近世日本の身分制社会(088/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか16/? 2022/01/12
 

本能寺の変の性質を知るために、今回も明智光秀と細川藤孝がどのような存在であったのを、引き続き紹介していきたい。

1568 年以降に織田氏が乗り出した中央再建事業からの、新参軍団として参与するようになる明智光秀・細川藤孝の2人組がかなり優れていた部分が、これまであまり強調されてこなかった所になる。

まず、

 古参組 = 1568 年の尾張・美濃併合時代までに起用・抜擢(身分再統制)

 新参組 = それ以降の、近江・山城進出(中央進出)以後に起用・抜擢(身分再統制)


と大別し、前者と後者を比較するために、そこを今一度、まとめていきたい。

1560 年、織田氏の尾張再統一(身分再統制・前期型兵農分離の等族議会制・家長権の仕切り直し)の様子に、一方で格上を自負し続けながらそこまで整備できていなかった今川氏はその事態に、慌てることになる。

今川氏も本来は、駿河・遠江再統一(地方議会の仕切り直し・裁判権改め)を優先しなければならなかった所を、無理をして大軍を率い、織田氏に桶狭間の戦いを挑み、派手に撃退されることになった。

当主の今川義元が討たれたのを機に、今川氏(駿河と遠江)のこれまでの東海道における影響力は急低下し、尾張介入、三河介入どころではなくなる状況に陥る。

三河における今川権威の追い出しも顕著になり、それを機に松平氏(徳川家康)も三河の本来の代表格の姿を取り戻すべく、三河再統一に慌てて乗り出すことになる。

松平氏(徳川氏)は、今までの今川氏との力関係で織田氏と対立することが多かったが、尾張(織田氏)と三河(松平氏)とのこれまでの関係は互いに刷新される形で、不戦・協力提携の同盟で仕切り直されることになる。(清洲同盟)

1561 年になると織田氏は、まとまりが欠け始めていた隣国の美濃(斎藤氏)、伊勢(北畠氏)に攻勢を強めるようになるが、特に美濃に対して強めるようになる。

織田氏の美濃攻略は 1568 年に大局が決し、7、8年ほどかかっているが、これは少し先述したが、ただ反織田派を排撃しながら、ただ他領を占領するだけなら2、3年もあればできた話になる。

ただし、それをただしているだけでは再統一的(誓願的・議会の確立的)な達成(敷居統制の裁判権改め・広域の身分再統制)にならないから、そこに時間がかけられた所が、啓蒙的(育成理念的)な大事な部分になる。

織田信長は、無理に大軍を動員して桶狭間の戦いを挑んできて敗退し、総崩れに向かっていった敵方の今川氏のことをむしろ教訓に

 内外の前期型兵農分離(常備軍体制・旗本体制の身分再統制)も整備(再統一)できていない内から

 

 すなわち戦国後期の総力戦体制の切り替えが十分にされているとはいえない内から

それに見合わない権威を今まで通りに維持し続けようとしたり、拡張事業に乗り出そうとする弊害の事例をむしろ「明日は我が身」と自戒に活かしていた。

表向きの軍の規模、表向きの領域の広さといった、威力任せな数物権威(万事面倒がりながら、ただの指標乞食主義で巻き込みあっているだけの不都合的完結一辺倒)の見栄(虚像)をただ見せ付け合えば良いという訳ではない、組織構想(育成理念・目的構築・品性規律)の順序を踏み外しながら乗り出そうとする愚かさを教訓にできていた。

尾張再統一後の、美濃攻略、伊勢北部攻略の乗り出しは、これまでの国内統一の敷居から、今度は他国統一・併合の敷居に切り替えの、今後に向けた大事な演習・訓練だと位置付けることができていた、すなわち中央再統一にも対応できる組織改革を、どんどん進めていった。

まずここが、織田氏と他の群雄とで、大差になっていった所になる。

1540 年代から顕著になり始めた、戦国後期の突入期には各地方は、家来筋などの多少の出身は克服されながら、地元の再統一(地方議会の確立・裁判権改め)ができる者が改めて選挙戦的に代表格として支持され、上の権力構想も入れ替えられながらどうにか地方をまとめるようになった。(分国法の改正)

