近世日本の身分制社会(086/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか14/? 2021/12/15

 1.今の公的教義と同じ、何の等族議決性(育成理念)もない低次元な顕蜜体制への否定(踏み潰されっ放しなままの延暦寺)

 2.織田氏による、荘園特権(廷臣たちの特権)への閉鎖有徳規制の保護監察化

 3.海外との外交に関する、典礼特権・人事権の巻き上げ

 4.外交の饗応(きょうおう。酒食等の接待の典礼)にも関係していた、偉そうな京の文化料理に対する難癖

 5.本来は聖属側(皇室と朝廷)の権限で制定されるはずの、暦(こよみ。れき。日本のカレンダーの整理、年号の決定)への口出し

 6.次代天皇の誠仁親王(さねひとしんのう)の猶子化(ゆうし。義理的な養子手続きだがここでは後見人のような意味。織田氏主導の継承式典の段取り)


今回は 5 に触れ、その次に明智光秀の件として  と  について後述していきたい。

当時日本で使われていた暦は、現在使用されている暦よりも精度が低かった。

現代では、太陽を回る地球の1年の周期は、365日と5時間48分強という精度の観測になっているようである。

本来の暦は、1ヶ月を26日間の1年14ヶ月とする 14 x 26 = 364日とし、これに1日を追加して1年の合計を365日、ここから4年に1度のうるう日の1日を追加する形が、均等的で自然な暦だという説がある。

1年が365日であることの認識は、古代中国も早かったが、西洋でも日本でも古代から認識はできていた。

 

ただし、さらに5時間以上あったこの部分のの認識が難しく、それによってズレが生じる所の調整に、どこも苦労していた。

現代に日本にも伝わっている西暦は古代ローマが発祥になるが、どの文明も、他の文明の暦を見習いながら整理され、精度の高かったエジプトの暦が、古代ローマでも見習われている。

現代使われている西暦は、日本だけでなく多くの国々で共有的に使われているが、かつて西洋の支配者の都合で手を加えられてきたといわれ、うるう年の2月に1日を当てはめたローマの慣習が、名残として現代に伝わっている。

近世では、暦はまだ世界的な共用はされておらず、日本国内でも、天体観測と年周期の計算を何度も試算しながら、暦を改善・調整し続けていた頃で、江戸時代になると優れた天体観測が行われるようになり、精度が向上するようになった。

日本の暦は朝廷が管理はしていたが、閉鎖間が強かった中世までは、地方ごとの暦が慣習として使われていた時代だった。

足利氏による室町幕府の時代になって、統一国家らしくなるかと思われた矢先、日本人が始めて体験した室町前期の爆発的な経済景気を体験後には、激しい教義崩壊の応仁の乱が起き、戦国に至った。

室町時代では、地方ごとでズレ始めていた暦を再統一させるには至らないまま、戦国後期の織田政権の時代を迎えることになった。

木下藤吉郎(羽柴秀吉)が、織田氏の家臣として名を挙げるきっかけとなったといわれる、美濃斎藤氏の攻略戦で有名な、1565 年の墨俣(すのまた)一夜城の活躍は、うるう月での出来事だったことが伝わっている。

当時も1年が12ヶ月ではあったがうるう月で調整していて、朝廷が把握していた暦も、地方の暦も、そこは似たようなものだったと思われる。

暦に統一性はないとはいっても、地方の支配者の発給状(指令書・公認書)の日付に大した混乱は見られないことから、どこも同じような暦を使っていたと思われる。

実際は六曜の慣習が他とズレているだけだったり、時刻の開始基準が少し違うだけだったり、この日は祝日でこの日は厄日(仏滅の日)といった、細かい所が違っていただけと思われる。

ただし年号だけは、陛下の崩御と次代天皇の即位の朝廷の発表に、地方も合わせる形で、どこもその認識で統一させていた。

「時」を管理する者、つまり暦を管理する者がその国家の最高支配者という思想は、これは世界的に、古代からその認識だった国家は多かった所になる。

大航海時代にポルトガル・スペインのコンキスタドール(征服的探検者)たちが新大陸(アメリカ大陸)にやってきて、結局消滅させられてしまったマヤ文明のマヤ暦は、有名な所になる。

マヤ人たちは兵器や病理の文化には乏しかったが、用水路作りによる農作物体制は優れていたといわれ、天体観測で気象予測もある程度できていて、森林地帯の水量を見越した政治をしていたといわれる、優れた暦を作っていたことで知られる。

日本での年号も「時の管理」の一種であり、国家の奥の院の代表者、つまり皇室の最終的な決定権によって管理され、現代でもその名残りとして至っている。

しかし日本の年号は、威力支配的な使われ方ではなく「そういう世になって欲しい」という平和祈願をこめる祝詞(のりと)のような、健全な配慮が歴史的にされてきている。

例えば室町政権の教義崩壊が決定的となった応仁の乱の「応仁」も、皆があまりにも「仁」「応」じた行動を心がけていなかったことが、「こういう世になって欲しい」という祈りが年号に込められていることが窺える。

19世紀の幕末には、徳川政権の教義崩壊も著しい中で、海外から開国を迫られて不穏な情勢が続き、何をどうしたらいいのか皆が解らなくなって国内も動揺するようになっていた中の「安政」も、皆が「安」心できる「政」治体制に向かって欲しいという意味が込められている。

江戸後期の「天保(てんぽう)」も、政治が迷走し続け、どの藩も財政難に陥っていた中で、度々の天災による飢饉と重なって皆が苦しむようになっていたため、「天」候に「保(健常的な秩序)」を願ったことが窺える。

