近世日本の身分制社会(085/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか13/? 2021/11/30

 

前回に引き続き、織田信長が中央に乗り込んで大再生後の 1571 年以降の、織田信長の廷臣たちのあてつけについて、触れていく。

前回の箇条を同じく並べるが

 1.今の公的教義と同じ、何の等族議決性(育成理念)もない低次元な顕蜜体制への否定(踏み潰されっ放しなままの延暦寺)

 2.織田氏による、荘園特権(廷臣たちの特権)への閉鎖有徳規制の保護監察化

 3.海外との外交に関する、典礼特権・人事権の巻き上げ

 4.外交の饗応(きょうおう。酒食等の接待の典礼)にも関係していた、偉そうな京の文化料理に対する難癖

 5.本来は聖属側(皇室と朝廷)の権限で制定されるはずの、暦(こよみ。れき。日本のカレンダーの整理、年号の決定)への口出し

 6.次代天皇の誠仁親王(さねひとしんのう)の猶子化(ゆうし。義理的な養子手続きだがここでは後見人のような意味。織田氏主導の継承式典の段取り)

 

の内、前回は3がどのようなものであったを主に、日本と西洋の当時の関係性について、ざっとの様子を紹介した。

今回は4以降の件と、本能寺の変の起きる 1582 年までの様子などについて触れていき、明智光秀の件として2の話もしていく。

1568 年に、尾張と美濃と併合したも同然となっていた織田信長が、中央関係者たちの要請に応じる形で中央進出(山城・京への進出)を果たした際、それまで京に居座っていた三好氏に給仕していた、名料理長として評判だった坪内という者が召し出されたことがあった。

ある日、織田信長がこの坪内氏に朝食を作るように依頼した所、出てきたのは貴族・権力者向けの高級な文化料理だった。

織田信長がいきなり「こんなマズいメシが食えるか!」と難癖をつけ始め、その坪内氏を呼び出して「俺にこんなものを出しやがって」と大げさに文句をいった。

織田信長が表向き、なんだかかなり怒っていたためこの坪内氏は「もう一度だけ、作らせて頂きたい」「それでもし納得できなければ、どのような処分も覚悟します」と答えたため、織田信長ももう一度、食事を作り直させることにした。

次に出てきた食事は、お馴染みな庶民的なものが出てきて、その工夫も味も非常に良かったため、織田信長もすっかり上機嫌になって食事を楽しんだ。

織田信長は今度はこの坪内氏を絶賛し、腕利きの料理人であることの格式も改めて公認し、小特権も与えられる栄誉も受けた。

坪内氏としては、京の文化料理への理解を示して貰いたかった所だったが、この時に織田信長になんだかそこを完全否定されてしまったことには少し不満をもっていたことも窺える後日談も残っている。

坪内氏が周囲に漏らした話もたまたま記録で伝わったため、現代では「織田信長は庶民的な食事を好み、上層の高級思考の食事など無関心な人だった」と強調される所になるが、筆者はこの一件は廷臣たちへのあてつけの、もっと政治的な意図もあったと見ている。

とりあえず京の上層に求められる文化的な料理を担当していたに過ぎない坪内氏からすれば、そのことを遠回しに政治利用されてしまったことには少し不満をもったと思われ、しかし織田信長から名料理人として小特権まで公認して貰えたため、複雑な心境だったと思われる。

ここで余談も挟みながら、当時の食事の様子などから順番に説明していきたい。

まず、総力戦時代で等族議会制(手本家長の示し合い)の確立で地方再統一にどこも忙しかった戦国後期は、地方政治のあり方も少しずつ改善されていったことで、食事のこと、礼服も含める衣類や生活用品のこと、また茶道の作法など、忙しい中でもそれらに気が回るほどの、ちょっとした余裕も生まれるようになった。

少し先述したが、日本の代表的な調味料である、味噌と醤油に対するこだわりや楽しみは、上から下まで関心がもたれていた。

特に味噌においては、塩加減や麹加減や保管方法などにこだわった自家製を、上級武士の間でも楽しんでいた者もいて、それは珍しいことでもなんでもなかった。

戦国も終焉に向かった織田政権時代から、のち江戸の大経済期の元禄時代を迎えるまで、娯楽がとにかく乏しかった当時は、食事は皆の貴重な娯楽のひとつでもあった。

江戸時代に入った初頭、大領の小倉藩(こくら。大分県。港の効果で都市化していた)の当主であった小笠原忠真(小笠原貞慶の孫)も、漬物作りに凝っていて、そのためのちょっとした体制を作っていた事例もあるように、身分を問わずに食事に関心的な者は多かった。

応仁の乱の表向きの東軍の代表格であった細川勝元(かつもと)も、かなりのグルメであったことが伝わっていて、こちらは上級思考のものだったと思われる。

徳川家康は、祖父(松平清康)も父(松平広忠)も立て続けに若年死してしまったことで、三河の代表格としての体制も崩れ、それを回復させるまで、家臣たちも大変な苦労をしてきた経緯もあった。

そのため、家臣たちに同じ苦労をさせてはならないという配慮から、徳川家康は医術・薬学を独自に熱心に学び、さらには食生活においての健康面の気配りにも怠らなかった。

すぐ飽きる贅沢で豪勢な食事などよりも、庶民的な粗食から栄養価を考慮した方が健康に良いことに気付き、工夫次第ではそれでもおいしく食べれることにも、徳川家康は気付いていた。

 

徳川家康は太っていた印象が伝わっているが、晩年は見た目の恰幅さで威厳を強調しようとわざと太った体つきにしてただけで、豊臣秀吉と和解する 1580 年代の三河時代までは少しやせ型の体で、食べ過ぎないよう気を付けていた。

 

織田信長の食生活の様子もいくらか文献に残っていて、どうも「湯漬け」が好きだったことが解っている。

この「湯漬け」は、現代でいう所の「お茶漬け」と大体同じ食べ方で、炊いた米や雑穀を碗に盛って、その上に調味料や漬物などの具を乗せて湯をかけて食べる、上から下までお馴染みの庶民的な食事方法になる。

