近世日本の身分制社会(087/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか15/? 2021/12/29
 

明智光秀が、どんな事情で本能寺の変を起こしたのかについては、

 

 まず織田信長が中央(京・山城)に乗り込んだ再建後がどのようなものであったのか

 

 それまでの日本はどのような状況で、今後どうするつもりだったのか

 

からひとつひとつ確認していくことが、まずは重要な鍵となる。

まずは、低次元な旧態慣習(何ら敷居向上に結び付かないただの指標乞食主義=ただの猿知恵争い)を疑い見抜きながら刷新していく姿が、荀子的独裁制の手本礼儀の示し合いの、高次元化の戦国終焉(敷居向上の和解)の時代だったことの意味を、よくよく理解しておく必要がある。

その教義史・裁判権史・議会制史の観点で、近世化・等族国家化(法治国家化)に向けた裁判権の確立(等族議会制の確立)の様子を確認していかなければ、何も見えてこない所になる。

人類がようやく等族議会制( 国会議事堂の原点 = 意見提出力・状況回収力・裁量力 = 法治国家としての裁判権・家長的代表権の品性規律 )に取り組むようになった16世紀とは、その議決性(育成理念)を

 

 自分たちの品性規律(裁量の順番)を、自分たちでろくに再統一(敷居向上の仕切り直し)してこれなかった、猿知恵( ただの指標乞食主義 = ただの劣情統制 = いいなり以上 手本未満)で負担を押し付け合うことしか能がない低次元側

 

 

 自分たちの品性規律( 組織構想の整理・裁量の主体性 )を、自分たちで再統一( 敷居を仕切り直し )するようになった高次元側

の違いから、内外の国家構想(育成理念)の力量差が問われるようになった時代なのである。

現代での個人間、組織間、国家間の目的構築(育成理念)の、低次元なのか高次元なのかの敷居の向き合い方、見習い合いも、そこは同じである。

 

まずその議決性(当事者性)に向き合おうとしていて、法治国家的な品性規律(自分たちの育成理念。自分たちの身分再統制)を重視した人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)の観点(議決性)に向き合おうとしているといえる。

 

本能寺の変のことだけでなく、何事にでもいえることとして、ややこしくて訳が解らなくなるものほど、

 道義狩り( 巻き込み的な敷居の落ち度狩り ・ 孟子的合議制 )の不都合的完結

それ一辺倒で万事面倒がっているだけ、ただ当事者性(自己等族統制の敷居)を否定し合っているだけ、閉鎖的な道義関係(契約主従・義理関係)にただ頼り切っているだけの無能(偽善者)に成り下がることのないよう、

 教義狩り( 当事者ごとの敷居の姿勢狩り ・ 荀子的独裁制 )の主体都合的継続( 目的構想・育成理念の手本礼儀・品性規律の示し合いの議決性 )

の当事者ごとの必要に応じた導入・使い分けを推奨(敷居向上)し合うために、そこに冷静さ慎重さ丁寧さを以って、目的、状況、環境、経緯、構造といった、社交的で公正な内外確認力(等族義務)を深めていく手本姿勢が、まずは重要になる。

そこに余裕をもった見方(議決性)などもてたことがない、

 和解(敷居向上を誓願・約束し合う)を大前提に争うという、法治国家の品性規律(国際人道観)の最低限の手本礼儀の示し合いの基本もできたことがない、ただ侮辱・気絶(思考停止)し合い、ただ失望し合うのみしか能がない

 その最低限もできたことがない猿知恵( ただの指標乞食主義 = ただの劣情統制論 = いいなり以上・手本未満 )を猿知恵( 末期症状 )だと自覚( 自己等族統制・身分再統制 )できたことがない

 

今の公的教義と大差ないような身の程知らずな低次元側に対し、高次元側としての最低限の手本礼儀を示し返しながら決別していくことが、荀子・韓非子のいう本来の組織学(自己等族統制)の根幹なのである。

公的教義のような低次元な固定概念(ただの猿知恵)でがんじ絡めに固まっているだらしない部分は、全て自身でほどきにかかるくらいの議決性(育成理念・目的構築)の姿勢くらいあって、人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)に向き合おうとしている姿勢といえる。

本題に入り、そもそも明智光秀という人物は織田家中においてどんな存在だったのか、当時の特徴や、織田信長の人事の特徴としても、今回触れていきたい。

明智光秀の抜擢も、羽柴秀吉の抜擢と類似している所が、あまり注目されてこなかった所になる。

木下藤吉郎(羽柴秀吉)は、織田氏の弓衆(護衛軍)として信任のあった浅野氏の、その親類連合の木下氏の管轄の、地位の低い半農半士出身だったと筆者が仮定した先述を、少ししてきた。

地位が低いながら見込まれた木下藤吉郎は、木下氏の本家筋との婚姻の斡旋を織田信長から受ける形で、まず木下氏の代表格として格上げされ、そしてその親類連合の代表格であった浅野氏をも統括する立場に格上げされ、重役に抜擢されていった。

これはまず、羽柴秀吉が才覚を買われたのは良いものの、本人による政党的な初動の家臣団の基盤が全く無かった弱点を浅野氏に補わせること、さらにはそのような者でも、こうした形で抜擢される可能性もある事例作りによって、地位の低い者たちを奨励するという人事改革の強調でもある。

織田信長のこの人事改革(地方再統一の家長権改め)の都合は、浅野一族からすると木下藤吉郎の格上げを強制的に義務化されてしまう形となったために、その親類連合である杉原氏、木下氏、安井氏らからすれば当然のこととして、内々の不満も挙がったと思われる。

木下氏から派生した家来筋であったが、士分特権を維持できずのどこにでもいるような半農半士の下っ端の出身だったと仮定する木下藤吉郎と、その親類連合の代表格(家長)の浅野長政との関係とは、本来は対等に会話し合うような間柄ではない、アゴで使う格上側とアゴで使われる格下側ほどの関係なのである。

しかし木下藤吉郎とは年齢的に同世代の当主の浅野長政は、気概を通じる品性のある人物で、出身は低くても織田信長から直々に評価され始めていた木下藤吉郎の才覚と将来性は、浅野長政も認めていた所だった。

織田信長のこうした、家臣ごとに対する家長公認・指名権の人事行使は簡単な話ではなく、これができるようになるためには、かなり高次元な再統一(裁判権改め・家長権改め・前期型兵農分離・身分再統制・等族議会制の確立)ができていなければならない。