しかし、地方をそれぞれまとめるようになった代表格の単位で今度は、次の段階のより広域な手本家長(等族議会制)の示し合いとして

 自分たちが高次元側の格上であり、こちらが従わせる側

 相手が低次元側の格下であり、向こうが従わなければならない側

の白黒の等族義務(法治国家化・上としての社会的責任)をつけながらより広域をまとめていかなければならない、高次元な競争状況になると、織田氏を除く諸氏はどこも、せいぜい4、5ヶ国ほどの似たような力量同士で対峙・停滞の「その先を突破できず止まり」となる。

1582 年に本能寺の変が起きる直前の頃には、中国方面では毛利氏が表向き10ヶ国(実質の支配力・動員力はせいぜい6~7ヶ国ほど)を、九州方面では3つの大手の均衡だった大友氏と竜造寺氏を島津氏がついに破るといったように、ようやく突破する動きを見せるが、織田氏の重臣たちから見れば「今ごろになって、はりきりおって」なのである。

それはもはや、織田氏の中央進出後の 1571 年の恫喝(敷居向上)の前例から波及していった、その背中を慌てて追いかけ始めた遠方諸氏たちの、10年遅れの整備(身分再統制・家長権改め)が「今ごろになって」結果として現れたに過ぎない。

 世界線(西洋人たち)の許容・交流まで視野に入れた、日本全体の手本家長としての中央裁判権(等族議会制)の再構築(品性規律の再統一・敷居向上の身分再統制)を実質目指すことができていた織田氏

と、

 結局そこまでできていなかった、狭量(閉鎖有徳的)な地方裁判権止まりのその他の諸氏たち

とのその差こそが

 

 今までの日本を今後、どのように牽引・主導(劣悪性癖を制裁の高次元な身分再統制を)しようとしていたのか?

 

が問われる国家構想(育成理念)の力量差なのである。

尾張再統一の時点での織田氏は、隣国はどこもそこまでできていなかった等族議会制(前期型兵農分離・旗本吏僚体制・身分再統制・家長権改め)の差で、産業政策(楽市楽座の自由産業化、非公認の有徳運動の禁止、公正な役所の設置)でも他国よりも優位な環境を先駆けで、構築することができていた。

その時点で既に大きな違いを見せていた織田氏は、美濃攻略に攻勢を強めた段階で、中央裁判権の確立に向けた予行演習を兼ねて、さらなる人事改革を進めた。

他ではとてもできていなかった、中央政権を目指す前提の部将(師団長)と寄騎(旅団長)の体制(裁判権・議会制・身分再統制)を早くも構築していきながら、その攻略戦を進めた所が、もはや別格だったのである。

 時間面・物資面(産業国力)で余裕をもって、部下の育成も進めながら調略(支持戦)を駆使し、その力量差で相手の結束を切り崩していった織田信長の美濃攻略戦



 長期維持もできない、何度も動員できない大軍を率い、そうした余裕もないまま慌てて乗り出した今川義元の尾張攻略戦(桶狭間の戦い)

との、その企画性(組織戦略)の様子からも違いが歴然としているように、その器量(誓願の敷居・教義指導力・育成理念・組織構想)にそもそも、大差があったといえるのである。

戦国後期に、織田氏の高次元な敷居の大差を諸氏に見せつける形で、戦国終焉に向かわせることになった、すなわち近世の等族国家化(法治国家化に向けての敷居の仕切り直し=身分再統制)に向かわせたこの部分は、現代での個人間、組織間、国家間における見習い合いでも共通する、大事な部分といえる。

織田信長は、1554 ~1560 年の尾張再統一の次の、1561 ~ 1568 年の美濃攻略では、中央再統一に対応できるだけの旗本吏僚体制と、部将(重臣格・師団長)・寄騎(旅団長)の体制作りのための演習と位置付けながら進めていた時点で、他とは別格だった所になる。

1560 年の尾張再統一の時点での、上から順番の親類たちからの連枝(れんき)衆制度を手始めとする家長指名権の人事改革の敷居は、1571 年の織田氏の中央再建の時点で、織田氏では 1560 年の時点でとうに克服できていたその人事改革も諸氏はできておらず遅れをとっていた、そこに10年の時代遅れの敷居の差があったといえる。

啓蒙的な意欲の努力工夫の姿勢が元々あった上で「次の段階に進みたい所だが、何かが足りない」という状態にはできていた個々や組織であれば、やっていることが10年遅れていたとしても、高次元な前例をきっかけにその背中を慌てて追いかけて、3、4年の整備でなんとかその敷居に追いつける場合も、もちろんある。