織田信長と豊臣秀吉は、政治的な威厳と品性規律のための、政局としての立派な応接室などの建設こそ重視したが、私生活面の贅沢は大して伝わっていない。

織田信長は、相撲の観戦が好きだったことも伝わっていて、強いて織田信長の贅沢を挙げるとすると、この相撲行興がそうだったといえるかも知れない。

ただしこれもただ道楽にかまけていたというだけでない、勧進(かんじん。弱者救済のための資本も含める、寺社の地域振興)と関係していた力士を奨励する、重要な意味もあった。

織田信長の死後に中央を制した豊臣秀吉の時代には、諸氏の気も緩んだのか、茶道について、その茶室や茶道具がなんだか人よりも偉いかのようにな偶像化が始まりながら、それで権威的に家格・格式を競い始めるようになる風評弁慶化(指標乞食化)の兆候が見られるようになった。

豊臣秀吉は、それに対する姿勢狩り(育成理念と関係ない猿知恵の偶像観念に対する警告)として、皆にそこをバカにするかのように「黄金の茶室」なるものを作って、諸氏を恫喝した。

 「お前らが造形芸術だの風流文化だのといっている、その内に偉そうな格式争いで思想支配のいがみ合い始めるその行き着く所は、こういう下品で汚らしい姿なのだぞ!」

とあつてけに恫喝した。

この事情の説明がこれまでろくにされてこなかったために、この黄金の茶室についてはまるで

 

 中央の実権と一緒に鉱山権も一手に握った、貧乏人出身の成金秀吉が調子に乗り、思い上がりの贅沢を楽しんだ

 

かのような、ただの道楽・遊興だったかのような説明ばかりされがちな所になる。

しかし実際は、織田信長も豊臣秀吉も、何の育成理念(助け合いの等族議決性)もないような、ただ偉そうなだけの権威欲(劣情)や物欲などからくるようなくだらない贅沢などには、一切流されることなどなかった。

そして、そのように流されがちだっただらしない諸氏に対し、上から順番に

 

 「そういう下品で汚らしい指標乞食運動(非議決的=反法治国家的)を始めるような騒乱罪予備軍は、格下げするぞ!」

 

荀子・韓非子的に恫喝しながら、手本家長としての最低限の敷居の向上に努めていたのが、織田信長と豊臣秀吉なのである。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、忙しい合間にも鷹狩りに積極的に興じていたことも伝わっているが、これも贅沢というよりも、支配者としての作法的な威厳のためにやっていたというのが、正確な所になる。

鷹狩り用の鷹を見定めて、鷹を育成する「鷹匠」の存在にしても、相撲の力士たちの存在にしても、そうした日本の文化遺産は衰退しないように、織田信長も豊臣秀吉も、風評弁慶(ただの指標乞食主義)に悪用されないように注意しながら、目をかけておきたい所だった。

伝統的な京の文化料理についても、焼き物の食器や花瓶など日用品にしても、舞踊や歌道や祭事の伝統にしても、日本の国威・格式にも関係してくるこうした造形文化は、支配者は等族責任をもって保護的に目をかけておきたい所になる。

愛知県東部の瀬戸物(せともの)や、滋賀県南部の信楽焼き(しがらきやき)などの各地の優れた焼き物文化も、それによる上層向けの高品質思考の工芸的な花瓶や壷、また茶道のための茶碗や茶釜などの創出は、国際外交においても非常に大事な伝統分野だった。

しかしそれを解っていながら織田信長は、この内の、京の文化料理と、茶道の2つに対してはあえて厳しい態度で望んだのは、これはあきらかに政治的な意図があったと筆者は見ている。

他は大した否定はしなかった織田信長が、京の文化料理にはこのような態度に出たことは、偉そうな味覚とやらで人格否定的な上下統制を始めるような、

 

 茶道が劣悪性癖化(指標乞食化=非等族議決化=社会問題化)してきていたことと重なった

 

ためだったと思われる。

これらがもし禅の思想のように、食事のようで食事とはまた別の育成理念(姿勢狩り・教義狩り)の部分も大事にされているということであれば、織田信長は文化料理のことも、茶道のことも、難癖はつけなかったと思われる。

中央の再建を果たした織田信長は、その前から謁見を求めるようになっていた西洋のキリスト教徒たちを受け入れ、海外とのこれからの国際外交の視野も、さっそく入れていた。

西洋人たちは日本に来た側で、

 

 自分たちと交流をもつことの良さを日本人に理解してもらいたい側

 

であったからこそ、西洋人たちの教義のあり方にしても、文化の品々にしても、ただ押し付けるのではなく、理解を得ようと歩み寄っていた。

火縄銃などの火器兵器だけでなく、西洋人の貴族層の衣服や、アジアや新大陸(アメリカ)で発見した珍しい植物や動物だったり、西洋の焼き物や、また銀製や銅製の日用品、またカスティリャの洋菓子(カステラ)など様々のものが持ち込まれて、日本側もそれら品々に注目した。

向こうが少し下手(したで)に出ているそういう時にこそ、その足元関係に頼ってばかりではなく、禅の思想のような礼節を以った、そこに余裕をもった饗応(きょうおう。酒食の外交的な接待のこと)くらいもしなければならない、今後の等族社会化(国際的な法治国家化)のための国威・格式の、見せ所ともいえる。

ところが国内でさえ、閉鎖有徳的なただ偉そうな食事の作法や、ただ偉そうな茶道の作法をケンカ腰に押し付け合いながら

 

 「そんなこともワカランのか」

 

でくだらない価値観争いの上下統制でうちのめし合い従わせ合うことしか能がないような、

 

 今の公的教義と大差ない、時代遅れの低次元な猿知恵(ただの劣情統制・ただの指標乞食主義)の劣悪性癖

 

