・責任者たち)や、中央の各地域の名主(なぬし。みょうしゅ。庶民たちのまとめ役)たちも、足利氏の布令・指示に従えばよいのか、それとも実務者である織田氏に従えばよいのかで、困惑するようになった。
織田氏のおかげでせっかく100年以上ぶりに、中央の都市経済の目覚しい再興に向かい、ボロボロだった朝廷の建物も立派なものに一新され、足利氏の居城の二条城も改装され、皇室も廷臣たちも貧窮することのない安定的な生活が取り戻された、その矢先でのことだった。
足利義昭のやっていることは、せっかく中央が再建され、次の時代に向かおうとしていた流れをわざわざ壊し、戦国前期に巻き戻そうとしているようなものだったのである。
織田氏の敷居(身分再統制の基準)についていけずに、旧態風紀にしがみついて反感的になる中央関係者が増えていた一方で、その旧態依然をいつまでも通す時代ではないことを思い知り、遠まわしに織田派となっていた有志の中央関係者たちも、出てきていた。
そんな中、廷臣の上層のひとりで、どちらかというと織田派だった近衛前久(このえ さきひさ)も、足利義昭のそういう所にかなり怒っていたことが窺える。
足利義昭は、中央関係者の中で少しでも親織田派の傾向が見られれば解任・降格の報復人事を煽り、そして反織田派への優遇人事を急に煽り始め、近衛前久の肩書きも巻き上げる工作にも動いた。
織田氏の中央進出後の様子に気まずいばかりだった近隣諸氏の間でも、その敷居についていけないことに不都合を感じ始めた低次元同士が、足利義昭が煽る反織田派(身分再統制への反抗派)に慌てて結託(劣情共有)し始める、という現象が起きた。
化けの皮を剥がして回る高次元側 = 敷居向上(育成理念)の議決性(法治国家の品性規律)の手本ができている側 = 格下げする側
と、今の公的教義と大差ない、ただ下品で汚らしいだけの猿知恵(ただの指標乞食主義)しかもち合わせていない
化けの皮が剥がされることを恐れる生き方しかしてこれなかった低次元側 = 主体性(議決性)など皆無な外圧頼り(ただの指標乞食主義)のだらしない結託(劣情共有)しかしてこなかった側 = 格下げされる側
の構図ができあがり始める、やっていける側と、やっていけなくなる側がはっきりしてくる競争過熱期(改革期)における典型的な社会現象だったといえる。
世俗側だけでなく聖属側の廷臣たちも「教義面でまず中央を支え、そして地方も良い方向に導くよう喚起できなければならない立場」として、本来のそのまとまり(議会制の再構築)を手本的に見せるという基本ができていなかった、そこを織田氏の旗本吏僚体制の敷居で見せ付けられ、すっかり気まずくなっていた。
それについていけずに、あせるばかりになった錯乱気味の足利義昭は、同じように反織田派に傾き始めていた気の小さい、今の公的教義と大差ないだらしない低次元な連中を煽るようになったため、織田信長はあきれながら抗議するようになり、しばらく言い合いの状態となった。
協調路線だったものから険悪化していく足利義昭と織田信長との関係に、中立的だった中央関係者たちも仲裁に入る形でいったんは和解されたものの、対立は即座に再燃した。
その仲裁運動には、まだ織田派として明確化はしていなかったが、織田信長とは懇意にしていた細川藤孝と明智光秀も、参加していた。
そんな中で、織田信長の内心をかなり怒らせるような、下々を大いに失望させる原因、日本そのものの破壊に繋がりかねない「禁じ手」を反抗派が始めたことが、決定的な対立構図となった。
結託(劣情共有)し始めた不真面目な中央関係者らが、正親町天皇(おおぎまち)に織田信長のことを悪臣の朝敵だと上奏し始め、綸旨(りんじ・陛下直々の勅令)を得ようと動き出す始末の、まさに下品で汚らしいにもほどがあるそのあまりのだらしなさに、織田信長の内心をとうとう本気にさせてしまった。
事態を憂慮して室町政権(世俗政権の仕切り直し)の手助けをすることになった、かつての光厳天皇(こうごん)と同じく正親町天皇も、賢明な人物であったため、建武の反省からもそこは慎重だったのが幸いした。
泣きつくばかりの周囲を正親町天皇はとりあえず言い分だけ聞くに留まり、そう簡単に皇意を表明することもしなかった、そこに理解があったから、皇室を巡る擁立天皇問題のような大事には至らなかった。