明治、大正では、世界的な激しい市場/資源争奪の領域論争戦(ハートランド論=地政学的な同胞文化くくりの領域根拠=当時はこれが悪い方向ばかりの人種差別論になりがちだった)が顕著になり、日本を含めた列強同士が、列強入りできていない他国の傘下権を巡って、国家間で対立しがちな情勢が続いた。

世界的に不穏な情勢が続いたからこそ、その次の「昭和」も、世界平和としての「和」解のあるべき形が「昭(あき)」らかになっていって欲しいという意味が込められていることが窺える。

ちなみに「令和」の場合だと、「令」の字自体は「より健全な国際人道観・国際社会性に向かっていくための促し(うながし・令がし)」の意味があるため、より良い国際平「和」に向かう「令」しという、現代に合った良い年号といえる。

年号は歴史的には、その意味と真逆の乱れた期間だった場合も多かったのは当然で、それは、そういう悪い方向に進んでばかりの期間だったからこそ、意識されたからになる。

国内や世界が不安定な時ほど、日本では年号に祈りが込められる形で、効果はともかく人々に喚起する役割も果たしてきた。

 

話は戻り、織田信長が戦国終焉に向かわせるべく、旗本吏僚体制(身分再統制)を整備し、中央進出・再建を果たして国内をまとめ始めると、この暦のことに朝廷に口出しするようになった。

これも本能寺の変の原因説としてよく用いられる所で、これによって皇室・朝廷と織田家とで、内々の対立が深まったと強調される所になるが、筆者としてはその説は正確ではないと見ている。

織田信長は、尾張暦を標準とするよう朝廷にもちかけたが、これも、聖属側(本来の教義側・朝廷)がそういう大事な所を議会制的にまとめることができないでいた、そこへの催促をしていたに過ぎないと筆者は見ているためである。

そもそもこの尾張暦自体も、織田信長が思いついたものなどではなく、押し付けというよりも「いつまでも放置しておく訳にもいかない日本の暦について、廷臣たちはどうするつもりなのか?」という意味の、ただの催促だったといえるためである。

まず尾張暦自体が、その地方近隣の神道側の者たち(伊勢神宮や熱田神宮や津島神社などの有力社人たち)が、できるだけ精度を上げようと研究しながら整理が続けられていたものが、それまで尾張で浸透して用いられていたに過ぎない。

各地の神道・仏教の、その管理人の立場である廷臣たちはそれを解っていながら、国内で統一性がなかった暦について議決性をもって、それを再統一できずにまとまりもなくモタモタやっていた、その実態に織田信長が

 「日本を等族国家(等族議会による整備制度化=法治国家化)に変えていかなければならない、この大事な時期に廷臣たちは、暦についての議決(等族統制)に何をモタモタやっておるのだ」

 「すぐには決めかねているのなら、それならそれで、今どういう状況で、どういう見通しの計画で暦についての再統一をしようとしているのか、その意見整理くらい提出せよ」

と催促していたのである。

廷臣たちが今まで、今と大差ない公的教義体質の偽善権威でうちのめし合い従わせ合うやり方に頼ってばかりで、議決性を以って万事はっきりさせて来れなかっただらしなさは、それが陛下に心労の負担をかけ続けることも問題視できない、無神経で非国際的な不忠と同じ、国家全体を憂慮してこれなかったのも同然といえる。

聖属面(教義面)を状況回収し、意見を整理し、できるだけ「これこそ今後の等族国家(法治国家)として時代に合った、世界に誇れるような聖属面(教義面)における品性規律」といえるような高次元の良案を陛下に奏上し、認可を頂き、発表し、皇室の威厳すなわち国家の威厳を支える、というのが廷臣たちの本来の役目なのである。

顕蜜体制にしても、暦にしても、ただ偶像崇拝的(指標乞食的)に偉そうにもったいぶるばかりで、肝心の務めである国家(自分たち)のあり方としての、

 

 荀子的独裁制で敷居向上させながら孟子的合議制に反映させていく

 

という強化整備の最低限の基本もできない今の公的教義と大差ない猿知恵(ただの指標乞食論=ただの劣情統制論)しかもち合わせていない低次元な集まりに、何を信任できるのだという話である。

できもしない顕蜜体制(国教としての統合化・集大成化)に向き合った気になっているだけの、ただの偶像偽善権威(指標乞食論)を敷き、そのいいなりになり合うためにただ侮辱・気絶(思考停止)し合い、ただ失望し合うことしかしてこれなかった、踏み潰されて当然のこれまでの延暦寺(天台宗の本拠・公的教義)の劣悪姿勢がまさに、まとまりのない廷臣たちの姿そのものだったといえる。

今と大差ない公的教義体質を、これ以上悪用できないよう踏み潰す形で巻き上げたら、

 自分たちで自分たちの国家(組織構築)に議決性(法治国家の姿勢=等族議会制の姿勢)を以って当たっていく ことなど できていなかったことがただ露呈し、うろたえるばかりのだらしない低次元な集まり

に、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、普段からそこを疑い見抜くこともしてこれなかった、猿知恵(ただの指標乞食主義=ただの劣情統制)で調子に乗ることしか能がない低次元同士と一緒になっているような集まりが、

 

 公務公共(国際的な身の程・育成理念的・人の上に立つ姿勢)における人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)

 