も自分たちで自立自制(再統一・等族統制)できたことがない分際(偽善者)が、国際意識をもった今後の饗応を指導・管理できるのか、極めて怪しい所になる。

西洋人たちはそれまでのアジア貿易で、西洋にはなかった米穀や調味料の存在は認識はしていたが、西洋ではパンや豆のスープなどが主食だった。(のちジャガイモの有用性も見直され、ジャガイモも重要な主食に扱われるようになる)

日本では、祭事の時などに鳥類やイノシシなどもたまに食していたようだが、仏教の導入の関係で畜産的な殺生食においては戒律が重視される傾向があったことから、地域差はあったと思われるが、魚以外の肉食は普段は積極的に食べることはなかった。

西洋も魚はもちろんの他、豚肉、牛肉、鶏肉は古くから食され、これらは少し贅沢品だった。

 

肉類は貴族や富裕層は当たり前のように食べていたが、市民権をもった都市の労働者や、自由保有地権をもった農村の労働者の間でも、たまに食べることもできていた。

しかしそれら財産権・労働保証権(市民権や自由保有地権。蓄財の余裕)が無かった、その下に所属していた大勢の隷属労働者の貧困層の中には、中世までは肉どころか魚もめったに食べれなかった者も多かったといわれ、つまり食生活がそのままその者の地位・待遇と直結していた世界だった。

しかし中世から近世への移行期の、カール5世の帝国議会(身分制議会・身分再統制)の時代には、貧困層への敷居の救済についても、だいぶ見直されたことで、貧困層の食事情も少しは良くなった。

日本では、今までは海外交流もせいぜいアジア内だったのが、これからは遠方の西洋人たちの饗応のあり方も、考えなければならなくなってきていた。

東洋と西洋では、食文化がだいぶ違う中で、今まで通りの京の文化料理や茶道の作法を、ただ下品で汚らしいだけの今の公的教義のように、閉鎖的な猿知恵に過ぎないものを無神経に権威的に威嚇するように押し付け、

 

 「お前らはワカッテイナイ」

 

でケンカ腰でうちのめし従わせようとしているだけの低次元なやり方が、国際的な品性規律(法治国家としての手本礼儀)なのかという話である。

西洋での食の様子について話を進めると、都市の富裕層は、富裕層同士や小貴族との交流を目的に、食事会・宴会をよく開催することがあったが、これを開催する際は、皆が食べきれないほどの贅沢な食事がいかに用意できるかが重視された。

そしてその交流会が終わると、「食べ残し」という名の、手もつけられていない豪勢な料理の数々が、貧困層に振る舞われるのが慣例になっていて、それにありつく人々の楽しみにもなっていた。

これについては、貧困層を食い詰め者だと見る考えなどではなくむしろ、豪勢な食事など普段はできない貧困層に、つまり力のある者が力のない者という意味で「会は終わったので、皆も食事を楽しんでくれ」と貧困層を招き入れて気前良く振る舞うという、慈善活動の意味もあった。

何か悪事でもやらかさない限りは、それで良くしてくれる富裕者は貧困層から良い評判を得られる傾向もあり、うまくいけば得意分野などの特徴を世間からベタ誉めしてもらえるきっかけにもなり、地元の名士だと印象付ける宣伝にもなった。

贅沢な会合が開催できるかどうかが、いかに優位な交流会の輪に入れるかどうかに直結し、格上の富裕層や小貴族たちからも認知してもらう可能性も高まった。

招待状を送っても、開催する食事会・宴会の規模が小さいと小口しか来てくれない世界だったため、やるからには借金をしてでもできるだけ大きくて豪勢なものを用意しようとした。

それによって、自分よりも格上の富裕層や貴族たちに認知してもらえれば、他で開催される会合に招待される機会も増え、交流会や縁談の紹介や、また特権保有者との縁の投資話などの紹介を受けられる機会も増えるため、その開催に熱心な富裕層も多かった。

こうした交流会に関わらず、飢饉で苦しむ貧困層を救済するために、富裕層が市参事会や教区にその救済のための寄付をし、餓死者が出ないように教区からパンの配給をしたり、また凍死者が出ないように市庁舎から衣類が配られたりと、積極的に支援する場合もあった。

また、門や道路や橋が崩れたり、大雨で川が荒れた際の補修工事や、古くなってあちこちが傷んできた修道院や神学校を綺麗に建て直したいなどで費用を捻出するのに、増税しようか市参事会が悩んでいる所に「自分が出資したい」と名乗り出たりと、普段からのこうした目立った活動の評判が、交流だけでない、市参事会における支持や発言力などにも影響した。

より上層を目指す富裕層はそうした所から、都市貴族(パトリシア。正式な貴族ではない庶民側の富裕権力層のことだが、貴族層と交流網をもつ貴族風紀委員会)に、認識してもらうことに余念がない者も多かった。

西洋でも食事における作法は、地位の高い貴族ほどそこも重視はされていたが、それよりも身なりや交流関係についての方が、どちらかというと重視されていた。

カトリーヌ・ド・メディシス(フィレンツェ共和国の富裕層の代表格、メディチ一族の娘)の、ナイフとフォークの話がやたらと誤解されながら伝わっているため、それにも触れておきたい。

カトリーヌは 1533 年にフランス王フランソワ1世の次代の、オルレアン公アンリ2世に嫁ぐが、これは 1527 年に帝国議会(カール5世)と教皇庁(教皇クレメンス7世=ジュリオ・デ・メディチ)が対立し、ローマの踏み潰しが行われた6年後のことになる。

帝国議会と教皇庁が和解し、時代錯誤も改められる形のイタリアの再建で、フィレンツェ共和国におけるメディチ政権も復活する際に、メディチ家は強国スペインの上級貴族との縁組の斡旋も受ける形で、家格の格上げも行われる。