織田信長に不都合を感じたからといって、足利義昭と結託(劣情共有)するようになった一部の廷臣たちが、自分たちで議決性を以って解決しようともせずにいきなり陛下に泣き付いて困らせるのみの、もうこの時点で大いに道を踏み外す、人の上に立つ資格(人のことを合格・否定する敷居の議決権の等族資格=教義指導力の品性規律)など微塵もない大問題行動なのである。
自分たちの課題(敷居向上)は自分たちで解決する(議決性を構築する)という、その最低限の手本も皆無なこの低次元どもがやっていたことは、中央関係者たる忠君・忠友の姿勢(国際人道観の手本のため、次代たちの手本のため)の信用を大事にする姿など微塵もない、それを放棄し合っているだけの悪例を巻き散らかしているだけの迷惑千万な法賊行為そのものなのである。
陛下に上奏する時というのは、あくまで現状とその見通しを報告する時か、解決(敷居向上の改善)に確実に向かっている様子を報告するといった、心労の負担を決してかけない、臣下としての務めが大前提が、本来なのである。
まずは臣下が等族責任(議決性)を以って良い方向に進んでいくように普段から努力工夫し、時期を見て、騒乱の終結宣言や和平交流宣言などを陛下して頂き「心労や負担のご迷惑を決してかけてはならない」大前提で、見守って頂くという形を、本来は採らなければならないのである。
陛下に「お願いごと」をする時は、奥の手の最終手段なのであり、織田信長からいわせれば
「少々のことで泣き言をほざきながら、いとも簡単に軽々しく皇威を前面にもってこようとするのは何事か!」
「廷臣たちは、陛下を困らせながら綸旨(勅書)をただねだり、それを軽々しく乱用することしか能がなかった建武の時の大失敗を、何も反省(自己等族統制)できておらんではないか!」
の低次元同士の典型的な結託(議決性など皆無なただの劣情共有)のだらしなさに対する、怒鳴り散らし所である。
まず自分たちの課題を自分たちで解決しようともせずに、まるで保身のための防災用具であるかのように、いとも簡単に軽々しく安っぽく乱暴に皇威(源氏・平氏・藤原その他の、日本の大元の代表家長の威光)を前面にもってきて乱用しようとうとする時点で、
「自分たちの保身のためなら、日本そのものが壊れても構わない」
といっているのと同じ、法(等族議会制)への向き合い方そのものの、まさに等族義務(上としての手本)の放棄なのである。
のち江戸時代に、武家の棟梁という家長(徳川家)への向き合いの心得、そしてそれぞれの家系の家長のあり方の心得として、かなり簡略化されてしまった「孟子主義的な武士道観」が強調・徹底されるようになったのも、まさにこういう所からなのである。
小田原城の話で少し先述したが、自分たちの強みの奥の手の切り札は、普段は準備要領的な余力で当たることを前提にできているから、それが自分たちにとっての主体性・主導性(育成理念)ある強みの切り札といえる、信用的な心強さに得るのである。
それができていなければ「それに頼ることができなければ何もできない」弱みの急所でしかない、最後の砦に頼り切っているだけのだらしない低次元側になってしまい、そこが等族議会制(育成理念・裁判権の敷居・組織構想)における力量差となってくるのである。
孫子の兵法でも、まずそういう所から自分たちと相手を比較し「相手を攻める前にまず自分たちの急所(できていない)を改善せよ、それから相手の急所(できていない)をまず攻めよ」という基本中の基本を指南している所は、上の等族義務(育成理念)の指南としての荀子・韓非子の指摘も、そこは同じなのである。
荀子的独裁制(敷居向上の手本の見習い合い)など皆無な、合議制(共有認識)をただ悪用(劣情化)しているだけの低次元な敷居維持(保身のためだけの偶像権威)の再確認(ただの劣情共有)を延々と続けてきただけに過ぎない、
ただうちのめし合い、ただ従わせ合い、ただ失望し合うのみを繰り返すことしか能がない公的教義と大差ない実態
を、普段から疑い見抜くことをしてこれたのかどうかが、そうした差となっていくのである。
