近世日本の身分制社会(089/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか17/? 2022/01/23
 

本能寺の変の特徴を知るにしても、まずは当時の日本はどのような状況だったのか、まずはそこが重要であるため、本題になかなか進まないがそこに重点的に詰めてきた。

 乱世前期 中世中期 14世紀頃。中央再建(組織理念)の見通しが遅々として進まなかった実態の、世俗側の大空位時代、聖属側の教義大分裂時代の長期化

 乱世後期 中世末期 15世紀末。ルネサンス時代、リナシタ時代(人文性と啓蒙性の芽生えの異種異文化許容=閉鎖打破の国際的な原点回帰・風紀改革)

 乱世終焉期 近世初頭 16世紀。中世までの時代遅れの上下統制(ただ下品で汚らしいだけの公的教義体質)の諸問題がついに、世俗側の強力な代表者(啓蒙選出的な君主)を中心とする等族議会制(等族国家としての議席制)での見直しによって、取り沙汰(身分再統制)されるようになった時代

非国際的な公的教義体質すなわち旧態慣習(ただの指標乞食主義=いいなり以上・手本未満の孟子悪用主義)に、人類はついにそこに疑問をもち始め、等族国家化(法治国家化・啓蒙国家化)に取り組むようになったのが、16世紀の特徴である。

何が起きていたのか、どのような状況になっていたのか、そこに面倒がらずに当事者性(人文性と啓蒙性による、異種異文化の国際人道的許容=公正な議決性)を以ってひとつひとつ向き合う見方ができないと、どういう所が教訓・活用どころで重要なのかも、一向に把握できない所になる。

歴史的かどうかの長短はあれど、経緯を面倒がらずに組織学的(社会心理学的)に見渡そうとする姿勢は、そのまま現代における個人間・組織間・国家間の議会的な見渡し方の姿勢とも、いえるのである。

自分たちのあり方として議決していかなければならない事態に直面するごとに、世俗側(政権側)にしても聖属側(教義側)にしても、まず上(等族諸侯議会。公会議=日本では朝廷体制)の仕切り直し(再統一)がいつまでもされず、どうしていいのか解らなくなるたびに騒ぎ合ってうやむやにし、その分の甚大な負担を次代たちに押し付け続けてきたのが、中世の特徴である。

聖属側のだらしない猿知恵(ただの指標乞食主義=ただの劣情統制)で世俗側を従わせていた力関係も、強力な世俗側(等族議会制を構築できる側)にとうとう「地方議会(諸侯)よりも格下の低次元な中央教義が、教義(品性規律)のことで指図するような等族資格など無い!」と遠回しに問題視され返される形で、制裁に踏み込む側の立場が逆転した姿は、西洋の方がさらに目立った所になるが、日本と共通している所になる。

今の公的教義と大差ない、時代遅れの猿知恵(ただの指標乞食主義=ただの劣情統制)の低次元な破門(失格)と戴冠式(合格)の手口で、権力機構の上下統制を続けようとする身の程知らずの公的教義体質もいい加減に疑問視され、それもとうとう等族議会制(法治国家の品性規律)で仕切り直される時代に向かった所が、共通している所となる。

上の等族義務(育成理念の社会的責任=品性規律)に見合う等族諸侯(法治国家)の資格(人文性と啓蒙性の議会制の手本)に疑わしい、低次元な旧態権力者たちは保護観察処分・制裁処分(身分再統制)を受ける形で仕切り直された流れは、日本も西洋も同じである。

ついに戦国終焉に向かわせることになった、他はできていなかった織田氏の高次元な裁判権改め(家長権改め・誓願の敷居の仕切り直し・等族議会制の構築=旗本吏僚体制=国家構想)の様子がいかに別格であったのかが、それまでの武家社会(世俗政権)の経緯と合わせた議決性(裁判権・議会制・家長権)の観点から、近世の特徴がろくに説明されてこなかった所になる。

16世紀がどんな時代であったかに向き合うことは、

 

 法治国家としての最低限の手本礼儀(品性規律=敷居重視の議決性の説明責任力)の示し合い(人文性と啓蒙性の敷居回収による、異種異文化の国際的人道的許容=等族統制)とは何なのか

 

 その基本中の基本の原則(育成理念・国家構想)に、より向き合えている側はどちらなのか

 

の力量(教義指導力)を計る題材としても、うってつけといえる。

旧態性癖(世の中の正しさとやらの偽善)に捕り憑かれ続けてきた中世の実態がようやく反省(自己等族統制)されながら、どうにか近世化(法治国家の議会制化)していったこの人類史(人文性と啓蒙性の歴史)は、現代人でも形容的な教訓になる。

社会観念の転換期(議会制の再統一=自己等族統制で仕切り直す時期)を迎えるも、その状況を整理し切れずにどうしていいのか解らなくなっていた中世の停滞期は、現代の個人間・組織観・国家間でも段階的に多くの人が体験しがちな、それをどう乗り越えていかなければならないのかの部分は、同じことがいえる所になる。

自国の歴史のことも、法治国家(等族議会制=国会議事堂の元々の目的=敷居反映のための民権言論の自由化)の基本中の基本の最低限(育成理念といえる品性規律)も、何ひとつ教えられたことがない日本の公的教義の実態の、その異常性を伝える丁度良い機会だと思い記述してきた。