戦国前期なら騒動が起きる人事だが、もうそういう時代になったことを浅野長政とねね(のち高台院)も観念しながら、織田信長の意向を受けて手本的に一族をまとめ、木下藤吉郎を格上げすることに協力的な姿勢を見せたため、織田信長も遠回しに2人のことを高く評価した。

杉原定利の娘のねねが、木下氏の娘扱いの手続きを受けた上で木下藤吉郎と結婚するが、これによってまず、木下氏の末端の下っ端であったはずの木下藤吉郎が、木下家の本家筋に同列入りするという格上げを受け、そこから浅野連合そのものの家長扱いに至るという、この2段飛び、3段飛びの急速人事自体が、他ではとてもできなかった異例なのである。

他の地方では簡単な話ではなかった、このような人事改革が整備(克服)できていた織田氏は、尾張再統一が果たされた時点で、ここまではとてもできていなかった他の地方から見れば、それ自体が品性規律面(裁判権・議会制・身分再統制)での多大な脅威だったといえ、織田氏が時代刷新の見本として評判になるのも当然だったといえる。

こうした、上から順番の人事改革から、織田氏の啓蒙組織ぶりが十分に窺える所になる。

 

先代からのさらなる産業改革をどんどん進めていた織田信長の尾張再統一(改革)の様子に、一方でそれに追いつかずに落ち目になっていた、それまで織田氏よりも列強を自負し続けてきた近隣の今川義元が、あせるのも当然だった。

格下のはずであった尾張の織田氏に、前期型兵農分離(常備軍体制・旗本吏僚体制・身分再統制)ができている側と、できていない側との違いを見せつけられてしまい、手に負えない脅威を受け始めていた今川氏は、まだ余力が残っている内に叩いておこうと慌てて、あの桶狭間の戦いを挑むことになったのである。

今川氏は本来は尾張に大軍を差し向けている場合ではなく、地元の駿河と遠江(とおとうみ)の再統一(旧態の裁判権改め=時代に合った等族議会制の確立=身分再統制)に乗り出さなければならない立場だった。

今川氏は、三河の松平氏(徳川氏)の衰退後に力関係で臣従させ続けてきたのも含めた、駿河・遠江・三河の支配を今まで通りの裁判権(旧式の議会制)で維持しようと、織田氏に挑んでしまったことが、今川氏の敗退と衰退の引き金となった。

1560 年の尾張再統一と、今川軍の撃破後も改革は進められ、美濃攻略を果たしたも同然となった 1568 年には、織田氏のその目立った組織改革の様子は、すっかり評判になっていた。

中央では 1565 年足利義輝が三好派(反義輝派)に襲撃・暗殺されてしまい、京を追われた弟の足利義昭と、それと同じくの中央関係者たちは、越前の朝倉氏の下(もと)に逃れ、中央進出を催促した。

しかし朝倉義景(よしかげ)は、足利義昭の一向を庇護こそしたが、それに乗り出そうとはしなかった。

足利義昭の一向はしばらくして 1568 年に美濃併合を果たして評判になっていた織田氏に頼るようになるが、足利氏の有力家臣の細川藤孝(ふじたか)に見込まれて同行していた明智光秀と共に、それをきっかけに2人は織田信長から知遇を得るようになる。

織田氏に攻略される前の美濃(岐阜県)は、本来の代表格であった土岐氏の衰退後は、重臣格の斎藤氏(土岐氏と親類関係をもっていた家系が多かった)が肩代わりするようになるが、明智氏(土岐一族)は、のち斎藤一族による美濃再統一戦で没落した口になる。

斎藤道三(その娘と結婚した織田信長にとって義父)と斎藤義龍(よしたつ。斎藤道三の子)とで、美濃の方針を巡って親子で争った際に、明智光秀の叔父であったといわれる、明知城の代表格であった明智光安は道三派として敗れ、道三派が濃かった明智一族は美濃を追われた。

織田信長は当時、劣勢だった義父の斎藤道三を救援しようと援軍に向かうも、現場に到着する前に早期に決着してしまったために、やむなく引き揚げることになった。( 1556 年の長良川の戦い)

当時の明智光秀の動向ははっきりしておらず、その政争で明智光安の下に居たのか、またどのように美濃を追われたのかも、よく解らない所になっている。

そうではなく外遊をしていたという説、つまり見識や人脈を広めるために各地を訪問しながら、仕官活動をしていたという説や、以前から足利家の有力家臣との主従関係だった説などがある。

織田氏よりも先駆けで越前の再統一を果たして経済的に余裕があった朝倉氏の下に、明智光秀はいったん落ち着き、朝倉氏から知遇は得ていた説もあり、ただし当主の朝倉義景(よしかげ)はその抜擢には、積極的ではなかった。

いくら才覚があり、誰にも負けないほどの活躍で組織を強化できる人材だったとしても、古参主義の克服は簡単ではなく、由縁もない新参を抜擢して優先権を与えること自体が、古参たちから反発を招いて騒動になりやすい所になる。

織田信長のように、思い切った新参の抜擢を平然とやってのけるような人事改革(身分再統制・国内再統一・家長権改め・裁判権改め・議会制の確立=閉鎖有徳狩り)など、他はとてもできていなかった。

それができる組織と、できない組織との裁判権改め(時代に合った分国法=地方議会の再構築)の力量差(手本家長の姿勢)が、戦う前から脅威になる身分再統制の時代に、なってきていたのである。

だからこそ、過去の地方議会(分国法)のままでは衰退していくばかりという危機感を、地方ごとでまず上層からもち、刷新期には、争うにせよ和解するにせよ、表向きだけでも今後の方針(誓願・議決性)の白黒をはっきりさせていくために、再統一(分国法・議会制の再構築)をしていかなければならないことも重視されていった。

それを自分たちでできずに、いつまでもまとまりのないだらしない地方は、それがよりできていた近隣の列強に降参しなければならなくなっていったのが、戦国後期の総力戦時代の突入の特徴になる。

斎藤義龍も、親類筋(斎藤一族、土岐一族ら)の派閥を始めとし、長井氏、稲葉氏、不破氏、安藤氏、遠山氏(名族・加藤一族)といった美濃の有力者らから結果的に支持を得る形で、美濃再統一(組織改革・裁判権改め・議会制の再構築)によって当主の地位を勝ち取ったため、有望視されていた。