今の公的教義と同じ、政教分離(姿勢狩りのための教義と、落ち度狩りのための道義的権力の、議会的な調整)などできたことがない分際(偽善者)に、今後の等族国家(法治国家としての議会制の敷居)の後事(国際人道観・公務公共)の何をどう信任すればいいのかの、決定的な動かぬ証拠なのである。
日本の自力教義の主導を浄土真宗たちに完全にもっていかれ、公的教義の体裁(その管理者である廷臣たちの立場)など最悪だった中、だらしないにも程がある廷臣たちのその、ただ陛下を困らせることしか能がない、見られてはならない大失態を織田信長に見られてしまったのである。
そのだらしないことこの上ない、自分たちの保身のためなら陛下をいくらでも困らせても構わないとする末期症状は、法(議会)に対しても、あらゆる物事に対しても、その向き合い方は
自分たちの保身のための防災用具(落ち度狩り)のみに利害利用することしか能がない(=典型的な指標乞食主義)
高次元な和解(敷居向上)を前提に競うことと、低次元な侮辱・挑発(気絶・思考停止・敷居低下)の区別もできたこともない、何も大事にしてこれなかった実態そのもの
なのである。
自分たちで政教分離(育成教義・敷居向上・姿勢狩り : 道義権力・敷居維持・落ち度狩り の仕切り直しの整備)ができたこともないということは
そうなった後になってから、ただ騒ぎ合い、ただ怒りを向け合っても、もう遅い
という愚かさを繰り返さないための
冷静さ慎重さ丁寧さの議決性(育成理念)を以って、普段から課題(敷居向上)に向き合っていくという基本
を大事にしてこれた訳がないのと同じ、それは
手遅れになるまで全て外圧任せ(指標乞食任せ)に放任し続け、そうなってから腹いせの怒りを向け合うことしか能がない
そのだらしなさを疑い見抜くことなどしてこれなかったのと同じ、それを知覚(自己等族統制)できたことがないのと同じである。
その基本中の基本の最低限も教えられたこともない比叡山・延暦寺(公的教義)は、何かやらかし次第に言い逃れ無用に踏み潰す、決定打になったといえる。
法律(議会的有識力)とは、法治国家としての議決性(敷居向上のための、人文性と啓蒙性の整理)の品性規律(育成理念・組織構想)を反映させる手本姿勢のため(そこを確認し合うため・見習い合うため)のもの
なのか、それとも
法律(議会的有識力)とは、その主体性(人文性と啓蒙性の整理=育成理念の見習い合い=国会議事堂の元々の目的)を放棄し合うために劣情共有し合い(指標乞食主義通りになり合い)、それに従わなければ調子に乗り合いながら、腹いせにうちのめし合うためのもの
なのか、その高次元側と低次元側の違いも疑い見抜くこともしてこれなかったということは、猿知恵(末期症状)を猿知恵(末期症状)だと疑い見抜けたこともないのと同じ、人の上に立つ資格(事態を収拾できるだけの育成理念の手本)などないのと同じである。(荀子・韓非子の指摘)
足利義昭が低次元な取り巻きを囲い込み始め、二条城に復帰させてもらった織田信長に恩を仇で返すような反抗に出る形でその対立も決定的となると、中央関係者たちも、旧態派(足利義昭派)なのか、改革派(織田派)なのかの姿勢を表明しなければならない状況となった。( 1572 年に顕著)
険悪になる前までは、足利家と織田家は協力関係という形が採られていたため、織田家が敷いた等族議会制(旗本吏僚体制・身分再統制・前期型兵農分離)の事実上の傘下も明らかになっていた中央関係者たちも、表向きは足利家の旧縁筋と、織田家筋との協調路線という形が採られていた。
しかし織田氏の敷居についていけなくなった連中は、今後の日本の政体(議会制)のためなどではなく、ただ保身のためだけに反織田派(足利義昭派=身分再統制の反対派)に走った者も少なくなかった、織田信長から見ればあきれる他ない、化けの皮の露呈だったといえる。
上としての等族義務(今後の日本を背負う社会的責任・手本的責任)など何も考えてこなかった、中央再統一などできもしない低次元な集まりが、ただ格下げされたくない(領地特権のいったんの返上に応じたくない、武家屋敷に強制収容されたくない)というだけのだらしない理由のみで、旧態のまま居座り続けようとする、無神経・無計画な結託(ただの劣情共有)を、起こし始めたのである。