その愚かさを普段から疑い見抜く主体性(敷居向上の姿勢を習い合う荀子的な育成理念)の最低限(自己等族統制)に向き合う前提もそもそもない時点で、知覚障害者(低次元な末期症状)が知覚障害(低次元な末期症状)の基準を決め合っているだけの、致命的な猿知恵(低次元な末期症状)のいいなりになり下がっているのと同じなのである。

世をそう形容する筆者の等族責任(社会的責任)として「ではその観点で、これまでのウインドウズプログラムに置き換えるとどうなるのか」という議題の記事も今の所、予定している。

実際にそういえるだけの記事にできるのか、今の段階ではまだ解らないが、Windows 95 / Windows NT4.0 時代( 1990 年代)と近年の Windows 10 以降( 2020 年以降)と比較しても、日本の設計指導側(育成理念側)は当時と結局何の進歩もない、ただ偉そうにケンカ腰に人任せの猿知恵(ただの指標乞食論=ただの劣情統制)のいいなりになり続けてきた、その歪みきった化けの皮の実態を叩きのめすことを、主題予定としている。(その決定打が整えば)

筆者はプログラミングに関しては、大した技術も、広い情報視野もない、古い時代の根底的な説明しかできないことの断りとして Windows 95 / 98 系の事情でなく Windows NT / 2000 系の事情中心の説明が前提となる。(筆者は後者関係が強かったため)

Windows NT4.01996 ~ 1999 年あたりまで(保守限度としては 2005 年あたりまで)業務用として重宝され、筆者としては Windows 史の中でこの Windows NT4.0 の時代が最も重要な時期だったのではないかと、見ている。( Windows 2.0 や Windows NT3.51 等は出回らなかった日本から見ると )

まだ調べた訳ではないが、現行の Windwows 10 以降と根底は大して変わっていないと思われる Windows NT4.0 由来の仕様から見直す話に、そもそも興味をもつ人などそんなにいないであろう理由から、そちらのことにそう急ぐ必要もないという構えでいる。

これまでもただでさえ日本では、Windows の根底仕様を議決性を以って確認し合いながら設計していくという気風が全く育たなかった中、近年では著名な簡略化仕様の使い方に準拠しようとする方向、HTML 5 規格側の仕様を使う方向、またクラウド集約処理化(まだ先になるが、データ管理も処理も全てサーバー側にさせる)の方向にもなってきているため、余計である。

筆者の言い分に、人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)に向き合ったこともない猿知恵(ただの指標乞食論=ただの劣情統制)で噛み付くことしか能がない手合いどもに、そこを恫喝(敷居向上)する準備要領として、今はこの近世史の記述に集中することにしている。

Windows の大まかな流れとしては Windows XP になって 95 / 98 系と NT / 2000 系が統合され、一般向け/一般業務向け両面(本格的だと Windows NetWorkStation ・ Server )でかなり安定化し始めるが、ただし XP 時代まではネットワーク技術は乱立期だったための問題も多く、また当時のPC(パソコン)の性能事情に見合わないような重い更新も繰り返されがちな時代でもあった。

その後の機器の低価格化・高性能化で安定し始めながらの XP の後継として、Windows 7 と Windows 10 で安定が続くが( 間の VISTA は大コケ。Windows 8 も失敗して 10 の前身となる 8.1 に改められたが )今ある Windows の基礎は NT4.0 / 2000 時代での整備が特に大きく、95 / 98 系と NT / 2000 系で統合された XP 以後の Windows は、その統合仕様が前提となった所は、重要な所になる。

NT / 2000 系から見た Windows NT4.0 Windows 2000 Windows XP Windows 7 と続いた時代は、その提供が始まる直前になるたびに、毎度のようにろくに状況も説明されずに「過去の Windows で動いていたソフトウェアが動かなくなる」ことをやたら煽っていたが、Windows 10 になっていい加減に、その煽りもしなくなった。

16 Bit 互換が前提の半 32 Bit 式であった Windows 3.1 から脱却する形で 32 Bit の完全化が始まった Windows 95 / NT4.0 時代だったが、ただし 16 Bit のままの機器もまだ多かったことで、今度は 32 Bit の上で 16 Bit 側との連携を採るための代替互換(エンハンス)仕様で支えざるを得ない時代だった。

16 Bit のままだった周辺機器も、性能が向上しながら 32 Bit 化にすっかり作り替えられるようになった Windows 2000 時代には、その Bit 互換仕様も重宝されなくなり始めるが、Windows 2000 はそれにギリギリ対応していた時代になる。

その次代の Windows XP になるとついに 16 Bit 互換概念は対象外化されるが、これは機器の都合だけでなく Windows 3.1 時代の古い基準に依拠していたソフトウェア全般もいい加減に未対応の流れで一掃される意味もあった。( Windows 2000 時代からその流れは強まっていた)

64 Bit 化の本格化が始まった Windows 7 でも「32 Bit 時代に動いていたソフトウェアは動かなくなる」とやたらと煽っていたが、厳密には業者が 32 Bit でないと意図的に動かなくしていた作りのものが多く、その仕様の上で動かしていたソフトウェアについては、その業者によって 64 Bit 対応がされなければ動作保証は無くなる、という意味になる。

64 Bit 版の Windows 7 ( 以後、Windows 10 も)は 32 Bit 時代に作られたソフトウェアでも Windows API (基本仕様)に準拠した作りであれば互換対象であるため、特殊な一部の仕様(規格がそもそも変わった仕様)は除いて、基本は Windows NT4.0 時代に動作していたソフトウェアでも、動作する仕様になっている。