しかし支持を得て整備を進めていた最中に斎藤義龍が急死してしまい、中途半端な状態で子の斎藤龍興(たつおき)が継承することになってしまったため、美濃のまとまりが急に欠け始め、一方で尾張再統一で領内をまとめて強国化していた織田氏に、攻略の好機にされてしまった。

織田信長によって美濃攻略が果たされた際に、斎藤道三の政務吏僚であった猪子高就(いのこ たかなり)が、織田氏の政務吏僚として編入されるが、美濃の事情に詳しかったこの猪子一族が、明智光秀のことを知っていて案内したという説もある。

美濃を統合して評判になっていた織田氏に、中央関係者たち(細川藤孝と明智光秀も同行していた)が頼ったことをきっかけに、織田氏による中央進出が早々に強まった。

それをきっかけに、和泉(いずみ・今の大阪府西部の和泉市と堺市)の堺衆(有力な商人団)たちにとっても悲願であった、京の復興事業を織田氏に期待する形で、それに協力的な動きを見せたのも大きかった。

さらには、その堺衆たちと既に交流するようになっていた西洋のキリスト教徒たちも、織田氏のその台頭の評判ぶりに「日本の今後の主導政権ではないか」と期待し、交流のための謁見をさっそく求めるようになったのも、これも織田氏がさらに一目置かれる要因となった。

羽柴秀吉が、浅野長政とねね(その親類の杉原氏の娘だが、木下氏の娘扱いとなる)の協力を経て抜擢された経緯と、明智光秀が細川藤孝の協力を得て抜擢された経緯が、類似している所になる。

羽柴秀吉が組織の重役として活動していく上で、それを浅野長政が補ったように、明智光秀の立場も細川藤孝に支えられた関係が、類似している。(順述)

羽柴秀吉と明智光秀は出身の事情こそだいぶ違うものの、ただし共に地位は低く、織田家中の古参・上層から見て新参筋からの大抜擢だった所は同じになる。

新参であったとしても織田氏においては、手本的な才覚と働き次第では抜擢される可能性は十分にあるという、人事改革における奨励の見本にされた存在として、同じ役割を得ていたといえる。

明智光秀も領地特権(格式)の根拠が最初から乏しく、その本家筋だったのかもよく解らないような小口の者を、優れた人材だからといって抜擢しようにも、家中としての由来もあまりにも乏しすぎると、格上げの典礼をまずどうするのかが、なかなか大変なのである。

他の群雄でも人事改革はそれなりに意識されていて、家臣の中の家来筋で序列・地位は低くても、才覚が見込まれて抜擢されようとする動きは、戦国後期においては珍しいことではなかったが、当主の力量がまさに問われる、難しい所でもあった。

序列の低い者を格上げさせるために、その家系の本家筋の娘との婚姻を斡旋したり、または他の有力家臣団を強化させる目的で、序列こそ低いが他家の有望な者を養子入りさせる斡旋をしたり、さらには当主筋(地方の代表格の親類)の娘と結婚させて、当主の親類扱いに抜擢するといった工夫は、他でもされていた。(家長指名権)

ただしそれをやるだけの身分再統制(地方再統一・裁判権改め・議会制の確立)が進んでおらず、啓蒙的な団結が欠けているほど「なぜ我々(旧態古参)が優遇されずに、今までの威厳・格式の基準と違う家系(新参)の者に優先権が与えられるのだ」と反発も招きやすい所になる。

どの地方もただでさえ足並みを揃えることに苦労している中で、地位の低い者への格上げを、議決性(誓願力・説得力)が欠けたままに当主や推進派が権力任せに強行するようなることばかりすると、家臣同士で激しく対立し始めて主従関係も崩れ、その内に対立主君の擁立合戦まで発展する引き金となる。

再統一(議会制の再構築・誓願)の見通しがあっての擁立合戦であればやるべきだが、それも無しにただ利害で蹴落とし合うだけのものであれば、その内に各家臣の家系ごとでも安直な家長の擁立合戦の低次元化が始まってしまい、戦国前期の巻き戻りになってしまうのである。(それが応仁の乱の典型構図だったからこその、家長権改め)

伊達輝宗(伊達政宗の父)の家老(側近の首座。家政代理)として急抜擢された遠藤基信(もとのぶ)は、伊達家の財政改革に貢献し、外交戦略でも活躍し、家老のあり方の手本前例を作ったものの、この遠藤家は元々の家格が大して高くなかったことが重荷になっていた所もあった。

そんな中で、主君の伊達輝宗が畠山義継(二本松義継。よしつぐ)に謀殺されてしまう事件が起きたのをきっかけに、その重荷があった中の遠藤基信は自身の適任な後釜として、次代の伊達政宗を大いに支えることになる参謀の片倉景綱を、自身の切腹を以って指名した。

そのように時に上から順番に、そのくらいの覚悟で誰にも文句を言わせないような等族責任を以って、家運全体を掛けた指名の仕方をしなければならないことすらあった。

足並みが揃わずに外圧に振り回させてばかりいた尾張を、本家筋に代わってまとめた織田信秀が急死した時も、その継承は織田信長か、織田信勝(のぶかつ)かで織田家中も険悪になり、元々の本家筋(伊勢守家と大和守家)たちも乱れ始めると、それまで織田信秀を支えていた老臣の平手政秀が、等族責任を感じて切腹してしまったのも共通している所になる。

これも、見通しもないまま織田家中で分裂している場合ではなく、信長公なら信長公、信勝公なら信勝公で皆も一貫して支持・団結しなければならない大事な時期であることを死を以って訴えた、忠臣の姿勢だったといえる。

人事改革が求められながらも簡単ではなかった時代の、羽柴秀吉の抜擢は大いに目立つ異例だったといえるが、明智光秀の抜擢も十分に異例だったといえ、これができている側と、そこまでできていない側とで、裁判権改め(等族議会制の確立・身分再統制)の力量が大差となる時代に、なってきていたのである。

羽柴秀吉を支えた浅野長政との関係も少々ややこしいように、明智光秀を支えた細川藤孝との事情もまた、少々ややこしい。

細川藤孝の息子で、のち肥後の大藩の祖となる細川忠興(ただおき)と、明智光秀の娘の明智たま(細川ガラシャ)が結婚し、このたまが次代藩主となる細川忠利を産んでいる間柄になる。

この九州の大手の細川家が、79代総理の細川護熙(もりひろ)氏の祖先にあたり、幕末までどうにか家名存続し得たこうした大手の家系は、明治政府から華族扱いを得る形で、その後の近代政府に関与した家系も多い。