イタリアの四強といわれた、ミラノ公国(ロンバルディア州)、ジェノヴァ共和国(リグリア州)、フィレンツェ共和国(トスカーナ州)、ヴェネツィア共和国(ヴェネト州)の内、後者3国は字の通り、領邦的な王族制(国王制)ではなく、国家元首制(総理大臣制の政権)で、表向きは選挙制による選出の形が採られていた。

貴族社会ももちろんあったが、現代風でいう所の衆議院(貴族層・上院・トップダウン的)参議院(庶民の中の有力者たち・下院・ボトムアップ的)のような構成の、前者は規律や作法や人脈に対する貴族思想委員会のような役割になる。

イタリア以外の等族都市(大抵が、かつての公的教義的な司教権威から脱却していた)では、この衆議院(上院)がパトリシア(都市貴族層。正式な貴族ではない庶民の中の権力者)、参議院(下院)がギルド(労働組合)から構成される市参事会(庶民政治の政局)にあたる。

政治的、文化的には優れていても軍事的にはまとまりがなかった当時のイタリアも危惧され、その事情からメディチ家がトスカーナ大公という典礼を受けてフィレンツェは領邦君主化(公国化)することになったため、これにはトスカーナ全体で議論にもなった。

名こそ「フィレンツェ共和国」を続けたが、特にコジモ・デ・メディチの時代は、トスカーナ州どころかイタリア全体で今まで経験がなかった荀子的独裁制(等族議会制の敷居の見直し)がトスカーナ州で急に始まったため、動揺も見られた。

共和国家でありながら貴族制に急になってしまったと、トスカーナ中が困惑して不満も噴出したが、結果的にこのフィレンツェによって、今までまとまりのなかったイタリア全体の支柱といっていいほどの強国化の手本を果たすようになる。(生前のマキアヴェリの悲願だった姿が、結果的に果たされる)

トスカーナ州に多かった富裕層は、いくら資産家でも、イタリアの貴族との縁がない者たちは貴族ではなく庶民の権力者という扱いで、メディチ家もその扱いだった。

ただしメディチ家は、上級貴族との縁組の斡旋を受ける前から別格で、共和国家の元首としての表向きの体裁上で貴族でないとされていただけで、交流的には貴族扱いされていた。

教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)が反帝国議会派(反スペイン・オーストリア王室派=親フランス王室派)に擁立される形で帝国議会と争い、和解したことは、フィレンツェも再び反フランスに戻ることを意味したが、フィレンツェとフランスとの国交改善として、フランス王室に嫁ぐことになったのが、カトリーヌ・ド・メディシスである。

本来であれば、強国のフランス王室と、イタリアのひとつの州の元首ごときとでは、家格的に釣り合わないものであったといえる。

しかしカトリーヌが実際に、フランスの実質の王妃(次代の母)になっていること自体が、

 茶番であってもメディチ家が教皇を輩出(レオ10世とクレメンス7世)するまでになった、別格な家格を身につけていったこと

 スペインの上級貴族との縁組の斡旋を受けたこと

 フィレンツェのこれまでの文化力の高さに加え、強国化も目立つようになった部分も、一目置かれるようになっていたこと


から、当時のフィレンツェ共和国(トスカーナ州)のフランスからの見られ方も、窺える所になる。

フィレンツェは「教皇庁のお膝元政権」といういい方を筆者が何度かしてきたが、かつて「全ての道はローマに通じる」だったのが、15世紀末には「全ての道はフィレンツェに通じる」といえるほど、ローマ文化の発信を肩代わりするようになっていたほど、文化力とそれを支えられるだけの財力に優れていた。

15世紀にイタリアでリナシタ(キリスト教の教えや規律のあり方の、原点回帰運動)が強まった時に、特にフィレンツェは文化面(絵画や彫刻や文芸や作法など)で優れた才能を発揮するようになり、ヨーロッパ中の各都市でもそこが積極的に見習うようになっていた。

そういう背景もあったため、カトリーヌがフランスに嫁ぐことになった際に、本来であれば、にわかに貴族の仲間入りしたばかりの国家元首の家系などは、フランスの上級貴族たちからは散々格下扱いされてもおかしくはなかったが、カトリーヌが嫁いだ時はそんな目で見られることはなかった。(派閥都合からのひがみは当然受けたが、貴族間ではよくあることだった)

それ所かカトリーヌが、文化力の高かったフィレンツェから持ち込んだ衣服や食器などがフランス貴族たちから注目され、カトリーヌの普段の礼儀作法や、ナイフとフォークの作法などに「あれが一流の文化力をもつ、フィレンツェの作法なのだ」と皆が関心しながら、それを見習おうとしたほどだったのである。

この部分がしっかり説明されずに、不正確に「フランスにナイフとフォークをもちこんだのがカトリーヌだった」であるかのような誤解ばかり伝わってしまった話になる。

元々、芸術や作法にも優れた感性をもっていたフランス人だったからこそ、カトリーヌの様子をすぐに理解できたということもあるが、ここはキリスト教の貴族社会の特徴だったともいえる。

同じキリスト教徒である以上は、他人種とはいがみ合うばかりでなく、和解の交流もしなければならない教えが活かされていた。

 

それがいつもできている訳ではなかったとしても、品性に応じ、異種異文化も尊重し合うこともしていくべきだということを思い出させるキリスト教の貴族思想は、優れた部分だったといえる所になる。

国王や大公といった王族から特権を公認される、中世までは司教権威(公的教義体制)が強かった貴族の文化的な規律は、都市の富裕層や、また自由保有地権をもって多くの従業員(小作人ら)を抱えていた豪農らに見習われる所になっていた。

庶民の中では地位が高かったそれらの中には、まずは都市の富裕層の公式の上層になるパトリシア層(都市貴族たちによる貴族風紀委員会)の交流に入ろうとしたり、小貴族に認知してもらおうと頑張る者も少なくなった。

貴族といってもその多くは、小特権が公認されているだけでそんなに裕福でもなかった男爵(バロン)が大勢で、どれだけ小さい領主であっても土地所有貴族である伯爵(カウント)と、そうでない男爵とでは、だいぶ差があった。