明智光秀が本能寺の変を起こした時でも状況的には同じことがいえるが、織田信長の議会制(裁判権)の敷居を否定・成敗するという以上は、それを代替できるような武家法典(手本家長としての御成敗式目)の整備ができなければならないのが、本来の上の等族義務(手本家長の姿勢)というのが、地方再統一(議会制・分国法・家訓の仕切り直し)が強まった戦国後期の特徴なのである。
前後するが関ヶ原の戦いも徳川家康が
「太閤(豊臣秀吉)が亡くなり、豊臣政権の統制維持も困難になってきていてこのままではまずいから、その役目を代行できる我が徳川家が、今後のその主導を請け負うことにする!」
とまず、議会制を意識した立候補の姿勢で乗り出した上で
「全国の諸氏たち(各地の有力大名たち)は、東軍徳川派か、西軍豊臣派か、表向きだけでもいいから議会的(選挙権的)にそれを表明せよ! 中立は許さず西軍豊臣派と見なす!」
と後で言い訳させない挑み方がされているが、それもまずは織田信長が等族議会制(法治国家の品性規律)のあり方を徹底させる、今後の日本のための貴重な前例を示してくれたからこそ、それも可能にできたといえる。
そこをよく理解できていたはずの明智光秀の本能寺の変とは、そこをどうするのかも明確化できていない内から起こした、突発的な苦し紛れなものだったことは、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、池田恒興ら重臣たち、また細川藤孝、筒井順慶(じゅんけい)、高山重友、中川清秀ら有力寄騎たちも、そこは共通してそう見ていたのも間違いない所になる。
織田信長と足利義昭の対立の
「お前らは日本の今後について、織田家(高次元な新政権派)か足利家(低次元な旧室町派)か、どちらを支持するのかはっきりせよ!」
から始まり、一時的には大規模化するも反抗側は実質3年ももたなかった反織田連合戦は、政権交代的な事情としてはまさに、賤ヶ岳の戦いや、関ヶ原の戦いの前身だったといえる。
浄土真宗たちだけは単独でも少なくとも6、7年間くらいは何度も殴り返すことができていたが、その他の地方裁判権止まりの口ほどにもない寄せ集めは、織田氏に一度でも本体を粉砕されてしまえばどこも3年ももたずに総崩れを起こすような、織田信長からいわせればだらしない集まりでしかなかったのである。
本能寺の変を起こした明智勢を、羽柴勢が制圧後には、織田信長が作ってくれたその貴重な前例の流れから、これからどう日本を牽引していくのか、中央としてのその代行の代表格は誰なのかの白黒をはっきりさせるために行われていった、清洲会議と賤ヶ岳の戦い(羽柴派と柴田派の戦い)も、織田信長と足利義昭との議会的(総選挙的)な対立が、しっかり活用されているのである。
下士官以下の地位の低い下々は、上同士の展開も早くなっていた戦国後期の情勢を、いつも中途半端にしか理解できていないでいたが、目まぐるしい上の認識が下に行き渡るまでには、どうしても時間差が出てくる所になる。
ただでさえその立場でない下がそこを理解しようにも、孟子的合議制が改めて敷かれたその後に、荀子的独裁制の奨励もある程度されるものでない以上は、その理解にもどうしても限度が出てきてしまいがちな所になる。
下はともかく、武家法典(家訓・分国法・地方裁判権)をどこも意識するようになっていた近隣諸氏は、それができていない分だけ気まずくなる一方だからとぼけていただけで、本来の上の務めとして上層ほど、そのくらいの最低限の認識くらいはできていたのである。
上としての等族義務(議決性)の指導ができていなかった分だけ
「お前らは、ただ上(自分たち・古参)に甘くただ下(外・新参)に厳しいだけの、地方裁判権止まりの低次元側に過ぎん!」
「格下げ覚悟でさっさと織田家に降参せよ!」
と、近隣諸氏は織田氏の敷居でそれを宣告されてしまった。
上の間での敷居比べではもう、そのような気まずい状況になってきていた中で、進退もはっきりさせられない分だけ、苦し紛れな言い訳(劣情)の塗り固めが強まっていくのみ、それが失望させ合う低次元化に向かうばかりなのである。