を認識(自己等族統制)してこれた訳がないのである。

廷臣たちは、等族統制(地方と中央の再統一 = 議会制の確立 = 法治国家化)を早める手助けを大してしてこれなかった、すなわち乱世の終息を早めることに大して貢献してこれなかったことは、今までの廷臣たちの特権もこれからは等族社会化(身分統制)的に許されないこととして、織田信長に暦の問題を引き合いに、遠回しにそこをついに恫喝されることになったのである。

比叡山(延暦寺)は踏み潰され、その寺社領は巻き上げられたものの、廷臣たちを姿勢狩りで恫喝はしても討ち入り(粛清)まではしなかった、それだけでも織田信長はかなり寛大だったといえる。

中央近隣の世俗側(武家側)の有力者たちは、高次元の織田氏に格下げ覚悟で臣従した者と、それについていけずに反織田連合側に回る者とで顕著になるが、廷臣たちが世俗側(武家側)に対して、戦国終焉への手助けがあまりできなかったことについては、大目に見れる部分もある。

ただし他力信仰を全く許容してこれず自力信仰一辺倒の低次元な偶像権威(ただの指標乞食論)で格下扱いし続けた他力信仰の浄土真宗についに立場を逆転され、日本の自力教義の主導をもっていかれてしまった失態は、言い逃れ無用だったといえる。

日本の自力教義の最後の希望として、日本に不足し過ぎていた他力信仰を浄土真宗が喚起したことが、これまで過小評価され続けてきた部分になる。

 

その存在感によって結果的に「内部分裂している場合ではない」と世俗側を焦らせ、地方再統一(身分再統制・議会制の確立)の改革意識を促進させたのは浄土真宗だったことは、間違いのない所になる。

顕蜜体制(教義の集大成化)だという以上は、それは本来は公的教義(天台宗と廷臣たち)の等族義務(議決性)として果たされなればならない、重大な務めだったはずで、そこが全くできていなかった動かぬ証拠だったといえる。

かつて廷臣たちは後醍醐天皇をもち上げる形で、建武の新政府として聖属権力(朝廷政権)の仕切り直しに乗り出すものの、全く振るわず、深刻化していた対立皇室問題にしても、解決どころかその問題を悪化させ始める兆候まで見せるようになった。

だからこそ、それを見かねたもう1つの皇室の系統の光厳天皇(こうごん)が、足利氏に名義貸しする形で日本の後事を委託し、皇室衰退の原因となる皇室間闘争(議決性なき擁立天皇の繰り返し問題)の和解も足利氏が請け負う、室町の世俗権力(武家政権)の仕切り直しということになったのである。

光厳天皇の名義による足利氏の、武家政権の再建運動が結果的に支持されることになった以上は、廷臣たちはその流れを受け止めながら、自分たちでやらかした建武の失敗を教訓に皇室を支えなければならない、その反省を活かしながら日本の聖属側の管理(教義改革)を支えなければならなかった立場なのである。

室町の大経済期を経て整備が間に合わずに、世俗側(室町政権)が崩壊し、世俗裁判権争い(家長権争い・地方再統一・中央再統一)も迷走し続け、各地で閉鎖有徳が乱立してどうにも収拾がつかなくなった戦国前期、浄土真宗たちが世俗政権と公的教義(天台宗)に見切りをつけ、それと決別する形で他力信仰による聖属裁判権運動で、収容(地方再統一)を始めてしまった。

どの地方も上(室町の旧態権威)がだらしないせいで閉鎖有徳に振り回されるばかりのまとまりがなかった世俗側(武家側)も、聖属側の浄土真宗の地方再統一(戦国仏教的な議会制の確立)の先駆けの動きに、あせるようになった。

そしてのちに、世俗側の織田氏がそれを巻き返すように台頭すると、ここで織田氏による世俗政権か、浄土真宗による聖属政権かで対立するようになるが、これも本来は聖属側の問題として、廷臣たちが議決性をもってそうした対立の和解を、斡旋できなければならないはずだったのである。

織田氏から見て今一度、世俗裁判権側の等族議会制によって、再び聖属側を保護監察する形になるよう、浄土真宗と対決せざるを得なくなった問題は

 他力信仰の許容体制など何ひとつできていない、何の役にも立っていない今の公的教義と大差ない姿

 「評価する側」「評価してもらう側」の当事者性(道義性と教義性)の区別・使い分けもできたこともない、今の公的教義と大差ない姿

そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方などできたこともないことが、延暦寺(公的教義)と廷臣たちの実態として露呈し、聖属問題をろくに収拾できなくなっていたからこそ、それも収拾できた織田氏がその問題も請け負う形になったのである。

自国(国教)の教義のあり方も自分たちで議決性(敷居向上のための手本礼儀の示し合い)をもって再統一できたこともない

 

 荀子的独裁制(教義狩り・姿勢狩りの向上性)孟子的合議制(道義狩り・落ち度狩りの共有性)の使い分けの改善工夫(自己等族統制)

 

もできたこともない、等族国家(法治国家)のその最低限も認識できたことがない今の公的教義と大差ない低次元どもに対し

 

 「議会の再構築(身分再統制・基準の仕切り直し)もできない、時代遅れの虚像権威(ただの猿知恵=ただの指標乞食主義=ただの侮辱主義)にただ頼り切っているだけのだらしない身の程知らずが、なぜ指図・否定(育成指導)する側にいつまでも居座り続けようとしているのだ」

 

と、よそに責められる前に自分たちで改めることもできなくなっている、深刻な話なのである。

外国教義で、しかも他力信仰であったキリスト教を織田信長があてつけのように認可し、今まで自力信仰一辺倒の劣悪性癖(ただの猿知恵)でただ侮辱・気絶(思考停止)し合うことしか能がない社会病患者ども(そこを反省しない公的教義と一部の廷臣ども)に、それで投薬するように恫喝したことは、遠回しの制裁であり