ただし男爵でも、王族に直々に認知してもらい、国家的な特権を貸与されて特別扱いされていた、一部の男爵たちは別格だった。

都市での商業特権を市政の中で公認され、それで事業に大成功し、いくら大勢の従業員を抱える大金持ちになれたとしても、自身の家系を格上げしたくて貴族の仲間入りをしたくても、その前にまずパトリシアの輪に入ること自体が、なかなか大変な世界だった。

都市で大金持ちになると、資金に困った土地所有貴族からの土地購入の話ももちかけられることがあり、多額を支払ってその購入する手続きはできても、それは土地所有貴族から特権が貸与されたに過ぎず、領主になれる訳ではなかった。

購入した土地の領主として振舞いたいのであれば、議会や王族の斡旋による、貴族の仲間入りの典礼を得て伯爵の地位が公認されなければならず、いくら金だけはあっても、まずパトリシア層の仲間入りもできていない庶民扱いの者が、簡単にそこに漕ぎつけられる話ではなかった。

ここが少しややこしいが、日本はそこがもっと厳しかったが、近世になっても西洋の土地売買と土地所有の概念は、売買先の相手が土地所有貴族の資格を得ていない以上は、その売却は特権の売却というだけで、その買戻しを強制された場合、上が決めた期間に従わなければならない場合も多かった。

ただし土地所有貴族の資格(伯爵)を得た相手に売却してしまった以上は、それはできなかった。

農村で優位に自由保有地権をもつようになった家系も、おおまかにはこの理屈になる。

 

納税の代替として領主から自由保有地権(財産権や労働保証権など)が保証されるのだから、納税できないのならその自由保有地権は没収という考えで、西洋では、納税し切れなくなってしまい貧窮するようになる農家の自由保有地権を、他の農家が立て替える代わりにその保有地権を占有し、小作人として支配していく慣習は、領主から黙認されていた。

自由保有地権をもっていたが貧窮に陥って納税し切れなくなってしまった農家は、それ自体が借金扱いされ、裕福農家に売り渡す形で自由保有地権を奪われ、以後はその傘下の小作人として従わせていくという、日本での江戸時代の後半における身分制度の崩れ方と同じ、この庶民同士の支配構図が中世に黙認され続けてきたために、これが16世紀のプロテスタント運動と連動する原因にもなるのである。

16世紀後半の、エリザベス1世の時代の少し前のイギリスでは、中世のままだった時代錯誤の議会制を整備することにモタつき、それが限界を迎えて貴族体制が崩れ始めたのは、この庶民同士の自由保有地権の譲渡の黙認慣習を野放しにしてきたことが、ドイツよりも深刻に社会問題化した。

イギリス政府の財政破綻に歯止めがかからず、いつ国家破産してもおかしくない状態が続いていた中、イングランドで優位に自由保有地権を占有するようになっていた有力農家たちが、自分たちの格上げのために団結してエンクロージャ(貴族からの土地買いによる、権威の囲い込み運動)でイギリスの議会に発言権をもち始めるようになったのが、ヨーマン層(豪農団体。のちジェントルマン層=新興貴族)と呼ばれた、政権に口出しをするようになった団体になる。

簡単ないい方をすればこのヨーマン層は「我々がイギリスの財政破綻を資金的に補填する代わりに、我々を即座に土地所有貴族扱いせよ」とイギリス議会に迫り、議会側も完全に足元を見られてしまう形で受理せざるを得なくなってしまった。

16世紀のイギリスのヨーマン層によって、まるで19世紀の時のような重農・重工主義の上下権力が作られ、それがさらに労働格差問題を助長し、ただでさえ貧困層を収容できずに混乱していた中で、庶民の雇用問題と貧富格差をさらに悪化させることになったため、イギリス中が大混乱に陥るようになった。

このヨーマン層が結束して、今までの古臭い貴族慣習(公的教義体質=カトリック体制権威の雇用・労働慣習)を破る形で、まるで19世紀の重農体制のような作物と牧畜の大量生産体制をやり始めた結果、大幅な人員削減に結び付いてしまった。

 

その改革的な農牧体制によって、今まで農地にいた多くの小作人の居場所もどんどん耕地や、牛や羊などの飼育場にするようになり、今まで農村にいた大勢の小作人の、一斉の追い出しが行われる事態となった。

この新興のヨーマン層にイギリス中の農牧の低費用化・高利益化の資本家体制を急に作られてしまい、イギリスにおける農牧の世界を彼らに政治的に急に牛耳られる事態となったために、これが大問題化した。

のちの新興貴族のこのジェントルマン層を渋々容認し、それで財政はどうにか繋ぐものの、これまでのイギリスでの司教権威的(公的教義体制的)な貴族権力の議会制はますます崩れ、経済社会の大混乱が起きていたその真っ最中に、イングランドの王位を継承したのがあのエリザベス1世だったのである。

即位当時から財政は火の車で、政体もいつ崩壊してもおかしくなかった、確かな権威など何ひとつない中で、公的教義体質の権威のままの、時代遅れの議会制の見直しの改革を、エリザベス1世が慌ててやり始めたのである。

それを、財政面ではトーマス・グレッシャム、教義・政治面ではウイリアム・セシル、外交・戦略面ではフランシス・ウォルシンガムといった名臣たちが力強く支えることになったが、苦労してどうにか国内をまとめながら、そういう人材体制を維持できていたエリザベス1世は、非常に優れていた国王だったといえる。

農牧では、時代遅れなかつてのカトリック国家体制から既に逸脱するようになっていて、その整備に追われて毎日が大騒ぎだったイギリスの様子に、当時のキリスト教国家の代表格であった、カトリック主義(西方教会主義)を絶対としていたスペインが、プロテスタントの温床になり始めていたイギリスに対し、カトリック国家体制通りではないことに圧力をかけ続けていた。