この細川藤孝、細川忠興の親子は共に優れた人物であったが、細川藤孝がまずどのような立場、人物であったのか、明智光秀の立場を知るためにも紹介していきたい。

この細川藤孝は、三淵晴員(みつぶち はるかず)の子で、三淵藤英(ふしひで)の弟になるが、この三淵家は、かつての室町政権で1位2位の権力を競った名族・細川氏の、有力な親類になる。

今川氏や斯波氏(しば)のようにこの細川氏も、室町政権の代表家長(武家の棟梁)である足利氏(源氏の本家筋)から派生した上層の有力者で、戦国前期には権威の失墜を続けた足利氏をこの細川氏が代理する形で、中央再統一に躍起になるが、共に衰退の一途をたどった。

戦国後期になると、この細川氏の有力家臣団のひとつであった三好氏(信濃の名族・小笠原一族から派生したといわれる)の急成長によって、細川氏のこれまでの中央の主導実権も、この三好氏に奪われていく形で、細川氏の権威は失墜していった。

急成長した三好氏がとりあえず中央進出を果たし、細川氏に代わって畿内(きない・当時の中央近隣。今の関西方面)の支配力を一時的に身につけるものの、以後の見通しが曖昧なまま当主の三好長慶(ながよし)を失うと、三好氏も結束を欠くようになる。

にわかに力をつけた三好氏の重臣たちであったが、室町最後の希望として主体性(議決性)をもって信望を回復し始めた足利義輝の存在を期に、室町再建(世俗政権の仕切り直し)を支えようとせずに、実権を握れなくなる政敵と見なして暗殺してしまった。(義輝派を追い出してその対立筋の足利義栄を擁立)

それならそれで武家政権(世俗政権)をどう再興するのか、三好軍団はただ政敵を排除するだけで肝心のそこをはっきりさせられない、つまり中央再統一(議会制の再建)をはっきりさせられずにそこを結局うやむやに、権威的に中央に居座り続けていただけだった。

そんな折、前期型兵農分離(身分再統制・旗本吏僚体制)の人事改革を進めながら、美濃斎藤氏攻略を果たして評判になっていた織田信長に、中央再興の期待が寄せられる形となった。

中央関係者たちの要請を受けることになった織田信長は、山城にただ居座っていただけの三好派たちの追い出しに成功後も、畿内で中途半端に支配力(裁判力・指令力)を維持していた、まとまりのない三好派の掃討戦にどんどん乗り出すことになる。

畿内で織田氏に排撃対象にされ、劣勢になっていった三好氏に見切りをつけ、三好派から織田派に鞍替えした者たちも増えた中、摂津(大阪府北部)の荒木村重と、大和(やまと。奈良県)の松永久秀の、この2人の新参の有力筋の仮保証は、特に顕著だった所になる。

話は戻り三淵氏は、足利家を護衛する奉公衆(ほうこうしゅう。旗本)という重役を務める家系のひとつであったが、中央にまとまりのない情勢が続き、奉公衆たちの領地特権も奪い合いの横領が続いたことで、戦国後期の奉公衆たちは、足利氏を支えられるだけの力をすっかり失ってしまっていた。

細川氏の有力家来筋で、形式上は和泉(いずみ)の支配代理の家系であった細川元常(もとつね)は、当主筋の細川晴元による巻き返しによって一時的に権威を回復できたこともあったが衰退の一途をたどり、周囲の者たちも戦死や病死などが続いて、この家系の後継者を失ってしまっていた。

細川元常は、消滅しかけていたこの和泉守(いずみのかみ)の家系の名跡だけでも、せめて継がせる意向で、親類の中からその養子手続きに選ばれたのが、三淵晴員(みつぶち はるかず。細川元常の弟だったといわれる)の子の、細川藤孝だった。

織田信長が中央再建を果たした際には、細川氏のかつての力などすっかり無くなっていて、その本家筋の細川昭元(細川晴元の次代)は格下げ覚悟で織田氏に潔く臣従したために、織田信長も保護する形を採った。(少し優遇されたが豊臣秀吉の時代に疑われ、格下げされてしまう)

各地で有力筋が没落していくばかりだった細川一族の中で、才覚を発揮して近世大名として返り咲くような目覚しい活躍ができたといえたのがこの細川藤孝の家系くらいだったが、そのように活躍できたこと自体が、そもそも難しいことだったともいえる。

織田氏に頼る前の細川藤孝は、領地特権の基盤は不安定だった中でも、歌道や茶道などに精通し、また政治的な情勢を見通す鋭さもあった、社交的な文化人としての高い定評があり、中央関係者との広い人脈をもっていた。

細川藤孝は、その社交的な人脈の広さから、廷臣たちの派閥事情と、その縁のある中央関係者たちの事情について、全てではないにしてもだいぶ詳しかった。

味方は味方、敵は敵と、表向きの白黒の態度を上からはっきりさせていかなければならない一方で、ただし争う所は争い、和解する所は和解するという、公正な等族責任の姿勢(議会的な姿勢)も重視された、そういう所から下への手本に積極的になることを、上に求められる時代になってきていた。

憎悪に捕り憑かれずに、和解・終結に向かうための落し所や線引きもしていける余裕をもった、等族義務(議決性)ある見方ができる者、そして自身の議席(地位)に権威的な固執ばかりせずに、必要に応じて他の者にさっさとその議席を譲れる姿勢で常に居れる者こそが、織田信長が求めていた、人の上に立つべき人材である。

織田信長から見て、細川藤孝も浅野長政も、まずそれにうってつけだった、組織に重要な人材だった。

浅野長政と細川藤孝という、品性規律ある織田信長の良き理解者がいたから、羽柴秀吉と明智光秀が抜擢される形もどうにか整えられたといっても、過言ではないのである。

浅野長政と細川藤孝の存在は、羽柴秀吉と明智光秀の急抜擢による、不慣れな内の暴走のやらかしを抑止するための、初動の目付の役割も担っていたともいえ、この2人はそれだけ、織田信長から信用されていたといえるのである。

もちろん人物的に優れていた羽柴秀吉と明智光秀の2人としても、そうした目付役としての抑制が必要だったのも不慣れな最初の内だけで、人の上に立つ立場としての初動の品性面を整えたのが、浅野長政と細川藤孝だったともいえるのである。

1568 年に足利義昭の一向が織田氏を頼ってきた際に、中央進出の段取りが早々に練られていくが、この一向と面会している間に、その中にいた細川藤孝がまず、織田信長から着目されるようになる。