上から順番に制裁(下から順番に救済)できている分だけ、下々にも品性規律(育成理念)を教えることもできる、等族義務(上としての育成理念の手本姿勢)ある高次元側と、それができない低次元側との議会的(国家構想的)な差が、戦国後期に大差となって現れた部分になる。
完全に再起不能に陥っていた室町体制は、六角氏(近江・佐々木源氏)、京極氏(近江・佐々木源氏)、土岐氏、若狭武田氏、越前斯波氏、武衛斯波氏(尾張の斯波氏)、細川氏(中央執権)、河内畠山氏、能登畠山氏、赤松氏、山名氏、関東上杉氏(山内家、扇谷家、犬懸家、託間家)、関東足利公方(くぼう)、奥羽探題(おううたんだい)斯波氏ら、どれもその有力家臣たちにその立場を代行される形で、衰退し切っていた権力機構の実態をざっと見れば、一目瞭然だった。
それを再建できるほどの、織田信長と張り合えるような議会制(教義指導力)を、今頃になって足利義昭が再整備できる訳がないことも、明らかなのである。
その最後の機会だったのが、足利義晴(義昭の父)、足利義輝(義昭の兄)の時だったのである。
その時に中央関係者たちは、命がけでその流れを支えることなどできなかった、すなわちそれぞれの旧態派閥の不都合の折り合いを自分たちで仕切り直せずに、その最後の機会(中央再統一)を、またしても自分たちでうやむやにしてしまったのである。
そのように再建の機会があっても、中央関係者たちは自分たちでその機会を潰すことしかしてこれなかった、だからこそ今度こそ、そうさせないために織田信長が、中央に乗り込むことになったのである。
織田信長からいわせれば
「中央の都市経済が100年以上ぶりに取り戻された今になって、裏で我が織田家に牙を向けるようになった中央関係者らは、だったらなぜ義輝公が懸命に室町再建に取り組み始め、その手本姿勢に諸氏も尊重し始めたあの最後の機会に、中央は一丸となってその流れを命がけで支え合い、それを守ろうとしなかったのだ!」
「中央関係者たちがあろうことか、皇室の存在も将軍の存在も、派閥都合の保身のためのただの防災用具であるかのような無礼不遜な見方しかしてこなかった、そこに何ら反省(自己等族統制)などしてこれなかった、動かぬ証拠ではないか!」
「有志たちと下々を失望させ続ける低次元な人間関係しか構築してこれなかった、一目置けるような議決性を示せたことがない、格下げされて当然の公的教義(その聖属の管理などできていなかった廷臣ども)と大差ない中央関係者どもが、今頃になってできもしない室町再興派(足利義昭派)に、何を荷担しようとしておるのだ!」
そうやっていつまでも旧態のしがらみの不都合(指標乞食主義の劣悪性癖)に捕り憑かれ続けるからこそ、その禍根を残さないためにも、いったん全て横並びに再整列(武家屋敷に強制収容)し、全て新しく身分再統制し直した方が、遥かに早かったのである。
幕末の倒幕戦による、江戸政権の解体運動と明治新政府の表向きの流れも、状況としてはまさにそれと同じなのである。
それが実際にできる高次元な織田家によって、不都合な仮想敵(ただの指標乞食論)で結託(ただの劣情共有)することしか能がない低次元な反抗の仕方で、この後におよんで保身に走ることしか能がない、それがあぶり出されるように化けの皮が剥がれていった中央のだらしない実態は、あきれる他ないといえる。
当初はなんとか和解させようと、その仲裁役をしていた細川藤孝らも、「今頃になって、足利義昭に分(議会力)があるかのように、中央再興の立役者であったかのようにその肩ばかりもつようになった中央関係者」たちに内心ではかなりあきれていたといわれ、共にそれらの仲裁に当たっていた明智光秀も内心では、その様子にかなりあきれていたと見てよい。
細川藤孝の兄の三淵藤英(みつぶち ふじひで)は、衰退したといっても足利家の旗本の重役の、その家長であった自負は強く、足利義昭に味方することになってしまった。
しかし和泉守系(有力家臣の細川元常の家系)を継承することになった弟の細川藤孝は、兄に比べればだがいくらか気軽に、その命脈を理由に織田派を表明することができた。
さらには、かつての権威など衰退していた京兆家(けいちょうけ。足利家の親類の側近として最も力をもっていた、細川家の本家筋のこと)の細川昭元が、格下げ覚悟で織田氏に臣従することになったことも、細川藤孝が織田派を表明しやすくしたと見てよい。