そのように早めに敷居に追いつけるようなら、織田氏に臣従・和解できれば重臣格扱いされるのは当然で、しかしそれに追いつくように自分たちで議決性を形勢していけないような、公的教義のような極めてだらしない低次元の、ただの騒乱罪予備軍の国賊どもは、格下げ(資格剥奪)が上から順番にされていって当然の話なのである。

姿勢狩りの品性規律の構築など歴史的にできたことがない、ただ下品で汚らしいだけの迷惑千万な公的教義のような低次元(ただの指標乞食の閉鎖有徳)どもが、20年どころか50年かかっても、高次元の敷居に追いつけるだけの議決性を自分たちで構築していくことなどできる訳もない、そんな悪い見本の有害物質どもに待遇と時間を与えた所で、傾国の原因にしかならないのである。

織田氏の中央進出の影響から、三好派から織田派に鞍替えした新参として、家格を仮公認されて目立っていた荒木村重松永久秀だったが、結局その織田氏の高次元な敷居についていけずに、共に身分統制的に脱落・失脚していった。

一方で明智光秀と細川藤孝の2人組は、古参組の経緯を共に歩んできた訳ではない新参組でありながら、その敷居にすんなり対応でき、頼もしい有力家臣として扱われてどんどん起用されていった、それ自体がこの2人がかなり優れていたといえる所なのである。

「独裁」という言葉に惑わされがちだが、本来の荀子的独裁制は、議決性(法治国家化の手本姿勢)に結び付く敷居向上(意見の確認、整理、提出、裁量)を個々から奨励・選出していきながら、その敷居を孟子的合議制に反映させていくという、敷居の改革的な仕切り直しの取り組みになる。(上の等族義務として、そうなっていなければならない)

その組織学的な説明責任(議決性)もろくにもたれないまま、「低次元な独裁者」の姿形だけで当てはめたがる風潮ばかり強いが、織田信長はもちろん、状況回収(議会制の構築)が全くできなくなっていくような、威力任せの失敗型の独裁者などでは決してない。

そうではなく、合議制に反映させていく手本指導のための独裁制(手本礼儀の示し合いの敷居向上)でなければならないことが重視されていたことは、中央進出前から顕著だった所になる。

織田信長は、裁判権改め(議決)ごとに、寺社に奉納(誓願)するために作成されていく公文書(誓願書)に、織田信長自身の名義の署名だけでなく、必要に応じて重臣たちや政務吏僚たち、また役所の代官らや地域の住職や名主ら、その仲介関係者らも確認させながら、必要に応じてそれらにも名義人(等族責任者・見届けの公証人)として連名させている。

 「敷居向上のための意見・状況回収の重さを強調し合い、慎重に確認、整理、提出、裁定され、公正な手本姿勢(品性規律)の言い分に見合った謄本(身分)保証がされていく姿こそが、これからの政治(国家構想)なのだ」

 

と、合議制に向けた等族国家化(法治国家化)の品性規律(育成指導)の前列作りのために、独裁制(手本家長の姿勢)を運用したことは、十分に窺える所になる。

重臣(幹部)は、部将(師団長・現場監督)側と、旗本(本部の政務吏僚側)とで大別できるが、織田氏で議決された内容の公文書(誓願書)が作成されていく中に、外征中の現場では前者の佐久間信盛や柴田勝家らの連名が、中央政治では後者の筆頭の林秀貞の連名がされている。

戦国終焉から江戸時代とは、織田氏による荀子的独裁制の敷居向上から強まって、豊臣氏までその強調が続き、それまでの大幅な向上が徳川氏によって確認されていった、つまり今後の孟子的合議制の確定作業を結果的に徳川氏が肩代わりする形で、江戸時代に向かう流れになる。

当時の下々の多くは、本能寺の変も含めた上の事情を中途半端にしか理解できていなかったが、江戸時代になるとその流れは庶民の間でも

 織田が尽き、羽柴が来ねし天下持ち、座れしままに来らう徳川

 織田がつき、羽柴がこねし天下餅、吸われしままに喰らう徳川


と、深い意味はないが、餅つきをして食すまでの様子と、天下の様子とを掛けた落手が流行していることからも、簡単な流れは世間でも認識できていたことが窺える。

これだけだとまるで、徳川家がおいしい所をさも楽をして得たかのような、幸運にも転がり込んできたかのように、安直に聞こえてしまう所になる。

実際の、法治国家化(等族議会化・組織構想)のための仕切り直しの大変さの、特に、

 教える側 = 身分再統制をする側 = 公正に評価(裁定)できるほどの、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった手本家長的な見方ができる側