筆者があえて Windows NT4.0 時代からの見直しにこだわる理由もそこで、狙いとしてはまず、32 Bit 側と 64 Bit 側との Windows API (基礎仕様)の比較から、その利用設計者側が何がどう変わったのか等を紹介していくものにしたいと、今の所考えている。

このコンピュータ(機器とOSとソフトウェア設計の関係)の歴史的経緯でも、ちょっとした身分再統制的な見方もできる所になる。

16 Bit から 32 Bit の具体的な移行期であった Windows NT4.0 は、ソフトウェアの設計概念(育成理念)側も「 16 Bit 時代から 32 Bit 時代に進化してこれたのか?」という所には極めて疑問で、そのうってつけの観察対象として「 64 Bit どころか 16 Bit 時代と、一体何が変わったのか?」を言及する題材にできると、筆者は見ている。

性能だけ向上していく 64 Bit や 128 Bit の利器にただ乗っかって錯覚しているだけで、設計指導(育成理念)面では 16 Bit 時代( 1990 年代前半の MS-DOS 時代 )のまま思考停止しているにも拘わらず、身の程知らずにもソフトウェア設計の基準(敷居)のことでやたらと偉そうにケンカ腰に威張り散らしたがる、公的教義と大差ない口ほどにもない閉鎖有徳(偽善者)どもがあまりにも多すぎるように思ったため、格好の天狗の鼻のへし折り所といえる。

使い方を間違えれば危険な情報機器や兵器が 2015 年頃から 64 Bit や 128 Bit に進化してきている環境において、把握・育成・指導する側が 1990 年代前半の 16 Bit どころか 1980 年代の 8 Bit 時代から何も進歩していないにも拘わらず、公務公共性を気取ろうとする身の程知らずな今の公的教義体質の異常性に、国民もそういう所にもう少し深刻に疑いの目を向けていくべきなのである。

その問題は、議会制を確立できずにモタモタやっていた中世止まりの発想の人類に、もし大量の近未来兵器を握らせるようなことをすれば、人類の破滅に向かう教義崩壊を起こすのも当然の例えとして、そう大げさな話でもない。

逆にいえばそれに対応できるだけの議決性(品性規律)を人類も身につけていかない限り、医療や食糧事情などの救済技術でも同じことがいえる話として、今までの人類の悩み所を大幅に改善してくれるような技術が既にあったとしても、扱いきれなければ危険物扱いされる形で、一般解放されることもないのである。

ネットによる情報交換が一般的に顕著になり始めた 2005 年頃の環境よりも、当時よりも快適になって機能も増えた今のアメブロ運営が提供しているような 64 Bit で構築された情報交流の場の、その利用者だからといって、何の工夫も見通しもないままその利用をただ続けるだけで、知りたかったことが全て解るようになったり、実現できなかったことがいきなり実現できるようになるのなら、誰も苦労はない。

64 Bit の利器の都合・不都合をただの偶像体験したに過ぎない止まりの猿知恵(ただの指標乞食論=ただの劣情統制)で、世の中を解った気になって誇らしげにうちのめし合い従わせ合うことしか能がないような、根底(議決性・育成理念)は 8 Bit 時代のまま思考停止している公的教義と大差ない低次元同士から、優れた品性規律(人文性と啓蒙性の育成理念)など生じていく訳がないのである。

64 Bit の偶像用語を誇らしげに並べて錯覚・勘違いし合うことしか能がない、 8 Bit 時代から何ら進歩していない公的教義と大差ない分際(偽善者)にも拘わらず 64 Bit 利器の扱い方の基準(敷居)を決めようとする、その身の程知らず行為自体が、ただちに身分再統制が必要な異常事態なのである。

中央再統一までできた織田信長という 64 Bit 対応の旗本吏僚体制(等族統制)に比べ、地方裁判権止まりの諸氏たちは 32 Bit や 16 Bit の対応止まりだった、浄土真宗も 64 Bit になりかけの 32 Bit、公的教義などは 8 Bit どころか 4 Bit の対応力もあるかどうかも怪しい、もはや上位互換、下位互換以前の問題である。

そういえるほどの歴然とした情報処理能力(等族議会制)の差が、織田氏が浄土真宗(本願寺)を降した 1580 年頃には、もはや明白になっていたのである。

 

その違いは

 旗本吏僚たち、部将(重臣。師団長)たち、寄騎(有力家臣。旅団長)たちという優れたCPU(首脳・議席)を複数(i7仕様)もち、今後の経済社会と海外交流に対応できるだけの複雑な公文書(誓願書)を快適に整理・保管できるSSD(高速大容量記録媒体)も搭載し、世界交流的(異種異文化的)な、64 Bit 化社会に対応できる高次元側

と、

 少々のことで気絶・停止する低速なCPU(首脳・議席)しかなく、少々の公文書の保管にすぐに許容不足を起こすFDD(低速少量記録媒体)を使い続けることに正しさを求め続ける、世界的な 64 Bit 化対応どころか 16 Bit 時代の自国交流をまとめることすら、ろくに対応してこれなかった低次元側

との違いとして、そこを疑い見抜くことができていないということは、 8 Bit 時代から思考停止している猿知恵(劣情統制)で 64 Bit の議決性(等族統制)の上に立とうとする愚かさを自制(自己等族統制)できたことがないのと同じ、低次元側が高次元側を追い抜こうとしたり押さえつけようとする、できもしないのことをしようとしているのと同じである。