 「これに不満があるのなら、廷臣たちはだったらなぜ自分たちで議決性(等族議会制の姿勢=法治国家の姿勢)を以ってまず、国内の他力信仰を許容・整備してこなかったのだ!」

 「だったらなぜ、国家間の国際対策も見通した、まず国内からの等族義務(法整備の品性規律の手本)の確認(尊重)し合うという、公正な線引きができるような努力工夫(時代に合った教義面の整備・再統一)を以って、まず地方で乱立してそれを阻害し続けていた閉鎖有徳どもを、喚起・抑制してこなかったのだ!」

という話なのである。

西洋では15世紀末の大航海時代以降、海外間の情報交流も顕著になっていった中、日本では、まとまりのない廷臣たちがそこに危機感をもってあせっているのではなく、化けの皮(ただの指標乞食論)が通用しなくなったことにうろたえるばかりの、この後に及んでまだ今まで通りで過ごそうとしていた所を、織田信長は問題視していた。

廷臣たちの中には、そういう所に向き合おうとしていた有志と、相変わらず足を引っ張り合いながら、落ち度狩りで等族責任を人に押し付け合い万事うやむやに結束(品性規律の再統一)を妨害し続けることしか能がない、今の公的教義と大差ない無能(偽善者)どもとで分化するようになってきていた。

 

後者の廷臣たちの態度とは、

 「日本は今まで通り、中国大陸側の強国主義の亜流文化にこれからも依存し続け、今まで通りのその力関係のいいなりに、今後も過ごし続ける国家(家長のあり方)であり続ければ良い」

 「問題が起きてからただ騒ぎ合い、ただ落ち度狩り(ただの指標乞食論)のみでただ侮辱し合いながら、ただ人のせいにし合うことしか能がない、姿勢狩り(敷居向上の手本)ができたことがない国家(家長のあり方)で、これからもあり続ければ良い」


と、もうそんな時代では無くなってきていた中で、そういうだらしない寝言をいっているのと同じなのである。

西洋人たちが交流を求めて日本にとうとうやってきて、確認(尊重)し合う国際交流の敷居が世界線になり始めていた状況に見向きもせず、海外文化の許容対応もろくにできないことは、今風にいえば「異種異文化の海外の大使館(賓客体制)など、作る必要などない」といっているのと同じである。

近世の等族国家化(議会制化=法治国家化の品性規律による格式の示し合い)が世界的に意識されるようになってきていた中での、情報交換・技術交換の国際交流の国事のあり方の姿として、致命的といえる。

日本とは全くの異種異文化だった西洋人たちが、せっかく向こうから交流を求めてやってきた、多様許容化の交流の体制作りをする良い機会を、ここで好機にできないなら

 「だったらいつ、それができるようになるのか」

 「いずれはしなければならなくなる、それなら今のこの国内再統一(議会制の確立)の刷新期に、今後の日本のための海外対策の前例も、今しっかり作っておくべきだ」


というのが織田信長が、日本が世界に誇れる高次元な敷居の法治国家の姿になるよう、高めようとしてくれていた、それが国家構想(育成理念)だったことは、対応の仕方から明らかだったといえる。

せっかくの世界交流の好機に

 

 「自分たちの信じてきた正しさと違う!」と、世界線(海外)どころか国内の異種異文化に余裕をもった見方もできずに、ただ侮辱・気絶(思考停止)しながら締め出すことしか能がない

 

 顕蜜体制に向き合った気になっていただけの猿知恵(ただの指標乞食論)で、ケンカ腰にうちのめし合い従わせ合いながら、ただ失望し合うことしか能がない

 

そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、普段から疑い見抜くこともしてこれたこともない、今の公的教義と大差ないだらしない姿とは

 「日本列島は今まで通り、よその外圧(中国大陸側)の亜流教義の旧式依存文化のままの部分も、これからもそのままで過ごせば良い」

といっているのと同じなのである。

GHQ監視下時代以来、日本人としての議決性(育成理念)を以って構築や線引きしてきた訳でもない資本主義とやらの、そのいい加減な偶像用語の教義文化、すなわちただの亜流依存(指標乞食論)の今の低次元な公的教義の劣悪構図もそれと同じといえる。


「本当にそれが自分たちの国教なのか」に疑問をもち始め、所詮は自分たちで議決性(手本礼儀の示し合いの議会=民権言論の自由原則)を以って選んできた訳でもない、ただの外圧教義(ただの指標乞食主義)をただ押し付け合ってきただけの時代遅れの猿知恵(ただの劣情統制主義)のあり方に懐疑的になっていったことが原因で、中世末期から近世への移行期に起きた歴史的な民権的一揆(公的教義の偽善権威体質との決別運動)が、

 自力信仰一辺倒だった日本での、他力信仰(啓蒙性・社会健全責任力)不足喚起の、浄土真宗の台頭(時代遅れの公的教義の、偽善権威体質との決別教義運動)

 他力信仰一辺倒だった西洋での、自力信仰(人文性・個人努力責任力)不足喚起の、プロテスタント運動(時代遅れの公的教義の、偽善権威体質との決別教義運動)