スペインが依然として、制海権・貿易権を独占し続けていた問題も絡んで、どんどん険悪になっていくイギリスとネーデルラント北部(オランダ)は、ついにカトリック国家と決別の、プロテスタント国家を表明する形で、強国スペインと具体的に対立することになるが、エンクロージャの社会問題も大きく関係していた。

イギリスは土地の売買に関する激しい改革が見られたが、他はここまでのものは起きていない。

日本でも江戸時代には、このエンクロージャ(富裕層による土地買いによる、特権の囲い込み運動)と似た問題が、経済観念も著しく変化していった元禄を迎える、その少し前から見え始めていた。

信濃5万石の内藤家が、実質の財政破綻によって、商人団から借金漬けになってどうにもならなくなっていた時に、この問題が取り沙汰されている。

借金が返せない代替として、返済額に到達するまでの徴税権やその他、領地特権の貸与の話が浮上するようになったため、江戸の老中(ろうじゅう。今風でいう財務省や産業省といった大臣たち)の間でも、そういう場合はどうするのか、その前例を認めても良いのか議論になった。

幕府としては、いくら資産家集団であっても商工側に藩主や旗本の領地特権を政治的に貸与させるようなことは、売官制を助長し、身分制の秩序を乱すという結論になった。

この内藤家は徳川譜代の家系だったこともあり、借金を幕府がいったん肩代わりし、特権に手を出しをしかけていた商人団に、手を引かせることになった。

しかし元禄の大経済後には、今まで体験したことがなかった豊かさの大消費社会を人々が体験してしまい、いよいよ経済社会観も変化していた宝暦(ほうれき・ほうりゃく)あたりになると、幕府の対策も間に合わなくなっていった。

元禄は、かつて室町に招いた爆発的な経済大景気に、法(等族議会制)の整備が間に合わなくなっていき、戦国時代を迎えるほど激しく社会崩壊してしまった時と同じくらい、大変な変化を人々が体験した時期だったのである。

景気が良かった頃は庶民は重い納税も支払えていても、景気が悪くなってそれも間に合わなくなると、その未納税は借金扱いされ、それを肩代わりするようになった富裕農家に保有地権を売り渡さざるを得ない貧困農家とで、以後はその小作人として隷属するという関係の、庶民同士での貧富格差から生じるようになった。

幕府は、大名への強制を続けていた出費の激しい公役(開発普請、参勤交代、国替えなど)は緩めずに「物価引下げ令」「田畑永代売買禁止令」「金本位貨幣の巻き戻し」「都市部の商工で失職していた者たちへの帰農令」など手を打つものの、どれも有用そうだが現場の実態と噛み合わず、どう対応していいのか解らない状況に陥るばかりだった。

本来は幕府から公認されないはずの、農地権(保有地権)の庶民同士の事実上の売買を、田畑永代売買禁止令で規制を強調するも、それを禁止してしまったら大勢が納税できなくなって、どの藩も財政破綻するようになるのも明らかだったことから、何ら効力など成さないまま黙認せざるを得なくなっていった。

特に豊臣秀吉の強調がきっかけになった

 「農家同士で不健全(ただの指標乞食主義)な低次元なうちのめし合いの格差社会を作らせてはならない、そうならないように上が手本家長の姿勢(等族議会制の姿勢=法治国家の姿勢)を示し続けなければならない」

 「皆で豊かになっていくための、意見提出の公正な評価からの助け合いを徹底させ、再び人々を室町崩壊のような貧困差別と閉鎖有徳闘争(ただの指標乞食闘争)の奪い合いに向かわないために、各農家の農地権の謄本保証を徹底していく」


弱者救済のためにせっかく作ってくれた一地一作人体制の、庶民への敷居向上のための制度が、江戸後半からは崩れ始めるようになったのである。

そもそも、名字帯刀の資格をもつ農家と、下級武士とで、職場の線引きはあっても、地位的(身分的)な線引きがただでさえ曖昧だったことからも、いずれはこうなることも必然だったともいえる。

江戸時代の後半から顕著になっていった、このエンクロージャのような富裕庶民の大地主化(大勢の貧困側を従える)の台頭を防げなくなっていったことは、江戸の身分制度で禁止されていたはずの、議決性からでない農地間の資本上下権力の黙認は、戦国前期の閉鎖有徳問題と結びついた半農半士社会に巻き戻ってしまったようなもので、江戸の身分制社会など半壊していたも同然だったといえる。

景気の悪化で下級士分たちが貧窮するたびに、その富裕庶民たちの資本力による下級武士たちの囲い込みが始まるという、幕藩体制の当初の身分制度の、庶民と下級武士たちへの規制力・保証力に対する低迷続きの江戸後半は、身分制度の建前は下からどんどん崩れていくようになる。

16世紀後半の西洋での、農村の労働慣習が特に著しく崩壊したイギリスの特殊な例は除いて、西洋ではいくら大金持ちになっても、貴族どころかパトリシア層の仲間入りをすること自体が大変だった。

これはフィレンツェのメディチ家でもそうだったが、順当な道として、地元の名士をどこもまずは目指したい家系は、子や親類たちに修道士の道を歩ませることで聖堂参事会員に選ばれる者が増えるように努力したり、また市参事会員に選ばれるように努力した。

庶民政治を代表する市参事会(市庁舎)は書記局が重きを成していて、特にイタリアではまずこの書記局官僚の仲間入りができるかどうかが、また修道院長に選ばれたことがある家系かどうかなどが、パトリシア層に認識してもらえるかどうかの登竜門になっていた。

イタリアのような共和国家体制ではなかったドイツでは、中世まではパトリシア(都市貴族団体)は司教権威(公的教義体制)と結び付いて動くことが多かった。

そのため、自由都市(司教都市との決別=皇帝都市化)を目指して民権的に市参事会(都市政治)を動かそうとするギルド側(労働組合・各業種の代表たちで構成されていた)と、パトリシア側(都市貴族団体)は、対立しがちだった。