64 Bit の利器に囲まれた環境の、その都合・不都合にただ世慣れしただけに過ぎないことに、世の中を解った気に錯覚し、驕ったり思い上がるべきではない。

その高性能化も使い方(議決性の敷居)次第では、むしろ人を悪い方向にもしていってしまう、それに振り回される凶器にも、なってしまうのである。

 利器環境(社会観念)の 32 Bit 化には 32 Bit の敷居の議決性(育成理念の処方)

 

 利器環境(社会観念)の 64 Bit 化には 64 Bit の敷居の議決性(育成理念の処方)

 

で、統計的に対応していかなければならない所は、そこはプログラム設計(組織構想・目的理念)の姿勢でも同じことがいえるのである。

その姿勢で取り組むことなどできたことがない、公的教義のような歪みきった身の程知らずどもは 64 Bit どころか 32 Bit 仕様に触れる資格も与える必要もなく、連中の所有する機器はただちに強制ダウングレード(機能規制の格下げ)の刑の執行がされるよう、人類のためにもそれを等族義務化し、強制的に 16 Bit 仕様に格下げするのが相応なのである。

公的教義と大差ない猿知恵しか身につけていないにも拘わらず、やたらと偉そうにケンカ腰になることしか能がない低次元な身の程知らずの騒乱罪予備軍どもは 16 Bit の MS-DOS 仕様からやり直せばよく、メモリは 640 KB までで十分、情報管理は EDLIN.EXE のみで十分、通信手段に USB・LAN・HTML5 規格を使う権利など与えてはならず、RS-232C 規格までで十分である。

物流面の 32 Bit 化が起こっても、それに対する議会制(裁判権)の対応力(議決性)が 16 Bit や 8 Bit 時代の発想のままであったために、富の奪い合いの蹴落とし合いの価値観争い(閉鎖有徳運動)ばかり起き、敷居向上のための和解を前提とする競争手本を上が誰も示そうとせずに、教義崩壊するばかりだったのが、中世である。

しかし日本では織田信長がきっかけとなって今度こそ、そうさせないための議会制(法治国家としての品性規律=手本家長の姿勢)として、それをどのように確立(裁判権改め・家長権改め・閉鎖有徳狩り・再統一)していかなければならないのか、その偉大な前例の流れがついに作られることになった。

西洋との交流で、兵器の技術も大幅に向上し、異国教義(キリスト教)の受け入れまでやってのけたにも拘わらず、前期型兵農分離(公務士分待遇の敷居の仕切り直しの身分再統制)の品性規律(育成理念の手本礼儀)が奨励されていったおかげで、むしろ国内紛争を止めさせる軍縮の方向に導くことまで、できたのである。

織田氏によってまず、尾張-美濃-近江-山城-和泉(堺)の街道整備が、公正な奉行所(役所)が設置されながら、農商業改革が進められながら、まず物流経済の豊かさの姿が取り戻されると、世の中の便利さも取り戻されるようになった。

職人たちも安定して商工業に専念できるようになり、西洋技術の導入で兵器の鋭利化が進んでも

 

 「下々を失望させないための良い前例となる、公正な議決性を構築していく、上としての手本の等族義務(身分再統制・社会的責任)の取り組みがされれば、簡単に崩壊することはない」

 

ことも、織田信長が示してくれたのである。

上位レジスタと下位レジスタで 16 Bit に連結させる処理能力(知能)すらない 8 Bit 以下の時代遅れの公的教義体質を維持し続けようと、国事としての議決にうやむやな態度を通そうとした廷臣たちにあきれた織田信長が、公的教義(比叡山・延暦寺)の焼き討ちに乗り出したのも、当然の処置といえる。

1582 年には、正親町天皇(おおぎまち)の次代の誠仁親王(さねひとしんのう)と、織田信長の次代の織田信忠の後継式典が、同時に盛大に行われる準備が進められ、その式典を目前に本能寺の変が起きてうやむやにされようとした所が、重要な所になる。

この式典の意味は、これまで織田政権がまとまりのない一部の不真面目な廷臣たちを牽制しながら

 「対等どころか格下もいい所の、4 Bit 対応までしかできない時代遅れの公的教義体質(自力信仰一辺倒)が抜け切れていない低次元な廷臣どもに、64 Bit 対応の敷居の織田家が臣従する訳がないことを、そこを反省(自己等族統制・身分再統制)できたことがない廷臣たちは、もはや許されないことを思い知る時代となるのだ!」

 「そこを自分たちで議決性(法治国家の品性規律)を以ってはっきりさせられない、だらしない朝廷機関に織田家は臣従するのではなく、皇室・陛下に直接臣従するのだ」

 「その具体的な姿勢を以って織田家は、騒動の種でしかない、公的教義も管理できないだらしない廷臣たちには参与権など与える訳がない、有志の廷臣たちとの協調路線の姿勢(身分再統制)もはっきりさせる」

という、これまで曖昧な所が多かった世俗の代表(武家政権)と聖属の代理人(朝廷)との関係も、具体的に改められていく形の、その議決性(白黒)をはっきりさせていくために、中央進出後にはそれまでそこに慎重に進めてきた。(公家諸法度の前身)

皇室、朝廷、織田家(事実上の武家政権の代表)というそれぞれの関係も、1582 年にはいよいよその仕切り直しの具体的な発表がされようとしていたことを意味する、つまり日本全体の今後の孟子的合議制への切り替えに向けた、大幅な確定作業の公式発表でもあるのが、その式典の意味だったのである。