 教えられる側 = 身分再統制される側 = 評価(裁定)してもらわなければならない、自身で余裕をもった手本家長的な見方などできていない側

の区別・使い分けというものを、世間下々というのはいつの時代も、そこを中途半端にしか認識(自己等族統制)できていないものである。

しかし皆がいつまでもそのままだから、自分もそのままであり続ければ良い、という話ではもちろんない。

その区別・使い分けがいつまでもできないということは、

 高次元側の敷居 = 教える(見習い合う)大前提の姿勢狩り = 品性規律(育成理念・敷居向上)のための恫喝



 低次元側の敷居 = いきなり「全ていいなり」が大前提の落ち度狩り一辺倒 = 侮辱(劣情)のための挑発

の違いの、本来の法治国家の最低限の品性規律(議決性)を認識(自己等族統制)しようとしないのと同じである。

日頃からそこから物事を注視・指摘できているのかを、見抜く側(育成理念の手本を示し返せる側)と見抜かれる側(失望させ合う生き方しかしてこれなかった側)との器量差(教義指導力・品性規律の差)として、どんどん出てきてしまう所になる。

姿勢狩り(教える側の手本姿勢)の説明責任(意見整理力 = 民権言論の自由原則 = 法治国家の品性規律)をもてたことがない公的教義と大差ない低次元同士が、道義外のよそ(契約主従関係でも、義理関係でも、関心分野でもない門外)に対し、やたらと調子に乗りながら偉そうにケンカ腰に否定(侮辱・挑発)し合おうとする身の程知らず行為自体が、本来の

 和解(敷居向上)を大前提に争う等族国家(法治国家)の品性規律(手本礼儀)を重視(自己等族統制)

 

 それができたことがない、極めてだらしない低次元な閉鎖有徳(指標乞食)行為

 組織構想(育成理念の品性規律)を低次元化させ続けることしか能がない猿知恵(偽善)しかもちあわせていない

 

その白黒(敷居向上の姿勢で恫喝する側と、劣悪姿勢を恫喝される側)をまず自身からはっきりさせられないにも拘わらず、身の程知らずにも道義関係(契約主従関係、義理関係、同業同種的な関心関係など)もないよそに対し、やたらと偉そうにケンカ腰に

 

 そこを延々とうやむやにし合うためにただ騒ぐことしか能がない、ただ失望させ合うことしか能がない国賊行為、騒乱罪行為

なのである。(荀子・韓非子の指摘)

独裁制(敷居向上の姿勢狩り。他力信仰的な全体像的責任)と合議制(敷居維持の落ち度狩り。自力信仰的な道義的責任)の使い分けも、結局はそこになる。

形式的な違いだけでいえば、等族義務( 特に上としての社会的責任 = 法治国家の品性規律 = 公正な議決性 )の敷居さえしっかりしていれば、敷居の管理として

 

 当主(代表)の最終権限が強調

 

か、それとも

 

 当主(代表)に委任される議席(政務の各担当の長官たち)の権限配分が強調

 

されるかの違いでしかなく、裁判権(議会制・誓願確認)であることに変わりはない。

建武(聖属政権の再興)の新政の崩壊でも、室町(世俗政権の仕切り直し)の応仁の乱の崩壊でも、今までの旧式のままの合議制(保守主義)では統制不能になってきていたから、いい加減に独裁制(改革主義)に切り替る必要に迫られていたことが顕著になってきた、しかし法(議会制=上の等族責任)に遅々として対応できないでいたのが、中世前期である。

独裁制(手本姿勢の示し合いによる敷居向上)の代表格を支持選挙的に選出していくという、等族議会的(法治国家的)な仕切り直しの取り組みで、時代に合った合議制に反映していけるような刷新をしていかなければならなかった中、遅々としてそれができなかった。

中央(本家の政局)が遅々としてまとまらずに、地方(家来筋の代官たち)に手本を示し続けられずに失望させ続ければ、地方(家来筋)はやがて時代に全く噛み合っていない旧態合議制(旧態権威・古参教義)に見切りをつけて決別していく形で、競争的(下克上的・独裁制的・見習い合い的)にそれぞれ分国法(家訓・地方議会)を整備せざるを得ない状況になってくるのは、自然な話になる。

 