中央進出後には、これまでのまとまりのない中央関係者たちをどのようにまとめていくのか、織田信長の良き理解者であり、中央関係者たちからも一目置かれていたこの細川藤孝が、その相談役にうってつけだったのである。

織田信秀、織田信長の家系の弾丞家が尾張の代表格として台頭するようになって以後の織田氏は、中央関係者との交流はあったものの、事情を詳しく把握している訳ではなかった。

中央が一向にまとまりを見せない一方で、各地では地方再統一でそれぞれ地元をまとめ始め、都市開発を始めるようになった所も増えたため、中央の廷臣たちがその各地の支配者たちの所に積極的に下向(げこう。中央の権力者や文化人などが地方へ訪問したり、その地へ定着を始めること)するようになった。

それによって、地方の政体と都市開発に、京の伝統文化の指導で貢献する見返りとして、地方との利益供与の関係を強めるようになった廷臣たちが増えた中、尾張の織田氏はその縁は強めなかった。

むしろ先代の織田信秀は、廷臣たちのそうした傾向が、中央のまとまりをますます欠落させる派閥都合を強める原因と見なし、嫌っていた感すらある。

家臣たち、庶民たちの面倒見が良かった織田信秀は、津島神社と熱田神宮との政治的な商業特権の協力関係を強める形で、それまでの農商業のあり方の改革を進め、尾張の都市経済を急成長させるきっかけを作った。(先代の織田信定から、その傾向があった)

聖属の管理人である廷臣たちが、中央の復興という本分を努力工夫せずに、地方の都市経済にただ群がるように下向に熱心なだけの、そのまとまりのない中央関係者たちの派閥都合を尾張に持ち込むことになりかねないのを、危惧していたと思われる。

廷臣たちが中央を支えるための下向ではない、ひいては皇室を支えるために下向していたとは言いがたかった、それぞれの派閥都合で利益供与していただけのまとまりのなさは、続いて織田信長も同じようにそこを問題視していたと、筆者は見ている。

織田信秀は、廷臣たちの尾張への下向を積極的に迎えることはしていない一方で、ただし中央再興に熱心に取り組み始めた、12代将軍の足利義晴(足利義輝と足利義昭の父)の姿勢を高く評価し、皇室を支えるためにも、先駆けで多額の献納をした。

どこも足並みを揃えるのに精一杯で、財政にどこも余裕もなく地方再統一(地方議会の確立)で忙しかった中、中央に多額を献納ができるだけの政治的な力量を見せた織田信秀は、これによって世間から大いに注目された。

織田信秀は、派閥的な利益目的で下向してくるようにしか見えない、まとまりのない廷臣たちに対して多額の献納をしても、室町再興と朝廷復興、つまり皇室の威厳回復のためにそれが使われるかどうかが怪しいと疑っていた。

ただ失望し合いながら万事うやむやに外圧のせいにし合うことしか能がない、自力信仰一辺倒の猿知恵(ただの指標乞食主義=ただの劣悪性癖)しかもち合わせていない、自分たちで教義改革できたことがない今と大差ない公的教義(比叡山・延暦寺)のその低次元な実態が、なによりの証拠なのである。

だからこそ織田信秀は、それよりも遥かに見込みがあった足利義晴に宛てて、参謀役の平手政秀に献納に向かわせたのである。

織田信長が廷臣たちの派閥事情は大して詳しい訳ではなかった中、足利義昭に同行していた細川藤孝が、派閥に偏ることがない中立的な社交姿勢を以って、多くの廷臣と中央関係者たちから文化面で高く評価され、中央事情にある程度詳しかった。

織田信長の意向をすぐ理解できた、賢明だった細川藤孝は、今後の中央対策における相談役として、内々では快く応じることになり、中央関係者の中の有志たちも次第に選別されるようになっていった。

 

この織田信長と細川藤孝の関係が目立たなかったのは、細川藤孝の表向きは今まで通りの中立的な立場を維持させようと、この2人がベッタリの関係だと思わせない配慮が、当初はされていたからと思われる。

織田信長が中央進出に乗り出した際に、山城に居座り続けていた三好派の残党たちの追い出しにかかるが、横領され続けていた奉公衆の三淵氏(細川藤孝の家系)の領地も、取り戻されることになる。

織田氏が山城に乗り込んだこの時に細川藤孝が「三淵家の領地は、自身の手で取り戻しに行かせてください」と願い出たため、織田信長もそれを公認して「それなら、そのための兵力を貸そう」とその領地奪還を支援しようとした。

しかしこの時に細川藤孝は、20名もいたかどうかの従者だけで「我が従者たちだけでやらせてください」と返したため、織田信長も「困ったらすぐに相談するように」と、三淵氏の領地についてはその言い分に任せることにした。

横領され続けていた三淵家の領地に、細川藤孝が織田派を鮮明にしながら乗り込むと、今まで態度を曖昧にしていた地元の半農半士たちや、そのまとめ役であった名主たちは、わずかな従者だけでも毅然とした態度で奪還しに戻ってきた細川藤孝の頼もしさを支持する形で、駆けつけた。

三好派はしばらく三淵家の領地に居座っていたが、三好派に追われて潜伏していた三淵家の旧縁の者たちも細川藤孝の下にどんどん駆けつけたため、その助勢を得て三好派を領内から追い出すことに成功した。

細川藤孝としても、織田氏の力関係にただ頼り切るのではなく、また領地にただしがみつくのでもなく、自分たちの力で旧領回復くらいはしておかなければならないという等族責任(身分再統制、品性規律)の実績を作っておき、信用できる旧臣たちを今の内に再収容しておくことの方を、重視していた。

危険もあった中でわずかな従者だけで、調略的に自領を見事奪還した、我欲中心ではなく等族責任を以った戦い方ができた細川藤孝のその力量を、織田信長は当然のこととしてその姿勢を高く評価した。

領地うんぬんにただしがみつくだけの時代ではなくなっていた、そこではなく人の上に立つための、家来のそうしたのまとめ方ができるかどうかの等族義務(議決性・支持戦)の力量が問われるようになった、そこが重要な時代になってきていた。