大手も小口も関係なくそれまで、織田氏の敷居で格下げされながらの臣従を、近隣から順番に迫られるようになり、次々と併合されていく流れになっていた。

そんな中で、格下げへの反抗を続けたり、態度をいつまでも曖昧にしていた諸氏たち(閉鎖有徳たちも)も、その式典によってそこが具体化されてしまえば、これからは織田氏の敷居(裁判権・議会制)に臣従しなければ具体的に法賊扱い(国賊扱い・朝敵扱い)され、反抗分子たちはいよいよ法的(名目的・誓願的)に不利になることを意味した。

それは廷臣(聖属側の管理人)たちも同じ、それぞれ手本ある議決性を示すことができなかった低次元側と、織田氏の高次元な敷居(議会制・裁判権)にどうにか公認(合格)された側との、朝廷社会(貴族社会)側の仕切り直し(身分再統制)も、いよいよ具体的に確定(孟子的合議制化)されていくことも、意味していたのである。(公家諸法度の前身)

朝廷権威など皆無でも、かつての皇室の血縁者(皇室から見た外戚の家来筋)たちとして表向きは、高貴な家柄から特別扱いの格式がこれまでは続けられてきた、今までは法賊扱いする側だった廷臣たちも、これからは織田氏の敷居の議決性(聖属側の教義指導の姿勢)に反するような、孟子的合議制(公家諸法度)の規定に違反する時点で、問答無用に法賊扱いされることを意味するのである。

まず武家側(世俗側)の、佐久間信盛、林秀貞(こちらはやむなしのとばっちり)ら最高幹部たちを始めとする、上からの手厳しい手本的な人事整理(戦力外通告)が世俗側から行われたその次として

 「次はあいつら(聖属側の廷臣ども)の人事整理(戦力外通告)の番だ!」

 「新参の倍の手本(敷居向上の議決性)を示さなければならないはずの、それができたことがない古参教義(騒乱罪予備軍)どもには、遠慮無用だ!」


といった調子である。

延々と法賊扱い(格下扱い)し続けていた後発の、他力信仰の浄土真宗たちに日本の自力教義の主導を完全にもっていかれていた公的教義(比叡山・延暦寺)の劣悪姿勢からも、言い逃れ無用のそのだらしなさは明らかなのである。

他力信仰の許容もできない、自国の自力教義の問題をまとめられない朝廷(廷臣たち)など無視し、遅々として地方再統一が進まなかった世俗側の戦国前期には、浄土真宗(本願寺)がそれらを肩代わりする形で独自で聖属裁判権の再興運動(一向一揆=聖属側の地方再統一)を起こし、当時深刻になっていた閉鎖有徳問題を、浄土真宗が収容するようになったのである。

深刻化していた戦国前期の閉鎖有徳問題(半農半士らの勢い任せの蹴落とし合いの、閉鎖的な下剋上的自治権闘争)に、世俗側も聖属側も、既存の旧態観念では何ら対応などできなくなっていた。

旧式の自力信仰一辺倒から決別・脱却させる形で他力信仰に改めさせていく、当時のその深刻な事態を喚起・収拾(敷居向上)する運動を、公的教義(比叡山・延暦寺)が完全にできなくなったからこそ、他力信仰の浄土真宗たちが日本の自力教義を肩代わりするようになっていたのである。

世俗裁判権とも決別、公的教義とも決別の、その意味での聖属裁判権の再興運動という浄土真宗の、先駆けの戦国仏教化(軍閥化・議会化)の啓蒙運動から、武家側(世俗側)がそこを大いに学ぶようになっていたのである。

その事態をきっかけに、いつまでも閉鎖有徳(半農半士)たちをまとめられずに、延々と蹴落としあいの内輪揉めばかりしている場合ではないと世俗裁判権側(地方の代表格たち)もあせり始め、ようやく地方再統一(家訓改め・裁判権改め・分国法の議会制の確立)に少しは向き合うようになったのである。

他力信仰による浄土真宗の独自の、聖属裁判権の再興運動は、そもそも戦国前期の閉鎖有徳問題(いつまでも身分再統制されない半農半士問題)がいかに深刻だったのかの部分と合わせて、しっかり説明されてこなかった所になる。

32 Bit 対応するといって乗り出した建武(朝廷の廷臣たちによる聖属裁判権の再興運動)の、その大失敗のやらかしの教訓もろくに活かされずに、8 Bit 対応もできているのかも疑わしい今の公的教義と大差ない朝廷体制(聖属側の議会制)の廷臣たちは、ろくに立て直す(バージョンアップ)こともしてこれなかった。

建武(聖属政権の再興)の新政権は、過去の朝廷権威( 4 Bit 対応政権)の再確認(ただの劣情共有)をするばかりで、時代に合った政体らしい姿が結局確立できずに失望させ続けたため、その低次元な事態を憂慮した光厳天皇(こうごん)が、足利氏に委託する協力関係の形を採って、室町政権(世俗政権の仕切り直し)として、どうにか整備されることになった。(足利義満時代に開花)

その半 32 Bit の 16 Bit 対応といった室町政権でどうにか足並みを揃えるようになるも、想定外すぎた室町の大経済期の 32 Bit 化に対応し切れずに応仁の乱を迎えるも、 32 Bit 対応化の議決性に至らなかった。