西洋でも中世に物流・商工業の進展も顕著になると、各地域でその中心地となっていた都市では世俗側としての庶民政治の見直しも顕著になり、都市法を巡ってかなり揉めながら、司教都市(公的教義体質)と決別・脱却していく形で、皇帝都市(自由都市。帝国議会に条件提示して等族諸侯扱いを受ける形で鞍替え)するようになった動きも、まさにその構図だったといえる。

 

日本でも同じく中世の室町の大経済成長期には、西洋都市のように各地の座(市)ごとの、取引法のための農商業組合が結成されていき、地元の寺社と結託する形で、支配者に抵抗的に交渉権を身に付けるようになっていった。

 

しかしまとまりのない正しさの乱立も激しくなる閉鎖有徳(議決性が欠けた価値観争い、その押し付け合い)の原因になっていき、中央再統一(帝国議会=等族議会制)で再整備されるまで、常に教義崩壊と隣り合わせだった乱世に歯止めがかからなくなった部分については、日本も西洋も全く共通している所になる。

家長権争いの武家社会が特徴的だった日本では、手本家長としての格式の器量(育成理念の品性規律・旧式に対する身分再統制)をより示せる、より広域(国際的)に指導・奨励できる当主(代表家長)が求められるようになった、すなわち

 神頼み的な過去の慣習の正しさとやらにただしがみついて、無策無能にただ偶像に頼り続けるだけの、何の主体性(育成理念・国家構想・品性規律の手本礼儀のための誓願)もない、だらしない偽善性癖



 自分たちの課題(格式・敷居)は自分たちで議決性(状況・意見の公正な確認・整理・提出・裁量)を以って解決していかなければならない、等族議会制(品性規律の力量=身分再統制)

の違いを、日本でも西洋でもようやく少しは見直され、少しずつ自覚(自己等族統制)するようになった期間が、ルネサンス(風紀改革)時代の下地となった中世末期である。

それは、戦国終焉に向かわせることができる裁判権(等族議会制・法治国家の議決性の敷居)をより構築できている高次元側の下地、すなわちそこを常にうやむやに騒ぎ合い失望し合うことしか能がない低次元側を裁く(身分再統制する)下地、ともいえる。

 議決性(状況・意見の公正な確認・整理・提出・裁量)の品性規律(敷居向上の手本礼儀)があるといえる公文書・報告書・議事録・誓願書の信用作成もできたこともない、そこに冷静さ慎重さ丁寧さのある姿勢もまずもてたこともない、身の程知らずの低次元同士の分際(偽善者)

   ↓

 ただ下品で汚らしいだけの公的教義と大差ない猿知恵(ただの劣情統制)をただ乱立させ合うことしか能がない、それこそが処刑(格下げ)されるべき国賊行為、騒乱罪行為だと自制(自己等族統制)できたことがない、その等族国家(法治国家)としての最低限の手本礼儀(品性規律)など皆無な集まり


が人の上に立とうとする(議決性も無しに道義関係もないよそを人格否定したり従わせようとする)身の程知らず行為(閉鎖有徳行為)は裁かれる時代として、荀子的独裁制(手本家長の改革姿勢・等族議会制の構築)で上から順番に等族統制(公務士分の仕切り直し・身分再統制)されるようになったのが、中世後期から近世への移行期であった16世紀の、戦国後期の総力戦時代である。

織田信長にとっての尾張再統一はいってみれば、まず荀子的独裁制(手本家長の姿勢による敷居向上)で裁判権(等族議会制・旗本吏僚体制)の基礎を確立、確認する期間だったといえる。

尾張再統一では、それまでまとまりもなく各地に散らばっていた、今までそれぞれの地元の閉鎖有徳との結び付いてそこにしがみ続けてきた小口の地縁領主たちの風潮を改めさせながら、公認されていない旧態地縁特権は織田家(家長)にいったん返上させる形で、政局城下の武家屋敷にいったん強制収容していったのが特徴的な所になる。(閉鎖有徳狩り。農商業改革のための集権化)

今までちっぽけな旧態地縁特権を巡る蹴落とし合いと隣り合わせで必死にやりくりしていた、それら多くが武家屋敷に強制収容されるようになり、その生活費は、働きや手本に見合った家格・格式の再統制がされながら、貫高制(かんだか・給料制)でいったん再保証されるようになる。(この整備後ののち、石高知行制に再び家格整備されていく)