だったのである。

この相互関係を、ただの二極論の対義闘争だと単純誤解する者が多いため念を押しておくが、これは

 人文性(個人努力責任力)の品性規律(議決性)に無責任(非議決性的・非手本的)なニセ啓蒙主義(ニセ社会健全責任主義)への否定

 啓蒙性(社会健全責任力)の品性規律(議決性)に無責任(非議決性的・非手本的)なニセ人文主義(ニセ個人努力責任主義)への否定


旧態慣習(閉鎖有徳主義=非議決性主義=非法治国家主義)との決別の敷居向上のための、時代遅れの教義体質(品性規律のあり方)に対しての、等族議会的(法治国家の品性規律的)な抗議・改革運動なのである。

今の公的教義と大差ない「いいなり以上、手本未満」の低次元な猿知恵(ただの指標乞食論)しかもち合わせていない、ただ落ち度狩りのみでただ侮辱し合いながら、ただ失望し合わせるのみしか能がない下品で汚らしいだけの身の程知らずどもは「引っ込んでおれ!」に変容したのが、16世紀の特徴なのである。

その「引っ込んでおれ!」は、議会制(等族国家・法治国家のあり方)の最低限の品性規律(順番)も守れない、今の口ほどにもない公的教義のような

 そういう低次元なだらしない無能(偽善者)どもは議会(自分たちのあり方の意見整理の提出の場)からつまみ出せ!

 「いいなり以上、手本未満」どもに議決権(選別権・意見権=民権言論の自由原則)を与える必要などない!

の等族義務(国際意識)の敷居から、中世末期までの時代遅れの視野の狭い旧態権威、つまり人の上に立つ側の旧式の身分基準はいい加減に疑問視され、旧式とは決別していく等族議会制として仕切り直しの改革(地方再統一、中央再統一、身分再統制)がされていったのが、16世紀の身分制議会化(等族社会化=法治国家化)の特徴なのである。

暦に関してもそうだが、廷臣たちが議決性を以って国事を決めていくことなどできなくなっている、そのまとまりのなさの弊害は、次代陛下として予定されていた誠仁親王(さねひとしんのう)の皇位継承式典の段取りについても同じなのである。

 

廷臣たちがあまりにもまとまりがなかった(議決性が欠落していた=国家構想が欠落していた=日本の外の世界線の異種異文化の交流が見えていない)からこそ、制裁的・懲罰的にいったん廷臣たちから巻き上げることになったのである。

 

室町の大経済期の崩壊後の廷臣たちは、皇室の継承式典をろくに整えられず、皇室の威厳を損ね続けてきた、すなわち国家の格式を損ね続けてきた等族責任は重大であるにも拘わらず、それを深刻に受け止められていたのが怪しい連中が多かった。

 

これは、中央の武家側もそこを深刻に受けることもできずに、協力しようとしなかったことも確かに問題ではあるが、そういう肝心な時こその、廷臣たち(聖属の管理人たち)の存在のはずなのである。

 

争う所は争い、和解する所は和解するという議会的な名目(誓願)を聖属側(寺社または朝廷)に提出させ、今後の良い事例とするための重みのある和解になるよう斡旋し、教義面(聖属面)からの健全化に務め、地方で閉鎖的に対立するようになった諸氏にそれで恩を売って朝廷に出資・支援させる、ということを廷臣たちが本来は、管理できなければならなかったのである。

 

その国内交流のあり方もまとめられない、国内の非国際的な閉鎖有徳の規制(健全化=等族統制化)もできない集まりが、どうやって世界線の交流の敷居に対応できるのか、その構図は地方再統一で精一杯の余裕のない低次元な集まりが、どうやって中央再統一(国家再建)ができるのかと同じ話なのである。

 

そのための公的教義(延暦寺)の顕蜜体制とその特権のはずが、等族義務(敷居向上の品性規律の示し合い)も果たせたこともなく、皇室を支えさせるための目下の室町再建の手助けも何らできなくなっていた時点で、もはやそんな旧式の資格(身分制・特権)など、高次元側の敷居(議決性)によって上から順番に剥奪・撤廃(格下げ)されて当然なのである。

中央再建に廷臣たちが積極的に貢献できていたどとは、とてもいいがたい、ほぼ織田氏の旗本吏僚体制のおかげで再建したも同然だった中、廷臣たちの上層の「高貴な我々のこれまでの格式を、今まで通り認めよ」など、身の程知らずもいい所なのである。

 

室町最後の希望であった足利義輝を、廷臣たちは命懸けで支えようともせず、まるでよそ事のように見殺し同然にしたと見なされても仕方のない、その等族責任(議決性)の力量のなさも明らかだった。

 

織田氏が中央を掌握後に、織田氏に反織田連合が噛みつき始めた際も、織田氏と浄土真宗とで対立に至った際も、廷臣たちが中央のあり方としての等族議会的(法治国家的)の手本になるような和解の斡旋などできていた訳がなく、そこをこれまで何ら反省(自己等族統制)できていない実態が、踏み潰された公的教義(延暦寺)の姿そのものだったのである。

 

その実態も織田信長は直接、廷臣たちに言い放つことはなかったものの、廷臣たちのかつての慣習的な特権を具体的に巻き上げながら

 

 「最後の希望の足利義輝公を、ろくにかばうこともできずに結局見殺しにし、再興の見通しをいつものようにうやむやにした、まとまりのない廷臣たちは、何も反省できておらんではないか!」

 

と、そこを遠回しに恫喝していたのである。

 

暦のことにしても次代陛下の段取りにしても、今後の日本の法治国家のあり方として、

 

 尊重優先の手本 = 議決性を以って意見をまとめる、法治国家としての敷居向上の品性規律(組織理念)の手本

 

などできたことがない、

 