朝廷権威など皆無になっていても、今までは朝廷側(廷臣)という立ち位置である以上は、法賊扱いされる側ではなくする側だった、しかしそれもとうとう許されなくなる、これからは不当があればされる側になる身分再統制の時代が、到来したのである。

上のだらしない実態がろくに裁かれない、改善のための交代劇(支持選挙戦・再統一)もろくに行われないことが放任され続けること自体が異常だと、とうとう自覚(自己等族統制)されるようになり、上の等族責任(本来の有徳思想の社会的責任)に対応できる議会制(裁判権)として仕切り直されていったのが、中世から近世への移行期の特徴なのである。

現代でも、織田信長や浄土真宗のような公正化委員(教義側を姿勢狩りする検察官)がいないこと自体がそもそも異常なのであり、それを異常だと認識(自己等族統制)できたことがない、敷居低下させることしか能がない騒乱罪予備軍の法賊(偽善者)どもが公務側に居座っていることも問題視できなくなっている、その姿こそがその国家のだらしなさの実態なのである。

西洋だと、教皇ハドリアヌス6世、エラスムス、ルターら人文主義者たち、帝国議会(王族の代表格のカール5世)、西方教会(カトリック)再生のイエズス会らが、当時の公正化委員にあたる。

それを自覚(自己等族統制・再統一・議会制の仕切り直し)できたことがないにも拘わらず、法賊扱いする側の立場にいつまでもしがみ続け、地位(議席)を譲ろうとしなければ、それが議決性(法治国家としての品性規律)の阻害行為の法賊扱い(身分再統制)とされる時代を、とうとう迎えてしまったことを意味していたのである。

それができる啓蒙組織が出現しなかったものの、しかし 64 Bit になりかけの 32 Bit 対応の浄土真宗がどうにか喚起するようになった、その重要な敷居を支える役割を果たしていた。

そしてとうとうそれが可能な浄土真宗を上回る、64 Bit 対応の高次元な議会制(裁判権・家長権)が確立できる織田氏が台頭し、その敷居をきっかけに日本はついに、戦国終焉の転換期(中世末期から近世への移行)に向かい始めたのである。

明智光秀がさらに抜擢されていく経緯で、その前任的な存在であった佐久間信盛の様子が、まずは気になる所になる。

古参教義(ただの自力信仰一辺倒=できもしない聖道門主義)をもったいぶりながら世の中を解った気になっていただけの、表沙汰になっていないだけで人事整理(戦力外通告)に挙げられていただらしない廷臣たちは、その特権の保護監察係りの役目も任せられていた佐久間信盛に、かなり泣き付いたと思われる。

まず、部将の筆頭であった佐久間信盛、政務吏僚の筆頭であった林秀貞の2人については、時期が来くれば難癖が付けられながら退任させられることが、内々ではあらかじめ、予定されていたと筆者は見ている。

林秀貞の方はやむなしでその予定人事の演出に合わせていた、だから厳しさも表向きだけで実質は、佐久間信盛ほど手厳しい扱いは受けていない。

十分に功臣だったといえた両名でも、あえて織田信長がこのような厳しさを示したのは

 「こういう目に遭うかも知れない覚悟もできていない者が、より上の地位に就こうとしたり、より上の地位に就いた者をひがむ資格などない!」

 「下を失望させずに意欲をもたせ、下に良い思いをさせていくための手本のために上がいるのであり、上が良い思いをする必要などはない!

 

 「良い思いをする栄達(古参主義)のために、その議席(公務士分)があるのではない!」

という、これから孟子的合議制に向かおうとする初動の布石の、くぎ刺しの家訓(前例)のためだったと見て良い。

明智光秀と羽柴秀吉は、まだ織田氏が九州仕置きに乗り出す前から、日向守(ひゅうがのかみ。宮崎県の知事)と筑前守(ちくぜんのかみ。福岡県の知事)を公式に名乗らせている様子からも、この両名は新政権後の海外対策の重役の家系としての諸侯扱いが、される予定だったのは、明らかといえる。

織田信長に大いに問題視される結果になってしまった佐久間信盛が失脚すると、その実質の後釜に明智光秀が就任することになるが、これも同様、時期が来たら中央対策の役目から退任させる予定が最初から組まれたものだったと見て良い。

表向き佐久間信盛の後任として、それと同格の重役を受ける以上は、退任の際には林秀貞のように、難癖をつけられながらの退任劇が予定されていたのも、間違いない所になる。

林秀貞の難癖のつけ方から明らかだが、20年以上前の尾張再統一時代の、とうに和解して織田家の政務吏僚としてずっと活躍してきた中で「尾張再統一時代に、反抗したことがあった罪」などと大げさないい方で退任させたやり方は、下々にはその意味が理解できなかったかも知れないが、有力家臣たちはその意味が皆、理解できていたと見て良い。

林秀貞の場合は、わざとらしいくらい苦し紛れな言いがかりで退任させたことは、実質は

 「林秀貞は何の問題もなかった良臣だったが、しかしそれでも今の時期では上に厳しさを向けながら退任させる、上としての覚悟を次代たちに知らしめておくことが大事だったのだ」

 「良い思いをしたいために上に立とうとするような、下を勘違いさせ失望させ合う戦国前期の巻き戻りのような風潮(劣情共有・風評弁慶主義)など、上が作ってはならないのだ

と、遠回しに有力家臣たちに、その姿勢こそが大事であることを伝えていた、織田信長らしいやり方だったといえる。

佐久間信盛の後任を受けることになった明智光秀に対してもそこは同じで、その厳しい退任劇もある前提も認識させた上での後任だった、織田信長のその性分がこれまで説明されてこなかった所になる。