両者の険悪化をきっかけに、中央関係者の中の有志たちの間ではもちろんのこととして遠回しに織田派を示し始めた者も多かった、そこにムキになった(家長を気取っておきながら、だらしなくも気絶・思考停止した)足利義昭は、地位こそ低いが有望視されて幕臣扱いされていた明智光秀を巡って、入札合戦のような取り合いを、織田信長としている。
中央関係者の中で、織田派への鞍替えも顕著になっていたことにあせり、成り振り構っていられなくなった、兄の足利義輝とは大違いの気の小さい足利義昭は、腹いせ人事に過ぎない無神経・無計画な発給状の乱発という、人の上に立つ資格などない致命的な末期症状を発症するようになり、明智光秀らも高待遇で釣って、義昭派で囲い込もうとした。
それに対して織田信長が「今は地位こそ低いが有望な明智光秀は、我が織田家では5万石の大領の支配代理の地位を、予定しているのだ!」とあてつけの恫喝を足利義昭に言い放ち返し、その意味は
「それを公認保証(中央再統一)できるだけの力量(手本家長としての教義指導力)もない、ただの家長気取り(ただの武家の棟梁気取り)は引っ込んでおれ!」
と遠回しに言い放ったの同じであり、騒然となっていた中央に動揺の拍車をかけた。
このように言い返した、実際にそれができた織田信長がいかに別格であったのか、この重要な意味がこれまで全く説明されてこなかったため、ここでその意味をまとめておきたい。
これまで、羽柴秀吉や明智光秀といった、出身は非常に低いがしかし見込みがあった者たちを二段飛び、三段跳びで重役に昇進させること自体がどこもできていなかったことが、織田氏だけはできていた所だけでも、議会制(家長指名権)の大差として、それがもはや脅威になっていたことは、何度か先述してきた。
閉鎖有徳と結託する形で地域にしがみつくようになっていた家臣の多くを、地方再統一によって、その領地特権を返上させる形で本家の居城の城下の武家屋敷に強制収容し、いったん横並びに再整列し直しながら、貫高制(かんだか・給料制)で家臣たちの生活権が保証されるようになった戦国後期の流れは、これ自体は織田氏だけではなかったことも、何度か先述してきた。
しかし織田氏では既に、その次のことに着手していたそれが、諸氏にとってはさらに脅威になっていた。
その次のこととは、織田氏では地域に散らばっていた国衆たちを貫高制で収容すると、各地の農商業と街道の整備が進められ、地域ごとの産業力からの徴税・労役の貢献に応じた、公正な優先権の待遇のための整理の検地(地価調査・謄本的・法務局的構築)まで、先駆けで始めていた。
身分再統制(敷居の仕切り直し)として、より基準整理に進む検地は豊臣秀吉からになるが、その前身の手本は織田信長がやり始めていて、豊臣秀吉もその前例を参考に太閤検地に乗り出しているのである。
中途半端な地方再統一しかできていない諸氏の大半は、一部の領主らを仮公認で免除しながら、大半は地縁特権を返上させる形で武家屋敷(旗本扱い)に強制収容し、家臣団をいったん貫高制で人事整理していく、というそこを中途半端にモタモタやっていた。
諸氏が貫高制(給料制)の身分再統制にモタついていた中で織田氏は、それによるいったんの家格整備(公務士分の見直し)は片付き、その次の段階の、あの江戸時代の家格基準となる石高制(こくだかせい。領地特権制)に、早くも着手し始めていたのである。
織田政権時代の石高制の家格整備は、江戸時代の前身としてまだ実験的な試行だったために大雑把なものではあるものの、羽柴秀吉が近江長浜を本拠に複数の郡を任されるようになった時の、表向きの家格の1万石も、あくまで当時の整備中の目安の家格になる。
その時には羽柴家中にも、のち豊臣政権の執権となる増田長盛(ました ながもり)らに200石、300石といった、領主側の具体的な待遇として、政治的(議会的)に領地配分がされる前例まで示すようになっていた、つまり貫高制(給金制)の次の段階である、石高制(領地特権制)の配分による家格整備が織田氏では先駆けで始まっていたのである。