今まで敷居(基準)がバラバラな閉鎖有徳の単位で上下統制していた、尾張の国衆(家来筋・旧態地縁領主)たちとその地縁の半農半士たちとの関係、つまり国衆とその部下たちの旧態的な主従関係は改められ、そもそもの国衆たちの家長資格・分家資格も、公認制(議会制・手本家長の姿勢)の敷居に改められていった。(家長指名権・前期型兵農分離・身分再統制)

この動き自体は織田家だけでなく、地方再統一をやるようになった他でもその流れになってはいたが、織田氏は別格だったといえるほどこの人事改革(常備軍体制としての区別=公務士分改め)が特にできていた所になる。

格下とやらの織田氏に先駆けでそれをやられてしまい、その敷居に合わせることもできるかも怪しくなっていた、格上とやらの今川義元がその様子にあせるのも当然の話だったのである。

美濃の斎藤氏も、伊勢の北畠氏もそれと同じで、近隣の織田氏の高次元な強国化(身分再統制・等族議会制の整備)によって、ますます追いつけなくなる違いを見せ付けられてしまえば、閉鎖的(時代遅れ)な統制の仕方しかできていない低次元側の化けの皮もどんどん剥がれていく形で、代表格(組織)としての存在意義(求心力)は低下していく一方なのである。

 

それは現代における簡単な構図でいえば、人気の商品力・提供力でどんどん企画・成長していく商社に、競合がその敷居に段々ついていけなくなっていき、自分たちの特色(主体性)の差別化も出せなくなっていけば、存続意義(求心力)は低下していく一方のも当然の、その内にやっていけなくなる構図と同じである。

 

落ち目になっていても、改革的な見通しの努力工夫が見られるなら、ひいきしてくれる利用消費者も残ったり、その商社に入社したいという意向なども維持されるが、魅力を感じなくなる末期症状になれば、下落を続ける株の投げ売りが始まる事態に歯止めがかからなくなっていくのも、当然の話なのと同じである。

尾張再統一によっていったん横並びに再整列し直され、その次の段階の美濃攻略はいってみれば、佐久間信盛に続く柴田勝家や羽柴秀吉などの重臣や、前田利家や森可成や金森長近ら有能な有力家臣たちの候補生選び(身分再統制)の区別が、より具体的になっていった期間になる。

つまり、織田信長とその直属の旗本吏僚たちへのただのいいなり組織であるかのような、力関係のただの丸投げ採決の組織ではなく、これからは組織の重役たちも広域的に他方に出向いてその敷居で下々を統制・牽引していけるように育成する、本部指導筋(旗本筋)と現場指導筋(部将・寄騎筋)で連携していく体制作り(敷居作り)の、さらなる人事改革(国家構想)の期間が、美濃攻略のもうひとつの大事な企画だったといえる。

指導方法こそ荀子的独裁制だが、敷居向上後の孟子的合議制の見通しもさっそく向けていた、その面での議会的(法治国家的)な権限配分(議席・諸侯体制)の使い分け(見通し)の努力工夫も積極的に取り組まれていた。

陥りがちな、いつまでも威力任せの権力(ただ偉そうなだけのだらしない正しさとやら)をただ握り続けようとする、主体性(強者側としての本来の有徳思想=育成理念=等族義務)を疎かにし始める愚かさを自覚(自己等族統制)しようとしない、失敗型の気の小さいだらしない独裁者とは大違いの部分といえる。

 高次元化の敷居向上(品性規律の手本礼儀)の姿勢狩り(見習い合い)を重視

できているのか、それとも

 「いいなり以上・手本未満の落ち度狩り」の低次元な敷居で、ただうちのめし合いただ従わせ合い、ただ疲弊させ合いただ失望させ合うことしか能がない分際(偽善者)

 公的教義と大差ない低次元な猿知恵(ただの指標乞食主義)の侮辱(ただの気絶)挑発(ただの劣情)の手口にまんまと乗せられ続けてきただけの、だらしない分際(偽善者)

なのか、現代の個人間・組織間・国家間でも、その敷居の見抜き方の話も同じ、そこに普段から冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方ができているのかの力量(議決性)も、同じ話なのである。(荀子・韓非子の指摘)

荀子的独裁制(敷居向上の姿勢狩り)と孟子的合議制(敷居維持の落ち度狩り)の使い分けをしながら、上から順番に制裁(下から順番に救済)の裁判権(等族議会制)の確立をどんどん進めることができていた、その力量差(国家構想を目指す品性規律)こそが、織田氏とその他とで、大差となっていった部分である。