だから明智光秀が佐久間信盛の後任を受けて以後、織田信長が表向き明智光秀にかなり厳しく当たるようになった、その様子を伝えている文献が多いのも、そこがかなり誤解されてきた所になる。

例えば織田信長が明智光秀に対し、急に「お前は、この日本の将来のために今まで一体、何をしてきたというのだ!」と怒鳴り散らしたことが伝えられているのも、これもわざとらし過ぎる一幕といえる。

これは明智光秀に怒鳴っているようで、廷臣たちに寝言・泣き言をあれこれ言われたことの便宜というよりも、図々しい要求ばかり明智光秀と細川藤孝に訴え、困らせてばかりいたその状況報告のたびに、遠回しに廷臣たちを恫喝しているのである。

織田信長が明智光秀に急に厳しくあたるようになったその全ては「こちらが公認しかねるようなだらしない廷臣どもの言い分など、何ひとつ許容するつもりはない!」を、廷臣たちだけでなく中央関係者全体、有力家臣たち全体に伝えるための、大げさな茶番演出なのである。

前任の佐久間信盛を廷臣たちが困らせ、たぶらかせ、浄土真宗の攻略・和解を遅らせていたことは、旗本吏僚たちの監視、そして事情を知っていた廷臣たちの仲介者であった細川藤孝からの報告の様子からも、織田信長は見抜いていたのである。

佐久間信盛の役目として、織田氏に臣従はした新参たちが、その敷居に不慣れだった連中の広域な管理を任せられていたその立場を、廷臣たちに逆利用される形になってしまったともいえる。

その役を、織田氏から見て古参でもない細川藤孝にいきなり向ける訳にもいかなかった、だから新参で地位が元々低く、しかし見込みのあった明智光秀に功績を立てさせる優先権を与えながら、家格を昇格させていく一方で「上に立つことが、良いこと尽くめな訳がない」役も、細川藤孝にではなく、そこを明智光秀に請け負わせる形になった。

細川藤孝の格下のはずであった明智光秀が、細川藤孝よりも格上に扱われる意図は、せっかく廷臣たちで中立の立場を維持してきた細川藤孝の立場を壊さないよう、そのさらに上の責務は明智光秀に肩代わりさせ、まとまりのない廷臣たちの深刻な問題を細川藤孝に負わせないよう、むしろそこを保護する意図が強かったと見てよい。

佐久間信盛の時は、織田信長はあえて表向きは強くは言わずに泳がせていたが、中央の人事整理の契機に位置付けていた、任せられていた浄土真宗対策に急に消極的になった上に、茶道で言い訳し始める(茶道で人脈を作り始める)ようになって、看過できない状況に内心では痺れを切らしていたか、やむなく様子見を続けていた。

そんな折に 1579 年に、領内で法華宗(日蓮派)が浄土宗(源空派)にケンカを売る形の宗教論争がされたことで、停滞していた浄土真宗対策の解決に向かうきっかけとなった。

織田氏の裁判権に従いさえすれば、浄土真宗(親鸞派)でも手厚く保護するという、同じ浄土教である浄土宗(源空派)たちに肩をもつような遠回しの裁定が強調できたことで、翌 1580 年に浄土真宗はついに織田氏に臣従・和解に動く形となった。

それを契機に織田信長は、佐久間信盛に対しては林秀貞と比べると、この上ない厳しさを向ける形の「19箇条の折檻状」による失脚扱いを、してしまった。

姿勢狩り重視の上のあり方の制定の中、佐久間信盛がその折檻状の通りだったかどうかなど問題ではなく「こういうことも自制(自己等族統制)できない手合いが、上に立とうとするな!」という、中央関係者たち、有力家臣たちへの戒めの強調こそが、重要なのである。

浄土真宗の臣従を契機にようやく、まずは世俗側(武家側)の、佐久間信盛と林秀貞の両名を除くそのほとんどは、仮公認を取り消す形の一斉の人事整理(戦力外通告)が行われる。

人事整理(身分再統制)の敷居をまず世俗側から明確化し「今度は聖属側(廷臣・中央関係者側)だ!」を迫るようになった、それが織田信長が明智光秀に対するわざとらしい茶番劇の厳しさの強調の、そちらももうすぐ行われる遠回しの予告だったのである。

浄土真宗が臣従・和解に向かわないよう、それをできるだけ遅らせようと廷臣たちが佐久間信盛をたぶらかし始めたのは、表沙汰になっていないだけでまず間違いなく、表沙汰になっていないだけでその手口は荒木村重、松永久秀、その他の有力な新参たちにも当然伸びていたと思われる。

だからこそ明智光秀が後任した時に

 

 「浄土真宗が臣従し、世俗側の人事整理(戦力外通告)の規定が示された今、もう佐久間信盛の時のようにはいかんぞ!」

 

と廷臣たちを恫喝するために、朝廷対策の責任者も請け負うことになった明智光秀に対する手厳しい茶番劇によって、そこを予告的に向け始めたのである。

少し先述したが、低次元な怒り(劣情・閉鎖有徳運動)を向け合うことを誰よりも嫌い、それを誰よりも止めさせたがった、高次元な議決性重視の織田信長が、家臣(明智光秀)に本気になって憎悪をたぎらせる訳がない、解りやすいくらいあからさまな茶番劇である。