 侮辱するのみしか能がないただの劣悪性癖 = ただの猿知恵(指標乞食主義)の押し付け合い(ただの偽善権威の敷き合い)の、だだの落ち度狩りでただ失望させ合うことしか能がない低次元ども

 

でしかない所を、荀子・韓非子の規律敷居、孫子の兵法の国家構想(育成理念)の規律敷居で

 

 そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、そこを普段から疑い見抜いていく(等族統制)

 

こともしてこれたこともない、今の公的教義と大差ない閉鎖有徳主義(ただの指標乞食主義)から卒業・決別できたことがない、迷惑千万な非文明的な旧態体質は、上から順番に姿勢狩りの制裁の織田政権(荀子的独裁制)による身分再統制・身分制議会の時代にあって、許容される訳がないのである。

 

国内の他力信仰も許容(余裕をもった見方)もできずに、たかが他力信仰にただ顔を苦痛に歪ませながら、ケンカ腰に偉そうに下品に汚らしく侮辱することしか能がない、自分たちで再統一(自己等族統制)できていない朝廷(廷臣たち)に、国際交流の外交官の役目など、任せられる訳がないのである。

 

そのため織田信長は、廷臣たち(聖属側)の荘園特権も織田政権の公認による再手配という、何かやらかさないための保護監察の扱いを強制するようになり、京の代官として手配された織田氏の旗本吏僚たちが、中央関係者たちを監視するようになった。

 

すなわち、聖属側である廷臣たちも、世俗側の裁判権に改めて強制的に傘下に治めるようになり、後述するがこの廷臣たちの荘園特権の内の半分ほどの多くを管理していたのが、織田氏の最重要幹部だった佐久間信盛と明智光秀で、佐久間信盛が失脚すると明智光秀がその分も請け負うことになった。

 

この形は、聖属政権から世俗政権に移行して以来の鎌倉から室町までも似たようなものであったもの、織田政権の台頭によって、遠回しではあるが、そこをとうとう露骨に線引きし始める事態となった。

 

つまり今後の日本の等族議会制の確立によって、今までは旧式のまま曖昧になり続けていた所が多かった、廷臣たちにとっての揉め事の原因にもなっていた身分制と荘園特権(聖属側への配給制)についても、身分再統制(品性規律の役割・教義指導力に見合っただけの配分)の具体的な整備・採決がいよいよ始まったことを意味していた。

 

一時的ではあるが、織田氏がついに廷臣たちを具体的に家臣化するようになった、鎌倉から室町までに世俗側は聖属側を規制するようになったとはいっても、曖昧にされていた部分も多かったのを、ついに織田信長が具体的に線引きし始めたのである。

 

それによって織田信長が、廷臣を含める旧態の中央関係者の中から「本音は口にできないが、織田氏のおかげでやっと中央再建に取り組める」という姿勢はもっていた有志たちが選別されながら、それらと協力しながら、海外の外交対策も整備され始めた。

 

つまり朝廷(廷臣たち)が、議決性をもって有望な廷臣たちを選出しながら、教義面で武家側と健全(等族議会的)に連携を採っていくことなどできなくなっていた、その廷臣たちと中央関係者の人選権も、とうとう織田信長の身分再統制によって介入されてしまう歴史的事態を迎えたことを象徴していたのが、あの比叡山・延暦寺(公的教義)の踏み潰し事件だったのである。

 

織田氏による人選枠(身分再統制)に入れてもらえなくて当然の、今まで旧態権威で上層を気取っていただけのだらしない廷臣たちの今の公的教義と大差ない、ただの劣悪性癖に過ぎないような偉そうな誇りとやらが、とうとう徹底的に踏みにじられたのである。

 

織田氏の身分再統制(等族議会制)によって、高貴な伝統をもつ家系だろうが、国威すなわち皇室を支える等族義務など果たしてこれなかったことに反省しようとしもしない無能(偽善者)は、その見込みもないと裁定されれば、ついに重役から外される事態となったのである。

 

自分たちで議決性を以って、役職に見合ったできそうな候補者を自分たちで公正に選別していくことなどできなくなっていた、大事なことを万事うやむやにしながら外圧のせいにすることしか能がないだらしない集まりに、自国の自力教義のことを任せたり、暦のことを任せたり、次代陛下の典礼式典のことを任せたり、海外対策のことを任せようとすること自体が、乱世の原因なのである。

 

 ただの落ち度狩りでただ侮辱し合う(ただ失望し合う)ことしか能がない「いいなり以上、手本未満」の低次元側

 

 議決性(敷居向上の育成理念)ある姿勢狩り(手本礼儀の示し合い)で、上から順番に恫喝(格下げ)ができる高次元側

 

の、孟子的合議制荀子的独裁制の区別・使い分けの事例を参考にできたこともないような、ただ下品で汚らしいだけの今の公的教義と大差ない低次元な身の程知らずどもが、人間性(人文性)と社会性(啓蒙性)に冷静さ慎重さ丁寧さをもって向き合ってこれた訳がないのである。

 

建武のやらかしの反省が活かされておらず、聖属側の問題は廷臣たちの議会制で再統一(自己等族統制)し切れていたとはいいがたい、いい加減な集まりに国事を任せた所で、全て外圧のせい(全て派閥都合のせい、全て織田政権のせい)に押し付け合うことしか能がないことも、織田信長は解り切っていたのである。

 