織田氏の美濃攻略は、人事改革で産業奨励が進んで強国化していた尾張の、国力差の物量任せでやろうと思えば2、3年でできた所、それに7、8年ほどかけることになったのは、部将・寄騎体制の敷居を整え、併合後の美濃もその敷居で統治できるかを、よくよく確認するためだったからといえる。

旗本(武家屋敷)に一斉に強制収容され、いったん横並びに再整列された家臣たちの中から、今度はそこから見込みのある有志を名義的(議会的)に選出していきながら、高次元な敷居に育成していく、その貴重な演習にもされていたのが、美濃攻略の目的に位置付けられていたのである。

織田信長は、軍事的に有利だから、勝てるからといってただ威力任せに占領を進めればいいという訳ではなく、時代に合った敷居(議決性)を確認(尊重・誓願)し合える側と、それがろくにできておらずにただ失望させ合うことしか能がない側との政治的(身分再統制的)な力量差(品性規律)をはっきりさせていきながら、調略的な支持戦を展開していくことも重要であることを家臣たちに、手本家長の姿勢でそこを熱心に育成していった。

旗本(本部監督筋)または部将・寄騎(現場監督筋)の見込みのある候補生たちに、争和や調停の誓願書(公文書)に織田信長と共に等族責任者としての名義人として連署させていきながら「このような公正な手配(議決性)の仕方で、新たな裁判権を敷いていくのだ」と権限配分がされていく動きも顕著になったのが、美濃攻略の特徴でもある。

1568 年の美濃攻略後に間もなく乗り出された近江・山城攻略戦(中央進出戦。妨害に動いた六角氏と三好氏の掃討戦)では、そうした様子から重臣格、有力寄騎扱いされるようになっていった面々の存在とその活躍が、いよいよ顕著になってくる時期になる。

織田信長は有力家臣たちに

 

 「これで要領はもう大体解っただろう」

 

と合格(多くの下々を率いる格式)の公認が出されながら、作戦の規模に応じて

 

 「織田家の敷居(裁判権)に従わない現地に、俺の名代(代理人)としてお前らが向かい、上から順番に天狗の鼻をへし折ってこい!(地方再統一をしてこい!)」

 

という体制が整えられながら、活躍が段々と目立つようになったのが、佐久間信盛(尾張時代からの筆頭家臣)、丹羽長秀(参謀格として少し特殊だった)に続く、柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、池田恒興、原田直政ら、そして明智光秀もその一員になる。

 

厳密には連枝衆(れんき。親類家格)の織田信忠(美濃代理。織田信長の次代)、織田信治(弟。近江南部代理)、織田信包(のぶかね。弟。伊勢代理・北陸方面代理)、織田信興(のぶおき。弟。尾張西部と伊勢北部代理)、織田信孝(子。伊勢代理。四国方面予定)、織田信雄(のぶかつ。子。伊勢と尾張代理)、織田秀勝(子。山陰・山陽方面代理)など、諸侯扱い(近世大名扱い)の予定のそれら名義人の下(もと)によっての、その実務の代表者という形態が採られた。

 

このように上から順番に親類(家来筋)から再統一(裁判権改め。家長権・家訓改め=武家法典の仕切り直し)すること自体、他ではとてもできていなかった所になる。

織田信長は、尾張・美濃併合までの古参筋には

 「古参として、新参たちの上に立とうとする以上は、新参の倍の手本を示すことができて当然」

 「新参でも、古参よりも手本を示すことができている有志であれば、古参を追い越して優先権が与えられ抜擢されるのは当然」


と、古参から順番、上から順番に厳しかった。

地方の代表格の入れ替わりが激しくなった戦国後期までに、その公認も曖昧なまま中途半端に旧式の家格(自治権)を身につけてしまい、武家屋敷への収容を免除してもらっていた、それまでの待遇を仮公認してもらっていた者たちは「正式な公認を得たいのなら、それに見合っただけの働きや、皆から一目置かれるような議決性ある手本を見せよ」となお厳しかった。

いったん横並びに整列され、その敷居についてこれた者たちは当然のこととしてどんどん抜擢されていったが、上としてのあるべき姿勢もその分だけ、さらに求められた。

1580 年には、それまで世俗裁判権か聖属裁判権かで織田氏と浄土真宗(本願寺)とで争っていたのも、浄土真宗側がついに折れる形で臣従・和解に向かうと、それを契機に仮公認の有力者たちの一斉の人事整理(失脚劇)が行われる。