これは検地の基準自体を整備している最中でのことでもあったために、当初の数字も、のちの江戸時代のものとはだいぶ違う暫定的な目安としてみる必要がある。
当初の羽柴秀吉の、郡3つほどの管区長としての長浜1万石の意味は、江戸時代における10万石以上の譜代大藩扱い、そして当時の陪臣たち(羽柴家中)にも割り当てられるようになった当初の200~300石は、江戸でいう旗本の上層や、藩家老に相当する1000石~2000石ほどの扱いだったといってよい。
織田時代の石高制は、江戸時代のようにその額面通りに領地特権が当てがわれていた訳ではなく「その者には、それだけの領主権が今後割り当てられる予定の公務士分家格」という意味が強く、実際の生活費の配分はまだ貫高制が主体だったと見てよい。
どちらにしても、他ではとてもできていなかった所になる。
諸氏の間ではまだ、当主直属の重臣たちや旗本たちですら、石高制どころかまず貫高制(武家屋敷制度)で地方を収拾することからモタモタやっていた中、その敷居整理をどんどん進めていた織田氏では、陪臣たち(重臣たちの家来たち)にまで、石高制で家格裁定を始めるようになっていたのである。
何度か説明してきたが、まず地方再統一で家長指名権(士分待遇の敷居の仕切り直し=前期型兵農分離)も整備できてもいない、すなわち当主(地方の代表格)から交渉権を引き出そうとする惣国一揆(閉鎖自治運動・半農半士闘争)も止めさせられない内から、領地特権の配分を行おうとすること自体が、低次元で愚かな戦国前期の家長権争い・擁立合戦の繰り返しの原因だったことが、戦国後期にようやく少しは上の等族義務(名目・誓願の信用ある公文書重視の議会制)が自覚(自己等族統制)されるようになったのである。
織田氏では、尾張の主体性(議会的なまとまり)が欠落していたのを憂慮した織田信秀が、頼りない本家筋を抑えながら一族をどうにかまとめ始め、斯波氏の外戚権力(支配の代行を介入するようになっていた列強の今川氏)を追い出す形で、尾張を強国化に向かわせた。
織田信長の時には連枝衆(れんき)という親類家格をさらに整備し、織田一族同士の擁立合戦をやめさせることを徹底できていたのは、尾張再統一の時にそれだけ優れた議会制(選挙的な議決性・家訓・武家法典の見直し)が作れていたといえる所で、ここはどの地方の支配者たちも難儀していた、根底的な所になる。
将軍家(足利家)では、足利義晴と足利義輝が、深刻化していたその将軍擁立合戦をやめさせる方向にもっていったのを、保身利害でしか動こうとしない、まとまりのない中央関係者たちによって、またしてもそこを、もうやむやにされてしまったのである。(西洋でいう所の、一体誰が代表なのかの大空位問題や、対立教皇問題の教会大分裂と同じ構図)
将軍(武家の棟梁)だと強調する以上の足利義昭はだったらなお、それをやめさせる手本家長として示さなければならない立場であったにも拘わらず、その再発に無神経・無計画に、それをやめさせる家訓を整備できていた織田信長に、ケンカを売ったのである。
足利義昭と織田信長の間で、明智光秀の待遇を巡って取り合いが行われた際に、まさにそこを遠回しに織田信長が、自分たちができている石高制の理屈を用いる形で
「その手本家長(家長指名権)の姿勢で示し返すこともできない、できもしないことをやろうとして失望させ合うことしか能がない(劣情を共有し合うことしか能がない)無能(偽善者)どもめが!」
と、無神経・無計画な発給状(できもしない保証)の乱発の愚行に乗ろうとする、低次元なだらしない連中に対しても、恫喝したのである。
その明智光秀に対する5万石は、即座に当てがわれた訳ではないものの、しかしその宣伝通りに優先権が与えられながら、最初は政務吏僚の立場としての重要な役目が、まずは任せられていった。
丹羽長秀と同様に、作戦や政治の立案、また朝廷対策にもかなり関わった一方で、大和や摂津の再統一(裁判権改め)の名代として、現地に監査官として整備に努めるなど、その抜擢・活躍の目立ちようは羽柴秀吉以上と見てもいい程とも、いわれている。
明智光秀は 1575 年頃には丹州(丹波・丹後。今の京都府北西側)攻略を任せられた頃には、近江西南の坂本城付近の大領を任せられるようになり、5万石の家格といっていた通りの、管区長の待遇を受けるようになっていた。