これは細川藤孝が、細川一族という名族の有力筋出身でありながら、時代遅れのただの名族高官主義に陥ることなどなかった、優れていた証拠だったといえる所になる。

この細川藤孝のように中央関係者たちの中でも、今まで通りのことをしている時代ではないと工夫・協力しようとしていた少数の有志たちと、今の公的教義と大差ない「いいなり以上・手本未満」の猿知恵(ただの指標乞食論)で気絶・侮辱(思考停止)し合いながら失望し合うことしか能がない集まりとで、身分再統制が必要な状況になっていた。

そういう所からも信用を得た細川藤孝は、織田信長の中央再建において内々では、その人脈も重宝される形で、織田信長の相談役のひとりとして貢献した。

細川藤孝はそれを鼻にかけることもなければ、その立場を悪用して人を陥れようとすることもしない公正さを見せたため、当然のこととしてさらに信用されていった。

織田氏の組織の中で、新参でありながら早々に有力寄騎扱いされ、軍事面でも重要な部署もさっそく任せられるようになる。

細川藤孝も含める中央関係者たちは、形式上は足利義昭の直臣であっても、中央再統一の裁判権の再構築(等族議会制の確立・身分再統制)の主導の実質が、織田信長が構築(教義指導)した旗本吏僚体制が中心である以上は、全て織田氏の家臣化(その敷居の身分再統制)の流れに向かうことを、意味していた。

廷臣たちや足利義昭らの主導(等族義務)によって中央再統一が果たされたなどとはいいがたい、できなかったからその大部分を織田氏に肩代わりさせてしまった以上は、全て織田信長の意向次第になっていってしまうのも、当然の話なのである。

 なぜそうなってしまったのか

 

 今どういう状況なのか、何が起きているのか

 

 何ができていなければならなかったのか
 

を、自分たちの課題は自分たちで議会的に整理していくという、細川藤孝のようにそういう所をよくよく心得られていた有志たちと、今まで通りの利害権威(ただの指標乞食主義)の落ち度狩りのみで、ただ負担を押し付け合いながら、ただ失望し合い、ただ足を引っ張り合うことしか能がない、今の公的教義と大差ない低次元な無能(偽善者)どもとで、はっきりするようになった。

織田氏による中央進出とは、不真面目な廷臣たちが恐れていた、その化けの皮がいよいよ剥がされる時代がついに到来してしまった、それをよく象徴していたのが、あの比叡山焼き討ち事件(ただ下品で汚らしいだけの公的教義体質の踏み潰し)だったといえる。

 

人の力をただ利用し、目先の利害目的さえ済めば用済みと見なし、面倒ごとに直面するたびに皆で騒ぎ合ってうやむやにし合うことしか能がなく、

 

 「そんなことは誰もできる訳がない」

 

などと、それが人類の本性だのと低次元な猿知恵(ただの指標乞食主義)の寝言(気絶・思考停止)を共有し合うことしか能がない手口など一切通用しない特殊監査官(織田信長)に中央にとうとう乗り込まれ、その旗本吏僚体制(国家構想・育成理念)によって「自分たちでできなかった中央再興」を、織田氏に見事にされてしまった。

 

1571 年までには、室町将軍であることも、廷臣の上層であることも、裁判権(等族議会制)を確立できない低次元側できる高次元側とでの、言い逃れ無用の力量差を見せ付けられてしまった織田政権に公認してもらえるかどうかが全ての立場に、中央もなってしまっていた。

織田氏による保護監察で生活権の再手配と保証を、中央関係者たちは受けることになってしまった以上は、もはや足利義昭の直臣たちも、これからは織田氏の敷居の裁判権(議会制)で、身分統制的にどんどん家臣化されていく環境に、なってしまったのである。

公的教義(比叡山・延暦寺)の今後のあり方にしても、西洋のキリスト教徒たちをどのように受け入れるのかの方針についても同じ、織田氏の議会制(裁判権=議決性)の敷居による公認次第になりつつあった。

そうなった原因が織田信長のせいだのという言い分は、国事の公務公共性(等族議会のあり方・身分再統制)に深刻に向き合い整備しなければならなかったのをしてこれなかった、その等族義務を果たしてこれなかった低次元どもの言い分に過ぎないのである。

今後の日本のための等族国家(法治国家)に変えていかなければならない観点から見れば、その等族義務を中央関係者たちが整備し切れずに延々とモタモタやっていたから、それが実際にできた織田信長がそれを肩代わりするようになった、というだけの話に過ぎない。

廷臣たちや足利将軍家と縁のある、これまで旧態権威(何ら教義指導力・議決性などないただの指標乞食主義)の上で成り立っていたに過ぎない中央関係者たちが、改めて格式や行使権などの言い分を通したい以上は、皆を納得させられるだけの、人の上に立つ格上側として毅然とした、最低限の等族義務(法治国家としての品性規律)を示すことは、上として当然の務めである。

 よそを採点・否定できる格上側 = よそを評価できるだけの余裕ある側(荀子的育成主義) / 評価して貰わなければならない余裕ない側(孟子的救済主義) の区別( 与評与動 と 受評受動 の自己等族統制 )ができている側

であって当然の織田政権の身分再統制(議会制)の最低限の敷居に準じた、議決性ある等族国家(法治国家)らしい手本礼儀(品性規律)が基準の、再統一性(意見総代の名義人を立て、等族責任を以って意見をまとめ提出する=議決性)を示せという話なのである。

その最低限の等族国家(法治国家)の品性規律(手本家長)の姿勢を、より示すことができている高次元側の者から順番に、等族国家(法治国家)としての議席(発言権や決定権の分与)が順番に用意される身分再統制(裁判権・等族議会制)の時代を、日本もとうとう迎えたのが、織田氏による中央進出の台頭なのである。
 

上であればあるほど、表向きだけでもその白黒をはっきりしなければならなくなってきた、今まで通りにそこをうやむやにし続ける劣悪態度は許されない選挙制的状況(等族議会制)を織田政権に作られてしまい、それを迫られる時代が到来した。

 

等族国家としての議決性(支持選挙戦)をうやむやにしてはならないという、織田信長のこの貴重な手本前例を作っておいてくれたからこそ、のち関ヶ原の戦いでもこの重要な前例が活かされる形で敵か味方か選挙的にはっきりさせ、争う所は争い、和解する所は和解で終結という、サッとやってサッと終わらせる、品性規律の総選挙合戦の形も可能とした、といえるのである。

 

それを迫られるようになった流れに、とうとう耐えきれなくなった足利義昭が織田信長と対立し、公的教義も化けの皮が剥がれるようにそれに便乗して、身の程知らずにも織田氏と対立したのである。

 