中世に、かなり揉めながら帝国議会(皇帝=王族たちの代表格)に等族諸侯扱いに公認してもらう形で、時代遅れの司教都市(司教権威=公的教義体制)の都市法から、自由都市(皇帝都市・民事法の改正)への都市法への脱却に、相次いで顕著になった動きは、パトリシア権威の弱体化を意味した。

それによってギルド側(市参事会側)による民権制が高まったのも束の間で、それが貧困層によるツンフト(特殊労働組合。貧困層が市民権や自由保有地権を得るための格上げ労働団体)運動を活発化させ、今まで市場支配的だったギルド側が今度は、その下のツンフト側から民権的な突き上げを受けるようになる。

都市部の市民権や、農村部の自由保有地権を保有できているような、庶民の中では有利だった者たちは、まずは庶民政治の中で社会事業に寄付したり、その家系の中から市参事会員や聖堂参事会員に選ばれる者を輩出し、地元で名士扱いされていくことが、その家系の格上げの第一歩だった。

富裕庶民と伯爵(土地所有貴族)とを仲介する、その貴族品性の交流筋であったパトリシア(貴族風紀委員会)の仲間入りがまずできないことには、何か劇的なきっかけで王族から認識してもらうことでもない限り、伯爵(土地所有貴族)の資格を授けられることは、決して簡単ではなかった。

その難しさもよく解っていたため、庶民の富裕層は貴族層に一気に駆け上がろうとするのではなく、自身の家系を衰退させていかないようにするために、少しずつ家系を優位にしていく地元の名士になろうと、食事会・宴会の交流をしていた者たちも多かった。

中世後期から近世にかけて、今までの中世までの遠隔地商業の、あまりに閉鎖的すぎた交流世界に、都市の資本家たちがその風穴をあける慣習破りを始めたこともあって、下の間(有力庶民側)での交流も多人種間で行われるものも多くなった。

ドイツでは、バルト海のハンザ都市同盟の権力が強かった北ドイツ商人団と、オーストリアやイタリア(地中海)との縁が強かった南ドイツ商人団とでは、近世になっても相変わらずよそ者同士の閉鎖観は強かったものの、揉めながらも交流も顕著になっていく。

ポーランド南部の重要な商業都市ブレスラウ(ポーランド詠みだとブロツワフ)などでは、ポーランド人とドイツ人との商業交流が顕著で、このブレスラウではドイツ人商人たちと提携するポーランド人の代理商たちもいて、ドイツ商人の居住も許されるような地区もあった。

ヴェネツィアでは早くも中世前半から、ヨーロッパ中の人々が出入りする、特殊な多人種国家のようになっていた。

古代ではオーストリアの片田舎扱いだったスイスも中世になると、近隣のイタリア、フランス、ドイツ、オーストリアから多くの人々が訪れて商業交流も生まれていき、有力都市のバーゼルやベルンなどでは優れた修道院や神学校も立てられて、近世にはスイスは独立国家といえる等族諸侯扱いがされるようになっていた。

15世紀末の大航海時代で、当時その主導国であったポルトガルが強国化すると、その貿易都市リスボンに、ブルゴス商人団(カスティリャ・スペイン人)やジェノヴァ商人団(イタリア人)らが訪れ、現地人の代理商と提携する商業交流も積極的になった。

航路開発でポルトガルがついに独自でアジア貿易を始めるようになって16世紀を迎えると、今まで地中海からアラブ方面を介していたヴェネツィア貿易商業は終焉し、リスボンとアントウェルペン(ネーデルラント南部。今のベルギー)の二大貿易商業の時代を迎えるが、特にアントウェルペンは物品取引だけでない、巨大な証券市場が誕生したことで、ヨーロッパ中の人々が殺到するようになった。

スペイン王室とポルトガル王室がアジア貿易と新大陸貿易(アメリカ大陸の征服と鉱山事業)でますます力をつけると、そのハプスブルク家(スペイン王室)に対してヴァロワ家(フランス王室)は、シャンパーニュ地方(フランス北部)などに元々あった大きな商業市場を、リヨンに移転させて証券市場を作って対抗したため、これも各地から人々が駆けつけるようになった。

このリヨンの証券経済の登場にカール5世もあせって「リヨン(フランス)の証券経済に関わってはならない」と呼びかけた。

しかし例えば、ドイツ商人団の派閥の中で、ハプスブルク家から商業特権の斡旋が受けられて良い思いができていた者は良かったが、遅々として斡旋が受けられずに良い思いができずに、優劣格差が開いてひがんでいた、そのことでハプスブルク家に腹を立てていた派閥は、こっそりリヨンに訪れていた。

トスカーナ(フィレンツェ共和国)でも、スペイン・オーストリア派かフランス派かで派閥的な軋轢が作られしまったこともあって、ハプスブルク家に内心は反感的だった者たちはリヨンに訪れ、その証券経済に関わった。

フランス王室はそれらドイツ人とトスカーナ人(イタリア人)に「フランスの良き友の、良きキリスト教徒のドイツ人、トスカーナ人たちだ」と優遇を約束し、煽るように奨励していた。

特に南ドイツ商人団の代表格であった、フッガー家とヴェルザー家(共にアウクスブルクの資産家)については、ハプスブルク家も優先権を与えざるを得なかったことも多かった。

帝国議会の金庫番・政商として支えていたフッガー家とヴェルザー家は、特別扱いされる場合が多かったことから、ヨーロッパ中の商人団から常々非難を受けることになったが、それに苛立ちを覚えるようになっていたドイツ商人の中には、こっそり大金をもってリヨン(フランス)と関わった者たちも、少なくなかったのである。

中世に地中海貿易を独占し、まるでヨーロッパ随一の強国であるかのように海軍力を身につけていたヴェネツィア共和国(イタリアのベネト州)に、12世紀にはジェノヴァ共和国(イタリアのリグリア州)も制海権を得ようと努力はしたが、13世紀になるとヴェネツィア一強の流れは止められなかった。