大半は、新参たちにそれだけの手本を示すことができていなかった、待遇に見合っていないことが理由の、旧式家格がいつまでも保証される訳がない仮公認がいよいよ取り消される形で、失脚していったのが実質だったといえる。

佐久間信盛については後述とし、1580 年のこの人事整理からも、1582 年までの皇室と織田氏の継承式典の予定までに、今後の孟子的合議制に向けた確定作業は、まだ正式発表がされていなかっただけで内々では議決されていた見てよく、浄土真宗を降すことを契機に、聖属側(廷臣たち)への大幅な人事整理(格式の仕切り直し=身分再統制=公家諸法度の前身)についても当然含まれていた、それは間違いない所になる。

そちらの続きは後述とし、別格な高次元だった織田氏の中で、古参たちと比べてその体験が浅かったはずの新参筋として急抜擢されていった明智光秀、厳密には細川藤孝との2人組は、その意味でもかなり優秀だったことが窺える。

先述したがこれは、地方の代表格同士の裁判権争いにおいて、強国化(高次元化)の見込みのある側に他家の家臣たちが臣従しようと思っていても、新参が臣従先の古参と同格扱いされる訳がないという旧態風潮による、併合化の弊害への、克服対策の部分ももちろんある。

その弊害とは

 

 「併合されて新支配を受ける新参側は、今までの地元の特権は臣従先の古参たちの権限拡大に優先的に当てられていくだけで、どうせ新参は優先権など与えられずに冷遇される一方で、優遇されることなどない」

 

という閉鎖的な考えから、融和的(議会的)な併合ではなく非同胞拒絶的な併合による、失脚した残党たちが地縁の半農半士を煽って裁判権改めの妨害を延々としようとする、弊害である。(閉鎖有徳問題)

その弊害を克服(人事改革)するために織田氏は、その敷居に不慣れで、先行きも不安な新参たちを臣従させやすくするための、寛大なやり方の努力工夫もかなりされていた。

織田氏の敷居の裁判権(等族議会制)に従う以上は、新参である不慣れな分の多少の落ち度は大目に見ながら、古参と同列になれるような指導を新参にも施し、それだけでなく働きや手本次第では古参よりも優先権が与えられる可能性があることも、熱心に奨励していった。(古参主義対策、風評弁慶対策、教義改め)

 

高次元側低次元側の大きな差は、失望させる手本なき敷居低下(ただの劣情共有)の劣悪姿勢こそが、それが敷居向上(主体的な意欲・計画性)を大いに阻害するというその自覚(自己等族統制)を日頃から、いかにできているか、いかにできていないの違いなのである。(荀子・韓非子の指摘)

織田氏とその他との差とはこのように、戦国前期までのその弊害を人事改革(身分再統制)で大幅に克服できていた高次元側と、それができていない、そこが時代遅れなままの低次元側の力量差としてそのまま、日本全体をまとめようとする国家構想(育成理念)の裁判権(議会制・代表家長)の目指し方の敷居に、歴然とした差が出てきていたのである。

中世以降から現代に至るまで、その最低限(法治国家としての品性規律があるといえる議決性)の指導などできたことがない、猿知恵(ただの指標乞食主義・ただの劣情統制)のいいなりに偶像崇拝することしか能がない無能(偽善者)が人の上に立とうとする(公務士分待遇を得ようとする)、人類史上その愚かさを克服できたことがない公的教義というただ下品で汚らしいだけの存在は当時も今も、人類に損害を与え続けることしか能がない迷惑千万な存在なのである。

明智光秀と細川藤孝の2人は、新参たちを奨励する見本として抜擢された強調ももちろんあったが、誰でも良いという訳ではもちろんない、手本として優れた者でなければならない中での、抜擢なのである。

この2人組も、目付(旗本吏僚)たちの指導ももちろん受けていたと思うが、経歴が浅い新参だったにも拘わらず、別格な高次元の敷居の手本姿勢に対応できたこと自体が、それだけ2人が優れていたことが窺える所なのである。

最下層出身の羽柴秀吉の抜擢の強調と同じように、新参筋として急抜擢されていった明智光秀のさらなる飛躍として、その前任的な存在であった筆頭の佐久間信盛との交代劇はどのようなものだったのか、またなぜその後任が明智光秀だったのかが細川藤孝も関係していたこととして、次にそちらの視点について、まとめていきたい。