その態度を表明することを織田氏に求められるようになった中央近隣から、織田派か足利派(旧態派)かで二分し始め、それがきっかけで発展した、織田氏と反織田連合(時間稼ぎ派・格式を認めさせようとする派)との闘争劇が 1572 年から本格化する。

 

そして 1574 年頃には反連合側の反抗は織田氏に跳ね返され、早くも意気消沈し始めるようになった様子はそのまま、中央をまとめようとする有志が登場するごとに、いつもの手口でうやむやにするために裏で諸氏を煽ることしか能がない、足利義昭のその態度と一部の不真面目な廷臣どもの態度の、意気消沈の様子そのものともいえる。

 

足利氏の奉公衆の重役として、細川藤孝よりも立場が重かった兄の三淵藤英は、織田信長と足利義昭が険悪になった1度目には足利義昭派として織田信長と対立するが、いったん和解すると、その時は厳しく咎められることはなかった。

 

ただし対立が本格化した2度目に、三淵藤英は再び足利義昭派として反抗したため、懇意にしていた弟の細川藤孝との関係があっても織田信長は、厳しい裁定を下した。

 

この三淵藤英は、織田信長と足利義昭が対立する前までは織田氏の中央再興に協力的で、三好氏との戦いでも活躍もしていたために織田信長も内心は惜しんだと思われるが、上からの示しのために厳しめの裁定がされることになってしまった。

 

三淵藤英は子の三淵秋豪(あきひで)と共に切腹を命じられてしまうが、孫は免除されたために細川藤孝が、他に許された兄の家臣たちと共に身柄を引き取ることになった。(この時に救済された兄の家系は、江戸以降も代々続くことになる)

 

この時の三淵藤英の処分に立会人として、細川藤孝に見込まれていた家臣のはずであった明智光秀があえて、織田信長によってその役をあてつけ的に任されている構図が、興味深い所になる。

 

足利義昭との対立で、その元家臣たちも足利派か織田派を鮮明にしなければならなくなって気まずくなっていたものの、織田信長とは良好な関係を維持していた一方の細川藤孝は、織田政権の中で重きをなしつつあった。

 

しかし細川藤孝は、佐久間信盛や柴田勝家ら重臣たちと同列の立場になると思われていた矢先に、前々から見込まれていた明智光秀が、細川藤孝の上官の立場に、その頃から急抜擢され始めたのである。

 

細川藤孝の兄である三淵藤英の処刑を、細川藤孝の家臣であったはずの明智光秀(とここでは仮定しておく)が、織田信長からその立会人として執行を任されたということは、細川藤孝の家臣団のまとめ役の家長は明智光秀であるということを強調しておく、手始めの典礼だったことが窺える。

 

明智光秀も早い段階で織田信長から知遇を受け、まずは政治面の任務に既にあたっていたが、どこかの契機でこのように格上げされる人事計画も、事前にされていたと見てよい。

 

それが、三淵藤英の処罰の件を契機にされてしまったことは、大きな皮肉ではある。

 

しかし、意気投合できていた格上の細川藤孝の、その兄を明智光秀が処罰しなければならない側にされたという辛い状況でも、人の上に立つ側として裁定していかなければならない立場を身を以って最初に体験させておくという、織田信長らしい明智光秀の抜擢の仕方だったともいえる。

 

三淵藤英への処罰が厳しめだったのは、 弟の細川藤孝と同様に奉公衆の中では一目置かれていた三淵藤英が、足利氏と織田氏のどちらに着くかで、中央関係者たちの影響も大きかったことに加え

 

 三淵藤英のように忠義を示しても、果たして足利義昭にはそれに報いて応じることができるだけの価値があるのか

 

 織田氏に協力的な細川藤孝の身内だからといっても、安易に特別扱いされることはない

 

という所を政治的に強調する意味もあったと思われる。

 

細川藤孝は織田氏の有力者として、その後も重きを置く少し特殊な扱われ方がされていくが、その家臣である明智光秀(だったとここでは仮定)が、細川軍団を率いる側の部将(重臣格)に急抜擢されたことが、羽柴秀吉ほど着目されていないのは、時期と関係あったと思われる。

 

この明智光秀の急抜擢があった前後には、織田派として協力するようになった近江衆の新参たちの寛大な受け入れや、摂津衆の荒木村重、大和衆の松永久秀などの、古参主義脱却(風評弁慶対策)を強調する重用の仕方が度々行われてきたことで、組織内もいくらか慣れていた。

 

原田直政の抜擢もそうだが、その頃にはもう、織田政権においてはどのような急抜擢があってもおかしくないという、人事改革の耐久性もだいぶ身に付いていた。

 

有能だった細川藤孝は、軍事面も政治面も任され、さらには中央関係者たちの対策の相談役も務め、なかなか大変だった今までのその役目は、改めてその上官となった明智光秀も共に、そこも請け負うようになる。

 

明智光秀は織田信長に才覚・器量を買われ、軍事面でも丹波攻略を任されるようになり、初動の細川藤孝の支えを得ながら、自身の直属の家臣団を急いで構築しながら、織田政権に貢献していくことになる。

 

古参の中からの構築だった羽柴秀吉と浅野長政の関係よりも、新参での構築だった明智光秀と細川藤孝の関係は、さらには中央関係者との縁もあった立場も加わったため、だいぶ特殊だったといえる。

 

細川藤孝は、まとまりのない中央関係者の間に入って、今まで通りの中立的な立場となって仲裁させる立場に居させることを織田信長も求めていたと思われ、まとまりがなく偏っていく際の、その洗い出しの対処役を、重臣格扱いの明智光秀に請け負わせるようになったと、筆者は見ている。

 

聖属側(廷臣たち)の荘園特権の管理、つまり廷臣たちが何かやらかさないように見張る保護監察は、当初はその半分を佐久間信盛に請け負わせ、もう半分は旗本吏僚たちが(つまり織田信長が直々に)管理していたと思われる。

 

聖属裁判権の放棄を織田氏から迫られて渋り続けた浄土真宗たちとの対決も、織田氏による摂津包囲綱でその動きを封じられるようになって、その決着の見通しも濃厚になってきていた 1578 年頃になると、まとまりのない廷臣たちに織田政権が求めていた議決提出(こういう計画で朝廷体制を立て直していきます)の時間も、逼迫するようになっていたと思われる。

 