ジェノヴァ人たちは方針転換し、まだカスティリャとアラゴンの仲も良くなかった頃のイベリア方面(スペイン)での、遠隔地商業を先駆けで構築し始めるようになった。

結果的にカスティリャとアラゴンがレコンキスタ(国土回復運動・国内再統一)を達成し、15世紀末には併合されて強国スペインとして台頭するが、それまでイベリア方面で有利な商業交流を作ってきたジェノヴァ商人たちは、かなり有利な立場となった。

 

アジア貿易と新大陸貿易の中心地となったアントウェルペンで、異常なまでの証券市場でヨーロッパ中も熱中する者が増えていた中、その遠隔地間の相場市場を当初は、南ドイツ商人団と、イベリア商業(スペインでの商業活動)を先に有利に進めていたジェノヴァ商人団の、この二大商人団が牛耳っていた。(のちジェノヴァ商人団が独占するようになる)

 

このように16世紀の西洋では、大航海時代の影響で世界を見渡すようになって、自分たちの閉鎖慣習の了見の狭さに気付きながら、揉めながらでもあちこちの陸続きの交流で、異種異文化の多様許容性には、だいぶ努力するようになっていた。

しかし日本は、そうした閉鎖的な慣習の了見の狭さに注意を向けようもせずに、道義関係がない者同士で、ただの指標乞食主義に過ぎない人任せの、世の中の正しさとやらの権力でいきなりケンカ腰に無神経にうちのめし合い従わせようとする

 

 公的教義と大差ない「低次元同士のご用達の猿知恵」をもち合おうとする劣悪姿勢

 

に冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、疑い見抜くことをしようとしない所は、現代でも顕著である。

そうした閉鎖慣習の了見の狭さに気付いた上でやってきていた当時の、西洋のキリスト教徒たちに、食文化が全く違う京の文化料理の、訳の解らない味覚と作法を、相手の足元を見ながらケンカ腰に押し付けようとする、それが饗応(もてなし・礼儀)だとやらかしかねなかった廷臣たちに対する警告が、京の文化料理に対する織田信長の難癖だったと筆者は見ている。

これには「郷に入らば郷に従え」という者もいると思うが、その前に、道義関係の範囲内と範囲外を確認(尊重)できているのかが、まずは重要になる。

 

そこが線引きできているのかよく解らないようなことまで口出し手出しする以上は、異種異文化の多様許容性(人文性と啓蒙性の育成理念といえるもの)に向き合えている分の、それをいえるだけの最低限の議決性(育成理念)の手本礼儀の示し返しの「身の程」を以って、そういう偉そうなことを人にいうべきである。

 

先のカトリーヌ・ド・メディシスの作法の話も、手もつけていない食べ残しの豪勢な食事を貧困層に気前良く振舞う話も、西洋人たちは食文化やその作法に、ケンカ腰に揉め事の原因をもちこむようなことは、だいぶ控えられていた。

これは現代においても思い当たる件として、食に関する味覚や作法のおかしな競い合いの話は、普段の私生活全般の知的感覚(目的構築や育成理念の感覚)の見習い合いの指導姿勢と同じで、その線引きも不確かな基準(偽善)の押し付け合いになることのないよう、信用事故を避けるためにも、現代でもよくよく喚起しておきたい所になる。

例えば子供の行儀について、個人差もあるため強めに注意する必要も時にはあると思うが、本当の意味で私生活面の作法を大事にし合っていきたいと思っているなら、成人に近づくにつれて、ただ下品で汚らしいだけの公的教義のように侮辱を優先基準とするのではなく、尊重を優先基準とする念をいったん挟んだ上で、相手がどうであれまずは自身からの手本礼儀の示し合いを徹底するべきと考える。

尊重されるされないを相手の問題に全てすり換えてケンカ腰に従わせることしか能がない、公的教義のような低次元な劣悪姿勢など、人としての最低限の手本礼儀(品性規律)の示し合いとして、道義関係もない相手には絶対にしてはならない。

まず自分が相手に尊重してもらおうとする努力ができているのかの、自身のそこに対する不動の基軸にできているかどうかが大事である。

結局軽々しく見ることしかしない期待できない相手は、そういう相手だと確認(尊重)するだけで十分で、あとはこちらが悪いのではなく、そういう姿勢である相手の問題としておくことが、議決性なのである。

その観念の良さを理解してもらおうとする最低限の手本礼儀(等族統制・議決性)の示し合いといえるような、それだけの歩み寄る努力もろくにしてこれたこともない、通用しなければ怒りを向け合う(ただ気絶・思考停止し合う)ことしか能がない、公的教義と大差ない低次元同士の猿知恵(相手に合うのかどうかも解らないできもしない性善説=ただの劣情統制=ただの指標乞食主義)にこそ

 冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、何の育成理念(品性規律)もない低次元同士の実態を疑い見抜く

ことが、敷居向上(育成理念・目的構築)の高次元化の心得として、大事である。

例えば「共産主義がいかにダメか」「キリスト教がいかにダメか」等をいいたのであれば、共産主義やキリスト教の歴史を調べ上げた上で「このニセ共産主義者どもめが!」「このニセキリスト教徒どもめが!」と、相手よりもこちらの方がより高次元な歴史的な尊重ができていることを示し返しながら、そう恫喝してやればいいだけのことである。

 

それを配慮できる者こそが、尊重し合えるような健全な「郷に入らば郷に従え」にできるのである。


「そんなことを言い出したらきりがなく、時間がいくらあっても足りない」などと寝言を言い出す無能(偽善者)は、だったらその寝言を自身には求めずに、人にだけはその負担を求めたり押し付けるような図々しさを、まずは自制(自己等族統制)せよという話である。

次も引き続き織田信長の、京の進出後の中央でのあてつけの様子について記述していく。