中央再統一(法治国家としての議会制の確立)の刷新期にあって、どうするのか議決性を以ってはっきりさせられていなかった、曖昧なままの廷臣たちのこれまでの聖属側の人事権もとうとう織田信長の旗本吏僚体制(育成理念)の介入を受ける形で、あてつけのように廷臣たちと中央関係者の有志を織田氏が選別し始め、海外対策も始めるようになった。

 

それが本来の等族社会(法治国家)の姿であることが、織田政権では武家側はそれで当然になっていたのを、中央の聖属側にも例外なくその敷居がついに向けられるようになったというだけの話に過ぎず、西洋でも既に聖属側の裁定(身分再統制・謄本登録制)は、世俗側の帝国議会(王族の代表格たち)が裁定する方向に進んでいたのである。

 

イエズス会士のザビエルとフロイスが日本に滞在していた頃と、織田政権によって戦国終焉にどんどん向かっていた 1579 年にイエズス会士のヴァリニャーノが来日した頃とでは、イエズス会が結成されてから40年ほど経ち、カトリック主義(公的教義・西方教会の伝統主義)かプロテスタント主義(公的教義体質との決別主義)を巡る西洋の情勢も、変化していた頃だった。


日本の中央再建の姿をまだ見ていなかった、織田信長の先代たちの戦国後期の総力戦時代(地方の議会制の確立)の突入期の真っ最中にやってきて、それまでの日本の経緯を把握できずに、しかも西日本の様子しか見ていなかったザビエルの、公会議用(西方教会の教義の改革議会)に向けた日本の様子の報告書は、かなり辛口だった。

 

しかしその後には織田政権が強固なものに成り始め、西洋人たちは口にはできなかったがキリスト教社会よりも格上の啓蒙国家になり始めていたオスマン帝国のスレイマン1世と同格ではないかといえた織田信長の様子を、フロイスは目撃してしまった。

 

ザビエルの報告とだいぶ違っていた、織田政権の旗本吏僚体制を見せつけられたフロイスは、そこに気まずそうに濁すように、公会議用に向けた日本の様子の報告をしている。

 

そしてフロイスたちまでの報告の様子をざっと知ってやってきたヴァリニャーノの一向は、濁してばかりいたフロイスたちの話とだいぶ違った織田政権の旗本吏僚体制を実際に目撃してしまい、ついにヴァリニャーノがすっかり日本人のことを絶賛する報告をしている。(順述)

フロイスはともかく、ザビエルとヴァリニャーノとで、日本人に対する印象が全くの正反対になっている報告を述べておきたいが、その前にまず織田政権における、西洋との外交の様子について触れる。

 

フロイスら先遣の者たちと交代する形でやってきてきたヴァリニャーノが、織田信長に謁見を求めた際、旗本吏僚たちによる、どういった典礼になるのかの前準備を、ひとつひとつ案内する体制が、織田政権では既にできあがっていた。

 

織田氏の旗本吏僚と、有志の中央関係者たちが協力する形で、西洋人たちに謁見のための案内・指導を担当するようになっていた。

 

 「お屋形さま(織田信長)に謁見する予定日の会場では、まずこのように、ここで一礼、となります」

 

 「その際にお屋形さまが、威嚇するような発言もされますが、通訳の者にそれを聞いてもこれは形式的なものなので驚かずに、ここは何も反論せずに冷静で居てください」

 

 「お屋形さまが『して今回は、どのような趣(おもむ)きであるか?』と発言された時に、この位置にいる奏者番(書状の読み上げを代行したり、発言を代行する者)に一礼し、要件の書状を渡す手筈になっています」

 

 「その時に奏者番に発言が許され『どうやら西洋の方々は、このような願い出を求めているようです』と簡単にひと言、あなた方を便宜するという、段取りになっています」

 

 「そしてお屋形さまが『そうか、では内容を拝見するとしよう』という手筈になっているので、当日になって、あたふたとややこしい確認のし合いにならないためにも、どんな願い出をしようとしているのか、我らにも事前に確認させてください」

 

 「『これならお屋形さまもきっと、受け入れてもらえることでしょう』といえる状態を、まず我らにも確認した上の段取りを、当日までに整えておくよう仰せつかっています」

 

旗本吏僚のひとりとして重きを成していた、織田信長のお気に入りだったといわれた森成利(しげとし。森蘭丸)や、長谷川秀一(ひでかず)ら有能な近習たちは、織田信長の身の周りの世話係だけでなく、こうした作法などの案内役も担当していたのである。

 

森成利は、反織田連合の対応で忙しかった頃の近江攻防戦で、近江衆の新参の織田派を失望させないように、劣勢を必死に支えようと織田信治(織田信長の弟)と共に果敢に戦って戦死した、有力寄騎の森可成(よしなり)の子で、父の姿勢が評価されたからこそ、森長可(ながよし)と共に兄弟で優遇されていた。

 

仏教国が多かったアジア内の外交大使を、今までの慣例通りで相手にしていれば良い時代ではなくなってきていた、全くの異種異文化の異教の西洋人を相手にしなければならない、そこに国威・格式の器量(品性規律)が問われる時代に、なってきていたのである。

 

旧態の自力信仰一辺倒の公的教義体質が抜け切れていない当時の朝廷体制(廷臣たち)は、こうした外交の手本指導を一任できるような余裕などなかった、だからそれができる高次元側の織田政権が代行することになった、というだけの話に過ぎない。

 

これを織田信長が「やって当たり前、できて当たり前」だと、中央だけでなく遠方諸氏にも「この国家構想(育成理念)に至っていない諸氏は、格下げ覚悟でさっさと降伏せよ!」と恫喝していたのである。

 