何度か説明してきたが織田信長は、日本全体としての今までの聖属問題(教義体質)における裁定は、公的教義に代わって日本の自力教義の主導立場になっていた、世俗裁判権側への反抗大手として続けてきた浄土真宗を、制圧なり和解なりで降すことを、その決定打の契機としていたと見て良い。

 

他力信仰に顔を苦痛に歪ませることしか能がない、それも許容できない気の小さい身の程知らずどものできもしない顕密体制の寝言を繰り返すことしか能がない自力信仰一辺倒どもが皮肉にも、その他力信仰の浄土真宗がどうなるか次第が、だらしない廷臣たちの時限爆弾的な命運がかかっていた訳である。

 

浄土真宗(親鸞派)が聖属裁判権(聖属側による政治的な議会制)を放棄しようか迷っていた、すなわち織田氏の言い分に降伏しようか迷っていた 1579 年に、織田領内で法華宗と浄土宗(源空派)が揉めたのを機に、法華宗とは檀那寺と檀家の関係のはずであった織田信長が、浄土教の肩を持つような裁定をした。

 

織田信長が、進退を迷っていた浄土真宗たちに向けて遠回しに「今までの聖属裁判権(世俗裁判権への反抗運動)を放棄し、今後は世俗裁判権側(織田政権の等族議会制)の謄本登録制度に従うのなら、それぞれの教義力に応じて浄土教も手厚く保護する」ことを強調したのを機に、ついに翌 1580 年に浄土真宗は織田氏に降参・和解した。

 

それを以って、日本の聖属問題(今までの教義体質)の大幅な議決の契機とした織田信長は、この 1580 年の時点で、まだ公表はしていないものの廷臣の上層たちに、最後通達的な意向を伝えていたと思われる。

 

そして 1582 年には、正親町天皇(おおぎまち)の次代の誠仁親王(さねひとしんのう)の継承式典が、織田信長の次代の織田信忠の継承式典と共に盛大に行われる予定がされると、これまで織田信長と表向き良好な関係だった勧修寺卿と、その他数名の廷臣と、急に険悪な関係となる。

 

廷臣たちの上層の内の、山科言継(やましな ときつぐ)、勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)、近衛前久(このえ さきひさ)らは、まとまりのない廷臣たちをまとめる努力は、していた方だった。

 

高貴な出身だった山科言継は勤勉な一方で、権威的に威張るようなことはせず、一芸に秀でている者なら地位が低いものでも誰でも気さくに接しようとした、交流の信用を大事にする人物だった。( 1579 年に亡くなっている)

 

近衛前久は廷臣の中での立場はだいぶ複雑で、表向きは織田派だった場合も多いが一貫性があったのか、良好だったのかは怪しく、とにかく足利義昭のしていたことは背信行為だと相当怒っていたことが伝わっている。

 

近衛前久は、他力信仰を毛嫌いしている様子も全くなく、浄土真宗たちとの交流も平然としているが、廷臣たちの中にも以前から他力信仰の許容派がいたが少数派で、それを大勢の旧態否定派たちで延々と妨害していた構図だったのではないかと、筆者は見ている。

 

廷臣たちも織田氏の旗本吏僚体制の保護監察下(閉鎖有徳の禁止)に置かれるようになった、すなわち織田政権に意見整理・提出もしない内から、宗派ごとで勝手に争うことが禁じられながら、キリスト教徒たちの居住区特権まで京に作られてしまうと、廷臣の中でもキリスト教徒の許容派が、とうとう増え始める事態となった。

 

廷臣たちの間で、時代遅れの自力信仰一辺倒の公的教義体質が抜け切れていない旧態派と、中立派と、織田派とで内々の分裂もまとまらない中で、日本の聖属(教義体制)の今後の方針に関する正式発表が 1582 年の継承式典の際に予定されたことに、朝廷は限界を迎えていたと見て、間違いない。

 

建武(聖属政権の再興運動)の大失敗のやらかし以降から150年、応仁の乱による崩壊以後からだと100年近く経て、廷臣たちは聖属の管理人の立場として、国事として先駆けで自分たちで、聖属面(教義面)で議決性を以って立て直す、ということをろくにしてこれなかった。

 

その廷臣たちが、中央にとうとう乗り込まれた織田政権にそこを恫喝されながら迫られ、それから10年そこらで立て直せる訳がないことを、そもそも織田信長も解って「上(古参教義)には遠慮無用」で恫喝していたと思われる。


今までを反省(自己等族統制)しようとしない不真面目な廷臣たちのような、議決性(法治国家としての品性規律)などない身の程知らずに議席などは、これからは用意されない時代になったことを突き付ける、すなわち人の上に立つ資格(人を採点・否定する資格)などない立場だと思い知らせ、姿勢狩りから今一度、多大な苦痛を与えておくための懲罰人事(身分再統制)として遠慮無用にやっていたと筆者は見ている。

 

確かに今までの朝廷体制(聖属の管理体制)が、あまりにもだらしなさ過ぎた部分については、少なくとも山科言継と勧修寺晴豊の2人は、そこは受け入れていた。(山科言継は本能寺の変の少し前に亡くなる)

 

ただし織田信長のやり方が、今までの伝統的(古参的)な誇りを破壊するような、今まで体験がなかった徹底的な武骨過ぎる踏みにじり方が性急に行われたことで、それに全くついていけずにどうしていいのか解らずに錯乱していた廷臣たちも多かった、だからもう少し時間が欲しいと、勧修寺晴豊がそこを遠回しに訴え始めたのだと思われる。

 

浄土真宗たちは織田氏に降参し和解後には、今までの「世俗政権に反抗しながらの聖属裁判権の規律」から今後は「世俗政権との協調路線の仕切り直しの方針」として、これから整理していかなければならなかった。

 

織田信長は浄土真宗たちの降伏後のその事情まで考慮し、10年かかっても20年かかっても「彼らならできるだろう」と見て、自分たちで整理(こういう方針で行きますの提出が)できるまで、時間を与えて待つ気でいた。(その処置自体が、寛大な恩賞だったといえる)

 

それに比べて廷臣たちへは、そうした時間を与えようとしなかった織田信長の荒治療ともいうべき懲罰的なやり方は、あからさまに対照的だったといえる。

 

そうした事態に、廷臣たちの荘園特権の管理もしていた佐久間信盛に、だらしない廷臣たちはかなり泣きついたと思われ、佐久間信盛の失脚後にその後釜も任せられることになった明智光秀は、どのような状況になっていたのか等、明智光秀のことに順次触れていきたい。