織田信長があからさまに、急に明智光秀にわざとらしいくらいの茶番劇を繰り広げてくれたから、それがかなり目立つ形で文献に残ったのであり、筆者も状況を理解できたが、逆にいえば皆がよく解らない目立たないことは、文献には残りにくいことも多い。

孟子的合議制(敷居向上後の落ち度狩り)に向けた、その移行期の荀子的独裁制(敷居向上のための姿勢狩り)の段階の難しい時代だったからこそ、当時ここが織田側と廷臣側とで、ここが遠回しに行われていた所が、ややこしい所なのである。

 

当時の正親町天皇が、織田政権に対する不満がもしあったとしても、それを直々にあらわにする訳にもいかなかった事情と、のち江戸時代に入って間もない後水尾天皇(ごみずのお)の頃に、徳川政権に対する不満を直々にあらわにした差も、そこなのである。


正親町天皇は織田信長のことを恐れていた訳でもなんでもなく、日本を大再生させるという誰にもできない、しかし誰かがしなければならない大活躍は当然のこととして認めていたが、ただし聖属側として、だらしなくても身内の廷臣たちもいくらかは擁護はしなければならない立場ではあった。

 

「 32 Bit を飛び越えての 64 Bit 対応政権」はまだ早すぎるから「皆がついていけるか解らないから 32 Bit 対応政権まででよい」といった具合で孟子的合議制を確定するようになった徳川政権が、議決性の回収には否定的な、少々一方的なやり方で朝廷の規制(公家諸法度)に乗り出した、そこに後水尾天皇が直々に不満をあらわにせざるを得なかったといえる。


それでも織田信長の頃は、言い逃れ無用、うやむや無用で

 

 「今後の国事としての合議制に向けての、議決権の手本といえるような意見(公文書・誓願書)を整理・提出できていない、低次元な言い分(失望)を認めさせようとすることしか能がない廷臣たちが悪いのだろうが!」

 

 「もはや上位互換・下位互換以前の問題の、8 Bit 以下のしかも一代種のようなポンコツどもは、引っ込んでおれ!」

 

という姿勢狩り重視の回収(その白黒)が大前提だったために、聖属側にどれだけ厳しい規制がされたとしても、そこに文句のいいようがないのである。

 

最もそこは、明智光秀ら重臣たちも、その難しさが理解できるからこそ「我らはついていけるが、下々がついていけるのだろうか?」と内心は気になっていた部分だったのも間違いない。

 

そんな中で 16 Bit から 32 Bit への対応だけでは飽き足らずに 64 Bit 対応まで乗り出していた別格の織田信長の様子に、当時の徳川家康もそこを内心は、冷や汗で見ていた所になる。

 

今後の中央のあり方を制定しなければならなかった、そこは地方再統一の家訓と同じようなやり方で、高次元側であったとしても、何でも力任せで権力を敷けば良いという訳でもない。

 

織田氏が中央進出した 1569 年頃から 1582 年までの期間とは、織田氏が一方的に議決権(裁判権・等族議会制・家長権改め・身分再統制)を制定したように見えても、荀子的独裁制による敷居回収の手本姿勢が採られた事実の上でそう制定されていったという、その白黒はっきりさせていく期間だった。

 

「勝手に決められた!」と後で文句をいわせないように「だったら孟子的合議制が確定されるまでの敷居の回収期間に、なぜ取り組んでこなかったのだ」と示し返す議会的(全国が納得するような手本ある名義人の連署の公文書・誓願書)なやり方がされた所が、織田信長が優れていた所なのである。

 

当時の織田信長の中央対策が解りにくいのは、もしいきなり権威(合議制)を敷いていきなり従わせるやり方ばかり強行されてしまえば、ただでさえそれしか能がない、等族議会制の観念が欠落していてる中央関係者たちが多い中でそう思わせてしまえば、敷居を確認し合わなくなるいいなりの理解不足のまま、戦国前期に巻き戻ってしまう危険性もあった、そこに配慮がされた所にある。(風評弁慶対策)

 

だから「押し付けた」とも「皆がそのいいなりなのだから、他もそのいいなりでないとおかしい」とも思わせないために、いきなり権威(合議制)を敷く前提で廷臣たちをうちのめす一辺倒ではなく、向こうの出方次第で議会的に対応していくやり方も強調しながら、織田氏側(世俗側)と廷臣側(聖属側)とで、1582 年を迎えるまでは遠回しに敷居確認をしていた、だからその様子も解りにくい。

 

敷居確認(手本礼儀の示し合い)もろくにされずに、いきなり合議制(厳罰強化)を敷いて、それに従わなければうちのめっ放しの公的教義のようなやり方の、足並みをただ揃えるだけの国家や組織の虚像(ただの栄達大会)の低次元な人間関係の姿から、国際人道観(人文性と啓蒙性の敷居)が向き合われていく訳がないのである。

 

一方的に決められる結果になろうが、より敷居の高い議会制で裁定される姿を見せ付け合い、それで示し返せないのならもう従わざるを得ない時代となった、それが等族議会制という法治国家としての品性規律として強く自覚されるようになったのが、16世紀の特徴なのである。

 

最低限の状況説明も、そろそろできてきたかなと思えてきたため、そろそろ明智光秀から見た視点に移行しながら、どんな様子で本能寺の変に至ったのか、また織田信長はその後にどのような国家構想でいたのかなどの説明に、入っていきたい。