ザビエルが来日した頃の戦国後期の突入期は、織田氏による中央再建の旗本吏僚の様子をまだ見ていなければ、そもそも現代の日本人ですら説明できる者がどれだけいるのかも怪しい「日本の武家政権の独特な家長権争いの特徴」も到底理解できないまま、異様に見えた当時の日本人の様子に、悪い印象を受けるばかりの辛口評価で報告している。

 

初来日となったザビエルは、日本の場合は自力信仰一辺倒(時代遅れの旧態体質)が抜け切れていないことが地方再統一(地方議会の確立)の支障(閉鎖有徳)となって深刻化していた所が、西洋と真逆だったという認識が、そもそもできていたのかも怪しい。

 

西洋では他力信仰一辺倒(時代遅れの公的教義体質)が原因で自力信仰(それに抗議・決別派のプロテスタントたち)と揉めるようになり、そのだらしない公的教義(口ほどにもない枢機卿団ども)に対する公正化委員会として結成されたイエズス会の感覚で、日本の様子の報告書を記述していたのではないかと、筆者は見ている。

 

日本の武家社会の非常にややこしい歴史的経緯が呑み込めていなかった、戦国前期から戦国後期にかけて社会観念も激変し始めていた、総力戦時代の突入の真っ最中に来日したザビエルは

 

 「日本の騎士(武士)たちは、伝統的な家長(クライス。公爵や侯爵ら管区長。日本でいう三管四職)を尊重せず、自身が家長になるために親兄弟同士で敵味方で分かれながら、騙し討ちも平気でやることを重んじるような、とても冷酷な民族だ」

 

 「日本の騎士(武士)たちは、由緒ある騎士修道会(有徳・寺社)で団結しようとせずに、むしろその体制を否定し合いながら強者をより打倒し、旧主の資産を巻き上げることができた騎士(武士)の名義で、強制的に主君を鞍替えさせようとする」

 

 「そのための軍事鍛錬や作戦構想や、刀や槍の切れ味の競い合いなどに熱心で、騎士(武士)同士で責任を採らせようとする姿においては、まるで家畜を屠殺(とさつ)するような感覚で執行する」

 

 「日本の騎士(武士)たちは、キリスト教でいうデウス(全知全能の唯一神。ゼウス)に相当する、大いなる大日如来の存在を認識しながら、それを否定するかのように他の邪神(各地の現世利益の土俗信仰)を用い合うことばかりする、けしからん民族だ」

 

と見えていたが、ただし規律や名誉を西洋人以上に重んじようとしていた所も、評価している。

 

また当時の日本人は、今まで技術的な交流が単に乏しかっただけで、西洋の技術を確認した途端にあっという間に原理を理解し、さっそく改良を始めようとする知能の高さにも驚き、また土木建築の設計力は元々高かった所などには、不気味さを覚えるほどだった。

 

ザビエル来日から30年以上経って、日本のことも段々と理解できるようになって来日したヴァリニャーノの反応は、織田政権の旗本吏僚体制が、これが前々からの日本の最低限の敷居であったかのように、良い意味で錯覚しながら

 

 「日本の騎士(武士)たちは西洋のキリスト教徒に寛容的で、何より中央の役人は、我欲で動こうとする不正や、権力で暴力的にうちのめそうとすることこそが恥と嫌う者たちばかりの、毅然とした頭脳明晰な、優れた者たちばかりだ」

 

 「困っている人をすぐに察し合い、対応しようとする者も多く、異教徒同士が都市で交差しても言い争うことはなく、一礼し合える文化的な礼節が重んじられている姿は、まさに人類の楽園のようだ」

 

 「都市商業があれだけ大きく発達しているのに、窃盗などの事件は極めて少なく、公正な役人の巡回に庶民も安心しながら、明るい信用で活気付きながらそれぞれの仕事に皆が日々熱心に、過ごしている」

 

 「皆が過度な贅沢は控え、質素な食事であっても不満をいう者などおらず、日本人はたとえ貧しい者でも皆が品位を心掛け、誰かにいわれなくても皆が進んで掃除をする清潔好きで、そのせいか西洋人よりもだいぶ健康そうに見える」
 

 「ひがみ合いながら、蹴落とし合い奪い合うことの恰好悪さを問題視しながら、忙しい合間にも皆が読み書きができるよう勤勉な者たちも多いため驚くほど識字率が高く、そのためキリスト教に興味をもった日本人は皆、教理の理解力に優れていて驚くばかりだ」

 

 「日本人たちは、罰を恐れるからいいなりになるのではなく、いわれないと守れないだらしなさに恥を覚える名誉(主体性)を心掛けられる、品性ある者たちばかりで、これほど優れた人種は世界中を探しても他に見つからないのではと、思えるほどだ」

 

と、キリスト教に理解ある友好的な日本人は、キリスト教徒の良き友として今後も交流を重視しなければならないことを、ヴァリニャーノは強調している。

 

織田政権の身分再統制(等族議会)による公認も無しに勝手な上下統制を始めたり、織田政権が公認する謄本保証に対し、断りもなく勝手に奪い合うことも禁止された、すなわち意見整理(法治国家の最低限の手本礼儀)もろくに提出せずにただ揉める(ただ侮辱し合う)ことしか能がない、だらしない閉鎖有徳行為(偽善行為=ただ失望し合うのみの行為)は、厳罰化されていった結果である。

 

上(自分)から順番に変われば国家(周囲)も変わる、まさに荀子・韓非子の手本通りの姿といえる。

 

次は、廷臣たちと明智光秀の関係などの様子について触れる。