大和や摂津の総代(有力寄騎たちを率いる部将)だった、新参たちをまとめていた原田直政が、浄土真宗との激戦で惜しくも戦死してしまったために、いったん佐久間信盛が引き受けることになるが、浄土真宗対策に急に消極的になった佐久間信盛が信用を失って失脚すると、明智光秀が原田直政の役目(大和・摂津を率いる総代)も引き継ぐことになった。
羽柴秀吉も、播磨以西の中国地方の方面攻略を任せられるようになり、織田家中で重きを成していた柴田勝家に、羽柴秀吉と明智光秀もそれに続く形で同格になりつつあり、丹州攻略後の明智光秀の預かり地は、家中第2位の50万石以上といわれるようになった。(1位の柴田勝家は70万石以上といわれた)
織田信長に見込まれただけのことがあった明智光秀は、我欲的な野心家だったどころか、羽柴秀吉と同じく実際は、有能ゆえの多忙の苦労人といった方が正確な所になる。
本来は細川藤孝がそうした待遇を得てもよいほどだったが、あえてそれを支える側に回ったことも大きかった所になるが、その支えを得ながら明智光秀は、新参たちをまとめながら、自身の直属の家臣団の構築も、性急に進めなければならなかったため、凄まじい激務を一身に負うことになった。
それでも生真面目な明智光秀は、羽柴秀吉と同じく上としての手本のために弱音を吐露することなど一度もなく、重要な役割を任せたら、任せただけこなした。
しかしそれが逆に、織田派に鞍替えした、織田氏からみた新参筋の、明智光秀から見た旧縁者たちからも、かなりひがまれてしまったといわれ、これは織田信長が新参たちには大目の寛大な方針でいたことの、その弊害も多少は出てきてしまう部分だったともいえる。
羽柴秀吉以上に活躍の場を与えられ、抜群の働きをあまりにも示してしまったため、新参の中で目立つばかりだったその分の苦労も、相当のものだった。
急成長していく明智家中の姿に、世間からはまるで妖怪を見るような異様な見られ方で、あることないことの噂話の風評の的になってしまっていた明智光秀も、そこにかなり気遣いながら
「我が明智家中は、他の重臣(部将)の家臣とは、絶対に言い争うような揉め事は起こしてはならない」
「明智家中は、中央の往来などの所要の際にもし、他の重臣の家臣たちとすれ違うことがあった場合、必ずこちらから道を譲って、遠巻きに見送ってから移動するよう、配慮せよ」
といったことを部下たちに徹底させていた。
能力的にもうってつけで、新参を奨励する題材としても明智光秀を抜擢したい所ではあったが、そうなってしまうことの予測も織田信長、明智光秀、細川藤孝の間では内々に、事前に話し合っていたと見てよい。
その気苦労の全てまで、細川藤孝にいきなり全て押し付ける訳にもいかなかった、だから明智光秀と2人でその大変な負担を、せめて内々で分担できるような体制が作られていった、ともいえる所になる。
最下層出身をあえて強調し続けた羽柴秀吉の、その優れた活躍ぶりもかなり注目されたが、一方で細川藤孝との縁で中央関係者からも注目されることになった明智光秀は、より特異の、より複雑な立場だったといえる。
特に、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉のこの3人の表立った有志の存在はまさに、今も当時も矯正するべき劣悪性癖の
「皆のために公正に働こうとする人間など、この世にいる訳がない!」
「世のために貢献しようと真剣に向き合おうとする正直者がいても、いいように利用されて馬鹿を見るだけの今までの世の中が、変わる訳がない!」
のその劣情共有通りでなければならない大前提の、議決性(敷居向上・育成理念の組織構想)の手本など皆無なただの腹いせの怒り(ただの劣情)を向け合うことしか能がない、公的教義と大差ない低次元な風評弁慶主義(指標乞食主義=ただの劣情共有)に頼ることしか能がない知覚障害者どものそういう所を大いに黙らせ、そこを思い知らせた(黙らせた)存在だったといえる。
これから、明智光秀がなぜ本能寺の変を起こすことになったのか、どのような状況だったのかを引き続き重視しながら、そこに段々迫っていく記述をしていきたい。